偽典アンジュ・ヴィエルジュ【刻】   作:黒井押切町

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篠突く雨の中

 生徒会の決定が発表されてから七日目の、午前0時。遂に署名活動の刻限となった。ジュリアとリーナは、息を飲んで署名のホームページを開き、その総数を見た。

 

「え、嘘、でしょう」

 

 その数字を見て、リーナは愕然となった。中等、高等、大学部を合わせても、三分の一は超えたが僅かに、十数人ほどの差で半分には満たなかった。何度その数字を見ても、全校生徒の半分未満の数字が、無機質に存在するだけだった。

 

「そんな、私は、どんな顔してカール――カールたちに顔を合わせればいいのですか。これじゃ、何の意味もないじゃないですか」

 

「そんなことは無いわ。少なくとも、彼らの名誉を守ろうとした人がいたという事実は残る。それが彼らの光明になるはずよ。それに、嘆いても結果は変わらないわ」

 

 ジュリアは、悲しみにくれるリーナを見かねてか、そっと彼女を抱きしめた。いつになく優しい口調に、リーナは涙が溢れそうになる。しかし、みっともない姿を見られたくないという羞恥心から、それを必死にこらえた。

 

「分かっています、ジュリア。これ以上嘆いても仕方ありませんから、私はもう寝ます」

 

「一人で寝られる? 側にいなくてもいい?」

 

 ジュリアはよほど心配なのか、まるでリーナが幼児かのように訊いた。その様子がおかしくて、リーナは少しだけ元気が出た。彼女は苦笑しながらジュリアの体を少し離し、精一杯の笑顔を見せて告げる。

 

「大丈夫ですよ。安心してください。では、おやすみなさい」

 

 リーナは立ち上がり、そのまま一切ジュリアの方を向かずにベッドに入り、頭まで毛布を被った。それから、署名のことは決して考えないようにして、早く眠りにつくことに努めた。

 

        ***

 

 リーナだけでなく、ジュリアも尋常ならざる心情だった。リーナを悲しませてしまっただけでなく、アルフレッドに頼んだぞ、と言われたにも関わらず、達成することができなかった。全て自分の至らなさが齎したものと、ジュリアは思った。署名活動をやると言い出したのはマイケルだったが、中心になっていたのはジュリアだ。その事実も、ジュリアの心を押し潰すのに加担した。一緒に寝るかとリーナに訊いたのも、他ならぬジュリア自身が、独りが嫌だったからだった。

 普段のように、ジュリアは笑えなかった。リーナの目があった時は辛うじて普段の表情を保っていられたが、実質一人となった今では、どうしても歪んでしまう。ここまで感情を乱されたのは、初めてのことだった。いつもの飄々とした態度は何だったのかと、自分で自分を問い詰めたい気分だった。

 戸惑いの中で、ジュリアは誰かに縋り付きたいとまで考えるようになった。そこで頭に真っ先に浮かんだのは、アルフレッドの凛々しい横顔だった。そこからの行動は早かった。ジュリアはリーナが眠りについたと確信すると、リビングに出て、アルフレッドに電話をかけた。するとすぐに繋がったので、ジュリアはささやかながらも安堵した。

 

「署名の件か」

 

「はい。あの、そちらの部屋にお伺いしてもよろしいでしょうか」

 

「教員寮に生徒は入れない規則だぞ」

 

「お願い、します」

 

 ジュリアは込み上げる嗚咽を必死に堪え、強く頼み込んだ。暫しの沈黙の後、アルフレッドがため息をついた。

 

「絶対に、証拠を残してくれるなよ」

 

「はい、ありがとうございます」

 

 ジュリアはそう言って通話を切ると、すぐに魔術による瞬間移動で、教員寮のアルフレッドの部屋の中に行った。すると偶然にも、目の前にアルフレッドはいた。まだ電気は付いていて、彼の服装もスーツのズボンにワイシャツといったものであったため、すぐ寝ようとしていたわけではないようだ。

 

「署名は、失敗しました。ごめんなさい、私、アルフレッドさんから任されたのに、何もできませんでしたわ。署名活動が無意味だったという意味ではありません。あなたの期待に応えられなかったのが、私は悔しくて、悲しくて」

 

「そんな事はない。署名活動そのものが意味あるものだと分かっているなら、十分だ。大事なことは、失敗したなら失敗したなりに、次にどうすべきかを考えるべきだ」

 

 アルフレッドの言葉は、教師然とした、模範的なものだった。しかし、彼の言った内容は、ジュリアもよく理解している。彼女が求めた言葉ではなかった。それで、ジュリアは思い切ってアルフレッドに体を寄せ、その旨に顔を埋め、涙を流した。

 

「助けて、助けてください。挫折がこうも辛いことだと、私は知らなかったの。整理が付かなくって、まるで私が、私ではないようなんです」

 

 ジュリアの、普段とはまるで違う弱々しい様子にアルフレッドは一瞬目を丸くしたが、すぐにいつも通りの凛々しさと柔らかさを兼ね備えた目に戻した。そして彼は、そっとジュリアの肩を抱いた。

 

「初めて挫折を知った時は、誰しもそうなるものだ。今は泣くがいい。だが、人が生きることは辛さを知ることとほぼ同義だ。ジュリアが今感じた苦しみと同じかそれ以上の苦しみが、この先に待っているのだよ」

 

「もしそうなら、なぜ人は生きるのですか。あなたの言う通りなら、生きれば生きるほど、辛さが増すばかりではありませんか」

 

 このジュリアの問いに、アルフレッドはジュリアを体から離して、その目を真っ直ぐに見つめて答える。

 

「これは私の持論だが、この世の苦と楽の比は、99対1だ。だが、何が苦で何が楽かは人によって違うし、99の苦よりも1の楽が勝ることもある。逆も然りだ。だが、どんなに小さな楽でも、人が心のどこか、たとえ自覚していなくても深層意識でも、楽があると思える限り、人は生きられるのだよ」

 

「では、自殺する人は、楽を認識できなくなったということですか?」

 

「そうだ。もっと言えば、苦楽の概念を超越し、理性で本能を真の意味で抑え付けられた者が、自殺をすると考えている。考えてもみたまえ。生きるというのは、本能が欲する最低限の楽だ。それを理性で抑えられるのだ。凡人には出来んよ」

 

 ジュリアは、アルフレッドの言葉に感銘を受けていた。彼の説明なら、人が生きる意味に説明がつく。これまでそういうことに対してあまり深く考えたことはなかったため、彼の言葉はジュリアの心に刻まれた。

 ふと、ジュリアがアルフレッドの表情に注目すると、彼がばつの悪い表情を浮かべていることに気がついた。

 

「どうされました?」

 

「いや、語るのに夢中になって、話を逸らしてしまったことが、申し訳なく思ってな。相談してきたのは君なのにな。すまなかった」

 

 言われて、ジュリアはハッとした。よく考えてみれば、彼の言葉はジュリアの悩み自体を解決するのには殆ど関係がなかった。しかし、話を逸らされたことでジュリアの気持ちが落ち着いたのも事実であり、挫折の苦しみを受け入れられる余裕も出来た。その点では、結果的に彼が話を逸らしたのは正解と言えた。

 

「大丈夫ですわ。アルフレッドさんが逸らしてくれたおかげで、挫折を受け入れられました。ありがとうございます」

 

「そうか、それは良かった」

 

 アルフレッドは、心底安堵したように軽くため息をついた。彼がジュリアのことで感情を動かしている様子を見ていると、ジュリアは嬉しく思った。それと同時に、恥ずかしさも覚える。こう思えるのは何なのだろうか。ジュリアの関心は、挫折からこちらに移った。

 

「明日も学校だ。早く戻って寝なさい」

 

 考え込み始めたジュリアを見かねてか、アルフレッドは優しい口調で促してきた。その言葉はまるで家族に言っているような調子で、ジュリアは少し不満に思った。しかしそれを表には出さずに、彼女は愛想よく笑って答える。

 

「ええ。分かりました。おやすみなさい」

 

「ああ、おやすみ」

 

 アルフレッドが目を細くして言った言葉を聞き終えると、ジュリアは一抹の寂しさを覚えながらも、行きと同じ要領で自室に瞬間移動し、すぐにベッドに入った。眠りにつくまで、彼女の脳裏からアルフレッドの姿が消えることは無かった。

 

        ***

 

 ジュリアがアルフレッドに会いに行っていた頃、メルティはミハイルに呼び出され、学校の中庭に来ていた。中央にある大木の下に、ミハイルはいた。暗がりの中で、しかも大木の影の中にいるため、彼女の表情の詳細は読めない。仕方がないので、メルティはそのまま話すことにした。

 

「何の用? こんな時間に呼び出して」

 

「単刀直入に言う。もう一度、アンドロイド工学に戻る気は無いか?」

 

 メルティは眉をひそめた。極力思い出さないようにしていて、リーナにさえ隠していたその過去をほじくり返されるのは、虫唾が走るくらいに嫌なことだ。

 

「無いね。私はこれ以上、アンドロイドの発展に寄与したくない」

 

「お前が必要なんだ、メルティ。お前が商品化した、タイプMU系列に搭載されているあの人工知能。そのプロトタイプが、今どうしても必要なのだ。今のアンドロイドの技術者に、私を含めてあれを再現できる者はいない。開発者であるお前が――」

 

「黙れッ!」

 

 とうとうメルティは耐えかねて、ミハイルを怒鳴りつけた。ミハイルはメルティを引き込むためにその話を持ち出したつもりだろうが、メルティにとってはそれは忌まわしき過去でしかない。それを栄えあることのように言われるのは、敵愾心を煽られるようで、我慢ならなかった。

 

「もう一度言うけど、私はこれ以上アンドロイド工学の発展に寄与するつもりはないの! 大体、コードΩ46に搭載されている、あの人間のように学習し、感情を育める人工知能をミハイルは開発したんでしょ!? それで十分でしょ!」

 

 メルティは矢継ぎ早に言い放った。その言葉に対し、ミハイルはしばらく押し黙っていた。が、やがて、心なしか小さな声で答えた。

 

「あの人工知能は、完全な機械ではない。赤子の脳を摘出して、機械的な処理を施しただけのものだ。それではコストが高い。だから、完全な機械で殆ど人間の脳と同じ働きのできる、お前の人工知能が必要なんだ」

 

 メルティは、開いた口が塞がらなかった。ミハイルは、セニアの人工知能は人間のものを使ったものだと言った。しかも、その問題点もコストが高いとしか言っていない。彼女には、生命倫理など微塵も無いのか。そこまで考えが至ると、メルティはミハイルの胸ぐらを掴んで、その体を幹に押し付けた。

 

「ミハイル、あなたって人は! 人間の命を何だと思って!」

 

「EGMAが、再現できないならそうしろと言ったのだ。悪いとすれば、あのプロトタイプの製作プロセスを碌に残さず、廃棄したお前じゃないのか?」

 

「私に責任をなすりつけるな! それに――」

 

 EGMAがいいと言えば全てがいいのか――その言葉を、メルティはすんでのところで飲み込んだ。そのようなことをEGMAのシンパであるミハイルの前で口走ってしまえば、いくら青蘭島とはいえ、反逆罪に問われかねない。そうなれば、メルティに関与した者として、リーナやその一家にも影響が及びかねない。それに、メルティもここで歩みを止めるわけにはいかない。それで、メルティはミハイルを力無く離した。

 

「ふん、今のことは黙っておいてやろう。お前は我々に必要な存在だ。人間を補助する機械の開発なんかさっさとやめて、こっち移った方が富も名声も得られるというのに、残念だよ」

 

「残念で結構。私のアンドロイド開発は、あなたとの採用競争に負けたあの日に終わったんだよ」

 

「アンドロイドで子作りまでさせられる程に発展させた者の発言としては、何とも情けないものよ」

 

 ミハイルのその挑発で、メルティにまた怒りの火が灯った。しかし、冷静さも失わなかった。大きく息を吐いて気持ちを落ち着かせ、先日から気になっていたことを尋ねる。

 

「ひとつ聞かせて。なんで、生徒会長の案に賛成したの」

 

「残念だが、それには答えられん。署名活動は残念だったな」

 

 後の方の言葉を聞いたメルティは、眉間に深くしわを寄せ、声を低くして呟くように告げる。

 

「失せて、早く」

 

 彼女がそう言ってからすぐに、ミハイルは何も言わずに去って行った。一人残されたメルティも寮に帰ろうとしたが、彼女とは別の足音を背後から聞いたため、思わず振り返った。そこにいたのは、バツの悪い表情をしたシノンだった。

 

「ごめんなさい。夜の散歩をしていたら、二人が見えて、つい」

 

「別にいいよ。それに、話聞いてたなら分かったでしょ。君のこと、ミハイルは気づいていない。ということは、EGMAにもバレてないって考えてもいいだろうね」

 

「はい。それに関しては、少し安心しましたわ」

 

 シノンは微笑んでみせた。シノンは、メルティが作った最後のアンドロイドだ。それは、次世代の戦闘型アンドロイドの開発競争に敗れてしまったが、メルティが引き取り、その人工知能をミハイルの言っていた、タイプMU系列に搭載されたもののプロトタイプに取り替えてその隠し場所としたものだった。そのため、他のアンドロイドなら普通用意してある、人工知能のスペアがそれには今存在しない。一応、メルティはそのデータのバックアップは取っているものの、シノンの人工知能を新しく作る余裕も資金も無い。破壊されたが最後、少なくとも二、三年はシノンは復活出来ないのだ。

 

「リーナとは、仲良くやれてる?」

 

 メルティは軽い気持ちでそう聞いたのだが、シノンの表情は沈んでしまった。それを見て、メルティは二人の仲を察した。そもそも、戦闘用アンドロイドの中ではかなり人間的なシノンだ。リーナがその存在を快く思うはずがなかった。

 

「分かりきったこと聞いてごめん。あっちが拒絶しちゃうよね」

 

「いえ、いいんですのよ。リーナさんは、アンドロイドはアンドロイドらしく振る舞えっていう考えの持ち主です。私みたいなのを毛嫌いするのは仕方ありませんわ」

 

 シノンは気丈に振る舞ってみせたが、その声は震えていた。その様がいたたまれず、メルティはそれの頭を撫でてやった。

 

「私だって、リーナと同じように考えてるし、かつてアンドロイド技術者としてタイプMU系列を商品化したことは後悔してる。あんな、あまりにも人間的な、人間の居場所を追いやるようなものは、この世にあってはならないとも考えてる。でも、君は人間的であることで人間の居場所を脅かしてはいない。だから、せめて君くらいの人格は認められてもいいんじゃないかって思う」

 

「それでも、私はアンドロイド。人間ではありませんわ。所詮、機械が人間の真似事をしているにすぎません」

 

「それを分かれば十分だよ。この学園や、白の世界でアンドロイドを見てると思うんだよ。あれらは、自分の立場をまるで分かっちゃいない。まるで自分が機械だってことを忘れてるみたいだ。人間もあれらを人間みたいに扱うからタチが悪いね。その中で君がアンドロイドであることを自覚できているのは、すごいことだ」

 

「分かっていますわ。でも時折、人間として生を受けたかったと、そう思うんですの」

 

 シノンはか細い声で呟いた。その言葉に対し、メルティは何も言えないでいた。彼女は、シノンにそのように言わせてしまったことを申し訳なく思った。もしこの先、それが自らの存在を人間に近づけようとすれば、その姿は彼女が忌避するアンドロイドの姿そのものだ。やはりリーナの言う通り、アンドロイドが人格を持つなどはあってはならないことなのか。考えと言葉の両方で詰まってしまったメルティは、わざとらしく腕時計を確認して、誤魔化すように言った。

 

「もう1時前だ。明日も学校あるし、ここで別れよう。じゃあね」

 

 メルティはそう言うと、シノンから逃げるように、一目散に駆け出していった。彼女には、それの視線が走っている間ずっと刺さっているように感じられた。

 

        ***

 

 翌朝、カールとアイリスは久し振りに外に出た。空は雲で淀んでいたが、それは二人も同じだった。どのような理由であれ、世界水晶を奪おうとした自分たちを罰を与えることなく元のクラスに通わせるなど、二人には正気の沙汰とは思えなかった。何のためかは全く見当がつかない。もし温情のつもりだとしたら、ブルーフォールを遂行した者にとっては、屈辱以外の何物でもなかった。更に、裏切り者たちとも顔を合わせることになる。これもまた耐え難い事実である。ナツナが軍籍を離脱したという情報は入ったものの、今のカールらの心にそれが残ることはなかった。

 

「学園側が何考えてんのかはさっぱりだけどさ、私たち、負けたから仕方ないよね」

 

 登校途中、学園前の坂を登りながら、アイリスは抑揚の無い声で、俯きがちになって呟いた。その言葉に対し、カールは空を見上げながら吐き捨てるように言う。

 

「そうだな。負けた俺たちにゃ何も文句は言えねえ。泣き寝入りするしかねえかなあ」

 

「ごめんなさい。私たち王族の徳が無かったばかりに、カール中尉ともあろう人に、そのようなことを言わせてしまって」

 

 背後から聞こえたその声で、カールとアイリスは凍りついた。息を飲んで振り返ってみると、そこには二人の従者を連れたランが、学生鞄を持ち、憂いを帯びて佇んでいた。

 

「ラ、ラン殿下! おはようございます! どうぞお通り下さい!」

 

 カールとアイリスは慌てて揃ってそう言って敬礼し、道の端に寄った。周囲から、物珍しそうな視線を向けられるが二人は気にしない。しかしランは気にしたのか、苦笑いを浮かべて言う。

 

「あ、いや。そんなつもりで声を掛けたんじゃないんです。楽にしてください。私も今日からこの学校の生徒ですから、あまり王族として目立ちたくはないのです。もちろん、人質としての身分を忘れず、王族として恥ずかしくないよう振る舞いますが、あくまで一生徒として扱ってくださいな」

 

 カールとアイリスには、ランの言ったことが一瞬理解できなかったが、彼女が人質として学園に入学するという話を思い出して納得した。その間にランは二人の従者に目配せし、彼らを先に行かせてからカールとアイリスに近づいた。

 

「幼年士官学校にお二方は居なかったので、あなた方と学校に通うのはこれが初めてですね。あなた方の人柄は兼ねてから聞いておりますが、その評通りの人か、見極めさせていただきますわ」

 

「恐縮であります、殿下」

 

 三人で歩き出してから、カールが恭しく言うと、ランはクスクスと笑った。

 

「あなたはもっと豪快な人物だと聞いておりましたのに、今のあなたは全くそのような気配がありませんね。責めてるわけではないですから、ご安心を」

 

「殿下の前じゃ、誰だってそうなりますよ。殿下の仁徳が成せるわざです」

 

「お褒め頂き光栄です、カール中尉」

 

 そのように言うランは、少し嬉しそうだった。人質の身分とは言え、同年代の人物と気兼ねなく話せる今の立場に、居心地の良さを感じているのかもしれない。カールはそのように捉えていた。

 

「殿下、私はどういう評なんですか?」

 

 口調こそ丁寧だったが、アイリスは同年代の友達に話しかけるような風で、ランに訊いた。勿論、このような態度を本国で取れば失礼千万だ。アイリスもそれを分かっているはずだが、ランの、一生徒として扱って欲しいという意を汲んでか、カールのように堅苦しい態度は取らないことにしたようである。

 

「アイリス中尉は、才色兼備な上、明るく元気な、一緒にいて楽しい女性と伺っていますわ」

 

「まあ、ありがとうございます! カールも聞いた!? 才色兼備で一緒にいて楽しいんだって!」

 

「んなこたぁ、わざわざ言われんでも分かってらい。俺を誰だと思ってやがんだお前は。お前の夫だぞ、夫」

 

「そういうこと言ってんじゃないの! 全くもう」

 

 カールの返答に、アイリスは頬を膨らませて、ぷいっとそっぽを向いてしまった。その様子を、ランは穏やかに微笑んで眺めていた。

 

「本当に仲のよい、鴛鴦夫婦なのですね。私も憧れちゃいます」

 

 ランに褒められた二人は、揃ってはにかんで、頬や後頭部を掻いたりした。それからも談笑しながら通学路を歩いていたが、その間三人から笑顔が絶えることはなかった。

 

        ***

 

 ざわついている教室の中で、リーナは一人、椅子に座って俯いて、体を強張らせていた。右隣の席のカールとアイリスを始めとして、統合軍所属の生徒は、まだリーナのクラスに来ていない。取り返しのないことにならないかと、気が気でなかった。しばらくそうする中で、誰かが側に立った。リーナは顔を上げることなくその足を見ると、それはシノンの物だった。

 

「何ですか、一体。私を笑いに来たのですか?」

 

「そんなことをしに来たのではありませんわ。私もあれに署名をしました。私もあなたと同じ気持ちなのです」

 

 そう言われて、リーナはより一層不機嫌になった。アンドロイドに同情される自分が悔しく、また腹立たしかったのだ。

 

「不愉快です。早く立ち去ってください」

 

 リーナは声を低くしてそう告げるが、シノンは躊躇っている様子だった。もう一度声を大にして言おうかと考えた直後、教室のドアが開かれ、カールとアイリスが入って来た。しかし、二人がリーナに視線を向ける前に、クラスメイトらが二人の元に殺到した。彼らの言葉の中に、統合軍を誹謗するものは無く、二人を心配したり労ったりするものばかりだった。それで、ブルーフォール以前からそこそこ人気者だったアイリスは愛想笑いを浮かべていたが、困っているのは見て取れた。反対に鼻つまみ者だったカールは、クラスメイトの態度の急変に対し、見る見るうちに不機嫌になっていった。その様子が、リーナには見るのが心苦しくて仕方がなかった。

 

「私の、せいだ」

 

 リーナはそう呟くと、いきり立ち、シノンの呼び止める声も聞かずに教室を飛び出した。そして、人の少ない場所を求めるうち、気がつくと屋上に出ていた。冷たい風が吹き付けるそこは、見る限りでは、人の姿は無い。そのことに安心すると、リーナはその場にへたり込んで、大声で泣き出した。あの生徒議会の場で美海らを納得させられていたならば、二人に不快な思いをさせずに済んだかもしれない。そのように考えると、リーナは自分が腹立たしく思うと同時に、カールとアイリスの前に姿を現せられないと思うほどに、自らを恥じた。

 

「あの、どうされたんですか?」

 

 ふと、リーナに、そのような聞き慣れない声が聞こえた。涙を拭いて振り返ると、そこには明るい緑の長髪を持つ、気品溢れる女性がいた。不思議そうにリーナを見る彼女に、リーナは恐る恐る尋ねる。

 

「あなたは、誰ですか?」

 

「私は、ラン・S・グリューネと申します。気兼ねなくランと呼んでください」

 

 ランは、柔らかな物腰でそう名乗った。その名前を聞いて、リーナはハッとした。人質として入学することになったグリューネシルトの王女が、自分の目の前にいる。リーナは慌てて姿勢を正して敬礼した。

 

「し、失礼しました! 王女殿下とはつゆ知らず、無礼な振る舞いをしてしまい、申し訳ございません!」

 

 リーナはそう言った後で、ランが困惑していることに気がついた。姿勢を崩そうかとも一瞬考えたが、他国とはいえ相手は王族だと考え直し、リーナはそのままの姿勢を保った。ややあってから、ランは苦笑いをしながら告げた。

 

「あの、楽にしていいですよ。ここにいる間は一介の学生ですから」

 

「は、はあ。分かりました。そう仰るなら」

 

「しかし、あなたの敬礼は素晴らしいですね。私たちの戦士に負けず劣らずのものです。あなた方のような戦士たちに負けたのなら、我々の悔しさも少しは紛れるというものです」

 

「きょ、恐縮です」

 

 唐突に褒められて、リーナは戸惑いながら返答した。対し、ランの方は興味津々な様子でリーナを眺める。

 

「制服の上からでも、あなたが日々の鍛錬を怠ることなく体を鍛えてると、よく分かります。あなたの名を聞かせてください」

 

「リーナ。リーナ=リナーシタです」

 

「リーナさんですか。それで、何故泣いていたのですか? 初対面の私に話す筋合いは無いかと思いますが、よろしければお教え下さい。敗戦国の王女として、出来ることはなんでもしたいのです」

 

 そう言われて、リーナは逡巡する。事情を話して、どう反応されるか見当もつかなかったので、話すのか怖かったのである。しかし、話せば案外、気持ちの整理がつくかもしれないと考えると、気がつけばリーナは全てを話してしまっていた。その間、ランは真剣な表情で黙って聞いていた。やがてリーナが話し終えると、ランはリーナの手を取り、ゆっくりとした口調で告げる。

 

「ありがとうございます、リーナさん。私たちの誇りを守ろうとしてくれて。結果は残念でしたが、あなたの高潔な思いは、必ず私たちの胸に届きます。ですから大丈夫ですよ」

 

「ありがたきお言葉、謹んで頂戴いたします」

 

 リーナもランの手を力強く握り返し、胸を張ってそう答えた。対し、ランは表情を和らげ、ほっと息をつく。

 

「良かったです。本来の目的とは違いましたが、従者を撒いて屋上に上がった甲斐がありました」

 

「そういえば、どうして屋上に?」

 

 リーナがランの手を解いて、一歩下がって訊くと、彼女は風に髪をなびかせて、青蘭島の街並みに目を向けた。

 

「一度、青蘭島がどのようなところか見ておきたいと思いまして。本当は昼休みくらいにでも行くつもりだったのですが、待ちきれずに、つい」

 

 ランは舌を出してそう言った。こうして見ると、王族である彼女も一回の少女に過ぎないと、リーナは実感した。

 

「あ、こんなところにいたのですか、殿下! 早くしないと、朝の集会に遅れますよ!」

 

 ランが先のように話した直後に、彼女の従者と思しき者が、屋上の出入り口の方で叫んだ。それで、ランとリーナは腕時計を確認すると、朝礼が始まる十分前になっていた。

 

「あら、もうこんな時間ですか。急ぎましょう、リーナさん」

 

 ランは、そう言って小走りになって従者の方に向かう。リーナも慌ててその後を追う。吹き付ける秋風が追い風となったお陰か、リーナは体が幾分かいつもより軽く感じた。

 

        ***

 

 昼休み、リーリヤとルルーナと合流したカールとアイリスは、それぞれ昼食を持って屋上に上がり、シュッツ・リッタで風除けを作ってから、各人がその場に座り込んだ。この時期は秋風のおかげで屋上は寒くなるため、カールたちの他には人はいない。

 始めの方こそ、四人は歓談していたが、やがて朝の集会で言われたことに話の内容が移ると、四人の間に暗い雰囲気が漂う。

 

「ったく、温情のつもりかと思ったら、ウロボロスとかいうのと戦うために力を貸せだなんてな。言葉は綺麗だったがよ、結局体良く俺らを使いたいだけじゃねえか。急に仲良しこよしな感じで優しくされたのもムカつくしよ。負けた以上文句は言わねえつもりだったが、こんなの我慢ならねえ」

 

「カールの言う通りです。私たちはグリューネシルトの兵です。グリューネシルトのためなら幾らでも命を懸けられますが、この世界のために命を懸けろと言われて納得できるものですか。私たちを冒涜しているとしか思えません!」

 

 カールの言葉に、リーリヤが追従して声を荒げる。朝の集会で言われた内容は、ブルーフォールのことは兵士には不問にする代わりに、具体的な姿も分からぬウロボロスなる敵を撃退するために、力を貸せということだ。

 

「多分、統合軍は中枢から遠ざけられるよね。そうなると、指揮系統を形成するのはS=W=E軍かなあ」

 

 ルルーナが、コッペパンを頬張りながらどこか冷めたように呟いた。続いてアイリスも、冷静な口調で言う。

 

「他の軍の人にこき使われるのは嫌だけど、ルルーナの言う通りだったら、まあいいかな。流石に軍の指揮経験ゼロの人間を中枢に加えないだろうしね」

 

 二人がそう言うのを聞いて、カールは彼女らが話を逸らしたがっていることを察した。愚痴ばかりになるのは、誰にとっても不愉快だ。特に食事中では、美味しいものも不味くなってしまう。それで、カールはアイリスの言に続く形で言った。

 

「そうだな。S=W=E軍の力は、先の戦いで俺たちはよく経験した。あの連中と戦えるならそこまで不満はねえかな」

 

 カールはそう言ってから、しまったと思った。碧き巨神は、それを使った戦闘も含めて機密事項だ。リーリヤとルルーナの二人は、秘密作戦で動いていたカールとアイリスが何と戦っていたなどは知る由もない。聞かれたら全力でごまかすしかなかった。その時であった。ナイアがぬっと四人の前に現れたのだった。

 

「よう、元気そうで何よりだ」

 

 ナイアは、頭に包帯を巻いた姿で現れた。右腕はきかなくなっているのか、だらしなく垂らされており、カールには少しバランスが悪そうに思えた。しかし、ナイアはそれが辛そうな素振りは見せず、至って平然としている。泰然自若としたその様にカールが感心していると、彼女の背中から、ランが不意に姿を現した。

 

「で、殿下!」

 

 ナイアを除いた四人は慌ただしく整列し、ランに敬礼する。それに対し、ランは敬礼を返すものの、朝に見せたような苦笑いを浮かべた。

 

「カール中尉とアイリス中尉には朝にも言いましたが、学校ではあまり特別扱いしないでくださいな。私を見ても、学園では楽にして下さい。と、こんなことを言いにきたわけではないのです」

 

「そう。会わせたいというか、会いたいってやつがいるんでな。そいつとたまたま同じ場にいらっしゃった殿下とご一緒してもらったんだ。ほら、出て来いよ」

 

 ナイアが屋上の出入り口に向かって呼びかけると、そこから一人の人影が姿を現した。その姿を見たカールたち四人は、共に絶句した。許すことの有り得ない者がそこにいたからだ。

 

「ナツナ・トオナギ……!」

 

 真っ先に声をあげたのはリーリヤだった。彼女はその調子のまま、鬼の形相でナツナに怒号を浴びせる。

 

「一体、どんな面下げてこの場に現れたのですか貴様は!」

 

「そうだ。てめえが裏切ったせいで俺たちは祖国を救う手段のひとつを失い、この世界のクソッタレどもに恥をかかされたんだ! 一億回てめえを殺しても、俺たちの気は治らねえんだよ!」

 

 リーリヤに続いてカールが怒りをぶつける一方で、青蘭学園の制服姿のナツナは、涙目になっていた。その姿に、統合軍特務隊随一の精鋭として名を馳せた、ナツナ・トオナギ少尉の面影は、カールには微塵も感じられなかった。その姿にカールは戸惑いを覚えるものの、怒りが収まることは無かった。カールが更なる怒声を発そうとした、その時であった。ナツナが唐突に膝を折り、深々と土下座をしたのであった。

 

「な、なんのつもりですか! その様は! それで私たちの怒りが収まるとでも思いましたか!」

 

 予想だにしなかったその行動に言葉を失ったカールの代わりに、リーリヤが問うた。対し、ナツナは額を冷たいコンクリートに付けたまま答える。

 

「これで全て許してもらおうとは思ってない。けど、今の私は、あなたたちと同じ目線の高さで話せる立場にないから」

 

 彼女の声は、完全に涙声になっていた。しかし、カールは彼女に同情することは無かった。それはカールの怒りによるものもあるが、最も大きかったのは、土下座したまま微動だにしないナツナの背中が、まるで同情をするなと言っているようであったからだ。

 

「先の戦いで裏切ったことについては、心からお詫びします。本当に、本当に申し訳ありませんでした。私の身を、あなたの気が済むように私を扱ってくれて構いません。靴を舐めろと言われたら喜んで舐めましょう。腕を切れと言われたら切りましょう。娼婦に身を堕とせと言われたら進んでそうしましょう。今ここで死ねと言われたら、すぐ自害しましょう。存分に、私を嬲ってください」

 

 涙声ながらも、ナツナは丁寧な口調でゆっくりと言葉を重ね、言い切った。ここまで言われると、カールには怒りよりもむしろ虚しさが胸に込み上げてきた。先ほど以上に、今のナツナは小さく見える。もしや霊か何かが取り憑いているのでは疑ってしまうくらいだった。他の三人も同じように感じているようで、みな言葉に困っていた。それを見かねてか、ナイアが一歩前に出た。

 

「実はな、あたしにも似たようなこと言ってきたんだ。だから、あたしはこう言ってやったんだ。じゃあ一生許す気は無いが、一生の友達になろうってな。この意味は分かるだろ? ならあんたら四人も、それでいいんじゃないか?」

 

 ナイアの言葉は、カールにとって目から鱗だった。しかし、彼女の言うように意味は分かる。負い目のある相手に対して、その意識を一生抱えたまま友人として付き合うことの苦しさは、想像に難くなかった。特に、ナツナはそこまで思い切りの良い性格をしていない。そういう者なら尚更だろう。

 

「そうだね。あたしもナイアと同じようにするよ」

 

 ルルーナもカールと同じことを考えていたようで、さっぱりした表情で言った。

 

「私もそうする。許す気は無いとはいえ友達、それも一生のだかんね。しけた顔ばっかしたり、遠慮したらひっぱたくから」

 

 ルルーナに続いて、アイリスが冗談めかして言うが、その瞳は真剣そのものだった。答えを口にしていないカールとリーリヤは互いに目を合わせると、大きくため息をついて、未だ土下座したままのナツナに向いた。

 

「いつまでそうしてんだ。さっさと立ちやがれ」

 

「そうですとも。それは友達に対する体勢ではありません」

 

 カールは照れ臭さからぶっきらぼうな言い方になってしまったが、リーリヤが続いて言ってくれたおかげでごまかすことができた。ようやく顔を上げたナツナは、ずっと泣きっぱなしだった。彼女が何度も袖で涙を拭うも、それは一向に止まない。彼女の涙が、友として扱われることの嬉しさ故か、それともこれからの苦しみを案じるが故か、はたまた両方か、カールには分からない。その涙の真意がどうであれ、カールにはもう彼女に対する殺意は消えていた。罪を赦したわけではないが、これから彼女が生き地獄を味わうということで、カールは彼女の罪の償いとしては十分だと考えていた。

 それに、彼女が軍籍を離脱しているという事実も、カールの頭を冷やすのに一役買った。ここまでの彼女の態度をカールが思い返すと、ナツナが軍籍を離れたのは、逃げるためではなく戒めのためだと、彼には思えた。軍籍を自ら放棄することは、グリューネシルトで悪徳とされることのひとつだ。その悪徳故にとった行動と取れば、その思いは尊重すべきとカールは判断した。

 

「ほら、遠薙(丶丶)、ハンカチ貸してやるから。そんなに袖を汚すわけにもいかんだろ」

 

 まだ泣き止まぬ夏菜に、カールは今日まだ一度も使っていないハンカチを差し出した。夏菜はそれを躊躇いがちに受け取り、やがてそれで拭い始めた。その様を、他の、ランも含めた全員がニヤニヤしながら見ていることに気がついた。

 

「気がきくねえ。よっ、色男」

 

 ルルーナがコロコロと笑ってカールをからかう。カールはムッとなって彼女に対する返答を考え始めたが、ランが近寄ってきたことでそれを止めた。

 

「アイリス中尉の手前ですし、それに、リーナさんのこと、いいんですか?」

 

 ランにリーナの名を出されて、カールは返答に窮した。リーナとカールの間柄を知らないナイア、ルルーナ、リーリヤの三人は、彼の反応を訝しんでいた。それ故に、ランがカールとリーナのことを知っていることが不思議でならなかった。

 

「今朝本人にたまたま会いまして、それでこれまでのことを聞いたんです。彼女、自分が生徒議会の議員としてあの案を止められなかったおかげでカール中尉に嫌な思いをさせてしまった、合わせる顔がないって嘆いていましたよ」

 

 そう言うランは、微笑みをたたえていた。彼女は、カールとリーナの恋愛模様を面白がっているようにも見える。そのように考えると、先の夏菜のこともあって、カールは少し恥ずかしくなった。

 

「ったく、そんなに事を大きく捉えられたら、困るのはこっちなんだがな。こっちはリーナのせいなんてこれっぽっちも思ってないのによ」

 

 カールは斜め上に曇り空を見ながら、大きめの声でこぼした。その彼の肩を、ナイアが唐突に後ろから強く叩いた。

 

「おい、リーナつったらこの学園にいる、S=W=Eの兵士だろ。何あたしの知らん間にラブロマンスやってやがるんだ」

 

「そうそう。あたしも知りないなー、カールのお妾さんの話ー」

 

「まだ妾じゃねえ!」

 

 ナイアに続いて、弾んだ声で続けてきたルルーナに対し、カールは照れ隠しに怒鳴った。しかし、その怒声も、からかわれる対象となってしまった。

 

「まだって何ですかまだって。つまり妾にする予定はあるということですね詳しく聞かせてください早く早く」

 

 リーリヤはマシンガンのような早口で、カールの正面から食い付いてきた。カールは、彼女特有のその早口を、今ほど鬱陶しく思ったことは無かった。業を煮やしたカールは、アイリスに目配せして助けを求める。しかし、アイリスは腕組みしながら一歩も動かず、苛つくくらいのニヤケ顔を見せてきた。

 

「てめえ! 何のつもりだその顔は!」

 

「だって、かなり困ってる感じのカール見るの、すごく久しぶりなんだもん。可愛いからずっとそのままでいてよ」

 

 カールが怒鳴るも、アイリスはそう言って全く動こうとしない。ランはコロコロと笑いながら眺めているので当てにならなさそうだった。最後の希望として、カールは夏菜に目を向けた。ようやく泣き止んだらしい彼女は、少し離れた場所からカールらを見守っていたが、彼の視線に気がつくと、おもむろに歩み寄ってきて、ニッと笑って告げる。

 

「あの子、口では強がってカールを嫌ってるように見せてるけど、絶対ぞっこんだから。あともうちょっとだよ」

 

 夏菜の言葉に、ルルーナとナイアはひゅーひゅーと喚き立てる。カールは完全に困り果てて、嘆くように大きくため息を吐いた。しかし、自然体で接してくれる友人に囲われたこの場を、心地よく感じてもいるのだった。

 

        ***

 

 放課後、カールは、学校を一人でうろついていた。結局、昼休みから今現在まで、彼はリーナに話しかけることすら出来ずにいた。というのも、リーナは授業が終わるとすぐに教室から出て、次の授業が始まるギリギリの時間に戻ってくる上に、カール自身がクラスメイトに纏わり付かれていたために、話しかける余裕が無かったのだった。

 今彼が校内をうろついているのは、リーナが風紀委員の仕事を終えるまでの時間を潰すのと、運が良ければ彼女とばったり会えるかもしれないと考えたからだ。またアイリスと一緒でないのは、カールが一人でリーナと話がしたいと望んだためだ。

 放課後の校内には、あまり生徒がいない。いるのはせいぜい校舎内で部活動を行う生徒くらいで、廊下を歩いていて遭遇するのは殆どいなかった。この環境を、カールは普段あまり好ましく思わない。彼は、どちらかといえば静寂より騒然を好む人だ。しかし、今はその静寂も居心地よく感じた。

 

「放課後まで付きまとってこなくて助かったぜ、全く」

 

 カールがそう呟いても聞く者はおらず、閑散とした廊下に広がるのみだ。その後、カールは少しぶるっとした。今日は日が出ておらず、空には雨雲が漂っている。それで、廊下も冷え込んでいたのだ。

 

「一旦寮に戻るか。そろそろいい頃合いだしな」

 

 カールはそう言って、回れ右をした。すると、十メートルほど先に生徒会室があることに気がついた。リーナは生徒議会の時に入るだけだが、生徒会のメンバー自体は毎日仕事がある。つまり、あの忌まわしき決定を下した者たちが、すぐそこにいるのだ。しかし、それだけではカールがそこに向かう理由にならなかった。後で詳しい話を聞いたことには、マユカは当の議会で発言権や投票権を棄権したとのことだ。例の決定にマユカが絡んでおらず、他の世界の人間だけで決めたとあれば、まだ許せる。そう考えていた。だが、その部屋からマユカが出てきた途端に、その寛容も憎悪に染まった。

 マユカは、楽しそうに美海らと談笑しながら出て来たのだった。しかし、その光景だけでカールが激怒したのではない。第一次ブルーフォールを彼女が台無しにした後、彼女は何の気兼ねもなく学園生活を謳歌していた。第二次ブルーフォールの時も、失敗の直接の原因にはならなかったものの、彼女は緑の世界に敵対した。そして今なお、学園生活を謳歌している。件の棄権の事実だけでは、今のカールの心は鎮まらなかった。更に、昼休みの時に夏菜の誠意を目に焼き付けていたことも、マユカに対する怒りを煽っていた。

 カールは、無意識のうちにホルスターから拳銃を取り出していた。そこから遊底を引き、マユカの左胸に狙いを付け、引き金を引ききった瞬間、脳裏にアイリスの言葉が蘇った。

 

――変な気は起こさないでね。独断でやらかしたら、軍にも責任が及ぶんだからさ――

 

「俺は、何を」

 

 カールは、十メートルほど先でマユカが背中から血を流している様を見て、茫然自失となって呟いた。右手には銃口から微かに煙を吐き出している拳銃がある。先ほど見た光景と合わせて導き出される答えは、カールを打ちひしぐには十分すぎた。

 

「国王陛下、そして我が祖国よ。申し訳、ございません」

 

 カールは、力無く崩れ落ち、膝をついた。青蘭学園で、しかも殺人未遂を起こした。ただでさえ緑の世界と他の世界との関係が著しく悪化している今、このような事件を起こしたとあれば、みすみす緑の世界の不利を加速させてしまったようなものだ。しかも、マユカは緑の世界を救う最終手段でもある。それに手を掛けてしまった。国益を守るための軍人が、国益を損なう行為をしてしまった。軍人であることがアイデンティティであったカールには、この後悔の念は半端なものではなかった。

 気がつけば、カールは手枷を嵌められ、椅子に体を固定させられて、教室のひとつに監禁されていた。これから裁判にかけられ、終身刑あたりにでもなるのだろう。当然の報いだ。自分は祖国の恥晒し。刑務所で余生を送る、惨めな人生がお似合いだ。アイリスは、このことを聞いてどう思うだろうか。リーナは軽蔑するだろう。それならそれで良い。祖国の信頼を裏切り、不利益を齎した者に、幸せなど許されないのだから。そう考えていた時だった。カールのいる教室のドアが、静かに開かれたのだった。そちらの方を見ると、厳しい目をしたランが、従者を伴って佇んでいた。彼女は従者にドアを閉めさせると、ゆっくりとカールに近づき、サーベル、グリム・シュヴェルトを召喚してそれを振りかぶった。

 

「ああ、殿下。殿下自らの手で俺を斬られるのですね。それも当然です。さあ、どうぞご遠慮なく」

 

「動かないでください」

 

 ランは強い口調で言った。カールは眼を閉じ、死の覚悟を決めた。無念はあるが、カールにはそれを果たす権利はない。やがて空を切る音が聞こえ、カールはいよいよ死ぬかと思ったが、痛みは何もない。彼は恐る恐る眼を開けると、斬られたのは手枷などの拘束具と、服に付けられていた発信機だけだった。カールは訳のわからぬまま立ち上がり、戸惑いの視線をランに向けた。ランはおもむろにカールに近づくと、彼の耳に口を寄せて耳打ちする。

 

「あなたに極秘命令が出されています。私に詳細を言う権限はありませんが、それはあなたでなければできないことです。学園の裏山の、前の作戦の本陣跡に回収部隊が待機しています。この部屋から脱出し、すぐそこに向かってください」

 

 カールはその言葉に驚愕し、立ち尽くしてしまった。

 

「もう一度、俺は祖国のために命をかけられるのですか」

 

「はい。もちろん。それに、マユカ少尉は生きています。だからご安心ください」

 

 カールがうわ言のように言ったその言葉に、ランは笑顔で頷いてみせた。しかし、すぐに真摯な表情に彼女の顔は戻った。

 

「私がここの門番にかけた催眠術が解けるのも時間の問題です。それに、私がここにいると知れる前に早く、そこの窓から脱出して下さい」

 

「了解です! 殿下!」

 

 カールは敬礼を返すと、踵を返し、窓ガラスを割ってその教室から飛び降りた。その教室は三階であったが、訓練を受けたカールにはその高さはどうということはなかった。問題なのはいつの間にか降っていた土砂降りの雨の方だ。うまく視界が確保できない。しかし、それは相手も同じだ。そう考え、カールは早速裏山に向かおうとしたが、その直後に校内放送が流れた。

 

「風紀委員で拘束していたカール・ヘスが只今校舎外で逃走中です。一般生徒は校舎または寮内に待機、風紀委員は速やかに捜索及び捕縛に当たって下さい。繰り返します……」

 

「殺人未遂は伏せるか。ま、今の状況考えりゃ当然だろうけどな」

 

 カールはそう呟いて、一瞬だけ思考する。今いる場から裏山までの距離と、正門までの距離とでは、正門までの距離の方が近い。更に、正門を突破されて街中に身を隠すのを探すのと、裏山の森に紛れているのを探すのとでは、どちらも難度は大して変わらない。ゆえに、風紀委員が割く人員も変わらないと思われる。また、今は雨が降っている。裏山に入るにはコンクリートの壁を超えねばならず、またぬかるんだ道を行かねばならないため、体力の激しい消耗は必至だ。

 

「なら、近い正門から出るか!」

 

 カールはそう決めて駆け出した。雨で滑らぬよう、アスファルトで舗装された道を走り、正門に向かう。すると案の定、正門前には十数人の風紀委員が待ち構えていた。しかし、その中にリーナの姿は認められない。気兼ねなく暴れられると、カールはほくそ笑んだ。

 まず、足元の水たまりをカールは思い切り蹴った。その水飛沫が手前にいた風紀委員数人の顔にかかる。彼らが一瞬それで怯んだ隙に、カールはその間を縫って突撃する。

 

「今だ、取り押さえろ!」

 

 その風紀委員の誰かの号令で、残った十人ほどの風紀委員が、八方から全員でカールに覆い被さろうと飛びかかる。カールはそのうちの一人に狙いをつけると、空に浮いた彼女の体に全力で体当たりをし、そのまま全力疾走し、囲みから脱出した上に、閉じた正門にその体を叩き付けた。

 

「悪く思うなよ! じゃあな!」

 

 カールは風紀委員の塊を尻目に、軽々と門を飛び越えて学園から脱した。

 

(ここから街を経由して、裏山に入る! 捕まってたまるかよ!)

 

 カールの頭には、先の作戦で市街地に入った経路が浮かんでいた。その経路は、風紀委員も知っているだろうが、大回りしてまで裏山に向かうと、頭に血が上った状態では考えられないだろう。しかし、だからといって油断はできない。カールはその肩に重圧を感じながら、正門前の坂道を駆け下りた。

 

        ***

 

 リーナは、雨の中の市街地を懸命に走っていた。焦りからか、既に数回転んでおり、両の手の平はじんじんと痛み、両膝は血で滲んでいる。大粒の雨が傷に沁みるが、リーナはそれを抑えて尚も走る。

 市街地での見回りの途中、装着が義務付けられているイヤホンマイクを通じて、脱走したカールを取り押さえろとの指令が出た。それで、リーナは差していた傘を放り捨てて、カールの姿を探しているのだ。取り押さえるためではない。ただ、謝りたかったのだ。

 何の罪で拘束されていたかは分からないが、決して校内では問題を起こさなかった彼が、校内で問題を起こしたということは直感で理解した。彼にそうさせたのは、学校の方針への不満が絡んでいるのは間違いない。となれば、それを阻止できなかったリーナ自身にも責任がある。そう考えたが故だった。

 走れば走るほど、胸が痛んだ。自分のせいで彼が苦しんだ。その意識が、リーナの心を苛む。そして、新たな疑問も浮かぶ。あれだけ嫌っていたのに、なぜ今は彼を求めているのだろうか。思えば、カールが巨大兵器の中から姿を現した時からずっと、彼自身に負の感情は抱かなかった。答えは出かかっているが、心のどこかでそれを認めぬ頑固な自分がいた。

 

「今はそんなことより、カールを!」

 

 心にかかる靄を払うように、リーナは大声を出した。しかし、それも無意味だった。すぐに、再び胸の苦しさがリーナを襲う。気が付けば、雨は激しさを増し、バケツをひっくり返したようなものになっている。下着まですっかり濡れてしまい、リーナは寒気を覚えた。その時だった。あるビルとビルとの間の路地に、特務隊の制服を着た、長身で筋肉質の金髪の男の後ろ姿が見えた。

 

「カール!」

 

 リーナは慌てて路地に入り、その名を叫ぶように呼ぶ。振り返った彼は、冷めた表情をしていた。そこに、リーナはどこか諦めのようなものを感じた。まるで、浜辺に作った砂の城を崩された幼子のような目をしていた。

 リーナは息を切らしながら、彼にゆっくりと近づく。カールは動かない。ただ呆然と突っ立っていた。リーナが一歩、また一歩と彼に近づくにつれ、彼女の胸の鼓動が高鳴る。今となっては、彼の男らしい彫りの深い顔立ちやエロティシズムを感じさせる肉体だけでなく、意地の悪い口説き文句やセクハラ発言さえも、全てが彼の良さに思えた。やがて、手を伸ばせば彼に届く所まで来て、リーナの興奮が最高潮に達した時、それを打ち壊すようにイヤホンマイクに通信が入った。

 

「リーナ、そこにカール・ヘスがいるのね! すぐ向かうから取り押さえてて!」

 

「え、いや、その」

 

「じゃあ、頼むよ!」

 

 唐突に入った風紀委員長からの通信は、リーナが何かを言う間も無く途切れてしまった。リーナが通信端末で各風紀委員の座標を確認すると、彼らが真っ直ぐに、リーナのいる場所へ向かっているのが分かった。この路地裏では身を隠す場所もなく、また風紀委員の一人一人がそれぞれ別の方向から近づいているため、彼らがこの場所に来るまでには少し時間はあるものの、死角をついて抜け出すこともできなさそうだった。

 

(やるとしたら、ひとつしかない!)

 

 リーナは次に、学園の格納庫にいる人を確認した。そこにいる者はメルティただ一人だった。それで、リーナは、思い切ってイヤホンマイクを外し、そのマイクを拳銃で破壊した。次に、軍用の携帯電話で、メルティに電話をかける。

 

「何、リーナ。どうしたの?」

 

「今から私がいいと言うまで、格納庫に人を入れないようにお願いします! それと、今から私がやること、誰にも言わないでください。頼みます!」

 

「分かった。他でもないあなたのことだから、特別に、特別に許すよ。だけど、以降は絶対にそんなの許さないし、何があったか後で教えてよね」

 

「ありがとうございます!」

 

 リーナはメルティとの電話を終えると、大きく息を吐いて叫んだ。

 

「来なさい、ジャッジメンティス!」

 

 そうは言ったが、リーナが呼び出したのは全身でなく、そのコクピットだけだった。亜空間を通じて出てきたL型のコクピットに、リーナは飛び乗った。

 

「カールも早く」

 

 リーナはそう言ってカールに手を差し伸べるが、彼は呆然と立ち尽くしたままだった。業を煮やしたリーナは、一旦そこから降り、カールの腕を引っ張り、強引にコクピットに二人で入った。そして、その部位を亜空間に引っ込め、開いていた亜空間の穴を閉じた。

 亜空間――正確に書くなら、ジャッジメンティスが使う亜空間――は、言ってみれば鈍色をした宇宙空間だ。ただ同じ光景が広がるだけの、味気ない殺風景な空間だ。しかし、今のリーナには、その鈍色が先ほどまで上にあった雨雲に満ちた空と、殆ど変わりないように見えた。

 しかし、そのような感想は、リーナの頭からすぐに吹き飛んでしまった。リーナは、カールと密着していて、緊張と興奮が彼女を支配しているからだ。本来一人用のコクピットに二人で入っているためそうなるのは必然なのだが、そうと分かっていても決して心は冷め止まなかった。

 

「とりあえず、この亜空間なら安全です。しばらくやり過ごしましょう」

 

「なんで、こんなことをする?」

 

 カールは、震える声で尋ねた。そして、リーナが聞き返す前に彼は酷く激昂してリーナを怒鳴りつけた。

 

「なんでこんなことをした! お前、俺らが変に優しく扱われるのを見るのが嫌だったんじゃ無かったのかよ!」

 

「そ、そうですけど」

 

「だったら! 自分の立場を弁えろ! 俺が知ってるお前なら、俺を庇ったりなんか絶対にしない! 風紀委員の仕事を真面目にこなしたはずだ!」

 

 カールに怒りを向けられていると、リーナはえも言われぬ深い悲しみを感じた。しかしすぐにその悲しみは不満に変わり、苛立ちのままにそれをぶつける。

 

「何を、今まで散々私のことを掻き乱しておいて! 以前の私ならなんて、私のことをわかったように言わないでください! 私は、私はあなたに幸せになって欲しいんです! ここで捕まることが、あなたの幸せなんですか!?」

 

 リーナの言葉に、カールは詰まった。彼は、反論のしようは幾らでもあっただろうが、リーナに気圧されたからか、口を噤んでしまった。しかし、リーナ自身もまた言葉に詰まっていた。勢いのままに、彼に幸せになって欲しいと言い放った。何故そのような言葉が口から出たのか。その意味を考えたとき、今まで散々に否定してきた自分の感情が、最も適した答えだと、自信を持ってはっきりとわかった。そして、今すぐに彼にそれを伝えねば、永久に言えなくなるような気がして、リーナは躊躇うことなく、しかしか細い消え入るような涙声で告げる。

 

「好きなんです、カール。あなたを心の底から、愛しています」

 

 そう告げられたカールは、唖然として目を丸くしていた。そこから強く押すように、リーナは重ねて告げる。

 

「あなたが好きだから、こうしたんです。あなたの前では、軍人としての私でも、風紀委員としての私でもない。あなただけの私、リーナ=リナーシタでいたいんです」

 

 雨に濡れた互いの髪から、水滴がひとつ、またひとつと落ちていく。リーナはカールの目を見つめたまま動かず、カールもまた、逡巡している様子のまま動かない。時が刻まれるたび、リーナの鼓動が早くなり、心臓が奏でる音はその大きさを増す。やがて、おもむろにカールが口を開いたとき、リーナの緊張はこの上ない絶頂を迎えた。

 

「正直、複雑だ。お前が俺に愛を向けてくれたことは、間違いなく嬉しいし、こうして庇ってくれることにも感謝してる。でも、嬉しいけど、嫌だ。お前にまで優しくされるのは、俺は」

 

 カールは、その先を言わなかった。ただ歯をくいしばるだけで、リーナから顔をそらしている。リーナはそのような彼の頬に、そっと手を触れた。

 

「私は、他の人とは違います。他の人は学園がそういう方針だから、仕方なく優しくしてるだけです。でも私は、心の底から私がしたいからしてるんです。あなたがどうして追われるかは知りません。でも、どんな罪だとしても、あなたがどんな心情だったのかは理解できます。私が生徒会を止められなかったから、あなたにそうさせてしまった。だから、私はあなたを助けるのです」

 

「つまり、贖罪のつもりか、これは」

 

「理屈では、そうです」

 

「俺が犯した罪は、マユカ・サナギの殺害の未遂だ。それでも、お前は俺を庇うのか?」

 

「庇います。これは理屈じゃない。あなたを愛しているからです」

 

 リーナはカールから手を離し、毅然とした態度でそのように即答した。カールは暫くリーナを無言で見つめていたが、やがて大きくため息をついた。

 

「折れたよ。今の状況じゃ、お前を殺すくらいしかお前を止められんようだし」

 

「あなたに殺されるなら、私は本望ですよ」

 

 リーナがそういうと、カールは軽く彼女の頭を叩いた。そして、彼は少し顔を赤くして告げる。

 

「アホ。お前を殺して俺が生き残るなんてできるかよ。さっきのは、その、もうお前を受け入れると、そういうことだ」

 

 いつもリーナの上をいっていたカールが、今はリーナのことで困っている。それが可笑しくて、リーナはクスリと微笑んだ。

 

「なんだか、新鮮な感じです。こんなに自分が女で良かったと感じたのは、初めてですよ」

 

「そりゃ良かった」

 

 カールはそう言うと、不意にリーナの前髪を上げて、額にそっとキスをした。その瞬間、リーナは己の心臓がとてつもなく跳ね上がったような感覚を覚えた。

 

「不意打ちですよ、カール」

 

「嫌だったか?」

 

「そんなわけないじゃないですか。でも、次は、その、く、唇に欲しい、です」

 

「了解、了解」

 

 カールは軽い調子でそう言うと、今度はリーナの顎を持ち上げ、優しく唇を重ねた。その間、リーナは嬉しさと恥ずかしさが綯い交ぜになって、頭が真っ白になっていた。十秒くらいの後に彼が唇を離した後も、その余韻が残って、逆上せたようになってしまっていた。

 

「なかなか可愛いじゃないか」

 

「そ、そうですか? えへへ」

 

 唐突に言われて、リーナはだらしなく頬を緩ませた。しかし、そういう表情をしていると自覚すると、咳払いをして、己の両頬を数回叩き、いつものように凛とした表情に戻した。それに、いつまでもこうして甘い時間を過ごせるわけではない。リーナが意識を現実に戻して、風紀委員たちの座標を確認すると、先ほどまでリーナたちがいた場所を中心にして彼らが市街地を巡回していることが分かった。

 

「カール、多分行くとしたら緑の世界ですよね。どこかに回収部隊がいるとかはありますか?」

 

「裏山に回収ポイントがある。麓まで連れていってくれれば、後は自力で行けるからな」

 

「分かりました。風紀委員は一人も裏山に行っていないようですから、今すぐ行きます」

 

 リーナは、学園とは反対側の裏山の麓の適当な場所に座標を固定し、そこまで亜空間跳躍した。そして、コクピットだけを現実空間に出し、ハッチを開いた。そうした瞬間に雨が降り注ぎ、少しだけ乾いていた互いの髪が再び濡れた。

 カールはコクピットから飛び降りると、リーナに振り返って声を張り上げた。

 

「俺はもう多分、ここの土は踏めねえ。だから、デートしたいと思ったらお前の方から緑の世界に来てくれ! 頼んだぞ!」

 

「もちろん、もちろんです! これを今生の別れになんかしませんから! 愛するあなたと、いつか一緒になりたいから!」

 

「妾って立場になるが、それでもいいか?」

 

「構いませんよ! だから、私の名残惜しさが頂点に達する前に、風紀委員が来る前に、早く!」

 

「分かった! またな、リーナ!」

 

「はい!」

 

 リーナが威勢良く返事をすると、カールは、リーナが見惚れるくらいの爽やかな笑顔を見せて、大きく手を振ってから踵を返して走り出した。その背中が見えなくなると、リーナはハッチを閉じ、再びL型を亜空間に引っ込めた。

 

「必ず、必ず会いに行きますからね」

 

 リーナはそのように呟きながら、カールの言葉と唇の感触を反芻する。その度に興奮が蘇って、リーナは恍惚に浸れた。彼女は数十秒ほどそうしていたが、すぐにいつまでもそうはできないことを思い出し、深く深呼吸をして意識を改めた。他の者には黙っても、メルティには、全てを話す。その条件で取り引きしたのだから、これから彼女に全てを打ち明けなければならない。彼女の前に立つのに、リーナは恍惚感の中にはいられなかった。

 亜空間から学園の格納庫にL型を戻し、ログを全て消去してからコクピットから飛び降りた。立ち上がったずぶ濡れのリーナの前には、厳しい目で彼女を見つめる、濡れている様子の無いメルティがいた。

 

「風紀委員からね、リーナの捜索願いも出されてた。聞かせてよ。隠れて何を私に手伝わせたのかを」

 

 メルティの目には、リーナへの疑いと怒りが込められていた。対するリーナは、怖気付くことなく、堂々と胸を張った。

 

「分かっています。これから、全てをお話ししましょう」

 

 三機のジャッジメンティスだけに見守られ、リーナはおもむろに口を開く――カールとの馴れ初め、彼に対する感情の変遷、その全てを、大きくうねる彼への想いを抑え、感情を殺して語り出す。

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