私が配属された鎮守府で一等古株の空母は、瑞鶴モデルの娘だった。生まれは私よりも随分古い旧式だったけれど、何度も改修を施され、今も前線で戦い続けているという古強者だ。
少し前にいた鎮守府では瑞鶴モデルと言えば小生意気な後輩だった。一航戦の加賀。五航戦の瑞鶴。世間が想像するような先輩後輩のモデルケースだった。事あるごとに突っ掛り、負けん気の強い目をぎらぎらさせて、毎朝早くから射場で腕を磨き、拙くも見どころのある戦いぶりを見せる。そういうのが私の中の瑞鶴モデルのイメージだった。
だからこの鎮守府に来て、初めて瑞鶴の姿を見た時は、瑞鶴モデルがどうとか以前に、なんだか不審者が鎮守府内にいるのだけれどと案内してくれていた秘書艦に通報してしまったものだ。
古参の秘書艦である叢雲は、このモデルとしては比較的神経の細そうな目付きの娘だったけれど、それがまた極めて面倒臭い事態だと言わんばかりに細い唇をへの字に曲げて深く溜息を吐いたものだから、心配性である私としては一体何事なのかとおろおろするしかできなかった。しかし艦娘というのは基本的に他人を思い遣る精神に欠けているので、そんな私の胃がしくしくするような不安には誰も触れてくれなかった。
「ちょっと瑞鶴」
「あによ」
「朝っぱらから呑んでるんじゃないわよ」
「非番よ」
その不審者はこんな時間から呑んでいた。気だるげにカップ酒をちびりちびりとやりながら、左裾ばかりやたらと短く膝上で落とした甚平姿で、年季の入った雪駄を引きずるようにのそりのそりと歩いていたのだ。
これが鎮守府内での会話かと頭痛がしたが、思えば前の鎮守府でも隼鷹モデルや外国艦などが呑んだくれていたし、こういうものなのかもしれない。私としては眉をしかめる様な振る舞いだが。
しかしそれはそれとして一番聞き捨てならないのは、そいつが瑞鶴と呼ばれていた事だった。この猫背で三白眼でぼさぼさの脂っぽい髪を適当にまとめただけの至極だらしない恰好をした娘が瑞鶴なのだという。これが。この給金を端から博打と酒につぎ込んでいそうなのが。
適当な生返事を返して去っていく瑞鶴を見送って、叢雲はあれがこの鎮守府に在籍する一番古い空母で、あんなのではあるが実力は文句のつけようがない折り紙つきで、人格も問題はないけどちょっと癖はあるから、同じ空母のあんたも色々と付き合うことはあると思うけどあんまり気にしないで、と少し早口で言い訳するように説明してくれた。
非番だからと言ってああして朝っぱらから飲酒してふらふらしている様な娘だ。秘書艦からすれば頭痛の種の一つだったのだろう。
しかし私には
同じ顔をした同モデルの別人と既視感じみたもやもやを抱きながら会話し、仕事することもよくあるのが艦娘だ。時には自分と同モデルの相手とそうなることもしばしばだ。そういう見た目ばかりはよく似ている連中と付き合っていく内に、自然と中身の違いというもので識別が付くようになっていく。だからあの瑞鶴の姿や振る舞いにしても、幾らか規格から外れているという程度で、むしろ見分けがつきやすくて良い。
私がすっかり魂消てぼんやりとその背中を見送っていたのは、だからそんな些細なことが原因ではなかった。
古参の実力者であると紹介されたその飲んだくれの左袖が、風に揺られて中身のない布きれをはためかせたことに、私はすっかり困惑していたのだった。
その鎮守府の正規空母瑞鶴は、隻腕の射手なのだった。
フラミンゴというのがその瑞鶴のあだ名だった。
赤くもなければひょろ長い訳でもない瑞鶴モデルがどうしてまたそう呼ばれるのか、艦隊を組むことになった駆逐艦たちに聞いてみたけれど、要領を得なかった。
「片足だからよ」
「片足?」
「知らないの? フラミンゴはいっつも片足だけで立っているのよ?」
私は詳しいの、と胸を張る暁モデルだったけれど、全く意味は分からなかった。
瑞鶴はどう見ても片腕であって、片足ではなかった。
いつも布団に片足を突っ込んだようなやる気のなさは疑いようもなかったけれど。
このフラミンゴという二つ名の由来が分かったのは、しばらくの慣らし運転を終えて主力艦隊である瑞鶴麾下の第一艦隊に配属となり、初めての出撃でのことだった。
初めて見る瑞鶴の出陣姿はまずまず私の知っている瑞鶴モデルと同じだった。ただ、独自の改修も多く、全体としては奇妙な具合だった。風呂に入ってすっかり清められた髪は二つくくりになって風になびき、三白眼はきろきろと水平線の向こうを睨むように眇められていた。左肩にくくり付けられた飛行甲板の下にはやっぱり腕はなく、なんだかバランスが悪い。足元の主機も左右非対称で、重心の偏りに対応するためか、右ばかりが広く面積を取っており、左の方はかえってすっきりと細身で、かろうじて装甲はあるけれど指先などはすっかり足袋がさらされており、機銃はなかった。そしてその背中には、両手の満足にそろった私でも引くのに苦労するだろう大きな強弓が背負われていた。
敵艦隊の予想地点に近づいて、まず真っ先に行動するのは空母の仕事だ。偵察機を飛ばし、肉眼ではとてもとらえられない距離の敵艦を見つけ出すのだ。艦載機の飛べる距離には限りがあるから、行きと帰りで必要な燃料から索敵可能距離は練度に関係なく自然と決まってくる。戦闘を行うのであればさらに短い。
だからこの調子であればまだ仕事はあるまい、とそう思っていたのは私ばかりで、まだ随分と予想地点から離れた海域で、瑞鶴がおもむろに弓をとった。ぎょっとしているのはこれもまた私ばかりで、見れば艦隊の面子もそろそろかといった様子で支度を整えている。
右手で弓を取った瑞鶴はおもむろに左足を持ち上げ、装甲のない足指でむんずと弓を引っ掴み、右手は替わって弦にかけられた。びんびんと何度か爪弾いて張りを確認すると、長大な矢をつがえ、左足は高々と持ち上げられ、右手は大きく後ろに引かれ、それどころか大きくのけぞるようにして全身で弓を引くのである。
これは全く尋常の構えではなかった。左足は鋭い蹴りでも放ったようにまっすぐ水平線に向けられ、上体はバレリーナにでもなったかのようにそっくり返り、体全体で大きな丁字を描いているようだった。顎を胸に埋めるようにしてぎろりと狙いを付けた視線は鋭いけれど、よくまああの体勢でまともに狙いをつけられるものだ。
唖然として見守る私を尻目に、聞いたこともないような金切り声を上げて強弓がしなり、音の壁をぱあんと突き破って、第一射が空を裂いていった。
斬新するようにしばしそのままの姿勢で水平線を睨んでいた瑞鶴は、またすぐに矢をつがえて、射て、またつがえて、射て、都合三射した。やや狭い扇状に射られた三本の矢は、おそらく私の感知範囲を越えた先で偵察機へと変じ、水平線の彼方に消えた。なるほど、燃料を使わずそこまで飛ばせるのならば、射程距離はずいぶん伸びるだろう。行きの分をほとんど気にしなくていいのだとすれば、実質殆ど二倍の距離を飛ばせる計算になる。
ゆっくりと上体を起こした瑞鶴は、弓をつかんだ左足をゆるく持ち上げたまま、そうして偵察機が戻るまでほとんど身じろぎもせずに佇んでいた。左肩を持ち上げて器用に偵察機を着艦させた瑞鶴は、そのもたらされた情報をもとに、次なる矢をつがえた。艦上爆撃機である。それも直掩機もない艦爆のみでの出撃だった。ありったけの矢をつがえては脚と全身でもって次々と放つ様は曲芸の域である。
尋常ならざる構えで次々と矢を放つ姿は、なるほど確かに
私はいっそ深海棲艦が哀れになってきた。敵の気配もないうちから偵察機が見えたかと思えば、今度はいずこからか爆撃機が怒涛の勢いで襲い掛かって絨毯爆撃を仕掛けてきて、艦載機では追い縋れないようなはるか水平線の彼方へ逃げ去っていく。悪夢だ。私がそんなことをされたらふて寝しかねない。
「八割。あと宜しく」
戻ってきた艦載機を着艦させるなり素っ気なくそう告げて、瑞鶴は弓を背負いなおして足を下した。仕事は終えたと言わんばかりだ。
艦隊の面々もすっかり慣れているようで、手短に了解を示して、速度を上げて水平線の彼方へ駆け出した。私も慌ててついていく。慌てながらも、事前に指示された艦載機が攻撃一辺倒であったこと、ほかの面々にしてもあまりに殴り合い特化仕様だったこと、もろもろのことが納得のいった思いだった。納得は現場につけば確信に変わる。すでにほとんど壊滅しかけた敵艦隊への、意気軒高たる面々の殴り込み。私たちの仕事はなるほど、瑞鶴がこぼした連中のあと始末なのであった。
飲んだくれの不審者という見方が、なるほど古参の古強者であると変わるのはすぐのことだった。
古参の古強者がすなわち全面的に敬意を表するに値するかといえばやっぱりそんなことはなかった。瑞鶴は戦場で暴れている間は殺戮フラミンゴの二つ名に相応しく大いに暴れ回って鎮守府に貢献していたけれど、一度鎮守府に戻って休息の時を得れば、またあのずぼらな不審者に早変わりだった。
それが私と関わり合いのないところで披露されるならば私も何も思いはしなかったかもしれないけれど、何の因果か私はこの生活無能力者と同室にあてられてしまったのだった。まあ因果も何も、鎮守府の空母寮は部屋が空いていなかったというだけなのだけれど。
非番の間、瑞鶴の生活は気まぐれに支配されていた。朝は布団で丸くなり、私が射場でひと汗流して帰ってきた頃にもまだ布団で丸くなり、朝餉の時間となって一応声をかけると、大抵はようやくのそのそと起きだしてきた。そして着た切り雀の甚平にボロの雪駄をつっかけて、ぼさぼさ頭のまま食堂へとのそのそ繰り出すのだ。
私なら顔をしかめるような醜態も鎮守府ではすっかりお馴染みらしく、誰も気にした風もなく、おはよう、おはようさん、おはようございますと気軽に挨拶してくるし、寝起きの瑞鶴の方でもむにゃむにゃと挨拶なんだかなんなんだかよくわからない呪文を返している。
私が黙々とどんぶり飯を平らげている間、こんなのでも空母らしい瑞鶴は同じようにどんぶり飯をのそのそと平らげる。ただ、私と違って、うまそうでもまずそうでもなく、燃料でも補給するかのように平らげる。美味しいものは美味しく頂くべきだと信条の私としては全く勿体ないとしか思えない。
「いや全く、あんたら見てるとやかんづるでも見てるみたいだ」
私たちの食事風景をそう評したのは軽空母の隼鷹だった。隼鷹モデルは飲兵衛が多いと聞くけれど、この隼鷹も御多分に漏れず酒精の香りを纏っていることが多かった。しかし洒落者で、決して無様に酔い潰れる様を見せたことはなかった。
「能面みたいな顔して茶でもすするみたいにどんぶり飯平らげてくんだから」
「こんなのと一緒にしないで」
果たしてどちらの言葉だったろうか。全く同じように返した瑞鶴を見やれば、瑞鶴の方でも三白眼でこちらを見てくる。
「ほら、やかんづるのつがいだ」
からからと笑う隼鷹。
全く失礼な女だ。
健啖なのは認めるけれど、こんな無気力娘とは違って私は一回の食事ごとに全力で味わっているのだ。そこのところを勘違いしてもらっては困る。季節のもの、旬のもの、甘めのもの、辛めのもの、一つ一つに敬意をもってあたっているのだ。ただ腹に納めればそれでいいというのは人の食事ではない。まあ私は艦娘だけれど。しかしそれでもただただ腹を満たそうという獣の食事ではないのだ。そこのところをよく理解してもらいたい。そう抗議の意を込めて睨み付けてみたけれど、隼鷹も何分古参者、柳に風と受け流してしまう。
「やれやれ分厚い鉄面皮さね。怒ってるんだか怒ってないんだか……」
邪魔したねとするりと去っていく隼鷹に溜息を一つついて、私はどんぶりにお代わりを盛った。
朝食が終われば私は大抵昼頃まで射場に籠った。近頃は以前より伸びを感じられなくなってきていたけれど、しかし弓の腕は休ませればすぐ衰える。時計のずれを直すように、ピアノの音を調律するように、日々弓の調子を確かめなければ気が済まなかった。何より私は弓が好きだった。矢を中てるのが好きだった。最初は中てなければと思いながら射るのだけれど、だんだん温まってきて弓がすっかり馴染むと、もう射るのと中てるのは殆ど同じになってくる。当たり前のように中るようになってくると今度は中てる中でもさらに中てるようにしたくなってくる。自分でもこの感覚をどう説明したらよいのかよくわからないのだけれど、もっとよく中てたいというか、ただ中てるだけでは満足できないというか、そういう感覚なのだ。ではどうすればいいのかというとさっぱりわからないので無心に射るのだけれど、ほんの少しでもその中てる中でさらに中てたなという心地に至ることは滅多になかった。
時折瑞鶴が顔を出すときもあった。のっそりと顔を出し、私の顔を見ると挨拶とも何とも言えない目礼のようなものを微かにして、あの足で弓を持つ奇怪な構えで射場に立つのだ。
瑞鶴が顔を出すかどうかは全くその日の瑞鶴の気分次第で、私はその気まぐれに運よく立ち会えると、すぐに弓を下して彼女の業前の程を見学させて貰うのだった。瑞鶴は何しろ片腕がないし、その独特に窮められた射法は付け焼刃で真似できるようなものでは決してないのだけれど、しかし見ているとなんだか勉強したような気分になったし、全く違う射法から時折本当に学ぶこともあった。
射場での瑞鶴は甚平ではなくきちんと道着に胸当てをして、髪もしっかりと結い上げていた。しかし左足を動かしやすくするためだろう、左裾はやっぱりばっさりと膝上で落とされていた。瑞鶴が矢をつがえる度に、普段は艤装で隠された真っ白な素足がするりと持ち上げられて伸びあがり、そしてまた上体を反らせて全身で弓を引くに至っては眩い様な太腿が際どく晒され、時には射法よりもっぱらその羚羊の様な足をまじまじと眺めている自分に気付いて度々死にたくなった。
いつもの不健康そうな振る舞いと裏腹に、強弓を引く瑞鶴の足も背筋もよく鍛えられており、それに左右非対称な太さや張りの違いが加わると妙に蠱惑的であった。気づけばじりじりと移動して屈みこみ、より見やすい位置から射法を研究する筈が、短い裾の隙間から垣間見える暗がりに目を凝らしている自分に気付いて毎度のこと死にたくなった。
瑞鶴がふいっと去って行ったあとの私の射法は全く酷いもので、的を睨めば睨むほどなんだか瑞鶴の股座に見えてきて、逸る気持ちと裏腹に矢はあらぬ方へとそれていくのだった。
私が自分の童貞じみた下らない雑念に頭を抱えていると、大抵赤城さんや飛龍たちが肩を叩いて慰めてくれた。あれは例外中の例外であって、やっぱり真面目に毎日射法を練っている加賀は正しいし、それは確かで信頼性のおける強さよ、瑞鶴の射は確かに凄まじいものだけれど、それであなたの射が損なわれるわけではないわ、と。全く見当違いの慰めだったけれど、しかし至極どうでもいいことで悩んでいる自分が大変申し訳なくなって、落ち着くことはできた。
そして落ち着いて的を睨むと今度はきちんと中る。中るけれど、しかし瑞鶴は中てる中でさらに中てているのだろうなとふとそう思うのだった。
昼餉の時間に瑞鶴がいることは稀だった。たまに顔を出すけれど時間はバラバラで、来ないことの方が多かった。その間何をしているかはよく知らなかった。
私はやっぱりどんぶり飯を平らげて、お代わりをして、平らげて、またお代わりをして、それもまた平らげて、腹八分で済ませるのだった。
午後は、最初の内は読み物をすることが多かったのだけれど、前の鎮守府から持ち込んだ本を読み終わってしまった後は、ぶらりと鎮守府内を見て回るようになった。当初は見学というか、早く鎮守府に慣れようかという心地だったのだけれど、今はどちらかというと瑞鶴探しのようになっていた。
瑞鶴は気まぐれ屋で、カップ酒を片手にあっちへふらふらこっちへふらふらと、定まった居場所を持たないようだった。見つけられるかどうかは運次第で、野良猫を探して歩いているようでなかなか面白い暇つぶしだった。瑞鶴が見つからないまでも、今まで知らなかった場所を見つけたりすることもあって、さほどもしないうちに私は鎮守府の殆どの艦娘よりも鎮守府内に詳しくなってしまった。
見つかった瑞鶴が何をしているのかは、見つけるまで全く見当もつかなかった。
ある日は釣竿を垂らす天龍の横で、ぼんやりと海を眺めてカップ酒をちびりちびりとやっていた。またある日は利用者の少ない喫煙所の陽だまりで、野良猫に膝と肩と頭を占領されてカップ酒を死守しながら助けを求められた。それからまたある日は駆逐艦に交じって大人げなくけん玉やメンコで勝負していた。カップ酒を置けばいいのに、手放したらなくなるとばかりにしっかりと握りしめて、左足で全てこなしてしまうものだから全く化け物である。あの為に甚平の裾を切ってるのかと思うともはや生活の一部なのだろう。背の低い駆逐艦など真正面からあの暗がりを目の当たりにできるのかと思うと私も思わず屈んで駆逐艦に視線を合わせて混じってしまった。なおメンコは全敗した。
はたまたある日は提督の執務室に茣蓙を強いて、片手でカップ酒をちびりちびりやりながら、無作法にも恐ろしく器用に左足で提督と将棋を打っていた。提督に仕事は大丈夫なのかと聞いてみたら焦ったようにちょっとした気晴らしだと止めてしまったので、代わりに瑞鶴の相手をしてみたがこれはなかなかいい一局だった。足で器用に駒を操るのはさすがに大したものだったが、将棋の腕自体は全くお粗末なもので、まずい手を深く考えずに打つし、しょっちゅう長考に入っては長引かせた。しかしそれがいいのである。どこに駒を置いたものかと白い足がうろうろする度に短い裾がちらちらと揺れて目に嬉しく、また長考に入るとすいっとその足が持ち上がってこりこりと顎など掻いたりするものだから、太腿どころか良く締まった尻まで覗かせてくれ、私は存分に長考してくれて構わないと心から宣言できたし、往生際も悪く待ったをかけてくるのにも喜んで了承した。提督も全くいい趣味をしている。
少しすると秘書艦の叢雲がやってきて、将棋をする私たちと、ぎくりと身じろぐ提督に鋭く視線を走らせた。
「ちょっとあんた、またやったの?」
「待て、待て叢雲、誤解だ。俺はただ気晴らしのつもりで将棋をだな、」
「切り取れば溜まった気も晴れるかしら?」
「ひぃっ」
縮こまる提督。
そして叢雲の視線がこちらに移り、私は必死で白い残影を頭の中から振り払った。切り取られるものはなかったけれど、なければないで何が切り取られるか分かったものではない。
「私は、」
「この馬鹿の邪魔してくれて助かったわ」
「は」
「ほんっとこのエロ提督は事ある毎に……あんたみたいな堅物が見張ってくれたんなら安心だわ。あとは私が見張るから、もう行っても大丈夫よ」
何やら勘違いしてくれたようで助かった。
私は速やかに将棋盤を片付け、なんだかよくわからないという顔つきの瑞鶴を連れて執務室を後にした。白い花弁の大回転は惜しかったが、しかし命には代えられない。
とりあえず将棋盤を娯楽室に返そうと歩き出すと、不意に袖がひかれた。
振り返ると、瑞鶴のほっそりとした、しかし針金を束ねたような力強い足が私に伸び、その精密機械のように器用な指先が私の袖をぎゅうとつまんでいた。桜貝のような爪からするりとした脹脛、肉感的な太腿をたどり、平坦な胸を過ぎて三白眼にたどり着けば、瑞鶴は非常に不満げに舌打ちをした。
「まだ負けてない」
「は」
「将棋よ。いくらでも長考しなさいだのいくらでも待ってあげるだの、随分上から目線で見てくれたわね」
「別に、そういう、」
「そのすまし顔歪ませるまで逃がさないわよ!」
思えばそれは何事にもつまらなそうな瑞鶴が初めて見せた感情だったのかもしれなかった。全く的外れな怒りではあったけれど、しかし私としても再び白鳥の舞を楽しませて貰えるというのならば是非はなかった。それに、ようやく手ごたえらしいものを感じられて、少しうれしかったのだった。
ただ、残念なことに娯楽室に移るなり将棋盤を広げた瑞鶴は大いに揮って本気を出すことにしたらしく、カップ酒を置いて普通に手で打ち始めたので私のやる気は完膚なきまでに奪われた。神は死んだ。戦うことに何の意味があるのだろう。人は、艦娘はなぜ争いの中でしか生の輝きを実感し得ないのか。私は悲しい。
深い悲しみを背負った私は無想のままに玉将以外の駒を奪い去った上で封じ込むことしかできなかった。悲しい。
次はぎったんぎったんにしてやるという今日日聞かない捨て台詞を吐いて夕食も食べずにふて寝した瑞鶴だったが、しかし一夜明ければそんな些末なことはすっかりなかったかのように、もそもそと起きだしてはいつも通りの朝が始まった。
二人並んでどんぶり飯を平らげ、私は射場へ、瑞鶴はカップ酒を片手にふらりと消えた。瑞鶴が射場に顔を出さないものだから、私はひたすら無心に射ることに没頭できた。しかし体が暖まってきて中ることが当たり前になってきて、中てる中でさらに中てることに夢中になってくると、ふいに浮かんでくるのは瑞鶴の白い足だった。目を瞑ってみると、瞼の裏にはくっきりと羚羊の様にしなやかな脚がするりと伸びた。次いで縄のような筋肉が浮かんだ背中が伸び、万力のように力を籠められた弦を引く指が見える。そして胸元に顎をうずめて、世界を見下ろす様に狙いを定める瞳が煌めいた。やがて瞳だけが瞼の裏の闇の中で爛々と輝いて、私は自然とそいつと目を合わせた。何が見えているのだろうか。何を見ているのだろうか。深く深く覗き込むうちに、たんと短く音が響いて、私は目を開いた。
的に矢が中っていた。指先には弦を擦るひりつく熱があった。
「お見事」
と飛龍が隣で小さく拍手したようだったが、私はぼんやりとひりつく指先を眺めていた。
充てる中で、さらに少しかすめた様な手応えがあった、様な気がする。
昼餉を済ませてふらりと鎮守府内を見回ると、瑞鶴は倉庫とは名ばかりの、ガラクタを詰め込んだ物置の傍で発見できた。なにやら白い足がぶんぶんと振り回されて大変目に眩しいので何事かと思って寄ってみれば、なんと足でヨーヨー遊びをしている。振り上げた爪先がほとんど頭上に届くほどで、つくづく体の柔らかい娘である。しかも器用だ。雪駄を脱いだ瑞鶴の足は、同じ艦娘の足とは思えないほど器用にヨーヨーを掴み、投げ、そして戻ってきたヨーヨーをいともたやすくつかんでいる。もはや指の構造が艦娘引いては人類より猿に近いのではないだろうか。
感心して眺めていると、気付かれたようで、うげ、と乙女らしからぬ声を漏らされる。
「何をしているのかしら」
「見ての通りよ。ヨーヨー。知らないの?」
「少しはやったことはあるけれど」
聞けば、何か面白いものでもないかと倉庫を漁ってみたら、昔の艦娘たちが遊んだヨーヨーが出てきたのだという。面白い玩具ではあるが流行り廃りの影響は大きく、今ではすっかり誰も遊ばなくなったのだろうと瑞鶴は嘆いていた。まあこんな倉庫にあったら誰も覚えてはいないだろう。そして覚えていないものを引っ張り出す事もない。
この前のメンコやけん玉の様に駆逐艦達と遊ばないのかと聞けば出撃中だという。探しはしたのか。寂しい娘だ。
思わず憐れむように見てしまったが、瑞鶴は気にした様子もない。それどころかふふんと胸を張って、軽やかにヨーヨーを操ってみせる。
「うすらぼけっとしたあんたには、到底こんなことできないでしょうね」
安い挑発だ。まあ、しかし先日メンコでボロクソにされたことを思えば、私が体を動かす遊戯が苦手だと思われても仕方がない。実際問題としてはそこまでひどくはないと思う。子供たちと十分に遊んで暖まっていた瑞鶴と違い、あの時の私は飛び入りで参加してまだ十分にエンジンが回る前に惨敗したのだ。よって正当な試合ではない。だからあれは私の負けではない。
さて、ヨーヨーか。流石に足で同じ様にやれと言われれば無理だ。そこは瑞鶴の勝ちだと素直に評価しよう。だから別の方面で私の実力を示せばいい。
「ほんの少しだから、いまも出来るかは自信がないけれど」
「ふふん、そうやってハードル下げぇええええええっなにそれこわっ!?」
「ストリングプレイスパイダーベイビー」
「やけに爽やかな笑顔で!? っていうかはじめて笑ってるの見たわよ!?」
「アドバンスド・スプリット・ジ・アトム」
「どういう動きしてんのそれ!? そしてそれ笑顔なの怖っ!?」
伊達にスピナーな漫画を読んでいない。昔は大真面目にスピナーを目指したものだ。ブームが終わると同時に私の中のヨーヨーも自然消滅的に廃れてしまったけれど、指先はまだ覚えているものだ。
「憶えてなさいよ! 絶対それやってやるんだから!」
などと小物じみた捨て台詞を吐いて去っていったけれど、物理的に無理だろう。いや、あの器用さなら右手と左足でやらかすかもしれないが。
しかし結局一夜明けると、飽きたと言わんばかりにヨーヨーの事などすっかり口の端にもあげなくなった。折角昔出来なかったトリックを練習したのだけれど、無駄になってしまった。
何となく物足りない思いで倉庫に向かうと、今度はプラスチック製フープを回していた。また懐かしいものを引っ張り出してきたものだ。片手に持ったカップ酒を一滴も溢すことなく、三つのフープを同時に回している。
「ふふん、どーよ、あんたにできるかしら?」
「凄いわね。私にはとてもできないわ」
「えっ」
「ぱちぱち」
「口で」
「もう行っていいかしら」
「ぐぬぬぬ」
見事なものだったが、しかしフープはダメだ。胴で回してるのもダメだ。瑞鶴。あなたのその足は何のためにあると思っているのかしら。今日はちらりすらなかった。もう駄目だ。やる気がわかない。
そのようにして、毎日のように瑞鶴は妙なものを引っ張り出してきては遊びはじめ、私がやってくると絡むようになった。まあ私でなくても誰かがいれば絡むので、要するに遊び相手が欲しいのだろうとは思うけれど。
瑞鶴が同じものを連日遊んでいることは滅多になかった。気紛れに新しいものを取り出し、気紛れに古いものを倉庫に放り込んだ。カップ酒だけは毎日のように携えていたけれど、それ以外は全く落ち着きというものがなかった。
そしてある日の事、瑞鶴は古びたチェス盤を引っ張り出してきた。
天気もいいし外でやろうと言うので、何となくその外でやろうという響きにときめきながら、私はよく晴れた倉庫の前に敷物を広げてチェス盤を置き、駒を並べた。
「あたし黒ね。格好いいし」
「白でプレーしなさい」
「なんでよ」
「白が先手よ」
瑞鶴はふむりと頷いて、どっかりと胡坐をかいた。私はその対面に正座する。
瑞鶴はちびりとカップ酒に口をつけて、するりと白い足をクレーンの様に器用に動かして、ポーンをつまんで動かした。
「チェスの経験は?」
「そんなにないわ」
「そう」
「あんたは?」
「私も、あまり」
「そーおっ」
瑞鶴はにんまりと笑った。
私は小さく肩をすくめてポーンを進める。
序盤は穏やかに進んだ。私はゆっくり考えるように打ち、瑞鶴は直感的に打った。筋肉が力強く波打ち、自信満々に白い足が高く持ち上がっては勢いよく駒を打つ。そしてクレーンの様にするすると戻り、立て膝のような形で待機する。その引き付けられ折りたたまれた脚の生む、むちっとした肉感とちらりちらりと見え隠れする暗がりに、私は尚更ゆっくりと打った。
中盤になると瑞鶴は長考が混じるようになった。景気よく私の駒を打ち倒して行ったにもかかわらず、今度は自分の駒が邪魔になって動かしづらくなってきたのだ。私は悩むように行き来する艶めかしい白を存分に楽しむ一方で、瑞鶴の焦りを煽るように早打ちに徹した。
終盤になるともう瑞鶴の陣はグズグズだった。あえて執拗に繰り返すチェックの宣言に、ひたすらキングを逃がすばかり。その先に本当の
そうした予定調和の対局を何局かこなしたのち、瑞鶴はぐへぇと可愛げもない呻き声を漏らしてあおむけに倒れ込んだ。
「ぐぬぬ……ぜんっぜん勝てない」
「むしろ、どうして勝てると思ったのかしら」
「あんまりやったことがないっていうから、せめて互角くらいかなって」
「私が将棋得意なの知っているでしょうに」
「……そうだっけ?」
きょとんとしたように見てくるので、私の方が驚いたくらいだった。
あれだけ悔しそうに捨て台詞を吐いておきながら、まさか本当にすっかり忘れているとは。
その日はそれくらいで切り上げた。
そして翌日はけん玉とメンコを持ち出し、その次の日は将棋盤を広げ、そのまた次の日はヨーヨーを見せ、更に次の日はフープを回した。そしてチェスで再度瑞鶴の脚を楽しんだ後、私は秘書艦の叢雲と久しぶりに面会し、お茶をしたのだった。
「今度はこれをしましょう」
ベッドに横たわって寝ようとしていた所に割り込んで私が差し出したものに、瑞鶴は胡乱気に視線をやって、小首を傾げた。
「今度って。これなに?」
「交換日記よ」
「は」
ぽかんと口を開けて、瑞鶴は物狂いでも見るかのように私をまじまじと見つめてきた。
「知らないかしら。一日交替で日記を書くの。ただの日記ではなく、相手へのメッセージも込めて、」
「知ってるわよ。知ってるからわけわかんないって顔してんの」
私の名前と瑞鶴の名前が表紙に書かれただけの簡素な帳面を眺めて、瑞鶴は再度わけわかんないと呟いた。
「日記なら、習慣になるわ」
「だからなによ」
「それに書いたことは残る」
「だから、なんなのよ」
「習慣になれば覚えていられるし、書き残しておけば忘れても大丈夫でしょう?」
「……知ってたの?」
「気付いたのよ。あなたは中身は覚えていないかもしれないけれど、ここ暫くずっと私と遊んでいたのよ」
「……そんな気はしてた」
瑞鶴がカップ酒を置いて、がりがりと頭をかいた。その側頭部には、長い髪の毛に隠れるように、傷痕があった。
「叢雲にも聞いたわ。あなた、片腕を失った時に、頭も打ったのね」
「ええ、そう。それで、まあ、物覚えが悪いのよ」
観念したように瑞鶴は頷いた。
瑞鶴は気まぐれ屋な娘だった。けれどそれ以上に、やったことを覚えておけないのだった。
「毎日やってるようなことは忘れないわ。ご飯食べたり、出撃したり、そういうすっかり染みついたのは。でもその日やったこととか、貰ったものの事とか、一晩寝ると忘れちゃうの。悪い事ばかりでもないけどね。嫌な事だって、忘れちゃうんだし」
そういう瑞鶴だったが、しかし日頃の気だるげな様子ややる気のなさは、或いはこの健忘症が原因なのかも知れなかった。人は昨日という過去があるから、今日の自分を確信できる。明日の自分を想像できる。けれど瑞鶴にはその昨日がないのだ。ひたすらに今日しかない。未来もない。昨日を覚えていないし、明日を想像できない。
「日記も、一時期は書いていたわ。でも、自分の字なのに、自分の事だと思えないの。私はそんな昨日なんて経験していない。誰かの日記を盗み読みしてるみたいで、気分が悪くなって、辞めちゃったわ」
「だから、交換日記しましょう」
「あのさ、だから日記なんて、」
「自分の昨日は信じられないかもしれないけれど、私の昨日は信じられるでしょう?」
「……んん」
「私は私の見た瑞鶴を書くわ。私だけの瑞鶴を。あなたの知らない瑞鶴かもしれないけれど、でも、私から見た瑞鶴を。あなたが憶えていられない瑞鶴も、私が書き残しておくわ」
瑞鶴は酷く難儀そうに体を起こして、むんずと左足で器用に帳面を掴んで、枕元に放り投げた。
「私は何度も、何度だって忘れるし、自分の事どころかあんたの事だって忘れるわ。日記だって、これだって途中で放り投げるかもしれないわ。それでもいいなら、いいわよ。やってやるわ」
「それでいいわ。私も、ただ懲りずに将棋を挑んできて欲しいだけだから」
「なによ、それ」
瑞鶴は薄く笑って、そのままベッドにもぐりこんだ。
私もまたベッドに横たわり、眠りにつくことにした。
一夜明けて、瑞鶴はどれくらいの事を忘れてしまって、どれくらいのことを覚えているのだろうかと思いながら着替えていると、ふいにぼすりと何かが背中に当たった。振り返れば、枕が落ちている。布団からはみ出た羚羊の様にしなやかな足が、今度は目覚まし時計を引っ掴んで投げつけてきたので、流石にこれは受け止めた。
「とんだ挨拶ね」
肩をすくめる私に、帳面を片手に瑞鶴は眉を吊り上げた。
「あんた、意外ととんだ助平だったのね」
「隠したことはないのだけれど」
帳面が額に突き立った。
中る中でさらに中ったな、と私はぼんやり思うのだった。
95年9月28日
拝啓、瑞鶴様へ。
こういう書き出していいのかはわからないけれど、今日から交換日記を始めたいと思います。
初日に詰め込んでしまうと後が続かないと思うので、今日は短くまとめたいと思います。
瑞鶴。私はまたあなたと将棋を打ちたいです。
あなたの白い足が駒を掴んで打つたびに、ちらりちらりと見える裾の向こう側に恋してやみません。そうして一点に集中していると、中てる中でさらに中てる感覚がわかってくるような気がしてならないのです。
是非悩みに悩んであられもないポーズを晒していただけると大変捗ります。
明日からよしなにお願いします。
95年9月29日
このド変態