偽典アンジュ・ヴィエルジュ【刻】   作:黒井押切町

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愛の刻印

 鍔迫り合いを避けようとするカールとアイリスに対し、リーナは執拗なまでにそれを仕掛けた。世界水晶を背にしている限り、リーナはカールたちに対して有利を取れた。二人の目的が世界水晶の強奪であることは自明だ。そして、それを緑の世界の復興に使う以上、傷を付けるわけにはいかないはずだ。

 

(世界水晶を盾にとり、こうして鍔迫り合いを続ければ、そのうち冷静さを欠くはず!)

 

 リーナはその魂胆のもと、カールが距離を取った瞬間、またそれを詰めようとブースターを噴かした。しかし、突如巨神の装甲が開き、そこから無数のミサイルが見えた。それを見た瞬間、リーナの脳裏に前回の戦闘でそのミサイル攻撃でL型が大破した記憶が蘇った。それで思わず、その射線から逃れようと方向転換するために、突進の勢いを落とした。その刹那、ミハイルが再び隠されると同時に逆に巨神の方がL型に突撃を始めた。

 この行動に、リーナは対処が遅れた。巨神の剣が、左切り上げでL型のコクピットを正確に狙う。

 

「ちぃっ!」

 

 手動入力では間に合わないと悟ったリーナは舌打ちを漏らしつつ、異能を使ってL型に右腕のパイルバンカーの杭で剣を受け止めさせた。そして余った左腕は、ブレードで斬りつけても根元で斬ることになるような間合いだったので、それを手放してパイルバンカーで巨神の右肩を突こうとする。しかし、杭が巨神の装甲に触れる前に、巨神がL型にタックルをし、無理矢理その攻撃を止めた。そして、逸らしていた太刀筋もリセットされる。

 リーナがL型の体勢を立て直す前に、巨神の剣が一閃、下から切り上げてL型の両腕の肘から先を断った。

 

「しまった!」

 

 リーナは思わずそう漏らした。その間にも、巨神の剣撃は止まらず、次はコクピットを狙って真っ直ぐに突こうと構えた。対し、リーナはジャンプしてそれを避けようとした。しかし、コクピットへの直撃は避けたものの、その剣は右の大腿部に突き刺さった。リーナは咄嗟にそれをパージするが、左脚のみでは姿勢制御ブースターを用いても地上ではまともに動けるはずもない。事実、リーナが悪あがきでブースターを噴かすも、L型の機体は仰向けになって倒れてしまった。そこに、巨神の剣が再びコクピットに迫る。

 その瞬間から、リーナには全ての動きが鈍く見えた。目の前の敵機に乗っているのはカールだ。愛する者を殺すよりは、愛する者に殺される方が、幸せに決まっている。リーナの理性はそのように考えた。操縦桿を握る手も弱めた。しかし、いざ操縦桿から手を離そうとした時、リーナは激烈なまでの気持ち悪さを感じた。それからのことは、リーナはまるで自分の行動が、神の視点から見えているようだった。

 

「ジャッジメント、ビィィィィム!」

 

 巨神の剣先がコクピットに触れようかという時、リーナはそう叫んでいた。その声とともに、背面のブースターを噴射しながら、L型の額から青白い破壊光線が放たれる。そして、その光で巨神の両腕を薙いだ。

 更にリーナは獣のような雄叫びを上げながら、L型に残った全てのブースターを駆使して強引に左足の裏を壁に付け、それから左脚の関節をバネにし、ブースターも使ってそこから機体をブーメランのように回転させながら巨神に飛ばし、左の爪先のブレードで、巨神の腰を叩き斬り、真っ二つにした。その衝撃で、L型の四肢で唯一残った左脚も関節が砕ける。そして巨神の上半身が床に落ちると同時に、L型の機体も床に叩きつけられた。

 

「カール、カール!」

 

 リーナはL型が床に落ちた瞬間に我に帰り、コクピットを出て巨神の上半身に遮二無二走っていった。リーナが巨神のコクピットハッチと思しき部分をこじ開けると、そこには前部座席にカールが、後部座席にアイリスが、唖然とした様子で座っていた。幸いなことに、二人に目立った怪我はなかった。

 

「カール! アイリスさん!」

 

 リーナが二人を大声で呼ぶと、彼らは一様に彼女を見た。そしてそのうち、カールが大きくため息をつき、清々した表情で呟く。

 

「やれやれ、俺の、いや、俺たちの負けだな。まあでも、裏切り者無しで負けたなら、納得のいく負け方だ」

 

 カールはそう言うと、後ろに手を組んで大きく体を伸ばした。

 

「なんだかんだで、いい人生だったぜ。これも神の思し召しか、最後に戦った敵がお前なら、最高の死に水だ。なあ、アイリス」

 

「うん、私も、カールと共に死ねるんだ。本望だよ」

 

 カールとアイリスは、落ち着いた様子で、穏やかに言った。しかし、リーナには、唐突に湧いて出た二人の死という事柄に、理解がついていけなかった。

 

「どういうこと、何を言ってるんですか、二人とも」

 

「失敗したら自害しろって命令されてんだ。巨神がなきゃ俺ら二人じゃ世界水晶なんか運び出せないからな。負けたってのはこういうことだ」

 

「今の上は私たちを煙たがってたみたいだからね。ま、それでも大役を任されて軍人として死ねるのだから、私たちは本望だよ」

 

 二人はまるで普段の雑談のように言う。リーナは、二人の態度には、一応納得できた。二人のように軍に全てを捧げた軍人なら、命令に不満などは持たず、死ねという命令にも素直に従えるというのは、軍人生活が数年しかないリーナにもよく分かっていた。しかし、軍人としてのリーナは許しても、乙女としてのリーナは、どうしてもそれを許すことができなかった。

 

「ふざけないでください! 二人だけ満足して、私を残して死ぬなんて! そりゃ、軍人なら命令には従うのが義務だなんてことは分かってます! でも、私は嫌なんですよ! どうせ死ぬなら、私に何かを残して死んでください!」

 

「分かったよ。何が望みだ?」

 

 リーナの剣幕に気圧されたのか、カールは驚くほど素直に受け入れ、そのように尋ねた。その問いを聞いた瞬間に、リーナは衝動的にパイロットスーツを脱ぎ、裸を彼に晒した。そして、自らの行動に驚きつつも、リーナはそのおかげで己の素直な望みに気がつくことができた。

 

「子供が、あなたの子供が、欲しいです」

 

 リーナは赤面しながら、消え入るような声で告げた。カールは目を丸くしていたが、彼女が本気であることを理解したらしく、真剣な表情で尋ねた。

 

「分かった。だが、邪魔は入らないか?」

 

「備え付けのセンサー類は全て機能を停止しているのは今も変わりませんし、それにこの部屋にジャッジメンティス並みの巨大兵器が3機も暴れられる余地はありません。まだ戦闘中ということにしておけば大丈夫ですよ」

 

「そうか、なら、人生最後の大仕事を始めるとすっか」

 

 カールはそう呟いて、服を脱いで全裸になった。彼の筋骨隆々な肉体と、大きくそそり立った彼のペニスに、リーナは目を奪われた。その隙に、カールはリーナの唇を奪い、舌を絡めてきた。驚きながらもリーナもそれに応じ、たどたどしい感じになりながらも、懸命に舌を動かした。

 

「はは、リーナ、今すげえエロい顔してるぞ」

 

 ディープキスを終えると、カールがからかうように言った。しかしリーナはそれに不快感を示すようなことはなく、自分の体を抱きながら言う。

 

「性的な興奮とは、こういうのを言うんですね。すごくドキドキして、体の奥が疼いて」

 

「ウブだな、本当に」

 

 カールはリーナの頭を撫でる。そうしながら、顔は向けず、声だけでアイリスに話しかける。

 

「アイリスも混ざるか?」

 

「リーナがいいなら、そうしたいかな」

 

「お願いします。その、初めてだから不安ですし」

 

 アイリスの言葉に、リーナは即座にそう答えた。すると早速、アイリスも服を脱いで、その引き締まった肉体を露わにした。

 それからの数時間、リーナは淫靡の海の底に溺れていた。体中を快感が駆け巡り、新たな境地に至ったような感覚だった。媚薬を使ったかのように激しく乱れ、その上これまで発したことのない嬌声で喘ぎ続け、最後には肌を殆ど汗で濡らしていた。

 

「ふう、これで最後だ」

 

 その言葉で、全てが終わった。リーナはカールから離れ、パイロットスーツを改めて着直す。

 

「それにしても、良かったのか本当に。妊娠なんてしたら、学校は退学になるだろうし、軍籍も危ないだろ」

 

 カールも服を着ながら、心配そうに尋ねた。リーナは乱れた髪を手櫛で整えながら、下腹部をさすりつつ答える。

 

「大丈夫ですよ。退学しても、あなたの子供を育てるという生きがいがあれば、私は生きられます。それに、これまで使わなかった給料が山ほど残ってます。子供一人育てることなんて、わけないですよ」

 

 リーナは涙を堪えて笑ってみせた。もうじき別れの時だ。二人が見る最後の自分の顔を、泣き顔にはしたくなかった。

 

「リーナ、これあげるよ」

 

 アイリスはそう言いながら、彼女が首に巻いていた黒革のチョーカーを外して、リーナの首に巻き、バックルを締めた。

 

「似合ってる。可愛いよ、リーナ。カールもそう思うでしょ?」

 

「ああ。しかし困ったな。ああいう形に残るので俺が渡せるのが無い。いや、あるな」

 

 カールは何かを思いついたように言うと、急にその左の眼窩に手を突っ込んだ。そして左眼を取り出して、リーナに差し出してきた。リーナはそれを冷静に見ると、義眼であることに気がついた。

 

「これやるよ。ただの義眼じゃなくてちょっとした仕掛けがあるんだが、今説明してる暇はないからそっちで機能の解析をしといてくれ」

 

「ありがとうございます」

 

 リーナは素直に礼を言い、義眼をポケットに入れた。

 

「では、これで」

 

「ああ。じゃあな」

 

「ばいばいね、リーナ」

 

 三人が言葉を交わした直後、リーナは涙で歪みそうな顔を無理矢理笑顔にして、巨神のコクピットから出て、L型のコクピットに戻った。別れざまに見えた二人の笑顔は、身震いするほどきれいなものだった。

 コクピットのシートにリーナが着くとすぐに、巨神の中でふたつの大きな生体反応を示していた部分から、それが消えた。それが意味するのは、たったひとつだけだ。カール・ヘスとアイリス・ヘスの死、それ以外に他ならない。そのことを悟った刹那、リーナは絶叫した。涙は堰を切ったように両の瞳から溢れ出る。悲哀に胸が押し潰され、幼子さながらに、また押さえきれずに壊れたように、泣き喚く他なかった。

 

「なんで、なんで私がこんな。カールが、私が何をしたんですか。残酷すぎます。初めて人並みのささやかな愛を覚えたばかりなのに、これから幸せになれると思ってたのに、どうして」

 

 リーナがようやく絞り出せた言葉は、運命に対する恨みだった。しかし、その言葉が誰かに聞かれることはない。ただただ、空に霧散するだけだ。だが、今の気持ちを口に出来たおかげで、リーナの心に露ほどの余裕ができた。

 目の前の巨神の残骸とカール、アイリスの遺体は、学園に渡してはならない。リーナは、不思議とそのように考えた。そうとなると、やることはひとつだった。彼女は携帯電話を取り出し、祈る思いでジュリアに電話をかける。すると、今は深夜にも関わらず、すぐに繋がった。

 

「今から、今私がいるところまで、誰にもばれずに来られますか?」

 

「その声、加勢してくれって頼みじゃないわね。すぐ行くわ」

 

 その言葉を聞いて、須臾の間にジュリアが現れた。その姿を見たリーナはL型から降り、衝動的にジュリアに抱き着いた。

 

「ジュリア。カールが、カールが」

 

「流石の私にも、死人を蘇らせることは出来ないわ」

 

 ジュリアは一瞬だけ巨神の方を一瞥し、震える声で答えた。それに対し、リーナは少しだけ落胆したが、それを気取られぬように応答した。

 

「大丈夫です。それは望みませんから。あの巨神を引き取って、カールとアイリスの、遺体を統合軍に引き渡して欲しいんです」

 

「分かったわ。でも、どう誤魔化すつもりなのよ」

 

 ジュリアにそう問われ、リーナは詰まってしまった。このような兵器は回収するのが常であり、忽然と消えたとなれば、当然疑われることとなる。

 

「まあ、今回は私が何とかしてあげるわ。あなたはもう帰って寝なさい」

 

「はい、そうします」

 

 リーナは力無く返事をして、コクピットに戻り、格納庫に亜空間跳躍した。今、リーナには何かを考える余裕は無かった。とにかく休みたい。胸中にあるのは、その思いだけだった。

 

「リーナ、終わったんだね。大丈夫だった?」

 

 格納庫に着いてすぐ、メルティがコクピット前の足場で出迎えた。リーナはコクピットから出ると、彼女の顔を直視せずに、その側を通る。

 

「大丈夫です。報告はいつ済ませればよいでしょうか」

 

「隊長が、報告は数日後でいい、今日はもう休んでって言ってたよ」

 

「了解です」

 

 リーナは一旦立ち止まって敬礼をしてから、踵を返し、脇目も振らずにパイロットスーツのまま己の部屋に戻った。そしてベッドに倒れ込むと、そのまま引き摺り込まれるように、彼女は深い眠りについた。

 

        ***

 

 翌日になって分かったのは、昨夜の出来事は学園側の上層部によって無かったことにされたということだった。事情を知らぬアルフレッドは生徒の対G・S(グリューネシルト)感情をこれ以上悪化させないためだろうかと言っていたが、ジュリアがリーナに明かしたことには、以前彼女がゆすった上層部の人間に掛け合って、カールとアイリスの遺体を統合軍に返還し、巨神の所有権を彼女が持つことになったということだった。

 風紀委員会の仕事を全て済ませた放課後、リーナは職員室から退出して、風紀委員会の教室に向かっていた。職員室で行ったのは、生徒議会の一年生代表と風紀委員会の辞任書類の提出と、腕章の返却だった。風紀委員会の教室に行くのは、その報告のためだった。

 今、彼女の首には昨夜アイリスから貰い受けたチョーカーが巻かれている。この程度のファッションなら普通は黙認されるが、風紀委員となると好ましくない。無論、辞めるのはこのチョーカーを着けるためだけではないが、理由のひとつではあった。大きな理由は、単純にやる気が無くなってしまったからだった。カールの死が落とした影に、かつて使命感に燃えていたリーナは完全に飲み込まれてしまっていた。

 

「失礼します」

 

 リーナが教室に入ると、ちょうど風紀委員長がそこにいた。彼女はリーナが着けているチョーカーや、腕章の無い袖をまじまじと見ていた。その仕草を見て、リーナは冷めた口調で彼女に告げる。

 

「今日付けで、風紀委員会を辞めることにしました。もう辞退書類の提出も、腕章の返却も済んでいます。これまでお世話になりました。では、これにて私は失礼します」

 

「ちょっと待ってよリーナ。急すぎるよ。あんなに真面目だったのに、どうしたの?」

 

 委員長が慌てた様子で去ろうとしたリーナを呼び止めるが、当の彼女は足を止めずに、ゆっくり歩きながら答える。

 

「やる気が無くなった。ただそれだけです」

 

 リーナはその言葉を言い終えると同時に、教室を出てドアを勢いよく閉めた。それから寮に向かって歩いていると、偶然、向かい側から美海らが歩いてくるのに気がついた。彼女らの方もリーナに気づいたようで、リーナに近づいてきた。

 

「リーナちゃん、今日で生徒議会を辞めるって聞いたんだけど、本当なの?」

 

「本当ですよ。今までありがとうございました」

 

 美海の問いに、リーナは淡々とした口調で答え、形式的な礼を言った。しかし、美海は納得がいかないようで、問いを重ねてきた。

 

「やっぱり、昨日の夜に何かあったの?」

 

「どこまで知ってるんですか?」

 

「侵入者があって、その対処にリーナちゃんが出たってくらいしか。先生には出来るだけそのことを口にするなって言われたし、何か大変なことがあったのかなって」

 

「そうですか。では当事者としてお願いをします」

 

 リーナは、そこで一呼吸置いた。まだ傷も癒えぬというのに、そこを抉られたような感覚がして、そうでもしないと掴みかかりそうになっていたためだった。美海にその意図が無いのは明白だが、それでも怒りを覚えずにはいられなかった。

 

「二度と、そのことを口にしないでください。私がいない時でも、もう二度と、金輪際。もし口にしたら、私は躊躇いなくあなたを殺すことでしょう」

 

 リーナは低い声で、美海を睨みつけて告げた。彼女の言葉を受けてか、もしくは怒気に押されてか、将又両方か、美海だけでなく、共にいたソフィーナ、ルビー、ユーフィリア、マユカも言葉を失っていた。リーナはその様を尻目に、再び寮の自室に向かって歩き出す。

 歩いている間、リーナの目には学園の何もかもが色を失って見えた。今の彼女には何も無い。昨夜あれ以上に無いくらいに情事に励んでも、彼女の胎内で新たな生命の元が出来るとは限らない。妊娠の可能性だけでは、リーナにとっては希望にもならない。

 

「ただいま」

 

 リーナは、元気無く部屋のドアを開けた。靴を脱いでそれを下駄箱に入れている間に、先に帰っていたジュリアが出迎える。

 

「おかえり、リーナ。大丈夫だったかしら?」

 

「ああ、大丈夫ですよ。生徒議会と風紀委員は辞めましたが、そのおかげで少し気が楽になりましたから」

 

 リーナは未だ胸に疼く苦しみを誤魔化すように笑ってみせた。その笑みの裏で、彼女は昨夜のことを話すかどうか悩んでいた。ジュリアは昨夜の襲撃で何があったかは大体は予想できたはずだが、リーナがカールと体を重ねたことは知る由も無い。

 リーナは、取り敢えず話して不利益を被ることはないだろうと思った。ジュリアが誰かに暴露するとも思えず、またそのことを否定せずに理解を示してくれるだろうと考えたからだった。

 

「ジュリア、その、私、昨夜、カールとセックスしたんです」

 

 リーナは意を決し、極度に緊張しながら告白した。その言葉を聞いたジュリアは、流石に驚いたのか目を丸くしたが、すぐに表情を和らげた。

 

「そう」

 

 ジュリアは短く、簡素に答えた。しかしその調子から、彼女のその返事が心のこもったものだと、容易に理解できた。

 

「妊娠してたらいいなって思います。そうなったら退学は間違いなしでしょうけど、生き甲斐はできます。そっちの方が断然いいです」

 

 リーナがそう告げた時、ジュリアの表情が一瞬、陰ったように見えた。

 

「どうかしましたか?」

 

「いや、その」

 

 珍しく、ジュリアが返答に窮していた。彼女は暫く口ごもっていたが、やがて耐えかねたようにポツリと漏らした。

 

「私じゃ、ダメなのかしら。私は、あなたの生き甲斐にはなれないの?」

 

「ジュリア?」

 

 ジュリアは涙を溜めていた。彼女の涙は初めて見る。思いもよらなかった事態に、リーナは困惑を極めた。

 

「私には好きな人がいて、その人はまだ生きている。だから、私の存在があなたを傷つけてしまうかもしれないわ。でも、あなたを愛する友として、私を、あなたの生きる頼みにして欲しいの。次の生き甲斐が見つかるまででいいから」

 

 ジュリアはそこまで言うと、ハッとなってリーナから目を背けた。そして自分で涙を拭うと、落ち込んだ様子で項垂れた。

 

「ごめんなさいね。泣いたり我が儘言いたいのはあなたでしょうに、私がこんなのになってしまって」

 

「そんな、私は痩せ我慢してるだけです。それよりも、私はジュリアの中で私がそこまでの存在だってことを知れただけでも、嬉しいです。もし、私が妊娠しなくても、ジュリアが側で支えてくれたら、私は生きていられます」

 

「なんだか、釈然としないわ。リーナに慰められるなんて」

 

 ジュリアは、頬を膨らませてリーナから顔を背けてしまった。その彼女らしさも残す新たな仕草に、リーナは少しだけだが、口角を上げた。

 

「ジュリア、変わりましたよね」

 

「そりゃ変わるわよ。こんなに入れ込んだ友達は、他にいないもの。あなたと知り合うまで知らなかったことを知ったから、少し不安定なのよ。だからね」

 

 ジュリアは、そこで一旦区切り、リーナに抱きついた。

 

「私より先に死んだら、承知しないんだから」

 

 彼女が、リーナの耳元で囁く。リーナは彼女を安心させようと、腕を彼女の背中に回した。

 

「大丈夫です。あなたという最高の友達を残して死ねませんよ」

 

「そう。よかった」

 

 ジュリアはリーナから離れ、改めて向き合う。

 

「これから買い物に出るのだけど、一緒に着いて行く?」

 

 ジュリアは先ほどのことは無かったかのように尋ねる。しかし、声は未だ涙声だった。

 

「いえ。少し考えたいことがありますから、今回は遠慮します。でも、次は一緒に行きましょう」

 

「分かったわ。じゃ、行ってくるわね」

 

「ええ、行ってらっしゃい」

 

 リーナは申し訳なく思いながら、ジュリアを見送った。そして玄関で一人になると、リーナはおもむろにベッドに向かい、荷物を粗雑に置いてからそこに飛び込んだ。

 そして気がつけば、いつも護身用に携帯しているナイフを、鞘が抜かれた状態で手に握っていた。そして、衝動的に左腕の袖を捲り、手首を軽く切った。動脈は切っていない。流血も痛みも大したことはなかったが、不思議とストレスが軽くなった。

 

「ジュリアにはああ言いましたが、実のところはどうなんだろう。なんで生きようとしたんだろう。あの時、カールに殺されていれば、こんな苦しみは無かったでしょうに」

 

 ふと、リーナは独りつぶやいた。しかし、そのおかげでか、またストレスがぶり返してきた。それで、またひとつ、手首に傷をつけた。痛みと流れる血を引き換えに、心の苦しみが霧散していくようだった。だが、次にリーナの心に浮かんだのは、親から貰った体を傷つけたという罪悪感だった。

 

「ああいけない、こんなことじゃ。別の発散方法を探さないと」

 

 そうは言ったものの、何も上手いものが思いつかなかった。諦めかけた瞬間に彼女の脳裏に、昨夜の性的な快感を思い出した。

 

「まさか、ここまで堕ちてしまうとは思いもよりませんでしたよ」

 

 リーナは自虐しながら、服を脱いで、股間を(まさぐ)った。昨夜のものには劣るものの、リーナは確かに快感を得られた。またもや罪悪感を抱きかけたが、このようなものは誰もがやることだから気にすることはないと、何度も何度も自分に言い聞かせながら、リーナはジュリアが帰ってくるまで、ひたすらに自慰に耽るのだった。

 

        ***

 

 時は流れ、終業式を終えて冬休みに入った。結局、リーナが妊娠することはなかった。この事実はリーナの心を蝕んだ。最初の二回以来やめていた自傷行為は度々行うようになり、自慰も頻度を増した。ジュリアは献身的に支えてくれるものの、事態は一向に改善しなかった。

 冬休み初日、リーナはG・Sを訪れていた。共同墓地に埋葬された、カールとアイリスの墓参りのためであった。リーナの他にも、ランにナイア、夏菜、リーリヤとルルーナが来ていた。彼女ら五人は既に墓参りは済ませていたが、リーナはこれが初だ。埋葬自体は数週間前に為されていたものの、リーナはなかなか足を運ぶ気になれなかった。未だ、カールとアイリスの死を受け入れられなかったからだ。今こうして二人が埋まっている墓の前に立っていても、その実感は薄いものだった。

 公式には、カールとアイリスは訓練中の事故死、という形で片付けられていた。王族でいくつか特殊な権限を持つランと、特務隊所属であるナイアは真相を知っているが、今や一般人となった夏菜や、一般兵のルルーナとリーリヤは、公式発表以上のことは知らない。

 二人の死後、ここに至るまで、リーナとナイアたちは言葉を交わさなかった。正確には、すれ違ったら挨拶をする程度で、まともな会話はしなかった。彼女らがリーナを気遣っているのは分かっている。だから、一緒に墓参りをしようと、リーナから誘った。ジュリアには敢えて留守番を頼んだ。二人の仲間だったナイアたちと向き合うのに、ジュリアがいると彼女に頼ってしまいそうだと考えてのことだった。

 この日のG・Sの空は晴れていたが、風は強かった。凍てつくような冷たい風がリーナの顔を叩き、空気が乾燥しているということもあって、刺さるような痛みを感じた。

 

「ナイアさん、ラン殿下。カールとアイリスのこと、夏菜さんたちが聞いても大丈夫でしょうか」

 

 リーナは菊の花束を墓の前に置くと、重々しく切り出した。カールに死を与えた自分には、その友くらいには真相を打ち明ける義務がある。そう思っての言葉だった。ランはナイアと顔を見合わせ、それから彼女は夏菜、ルルーナ、リーリヤに顔を向けた。

 

「これから聞くことは、全て他言無用です。いいですね」

 

 その言葉に、夏菜は頷き、ルルーナとリーリヤは敬礼を返す。それを見届けると、ランはリーナに向き直った。ランが今G・Sにいるのは、墓参りという名目で一日だけ自由な時間を貰えたからだ。そのような立場である以上、ここで言うことこそ意味がある言葉を聞き届けたいという意図が、彼女の目から感じられた。

 

「これで大丈夫です。さあ、何でも言ってください」

 

「はい」

 

 リーナは一呼吸置き、徐ろに口を開く。

 

「あの時。世界水晶の部屋でカールのあの機体と対峙して、カールに殺されそうになった時です。彼に殺されるなら本望だと思ったのですが、それがすぐに、生きたいという思いに変わったんです。なぜかは分かりません。それからは無我夢中で倒して、カールの機体のコクピットで彼と繋がって。子供を欲したんです。そうすれば、生きる意味はあるだろうって。でも妊娠できなかった。唯一の頼みだったそれが出来なくて、でも自殺はしたくないんです。あの時生きたいと願って、その上カールは最終的に戦士として死にました。まだ私は何も為していないのに、その彼を追って自殺だなんて、彼に失礼だから。今は生きる意味を探すために生きている状態です。でも、一寸先さえ分からぬまま、ジュリアという杖だけを頼りに歩いている状況でもあります。いつ倒れるか、分からないんです」

 

 リーナは淀みなく、すらすらと今の自分の心情を述懐した。ランたちは彼女に対する言葉に迷っていたが、一番最初に口を開いたのはナイアだった。

 

「今のリーナの現状は分かった。あんたの望むことは、もちろん限度もあるが出来る限り何でもしてやる。なんたって、あんたはカールとアイリスの忘れ形見だ。ルルーナとリーリヤもそれでいいよな? それと、殿下もよろしいでしょうか?」

 

 ナイアの声に、ランたちは力強く頷いた。その光景を見て、リーナは感激に体を震わせていた。彼女らからすればリーナは外国の軍人でしかないのに、進んで力になろうとしている。その深い友愛は、深い闇に沈んだリーナの心に光を与える、一条の光にも思えた。しかし、リーナには結果的に二人を死に追いやったという罪悪感もあった。そのことを告げなければ、ナイアたちの好意を受ける資格もないように思えた。

 

「いいんですか? 私が、カールたちにトドメを刺したも同然なんですよ?」

 

「あの二人が亡くなったのは、穏健派の描いたシナリオによるものです。恨むべくは彼らであって、あなたではありません。それに、あなたは私や私の戦士たちの恩人です。恩を返すときは今。あなたが戦士の誇りを守ろうとしてくれたのと同じように、私たちがあなたの心を守りましょう」

 

 リーナの問いかけに、ランがはっきりと告げる。ランは微笑みをたたえながらも、その目の奥には強い意志があった。そして、ランが言い終えると同時に、リーリヤがリーナの肩を横から叩いた。

 

「私も殿下と同じ気持ちです。私たちもあなたと同じ、青蘭学園一年ですし、あなたが生きる意味を見つけるのを見届けさせてください」

 

「助けられっぱなしってのは気分悪いしね。本当のことを知って驚きはしたけど、あの二人が納得してるなら大丈夫。誰も君を責めたりなんかしないよ」

 

 ルルーナは、リーリヤが叩いた方とは反対側の肩を叩き、笑顔で告げた。そして、その眼前には夏菜が立った。

 

「私にも、リーナには借りがあるからね。君の友達として、ちゃんと利子付きで返すよ」

 

「では全員がリーナさんに対する思いを口にしたところで、昼食と致しましょう。特別に、王宮の食堂へ招待しますよ」

 

 夏菜が言い終えたところに、ランがそのように提案した。他の四人は乗り気だったが、リーナがそれを承諾しようか迷っていると、ランが目配せをしてきた。それを受けて、リーナは縦に首を振って彼女に近づいた。

 

「落ち込んだままじゃ、カールが喜ぶはずもありませんからね。行きましょうか」

 

 リーナがそう言うと、他の五人は安堵したような笑みを浮かべた。そして、一人一人、次々と歩き出す。リーナはいくらか晴れた気分で、その後を追った。

 

        ***

 

 リーナがG・Sに行っている頃、ジュリアはアルフレッドと、教員寮の彼の部屋で密会していた。リビングのソファに並んで座り、ジュリアはアルフレッドの方に身を寄せていた。外から見えぬよう、カーテンは閉め切っている。明かりはつけておらず、光源はカーテンを透けて入る、淡い陽の光だけだ。そのおかげで薄暗く、蜜月の雰囲気を醸し出すのに一役買っていた。

 

「最近の君はどうにも危なっかしい。余裕が全く無いように見える。リーナも、すっかり変わってしまった。何があったかは無理に言わなくていい。リーナの親である私には、私が能動的に何かをすることはないが、せめて君には、私にできることはないだろうか」

 

 アルフレッドは下を見ながら、いつになく深刻な表情で尋ねる。ジュリアは暫し逡巡していたが、やがて、決心し彼の胸に手を置いて、呟くような小声で告げた。

 

「好きなんです。あなたが。心から愛しています」

 

 その告白を聞いたアルフレッドは、唖然としていた。予想通りの反応だと思いながら、ジュリアはおもむろに彼の首に両腕を回した。

 

「今回はからかってませんわよ」

 

「私はもう齢五十だ。君にもっと似合う、若い男もいるはずだろう」

 

 アルフレッドは落ち着いた口調で諭すが、その顔はほのかに紅潮していた。

 

「私だって、これでもD・E(ダークネス・エンブレイス)で二百年は生きているんです。まあ、D・Eでの時の経過と、地球やS=W=Eでの時の経過は異なりますけど」

 

 ジュリアは不敵な笑みを見せた。カールとアイリスの死後、心の底からその表情をするのは、これが初めてのことであった。

 一方で、アルフレッドは複雑な表情をしていた。しかし、その顔は赤くしたままだった。ややあって、彼はジュリアから目を逸らしながら、躊躇いがちに口を開いた。

 

「正直に言って、君への恋愛感情が無いということはない。だが、死別した妻のことや、マイケルとリーナのこともある。特に君はリーナの親友だ。二人にもよく話を通さねばならぬだろうし、私の心には未だに亡き妻がいる。すぐには答えを出せんよ」

 

 その言葉の節々から、彼の真摯さはひしひしとジュリアに伝わってきた。それを受け、ジュリアは自ら彼から腕を解き、拳ひとつ分距離を置いた。

 

「分かりました。この話はやめにしましょう。でも、こうして会うくらいのことはさせて下さい。リーナが精神的に弱ってる今、あなたが唯一の、私の心の安らぎですから」

 

「そうか。そのくらいならお安い御用だ」

 

 アルフレッドが即答する。ジュリアは、その声色と態度を頼もしく思った。彼が居なければ、ジュリアはとっくに力尽きていたかもしれない。この数カ月で、ジュリアは己が弱きを強く実感していた。無敵だと思っていた自分の精神はズタズタになっていた。傷付いたリーナの世話は並大抵のことではなかった。リーナの目の届く範囲では気丈に振る舞う必要がある。しかし、その振る舞いが、愛する者を失ったリーナの望まぬものであってはならない。彼女の傷を深めない範囲で、そうしなければならぬ。このことを常に気をつけながら生活するのは、かなり骨が折れることであった。

 ジュリアは元々、気遣いができるような性格ではない。自他共に認めるように、自己中心的で我が儘なのである。しかし、一生の友と認め、その支えになろうと誓ったリーナを蔑ろにするような、非道な者でもなかった。不慣れなことへの疲労感を隠すためにより一層の努力をする。不慣れが二重になって、ジュリアの心はさながら鉄の処女に入れられているかのようだった。

 

「私は、学校で見かけたりするくらいでしか今のリーナを知らないが、家ではどうなっている?」

 

 暫く沈黙したのが堪えたのか、アルフレッドは歯切れが悪い風で尋ねた。ジュリアは正直に伝えようか迷ったが、嘘をついたところで仕方ないと思い、婉曲的に話すことにした。

 

「あの子は、私を含めて他人がいるときは影はあっても普通に振る舞っています。でも一度一人になると、悲しみに堪え兼ねたように、辛さを訴えます」

 

「そうか。カウンセリングや、精神科の医者に見せたりはしていないか?」

 

「してません。あの子が嫌がるんです」

 

 ジュリアは、そうした彼女の態度を思い出して苦々しく思いながらも、それを表に出さないように短く答えた。

 ジュリアはふと時計を見てみると、もうリーナが帰ってくるシャトルの便が、青蘭島に到着する十分前の時刻になっていた。そのことを少しだけ口惜しく思いながら、彼女はソファから立ち上がった。

 

「では、私はこれで失礼しますわ」

 

「待った。最後に教えてくれ。リーナが今、生きる糧としているものはなんだ?」

 

「あの子は今、それを探すために生きています。ですが、今の精神状態では、とても」

 

 ジュリアは、アルフレッドから目を逸らしながら答えた。対して、彼は一息つくと、顎に手を当てながら言う。

 

「わかった。今後リーナが助けを求めたら、それとなく話題を振ってみよう。私は年長者だ。年の功のある者として、若人に導きを与えるのは義務だろう」

 

「それは私からもお願いします。私のD・Eでの二百年は、人に光明を与えるほどのものではありませんでしたから」

 

 ジュリアはそれだけ告げ、瞬間移動で青蘭島の港に行った。リーナの乗ったシャトルが着くまで、あと数分だ。ジュリアはゲートの付近に立ち、ツインテールの先の方を弄りながらリーナを待つ。迎えは頼まれていなかったが、リーナを支える者として、その義務があるとジュリアは考えていた。向こうで自分がカールの死の原因のひとつだと告白するつもりだとリーナが行く前に言っていたことも、迎えに来た理由のひとつだ。

 しばらく待つと、ゲートの向こうにリーナとランが談笑しながら歩いてくるのが見えた。その光景を見て、ジュリアは複雑な気分になった。リーナがカールを殺したようなもの、というのはリーナの重荷のひとつであったから、今のリーナの様を見るに、それからはある程度解放されて談笑するような余裕が出てきたのだろう。そのことは純粋に喜ばしいことであったが、彼女が談笑している相手が自分ではなくランであることがジュリアには気に食わなかった。そのことはリーナを支える者がジュリア以外に増えたということを意味し、これまで感じてきた重圧が軽くなるかもしれないということでもある。しかしジュリアには、リーナを理解し、その支柱となれるのは自分だけだという自負があった。その自負ゆえに、リーナの隣に立つランの姿を見た途端に、どす黒い嫉妬の炎がジュリアの胸を焦がした。だが、それをリーナに気取られることだけは避けねばならない。ジュリアは、大きく深呼吸をし、その嫉妬心を胸の奥に追いやった。

 

「あ、ジュリア。迎えに来てくれたんですね」

 

 ジュリアに気が付いたリーナが、ゲート越しに話しかけて来た。ジュリアはいつもの余裕ぶった笑みを繕い答える。

 

「ええ。あなたが心配だったもの」

 

「心配してくれたんですね。嬉しいです」

 

 リーナはゲートを通過し、ジュリアに笑いかける。その笑顔は無理に笑っている風には見えない。ジュリアは彼女が素で笑えるようになったことに喜びを感じると同時に、その直接の要因になれなかったことに一抹の劣等感を覚えた。

 

「ジュリア? 何が不満なんですか?」

 

 不意にリーナがジュリアの顔を伺いながら放ったその言葉に、ジュリアは心臓を抉られたような感覚がした。

 

「そう、見えるの?」

 

 ジュリアは、恐る恐る尋ねる。気のせいかもしれない、などと言われることを彼女は期待したが、反してリーナは何かを言うでもなく首を縦に振った。その仕草を見た瞬間、ジュリアは血の気が一気に引いた気がした。どのような理由であれ、リーナの前進を好意的に捉えられなかったのは事実であり、それを彼女に気取られてしまった。このことはジュリアの自信を粉々に打ち砕くには、あまりに十分すぎることであった。

 

「あ、あ、あ」

 

 ジュリアは膝から崩れ落ちた。目眩がする。世界が回って見え、ジュリアの立場を脅かす夷狄の王女はおろか、全身全霊をかけて支えようと決意した友の姿さえ、彼女の目にまともに映らなかった。彼女を心配する言葉さえ、意味を捉えられないほどぐちゃぐちゃになって聞こえた。やがて、忽然とジュリアの視界は真っ黒になり、意識もそこで事切れた。

 

        ***

 

「ジュリア、ジュリア!」

 

 リーナは、うつぶせに倒れたジュリアの肩を叩きながら、必死に呼びかけた。幸い、ジュリアはすぐ目を覚ましたが、辺りを一通り見回すと、ハッとして目を見開いた。そして体を起こし、ふらつきながらも立ち上がった。

 

「大丈夫、ですか?」

 

 リーナが尋ねると、ジュリアは未だ意識がぼやけているのか、首を振りながらよろめいて、右手で額を押さえ、壁にもたれかかってから答える。

 

「大丈夫と言いたいけど、説得力無さそうね。でも、少し休めばまた元気になるわ。だから心配しないで頂戴」

 

 リーナは、そのジュリアの態度を見て、彼女の苦悩を悟った。精神が弱っているのは自分だけではない。目の前の、自分を支えてくれる友もまた、弱くなっているのだと。

 

「ジュリア!」

 

 リーナは、周りの人の目を気にせず、その名を叫んでジュリアの垂れていた左手を両手で包んだ。困惑するジュリアだったが、それも気にすることなくリーナは訴える。

 

「私を支えてくれるのは、本当に嬉しいです。一生、そうしてほしいくらいです! でも、そうするならありのままのあなたでいてください。気を遣わなくたっていい。私は、どんなジュリアも好きなんです! 素のあなたがいつもの我が儘でジコチューで余裕綽々なあなたじゃなくても、私はジュリアが、本当に、大好きなんです」

 

 先程こみ上げた思いの全てを、リーナはジュリアにぶつけた。リーナはこれで彼女の悩みが解消することを期待したが、ジュリアはますます表情を暗くしてしまった。

 

「それじゃ、これまで私があなたを気遣っていたのは、全て無駄だったの?」

 

「そうとは言いませんよ。気遣ってくれたことは、本当に嬉しいんです。でも、不慣れなことをしてジュリアが傷付くのは、嫌なんです。元気なジュリアと一緒に居られるだけで、私は幸せですから。私を気遣って疲労困憊になるくらいなら、前みたいに自由気ままに振る舞って、私を振り回してくださいよ」

 

 リーナは精一杯、自分の気持ちを伝えた。ジュリアの不満の種が何かは未だに分からないが、とにかく自分の本音を受け取って欲しくて、必死に捲し立てた。言い終えてからジュリアは暫く、空気を読んで黙って離れているランの方を見ていたが、やがてリーナに視線を戻して、弱々しい声で訊いた。

 

「少なくとも今の私には、以前みたいに傍若無人な振る舞いは出来ないわ。本当の私は、弱っちくて、失敗するとすぐヘタれるような、情けない女よ。今だって、リーナが苦しんでる最中なのに、あなたに励まされるようなちっちゃい女。それでも、リーナは」

 

 ジュリアはそこで一旦言葉を区切り、ランを再度一瞥してから、言葉を続けた。

 

「私を一番の友達だって、言ってくれる?」

 

 その言葉で、ジュリアが何を気に病んでいるのか、リーナはようやく分かった。ランたちが新たなリーナの支えとなったことで、ジュリアがお払い箱になることを危惧し、また彼女らに嫉妬していると、リーナは確信した。無論そのようなことは有り得ない。しかしジュリアはそうかもしれないと思っているのだ。それで、その誤解を解くためにも、リーナはこれ以上ないくらいの、満面の笑顔で答える。

 

「もちろんです。誰よりも何よりも、ジュリアという最高の友を愛しています」

 

 リーナが言い終えると、ジュリアは、左手を包むリーナの手に右手を重ねた。そして、彼女は憑き物が落ちたような安らかな笑顔を見せ、ポツリと呟いた。

 

「よかった。他ならぬリーナ本人が言うんだものね。安心したわ」

 

「これからもよろしくお願いします、ジュリア」

 

「ええ。でも、この話は一旦区切りましょ。このままじゃ、ラン殿下が私たちの間に入れないわ」

 

 ジュリアは、ランの方に目を向けた。これまでずっと黙っていたランは、ジュリアの先程からの変わりように、目を丸くしていた。

 

「え、ジュリアさん、いいんですか?」

 

「言いたいことは分かりますわ。まだ完全に吹っ切れたわけじゃないですけれど、これからは共にリーナを支える同志として、一緒に頑張りましょう、ラン殿下」

 

 ジュリアは、そう言ってランに笑いかける。リーナがその様子を見るに、一番の友達だと認めたことがかなりジュリアの救いになったようである。近頃は神経質なジュリアであるが、同時に単純でもあるようだ。

 ランはジュリアに言われても躊躇っていたが、やがて思い切ったように踏み出し、ジュリアとリーナに近づいた。リーナは、その様を見て、これで本当の意味で、自分を支える柱が増えたと実感した。しかし、心の奥に刻み込まれたカールへの愛情は、全く薄まることはなかった。

 

        ***

 

 冬休みも終わり、三学期を経て春休みに入った。三学期のリーナの学校生活は、前とは全く違うものとなっていた。同学年の者とは、夏菜とリーリヤ、ルルーナを除いては、メルティとさえ雑談はしなかった。チョーカーを着けるようになって気分も少し変わって、他の生徒のような制服を着崩したり、私服も年頃の娘らしいものを買ったりするのは当たり前になっていた。その変わりように他のクラスメイトは初めのうちは目を丸くするものの、リーナが話しかけるな、という雰囲気を醸し出していたこともあり、誰も言及する者はいなかった。寮に帰って学校から出された課題を済ませたら、それからはジュリアとの時間だった。ファッション雑誌を共に眺めて気に入った服について語らったり、一緒にテレビ映画を見たりなど、たわいもないが、ささやかな幸せを得られる時間だ。そして、ジュリアが寝てからは、一人でこっそりと、手首を切ったり、最近では張形まで使っていた自慰に没頭した。あの夜から半年弱が経ち、多少なり元気に振る舞えるようになっても、カールに抱かれた得た快感や、彼とアイリスに対する自責の念は、全く消えることはなかった。

 春休み二日目の朝、リーナは日課の朝のランニングをしていた。この習慣は、以前からも変わらなかった。走ることはひとつの救いだった。この時だけは、何もかも忘れさせてくれる。心に深く刻まれた傷の痛みさえも、気にならなかった。

 この日は季節外れの寒波が到来しており、激しい雨は冬かと勘違いするほどの冷たくなっていた。リーナは雨合羽を着て走っていたが、それでも合羽の隙間に雨が入り込んできて、少し不快であった。さらにこれまた季節外れの北風が重々しく唸っており、ランニングのコンディションとしては最悪だった。しかし、リーナはこのくらいの悪天候の方が今の自分にはお似合いだとし、粛々とランニングを続けた。下り坂では何度も転びそうになったが、なんとか踏み止まれた。

 いつも通り30分ほど走ってから寮の方に戻ると、門から白い傘を差したアナベルが一人で出てきた。数日前からマイケルが軍の用事でS=W=Eに戻っており、今日の朝の便で戻ってくるため、その迎えに行くためだろうとリーナは見た。

 リーナはそれと話す気は毛頭なかったために、それが彼女に気づかぬうちに去ろうと考えた。しかし、偶然にもリーナはアナベルと目を合わせてしまった。リーナは慌てて逸らすも、アナベルの方が駆け足でリーナに近づいてきた。

 

「リーナちゃん。おはよう」

 

 アナベルは普段通りの緩い調子で話しかけてくる。リーナはそれから少しだけ目を逸らして、ぶっきらぼうに答えた。

 

「おはようございます」

 

「うーん、最近のリーナちゃん、元気無いよね。ここ数ヶ月くらい私とも話してないし、なんだか辛そうだし。もしかして、カール君とうまくいってないとか」

 

 アナベルが心配そうにそう訊いた瞬間、リーナの堪忍袋の尾は一瞬で切れた。アナベルがカールの死を知らないことを考慮しても、未だ癒えぬ古傷を更に傷つけるようなその所業を、リーナは許すことができなかった。そして、アンドロイドであるアナベルがリーナの心に踏み込むことが、一番我慢ならなかった。

 

「あなたに、あなたにだけは、そんなこと言う資格はありません! 高々機械が、私を分かったように言うなど、侮辱するにもほどがあります!」

 

 リーナが、アナベルに対して、それがアンドロイドであることに対する嫌悪をぶつけるのは、これが初めてのことだった。それでか、アナベルはショックを受けたように見受けられたものの、呆気にとられているような風にも見えた。しかし、リーナがそれを気にすることはなかった。激昂しきった彼女に、自制心などというものは既になく、ただ感情を吐露するだけだ。

 

「大体、なんで機械のくせに、愛する人と一緒なんですか! どうして私の愛する人は死んだのに、あなたの愛する人は生きているんですか!? 機械のあなたが幸せで、人間の私が不幸だなんて、絶対、絶対に間違ってます!」

 

 気が付けば、リーナの両の瞳からは滝のように涙が流れていた。リーナは、ただただ悔しかった。機械に、知性を持つものとしての幸せという点で敗北したことが、狂いそうになるくらいにリーナの心を荒らし回った。アナベルの一挙手一投足が、全てリーナに対する挑発に思えてならなかった。

 

「リーナちゃん……」

 

 アナベルは、呆然と突っ立っているだけだった。しかし、リーナを見つめるその目には、明らかな哀れみが見て取れた。それを感じ取ったリーナは、瞬く間に心を憎悪で染め上げた。

 

「何ですかその目は。機械のくせに、人間の私に哀れみをかけるんですか。ふざけるのも大概にしてください」

 

「ち、違う。違うわ。そんなつもりじゃないの」

 

「もう喋らないでください。たとえあなたの人工知能に私を貶める意図が無いとしても、あなたがアンドロイドであるというだけで、あなたの言動全てが私への挑発であり、攻撃であり、侮蔑なんです。今ここであなたを百回八つ裂きにしても飽きませんが、そうしては兄上が悲しみますから、今は何もしません。では、失礼します。これ以降金輪際、私に話しかけないでください」

 

 リーナは一方的に吐き捨てると、唖然として焦点の定まらぬ虚ろな目で佇むアナベルを尻目に、寮の自室へ向かう。アナベルに言いたかったことをほぼほぼ言えたので、少しリーナの心は晴れ晴れとしていた。鼻歌まで自然に出てきた。弾みがちな調子で自室に向かっていると、途中でメルティが向かい側から近づいてくるのが見えた。この数ヶ月間、リーナとメルティは業務的なこと以外の会話は交わさなかった。リーナの方が、今の自分の全てをメルティに晒すことに対して気が引けて、避けていたのだった。この時もリーナは彼女を避けようとしたが、彼女の方から早足でリーナとの距離を詰めてきた。

 

「リーナ、今から君の部屋に行っていいかい? 重大な話があるんだ」

 

「重大? どんな内容ですか?」

 

 いきなり真剣な表情で訊くメルティに対し、リーナは数ヶ月ほど殆ど話さなかったこともあって、訝しんで尋ねる。するとメルティは少し辺りを見回し、指で空にEと書いた。それでリーナは、EGMAに関する話題だと察知し、彼女は先ほどまでの浮ついた気を引き締める。

 

「分かりました。部屋にはジュリアもいますが、どうします?」

 

「ジュリアさんなら聞かれてもいいかな。秘密、守れる人でしょ」

 

「はい」

 

「じゃあ決まりだ。早く行こう」

 

 メルティは焦りを滲ませた調子で言った。それから二人とも小走りで部屋に戻った。リーナはメルティを先に行かせ、自身は合羽を玄関のハンガーにかけてからリビングに入る。

 

「おかえり、リーナ。メルティもいらっしゃい。良かったらメルティのご飯も作るけど、どう?」

 

「ああ、大丈夫ですジュリアさん。もう食べてきましたから。それよりも、私とリーナはこれから重大な話をします。聞いたこと、誰にも漏らすことがないようにお願いします」

 

 気を利かせるジュリアに対し、メルティは失礼とも取れるような態度で捲し立てた。彼女の焦りを悟ったのか、ジュリアは了承して寝室の方に姿を消し、リビングにはメルティとリーナの二人だけになった。テーブルを挟んで座り、二人で向かい合ったところで、メルティが口を開く。

 

「一応確認するけど、この部屋が盗聴されることはないね?」

 

「はい。その辺りは大丈夫です」

 

「じゃ、早速話に入るけど、今朝未明にS=W=E軍長官が亡くなった。公式発表は明日の午前十時。公式には、心臓発作による突然死、ということで発表するみたい」

 

「そのように言うということは、真の死因があるんですね」

 

 リーナの問いに、メルティは大きく頷き、ひとつの記録端末を取り出し、テーブルに置いた。

 

「実は、長官は反EGMAの立場でね。ずっと隠してたんだけど、EGMAに気付かれたっぽいのが数ヶ月前。で、この数ヶ月で、長官が完全にそっち側ってことを確信したEGMAが、EGMAのシンパに暗殺させたのが今朝未明。このメモリは長官宅の監視カメラの映像を数ヶ月前からずっと抜いてきたものを記録したもの。リアルタイムでずっと抜いたものだから、EGMAの改竄がなされていない生の映像だよ。今見られるのはもうとっくにEGMAの手にかかっちゃってるからね」

 

 淡々と述べるメルティに対し、リーナは何とも言えない困惑を抱いた。リーナに何をさせたいのか、不透明であったからだ。彼女がいくら真実を話そうと、エースとはいえただの一兵卒であるリーナにはどうすることもできない。このリーナの心情を見透かしたのか、彼女はゆっくりとリーナに近付き、その肩を強く叩いた。

 

「一番の権力者を消された上、後釜にはアンドロイドが入ってくる。今の私たちでクーデターを起こしてEGMAを倒しても、民衆が着いてきてくれるような知名度があって人徳のある人がいない以上、すぐに政治が崩壊するのは目に見えてる。だから、軍の中じゃ既に若いエースってことで有名な君の名を、今のうちから一般人にも売らせてもらいたい」

 

 その結びの言葉を聞いたとき、リーナは拍子抜けしてしまった。メルティが行動を起こそうとしていることは少し前から察知していて、もっと複雑で面倒な頼みごとをされると予期していただけに、肩透かしを食らったような感じであった。

 

「私の名前で政治をする基盤を作りたいわけですね。そのくらいなら、お安い御用ですよ」

 

「やけに軽く言うね」

 

 メルティは、リーナから手を離して大きく溜息をついた。彼女は椅子に戻ると、体を背けながら、呆れた風で続きを言った。

 

「今の君に全然心の余裕が無いのは話さなくても分かるし、公式に君の名を売るのはEGMAの動き的には不可能だろうから、噂を立てるしかない。でも最近の君は評判が良いわけでもないから、ジャッジメンティスを使うときはもちろん、他の戦いも人の記憶に残るような、派手でいい意味で話のネタになりやすいものにしなきゃいけない」

 

 メルティは口早にそこまで言うと、一旦一息をついた。そして、彼女はリーナを鋭い目で見つめ直し、再び口を開く。

 

「人に目くじらを立てられないことを意識しながら、自分がいい意味で有名になれるように動く。今の病んだ君が、そんな面倒なことをやり遂げられる?」

 

 彼女は、言い終えてからもリーナを見つめ続けた。クーデター以後も人間の治世が続くかが掛かっている以上、確信のないことは行えないのだろう。リーナはそれを理解した上で、ひとつ深呼吸をして、座り直して姿勢を正してから、落ち着いた口調で答えた。

 

「大丈夫ですよ。確かに、今の私はまともな精神状態ではありません。これは認めます。でも、丁度、生きるための目標を欲していたところですから。機械が人間を冒涜しない、人間による人間のための治世は私の夢です。ですから、反EGMAのクーデターに命を懸ける。これを目標とし、支えとすれば、メルティの頼みはこなせます。任せてください」

 

 リーナが話している間も話し終えた後も、メルティはずっとその目を凝視していた。やがてふとメルティは目を伏せ、微妙にリーナから視線を逸らした。

 

「正直、まだ完全に信用できないけど、君以外に若くてルックス良くて名前がそこそこ知れ渡ってるエースが、反EGMA派にいないからね。やると言った以上、しっかり頼むよ」

 

「その、若くてルックスが良いから私を選んだんですか?」

 

「そりゃ当たり前じゃん。もちろんパイロットとしての腕も買ってるけど、むさいおっさんよりも若くて見た目がかわいい君みたいな人を広告塔にした方が、受けがいいに決まってる」

 

 メルティは、小馬鹿にするような口調で説明した。リーナはそれに対してムッとなるが、納得できなかったわけではないので、その気持ちを心の奥に押し込んだ。

 

「あと、このタイミングで長官を暗殺したってことは、近々EGMAが何かをするのはほぼ間違いないだろうね。どんな動きに出るか全く分かんないから、気をつけてね」

 

「分かりました。心に留めておきます」

 

 リーナは気持ちを切り替えて、強く頷いてみせた。それを見たメルティはもう用が済んだとのことで、立ち上がってそのまま玄関に向かう。リーナはその様子を見て、まだ肝心なことを聞いていないことに気がつき、彼女を呼び止めた。

 

「ああ、待ってくださいメルティ。長官を暗殺したのは、誰なんですか? 私の知ってる人ですか?」

 

「ごめん、そこまでは分からないんだ。犯人は監視カメラの死角に入られるように位置を工夫してたから。殺しのやり口を見るに、一発で狙撃したんじゃなくて何発も近くから撃ってるから、犯人はアンドロイドじゃなくて、人間だなって思っただけ。なんでEGMAがわざわざ狙撃用アンドロイドじゃなくて、人間を使ったのかは分からないけど。用件はそれだけ?」

 

「はい。ありがとうございます」

 

「ん。じゃあ、ばいばい」

 

 メルティは手を振りながら、ドアの向こうに消えた。彼女が去った後、リーナはそっと腕を捲った。露わになるのは、夥しい数の、嫌悪感さえ覚える自傷の痕であった。

 

「こんな私でも、大丈夫。きっとやれる。カールとアイリスはG・Sに殉じた。私も軍人の端くれ。この体、命は、S=W=Eのために」

 

 リーナは傷痕を手で押さえながら、強く自分に言い聞かせる。この時点で、リーナはカールを喪った傷を癒すことを殆ど諦めていた。ジュリアたちが何をしても、その傷自体が癒えることは全くなかった。ならば、癒すのではなく、その傷と共に生きようと考えたのだった。メルティの申し出を快諾したのも、そう考えてのことだ。

 

「カールとアイリスと私で奏でるセレナーデの続きを夢に見ながら、人間の世をS=W=Eに作る。心の中で渦巻く声はカールの声だけでいい。カールへの想いを抱いたままこの人生を完遂できれば、私は本望だ」

 

 リーナは自己暗示するように呟く。前腕の傷は増えるだろうし、股間の奥が疼くのも、一生無くなることは無いだろう。しかしそれでも、それらと共に生きると誓った。たとえ傷が腐ろうと、後悔はしない——リーナは、ジャージの袖を元に戻し、チョーカーに手を触れた。

 

        ***

 

 ジュリアは、大きなため息をついた。また、リーナが自分の与り知らぬところで一歩進んだ。自分はリーナの一番の友のはずなのに、自分はリーナの前進に何も役立っていない。ジュリアはそのことが憾めしくてたまらず、また、素直にリーナの前進に喜べない自分が嫌になった。ジュリアは部屋の隅にうずくまり、人知れず涙を流した。

 

「助けて、アルフレッドさん」

 

 ジュリアが絞り出した掠れた声は、すぐに虚空に霧散した。




第1部「かなしみのセレナーデ」完、ということであとがきです。
次回から第2部「エゴイストのカプリッチョ」が始まるわけですが、実はこの第1部と第2部は元々別の作品として考えていたのを統合したものです。というわけなので、次回から作品の雰囲気が少し変わります。第1部ではリーナの悲恋を中心に物語を展開したわけですが、第2部ではリーナの恋愛要素は全くありません。第2部では、私の解釈におけるアンジュ・ヴィエルジュの世界観の根幹の末端に触れます。全部じゃありません。全容は次回作で明かしますので乞うご期待。
さて、第1部書き終わって思ったのは、ちょっと展開が雑だったかな、ということです。プロット段階ではそうは思わなかったのですが、振り返ったらそんな感じでした。とはいえ手直しするのもかなり面倒なのでこのまま第2部に突入します。
この作品オリジナルのキャラ方面でいえば、カールが少し残念だったかなと。「乱暴者だけど気のいい頼れる男」として書きはじめたんですが、いつのまにか乱暴者の部分が欠落してしまいました。秀ほど個性ナシナシくんになったわけではないのですが、やっぱり悔しいものはあります。この作品のアイリスはゲストみたいなものなので、ヒロインとしての真骨頂は次回作で。アルフレッドとマイケル、アナベルは第2部までやらないと語らないのでここではパスします。
原作から持ってきたキャラに関しては、殆ど予定通りです。ジュリアに関してはTCG第2章で登場したっきり全く公式で触れられないので弄りまくって別人みたいになっちゃってますがそこはご愛嬌ということで。あと、メルティがシノンの作成者だったり、ジュリアがリーナの友達だったり、ランがブルーフォールいけいけどんどん派だったり、ナイアが元特務隊という設定は私の捏造ですので鵜呑みにしないようにお願いします。
では今回はこの辺りで。次回からもお楽しみに!

追記
ここまでの話でもう十分だという方は、リーナが妊娠したということにしてください。そうなったらリーナの心がぐちゃぐちゃになることもなく第2部にも繋がらないのです。逆にいえば、リーナが妊娠できなかったことが、第2部のひとつのキーとなっています。
また、私が勝手に第1部のテーマ曲とした物で、ルルティアさんのスピネル、という曲があります。第1部の話を思い出しながら聴くといいかもしれません。
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