偽典アンジュ・ヴィエルジュ【刻】   作:黒井押切町

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かなしみのセレナーデ

 リーナが全てを語り終えるや否や、メルティは渾身の力でリーナの頬を殴った。しかし、リーナはよろけたものの、すぐに態勢を整えた。メルティにはその様が、まるで殴られることが予め分かっていたかよように見えた。

 

「罪の意識はあるんだね」

 

「はい。軍ではなく風紀委員としての仕事ですが、どちらにせよ私の行動に一片の正当性もないことは理解しています」

 

 リーナの声は弱々しかったが、その目は揺れることなくメルティを見据えていた。メルティはもう一回、先程と同じ方の頬を殴り、彼女の胸倉を掴んだ。

 

「私は風紀委員じゃないから、君を公的に処分することはできない。だからさっきの二発を以って、S=W=E軍少佐として修正を加えて、ジャッジメンティスの私的使用は握り潰しておくし、友達のよしみで風紀委員にも黙っておくよ」

 

「ありがとう、ございます」

 

 リーナがそう言ったのを聞いて、メルティは彼女から手を離した。するとすぐに、リーナは声を抑えて泣き始めた。その様子を見つめながら、メルティは遣る瀬無い気持ちを抱いていた。

 先の第二次ブルーフォールの頃から、メルティの目から見てリーナはすっかり精神的に弱くなっていた。リーナの話で、彼女が男を知ったからだと納得したものの、メルティは複雑だった。

 リーナは、13歳の時に、ジャッジメンティスのシミュレータでたまたま好成績を挙げたため、人間の人材が欲しかった軍上層部が幼年士官学校から引き抜いて当時新設されたばかりの第八機動小隊に配属された。当時はその部隊にリーナの家族は居なかったのだが、それ故にリーナは士官学校とは違う現場の雰囲気に着いて行くのに精一杯で、恋愛などをしている余裕は無かった。しかし駐屯軍として学園に来て、そこの生徒として生活するようになってからゆとりが出来、ようやく年頃の娘らしい生活を送ることがようになった。だから彼女が恋愛感情の絡んだことに弱いことは、メルティは理解できる。これを機に、人間的に一回り大きくなることもできるかもしれないとも思う。

 しかし、メルティの頭の隅にはミハイルの言葉が引っかかっていた。あの、署名活動が失敗に終わったタイミングで、ミハイルはメルティをアンドロイド側に引き戻したがっていた。今はシノンに埋め込まれている人工知能が欲しいとも言った。彼女の真意は分からなかったが、メルティは何となく、EGMAが人間に対し何かをしようとしているということは直感的に分かっていた。この予感が的中すれば、リーナの力が必要になることは必至だ。そのような事態が考慮される中で、彼女の心が揺れるのは、メルティにとって好ましくないことであった。

 メルティが気がつくと、リーナはいなくなっていた。物思いにふけり始めた自分を見て、寮に戻ってしまったのだろうと、メルティは予測した。

 

「私、まだ帰っていいとは言ってなかったんだけどな。友達とはいえ、私は上官だぞ、全く」

 

 メルティはこのように呟くも、格納庫の中をうろつくだけでリーナに何かをすることはなかった。そのような気は殆ど起こらなかった。

 

「恋、ね。あのリーナが彼氏作るなんて、想像も出来なかったな」

 

 今、メルティの胸に芽吹いたのは、友として、リーナの春の訪れを祝福する気持ちだった。リーナが目の前にいた時には決して考えられなかったそれは、今はメルティの胸を満たしている。

 

「立場上、直接言えなくて、ごめんね。でも、君もここで言われたくはなかったろうから、許してね」

 

 メルティの呟きは、決して外に漏れることなく、格納庫の中で反響した。

 

        ***

 

 リーナは、風紀委員会への報告を済ませ、季節外れの驟雨だったらしく、雨の止んだ帰路にトボトボとついていた。メルティが黙って考え込み始めてしまったあと、居た堪れなくなって飛び出してしまったことを、リーナは後悔している。次にメルティが何を言うのかが、怖かったのだった。それで、彼女との友情が失われるのが恐ろしくなり静かに出ていったのだが、今冷静に考えれば、この行動の方がその友情が失われる可能性が高いのは明らかだった。しかし、格納庫に戻る勇気はなかった。そのような己が責任感のない人間のように思えてならなかった。

 フラフラとした足取りで寮の自室に辿り着き、リーナはそのドアを弱々しく開けた。

 

「ただいま、です」

 

 リーナがそう言うと、大きく足音を立てて、慌ただしくジュリアが寄って来た。

 

「びしょ濡れじゃない。服全部脱いでちょっと待ってなさい」

 

 ジュリアは洗面所に駆け込んでバスタオルと洗濯袋を取ってくると、リーナにバスタオルを被せ、脱いだ服を袋に詰めた。そして、リーナが何かを言う間も無く、ジュリアは詰め寄って急き立てる。

 

「風邪引く前に、早く風呂に入りなさいな。もう沸いてるから」

 

 ジュリアのこのような姿には、リーナは違和感を禁じ得なかった。これほどまでに余裕を無くしたジュリアをリーナは見たことがなかった。その理由は簡単に分かる。彼女はリーナが余程心配だったに違いない。リーナは、そのようなジュリアを見るのが辛かった。いつも余裕綽々でリーナの上を行っていた彼女をそのようにしたのは他でもないリーナだ。それで、元々ジュリアにはカールと結ばれたことを話す予定だったが、そのことに使命感が伴った。

 

「ジュリア。一緒に風呂に入りましょう」

 

 リーナのこの提案に、ジュリアは目を丸くした。しかしすぐに、彼女は頷いてくれた。

 

「まったく、しょうがない子ね」

 

 リーナと一緒に脱衣所に入ると、ジュリアはやれやれといった風で服を脱ぎ、髪を解いて冠を洗濯機の上に置いた。いつもの調子に近いその表情を見て、リーナは少し嬉しくなった。

 次に、二人で風呂場に入って互いに背中を流し合うと、二人で湯船に浸かった。雨で冷えた体には、その暖かさがより一層ありがたかった。ジュリアの方がリーナより一回り小さいため、リーナの体の上にジュリアが乗る形になった。

 

「こうしてみると、まるでジュリアが私の妹みたいですね」

 

「ふふ、よく言うわね。いつも私に色々と勝てないから、逆襲のつもりかしら?」

 

 ジュリアは余裕たっぷりな様子で、リーナを見上げながら言い返す。湯船に浸かって彼女も少しリラックスできたのか、先程よりも調子を取り戻しているように見える。

 

「初めてだったかしらね、こうして二人で風呂に入るの」

 

「そうですね。さっきと言うこと被りますけど、なんだかジュリアが家族みたいです」

 

 リーナは何気なくそう言ったのだが、ジュリアは嬉し恥ずかしいといった風で、顔を赤らめていた。その様は年頃の少女のようにしか見えず、これもまたリーナの見たことのないジュリアの一面だった。

 

「ジュリア? どうしたんですか?」

 

 リーナが尋ねると、ジュリアはびくりとなって、慌てた様子でぶんぶんと首を横に振った。それによってジュリアの髪を纏めていたタオルが解けかかったので、彼女は慌ただしくそれを纏め直した。

 

「な、なんでもない! 風呂に入ったから、体が温まっただけよ!」

 

 ジュリアは、ひどく焦った様子で捲くしたてた。あからさまに、彼女が隠し事をしていることは分かるのだが、リーナは触れないでおくことにした。そのようなことができるほど、リーナは意地悪ではない。

 

「そんなことより、何か話すこと、あるんじゃないの?」

 

「あ、そうでしたそうでした」

 

 ジュリアのその言葉で、リーナはカールとのことを話そうとしていたことを思い出した。ジュリアとの触れ合いが楽しくて、つい言い出せなかったのだった。

 

「私、カールと結ばれました。でも、そのために彼を見逃しました。許されることではないと分かってます。どんな罵声も——」

 

「おめでとう、リーナ」

 

 ジュリアは、リーナの言葉を遮るように大きな声で告げた。そして、彼女の言葉に面食らったリーナの体を微かな水音を立て、そっと抱きしめて、優しい声色で言う。

 

「馬鹿ね。私はジコチューで我が儘なのよ。あなたのその選択を否定するわけないじゃない」

 

「そう、でしたね。あなたはそういう人でした」

 

 リーナも、ジュリアの背中に手を回した。照れ隠しのつもりだった。自分だけジュリアに何もしないのが気恥ずかしかった。ジュリアはリーナが抱き返したことに少し驚いたようだが、すぐに、少し悲しみをたたえた笑みを浮かべて呟く。

 

「でも、ちょっと嫉妬してしまうわ。何でもあなたに勝てると思ってたのに、先越されちゃったもの」

 

「え、ジュリアもカールに恋してたんですか?」

 

「違うわよ。別の人。ま、誰かは言わないけどね」

 

 ジュリアはか細く、早口気味に言った。その様は、先ほどのように少女らしく可愛げのあるものだったので、リーナはついクスリと笑ってしまった。

 

「何がおかしいのよ」

 

「いや、ジュリアも恋とかするんですねと思って」

 

 リーナが何気なく言ったその一言に対し、ジュリアは眉をひそめると、リーナを抱くのをやめて彼女の両方の乳首を軽くつねった。

 

「ひゃっ!?」

 

 リーナはその変な快感に思わず素っ頓狂な声を出した。リーナはすぐにジュリアから離れて両胸を手で押さえると、彼女は勝ち誇ったような表情を見せた。

 

「良かったわねえ、気持ちよく感じるとこ見つかって。彼とエッチする時にでも、沢山弄ってもらいなさいな」

 

「何を男子学生みたいな低俗な下ネタ言ってんですか! それでもあなたは女ですか!」

 

 リーナは顔を真っ赤にして喚くが、ジュリアは気にも留めず、リーナを見下したような笑みを浮かべて告げる。

 

「ふん、私が恋するのが意外だなんて、失敬なこと言うからよ。私だって女よ。恋するに決まってるでしょうが」

 

「す、すみません。でも、ジュリアが恋するなんて、その方はとても素敵な方なんですね。一度私も会ってみたいです」

 

「……そうね」

 

 リーナはジュリアの機嫌を直そうと調子のいいことを言ってみたのだが、ジュリアは笑みを消して素っ気なく返した。その後、彼女は大きく水音を立てながら立ち上がった。

 

「じゃ、私もう出るから」

 

「ああ、私も、私も出ます」

 

 ジュリアが湯船から出た後、リーナも慌てて出た。それから体を拭いて、ジュリアはネグリジェを、リーナはジャージを着て、髪を乾かして洗面所から出ると、誰かがドアを叩いていることに気がついた。

 

「はい、今出ます」

 

 リーナがドアを開けると、そこには背後に筋トレ用具一式を構え、大きなスーツケースを横に置いたアイリスがいた。

 

「急で悪いんだけど、これいるかな? 今夜中には寮から出てかなきゃいけないからさ、よかったら貰ってよ」

 

「今夜中って、やっぱり、カールのことでそうなったんですか?」

 

 リーナは恐る恐る尋ねるが、アイリスは気楽な様子で答える。

 

「あーいや、そういうんじゃないよ。命令が出たのはカールが捕まる前だもの。急なことには私も驚いてるんだけど、まあそういう命令だし、仕方ないよね」

 

「そう、ですか」

 

 リーナは、それ以上アイリスが今帰ろうとしていることについて突っ込むのをやめることにした。統合軍から出された命令をS=W=E軍のリーナが今詮索する必要も無ければ、権限も無い。

 リーナはアイリスの後ろにある筋トレ用具に目を向けた。小さいものはダンベルから、大きいものはベンチプレス用具やランニングマシンまである。リーナは普段、道具を用いたトレーニングには学園内のジムを利用しているのだが、アイリスからそれらを貰えれば、寮から出ることなくジムで行うのと同じトレーニングが行える。

 

「ジュリア。これ、リビングにでも置いていいですか?」

 

「構わないわよ。雰囲気壊れちゃうけど、スペース余ってるしね」

 

 ジュリアがそう言ったので、早速搬入することにした。アイリスにも手伝ってもらって全て運び終えて、彼女が去る直前に、彼女はリーナに対し、目一杯の明るい笑顔を見せて告げる。

 

「そうそう、おめでとうリーナ。これから二人で、カールを愛していこうね」

 

 そう突然に言われて、リーナは暫し呆然としていたが、ハッとなってリーナもアイリスに笑顔を見せた。

 

「はい! 絶対、デートしに行きますから!」

 

 リーナがそう言うと、アイリスは思い出したようになって彼女に近寄った。

 

「デートするつもりなら電話番号交換しとこうよ。流石にアポ無しじゃ会えないよ」

 

「あ、そうですね。私としたことがうっかりしてました」

 

 リーナは頭を掻きつつアイリスと電話番号の交換をした。それを終えると、アイリスは別れを告げてリーナに背を向けた。その背中には、一片の迷いも見受けられなかったのだった。

 

        ***

 

 アイリスは、スーツケースを引きながら、校門に向かって濡れた道を歩いていた。学園を中退という形で去ってしまうのは残念だったが、カールの居ない学園にそこまでの価値は無い。故に、アイリスの足取りも軽かった。しかし、ある程度機嫌が良かったのもそこまでだった。向かい側から、アインスとユニが来るのを見たからだった。アイリスは敢えて彼女らに歩み寄り、彼女らの前に立ちはだかると、アイリスは鼻で笑ってから嘲る。

 

「裏切り者同士でする仲良しごっこは、楽しい?」

 

「あざ笑うためだけに、私たちの前に来たのか」

 

 ユニは咎めるような目でアイリスを見た。その優等生じみた態度や言葉は、アイリスの神経を逆撫でした。

 

「そうだよ。逆にそれ以外にあなた達に何をするって言うのさ」

 

 アイリスが売り言葉に買い言葉でユニにそう返すと、今度はアインスが、いつもの無表情で口を挟んできた。

 

「そうやってまだブルーフォールのことを引き摺るから良くない。この世界のためにも戦うべきと分からないと、カール中尉みたいなことがまた——」

 

「あなたみたいな非国民が、カールの名前を出すなあッ!」

 

 アイリスは、アインスを声が裏返るくらいの勢いで怒鳴りつけると、本気の裏拳で彼女の頬を殴った。服の裏に隠された筋肉と、プログレスとしての身体能力に威力を裏打ちされたその拳は、アインスの体を浮かせるには十分だった。突飛なことであったためかユニが支えるのも間に合わず、彼女がアインスに駆け寄ったのはアインスが完全に倒れてからだった。しかし、ユニが彼女に触れる前に、アイリスはアインスが手をついて立とうとした所にその鳩尾を踏みつけた。

 

「目障りなんだよ。売国奴が統合軍の、しかも特務の制服を着るのは! 夏菜みたいに反省もしていない癖に、調子に乗るなッ!」

 

 アイリスがもう一度踏みつけ、アインスが鈍い悲鳴をあげると、ユニが悲痛な声で叫んだ。

 

「やめろ、アイリス!」

 

 ユニの手に、フラゲルムノウンが召喚されかかっていた。それに対し、アイリスはユニに、碧き巨神の力を含んだ眼力を叩きつけた。すると、ユニの手からフラゲルムノウンは消失した。それに戸惑う彼女の胸倉を、アイリスはアインスを踏みつけたまま掴んで引き寄せた。

 

「いい? 作戦に参加した人で、あなたたちに恨みを抱いていない人なんていないんだ。あなたたちのせいで、祖国を救う手段をひとつ潰されたんだ。そんなのが偉そうにお題目を唱えたところで、誰もまともに聞くもんか。分かったら、ウロボロスとやらと戦った時にでも、無残に死ね」

 

 ありったけの怨恨を込めて、アイリスはユニに告げた。その恨み節に対し、ユニは心底悔しそうに歯を食いしばった。その表情に気分を良くしたアイリスは、彼女から手を離すと同時にその頬を思い切り殴り、アインスを文字通り足蹴にして転がすと、スーツケースを引いて真っ直ぐ校門へ向かい、学校から出た。

 

「やっぱ、アイリスは怒らせると怖いな」

 

 そう言いながら、校門の影からナイアが姿を現した。彼女の登場に少し面食らいながらも、アイリスはふっと笑って足を止めた。

 

「見てたんだ」

 

「ああ。こう言っちゃ悪いが、少しスッキリしたよ。あたしや、他の連中の気持ちを代弁してもらったからな」

 

「それはどうも。でも、ちょっと殴ったのはまずかったかな。ここを去る直前にあんなことしてさ」

 

 アイリスの言葉に対し、ナイアは大きく伸びをしながら答える。

 

「大丈夫だろ。あいつらもなんだかんだ言って、多少の罪悪感はあるみたいだし。チクるとかは無いと思うぜ。ま、本当に多少、みたいだがな」

 

 ナイアはその言葉の最後に、まるで姉が実の妹にするように、ぽんとアイリスの頭に手を置いた。

 

「一応、特務の左官としてあんたとカールに出された命令の内容は知ってる。内容はあたしにゃ言えないが、覚悟はしておけよ」

 

「何を今更言ってるのさ。私の命は、後にも先にも、祖国のためにあるんだよ。どんな命令でも、こなしてみせるよ。これまでずっとそうしてきたんだし」

 

「そうだな。ま、頑張れよ」

 

 ナイアはアイリスの頭に置いていた手を肩に移すと、そのまま手を振りながらアイリスの横を通り過ぎていった。その背中が暗闇の中に消えると、アイリスは時計を確認した。緑の世界へ行くシャトルが発車するまで、まだ一時間半はある。その時間の余裕は予定通りだった。

 

「じゃ、行く前に未練は解消しとかないとね」

 

 アイリスが行ったのは、青蘭等内の病院のひとつだった。そこの病室のひとつに行き、目的の人物のベッドのカーテンを開けた。

 

「やあ、マユカ」

 

「アイリス中尉……!?」

 

 ベッドに横たわるマユカは、目を見開き体を強張らせた。その様についアイリスは苦笑し、両手を軽く挙げて告げる。

 

「いやいや、私はカールじゃないから、この場で君を殺そうなんてしないよ。そんな命令も出てないしね。そんな硬くしないで大丈夫」

 

「命令が出れば、殺すんですか」

 

 唐突に彼女の口から出たその言葉に、アイリスは思わず吹き出してしまった。しかし、マユカにふざけている様子は無い。本気で言っていたと悟ると、アイリスは呆れてため息をついた。

 

「そりゃ命令が出れば殺すに決まってるでしょ。ああでも、君は命令違反してブルーフォール台無しにしたもんね。君にとっては命令に従わないことが正しいから、そんなこと言えるんだね」

 

「あなたも、私を恨む人ですか」

 

 アイリスの嫌味に対し、マユカは寂しそうに呟いた。その甘ったれたように見える態度が、一層アイリスのマユカへの負の感情を増大させた。

 

「あなたも、って言うけどね。これアインスとかユニとかにも言ったけど、あなたたち裏切り者の売国奴にいい感情持ってる統合軍人なんて殆どいないからね。みんな君を恨んでる。私も含めて、ブチ殺したいと思ってるのも山ほどいる。夏菜みたいに誠意を見せてるわけでもないからね。逆に自分が恨まれないと少しでも思ってることが驚きさ。ま、あなたは祖国を救う最終手段だから、残念だけど生き残ってくれないと困るけどね」

 

 アイリスはそう言いながら、ゆっくりとマユカの耳元に頭を近づけて、彼女に囁く。

 

「せいぜい、一生恨みを向けられて生きればいいよ。そして、緑の世界の民全員から向けられた怨恨を抱えて寿命を全うすればいい」

 

 アイリスは言い終えると、マユカの表情を確認せずに病室を後にした。それから、マスドライバー施設まで真っ直ぐ向かい、シャトルで緑の世界に帰還した。そこから、手配しておいた配送屋に兵舎まで荷物を届けてもらうことにすると、すぐに統合軍本部まで向かう。この間、アイリスはずっと機嫌が良かった。アインスら裏切り者に対して言いたいことは概ね言えたので、胸がすっきりしていたのだった。

 アイリスは特務隊総監の部屋の前に着いた。ミロクが更迭されてから今の総監に会うのはこれが初めてだった。更にこの部屋に入るのは学園入学前以来であるためか、アイリスは少し緊張していた。彼女が深呼吸をしてからドアをノックすると、当たり前だがミロクの声ではない声で、「入れ」と言われた。アイリスは静かにドアを開けると、部屋の中には新総監の他に、待ちかねたようにしているカールがいた。

 

        ***

 

「リーナちゃん、か・わ・い・い」

 

 そう言って、アナベルはリーナに抱きついて頭を撫でまくっていた。その様を、ジュリアは楽しそうに笑いながら眺める。

 

「もう、やめて下さいよアナベルさん! これじゃ恥を忍んでアナベルさんを呼んだ意味が無いじゃないですかぁ!」

 

 リーナは堪らず半泣きになって訴えた。しかし、アナベルはリーナから離れたものの、うっとりした様子で言う。

 

「だって、その格好すごく似合ってるんだもの。それでデートに着て行かなきゃ損よ、損」

 

 言われて、リーナは改めて自分の今の服装を見つめた。彼女は今、ジュリアに無理矢理着せられた黒一色のゴシックロリータの服を着ていた。

 この週の金曜日、風紀委員の業務や日課などを終わらせたリーナは、日曜日にカールとのデートの約束をアイリスを通じて取り付けた。しかし、うっかりしたことにその電話をジュリアに聞かれてしまった。それで翌日の土曜日に、ジュリアに捕まって様々な服を試され、最終的にその服を着せられてしまったのである。彼女の暴走を止めるために何とか頑張って、最もリーナの味方をしてくれそうなアナベルを呼んだのだが、それも悪乗りしてきたのだから、リーナはたまったものではなかった。

 

「デートに黒は無いとか思ってるんだったら、それと似たようなデザインので白いのとかあるわよ」

 

「どっちも嫌です! 大体、自分で着ないくせに何で私に着せるんですか!」

 

 面白がるジュリアに対してリーナは抗議するが、彼女はまるでそう言われるのは予測済みとばかりに言う。

 

「それ、元々人形に着せる用のものだから。私が着るためのものじゃないわ」

 

「じゃあ私が着るためのものでもないでしょう!」

 

「だとしても、あなたデートに着ていけるような服持ってないでしょうが。休日でも制服で外出するとか、年頃の女の子としては有り得ないわよ。同じ調子で制服でデートするよりは、その服でデートした方がいいと思わない?」

 

「それは、そうですが」

 

 ジュリアの言ったことは至極真っ当だったため、リーナは口ごもった。それをチャンスとばかりに、ジュリアはリーナの両肩に強く手を置いて言う。

 

「じゃ、決まりね。化粧も教えてあげるわよ。リーナは元々可愛いから、化粧は薄めでいいわね。髪の毛は、このままのストレートが似合うから弄らなくていいわね」

 

「私もそう思うわよ〜」

 

 ジュリアに便乗するように、アナベルがリーナの後ろから抱きつく。それを邪険に扱うわけにもいかず、どうしようか迷っているところに、ドアをノックする音が聞こえた。それがリーナには場の空気を打ち破られる救世主のように思えたが、目の前のジュリアが悪巧みをしたように笑ったので、一瞬で血の気が引いた。

 

「ほら、客人よ。応対しなさいよほらほらほら」

 

 アナベルがリーナを解放すると、ジュリアはリーナの体をくるりと回して玄関の方に彼女を押した。リーナは抗おうとするものの、ジュリアは明らかにエクシードを使ったとしか思えない怪力で彼女の抵抗を物ともせずに押し切り、玄関のドアを人形に開けさせた。

 

「リー、ナ?」

 

 ドアを開けたところ、夏菜がきょとんとした顔でリーナを見つめる。そして彼女の後ろには、ランと、物珍しそうにリーナを眺める三人の統合軍の女子がいた。

 

        ***

 

 一通りの自己紹介を終えると、すぐにリーナはルルーナに抱きつかれた。更に頰をすり寄せてまでいる。アナベルと大して変わらないその行動に、リーナは無表情になるしかなかった。

 

「はあ、こんな可愛い格好を拒否するなんて損だよ損。絶対カールも喜ぶよ」

 

「何で言うことまでアナベルさんとそっくりなんですか」

 

「たまたまだよ、たまたま。私とアナベルさんは今日が初対面だしねー」

 

 そう言いながら、ルルーナはリーナを抱く力を弱めなかった。その様子を、リーリヤが不服そうに眺める。

 

「何でしょうかこの気持ちは。言ってみれば妻を他の男に寝取られたような気持ちです」

 

「何、リーリヤ。嫉妬しちゃうなんて可愛いなあ」

 

 ルルーナはそう言うと、リーナを解放して今度はリーリヤに抱きついた。リーナはホッと一息つけた心地だった。対して、リーリヤはルルーナに抱きつかれてご満悦といった様子だった。

 

「いやあ災難だったなあんた」

 

 リビングの床にへたり込んでいたリーナの隣に、ナイアがそう言いながら腰を下ろした。その反対側にランも座る。

 

「申し訳ございませんね。うちの兵が迷惑をかけて。でも、すごく似合ってらっしゃいますよ。いつも休日はこのような格好をするのですか?」

 

「まさか。こんな恥ずかしい格好は——」

 

「そうとも、その通りですわ王女殿下。リーナは休日ははいつもこんな格好ですのよ」

 

 ジュリアはリーナの言葉を遮るように声高に叫ぶように言った。それに対し、ナイアが不思議そうな調子で尋ねる。

 

「嫌がってるように見えるが」

 

「素直じゃないのよ。この子見栄っ張りだから」

 

「んなわけないでしょう。いい加減なこと言うんじゃありません」

 

 まるでそうであるかのように言ったジュリアに対し、リーナは立ち上がって彼女のつむじにグリグリと拳を軽く捩じ込んだ。

 

「ちょ、ちょっとやめなさいな」

 

 そう言いながらも、ジュリアは楽しそうにしていた。そのような無邪気な様を見せつけられると、リーナも一連の彼女の振る舞いを快く許してしまえそうな気がした。

 

「ふふふ、リーナちゃんもジュリアさんも楽しそうね」

 

 集団から一歩離れて眺めているアナベルがそう溢すと、リーナは急に恥ずかしくなった。それでジュリアを放すと、照れ隠しで夏菜に尋ねる。

 

「ていうか、何でわざわざ統合軍の人たちやラン殿下も連れてここに来たんですか?」

 

「いやね、件の生徒議会で私たちの側に立ってくれたあなたを一目見ようっていうのと、カールのお妾さんがどんなのかなって、みんな気になってたから。殿下と私は案内と付き添いみたいな感じよ」

 

「そういうこと。恩人みたいなものだし、是非、と思ってな」

 

 夏菜の言葉にナイアが付け足した。それに続いて、ルルーナとリーリヤが口を開く。

 

「あいつ自身はちょっと残念なことになっちゃったけどね。まあでも、それとこれとは関係無いか。私は君のこと、結構気に入っちゃったかも」

 

「皆あなたに感謝しています。味方がいてくれたという事実は間違いなく私たちの希望です」

 

 リーナは、彼女たちの言葉にホッと胸を撫で下ろした。ジュリアとランの言った通り、自分の行動は無駄ではなかったと、心の底から確信できた。

 気がつくとランがリーナにウインクをしていた。それに対して、リーナは微笑みを返す。そうしているうちに、夏菜が思い出したようにリーナに尋ねてきた。

 

「そういえばさ、リーナって何でそんな格好してるの?」

 

「ああ、えっと、それは」

 

「明日緑の世界に行って、カールとデートするのよ。それでこの子、洒落た服なんか持ってないから、こういう可愛い服を試着させてあげたわけ」

 

 言葉に詰まったリーナに代わって、ジュリアが流暢に答えた。その言葉を聞いた夏菜とラン、リーリヤは興味深そうにしたが、ナイアとルルーナは目を爛々と輝かせて飛び付いてきた。

 

「何でそんな面白そう、もとい、めでたいこと教えてくれなかったのー? どこまでする予定? もしかして、もうここまでやっちゃう?」

 

 ルルーナはそう言いながら、片手の人差し指と親指で作った輪に、もう片方の手の人差し指を挿し入れした。その露骨な下ネタにリーナが閉口していると、にやにやと笑いながらナイアが口を開いた。

 

「バカだな、ルルーナ。そんな失礼なこと言うなよ」

 

 リーナはナイアの言葉にうんうんと頷いた。しかし、ナイアの次の言葉は、彼女の機体を完全に裏切るものであった。

 

「相手があのカールだぞ。もう既に十回はヤってるとみたね、あたしは」

 

「二人とも黙ってください! 大体、二人ともそんな、デリカシーのない男子学生みたいなこと言って! 淑女としての自覚は無いんですか!?」

 

 リーナががみがみと怒鳴ると、悪怯れる様子も無しにルルーナとナイアは顔を見合わせた。そして、開き直ったようにスッキリした顔で、ルルーナとナイアは言う。

 

「いやまあ、私はそういうネタが好きっていうかなんというか」

 

「あたしは精神がオッサンな所があるからな。別に淑女になろうとか微塵も考えてないし」

 

 二人のその言葉を聞いて、リーナは大きなため息をついた。この二人をまともに相手にしてはいけないと感じた。思考回路がカールとよく似ている。

 

(でも、嫌な感じはしませんね。むしろ、心地いいというか)

 

 これまで、リーナに自然体で接してくれる友人は、ジュリアとメルティだけだった。しかし今、そのように接している友人が目の前に五人もいる。カールとの交流や署名活動の思わぬ副産物は、今間違いなくリーナを幸福にしている。リーナは、これまでの自分の行動が報われたことを、強く実感した。

 

        ***

 

 明くる日の朝、リーナはナイアと共にマスドライバー施設に来ていた。ナイアが同伴しているのは、緑の世界に入ってからのややこしい手続きを省くためである。リーナには詳しいことは分からないが、ナイアが顔を効かせるだけで殆どの人が通してくれるのだという。リーナには、見た目からは想像もつかないが、彼女はよほどの高官のようである。

 リーナは緑の世界の者ではないため、グリューネシルト行きのシャトルのチケットの他に青蘭島を出る時に学園から発行された許可証を受付に見せる必要がある。本当はグリューネシルトに入ってからも見せる必要があるが、その点については前述の通りである。

 二人は荷物検査を済ませてシャトルの席に着いた。後ろの席には誰もいないため、ナイアは遠慮なく背もたれを倒していたが、リーナはそうはしなかった。結局ジュリアに押し付けられた黒いゴシックロリータの服を着ているのだが、どうにも慣れなかった。靴は履いていてそこまで違和感の無い黒のブーツであるが、手持ちのハンドバッグはジュリアに貸してもらった上等な黒革の物で、体に身につけられないのは落ち着かない。

 

「そわそわしてるねえ。ま、初々しくて可愛いがな」

 

 ナイアは体を起こして、リーナの頬を突いた。リーナはそれを遮ることはせず、スカートの裾を握りながら、顔を真っ赤にして応える。

 

「言わないでください、そんなこと。うう、やっぱり恥ずかしい」

 

「昨日みたいな勢いが無いなあ。緊張し過ぎだろ」

 

「しょうがないでしょう。こんな服着て外に出るなんて考えもしなかったし、デートするのだって初めてですし」

 

 リーナがそう言うと、ナイアはニヤッと笑って、リーナの頭に手を置いた。

 

「かァわいいなァ、ホント。もっと早く知り合うべきだったよ」

 

「何言ってんですか、全くもう」

 

 リーナは頰を膨らませた。そのままナイアの顔を見やると、彼女の笑顔の裏に何か翳りがあるのを悟った。リーナはそれが何かを問おうとは思わなかったが、少しだけ引っかかった。しかし、その直後、機内で間も無く出発するとのアナウンスがあった。それで場の雰囲気は一旦リセットされ、ナイアは手を離してシートベルトを締め始めた。それからシャトルが加速を始め、緑の(ハイロゥ)に突入し、一分ほどでグリューネシルトの首都の港に到着した。

 シャトルから降りた後は、ナイアに着いて行くだけでチケットを改札機に通す以外のことは全て済んだ。殆どの人がナイアを見ただけで敬礼し、特別な検査も無しに通してくれた。港の従業員は全て統合軍の制服を着ていたため、彼らも軍人であろう。ナイアが顔を見せるだけで済むのはそのために違いなかった。

 

「これがあたしじゃなくて殿下だともっと楽なんだけどな。まあ殿下の今の御立場上、青蘭島から出づらいから仕方ない」

 

 ナイアは歩きながらそのようなことを呟いていた。しかし、リーナにはその言葉を拾う心の余裕は無かった。デートが近づいているということもあるが、今は初めて来る見知らぬ土地に対する興奮が大きかった。

 グリューネシルトの建物は石造りのものが殆どだ。道路の舗装も石畳で、アスファルトなどは見受けられない。しかし、そのような地球における近代のような光景とは裏腹に、使用されているテクノロジーは白の世界には劣るものの、青の世界の物よりは断然高度な物とリーナには見受けられた。

 

「この世界がテクノロジーを発展させられたのは、世界水晶の力を引き出す術に長けていたからなんだ。ただ最近はその水晶のエネルギーが殆ど枯渇してしまっていて、ここ数十年は専らエネルギーの再利用が可能な機器の開発が進んでるな。建物が石造りのものばかりなのは、エネルギーの枯渇に伴って土壌が悪くなって植物が育たなくなってな。建築素材とか日用品にも木材が使えなくなって、代わりにそこら中にある石とアスファルトを使うことにしたんだよ。道路も石畳だったり路面電車が走ってたりするのは景観を統一するためだがな」

 

 カールが指定した集合場所に向かう路面電車の中で、ナイアはリーナが抱いたグリューネシルトの印象に対してこのように答えた。リーナはその説明を聞きながら街の観察をしていた。市民の間に、そこそこの活気はある。車道では白の世界で見られるような浮遊して走る車が行き交い、歩道を歩く人々は老若男女様々で、店も服屋から喫茶店のようなものまで大体の種類があった。たまに露店があって、そこでは主に野菜を売っていた。当然のことだがこれは青の世界からの輸入品で、緑の世界のものではない。

 カールが指定した場所は、市議会堂前という路面電車の駅であった。市議会堂もやはり石造りの建物で、形はドーム状であった。そこから少し歩いたところに、カールとアイリスはいた。二人とも軍服姿であった。彼らはリーナたちに気がつくと、手を振りながら駆け寄ってきた。

 

「よう、なかなか可愛い服着てきたじゃねえか」

 

 カールはリーナの頭を少し雑に撫でる。彼の言葉にリーナは得意になって、満面の笑みを浮かべて言う。

 

「そうですか? あなたに喜んでもらえたなら、私は嬉しいです」

 

「おい、今朝までの態度とえらい違いじゃんか」

 

 リーナの言葉に対し、ナイアは不服そうに言った。すると、カールとアイリスは露骨に顔をしかめた。

 

「余計なこと言うな。それに、大体何でナイアがいるんだよ」

 

「そうそう。いくらナイアでも、デートに割って入らないでよね」

 

 カールとアイリスが口々に言うが、ナイアはため息をついて、少し口を尖らせて返した。

 

「おいおい、あたしはここまでリーナを連れて行ってやったんだぜ。めんどくさい検査とか手続きとか、全部顔パスで済ませてやったんだからむしろ感謝してくれ」

 

「それ思いっきり職権濫用じゃねえか」

 

 カールが冷めた目でナイアを見つめる。しかし、ナイアは豪快にガハハと笑って、カールの肩をバンバンと強く叩いた。

 

「まあ気にすんな! デートの邪魔をする気は無いからよ、存分に楽しんでくれよ。あ、終わったら迎えに行くから連絡よろしくな!」

 

 ナイアはそれだけ言うと、その場からカールたちが何かを言う間も無く、逃げるように走り去っていった。三人は互いに顔を見合わせて苦笑すると、すぐさま踵を返して歩き出した。

 

        ***

 

 ナイアは十分にカールたちから離れたことを確認すると、密かに用意してきた、軍用の超小型カメラを埋め込んだ、改造ワイヤレスイヤホンを耳に、小型マイクを征服の襟に装着した。

 

「それではこれより、第一回リーナのデート尾行作戦を開始する!」

 

 ナイアが宣言すると、イヤホンから盛大な拍手が起こった。

 

        ***

 

 ジュリアとリーナの部屋では、ナイアから送られる映像を写したスクリーンを囲んだジュリアとルルーナ、アナベルが大きな、ランが控えめな拍手をしていて、リーリヤと夏菜は難色を示していた。

 

「いいんですかこんなことして。こんな下世話な真似は、あまりいただけません」

 

「堅いこと言うな。バレなきゃ問題無いし、それにあいつらの幸せな姿は残しておきたいんだ」

 

 リーリヤの言葉に、ナイアはどこか真剣な声色で言った。ルルーナとジュリア、アナベルは単に面白がっているだけのようだが、彼女はそうではないようである。ランは本当にナイアが真剣であるということを知っている。カールとアイリスに出された命令を知るのは、この場に居る者の中では、ナイアも含めれば彼女とランのみである。その命令の内容故に、例え褒められた行為でないとしても、ランは三人の幸せな光景を胸に刻みたかった。ナイアも同じ心境であろう。しかし一方で、ランにはその光景はあまりに哀しいものであった。その命ぜられたことが失敗するにせよ成功するにせよ、リーナには過酷が待ち受けている。

 

「まあまあ、ザクシード中尉も夏菜さんも、そこまできにすることはないでしょう。たまにはこういうおふざけもいいではありませんか」

 

 ランは悲しみを押し殺し、そう言って明るく振る舞ってみせた。すると、夏菜は困ったような表情で呟くように言った。

 

「殿下がそう仰るなら、まあ」

 

 リーリヤも同じような風であった。ランは二人に申し訳なく思いながら、スクリーンの中の映像に注目する。その中で三人が入った場所に、ジュリアは首を傾げていた。

 

「あそこって、カジノ?」

 

        ***

 

 リーナは、カールとアイリスに連れられた場所に面食らっていた。そこは完全に、地球にあるようなカジノそのままの施設であった。

 

「どうしたリーナ。口開けたまま突っ立ってよ」

 

 カールはリーナに尋ねたが、その口調は本当に彼女が呆気にとられている理由が分からないようであった。

 

「ここ、カジノですよね?」

 

「そうとも言うな。俺らは賭博場って呼んでるけど」

 

「青の世界にあるのと全然変わらなくないですか?」

 

「たまたまだ、たまたま。どこの世界の人間も、考えることは同じってことだろ。麻雀だけは輸入品だけどな」

 

 カールはまるで当たり前のようにそう言ったが、リーナは納得し難かった。使われているルーレットやらトランプやらは地球のものと全く同じで、行われている遊びも同様だった。

 

「まあ、同じのならルール教えなくていいじゃん。早くやろうよー」

 

 アイリスはそう言ったが、リーナは返答に困った。初デートで初めて遊んだ場所が賭博場では浪漫に欠ける上に、そもそも賭け事はしない主義だ。流石にカールはリーナの困惑に勘付いたらしく、彼女の頭に軽く手を置いて、優しく声を掛けた。

 

「ごめんな、好かない場所に連れて来ちまってよ。すぐ出ようか」

 

 彼はそう言ってリーナの肩に手を回し、そのまま出口に向かって歩き出した。アイリスも追い付くと、リーナに申し訳無さそうに頭を下げた。

 

「二人とも、気を遣わせてしまってすみません」

 

「良いってことよ。それに、今日はリーナの初デートだからな。その思い出が悪いのになっちゃ困るからな」

 

 リーナの言葉に、カールは爽やかに笑って言ってみせた。体が触れ合っているからか、彼の温かみが直接、強く伝わる。リーナは今の状況が恥ずかしくなって、照れ隠しに少し棒読み気味にカールとアイリスに尋ねる。

 

「そ、そういえば、この世界では賭博はどういう立ち位置なんですか?」

 

「一番流行ってる娯楽だね。気軽にやれるし、勝てばウハウハだしね」

 

 アイリスは弾んだ口調で答えた。彼女の口振りと、二人が真っ先に賭博場に入ったことを考えると、賭博は緑の世界ではかなり一般的なようだ。文化が異なるとはいえ、それを辞めにさせてしまったことにリーナは申し訳なく思った。そのような彼女の心情を察したのか、カールは彼女の体をより一層寄せて告げる。

 

「この世界にも、リーナみたいなのはいるから気にしなくていいぜ。それに、そう言われた時用のプランもちゃんと用意してあるんだよ。ほれ」

 

 そう言って、カールはリーナに路面電車の一日乗車券を差し出した。リーナがそれを受け取ると、彼はリーナから離れた。その直後にアイリスがカールの左腕に腕を絡めたのを見て、リーナは彼の右腕に絡めた。

 

「ちょっと歩きづれえが、まあいいか」

 

 カールは苦笑し、歩く速さを緩めた。そのまま駅まで戻ると、リーナとアイリスは共に腕を解き、カールを挟んでベンチに座った。

 

「これからどうするんですか?」

 

「路面電車を使って、市内を一周する。それなりの史跡も美味い飯食える所も有るし、退屈はしないと思う」

 

 カールはリーナに観光案内の簡単な地図を見せながら答えた。そこに、唐突にアイリスが上から覗き込みながら、城と思しきものが示されている所を指差した。

 

「私ここ行きたいな。ね、いいでしょ?」

 

「そこは全部回るのに時間かかるからパスしたかったんだが、ま、お前が言うなら仕方ないか」

 

 カールはやれやれといった様子で、メモ帳を取り出して何やら書き始めた。どうも、計画を修正しているようである。

 

「リーナはどこか興味ある所はあるか?」

 

 カールは一旦手を止めて尋ねた。リーナは改めて地図を見てみたが、どの史跡も白の世界や青蘭島では見られない物ばかりで、簡単には決められなかった。

 

「正直、どれも興味惹かれるものばかりで。ですから、カールとアイリスさんにお任せします」

 

 リーナがそう答えると、カールは「あいよ」と軽く返事をして、心底楽しそうにメモ帳にペンを走らせた。それから電車が来るのを待つ間は、カールとアイリスは和気藹々とどの順番が良いか、どの催しを見に行ったらリーナが楽しいかなどと協議していた。それを眺めるだけでもリーナは幸せだったが、どこかほろ苦い思いをしている自分がいたのだった。

 

        ***

 

 ナイアがリーナたちが路面電車に乗ったのを見届けると、むっとしているようなジュリアの声がイヤホンに届いた。

 

「ちょっと、さっきのカジノから散々見せつけておいて、路面電車に乗るなんて。ナイア、追跡はどうするのよ」

 

「心配するな。路面電車の路線図は頭に入ってるからな。すぐそこにあたしのバイクも停めてあるから、すぐ追いつけるぜ」

 

 ナイアはそう言ってバイクの元へ歩き出した。その途中で、ジュリアをからかうような口調で声を掛ける。

 

「そういやジュリア、なんでそんなにカリカリしてんだ? 普段のあんたなら、もっと余裕ぶると思うんだ、が、な」

 

「う、うるさいわね。私にだってイライラする時くらいあるわよ」

 

「そうかそうか。イライラするなら追跡やめて、首都観光案内に切り替えてもいいんだが、どうだ?」

 

「それは嫌よ。あの子の晴れ姿、もっと見たいんだもの」

 

 ナイアはその言葉に、少し感傷的な気分になった。ジュリアが作戦内容を知っているとは到底思えないが、ナイアがカールたちを尾行するのも殆ど彼女と同じだ。これが褒められた行いでないことは十分に理解しているが、こうでもしなければナイアは遣る瀬無さを抑えきれなかった。カールとアイリスは、ナイアにとっては弟と妹に等しい存在だ。この先彼らに待ち受ける運命は、命令だからと切って捨てることは出来なかった。しかし、二人もその内容を知っていて尚今リーナとのデートを楽しんでいるため、二人を憐れむのは失礼なようにも思えた。

 

(特務隊所属ってことを後悔したのは初めてだ。作戦が終わったら、どんな結果になっても特務を抜けよう。国への忠義が失われたわけじゃないし、いいよな?)

 

 ナイアの問いに答える者は、当然だがいない。ナイアはいつの間にか溢れていた涙を拭い、バイクに跨る。そして勢いよくエンジンを吹かし、車道に飛び出していった。

 

        ***

 

 路面電車に乗ってから、最初にリーナたちが降りたところは劇場前の駅であった。しかし、劇場で劇を見ることが目的ではなく、その劇場の隣にある写真屋が目的であった。

 

「ここには青の世界にあるようなプリクラなんて無いからな。記念写真撮るっつったらこういう写真屋で撮るしか無いんだ」

 

 カールはそう言いながら、写真屋のドアを開ける。それと共に心地よい鈴の音が響いたかと思えば、部屋の奥から初老の男性が現れた。

 

「やあやあ、カールさんにアイリスさん。いらっしゃいませ。お久しぶりですね。青の世界に行ったと聞いていましたが、今日は休暇ですか?」

 

「いや、休暇には変わりないが、命令でこっちに戻ったんだ。しかし相変わらず腰が低すぎやしないか、あんた。客とはいえ俺たちゃ親父の半分も生きちゃいないんだぜ。あんたの一番目のカミさんみたいに近所の子供みたいな扱いでいいのによ。そういえば、カミさんは外出かい?」

 

「ええ。もうすぐ帰って来ると思いますよ」

 

 店主がそう言い終えるか言い終えないかのうちに、リーナの後ろでドアが勢いよく開かれ、小太りな、これまた初老の女が布袋に野菜を沢山詰めて入ってきた。彼女はカールとアイリスを認めるなり、買い物の荷物を足元に置いて、カールを右腕で、アイリスを右腕で抱き寄せた。

 

「カールくんもアイリスちゃんも久し振りねぇ! 元気にしてたかしら?」

 

「もちろんだよおばさん。おばさんこそ元気にしてた?」

 

 カールは少し迷惑そうにしていたが、アイリスは自ら彼女に寄っていって嬉しそうに尋ねた。

 

「見りゃ分かるだろあんた。まあでも、暫くあんたたちが来てくれなかったから、元気とは言えなかったわね」

 

 カールとアイリス、そして写真屋の夫婦は、まるで家族のように笑いあっている。その光景を一歩引いた所で見つめるリーナは、胸が締め付けられるような疎外感を感じていた。それには、単純に四人だけの空間になってしまっていることの他にも、それだけの関係を築かれるくらいに馴染んだ店、という存在そのものへの憧憬もあった。

 白の世界には、人間が接客をする店などは存在しない。そもそも、リーナの生きている時代では接客自体が人間の仕事ではなかった。生の人間と同等の感情の豊かさを持つアンドロイドの役目だ。店、という組織で人間が果たす役割は、社長職などの表には出ないものに限られていた。であるから、リーナが白の世界の店で買い物をした時、目の前のアンドロイドがどれだけ愛想をよくしても、それが機械であるという意識が働いた。リーナとそれの間には冷たく凍った関係しかなかった。それが当たり前だと思っていた。青蘭島でも学食くらいでしか物を買う機会が無く、それもジュリアと同居してからは行かなくなり、買い物はジュリアが全て担当していた。そのため、学食で接待をしていた者の顔などは既に忘れてしまっていた。

 しかし、今目の前で見ている客と店主の関係はリーナの知るものとは全く異なっている。この人の暖かみこそが白の世界で失われたものであり、取り戻すべきものだとリーナは強く思った。この時には、感じていた疎外感は徐々に興奮へと変わっていた。しかしその時、カールとアイリスの二人と話している店主夫妻の目線が、たまにリーナの方に向いていることに気がついた。カールとアイリスもそのことに気がついたようで、カールはリーナの側に回って、肩を掴んで彼女を抱き寄せた。

 

「紹介し忘れてたな。こいつ、リーナっていって、俺の妾だ」

 

「よ、よろしくお願いします」

 

 リーナは軽く緊張しながら、小さく会釈をした。すると、店主の方は愛想よく挨拶を返したが、夫人の方はカールを押しのけてリーナに抱きついてきた。

 

「これまた可愛いお妾さんだこと! 年は幾つ? カールちゃんとの馴れ初めはどんなのだったの? 告白はどっちから? それから——」

 

「これ、やめなさい。困ってるだろう」

 

 リーナが矢継ぎ早に質問してきた夫人に困惑していると、店主は彼女の肩を叩いて諫めた。

 

「そうよ姐さん。その子はアイリスちゃんじゃないんだから、もう少し気を使ってあげてよ」

 

 奥の方から、もう一人の中年女性が現れた。「姐さん」という呼称から、リーナは彼女を夫人の妹かと考えていた。そのうちに夫人が離れたのを見計らって彼女の方がリーナに小走りで近づいてきた。

 

「妾同士、相談ならなんでも乗るからね。何か困ったことがあったらいつでも来てね」

 

 彼女のその言葉で、リーナは彼女が店主の第二夫人であることを悟った。カールの言葉や、統合軍女子たちに持て囃された時には実感が無かったが、グリューネシルトでは本当に、重婚が普通だと分かった。

 

「分かりました。と言ってもつい最近結ばれたばかりで、これも初デートですから、まだよく分かりませんですけどね」

 

「まあ初デートなの。じゃあおばさんたちが水を差すわけにはいかないわね。姐さん、私たちは引っ込んでましょう」

 

「そうね。いくら私でも、初デートは邪魔しないわ。さっきはごめんね」

 

 第一夫人がリーナに謝ると、二人はそそくさとドアの向こうに行ってしまった。

 

「さあ気を取り直して、写真撮影といきましょう」

 

 店主は、少し張りのある声で言った。カールとアイリスはうなずいて、二人でリーナの手を引いて部屋の奥の方に向かった。そこには白無地の背景と、木製の椅子がひとつと反射板があるのみだったが、この世界の写真は今なお白黒写真らしく、それで十分とのことである。

 

「珍しいですね、この世界で木製の椅子だなんて」

 

「今の当主の親父は写真屋稼業をやってるが、数百年前からある家だからな。そういう椅子も残ってるし、世界接続で木材の輸入が出来て修理しやすくなったってのも大きいな。とりあえずリーナが座りな。俺らは軍服だから、私服のお前が座った方が見栄えがいいだろう」

 

 カールに言われるまま、リーナは椅子に腰掛けた。カールとアイリスはサーベルを佩用した状態で、姿勢を正し、しかし柔らかな笑顔を見せていた。その様子を見て、リーナも自然と同様の笑みを浮かべる。そうして何枚か写真を撮って、三人は店を出た。帰りにもう一度寄って現像したものを取りに行くとのことで、一行はアイリスが行きたがっている城に向かった。

 

        ***

 

「これが城、ですか?」

 

 リーナは軽く呆気にとられていた。というのも、その城というのが、妙にこじんまりとしたものであったからだ。石造りの、高さ五メートルほどの塔が屹立しているのみで、とても城とは言えないものであったからだ。しかし、そのリーナの感想を聞いたカールは、苦笑して告げる。

 

「これは城じゃねえよ。宮殿だ、宮殿。と言っても今は使ってなくて博物館になってるがな」

 

「それにしたって、小さすぎやしませんか?」

 

「入れば分かるよ。さあさあ入った入った」

 

 リーナは半信半疑だったが、アイリスが強く背中を押すので、仕方なく入っていった。すると入り口を抜けるとすぐに下に降りる螺旋階段があった。きょとんとしながらそこを降りていくと、リーナは先ほどの認識を改めることとなった。

 

「わぁ」

 

 思わずリーナは、感嘆し息を飲んだ。というのも、階段の先には淡い(みどり)の輝きを放つ、磨き上げられた水晶で壁と床が形作られた廊下が見えてきたからだ。

 

「なかなかすごいだろ。これ、世界水晶の一部を使って作ったんだぜ。と言っても大々的に切り出したんじゃなくて、かけらを魔術で増やしただけなんだがな。当然そんなことすりゃ世界水晶としての機能は失われたも同然だが、こうして綺麗な装飾ができるんだよ」

 

 カールは廊下を歩きながら、いつになく饒舌になって解説した。更にうんちくを披露していく彼に、初めのうちはリーナは感心したりしていたものの、次第に適当に相槌を打つようになっていった。その様子を見かねたアイリスが、苦笑しながらリーナに小声で言う。

 

「ごめんね。カール、こういうキラキラしたのが大好きで、特にこういうとこ来るとちょっとお喋りになっちゃうんだ」

 

「ちょっとどころじゃないじゃないですか。まだ喋ったますよ」

 

「そうだね。流石の私もそろそろうんざりしてきたかな」

 

 アイリスはそのようなことを言うと、誰も聞いていないのにひたすら喋るカールの耳を、思い切り引っ張った。

 

「あ痛っ。アイリスか。引き戻してくれてありがとうな」

 

 カールは怒鳴ることなどはなく、笑ってそのように礼を言った。彼の新しい一面が見られて、リーナはささやかな幸せを感じた。あまり好ましい面ではないが、それでもリーナの知らない彼があったというだけで、そのように感じてしまえるのだった。

 

「さて、宮殿の中の見物はここのレストランで飯食ってからにするか。もういい時間だしな」

 

 カールは懐中時計を眺めながら、二人に言った。時計の針は正午ごろを指しており、リーナもちょうど腹を空かせていたところだった。

 

「はい、私はいいですよ」

 

「私も大丈夫ー」

 

 リーナとアイリスは快諾した。それで、三人は脇目も振らずにレストランに向かった。レストランは宮殿の食堂をそのまま流用したもので、かなりの広さを持つ。そのおかげで、昼ということもあって結構な数の人が来ていたものの、正午にしては人が少なく見えた。

 史跡に附属しているものということもあって大衆向けなレストランのようだが、それでもリーナが名前しか知らないような料理の名がずらりと羅列されていた。例によって地球にあるものと全く同じだったが、それについてはカールの言葉を思い出して強引に己を納得させた。

 

「ひょっとして、料理が分からないの?」

 

 メニューを凝視するリーナに、アイリスは首を傾げながら訊いた。リーナは小さく頷いて、メニューで顔を隠しながら答えた。

 

「恥ずかしながら、こういう店に入ったことも料理も食べたことが無くて。S=W=Eで食べてたのは効率重視の、他のどの世界にも無いような合成食料で、学園の学食を使ってた頃もS=W=E向けのメニューでそればかり食べてましたし。ジュリアが作る料理も和食ばっかりでしたから」

 

「じゃあ何が食いたいとかも分からんわけだな。俺のと同じのでいいか?」

 

 カールの提案に、リーナは深く考えずに了承した。そうしてカールが注文したのは、横幅は30センチメートルくらいありそうな、厚いステーキだった。

 

「じゃ、いただくとするか」

 

 早速カールは運ばれたステーキに手を付けようとするが、リーナはナイフとフォークを握ったまま固まっていた。使い方が分からなかったのだ。正確に表現するなら、又聞きで知ってはいたものの、それが正しいかどうか自信が無かった。それを見たカールは、豪快に食べにいこうとしていた手を止めて、リーナに声を掛けた。

 

「おい、リーナ。それはこうやって使うんだよ」

 

 カールは作法通りにナイフとフォークを使ってステーキを切り分けると、それをおもむろにリーナの口元へ伸ばした。

 

「はい、あーん」

 

 その動作の示すことに、リーナは恥ずかしさで消え入りたくなった気分になった。その反応を見たカールは、嬉しそうににやにやしていた。まるでリーナの心を見透かしているようだった。確かにリーナは恥ずかしく思ったが、反面、このような普通の恋人がするようなことに憧れていたことも事実だ。それで、リーナは思い切ってその肉に食らいついた。程よいかみごたえに加え、肉汁が口の中に広がる。これまで、和風の肉料理なら何回か食べてきたが、それらとは違う知らない食感に、リーナは軽く感動していた。

 

「おお、気持ちよくいくねえ」

 

 アイリスは口笛を吹いて、リーナをからかうように言った。リーナは敢えてその言葉を無視して水を飲むと、照れ隠しでカールに言う。

 

「意外でした。カールのことですから、食べられればなんでもいいとか言うと思ったのに」

 

「そりゃ、リーナはくそ真面目だからな。そんなこと言ったらちゃんと教えてくれって言うだろ?」

 

 彼の言葉に、リーナは幸せが胸にこみ上げた。彼は何気なく言ったつもりであろうが、彼にぞっこんなリーナにとってはその気遣いは天恵と表現してもいいくらいのことであった。しかしそのことを表に出す気は無く、平静を装って、ぎこちない手つきでステーキを食べ始めた。

 そうして場の空気が一度リセットされたのを見計らってか、アイリスは自分からカールの方に顔を向け、目を閉じて大きく口を開けた。カールがそこに、リーナにしたように肉を放り込むと、アイリスは心底幸せそうにそれを咀嚼する。

 

「んー、ヤミー!」

 

 そのようなことを言いつつ、アイリスもステーキを切り分けると、今度はカールにその切り分けた物をフォークに刺して差し出した。彼はそれに躊躇うことなく、当然のように食らい付き、じっくり噛んでから飲み込んだ。この二人のやりとりは、リーナの目から見て完全に慣れたやり取りに思えた。それは当然のことではあったが、リーナはどことなく敗北感を覚えてしまう。しかし、それは決して負の側面のみ持つ感情ではなかった。元々二番目に甘んじることは織り込み済みであるし、何よりむしろ、時が経てばこのくらいのことがカールと息を吸うように出来るかもしれないと考えられ、前向きな気持ちになるのであった。

 

        ***

 

 一行は宮殿の見物を終えて、それから所々に寄り道して港に戻った時には、既に日が暮れようとしていた。港のゲートでは、カールとアイリスの二人と、柵を挟んで迎えのナイアと現像された記念写真を大事そうに抱えたリーナが向かい合っていた。

 

「じゃあ、名残惜しいですけど、今日はまた」

 

「ちょっと待ちな。リーナ、こっちに寄ってくれ」

 

 立ち去ろうとしたリーナを、カールは自然に呼び止めた。特に疑いを持たないような様子で駆け寄って来た彼女の顎を軽く上げて、一秒ほどではあったが、彼女の唇にキスをした。

 

「な、な、な、何をこんな、公共の場で!」

 

「別れのキスってやつだよ。じゃあ、俺たちは軍の用事があるから、また今度な!」

 

 カールはそう言いつつ、アイリスの肩を抱いて踵を返した。その振り向きざまに、リーナの「もう、馬鹿!」という怒鳴り声と、ナイアの憐れむような視線が背中に刺さった。カールはそれらに気づかぬふりをし、しばらく手を振りながら歩いていた。しかし、やがて彼女らの死角に入ったと思しき所でそれをやめ、用意していた車に乗り込んで軍の駐屯地に向かった。

 

「カール、巨神はやる気になってる。これまでで一番だよ」

 

「そりゃ、この上ない大役だからな。やる気にならなきゃおかしいさ」

 

 カールは車を運転しながら、アイリスの言葉に答えた。

 

「大役って言っても、体良く私たちを巨神ごと抹殺したいだけっぽいけどね」

 

 アイリスは冗談めかして言ったが、その言葉は真実だ。二人に出された命令は、作戦の発動と共に書類上はカールとアイリスは軍籍を失い、その状態で、碧き巨神を用いて青の世界水晶を強奪せよ、というものだった。軍籍を失うのは、失敗した際に「どこかの馬の骨が勝手にやった」と言い張るためだというのは、二人にはすぐ理解できた。そしてそれ以上に、失敗の暁には証拠隠滅のために自害しろ、という意味を含んでいることは明白だ。その言い訳も通じるのは一度きりであるのは自明の理である。つまりこれが、正真正銘の最後のブルーフォールなのだ。

 そして、その裏で今の上層部が何を考えているかも二人は理解している。二度のブルーフォールの失敗で、グリューネシルトの上層部は穏健派ばかりとなった。そのような状況で、巨大兵器を使える旧体制側の人間、つまりカールとアイリスは邪魔なことこの上ないということである。カールとアイリスから巨神を没収しようにも、巨神はアイリスの意思ひとつで動く。例えアイリスにそのようなつもりがなくとも、巨神自体も自我を持つため、巨神が勝手に暴れるという可能性もある。それで、最後のブルーフォールという餌でカールとアイリスを釣って戦死させようというのだ。成功したら成功したで、彼らにとっても祖国が助かればそれはそれで良いので、救国の英雄ということにするつもりなのだろう。

 カールとアイリスはそこまで裏を読んでも、作戦を遂行することに抵抗は無かった。結果がどうなろうと、どのような裏があろうと、祖国を救う最後の機会であることには変わりない。それだけで、ミロクに拾われて以来ずっとグリューネシルトに殉じることを究極の目標として生きてきた二人には、作戦を遂行する意義は十分だった。

 

「でもさ、本当に良かったの? 今夜にはもう作戦だっていうのに、リーナに会っちゃってさ」

 

「だからこそだよ。これでもう何も悔いは残ってねえ。例えあいつが俺らの前に立ちはだかっても、躊躇うことなくブチ殺せるさ」

 

 カールはそう答えながら、ハンドルを握る手に力を込めた。アイリスは、それでこそ特務隊のエース、カール・ヘスだと、前を見据えながらその肩に手をそっと乗せた。

 

        ***

 

 校門近くでナイアと別れた直後、リーナの、軍用ではない、青蘭島に来てから買った方の携帯電話に着信が入った。メルティからだった。リーナは、あの日からは彼女と話すどころか、会いもしなかった。それで後ろめたさを感じながらも、恐る恐るその電話に出た。

 

「メルティ? どうしたんですか?」

 

「ちょっと、新しいOSを開発したから、そのシミュレートをお願いしたいんだ。私の方で出来ることはやったから、リーナにどんな感じか試してほしい」

 

 特段、メルティがリーナに怒っている様子はなかった。そのことに安心しつつも、その内容には疑問を覚えた。普通、新しいOSを開発したなら、一旦EGMAに報告して、それからテスト隊によるデータ取りの後、リーナたちのような実戦部隊でのテストという順序を踏むはずである。ところが、新しいOSの話など、毎日軍の情報に目を通しているリーナでも知らないことであった。

 そこで、リーナは彼女が反EGMA派の人間であることを思い出した。そして、リーナの立場は彼女と近しい。

 

(そろそろ行動を起こすつもりなんですね、メルティは)

 

「分かりました。すぐに行けばいいですか?」

 

「うん。出来るだけ早くお願い」

 

 メルティがそう言ったその時、リーナは、それまでのデートに浮かれていた気持ちから、軍人としての気持ちに完全に入れ替わった。今の服装も忘れて、リーナは格納庫へ走っていった。そこに入った時、メルティは彼女のゴシックロリータに一瞬だけ目を丸くしたが、特に何も言わなかった。彼女はそのままパイロットスーツに着替えると、シミュレータの筐体に入った。

 

「リーナ。とりあえず、シミュレートする機体はL型にしといたからね。最初は違和感を感じると思うけど、頑張って」

 

 リーナがそれに入るや否や、メルティはそのように言った。リーナは何のことかと聞こうとしたが、OSの起動画面を見て、そういうのも無理はないと思った。起動画面に「Supported by EGMA」の文字はおろか、それに類する文言も一切現れなかった。

 

「EGMAのサポートは一切無しですか。なるほど、これは確かに一筋縄ではいかないかもしれませんね」

 

 リーナは、そのシミュレータで着地や飛行、歩行などの簡単な動作から、模擬戦闘まで、一通りのものをこなした。はじめのうちは、新OSの方でもある程度のサポートはしてくれるものの、EGMAからのものに比べれば全く足りなかったため、三年弱の間、ジャッジメンティスのパイロットとして従事してきたリーナでも苦戦を強いられた。とはいえ、それは自分なりにやりやすい動作を自ら開発して、型に決して嵌らない動きもできるということでもあり、二、三時間程だった頃にはリーナは完全に使いこなせるようになっていた。

 

「使えば使うほどパイロットに馴染む、いいOSだと思いますよ。ただ、これは玄人向けですね。コクピット内でのどの操作がどう機能するかを、従来のOSでは死に機能と化してるものまで熟知していないと使いこなせませんし、パイロットの勘も重要になります」

 

 リーナは筐体から降りると、すぐにメルティに率直な感想を告げた。それを聞いた彼女はほっと胸を撫で下ろしたように息をついた。

 

「リーナが使いやすいなら良かったよ。付き合わせちゃって悪かったね。機体の方のOSもこっちにしとく?」

 

「そうですね。一旦こっちに慣れるとなかなか抜け出せそうにないですし、お願いしたいです。でも、軍規的には大丈夫なんですか? 勝手にOSの換装なんて」

 

「大丈夫だと思うよ。ある程度好き勝手やっていいって言われてるし、そもそもリーナたちのジャッジメンティスを改造したのだって無許可だったし」

 

 メルティは軽い調子で言った。リーナはどことなく釈然としない思いだったが、許容することにした。

 

「早速換装しとくよ。さっきのシミュレーションのデータも移しとくね」

 

「よろしくお願いします」

 

 リーナがそう言うと、メルティはL型のコクピットに乗り込み、シミュレータとL型に内臓されているコンピュータを繋ぎ、備え付けのキーボードを叩き始めた。

 その様子を尻目に、リーナはシミュレータの筐体にもたれかかった。リーナの脳裏には、今こうしてパイロットスーツに身を包んでいる己と、つい日中にカールとデートしていた己の姿が、交互に映し出された。どちらの姿もリーナであることは変わりない。先程のシミュレーションの感覚を思い出すのも、デートでの幸福感を思い出すのも、どちらも同じ脳だ。しかし、どうにも不慣れな感覚だった。ずっと前者の己しかリーナは知らなかったのだが、後者の、ただ純粋にカールを愛する自分には、抵抗感すらあった。

 

「成長、なのでしょうかね、これは」

 

 13歳でジャッジメンティスのパイロットとして抜擢されてからジュリアに出会うまでずっと、リーナは張り詰めた空気の中で生きてきた。その中では当然、恋愛にうつつを抜かす暇などは無かった。しかし、今年の四月に学園に入学して初めて、15の時には既に恋を経験した者が多いと知った。リーナが他の者たちに対して経験していたのは社会経験だったが、そのようなものはリーナにとっては学園生活に何の意味も為さなかった。軍では、大きな戦闘の際には、気がついたら同僚が死んでいたなどということは日常茶飯事だった。おかげで、まともに付き合いがあった家族以外の人間は、幼馴染のメルティだけだった。シノンはよく話しかけてきたが、アンドロイドであるそれとは友達になる気は毛頭なかった。そのような状況と全く違う学園生活は、周りからは大人びていると見られていたが、当のリーナにとっては困惑だらけであった。

 リーナがジュリアと絡もうと思うようになったきっかけは、たまたま見た彼女の顔がリーナと同じものを湛えているように見えたことだった。ロマンチックな単語を使えば、運命を感じたのだった。この選択は正解だった。リーナとは正反対な、ざっくばらんな彼女との同棲生活は刺激にあふれたもので、メルティではない、友達との付き合い方を教えてくれた。

 そしてカールと出会い、今となっては恋人という中にまで発展した。軍人という社会人である今になって、幼馴染以外の親友を作り、人に恋をするというのは遅すぎる気がしたが、同時に学生である今を逃せば、次は無いだろう。

 そのように思考して、リーナは何だかんだで今の状況も悪いものではないと結論付けた。乙女な自分も紛れもなくリーナ=リナーシタ本人であると、そう思うことにした。

 

「リーナ。OSの換装、終わったよ。実機試験は明日にでもやりたいと思うけど、どう?」

 

 降りてきたメルティが、缶コーヒーをリーナに投げながら話しかけてきた。リーナはそれを受け取り、一口飲んでから彼女に答える。

 

「そうですね。今のところ明日に予定は入ってませんし、構いませんよ」

 

「じゃあ決まりだ。ああそれ付き合ってくれたお礼だから、後でお金とか持ってこなくていいからね」

 

「分かってますよ。ありがたく頂戴します。と言っても、もう一口飲んでしまいましたけどね」

 

 リーナが軽く微笑みながら答えたその瞬間であった。けたたましい警報が学園中に鳴り響いたのだった。またそれと同時に、パイロットスーツに付属のヘッドセットに、アルフレッドから通信が入った。

 

「リーナ、今格納庫にいるなら丁度いい。すぐジャッジメンティスで青の世界水晶の部屋に向かってくれ。何者かがそこに侵入した」

 

「了解です中尉。敵の数は?」

 

「不明だ。大きな影が監視カメラに映った瞬間、監視カメラだけでなく備え付けのセンサー類全てが破壊された。外からも観察できず、扉も遠隔操作で開けられない状況だ。だから、ジャッジメンティスの亜空間跳躍で突入する他ない」

 

 リーナはコクピットに向かって走りながら尋ねるが、彼女に答えるアルフレッドの声は、気難しいものだった。彼の声の調子に緊張感を覚えながらも、リーナはコクピットに入ると、ほとんど感覚でコマンドを入力した。

 

「了解です。ワームホール接続良好、跳躍ルート固定。亜空間跳躍、開始!」

 

 リーナのその声と同時に、L型が世界水晶の部屋に亜空間跳躍で瞬間移動した。

 

(ジャミングされていますね。しかもかなり強力な。OSを換装していて正解でした)

 

 リーナはメルティに感謝しつつ、注意深く索敵する。するとすぐに、かつて戦場で一度相対した、淡く碧く光る、ひとつの巨体を発見した。

 

「あ、あの機体は!」

 

「その声、それに乗ってるのはリーナだな。どけと言ってどくお前でもないだろ。悪いが本気で殺しにいかせてもらうぞ」

 

 昼の、優しかったものとはまるで違う、殺気のこもったカールの声がリーナの脳内に直接響いた。そして、次の瞬間、碧き巨神は召喚した剣を構え、猛然とL型に迫ってきた。

 

「やるしか、ない!」

 

 リーナも覚悟を決め、L型の脛のブレードを取り外して両手に持たせ、巨神の剣を受け止めた。そしてそのままブースターを点火して世界水晶を背にし、鍔迫り合いに入る。ふたつの刃が、互いの激情を体現するかの如く火花を散らす。

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