ブルーフォール作戦の責任を取り、緑の世界を代表して、グリューネシルトが多額の賠償金を青蘭島に支払い、人質としてランが学園に入学することとなった。また少将以上で作戦に関与した者は軒並み更迭され、実際に軍事行動をしたカール達は銃殺刑——とはならずに、更に青蘭島からの永久退去などもなく、何故か寮の自室にて監禁処分ということになった。とはいえ外界に繋がる手段は封じられ、窓は開けられないように細工され、ドアでは風紀委員が見張っている。
しかし末端の兵に対するこれらの処分は、カールだけでなく、他の作戦に参加した者にとってはかなり不可解なことであった。詳しいことは何も分からないが、最も納得のいく説としては、赤の世界の代表者の発言がかなり強かったのでは、ということだ。赤の世界は異常なまでの不殺主義と平和主義で有名で、かの世界の代表者が中心となって処分を決めたと考えれば、一応説得力はある。
現在、監禁が始まって三日が経ったが、カールとアイリスは、すっかり退屈してしまっていた。初日や二日目にはストレスの発散という目的もあって淫行に耽っていたのだが、この日は互いに気持ちが乗らなかった。今、二人は体を密着させてソファに座っているが、その状態で、無言で小一時間を過ごしていた。流石に耐えきれなくなったのか、アイリスが口を開いた。
「昔の話でも、する?」
「昔なんて、何もいいこと無かっただろ」
「だからだよ。昔を思い出せばさ、今の方がよっぽどマシだって、思えるかもよ」
アイリスのその言葉で、カールもその気になった。記憶の糸を手繰り寄せ、極力思い出さないようにしていた過去を掘り起こした。
「そういや、物心ついた時から浮浪児だったな、俺ら」
「そうそう。あの頃は何でもやったなあ。ゴミ箱漁って手に入れた食べ物じゃ全然足りなくて、人の飼い犬を殺して食べたりとか、放火してどさくさ紛れに色んなもの盗んだりとかさ」
「あの頃は生きるのに精一杯で、倫理とか知るかって感じだったからな。ま、あの時に磨いたスリの腕とかうまい放火の仕方とか、人の家に忍び込む術が特務で役に立つとは思わなかったがよ」
人生何があるか分からないな、とカールは笑った。アイリスも頷いて、共に笑う。それからすぐに、互いにまた昔を偲んでいく。
「十二くらいの頃だっけか。俺たちが初めて会って、直後に娼館に俺たちが拾われたのは」
「うん。酷いもんだったね、あそこは。浮浪児やってた頃の方が良かったよ」
「全くそうだったな。まだ全然右も左も分からんってのに客の相手をさせられて、よくもまあ体が壊れなかったもんだ」
カールは、当時の感覚を不意に思い出してしまい、身の毛がよだった。したくもない男の相手をさせられ、脱走しようにも殆ど監禁状態で不可能で、更には同じ建物にいるのに、アイリスの引き離された。まさにこの世の地獄と言っていい場所だった。しかも、二人はその娼館の金づるだったおかげで、死なせてはもらえなかった。むしろどこからか呼んできた相当高名らしい医者に体を定期的に診られていたくらいだった。おかげで、娼館で、カールがある相手にプレイの一環と称されて左の目玉を潰されて眼窩を弄ばれた時にも、その傷が広がらないように手術されてしまった。
「それで、あの娼館がレジスタンスのパトロンだって発覚して、軍に潰されて、私たちはミロクに拾われたんだったよね。十四の頃だっけ」
「ああ。軍の方がよっぽどマシだったな。巨神に乗るための訓練は厳しかったけどよ、ナイアは俺たちを弟妹のように見てくれたし、高性能な義眼もくれたし、誇りを持てる生き方を与えてくれたし、何てったってアイリスと一緒にいられたからな」
「もうカールったら、からかわないでよ」
アイリスは顔を赤らめて、カールに一層身を寄せた。そしてはにかんだ笑顔を浮かべたかと思うと、ふと表情を暗くし、アイリスは口を開いた。
「やっぱり、このままはやだな。軍から与えられた恩義を返せるだけのことを、私は全然していないもの」
「俺だってそうだ。いっそのこと、もう一度——」
「カール」
アイリスは人差し指をカールの口に当て、彼の言葉を遮った。目を丸くしたカールに、アイリスは諌めるような口調で告げる。
「変な気は起こさないでよ。独断でやらかしたら、軍にも責任が及ぶんだからさ。命令が下される次の機会まで待たなきゃダメだよ」
「わかってる。わざわざ言うんじゃねえ」
カールは早口気味に言った。それから、暫く互いに黙ってしまった。その空気に耐えかねたのか、アイリスは逡巡した様子を見せながらも、顔をほのかに赤くして声を出した。
「ずっと、一緒にいたいね」
「もちろん。死ぬ時は二人一緒だ」
「リーナはどうするの?」
アイリスに問われ、カールは少し詰まった。しかし、間も無くその答えは出た。
「あいつには、自分で決めて欲しいな。もっとも、まだあいつと一緒になれるって決まったわけじゃねえけどな」
カールは苦笑する。そして、アイリスの頭を撫でてやると、彼女は機嫌良さそうに笑みをこぼした。カールは、己の今の状況も忘れ、ただこの甘美な時間に浸っていた。
***
ブルーフォールの阻止に成功して数日経った日の放課後のことである。リーナは、急遽開かれることになった生徒議会の末席に座って、始まるのを待っていた。議題は、生徒で世界水晶の強奪に参加あるいは協力した者の処遇についてだ。このようなことが何故生徒議会で協議されるのかというと、上層部から生徒のことは生徒で決めろ、との通達があったとのことだ。
このことについて、リーナは全く理解できなかった。確かに青蘭島は五つの世界が共同統治している土地で、どの世界の法も通じず、島独自の法律が人を律する唯一のものだ。しかしそこに、裁判を生徒が行えるなどという法律は無い。新しく作られてもいない。体良く面倒ごとを押し付けたと言えばそれまでだが、だとしても法律のエキスパートのいない生徒間で決めさせるのは狂気の沙汰である。
一応、赤の世界の統治者としての記憶を取り戻したらしいアウロラや、ダークネス・エンブレイスで魔女王の片腕として色々と仕事をしたソフィーナはいる。しかし、アウロラの平和主義のおかげでリーナは彼女を信用しておらず、世界接続前のソフィーナを知るジュリア曰く、彼女は政治を全く行なっていなかったとのことだ。
生徒議会の一年生代表としてこの場にいるリーナも、法律に詳しい訳ではない。一応、軍人としての教育はある程度受けているため、戦後処理はかくあるべき、との大まかな流れは知っているものの、細かい話は分からない。会議に参加するにあたって法律関係の書籍を読んではみたものの、理解するには時間が足らなさすぎた。
(上層部は、何を意図してこんなことを。法に則らずに決めさせれば、理想論や感情論が支配しかねません)
リーナは、この議会の顔触れを一瞥していく。この場には生徒会と学年代表の議員がいるのだが、青蘭学園のルールでは一年生は生徒会に入れないため、一年生はリーナのみだ。そして、先日新しい生徒会が発足したばかりで、その内訳が、会長が美海で、副会長がソフィーナで、書記がルビーとマユカ、会計がユーフィリアである。見事に世界構成がばらけているが、示し合わせた訳ではなく、単なる偶然のようだ。実際、この組み合わせで立候補していた。彼女らの他には、先にも述べた生徒議会二年代表のアウロラと、三年代表のミハイルがいる。ミハイルは白の世界のアンドロイド技術者だ。若干17歳にしてアンドロイド工学の最高権威としてS=W=Eに君臨している。一応、彼女も軍の所属であるため、この場でリーナが当てにできると考えているのは、マユカの他には彼女だけだ。
しかし、マユカは会議室に入ってきた時から顔色を悪くしており、息も少し荒らそうだった。そのような中で、会議は始まった。すると、すぐにマユカが挙手をして立ち上がった。
「私は、この会議における発言権と投票権を放棄します。私は祖国に背いた裏切り者です。私がこの議会での決定に関与しているとブルーフォール作戦に従事した者が知れば、どのような結論であれ不満を抱くでしょう。お願いします、美海さん」
いきなり頼みの綱の一本が切られてしまったが、リーナは彼女の言い分には納得できた。顔色が悪いのも、グリューネシルトを売ったことへの罪の意識に苛まれ、極度の緊張状態にあるからだろう。美海も、不満げではあったが、納得はしたのか彼女の要求を受け入れた。すると、マユカは緊張が切れたように勢いよく椅子に座った。未だ顔色は良くないが、発言前ほどではなかった。
マユカと入れ替わるように、美海が席を立った。
「じゃあ、これは私の考えだけど、きっと、作戦に従事した人も、心の底ではダメだって思ってたはずだから、みんな許してあげようよ。どちらも死者は出してないんだしさ、前と変わらず、仲良くしよう」
美海のその発言に、リーナは目が点になった。そして、縋るようにその発言に対する反応を見た。マユカを除いた生徒会の面々とアウロラは頷いていて、マユカは俯き、ミハイルは無表情だった。その様に、リーナは愕然とした。美海の案をおかしいと思えないほど愚昧だとは思いもしなかった。確かに双方が納得できるなら、美海の案でも問題はない。だが、現場で戦った統合軍が、それで納得するはずがない。リーナはそう確信していた。
「リーナ、何かあるなら口に出してよ」
リーナの心情を察したのか、ソフィーナが少し苛立ち混じりに言った。それで、リーナはいきり立つと、左腕にギプスをしていて不自由なせいか、すこしぐらついてしまった。だがすぐに態勢を直して、その場の全員を一瞥してから話し出した。
「私は、美海さんの意見には賛同しかねます。全員恩赦など、以ての外です。作戦に参加した者全ての、青の世界からの永久追放を私は主張します」
「でも、それだと遺恨が残るんじゃないかしら」
「新たな拗れを生むよりは、遺恨を残す方がよほどマシです!」
アウロラの呑気な発言に、リーナは声を荒げて反論する。
「いいですか。敢えて直接的な言い回しをしますが、ブルーフォールは数名の裏切り者によって阻止することができたのです。そして、ブルーフォールの失敗は彼らにとって、祖国を救う手段のひとつが失われたことを意味するのです。当然、裏切り者に対する怨嗟は並大抵のものではありません。それに、心の底ではダメだと思っていたなどと言いましたね、美海さん。あなたは世界水晶の広間で、一体何を見てきたのですか! 他の人たちもです。彼らがどれほどあの作戦に賭けていたかを、分からなかったとでも言うのですか!」
リーナの語気の強さに、ミハイルとマユカを除いたその場の者たちは呆気にとられていた。しかし、そのようなことは全く気に留めず、リーナは続けた。
「彼らは間違い無く、心の底から作戦に命を懸けていました。私だって、彼らと戦った一人だから分かります。あの時、私と戦った人は、明らかに私を殺しにかかっていました。世界水晶から離れた戦場でさえそうなのです。あなた方が対峙した者は、一層本気だったはずです!」
「でも、最終的には降伏勧告を受け入れてくれたよ?」
美海が心底不思議そうな目でリーナを見て、そう言った。リーナも、その時の状況は知っている。人質を取った上での降伏勧告だったはずである。しかも、人質にされなかったのは一人だけだった。それで降伏勧告を受けない者がいるはずがない。リーナはそう言おうとしたが、流石にこの彼女の言葉は不適切と思ったのか、リーナが口を開く前に、ユーフィリアが美海に鋭い目を向けた。それで、美海がバツの悪い表情を浮かべる。美海は、それでも全く重くは捉えていないようであるが、一度咎められた以上、リーナが掘り下げることでもなかった。
美海は一息つくと、これまでとは違って、リーナを諭すような口調で話し始めた。
「リーナちゃん、まだ詳しく言えないのだけど、これから先は人と人が対立し合っている場合じゃないんだよ。手を取り合って立ち向かわなきゃいけないことが起こるんだ」
「だったら! 尚更作戦に従事した者は離さなきゃダメでしょう! そんな綺麗事だけで彼らは絶対に納得しませんよ!」
「でも、リーナの言う方法だと、個人レベルでの和解は永久にあり得ないわ。今青蘭島にいる人だけじゃなく、世界の全員で立ち向かわなきゃいけない危機が、迫ってきているのよ」
ソフィーナが、熱くなるリーナを見かねたように告げた。その言葉で、リーナはより一層苛立った。まるで、リーナのやり方が全否定されたような気分になっていた。その上、自分以外のこの場の全員が知っていて、リーナだけが知らないことがある。先の戦闘で、カールに関する気持ちの整理も出来ていない彼女の心は、ますますささくれ立っていく。
「さっきから言う、その危機とは何なのですか!? 少しくらい説明してくれないと、納得出来るものも出来ませんよ!」
「ウロボロス。世界に破滅をもたらす使徒です」
怒鳴るリーナに対して、ユーフィリアが冷静な口調で答えた。それは、ウロボロスはあと一年以内に必ず来るとも言った。その言葉を、リーナは不思議がった。いくら白の世界の技術と言っても、未知の存在を予言するなどということは出来はしない。占いなら納得できるが、アンドロイドがそうするとは考えにくい。リーナの困惑を悟ったのか、ユーフィリアは徐に口を開き、重たい雰囲気を纏わせて告げる。
「私は、そのウロボロスによって滅亡に瀕した未来から来たアンドロイドです。信じる信じないはあなた次第ですが。ともかく、私はそれから救うという使命を背負ってこの時代にいます。かの者らに対抗するには、五つの世界が一丸となって立ち向かわねばなりません」
「だとしても、あなた方の論理には納得できません。連帯感だと言うのなら、やはりその元となる統合軍は引き離すべきです」
睨み合う二人を見かねてか、これまで黙ってやり取りを見ていたミハイルが口を開いた。
「このまま議論を続けても平行線だろう。妥協できる余地も互いに無いようだから、いっそ、ここで議論を打ち切って、多数決で決めてはどうだ?」
ミハイルのこの意見に、反対意見は何も出なかった。それで、挙手による投票を行うことになった。
「じゃあ、まず、リーナちゃんの案に賛成する人は手を挙げて」
美海がそう言ったので、リーナは真っ先に手を挙げた。だが、他に挙手した者は誰もいなかった。賛成してくれるだろうと思っていたミハイルでさえ、その手は両方とも膝に置かれていた。
リーナの心は乱暴に掻き回されたかのように、様々な念で渦巻いていた。誰も理解してくれなかった悔しみと怒り、自分だけが異を唱えていたという羞恥心が綯交ぜになり、リーナは無意識に右腕で机を強く叩いていきり立った。しかし、リーナはすぐに自分が何をしたかを理解し、またその行いを恥じ、居た堪れない気分になった。
数歩後ずさると、リーナは身を翻して一目散にその場から逃げ出した。何も考えず、ふらつきながらも廊下を走り抜け、階段を駆け下り、気が付けば外を全力で走っていた。しかし、前方に全く注目していなかったせいで、途中で人にぶつかってしまった。リーナは簡単に体を跳ね返されてしまい、また左腕が不自由なせいで上手く手をつくことも出来ず、尻餅を勢いよくついてしまった。
「リーナじゃないか。大丈夫か?」
そう言って手を差し伸べる先の人物は、紛れもなくマイケルだった。リーナには、彼女が天からの使いに見えた。渡りに船とは正にこのことだろう。リーナはマイケルの手を取って立ち上がり、彼の顔を間近で見ると、急に込み上げるものがあった。
「兄、上」
リーナは彼の胸に顔を埋めると、たまたま近くに人がいないことをいいことに、恥も外聞もなく泣き喚いた。マイケルは何も言わず、片方の腕をリーナの背中に手を回し、もう片方で彼女の頭を撫でた。
暫くして、リーナは何とか落ち着くと、顔を上げてマイケルに涙声で言う。
「話、聞いてくれますか?」
「もちろんだ。でも、この往来じゃ話しづらいだろ。場所、移すか」
マイケルは即答し、そのように提案した。リーナもそれを拒まなかった。二人は人気の無い校舎裏の森の中に入ると、近くにあった大きな岩に飛び乗って座った。マイケルの自室に連れて行かなかったのは、彼の配慮だろうとリーナは思った。そこにはアナベルがいる。いくらカウンセリングを専門とするアンドロイドとはいえ、それに頼ることはリーナのプライドが許さないことを、彼は察したのだろう。今のリーナにはそのようなマイケルの、リーナへの愛に裏打ちされた行動が、恵みの雨のようであった。そして、兄として、彼を尊敬し直した。それで、リーナは先の会議の内容を、洗いざらい彼に話した。
マイケルは少し唸ると、リーナの頭に手を置いて、爽やかに笑ってみせた。
「俺は、リーナを支持するよ。あの生徒会長は人がいいのは分かるが、あの子のまるで現実が見えていない案には賛成しかねるな」
マイケルのその言葉に、リーナは救われた気分になったが、彼だけが賛成したところでどうにもならないことに気づき、また落ち込んでしまった。
「どうした?」
「兄上がそう言ってくれるのは嬉しいですけど、でもどうにもならないですよ。もう決定しましたし、明日には発表されて、一週間後には実行されます。諦めるしか、ないですよ」
リーナは、そう話しているうちに自分の無力さに嫌気がさし、また涙が出てきた。そのようなリーナの目尻をマイケルは拭い、真摯な面で告げる。
「いや、方法ならある。署名を集めればいい。あの決定は大学部と中等部にまで及ぶものだから、それらの署名も集めなきゃいけないけど、大学、高等、中等の生徒の半分を集めれば決定事項の棄却くらいはできる。それで、またリーナの案を通せばいい」
彼の提案に、リーナはハッとした。同時に、頭の中が一杯一杯で、そのような単純なことに気がつかなかった己を呪った。しかし、そこに一筋の光明を見出したのも事実だ。リーナはつい興奮して彼に詰め寄った。
「じゃあ、早速行動に移しましょう!」
「落ち着け、リーナ。まだ正式に発表されてないのに出来るわけないだろ。それに、お前は表立って署名に関わるんじゃないぞ」
マイケルに肩を揺さぶられ、リーナはなんとか気を鎮められた。そして一考してみれば、確かに彼の言う通りだった。生徒会の決定に関する署名活動には、生徒会顧問の教師の認可が必要なのだが、その決定がまだ発表されていないのに認可が下りるわけがない。それに、リーナは曲がりなりにもその決定に関わっていた人間である。自分の案が通らなかったから署名活動をしたなどと他人に思われれば、当然その活動に対する印象は悪くなり、通るものも通らなくなる。
「分かりました、兄上。とりあえず、その線でやりましょう」
「ああ。他に何か言うことはないか?」
マイケルに問われ、リーナは一瞬だけ、カールのことを話そうか迷った。先の戦いで、コクピットの中で彼の名を叫んだ時、通信機能は作動していたから、彼との関係について、マイケルはある程度の想像をしたはずである。しかし、マイケルはそのことについて何も言わない。敢えて触れないようにしてくれているのだろう。リーナはその配慮に応えるためにも、結局カールについては話さないことにした。
「いえ、ありません。兄上は?」
「俺も無いよ。今からどうする?」
「私は、寮の自室に帰ろうと思います。風紀委員の活動もありませんし」
リーナがそう答えると、マイケルは「よし」と勢いよく立ち上がり、リーナに向き直って言う。
「じゃ、俺が送ってやるよ。久しぶりに肩車でもしてやろうか? 昔、よくせがんでただろ」
意地の悪い笑顔を見せるマイケルに、リーナはむっとなってそっぽを向いた。肩車をして欲しいという自分もいたが、人に見られたらあまりに恥ずかしい上に、そのような自分を兄に見せること自体も恥だ。
「嫌です! 私、そんな子供じゃありません!」
「じゃあおんぶは」
「それもダメです! 兄上の中の私は、一体何歳なんですか!」
「ははは、悪かった。機嫌、直してくれよ」
マイケルは悪びれた様子もなくそう言いながら、、手を差し出してきた。彼がそうするのは、リーナが左腕が使えないことを慮ってのことだろう。そのことは分かったものの、リーナは意地を張って、その手を取らずに岩から降りた。しかし、足を地につけた直後、足元にあった石につまづいてしまい、不自由な左腕のためにうまくバランスを取ることができず、危うく前に転びそうになった。その体を、マイケルはすぐさま受け止める。
「うん、おんぶも肩車もしなくて正解だったな。そのギプスはめた腕じゃ、肩とか背中から下ろす時大変だ」
「ホントですよ。全く、兄上って人は」
リーナはマイケルを支えにして態勢を整えると、ため息をついた。マイケルの言ったようなことは、実はリーナは全く考えていなかった。しかし、恥ずかしさで頭がいっぱいだったなどとは思われたくなかったため、このように口にした。
気がつくと、リーナの目に見える範囲にマイケルがいなかった。一瞬、リーナは泣きそうなくらいに寂しさを感じたが、その時膝から掬われるようにして、体が背中と膝の関節を支えられて浮かんだ。顔を上げると、そこには憎らしいくらいの、いい笑顔を見せるマイケルがいた。
「抱っこしちゃダメとは言ってないだろ?」
「そ、そんな屁理屈! 誰かに見られたらどうするんですか!」
「さっきみたいに転びそうになっても、支えられるとは限らないからね。最初からこうして抱いてやれば転ぶこともないと思うよ」
「そ、それはそうですが」
リーナはそう口にした瞬間、しまったと思った。少しでも賛意を示せば、マイケルはそこにつけ込んでくるに違いない。実際に、彼はリーナを抱きかかえたまま歩き出した。仕方なく、リーナは腹を括った。
「ああもう、これで私の評判が落ちたら兄上のせいですからね」
「かわいい妹のためさ。それくらいなんともない」
マイケルは嫌味を感じさせない爽やかさを以って答えた。それで、逆にリーナの方が恥ずかしくなって、つい赤面した。
リーナは、気が付けば、議論に負けた悔しさや生徒会の面々に対する怒りなどが、殆ど消えていることに気がついた。反対に今のリーナの心に溢れているのは、マイケルに対する感謝と、彼の妹としての慕情だった。
(これで、アナベルと結婚してなかったら完璧だったんですけどね)
マイケルの整った顔立ちを眺めながら、リーナはそう考えた。晴れていた心に、彼女自身も気づかぬほどの、ごく微小な翳りが現れる。
***
リーナが舌戦に破れた翌日の集会で、統合軍の処理に関する方針が発表された。それは美海が出した案に多少の修正を加えたものだったが、大筋は全く変わっていなかった。
ジュリアは、その日の放課後にアルフレッドを探していた。リーナとマイケルの依頼で、彼女が署名活動の代表者を請け負うことになり、またアルフレッドが生徒会の顧問でもあるため、ジュリアが彼を探す必要があったのだった。
「全く、無駄にだだっ広いったらありゃしないわね、この校舎は」
ジュリアは人気のない実験室棟の廊下を歩きながら、誰に言うでもなく愚痴を漏らした。職員室にはアルフレッドはいなかった。それで、人形を使うだけでなく自分の足も使って彼を探しているのだが、一向に見つからなかった。
「ああもう、ソフィーナのアホンダラ! 何であんな案を通したのよ!」
ジュリアが誰もいないことを確認してから、苛立ちを爆発させて声を荒げた瞬間だった。人形のひとつが、アルフレッドを発見したのだった。それを認めると、ジュリアは嬉々として、異能と人形魔術の応用による身体強化を使ってまでして、彼の元へ全力で向かった。
やがて彼の後ろ姿を目視すると、ジュリアは強化を解除して呼吸を落ち着けてから、いつもの余裕な笑みを浮かべた。そうしてから、ジュリアはアルフレッドの肩を軽く叩いた。
「アルフレッドさん、ちょっといいかしら?」
「うん? ジュリアか。一体どうした?」
「署名活動の認可を頂きたく思いまして」
ジュリアは懐から、署名活動の申請書類を取り出してアルフレッドに渡した。彼はそれを一瞥すると、そのまま彼が手に持っていたフォルダに入れた。
「ちょうど職員室に行くところだったからな。このまま着いて来てもらえるか?」
「もちろん。構いませんわ」
ジュリアはそう言って、アルフレッドの隣についた。彼の髪はすっかり白髪になっており、短い顎髭もまた白くなっている。顔付きは、数多くの皺が刻まれているものの、彫りが深く、また齢五十と思えぬほどの凛とした目つきをしており、今でも彼が口説けば落ちる女性も多いだろうとジュリアに思わせた。背は、ジュリアの頭頂が彼の肩と同じ高さなので、だいたい180cmといったところだ。また、その体格も壮年のものと遜色ない程で、老いを全く感じさせない。
「しかし、こうして接するのは初めてだな。いつも娘が世話になっているというのに」
「いえいえ。あの子との触れ合いは、いつも楽しませてもらっています」
アルフレッドが話題を振ってきたので、ジュリアは自慢げにリーナとの良好な関係をアピールした。すると、アルフレッドは、ふと微笑んでみせた。
「楽しませてもらってる、ね。リーナは、いつも君に振り回されてばかりなんじゃないのか?」
「まあ、よくお気づきになりましたね」
「君とリーナの関係は、若き日の私の妻と私の関係によく似ているからな。そうじゃないかと思ったのさ」
そのように言うアルフレッドはどこか恥ずかしげだった。この表情はジュリアには不意打ちだった。厳格な彼の姿しか知らぬ彼女には、あまりに意外な表情だったのだ。
「奥様に悪いですわ。私なんて、人形使いとしての存在以外には、リーナの世話をするくらいしか取り柄がありませんもの」
「私の妻は既にこの世にないから、謙遜することはない。それに、あれの世話が出来れば十分だろう。リーナの世話をするというのは、家事全般をこなすことと同義だからな」
「ご明察です。やはり、そういうのは父だから分かるのでしょうか?」
「そういうこともあるが、昔の私がそうだったからな。リーナは私の性格的な特徴を色濃く受け継いでいる。失くした妻によく似た君が世話をしているとなれば、想像は容易い。これは、さっき言った通りだ」
「そこまで言われるとは、よほど私は奥様に似てますのね。この場で私を口説かれますか?」
ジュリアは意地の悪い風で言った。つい先ほどまではアルフレッドに対してこのように出るとは思いもよらなかったが、ここまで先妻と似ていることを強調されては、ジュリアも火がつくというものだった。
「中年をからかうのはやめたまえ。それに、私はそこまで積極的になれんよ。交際を申し込んだのも、結婚を迫ったのも、いつも妻の方だった」
アルフレッドは苦笑いを浮かべた。なるほど、確かにリーナによく似ているとジュリアは感心した。風格こそ穏やかだが、彼の反応がカールのことでからかった時のリーナにそっくりだ。また、交際を申し込んでいるのもカールの方であるから、状況の面でもよく似ている。
「確かに、あの子もそういう雰囲気があります。やはり父子ですのね」
「父子、ね。よくそう思われるのはリーナだけだよ。マイクの方は、あまり私には似なかったようだ。あれは妻によく似たんだ。もっとも、あれもクソ真面目な面を持ち合わせているがな」
「確かに仰る通りですわね。でなければ、マイケルさんがリーナと思想の面で真っ向から対立するなど出来なさそうですし」
ジュリアは軽い気持ちでこのことを口にしたのだが、それまで穏やかだったアルフレッドの表情は、彼女の一言で一転して暗くなってしまった。これには、流石のジュリアもまずいと考えて訂正をする。
「失言でした。お許しを」
「え、ああ。いいんだ。事実だからな。気にしないでくれ」
アルフレッドは取り繕うように笑ってみせたが、二人の間には気まずい空気が流れた。しかし、ちょうど職員室に着いたので、二人は素早く入ってアルフレッドの机に向かい、アルフレッドが書類に判子を押したのを受け取った。その際、アルフレッドは真剣そのものの表情で、ジュリアに耳打ちした。
「頼んだぞ」
彼の言葉は短いものであったが、何を言おうとしているかは、ジュリアにはよく分かった。ゆえに、ジュリアは胸を張って答えてみせた。
「はい、お任せを」
ジュリアがそう答えると、アルフレッドは一瞬だけ笑みを見せ、彼の席に戻った。
「では失礼しますわ」
ジュリアはアルフレッドに一礼して、職員室を出た。そのドアを閉めると、彼女はすぐそばの壁にもたれかかった。不思議な気持ちであった。己の存在を認められ、アルフレッドに頼られたと思うと、心が温かくなる。このような気分は初めてだった。
(承認欲求なんて、私には無縁だと思ったのだけれど)
彼に先妻との共通点を強調されたことが、それほど気になっているのだろうか。ジュリアは初めて、自分の気持ちが不明である感覚を覚えた。
(私らしくないわね、こんなことで悩むなんて)
ジュリアは自嘲するように、己を鼻で笑った。そして、寮へ急ぎ駆けていった。その帰路で、リーナが待っているからと、ジュリアは何度も自分に言い聞かせた。
***
翌日の朝、ジュリアは誰もいないうちに自分の教室に入ると、その掲示板に署名活動のチラシを画鋲で留めた。それから教室の外に出ると、自分では廊下の掲示板に、人形は他の二年生や三年生の教室の掲示板にも同じものを留めて、ジュリアは教室に戻った。
(一年の方もうまくやりなさいよね、メルティ)
一年生の方はメルティが手伝ってくれることになった。大学の方ではマイケルとアナベルが手伝ってくれるとはいえ、四人では活動範囲に限界がある。一応チラシに協力を頼むよう書いておいたが、その効果は全く期待できない。
(めんどくさいけど、ちょっとパフォーマンスしといた方がいいかしらね)
署名はもちろん、協力してくれる人を集めるため、ジュリアはそう考えるようになった。そして、ジュリアはパフォーマンスをするのに絶好の場所にいることに気がついた。ジュリアのクラスには、生徒会長の美海と、副会長のソフィーナがいる。クラスの全員が揃うホームルーム後と一限目の授業の間に、堂々と教卓の前で署名活動の宣伝をすれば、大々的に二人に挑戦状を叩きつけるような格好になる。更に、ジュリアがものぐさ者であることは周知の事実であるため、彼女が積極的に動くということで、事の重大さを知らしめられるかもしれない。
そう考えると、ジュリアはその時間が待ち遠しくて仕方がなくなった。そうしている間に次々とクラスメイトが入室してくるが、誰も掲示板に注目しなかった。統合軍の処遇についての話題は少し出るものの、すぐ別の話題に切り替わっていった。
(ふん、誰も興味ないってことね)
ジュリアはクラスメイトを、心の中で嘲った。誰一人として世界の行く末など本気で案じていないと見える。
これから起こることを、ジュリアは占いで分かる範囲だが知っている。世界の敵、ウロボロスの襲来はもうすぐだ。学園側も認知していないならまだしも、上層部と一部の生徒が第二次ブルーフォールの直前に認知していながら、学園側が発表する時期を逃して、ずるずると先延ばしにしているのだから、たちが悪い。
ジュリアは青蘭島に来る前からウロボロスの存在には気付いていたが、知る人が殆どいないのと、彼女自身の信頼の低さゆえに、誰も信じぬだろうと考えて黙っていた。しかし、その沈黙も我慢の限界だった。彼女の署名活動について、皆に深く考えさせるために、この時点で暴露してしまおうと考えた。
やがて時間が過ぎ、ホームルームが終わると、ジュリアは早足で教卓の前に立ち、思い切り黒板を叩いて大きな音を出した。すると、クラスのほぼ全員が吃驚してジュリアの方を向いた。そこでジュリアは署名活動のポスターを広げて掲げてみせた。
「私、これから署名活動をやるわ。内容は先の、統合軍の処置に関する生徒議会における決定の棄却と再審議の要請。あの決定に不満を持った人は、今すぐチラシに書いてあるサイトのページにアクセスして、学籍番号を入力しなさいな。あと、できれば呼びかけに協力してくれる人も欲しいわね」
ジュリアはそこまで言うと、クラスメイトの反応を伺った。概ね動揺はしているものの、いまいち煮え切らない様子であった。ソフィーナと美海の表情は固まっていたが、署名活動に協力するはずがない二人のことはどうでもよかった。他のクラスメイトが、そこまで真剣にジュリアの話を聞いていないことが問題だ。そこで、もう少し詳しく説明してからウロボロスのことを話すつもりだったが、もうここで話すことにした。
「はあ? こいつ何言ってんの? って思ってる人も真剣に考えさせることを言ってあげるわ。ウロボロスという、未曾有の危機がこの青の世界に迫ってきているの。もちろん青蘭島の外の軍は動くだろうけど、最悪、私たちが自衛する必要が出て来るわ。それでね——」
「ジュリア!」
ジュリアの声を搔き消すほどの怒号を、ソフィーナは発した。彼女は大股でジュリアに詰め寄ると、その胸ぐらを右手で掴んだ。これには一同騒然となったが、ソフィーナはよほど頭に血が上っているのか、全く周りのことは気にしていなかった。彼女は、明王さながらの表情でジュリアを睨み付け、鼻息を荒くしている。それから胸ぐらを掴む力を強め、低い声でジュリアに言い放つ。
「あんた、ふざけるのもいい加減にしなさいよ! 署名活動だけならまだしも、こんな所でウロボロスの存在を暴露するなんて!」
「落ち着きなさいな。私はふざけてなんかいないし、どのみち発表しなきゃいけないことでしょ。ウロボロスがいつ来るかなんて正確な時期は分かんないんだから、あなたたちがグズグズしてる間に来たら、全部終わりよ。そうなるよりはここで言っちゃって、生徒たち全員の双肩に世界の命運がかかっているという自覚を持たせた方がいいと思ってね。あなたや美海が言うようにみんな楽しくワイワイやって、立ち向かえる相手じゃないもの」
ジュリアはソフィーナを小馬鹿にするように言った。すると、ソフィーナは強く歯軋りし、ジュリアの頰を左の拳で殴った。本気で殴ったらしく、ソフィーナが掴んでいた制服の一部ごと、ジュリアの体は彼女を離れ、教卓の角に、彼女の王冠の下のあたりの側頭を打ち付けて教壇に落ちた。この瞬間、ざわついていた空気が一瞬で静まり返った。
ジュリアの口の中で血の味が広がり、軽く脳震盪を起こしたのか意識がぼやけた。しかし、彼女はふらつきながらも黒板のへりを支えにして立ち上がり、己が行いに呆然としているソフィーナに対し、不敵な笑みを浮かべた。
「咄嗟に反論できないから殴るなんてね。この学園で生活するうちに、短気っぷりに磨きがかかったんじゃない?」
ジュリアは込み上げる吐き気を抑えながら、ソフィーナを挑発する。すると、少し後悔する様子を見せていた彼女にまた火が付いたようで、再びジュリアに掴みかかった。今度は美海や、マユカなどの数名の生徒が止めに入ろうとするが、ソフィーナの手がジュリアに届く前に、教師が教室に入ってきた。
「なんの騒ぎだ、これは!」
彼はジュリアとソフィーナを見るなり、怒り心頭に発して怒鳴った。ジュリアを除く全ての者が、それで萎縮してしまう。
「ご心配なく。ちょっとした意見のすれ違いです。すぐ席に戻ります」
ジュリアは落ち着いた口調でそう言うと、自分の席に向かおうとした。破られた制服はどうしようかなどと考えていると、先ほど頭を打ったのがよほど効いていたのか、足がもつれてしまい、更にジュリアの意識が一瞬飛んで、前に倒れそうになった。
「ジュリアちゃん!」
するとすぐさま、美海が彼女の体を受け止めた。ジュリアは彼女を支えにして立ち上がるが、またバランスを崩してしまった。再び美海に支えられるが、今度は立とうとせずに、その状態のまま教師に告げる。
「先生。すみませんが、美海に保健室に連れて行ってもらっていいでしょうか」
「ああ。行って来なさい」
教師はそのように即答した。それを聞いて、ジュリアは美海に目配せした。ソフィーナがこの後叱責されるのは目に見えているが、多少すれ違ってしまっても彼女は黒の世界にいた頃からの友人だ。ジュリアが煽った結果とはいえ、その惨めな姿を見たくはなかった。その意図を汲んだのか、美海はすぐに歩き出してジュリアと共に教室から出た。
ジュリアは美海に支えられながらしばらく廊下を歩いていたが、その間は無言だった。ジュリアは気分が悪くてあまり話す気力が無かったのだが、美海は何を話せばわからないようである。その様子を見かねて、ジュリアはおもむろに口を開いた。
「悪いわね。主張で対立してる私を助けてもらって」
「いいんだよ。困ってる人に主張なんて関係ないから」
「あなたらしいわね。あなたの優しさは、私には眩しすぎるわ」
ジュリアの言葉に、美海は困惑した様子を見せた。少し不満げにも見える。
「そう言うなら何で、私たちの意見に反対するの? 優しさが眩しいなら、私たちの言うことを分かるはずだよ」
「時に、優しさが害になることだってあるのよ。それに、そんな押し付けがましい言葉はあなたらしくないわ。世界の危機が迫っているとわかっても、冷静さを失ってはいけないわよ。特に、生徒会長としてじゃなくて、学園の一生徒としている時はね」
ジュリアは諭すように告げたが、美海はその言葉にピンときていないようであった。それで、ジュリアはいつもの不敵な笑みから、穏やかな笑みに変えて続けた。
「不登校だった私が、ソフィーナに連れられて学園に来た時、真っ先に話しかけてくれたのがあなただったじゃない。その日クラスで浮いていた私を、あなたは前から友達だったように接してくれた。あの日のあなたが、表面上じゃなくて、心から突然学校に来た私と友達となろうとしてくれたことはよく分かってるわ。あなたの良さは、異質なものの存在を認められる懐の深さだって、私は信じてる」
ジュリアは一息つくと、改めて美海を見て告げる。
「だから、いつものあなたならこう言うはず。『ジュリアちゃんたちが真剣に考えて、その結論を出したことはわかる。でも私たちは融和を図りたい。だからこの署名で是非を問おう』ってね」
ジュリアがそう言うと、美海はふっと目を閉じた。それから、彼女はジュリアに向いて呆れたような笑みを見せた。
「あは、ジュリアちゃんらしく私を意識したようだけど、私はそんな小難しい言葉遣いはしないよ。でも、ジュリアちゃんの言う通りだ。私、肩肘張りすぎてたみたい」
「かといって力を抜きすぎないでね。高等部の代表なんだから、締めるところはちゃんと締めなさいよ」
「もちろん。あ、今から階段降りるから、気をつけてね、ジュリアちゃん」
「言われなくても分かってるわよ」
ジュリアは苦笑し、美海と歩調を合わせながら階段を降りた。この時には、依然として打った部分は痛むものの、吐き気は殆どなくなっていた。
***
昼休みにメルティがチラシを掲示板に貼る前から、リーナのクラスでは署名活動の話題で持ちきりになっていた。ジュリアのクラスで一騒動あったのがその原因で、署名活動の中身というよりは、ジュリアのクラスで何があったが、という話題が主だった。教室でブルーミングバトルが起こってめちゃくちゃになったとか、ジュリアが頭が血塗れになって病院に搬送されたとか、尾鰭がついていると分かるものの、リーナを不安にさせる情報ばかりが飛び交っていた。
昼休みに入ると、リーナは風紀委員の見廻りも忘れ、大慌てでジュリアの教室に駆け込んだ。リーナのことはジュリアを彼女の席に見つけると、集まる視線も気にせずに駆け寄った。ジュリアは王冠の下あたりに氷袋と思しきものを乗せ、それを人形に支えてもらっていることや、制服が破られて、胸元がはだけていること以外はいつも通りだった。
「どうしたんですかジュリア。その頭や胸元は」
「ちょっと転んで頭打っちゃってね。制服は、たまたまそこにフックがあってそこに引っ掛けちゃってビリってなっちゃったの」
ジュリアは前もって用意していたかのようで、流れるように淡々と答えた。しかし、それが事実なら流れている噂はあまりにも歪みすぎている。
「じゃあ、ソフィーナさんと一悶着あったって噂はなんなんです?」
「噂は噂よ。そんなことより、今日あなた見回り当番じゃないの? 風紀委員の」
「あ、忘れてました! ジュリアのことが心配で、つい」
「全く、あなたらしくないわね。早く行きなさいな。クラスの連中の視線もいい加減鬱陶しいのよ」
ジュリアは急かすように言った。リーナは、何かをはぐらかされていることには気づいているものの、それをジュリアに認めさせることは出来そうになかった。それで仕方なく彼女の言葉に従って教室を出て、見回りに入った。
(ジュリアが転んだり頭を打ったりするなんて、やっぱり考えられません。誤魔化したいことがあるに違いありません)
ジュリアは巡回している間、終始そのようなことを考えていた。やがて外に出て中庭の見回りの完了を以って担当区域を終えたその時、背後に人の気配を感じた。それが明らかに一般人の近寄り方ではなく、明らかに特殊な訓練を受けた、足音を消した忍び寄り方だったので、リーナは命の危険感じて咄嗟に拳銃を抜き、背後の人間に向けた。
「待って、怪しいのじゃないよ。ナツナだよ」
背後にいた人間、ナツナは両手を挙げながらも冷や汗ひとつかかずに言った。殺気は無いことを悟ると、リーナは銃を下ろして腰のホルスターにそれをしまった。
「紛らわしい近寄り方をしないでくださいよ」
「ごめんね、癖がついちゃってて。でも気配は発していたからいいかなって思ってさ。あはは」
ナツナは包帯の巻かれた頭を掻きながら、照れ臭そうに笑った。その姿が、以前第二次ブルーフォールの内容を伝えに来た時の、冷徹な印象とどうにもつながらず、リーナは混乱した。よく見ると、ナツナが着ているのは統合軍の制服ではなく、青蘭学園の制服だった。緑の世界の者は殆どがこの学園でも統合軍の制服を着るので、細かいことではあるものの、これも不可解だった。
「あなたって、そう笑う人でしたっけ」
なんとかリーナが出せた言葉は、このようなぶっきらぼうなものだった。リーナは言った後で後悔したが、ナツナは気にしない様子で答えた。
「素の私はこんなのだよ。今は軍を抜けたからね。色々と肩の荷が下りたって感じかな」
「なんだか、私の知り合いに雰囲気が似てます」
「多分、アイリス中尉のこと言ってるね。表面上は、そう見えるかもね」
ナツナの言い方は、何か含んだような物だった。リーナがその内容を詳しく聞こうとするが、その前にナツナが口を開いた。
「ね、ご飯まだでしょ。良かったら一緒に食べない? 聞いて欲しい話もあるしね」
「私に、ですか?」
リーナの問いに、ナツナは数度頷く。彼女の姉や他の友人でなく、わざわざリーナにそう言うあたり、何かあるのだろうと考えたリーナは快諾し、そこで一旦解散した。二人は教室に弁当を取りに行ってから、中庭に戻り、並んでベンチに座った。
空模様は、晴れてはいるものの、雲は多かった。それで雲に太陽が隠れがちなため、光量は丁度いいくらいだった。
「で、話なんだけどさ」
ナツナは八割くらい食べ進めてから、箸を止め、リーナの方を向かずに話し始めた。
「私、統合軍を裏切ったじゃない? その行動について、私に対する配慮とか一切無しで、率直なあなたの感想を聞かせて欲しいの」
ナツナは、スカートの裾を握って俯いたまま、決してリーナの方を向こうとしなかった。それはリーナの答えを期待しているようにも、怖がっているようにも見える。その様を見て、嘘は言えないとリーナは確信した。それに、軍籍から離脱したとはいえ、ナツナはスパイ活動を行う特殊部隊にいた人間だ。下手に嘘をつけば、即座に看破されてしまうことは、想像に難くなかった。
リーナは大きく息を吐いて気持ちを落ち着かせると、歯に着せぬ言い方をするのに、後ろめたさを感じながらも答える。
「私は、あなたの裏切りを全肯定できません。確かにあなたを含めた統合軍の一部の裏切りによって、私たちは勝てました。そのことについては感謝しています。でも、軍人の職務は自国民を守ることです。いくらあなたが地球出身とはいえ、グリューネシルトの軍に在籍していた者だったなら、私は一軍人として、あなたの裏切りを軽蔑します」
言い終えた後、リーナは言い方がキツすぎたかと不安になったが、安堵の表情を浮かべたナツナを見て安心した。ナツナはようやくリーナに向くと、涙ぐみながら口を開いた。
「ありがとうね。私が罪を犯したって認めてくれて。あなたが認めてくれなかったら、どうしようって思ってた」
ナツナはそう笑ってみせた。そして彼女は空を見上げると、その目尻から涙が流れ、頬を伝った。
「誰も、私を理解してくれなかった。この世界の友達も、お父さんもお母さんも、お姉ちゃんでさえ、私は悪くないって言ったの。欲しかった言葉はそんなんじゃなかったのに!」
ナツナはそう吐き捨てると、リーナに向き直った。そして、胸に抱いた思いを全て、感情のままにまくしたてるようにリーナにぶつける。
「確かに、私は地球のために戦った。でも緑の世界も好きなんだ。滅んでなんか欲しくない。でも滅ぶ可能性を、私自ら望んで高めてしまった。だから、グリューネシルトで最上級の悪徳となる、軍の除隊をして、一生苦しみに満ちた、地獄の中で生きると決めたんだ。それなのに、みんな私の罪の意識を薄れさせようてしてくるんだ。リーナだけだよ。統合軍の人以外で、真っ向から私を悪く評価してくれたのは」
「共に裏切った、アインスとユニは何と?」
「あの二人? はっ、知らないね。あんなののことなんか!」
リーナが尋ねると、ナツナは急に声を荒げた。そして、涙を拭ってから残っていた弁当を一気に口に入れ、水筒の茶を飲んでそれを胃に押し込むと、乱暴に弁当箱を片付けながら、早口で言う。
「あの二人は責任も何も感じてない。だってさ、あの二人でさえ私に私は間違いを犯してないって言ったんだ。故郷のために裏切ったからだってね。それでも、二人が罪の意識に苛まれてるならまだいいよ。でもね。あの二人は学園でチヤホヤされて喜んでるんだ。失望したよ。罪を背負うとか言いながら、結局は自分の行いに溺れてただけなんだよ、あの二人は。破廉恥な奴、今すぐにでもエンドブレイザーでバラバラにしたいくらいよ」
ナツナの嘲りの裏に隠された、二人に対する激烈な怒りを感じ取り、リーナは息を飲んだ。予想だにしていなかった彼女の面に軽く畏怖を感じた。そのことを察したのか、ナツナは取り繕ったような笑みを浮かべた。
「ごめんね。緑の世界で揉まれてたから、少し思考が過激になっちゃってるんだ。直そうとは思ってるんだけどね、なかなかうまくいかないや」
「いえ、いいのです。あなたの怒りも尤もでしょうし」
「ん、そっか。ありがとうね」
ナツナはそう言って立ち上がり、リーナの前に来た。晴々としているとは言い難い表情ではあったが、翳りは少なくなっていた。
「ごめんね、特に親しいってわけでもないのに、こんな話に付き合わせちゃってさ」
「気にしてないからいいですよ。そういえば、責めるわけではないのですが、なぜ私に聞いたのですか? 軍属って言うだけなら、他にもいたでしょうに」
「軍人で、且つ統合軍の人とかなり親しくしてたから、色々と分かってくれるかなって」
ナツナの答えに対して、リーナは首を勢いよく左右に振った。そして弁当箱を置いていきり立って、唾が飛ぶくらい声を大にして言う。
「カールとは、全然違います! これっぽっちも、親しくなんかありません!」
リーナの言葉に、ナツナは目を丸くする。しかしすぐににやつくと、手を口に当てながら、空いた腕の肘でリーナを突いた。
「別に私、カール中尉のこととは一言も言ってないよ。親しいんだね、よっぽど」
「だから! 違いますって!」
「そんな怒鳴らないの。それに、まだご飯食べてる最中でしょ?」
ナツナは幼児をあやすように言った。ナツナの言う通り、リーナの弁当箱にはまだ四分の一くらい弁当が残っている。リーナは時間を確認すると、昼休みが終わるまであと十分しかない。リーナは急いで残りの弁当を食べると、すぐに片付けて立ち上がった。その様を、ナツナは感心した様子で見つめていた。
「すごいね。まだ食べるのを再開してから三分しか経ってないよ」
「感心してる場合ですか! 早く戻らないと遅れますよ!」
「それもそうだね!」
リーナとナツナは、二人して走り出した。そうし始めた時、ナツナはリーナに向いて、笑みを浮かべて告げる。
「あのね、私、署名に協力することにしたよ。あの人たちと顔を合わせたくないからじゃない。あの人たちの誇りを守るためにね!」
「どうして私にそれを?」
「生徒議会であの決定に反対票がひとつだけだったって聞いてね。リーナのことだって確信したから!」
「確かにそうです。ありがとうございます、ナツナさん!」
リーナが礼を述べると、ナツナは気分良さそうに頷いた。その様子を見ながら、リーナは彼女にひとつ助言をすることにした。それは先ほど彼女の話を聞いていて思ったことで、言う機会を逃してしまっていたことだった。
「さっきの話ですが、ナツナさんの取り巻く環境も、また生き地獄だと思いますよ。あなたは自分の行いが罪だと認めて欲しいのに、周りは悪くないと主張する。その中でもがくのも、また苦しみに満ちた環境とは言えませんか?」
その言葉を聞いたナツナは、ハッとして呟く。
「なるほど、なるほどね。苦しみに満ちた環境を望みながら苦しみから逃れようとしてたなんて、まだまだだな、私の覚悟は」
「人間なのですから、誰しも無意識に苦しみから逃れようとするものです。それに、覚悟が甘いと感じられただけ、大丈夫じゃないですか? その思いがあれば、改善の余地はあります」
「それもそうだね。結局、生き地獄を求める自分に酔ってただけって分かったよ。私自身もまた、破廉恥だったよ。気付かせてくれてありがと、リーナ」
そう言うナツナの横顔は、憑き物が落ちたように爽やかな物だった。リーナは、自分の言葉で人を救えたことに、深く喜んだ。願わくば、署名活動が成功して、カールたちにもそうしたいと、彼女は思うばかりであった。
いつの間にか、雨の匂いが強くなっていた。リーナがふと空を見上げてみると、丁度顔に雨粒が落ちた。しかし、依然として空は晴れ模様——狐の嫁入りだった。
多分今回の話を読んで、「ジュリアが美海に言った台詞が何を指しているのか」という感想を持った方が多いと思うので、ここで説明させていただきます。実はこの話には前日譚となるものが存在しておりまして、その話はいずれ売られるアンジュの同人アンソロに寄稿させていただきました。内容としては引きこもりだったジュリアが外に出て友達を作るというものです。リーナとの馴れ初めも描かれてるので、興味を持った方は是非ご購入ください。そのアンソロ本には素晴らしいイラストも収録されておりますので是非是非。覚えてたら、発行され次第お伝えします。
これからも拙作をよろしくお願いします。