A Whole New World.   作:長串望

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A Whole New World.

 あれはよく晴れた暖かな日でした。日差しは眩しく、風は柔らかく、海に跳ねる白波の、その一つ一つがちりばめられた宝石のように瞬いていました。

 重たげなドアをノックして、緊張で裏返った声を上げて、ぎこちなく部屋に入ると、ふわりとコーヒーの香りがしました。かちり、こちりと古びた時計の針が、規則正しく回っていました。

 何と名乗ったのか、実のところあまり覚えていません。

 ちゃんと名前は名乗れたように思いますが、舌は回らず、唇はもごついて、声は酷く強張っていたように思います。

 けれど、あなたが、司令官がなんと仰ったのかは今でもよく覚えています。

「なんだか随分名前負けした子が来たねえ」

 そう、そうです。その様に、可笑しそうに悪戯っぽく笑いながら、揶揄うように仰ったのでした。

「吹雪だなんていうから、きっととてつもなく冷たくて怖いやつか、とんでもなく気性の荒いやつかとでも思っていたんだけど、これなら叢雲の方がよっぽどじゃあないか」

 くつくつとあんまりにも屈託なく笑われるものだから、緊張で固まっていた私はぽかんとしてしまい、次いでどうやら馬鹿にされているようだとようよう気づいたのでした。

「ご期待に沿えず申し訳ありませんっ」

 ついついむっとして言葉尻に力が入ってしまって、すぐにしまったと青くなりました。揶揄われたのは面白くありませんでしたけれど、それでも相手は司令官なのです。

 けれど司令官はそんな私にもかえって笑顔を深くなさいましたね。

「素直な娘だ。顔によく出る。ますます吹雪なんて柄じゃないねえ。まあ程々に頑張ってね」

 淹れたてのコーヒーにたっぷりのミルクを注ぎながら、なおも子供のように屈託なく私をからかう司令官に、なんて所に着任してしまったのだろうとげんなりしたのが、なんだかとても懐かしく思えます。

 ええ、ええ、そうです。

 ふわりと漂うコーヒーの香りも、かちり、こちりと眠たくなるような時計の音も、そして司令官のあの笑顔も、みんなみんな、忘れられない大切な思い出です。

 

      ‡

 

 非番の日に寝汚なく朝寝をしてしまった時のように、なんだかはっきりとしない目覚めでした。

 最初は何だか耳障りな音が聞こえたような気がして、ぼんやりと目が覚めてきました。明石さんや夕張さんが艤装の手入れをしてくれていたあの騒がしい工廠で聞いたような、甲高い機械音だったようにも思いますけれど、なんとも目覚め切らない夢現といった微睡具合で、うるさいなあ、ねむいなあ、と枕もとの目覚ましをうるさがるような気持でした。しかし布団から手を出そうにも体が一向動かないのでした。

 瞼は重く、とろりとした水飴でも流し込んだようにどろどろとして一向に開きませんでした。体の節々はひどい風邪をひいたときのように奇妙に痛んで熱を持ち、自分の体なのに何だかいやに重たくて熱くて、できることなら骨から肉をはぎ取って脱ぎ捨ててしまいたくなるほどでした。

 やけに喉が渇いて、口の中がべたべたと粘つきました。ごくりとつばを飲み込もうとするだけでもう億劫なほどでした。

 甲高い音が聞こえなくなると、今度は話し声が聞こえるような、聞こえないような、耳の奥までしっかり綿でも詰めてしまったように、不思議と物音が遠くに聞こえました。その代わりに自分の心臓の音だとか、筋肉のきしむ音だとか、お腹の奥の背中の辺りで基幹部が静かに唸る音だとか、そういうものばかりが聞こえてきました。

 やがて体の熱が引いてくると、節々の痛みも落ち着いてきました。そうすると自分が内側からの熱だけでなく、外から柔らかな温もりに包まれていることに気付きました。頭からすっぽりぬるめのお風呂につかっているようで、鎮守府の修復槽が思い出されました。

 そうして暫くすると、そのぬくもりも少しずつ引いて行って、今度は爽やかな風が肌を撫ぜていきました。そしてそれもまた穏やかに止み、また静けさが訪れました。

 私が曖昧な覚醒と睡眠を何度か繰り返し、ようやくはっきりと目を覚ましたのはずいぶんと経ってからの事でした。

 後から聞いた話では、私は一週間もの間、ベッドの上で昏々と眠り続けていたそうでした。

 ぼんやりと目を覚まして最初に気付いたのは、枕もとに目覚まし時計がないことでした。それからもそもそと起き上がって、普段使っていた布団とはまるで違う、白く清潔なシーツに気付きました。落ち着いたベージュの壁紙が貼られた窓のない部屋は、角のない簡素な調度を置かれ、柔らかな照明で明るく照らされていました。

 見覚えのない景色に、まだ夢の中なのだろうかと瞼をこすりながら見回すと、ベッドの傍には何かのグラフと模様が浮かぶ機械が置いてありました。その機械からはするすると滑らかな樹脂の被膜に覆われたコードが伸びていて、電極になったその先が、どうやら私の体にテープで張り付けられているようでした。額と、腕と、それから胸の辺りでしょうか。何なのかはわかりませんでしたけれど、しかし勝手にはがしていいものかどうか。

 段々意識がはっきりとしてくるにつれて何だか不安になってきました。見慣れない部屋に、はっきりしない目覚め、何よりこのよくわからない機械です。その表示はどれも私には読めませんでしたが、どうも私の脈拍なんかを計っている、心電図のモニタか何かのように思えました。何しろ不安になってくるにつれてグラフがはっきり動くのです。となると、思い当たるのは病室でした。落ち着いてみれば、今私が着ているのも簡素な寝巻の様なもので、或いは病衣とか患者衣とかいうものなのではないでしょうか。

 もしかして知らない内に倒れてしまって、病院で処置していただいた後なのでしょうか。目が覚める前は一体何をしていただろうかと考えてみますが、まだ何だか頭の奥の方が目覚め切らない気分で、いまいちよく思い出せません。

 もしや記憶喪失なのではないかと恐ろしくなって自分の名前や所属、好きな食べ物やお友達の名前などを思い出してみましたが、これは大丈夫でした。

 私は吹雪。特型駆逐艦の吹雪。第三東亜鎮守府所属。好きな食べ物はクマの形をした硬いグミで、夕立ちゃんや睦月ちゃん、如月ちゃんと仲良くしていました。

 うん。大丈夫そうです。

 しかしそうなってくるとますます不安になってきました。私はなぜこんなところでこんなことになっているのでしょう。隼鷹さんやポーラさんあたりがよく、廊下や階段で不可思議にねじれながら全裸で眠りこけては、何が原因かは重々承知だけれどどうしてこうなったのかはよくわからないと真顔で釈明しているのを思い出しました。

 私は今までお酒を飲んだ記憶はありませんでしたが、それはつまりお酒を飲むとどんなふうに酔ってしまうのか全く分からないという事でもあります。もしかすると私もお酒で前後不覚になってしまい全裸で水雷魂を爆発させてしまったのかもしれません。その挙句に頭でも打ってこうしてお医者様のお世話になっているのだとしたらこれはもう悖るし恥じるし憾む他ありません。

 などと一人で悶々としていたら、がたんぷしゅうと不思議な音を立ててドアが横開きに開きました。そういえばこのドアはドアノブもないし、つるつるとしてとっかかりもないし、なんだか不思議なドアです。

 その不思議なドアから顔をのぞかせたのはやっぱり不思議な人でした。白衣の様なものを羽織っているのでお医者様なのかもしれませんでしたが、その下に着ているのは体型の見えないゆったりとした淡い色合いの柔らかそうな布地の服で、ポケットのほかにはとっかかりやボタン、また装飾などもない簡素なつくりでした。足元もつるりとしたサンダルの様なもので、すごくラフな感じです。

 手元の紙ばさみの様な板を覗き込みながらやってきたのですが、これはきっと携帯端末の一種なのでしょう。私は無線で連絡も取れるしあまりお世話になりませんでしたが、大淀さんや司令官が仕事で使っているのは良く見かけましたし、気軽にメッセージを送ったり、簡単なゲームが入っていたりと、便利なので持っている娘も多かったものです。

 そうしたざっくりとした見た目以上に不思議なのがその顔立ちでした。これははっきりと妙だというわけではありませんでしたが、じっくりと見ているとなんだか不思議なように思われたのでした。肌はアイオワさんやポーラさんたちのように白いのに、鼻はむしろ私たちのように凹凸が少なく、ちょっと見たことのない青紫色の瞳は宝石みたいでした。栗色の髪はちりちりと細かく波打っていて、うなじ辺りで緩くまとめて流している様はなんだかすごくふわふわとして柔らかそうでした。

 その時はなんだか喉元までは出かかっているのに違和感の正体が言葉にできないもどかしさがありましたが、当時の私にはいろんな人種の特徴がまじりあった風貌がそれほど不思議に思えたのでしょう。

 その人はぶつぶつと何か言いながら顔を上げ、そして起き上がって所在なげにベッドに腰を下ろしている私にようやく気付き、ぽかんと丸く口をあけました。なんだかお医者様にしてはずいぶんあどけない表情で、年の頃も随分若そうでしたから、私はいよいよもって困惑にどぎまぎしながら、曖昧な笑みを浮かべることしかできませんでした。

 何と言うべきかと私は考えました。

 ここはどこですか。うん、もっともな疑問です。でも不躾すぎるかもしれません。あなたは誰も急すぎるかも。よくわかりませんがご迷惑をおかけしました。あんまり誠意が感じられないかもしれません。すみません。咄嗟に出てきそうな一言ではありますけれど、何でもかんでもすぐに謝るのは悪い癖だとビスマルクさんにも言われました。おはようございます。うん、挨拶は大事です。なんだかちょっと間抜けかもしれません。でも大事なことです。

 そんなことをぼんやりと考えて、軽く手を上げながら私は曖昧に挨拶をしてみました。それにしてもこの所作は本当に全く何の意味もないのになんとなくしてしまう、なんだか不思議な手つきです。秋雲さんが熱中した時にろくろを回すみたいな手つきで話しているのと同じ感じです。

 さて、そんな挨拶に対する返答は、全力ダッシュで扉に飛びつき顔面から叩きつけられ、慌てて扉横のコンソールらしきものを操作して扉を開き、改めてダッシュで走り去っていくという慌ただしいものでした。さらに慌ただしいことに、数秒ほど呆然と見送っていたら、またどたばたと慌ただしく戻ってきて、たぶん外側のコンソールを操作してドアを閉めて、音は聞こえなくなりましたが多分また全力でダッシュして去っていきました。

 自分が慌て者でドジなのは重々承知しているけれど、人様の慌てようを見てここまでひどくはないだろうなと思ったのは初めての経験でした。

 今のでドアノブもとっかかりもない不思議なドアの開け方はなんとなくわかりましたけれど、さあ出て行こうかという気持ちには全くなりませんでした。

 所在なく持ち上げた手を、全く所在ないままに下ろして、さてどうしようかと堂々巡りの気持ちでした。

 今の人は恐らく様子を見に来ただけの人で、起きているのが分かって慌てて他の担当の人とかを呼びに行ったのだろうとは思ったのですが、せめて何か説明してほしかったし、そもそもお手元の機械で呼べば早いんじゃないかとも思ったのですが、何しろ何か言う暇もありませんでした。

 どうしたものかとしばらくぼんやりとグラフを眺めていると、やっぱりこれは私の体調を観察する機械のようで、先ほどまでの不安や動揺で大きく波打っていたグラフは、いまやのんびりと緩やかな波を描いていました。人が大慌てしているのを見ていると自分は却って落ち着いてくるという好例だと思います。

 落ち着いたからと言って何か現状がよろしくなるなにがしかを思いつけるわけでもないのですけれど。

 しばらくそうしてぼんやりとしていると、再びドアが開いて、今度はぞろぞろと何人かの人がやってきました。大柄だったり小柄だったり、肌の色の濃淡が違ったり、瞳や髪の色が違ったり、また髪形や眼鏡などの違いはありましたが、彼らはやっぱり同じようなゆったりとした服を着て、やっぱり同じように何人とも知れぬ不思議と混ざり合った容姿をしていたのでした。

 普段私たちが会うことのない、内陸の人たちなのでしょうか。この服装も内陸の流行りなのでしょうか。でもこの前、榛名さんが街で買ってきたのはこんな感じではなかったように思います。

 もしかしたらこの人たちはお医者様ではないのではとうっすら思い始めたのはこのあたりからでした。というのも、格好もそうですが、何よりその眼付でした。浮ついて、落ち着かず、どこか熱っぽい、そんな視線でした。

 つまり、それは、わくわくとした眼付でした。

 子供のような眼が私を見つめていたのでした。

 一番背の高い人が代表だったのでしょうか。他の人たちの間から一歩進み出て、非常に丁寧な様子で私に話しかけてきました。

 声は落ち着いた低音で、聞いている人を安心させるような柔らかく甘いものでした。子供のような期待を目に込めながらも、その微笑は余裕のある大人のもので、どっしりとした安定感がありました。切れの良い動きながら決して忙しなさを感じさせない手ぶりは、きっとこれも意味なんてないジェスチャーに過ぎないのでしょうが、なんだか意味ありげに見えてきます。秋雲さんのがエアろくろだとしたら、この人のそれはエアヨーヨーです。より立体的です。もはやスピナーの域です。

 などと半分ほど現実から目を反らしつつ、私はいよいよもって熱のこもり始めた話を遮るように、半端に挙手しながら声をかけたのでした。

「すみません……どなたか日本語のわかる方は……?」

 彼らの話す言葉は、まるで聞いたことのない言葉だったのでした。

 

      ‡

 

 英語を話せるというのはどんな気分なのでしょうかと尋ねたのは、どんな会話の流れからだったでしょうか。

 柔らかな日差しに照らされた鎮守府の中庭のティーパーティー、ではなく、曇り気味の冬の日の談話室で、ポカポカ暖かい炬燵に、なお暖を取り合うように隣り合って猫背気味に潜り込んで、私は金剛さんに尋ねたのでした。

 炬燵から出たくないからという理由で、どん、と置かれた大容量の電気ポットのお湯で、値段の割に美味しいお徳用のティーバッグの紅茶を湯呑で淹れて、金剛さんはちょっと小首を傾げて困ったように微笑みました。

「私はもともと話せましたからネー。これがstandardダカラ、ブッキーの期待するようなことはわからないワ」

 言われてそれもそうかと納得しました。私だって日本語を話せるのはどういう気持ちかと聞かれてもわかりません。私にとってはこれが当然で、説明のしようがありません。

「確か、ナチとアシガラは後から覚えた筈デース」

 意外な二人でした。お二人が英語を話している所なんて見たことがありませんでしたし、何だか印象と違います。

「二人ともUKに行ったときに覚えたネ。話が分からないのが面白くないからガンバッテ覚えたって言ったヨ。ちゃんとできてるかって付き合わされたから覚えてマース」

 印象と違うと言えば、こうして髪を下ろしてどてらを着込み、猫背ですっぽり炬燵に籠り、ブッキーは子供体温であったかいデースなんてぐんにゃり体重を預けてくるだらしのない姿は、最初の頃の印象と大違いです。普段流行りの服を着てお洒落なカフェとか行ってるのに実家に帰省した途端ジャージで過ごし始める大学生みたいです。見たことないですけど。もしくは大型のネコ科動物。

「話せない気持ちはわからないデスけど、でも、二つの国のlanguage話せれば、その分世界が広がるネ」

「世界が広がる、ですか?」

「そうネー……あ、サツマ食べる?」

「食べます」

 金剛さんは炬燵の真ん中に籠で置かれた蜜柑を二つ手に取って、慣れた手つきで剥き始めました。金剛さんは何故か温州蜜柑をサツマと呼びます。

 皮をむいた蜜柑の一房をひょいと顔の前に出されるので、ぱくりと頂きます。うん。甘い。

「ブッキーはなんで私がサツマって呼ぶかワカル?」

 わかりません。もう一つ差し出されて、ぱくりと頂こうとすると、ひょいと離されてしまいました。

「確か、Bombardment of Kagoshimaが始まりネ」

「すみません、なんて?」

「Well, Anglo-Satsuma War……英薩、No、薩英戦争ネ」

 それは聞いたことがありました。随分と昔のお話です。

「当時、UKは日本の事見下してマシタ。軍艦もない。砲台もあまりない。デモ、サツマのサムライは勇ましく戦って、UKの艦隊上陸させず、追っ払ってしまったネ。勿論、UKは大きな国ダカラ大したdamageなかったケド、頭にrevolver乗っけたmonkeyの思わぬ奮戦にビックリ」

「よくわからないですけど凄いこと言ってません?」

「そう、スゴイ戦いだったワ」

「そこじゃなくて」

「Then サツマのサムライもUKのスゴさ知って、お互いもっと分かり合わないといけないってなりマシタ。そのときサツマがお土産にくれたのがこの蜜柑ネ。それ以来、日本の蜜柑のコト、Satsumaって呼んでるらしいネ」

 まさか冬場何気なく手を伸ばして気づけば一箱二箱なくなっている蜜柑にそんな歴史があったとは知りませんでした。金剛さんがひょいひょいと寄越してくれるので無心にまくまく食べていましたが。

「もし私がUKの事しか知らなかったら、日本の事しか知らなかったら、こんなこと知らなかったヨ。でも私はどっちも話せるし、どっちのこともわかるカラ、こういうコト知れた、そういうコト、ワカル?」

 頬っぺたムニムニされながら餌付けされているので何だか話に集中できませんでしたが、なんとなく言わんとすることはわかりました。日本語しかわからない私は、興味があってもなかなか外国のことを知ろうとはしないでしょう。でももし外国語が分かれば、もっと積極的に外国のことに興味を持って挑んでいけるかもしれません。普段何気なく見落としている外来語にも、目を向けられるかもしれない。

 それが、世界が広がるということなのかもしれません。

「わかりました! 勉強してみます!」

「Good! 早速私とlessonを、」

「響ちゃんにロシア語習ってきます!」

「What the f……huh. Ok, ガンバッテクダサーイ……」

 結局活かせなかったのが残念でなりません。

 

      ‡

 

 目覚めてから暫くの間、私の毎日は単調なものでした。

 言葉が通じないということが分かった彼らは、試行錯誤を繰り返しながら、なんとか私の言葉を学び、そして私が彼らの言葉を学べるようにしてくれました。

 今でも辞書代わりに使うことのあるグラフ・ボードはエルセンという技師の作ってくれたものでした。これは手のひらに乗るくらいの板状の端末で、画面にいくつかの分類ごとにまとめられた絵や写真、動画を映し、タップするとそれを何と言うのか音声で教えてくれる機械でした。

 グラフ・ボードの最初の写真には、エルセンをはじめとした研究者たちが映っていました。使い方を教えながら、身振りも交えて皆さんが名乗ってくれたので、私もまた同じように自分を指して、フブキ、とはっきりと発音するよう心掛けて名乗りました。すると彼らは何度もフブキ、フブキと私の名前を呼び、そして何やら興奮して喋っていたものです。

 その時は、やっとコミュニケーションらしいコミュニケーションが取れそうだと彼らが喜んでいるのだと考えていましたが、今になると、成程、彼らの興奮もわかるというものです。他でもない彼らにサルベージされたことはきっととてつもない幸運だったのでしょう。

 グラフ・ボードの助けもあり、私は暇を見つけては顔を出してくれる彼らの言葉を少しずつ学んでいきました。それは響ちゃんにロシア語を習っていた時のように楽しい時間でした。いやはや全く呑気なものでした。

 ヨーロッパやアメリカ、ロシア、どこで目覚めたにしろ、彼らが日本語がわからなくても、音声から翻訳するようなアプリケーションはいくらでもありましたし、第一私は艦娘なのだからすぐにも照会がなされて連絡があってしかるべきだったのです。

 私がようやく違和感に気付き始めたのは、グラフ・ボードの画像の中に見慣れないものが増えていき、そして見知ったものが存在しないことに気付いたのと同じ頃でした。最初はただ、異国の地であるからと納得しようとしました。しかし、いつまでもそれで誤魔化し続けることはできませんでした。

 また、片言ながら喋れるようになってきていた彼らの言語の特徴にも、困惑し始めていました。聞き慣れない単語が多い以上に、聞き慣れた単語が多く存在していたからでした。フランス語と英語は半分くらいは語彙が共通していると以前聞いたことがありました。同じラテン語から分かれたから、大本は同じなのだそうです。だから、ヨーロッパの言語で、似通った単語があると感じるのはおかしくはないでしょう。でもそこにロシア語が加わったら? 中国語が混じったら? そして、そう、日本語がそこに遺っていたら?

 様々な言語のちゃんぽんなのだと気づいてしまえば、その後の習得は早かったように思います。認めたくないと思う気持ち以上に、知らずにはいられないという焦りが、私を学習にのめり込ませたように思えました。

 そうしてある日、私は意を決して尋ねたのでした。

 

 

「いま、は、いつ?」

 

      ‡

 

 不幸というのが山城さんの口癖でした。

 朝目が覚めれば不幸だわ。天気が悪ければ不幸だわ。時計の電池が切れれば不幸だわ。敵の攻撃が当たれば不幸だわ。駆逐艦に砲塔にしがみつかれてぶんぶん振り回してはきゃあきゃあ喜ばれながら不幸だわ。当たり付き自動販売機でジュースが一本当たったのはいいけれど二本も飲みきれなくて不幸だわ。お財布を持ちながらだったのでうまく二本とも持てず足の小指に落っことして不幸だわ。挙句炭酸だったので開けたときに盛大にびしょぬれになって不幸だわ。部屋で着替えようとしたら遊びに来た私に熊さんプリントの下着を見られて不幸だわ。沈みゆく夕日が目に染みて不幸だわ。暖かいお布団に横になりながら不幸だわ。

 とかく山城さんの一日は不幸だわという呟きに満たされていました。

 どうしていつもいつもそんなに不幸だと嘆いているのですかと尋ねたことがありました。

 朝はお姉さんの扶桑さんと美味しいコーヒーでお目覚め。雨の日は時雨さんとチェスなんかして、時計の電池が切れればお買い物の口実に。戦いの中で活躍しないことなんてなくて、お誕生日には駆逐艦のみんなからいつものお礼にと沢山のプレゼントも貰っています。ジュースの件だってそもそも当たるのがすごいです。夕日の美しさに心動かされる感性は繊細で羨ましい。お姉さんと隣り合って布団に入れる素晴らしさ。不幸なんてことありません。

「あなたに下着見られた件は……」

 どうしてこんなに満たされた毎日なのに、いつもいつも不幸を嘆いているのでしょう。山城さんは少し考えるようにして、それからゆっくりと語ってくれました。

「そうね。そうだわ。毎日がとても満たされている。姉さまがいて、提督がいて、みんながいて、あなたがいて……とても、とても満たされているわ。ご飯は美味しくて、お布団は暖かくて、ここはとてもとても居心地がいい」

 山城さんはそれから、じっと私を見つめました。息を一つ吸って、息を一つ吐いて、一つ吸って、一つ吐いて、それからもう一つ吸って、もう一つ吐いて、またもう一つ吸って、そうしてゆっくりと呟きました。

「だからとてもとても不幸だわ」

 ことり。乾いたガラスのようにかたく、そして美しい溜息でした。

「穏やかな日々はいつまでも続かない。いつか私は遠い海の真ん中で、火を吐きながら沈むでしょう。或いは姉さまが先かもしれないし、みんなが先かもしれない。もしかしたらあなたが一等先に沈んでしまって、私の心をきっと粉々に砕くでしょう。いまがとてもとても満たされているから、いずれ失われるその時に、私はきっと耐えられない。ぬくもりに慣れた身では、凍てつく寒さに凍えてしまう」

 山城さんはそれから、またじっと私を見つめました。息を一つ吸って、息を一つ吐いて、一つ吸って、一つ吐いて、それからもう一つ吸って、もう一つ吐いて、またもう一つ吸って、そうしてゆっくりと呟きました。

「だから、とても、とても、不幸だわ」

 いずれ来る結末に、山城さんのこぼした溜息は、きらきらと煌くガラスの破片のように、山城さん自身を切り刻んでいくように思えました。

 それはとても美しくて、でも何だかそわそわと胸の中が落ち着かない気持ちになって、気づけば私は山城さんの手を取っていました。両手でぎゅうと握りしめると、冷え性気味の冷たい手にじんわり私の体温が移って行って、まるで火傷でもしたように驚く山城さんが間近に見えました。

 そんなことはありませんと私は言いました。

 そんなことはないんです、大丈夫ですと私は言いました。

「私は絶対沈んだりしませんし、みんなだっていつまでも元気に騒いでいます。扶桑さんも山城さんを置いて行ったりしませんし、それで、それから、山城さんも、きっときっと、いつか遠い海の向こうまで、ただ遊びに行くためだけにクルージングできるような、そんな日が来るんです。だから大丈夫。山城さんの不幸なんて、私が食べちゃいます!」

 山城さんは驚いたように大きく目を見開いて、しばらくただ黙って私を見つめていました。

 それから息を一つ吸って、息を一つ吐いて、一つ吸って、一つ吐いて、それからもう一つ吸って、もう一つ吐いて、またもう一つ吸って、そうしてゆっくりと呟きました。

「がんばりなさい。じゃないと、許さないんだから」

 泣きそうに微笑んだくしゃくしゃの顔は、物憂げな溜息よりもずっとずっときれいに見えました。

 約束を守れなかったことが、今でも気がかりです。

 

      ‡

 

 不完全な[[rb:交易共通語 > リンガフランカ]]で何度も何度も聞き直して、もうどうしようもなく動かしようがない、他に解釈のしようがないと認めざるを得なくなったどん詰まりで、私は独り呆然としていました。

 私の質問に根気よく説明をくれたのはデュアガという老学者でした。彼は考古学者でした。彼がもっとも私の質問に適していると判断されたのでした。

 そうです。私の、私たちのあの日々は、考古学の一ページに記述される化石化した地層の一つになり果てていたのでした。

 デュアガは私を部屋から連れ出し、長い長いエレベーターに乗せて、窓のない施設から外へと連れだしてくれました。機械仕掛けの扉が開いた先で、潮風が私を出迎えてくれました。

 私がヨーロッパかどこか、見知らぬ土地の病院か何かかと思っていた施設は、洋上を回遊する一隻の巨大な船でした。メガフロート、と彼らは呼んでいたでしょうか。

「君との会話からいろいろ調べてみたんだがね」

 老学者は長いひげをしごいて囁くように言いました。

「そうさね。私たちのご先祖がこのメガフロートに住むようになるよりもずっと前、まだ陸地があったころの話だというから、そうだねえ、ざっと二千年から三千年、ともすると五千年から、もっと昔かも知れない」

 何しろ多くの資料が失われてしまって、サルベージされたものからだけでは正確な年代はわからないんだ。老学者の言葉を、私は殆ど他人事のように聞き流しながら、ただにせんねんとオウムのように繰り返して、佇んでいることしかできませんでした。

「君を引き上げたとき、最初は昔の船の残骸か何かかと思ったよ。見たこともない金属の塊に、フジツボや藻がみっしりと張り付いていた。慎重にそれらを削り取っていくと中に女の子がいるんだから、たまげたものだ。そしてそれが生きているというのだから」

 艦娘の体は何しろ丈夫ですから、変化の少ない海底で、表面をフジツボなんかで「保護」されたうえで仮死状態にあったのなら、そういうことも有り得るのかもしれません。そんな前例を私は聞いたことがありませんでしたが、しかし私自身がその第一例としてここに立っているのですから。

 目や耳もちゃんと利きますし、手足に痺れもないし、食欲もあれば夜もちゃんと眠れて、記憶の方も鮮明です。私の体は二千年か三千年、もしくはそれよりも永い眠りを経ても健康なようでした。

 ただ、心ばかりは健やかにはいられませんでした。

「約束を」

「うん?」

「約束を、破ってしまいました」

 老学者は黙って、ただ私をひとりにしてくれました。

 潮風を頬に受けながら、私はしばらくぼんやりと海を眺めていました。海の色も、波の遊ぶ様も、潮風の匂いも、目覚める前と何一つ変わるところがなくて、しかしそのどこにももうあの日々はないのだという事実が、私を酷く打ちのめしました。

 毎日のご飯は美味しくて、お布団は暖かくて、いろんな人に良くしてもらって、きっと素晴らしい日々なのでしょう。でもそこには、あの日々はないのです。

 ふわりと漂うコーヒーの香りも、かちり、こちりと眠たくなるような時計の音も、そして司令官のあの笑顔も、もうないのです。

 司令官も、睦月ちゃんも如月ちゃんも、金剛さんも、山城さんも、みんなみんな、ここにはいないのです。もうずっとずっと昔に、みんないなくなってしまっているのです。

「ああ、いや……いなくなっちゃったのは、私の方なんだ」

 沈んでいなくなってしまったのは、私だった。

 司令官、困っただろうな。

 睦月ちゃんと如月ちゃん泣いてくれたかな。

 金剛さんにはお世話になったのに、何にも返せていない。

 山城さん、きっと悲しませてしまった。一緒にクルージングに行こうって、そう言っていたのに。不幸にさせてしまった、なんていったら、傲慢かもしれないけれど、でも、約束を守れなかったな。

 許さないと彼女は言っていたけれど、その山城さんも今はもういない。謝ることもできやしない。もう誰も、私のことを許してくれないどころか、叱ってくれもしないんだ。

 いろんなことが頭の中を巡っていきましたが、しかし、不思議と涙は流れませんでした。心がすっかり呆然としてしまって、ただただ事実を飲み下すことだけで精いっぱいだったのでした。

 何もかもが変わってしまった世界で、私だけがひとり取り残されていました。

 深海棲艦もいない。艤装ももうない。何も特別なものなんて持っていない沈み損ないの駆逐艦に、いったいこの世界で何ができるというのでしょうか。港を見失った難破船のような気持ちで、私は果ての見えない海をただじっと見つめることしかできませんでした。

 

      ‡

 

「船速が速い訳でもない。砲の火力が高い訳でもない。艦載機を積める訳でもない。ビームとかロケットパンチもない。特型という割には普通の駆逐艦だよね」

「ビームとロケットパンチはどんな艦娘でもないと思いますけど……」

「ロケットパンチする長門型がいるという噂は聞いたけど」

「まさかあ」

 何でもない昼下がり、特筆すべきことのない午後、もう決して届かないいつかのあの日。

 差し込む日差しは柔らかく、滑り込む風は涼しくて、なんだか眠くなるような、そんななんでもない日の事でした。

 司令官に淹れて貰ったコーヒーに、角砂糖を一つ落とし、そっとミルクを垂らしてスプーンでくるりと軽く混ぜる。コーヒーの黒とミルクの白がゆるゆると渦巻いてマーブル模様を作り、柔らかな茶色に溶けていくのを眺めるのがささやかな楽しみでした。

 かちり、こちり、眠たくなるような時計の針の音を聞きながら、コーヒー・マーブルにふう、ふう、と息を吹きかけては、ちびり、ちびりと口をつける。あちち、ふう、あち、ふう、ふう。

「もう夏になって、また暑くなるから、そうなったらアイスコーヒーにしようか。水出し用の美味しい豆を、前にローマに教えてもらってね」

 ブラックのコーヒーを熱がる風でもなく楽しむ司令官は、悔しいけれどちょっと格好いい。でも格好良さと美味しさはいつもいつもは両立しないんだって、悪戯っぽく笑って角砂糖を三つも四つも落としながら教えてくれたから、私は今日も角砂糖を一つに、ミルクを軽く一垂らし。そしてふうふう冷ましながら少しずつ飲んで、時折さくり、さくりとバターのきいたクッキーをかじるのでした。

 金剛さんとのお茶会は、二人きりの時も、みんなでの時も、いつもお喋りしながらのものでした。かしましさは決してやかましさではなくて、賑やかで華やかで、楽しいひと時。

 でも執務室でのコーヒーブレイクでは、私たちは、私と司令官は、いつも不思議と無口でした。そしてそれでなんにも不足はありませんでした。少しの寂しささえも感じませんでした。

 私と司令官の間に、言葉にしないでも通じ合えるような理解は、実のところなかったように思うけれど、それどころかしょっちゅうお互いに求めるものが分からなくて首をかしげるような始末だったけれど、でも私たちは無理に会話を広げたりはしようとはしませんでした。

 いつもいつもただ黙ってコーヒーを飲んで、時折クッキーをかじって、それでも退屈なんてことはなくて、気まずさもありませんでした。

 金剛さんのお茶会のように、笑いあってお喋りをするような賑やかさは人生を楽しませてくれる。でも沈黙が苦痛でない穏やかさは人生を豊かにしてくれる。いつだったか、司令官はそんなことを言ったような気がします。どういうことですかと聞くと、実は私もよくわからないと真顔で返されました。でも何となくはわかる気がすると言われて、私もなんとなく頷きました。それは多分、かちり、こちりと眠たくなるような時計の音であったり、マーブル模様からふわりふわりと立ち上るコーヒーの香りであったり、時折隣から聞こえる鼻を鳴らす音であったりするのだと、そう思います。

 とは言え私たちは沈黙を愛しているわけではありませんでした。いい友達ではいたいけれど、義務を伴う敬虔な信者ではありませんでした。

 穏やかな微睡みのような静寂の間に、潜水艦が突然顔を出すようにとりとめのない話をしました。大抵は前触れもなく、思い出したように何かを語っては、それを聞いて一言二言返事をするような、本当に小さな会話でした。

 そうして、それらは後になって、何でもないときに突然胸の裡から泡の様に浮いてきては思い出され、思いの外に胸を打つのでした。

「吹雪はさ、ブリザードって感じじゃないよね」

「なんですか、それ」

「ぽやっとしてるし、押しに弱いし、雪要素まるでなし」

 ブリザードのように苛烈な奴だというのもあんまりうれしくはありませんでしたが、でもそれにしたってぽやっとしてるだとかなんだとか、これもまた到底褒められている感じではありません。

 むっとして顔をしかめると、司令官はおかしそうに笑って、たっぷりとコーヒーの香りを吸い込んで、それからもうひとつ笑いました。

「うん、でも、そういうのも、いいと思う。正直な所、君が最初にうちに来たとき、ちょっと怖くてね。吹雪なんて名前だから、きっととてつもなく冷たくて怖いやつか、とんでもなく気性の荒いやつだって」

 そういえばそんなことを言われたような気もしました。

「でも実際話してみれば全然そんなことなかった。大人が恥ずかしくなるぐらい、君は真面目で、努力家で、底抜けに優しくて、それでちょっと抜けてて。私たちは、君たちを戦場に送り出すことしかできない。でもね、吹雪、君の背中を見ていると、いつも私は言いたくなるんだ。勝手だなって思うんだけど、言わずにはいられなくなるんだ。がんばれ。がんばれ吹雪。ってね」

 だって君は誰よりも頑張り屋さんなんだから。

 衒うこともなくまっすぐに向けられた言葉に、私は黙ってコーヒー・マーブルを見つめて、なんと返したものかわからないまま、うやむやにしてしまいました。

 最近になってようやく、なんて返したらよいのか、なんとなくわかったような気がします。

 

      ‡

 

 すっかり塞ぎ込んで部屋に閉じこもった私を連れだしてくれたのは、ニナという職員でした。私が目覚めたのを最初に見つけてくれた人で、私が住まわせてもらっている研究棟の職員ではあるけれど、学問のことはさっぱりわからないとカラッと笑うような子でした。

 彼は、というべきか、彼女は、というべきか、ニナは男性でも女性でもない中性という性別で、何しろ生まれたときから珍しい第三性の生まれということもあって、深く考えないことに関してベテランのプロフェッショナルでした。

 ニナはすっかり塞ぎ込んでしまった私を何でもないように連れ出して、あれこれ言う間もなく余所行きの服を着せて、街へと連れだしてしまいました。

 勝手に出てきていいものなのかと聞けば、多分よくないけどまあいいんじゃないなどと言うものですから、自分の心配事なんて吹き飛んで大いに慌てたものでしたけれど、ニナはなんとかなると繰り返すばかりでした。

 ニナは私を連れて本当にあちこち歩き回りました。メガフロートという巨大な船のその甲板の上に広がる町並みは、なんだかとにかく雑多で、猥雑で、そして活気に満ち溢れていました。

 人々はみなニナ達のようにいろんな人種の特徴が入り混じっていて、口にされる言葉は手加減のない早口で、私の耳にはまるで各国のニュースを同時に流されているような気分でした。

 りんごやみかんのような、見たことのあるものに近い食べ物、またブロック状に加工されて山積みされた何だかよくわからないもの、あきつ丸レポートのラベルを打たれたメモリ、機械部品のようなもの、大鍋で煮込まれる料理。通りには様々な店が立ち並び、そしてそこにいる人々は誰もが人の顔色など知ったことではないというように自分たちの毎日を生きていました。

 目の回りそうな目まぐるしい人の行き来に、鼻が混乱しそうな雑多なにおい、耳が根を上げるような音の洪水に、私はただただニナに手を引かれてついていくことしかできませんでした。

 あれはなになにでこっちはあれこれ、そこのお店は某がおいしくて、あっちのお店は怪しいけど行ったことなくて、なんて、ニナはとにかくいつまでも口を閉ざすことがありませんでした。私が質問するまでもなく、ニナは覚えきれないほどたくさん私に一方的に説明しては、するりするりと人込みを抜けて次へ次へと歩いていきます。

 賑やかな街並みは活気にあふれていて、そしてその間をすり抜けていく度に、何もかもが変わってしまったこの世界に、私の心は冷えていくのでした。どれだけ楽しそうでも、どれだけ生き生きとしていても、そこに私の日々はないのでした。

「ニナ、ニナ、もう帰ろうよ」

 私は何度もニナにそう言いました。歩くたびに足は重くなり、そしてそれ以上に心がくたびれててきたからでした。

 けれどニナはかたくなに、もうすこし、もうすこしだからと私の手を引き続けました。

 あまりに勝手で、あまりに我儘な子供みたいなニナに、私はもう少しで怒鳴り散らしてしまうところでした。私は何も見たくない。何も聞きたくない。私は疲れていて、何も考えたくない。ひとりにして。どうして私を引き上げたりなんてしたの。

 たくさんの言うべきではないことが喉元までせりあがってきて、それでも実際にはそれを口にしなかったのは、何も司令官相手に鍛えられた私の忍耐力のおかげではありませんでした。

「フブキ!」

 ニナが手を引いて訪れたその店先から漂う、香ばしい香りのせいでした。

 ニナに言われるまでもなく、私はその香りに足を止めて、店先の大鍋で煮られる液体をまじまじと見つめていました。特徴的な香りが、私の鼻から入って肺を満たし、強烈に記憶を揺さぶって、ぽろぽろとこぼれるようにとりとめのないエピソードを思い出させました。

 気難し気なおじさんがむっつりと、おたまでブリキのカップに注いでくれたそれを、ニナがずいと私に押し付けました。真っ黒で、香ばしく、どこか、甘い香り。

 それはコーヒーでした。

 口に含めばやけに甘ったるくて、酸味があまりないかわりにやけに苦みも強くて、ずっと火にかけているから香りもだいぶ飛んでしまっているけれど、それは確かにコーヒーでした。

「コーヒーの話良くしてたからね。探したよ」

 ニナもブリキのカップを手に取って一口含み、そして盛大に顔をしかめた。

「うぇえ、あまにがっ」

 おじさんがますますむっつりと顔をしかめるのも気にせず、ニナはまずいまずいと連呼します。

「うん、まずいね」

 私もそう頷きました。

 きっと司令官が飲んだら、こんなのはコーヒーじゃないとぶつくさ言ったことでしょう。私だって司令官がこんなコーヒーを出したら、きっと顔をしかめて文句を言ったことでしょう。

 でも、それはコーヒーでした。

 ふう、ふう、と息を吹きかけては、ちびり、ちびりと口をつける。あちち、ふう、あち、ふう、ふう。

 ミルクもないし、砂糖は入れ過ぎ、焙煎しすぎて焦げ臭い。でもそれは、ニナが私の為に探してきてくれた、飛び切りのコーヒーなのでした。

 ニナと二人、廃材に腰を下ろして、夕日のとろけかける水平線を眺めて、しばらくコーヒーを飲みました。

 道中であれだけ騒いでいたのに、腰を下ろしたニナは静かなもので、私も何か言うこともなくて、何というわけでもなく、私たちは自然と黙ってコーヒーを飲みました。

 時計の音はしませんでした。コーヒーの香りもひどいもの。雑然とした廃材の上で、潮騒だけを聞きながら、なにもかもなにもかも、全てが全て変わってしまった世界で、でも、私はその時確かにコーヒーを楽しんでいたのでした。

「このメガフロートね」

 ニナが言いました。

「私たちのおじいさんのおじいさんの、そのまたおじいさんの、ずっとずっとおじいさんたちの、とにかくずっと昔から海に浮かんでて、もう誰が作ったとか、どうやって作ったとか、よくわかってないんだけどね」

 海全体が夕日を溶かして、溶鉱炉のように橙色に染まって眩しいくらいでした。静けさの中で、世界が一面染められてしまうようでした。

「名前だけは残ってるんだ。このメガフロートの名前」

 ニナは可笑しそうに悪戯っぽく笑って、それから私を見て、もう一度笑いました。

「フブキ」

「なあに?」

「違うよ。フブキなんだ」

「何が?」

「このメガフロートの名前。フブキっていうんだ」

 フブキ。それは確かに私の名前と同じ響きでした。

「君がフブキって名乗ったから、みんなびっくりしたよ。すごい偶然もあるもんだって。もしかしたら、なにかあるのかなって」

 確かに、それはすごい偶然でした。海の底に沈んでいたちっぽけな駆逐艦を、たまたま引き上げた船の名前が同じ吹雪だなんて。

「でもフブキとお話してたらね、成程フブキだなって思ったよ」

「どういうこと?」

「フブキってね、すごくすごく古い言葉なんだ。自分たちの住んでいる所の名前だし、ずっとずっと昔から、大切にされてきた言葉なんだ。子供たちはみんな、フブキみたいにって言われるんだ」

 だから、君がフブキなのはぴったりだ、とニナは笑いました。

「真面目で、努力家で、優しい。そういう意味があるんだ」

 コーヒーの香りに包まれて、夕日の赤に曖昧になる世界で、ニナの笑顔が不思議に司令官の悪戯っぽい笑顔と重なりました。

「フブキはまさしくそんな感じだよ。がんばれって、応援したくなるんだ。だから今日は、ちょっとお節介しちゃって……」

 夕日の赤はどんどん世界を侵食して、何もかもがにじんでぼやけて曖昧に見えました。夕日の熱で、頬がじんじん熱いくらいで、夕日の切なさで胸が締め付けられるようでした。

 そうです、全部全部、夕日のせいなんです。

「フ、フブキ? どうしたの? 大丈夫?」

「それ、一つ足りませんよ」

「え?」

 こんなにたくさんのものが胸の裡からあふれ出てくるのは、きっと夕日があまりに綺麗だから。

 だから、これは悲しい訳じゃないんだ。

「真面目で、努力家で、底抜けに優しくて」

 これはきっと、嬉しいからなんだ。

「それでちょっと抜けてるんだ」

 二千年越しに届いたメッセージは、今も私の背中を、がんばれって押してくれたのだった。

 

      ‡

 

 何もかもが変わってしまった世界で、少し落ち込んだりもしましたけれど、私は何とか元気でやっています。

 言葉もなんとか通じるようになって、体の方も異常がないことが分かり、私もいつまでもお客さんでは悪いので、お仕事をさせてもらうことにしました。

 最初は簡単なお手伝いとして、昔のことを思い出しては文章に直して、学術的資料として研究に役立ててもらっていました。

 今はそれも落ち着いて、ニナに勧められて絵本を描いています。ニナは私の思い出話を随分気に入ってくれたようで、みんなにも知ってもらいたいとそう言ってくれたのでした。

 今も絵本を描きながら、息抜きとしてこうして思い出話をまとめています。あの甘ったるいコーヒーを飲みながら、昔のことを少しずつ思い出しては、今の生活と混ぜ合わせて、マーブル模様に溶かしていく。いつかきれいに溶け合って、素敵な一杯に仕上がってくれるといいな。

 いつもがんばれって応援してくれた司令官に、なんて答えればよかったのか、いまはわかる気がします。深く考えずに、素直に、ただそう答えればよかったんですね。

 だから、絵本のタイトルはこうなりました。

「吹雪、がんばります!」

 背中を押してくれたみんなに、届けばいいな。

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