ある日、夢も現も曖昧なまどろみから目覚めた駆逐艦電は、自分がぽろぽろと零れ落ちる涙もそのままに呆然とたたずんでいることに気づいた。
砕けたガラス片が乱雑に反射したような光がちかちかと瞬いて、戸惑うように何度も瞬きする間も、涙は止めどなく零れては落ちた。
「どうしたの?」
気だるげな声に振り向けば、駆逐艦望月の姿がそこにあった。板張りの廊下を足を擦るようにやってきて、眠たげな眼で胡乱気に電を見つめていた。
どうしたのかと問われて、しかしどうしたのか自分でもわからず、ただ訳も分からないまま零れ落ちる涙を止めようと袖で目元を押さえたけれど、涙は一向止まらなかった。
「あ、あれ、どうして、なみだが」
「どっか痛いの?」
「ち、ちが、」
「悲しいの?」
違う、と思う。
痛むところはない。悲しくもない。ただ不思議と涙が止まらず、こうして望月が声をかけてくれることさえもなんだか涙の引き金となってしまっているようで、涙腺が壊れたように涙は流れ続けた。
違うのです、違うのです、と何が違うのか自分でもわからないまま、混乱のままに電は呟いた。望月はただ面倒臭そうに頭をかいて、そうして黙って傍で立っていた。慰めの言葉を投げてくれる訳でもなく、肩を抱きしめてそっと撫でてくれる訳でもなく、けれど望月は手持無沙汰に、しかし急かす事もなく電の涙が止まるのをただ待ってくれた。それが何だか無性に切なくなって、電はまた少し泣いて、それからようやく落ち着いた。
「ご、ごめんなさい」
「別に謝るようなことじゃあないよ。誰だってなんだかわけもわからないのに、泣きたくなることくらいあるし」
「望月も、そういうときがあるのですか?」
深い意味のある問いかけではなかった。ただ、望月の泣いている所を想像しかねていた。
「そうだなあ。珍しく朝早く起きて、二段ベッドの上から見下ろしたら、みんながすやすや眠ってるのを見つけた時とかかな」
「ふぇ?」
電の訝しむ様な視線も気にせず、望月は指折り数えた。
「食堂でご飯食べるとき、約束してたわけでもないのに、いつもの面子がいつもの席に着いた時とか、艦隊行動中、前を見たら背中があって、振り向いたらちゃんと前向きなよって叱られた時とか」
いくつもの当たり前を言い連ねて、それから、と望月は窓の外に目をやった。きらめく朝日がガラス窓に弾けて、ちかちかと瞬いていた。
「何をしたらいいのか思いつかないくらい、本当にやることがなくなった時とか、かな」
望月の言葉は電の胸にすとんと落ちた。
望月は或いは今、わけもわからずに泣きたいでいるのかもしれなかった。
戦争が、終わったのだった。
すべて、終わったのだった。
鎮守府は寂しくなるほどに静かだった。でもそれは失われた静けさなのではなかった。きっと満ち足りた静けさなのだった。役目を終え、眠りについた静けさなのだった。
静かの海を裂いて進むように、電は年経た板張りの廊下を踏んで軋ませ、あてもなくさまよった。
談話室でひとり、何をするでもなくぼんやりと煙草を呑んでいた龍驤を見つけたのは、電自身が静けさの中に溶け込みかけたころだった。
半ばまで開けた窓からの風で、時折涼しげな音を立てる風鈴に煙の輪を投げかけていた龍驤は、電に気付くや自分の子供じみた一人遊びに気恥ずかしげに苦笑し、灰皿に吸いさしを押し付けた。
「なんや、キミはまだおったんやな」
「龍驤さんこそ」
「まあ、うちは、なんやここでの生活に馴染んでしもたからなあ」
龍驤の笑みはいつもどこかに微かな苦みを纏わせていた。それは経年によって浮かんだ錆びのようでもあったし、経験によって刻まれた深みのようでもあったし、そしてまた諦念によって沈んだ悔いのようでもあった。
愛嬌のある顔立ちと小柄な体躯に見合わず、龍驤には積み重ねてきた人生があった。望んで積み重ねてきたものではなかったかもしれない。輝かしいものばかりの積み重ねではなかったかもしれない。誇らしく胸を張れるような高みではなかったかもしれない。
しかし龍驤にはそれを嘆くつもりも、憤るつもりも、悔いるつもりもないようだった。至るべくして至ったのだと、ただただ諦念に似た色があった。
泣きはらして赤くなった電の目元をちらりと見遣って、しかし龍驤は何も言わない。言わない気遣いがあった。
「龍驤さんはこれからどうするのですか?」
「さあ、どないしようか」
龍驤は何気なく懐に手を伸ばし、そして電の姿に気付いたように肩をすくめて煙草を諦めた。
「どないしようか、どないなるんか、そう思いながら、気づいたら龍驤やっとったもんな」
「気づいたら、なのですか」
「別にやりとうてやっとった訳やない。や、別に嫌やった訳やないで。けど別に、なんでもよかったんよ。他の何者でも、他の何処でも、構へんかった。ほんで、たまたまこないな道に入って、たまたまこないなことになった、ちうだけやな」
そこにはやはりどんな色も見当たらなかった。
ただ諦めにも似た慣れがあるだけだった。
「せやから、この先も、きっとうちはやることやるだけや」
ちりん、と風鈴がぬるい風に揺れた。
「どないにしても、うちは龍驤やさかいに」
何気なく足を運んだ食堂は、やはり静かの海に沈んでいた。
けれどその静けさの中にふわりと漂うものがあって、それを追いかけるように電は厨房を覗き込んだ。
年期の入った雪平鍋がことことと弱火にかけられていた。鍋を見下ろすと落し蓋の向こうから甘く優しい香りが立ち上った。煮物を炊いているのだった。
またもや電はほろりほろりと自分が涙を零していることに気付いた。有り触れた煮物の匂いが、電の涙腺を軟らかく煮溶かして、とめどなく涙をあふれさせた。ちかちかと確かな像にならない光の欠片が、目の奥で踊った。
「あらあら、どうしたのかしら」
優しく肩を抱かれ、振り向けばそこには間宮の労わるような微笑みがあった。割烹着からは染み付いた煮炊きの匂いが柔らかく立ち上り、電の鼻腔を満たした。それは不思議と懐かしい匂いだった。
「ち、ちがうのです」
何が違うのだろうか。
電は自身で自身の涙の理由がわからなかった。しかしそれは悲しみからでも寂しみからでもないはずだった。辛くもなければ痛くもないはずだった。ただ、胸の中が何かで満たされ、言葉に変換することのできないそれが涙に変わって溢れてくるのだった。
「大丈夫。大丈夫よ」
「ああ、あ、あうううあ」
堪え切れず漏れ出る嗚咽を、間宮はただ抱きしめて、その胸で受け止めてくれた。
懐かしさに満ちた涙を流し終えた電に、間宮はそっと雪平鍋で炊いた里芋を頬張らせてくれた。それは甘く、暖かく、そしていつかと変わらない味がした。それは間宮の味だった。それが間宮の味だった。
この味をきっと忘れない。
電のまなじりをまた一筋涙が流れた。
厨房を出ると、食堂の一席に最上の姿があった。
見れば天ざるを肴に、日も登り切らない朝の内から徳利を傾けている。
「……もう呑んでいるのですか?」
「あ、電ちゃん。なんだか恥ずかしいところ見られたかな」
「恥ずかしいとは思っているのですね……」
「でも朝から飲むのがまたおいしくてね」
呆れる電に、さほど悪びれた様子もなく最上はオクラのからりと挙がったところに塩をちょいとつけて一口に頬張り、無邪気にうまいうまいと相好を崩した。それでぬる燗の酒をきゅっと口にしては堪らないとご機嫌なのだから全く悩みというものが見えない。
まるで子供の様な喜びように、電も何だかすっかり呆れ果ててしまった。
いつもであれば窘めるだろう姉妹たちの姿がないから、実に悠々と酒を呑み、天ぷらをかじり、そして窓から流れ込む緩い風に目を細めててとまるで楽隠居だ。これですっかりだらしなく酔いどれているのならば電とて窘めただろうが、なにしろ誰に迷惑をかけるでもなく、気持ちよくほろ酔いを保って、酒を呑むにしろ天ぷらをかじるにしろ、見ていて気持ちのいい粋ぶりだから、文句のつけようもない。
まあ立ちっぱなしもなんだから座りなよと席を勧められておとなしく腰を下ろせば、手ずからメラミンの湯呑に茶を汲んで持ってきてくれるし、気が利いている。しかし朝から酒など呑んでにこにことしているのだから、手はかからないけれどどうしようもないという印象が拭えない。
湯呑のぬる茶に一応口をつけていると、最後に残った大葉をばりぱりと小気味よい音を立てて頬張り、手早く酒で洗い流した最上が、それで、とおもむろに切り出した。
「どうかしたの?」
電の赤い目を軽く見遣り、その上で大したことのないように尋ねてくる。踏み込むというほど無神経でもなく、腫物を触るというほど神経質でもない。
本当に何でもないことのように、ただ電のもやもやとした心地を感じ取って、吐き出したいなら吐き出せばよいし、そうでないなら聞きはしないという、さっぱりとした気風の良さがあった。
猪口の酒を舐めるように楽しむ最上を前に、電はしばし迷った。なんでもないのですと答えるのは簡単だった。しかし抱え続けるには難しいものだった。とはいえ言葉にするのも難しい。
風と酒精を鼻腔で混ぜては香りを膨らませて、時間などあってないように酒を楽しむ最上に、電はふと湧き出た疑問を口にした。
「最上さんは、これからどうするのですか?」
「これから?」
「これから、なのです」
電たちの戦争は終わった。もう何も電たちを縛ることはない。望月は何もすることがないとぼやいた。龍驤は今までと同じようになるようになっていくのだと語った。間宮はきっと変わらないあの味を作り続けるだろう。
最上はどうするのだろうか。
徳利を軽く振って最後のしずくを猪口に落とし、最上はしばらくその面を眺めた。
それからおもむろに呷って、酒精混じりの息を短く吐いた。
「気楽な独り暮らしでもしようと思う。けど、まあ、多分そのうち押しかけられて、あれこれ言われながら肩身も狭く暮らすと思うよ」
夢がないよねえ、と憐れみを誘うようによよよと泣き崩れる真似をする最上だったが、しかしその口振りには奇妙な安心と満足の彩りがあった。
手早く蕎麦を手繰っては啜る最上は実にさっぱりとしたもので、奇妙な納得が電の腑に落ちた。
最上と別れてからふらりと訪れたのは中庭の花壇だった。日当たりがよく、電を見下ろすような大ぶりの向日葵たちが咲き誇っていた。
そしてその向日葵を見下ろすように、大和はただ静かにそこに佇んでいた。
夏の暑さも忘れるほどに、大和は静かだった。一枚のポートレートから切り抜いてきたように、或いは物言わぬ石像のように、そしてまた或いは重たく冷たい墓標のように、大和はただじっとそこに佇んでいた。
「大和さん」
声をかけて、ようやく人形遣いが操り糸を手繰り寄せたように、また或いは止められていた時間の流れだしたように、大和はゆっくりと瞬きをして、悲しくなるほど優美に振り向いた。
「電さん」
声はどこまでも優しく、嫋やかで、そして空っぽだった。それは呼びかけではなく中身のないただの言葉だった。電の声に答えはしたけれど、しかし大和が電に見出すものは何一つとて無いようだった。
声をかけたはいいけれど、しかし電はその後に続ける言葉がないことに気付いた。大和にとって電は同じ鎮守府に所属している以上の関わりがなかった。電にとってもそれは同じだった。同じ組織に所属しながら、二人は致命的に関わり合いがなかった。
大和は独りだった。
大和はある種の象徴だった。切り札であり、奥の手であり、最終手段であり、もしもの時の最後の備えだった。そしてやはり、象徴と言う他になかった。抜かずに済むことが最上である、抜いてはならない宝刀だった。兵器として生まれてきながら、兵器として振るわれることを是とされなかった自己矛盾が彼女だった。
彼女はいわば囚人だった。煌びやかで豪勢な檻の中で、ただ起居することだけを求められた不遇な兵器だった。その生活は他のどの艦娘よりも待遇の良いものだっただろう。しかしその生活の中で倦み、腐っていくことの葛藤と諦めは、他の誰にも理解のできない地獄だっただろう。
大和は大和の中だけにあるその地獄を抱え、こうしてこの静かの海に沈み込むようにして、ただ独り、ただじっと、無限を飲み込むようにして佇んでいた。それ以外に、彼女は抗う術を知らなかった。
「大和さんは、これからどうするのですか?」
幾度目かの問いかけを、電は咄嗟に放っていた。
大和はただ静かに瞑目して問いかけを咀嚼し、そして静かに目を見らいた。
「海に出たいです。海に出て、そして」
荒げることもなく、ただただ淡々と紡がれたその言葉は、しかしどんな鋼よりも執拗に地獄の焔と槌で叩かれた末の、あまりにも激しい慟哭だった。
「わたしになりたい」
「高望みするつもりはないけどさ」
鎮守府玄関前の石段に腰を下ろして、北上はぼんやりと遠くの海を眺めた。ここからだと白波は兎どころか小さなきらめきにしか見えなかった。小さなガラス片の様なちらつきに、電は目をこすった。
「私は別にどうだっていいんだ。したいこととか、大してあるわけでもないし。ただ、」
北上はしばらく、言葉を探すようにしていたが、結局は有り触れた言葉を放った。
「大井っちが元気で、笑顔でいてくれればさ、それで、その隣に私もいられたら、それでいいなって思うんだ」
それは漠然とした願いだった。
具体性もなく、将来性もなく、ただそうありたいという文字通りの願望だった。そしてそれだけに、その願いは北上のまごころだった。ありのままの気持ちだった。
「北上さんは、大井さんのことが好きなのですね」
問いかけというより、それはただの確認だった。
「そうだね。好きだよ」
ほろりと何でもないことのように呟いて、北上はしばらくそれを舌の上で転がしていた。
「うん。そうだね。私は大井っちが好きだよ」
北上はひとり頷いて、よいしょと立ち上がった。立ち上がった北上は思いの外に小柄な、十人並みの少女だった。
「だから、大好きな大井っちには笑っていてほしいし、私もその隣にいたい。二人で笑っていられたら、きっとそれが一番だよ」
それは十人並みの少女の、有り触れた少女の、なんでもない願いだった。
「北上さんは、本当に大井さんのことが好きなのですね」
「うん」
それは万感の思いのこもった頷きだった。
「最初に思った願い事が、きっと最後に抱く願い事なんだよ」
電にとってそれは何だろうか。
ちかちかが、目の奥で瞬いた。
埠頭は潮騒で却って騒がしいくらいだった。目を閉じると、自分が海の中を揺蕩っているような気分にさせられた。そしてそのざわめきが耳の奥でこなれていくと、それもやはり静けさの一部となった。
繰り返す波の音は、繰り返す無限を思わせた。無数の波はそのどれもが違う形をして、違う音を立て、違う色をしている。しかしその違う形、違う音、違う色が無数に積み重ねられていく中で、それらはどこまでも稀釈され、均され、一枚のモザイク画の中の無限のつらなりの小さな一部分として、殆ど同一のパターンとして近似化される。
百年経ち、千年経ち、万年経つ内に、潮騒と静寂は違いを見失っていく。
無限のパターン、無数の類型、どこまでも平坦になるちかちかに、電は幻惑された。
「結局、状況が変われば自分も変わっていくものでち。十年前の自分と十年後の自分は別人と言っていいでち。同一性なんてものを過信したところで、確かな自分なんてものは本来的にあり得ないでち」
「おかでの、生活に、打ちのめされた、でっちが、言うと、説得力、ある、ね」
「うっせーでち! でっち言うなでち!」
海からぷかりと顔を出した潜水艦たちがじゃれ合っていた。
伊五十八は魚のように器用に泳ぎながら、ぱしゃりと波をすくっては投げ上げてU‐511に浴びせかけ、U‐511はその仕返しに水鉄砲を顔に浴びせかけていた。
「じゃあ、自分ていうのはなんなのです?」
「そんなもんねーでち」
「そんなもん、ある、よ」
「ねーっつってるでち」
「ある、もん」
ない、ある、と水をかけ合いながらまさしく水掛け論をしている二人を前に、電は自分というものを考えた。確かに十年前の自分と十年後の自分は違ってくるのかもしれなかった。ヒトの肉体は何年かですっかり細胞が入れ替わってしまうという。脳の細胞は入れ替わらないから、脳が自分なのかもしれない。けれどその脳の中の電気信号は全く同じものであり続けるわけではないだろう。十年前知らなかったことを、十年後の自分は知っている。十年前は覚えていたことを、十年後は忘れているかもしれない。記憶は積み重ねれば積み重ねただけ増えていくものではない。形を変えたり、整理し直されたりしていくだろう。自分の意識というものがそのような取捨選択を繰り返していく内に、果たして十年前から十年後まで残り続けるものはあるのだろうか。
「それでも」
「あん?」
「ん」
「それでも、電はずっと電でいたいと思うのです。変わらないものがあるって、信じたいのです」
「信じるだけならタダでち」
「定義づけられた、言葉は、石に刻んだ、記録、みたい、ね」
「定義も言葉も移ろうでち」
「でっちは、努力が、足りない」
「自分を自分だと言い張る努力でちか?」
「それが、[[rb:私 > アイ]]、という、概念」
「なぜそこで、[[rb:私 > アイ]]!?」
「難しく考えることが必ずしも正しいことではないと思うのでありますけれど」
缶コーヒーを片手に浜辺をぶらついていたあきつ丸は、含みのある微笑みを浮かべながら、そのようなことを言った。
「結局のところ自分が自分じゃないなんて言い張ることの方が無理があるでありますし、連続しているように観測される時空体を分割することが我々にはできない以上、連続した自我主体を……これも面倒くさい考えでありますな」
「自分っていうのは、面倒くさいものなのですか?」
「面倒くさく考えるから面倒くさいのであります」
ざっくりと言い切るあきつ丸に、電はわかったような、わからないような、曖昧な頷きを見せた。事実わかったようなわからないような心地である。
「刹那主義というわけではないでありますけれど、大事なのは今どのように感じているかということだと思うのであります」
「今、なのですか?」
「そうであります」
例えば、とあきつ丸は飲みさしの缶コーヒーを軽く振って見せた。
「この缶コーヒーは最初は満タンでありました。これが過去。飲み干せば空になるであります。それが未来」
ちゃぷちゃぷと振られる中身は、音からして半分程度だろうか。
「過去の自分はコーヒーの味を知らないであります。未来の自分の手元にはコーヒーがないであります。でも今の自分はこのコーヒーの味を知っているし、手元にはまだコーヒーが残っている。コーヒーを満タンに戻すこともできないし、この味を忘れることもできないし、空にした時の気持ちは想像しかできんであります」
「そう……なのです」
「コーヒーの味を知っているから、また飲み終えたときのことを想像できるから、このまま飲み終えるか、まずいから飲むのを止めるか選択はできるであります。過去と未来があるから選択の余地が生まれるのであります。しかし、選択自体はいましかできないのであります」
「選択自体、なのですか?」
「コーヒーの味を知らない過去の段階でコーヒーの是非は問えんであります。コーヒーを飲み終えた後の未来にやっぱり飲むのを止めようなんて言えんであります。自分のやりたいこと、やろうとすること、それを決定できるのはいつだって今だけであります。自分というものは認識できる今にしかないのであります」
「過去は自分じゃないのですか?」
「自分だったもの、自分を形作ったもの、いうなれば自分の抜け殻であります」
「抜け殻」
「大事なのは中身であります」
その中身が、今なのだろうか。
「過去はいつだって捨てられないであります。けれど、過去を理由にして自分を曲げるのは、ほら、気持ち悪いでありましょう」
唐突に感情論が割り込んで、電は困惑した。
「結局のところ選択を左右するのは気持ちであります。電気信号のあみだくじの結果だろうと、アストラル体の神秘的な作用だろうと、結局は」
またふらりと歩き出すあきつ丸に、電は追いかけるようにして問いかけた。
「あきつ丸さん、あきつ丸さんは、そのコーヒーを飲み終えるのですか、それとも飲むのを止めちゃうのですか?」
あきつ丸は振り返ることもなく、少し笑ったようだった。
「自分のコーヒーを飲むかどうか決められるのは自分だけであります。電殿が決められるのもまた、自分のコーヒーだけでありますよ」
電の手元には、飲みさしの缶コーヒーが握られていた。
ちかちかがだんだんと強くなってきていた。
目の奥で煌く無数のちかちかに、電は頭痛を堪えた。選ばなければいけない。けれど、何を? 冷めかけた缶コーヒーを片手に、電は彷徨った。
「腰を据えることも時には必要だ」
ぶっきらぼうにそう呟いたのは天龍だった。中古の漁船から釣り糸を垂らし、煙草の煙をくゆらせながら、天龍はじろりと隻眼で電を見据えた。
「そりゃ、歩き回ってうろつくことも大事さ。足が二本もついてるからな。あんまり使わないんじゃ逃げ出しちまう」
傍らのラムの瓶を取って呷り、天龍は波間に消える釣り糸の先を見据えるようにして、細く息を吐いた。
「だがそういうのはどうでもいいときだけだ。大事な時には腰を据えて、真直ぐ一本の道を進まにゃならねえ」
「腰を据えたら歩けないんじゃ」
「あ?」
「なんでもないのです」
電のどうでもいい指摘を目で黙らせ、天龍は肺まで煙を吸い込み、そしてゆっくりと吐き出した。酒精と紫煙の混じった匂いが鼻先に届き、電は眉を顰める。
「俺が言いたいのはな」
と言いかけて、天龍はしばし黙った。
別に竿が引かれたからではなかった。
アルコールでとんちきになった言語野に、おぼこい駆逐艦でもわかる様なソフトなワードを探させるのにいささか手間取っただけだ。
しばらく優しい子供向けという難易度の高い検索作業を続け、やっと出てきたいくつかのワードを景気づけのラムで洗い流してしまい、結局あきらめて天龍は紫煙をふかした。
「俺が言いたいのはな、てめえのやりたいことをやるのに、理由探しなんざするんじゃねえってことだ」
「理由探し、なのですか?」
「面倒くせえ奴らってのは、てめえのケツ拭くこと一つにだっていちいち理由をつけにゃあ気が済まねえんだ。いいか雷」
「電なのです」
「いいか電。理由なんざいらねえんだ」
じろりと天龍の隻眼が電を見据えた。アルコールの酩酊で程よくぶれて、煙草の紫煙で曇りに曇った眼だったが、ボロの漁船の揺れの中でも真直ぐに電をとらえて離さなかった。
「てめえのやりてえこと、やりたくねえことに、いちいち理由なんざつけるな。納得いかねえことには、嫌だってつきつけてやれ。迷って決めらんねえなら、とりあえず殴ってから決めろ」
「な、殴るのですか?」
「とりあえずやってみろってことだ」
一向に引かれる気配のない釣竿を真剣に睨み付けながら、天龍は虚空を殴りつけた。
「やらねえで後悔するなんてのは馬鹿げてる。やりもしねえことをどうやって後悔しろってんだ。てめえで反省も後悔もできんのは、てめえの領分のことだけだ。てめえでやったことだけだ」
天龍は勢いよく竿を上げた。案の定餌だけが綺麗に取られていた。
「やっちまえよ、電」
「あなたはどうしたい?」
こじゃれた洋館の居間で、電は姉妹艦である雷と向かい合って座っていた。生活感のない、しかしよく磨かれたテーブルを挟んで、二人は見つめ合った。
電は握ったままだった飲みさしの缶コーヒーをテーブルにおいて、少しの間それを眺めた。雷もまたそれを眺めた。放っておけば雷はきっといつまででも待ったことだろう。雷はきっと何も求めなかったことだろう。雷は満たされている。だから雷の問いかけは、電が求めたものなのだ。
同じような顔をした、しかし決して同一にはなれない顔を見据えて、電は問い返した。
「雷ちゃんはどうしたいのですか?」
「私はどうもしないわ」
「雷ちゃんはそうしたいのですか?」
「ええ。私は選んだわ。私は飲み終えた」
「雷ちゃんはそれでよかったのですか?」
「ええ。私は過不足なく私だったわ」
それで電はすっかり納得した。
「私は雷よ。電じゃあない」
「電は電なのです。雷ちゃんじゃあないのです」
ちかちかが目の奥で弾ける。
缶コーヒーを手に取り、一息に飲み干す。
もう迷いはなかった。
電はそっと手を伸ばした。雷もまた、困ったように笑って手を伸ばした。二人の手はどうしようもなく重ならなかった。小さなテーブルはしかし、どこまでも遠かった。
「さよならなのです、雷ちゃん」
「ええ、さよなら、電」
体が重たかった。倒れ伏した体はとても起こせそうにはなかった。電は自身のダメージを正確に認識し始めていた。体の感覚を心が正常に把握し始めていた。
「演算処理が追いつかなくなってきているな。描画にまでリソースが割けなくなってきている」
黒々とした岩を背景に、全くちぐはぐに映り込むようにして長門の姿があった。色彩を処理しきれず光学センサーが明度だけを拾いあげて組み立てた映像に、場違いにあざやかな姿が見える。記憶領域からの描画だから情報量が少ないのだ。それでさえノイズが走り、満足なものではない。
「破損したエネルギーバイパスを無理に火器管制システムに繋げている弊害で、現在までの一千七百七十一万二千八百二時間の間お前のメインメモリを静態保存してきた燃料はあと八分二十三秒で枯渇する見込みだ」
ユーザーインターフェースに利用されていたメモリ群が破損したために急遽流用された主記憶領域の音声記憶が、長門の声でエラーメッセージを吐き出している。
つまりは何もしなくてもあと八分すこしで、轟沈を辛うじて免れていた電の物理構成体は、そして電脳知性体は、機能を停止するということだった。それも復旧の見込みのない完全な機能停止だ。
バックグラウンドでは回復不能な損傷が報告され続け、そして火器管制システムを最優先にした演算機構によってリソースの無駄として即座に遮断されていく。
「音響センサーが感知した[[rb:救難要請 > ひめい]]はノイズが多く確実ではない。即座にバイパスをカットし筺体保持に専念すれば、演算機構を停滞させ、体感時間として約十七万五千時間の仮想体験が可能だ。私としてはこれを推奨するがな」
要するに、今すぐ無駄な事を止めて眠りにつけば、二十年分の余生は過ごせるという警告だった。
「それ……でも」
物理構成体の呼吸器官は既に圧潰し、声帯機構は断裂してまともな音声情報は紡げなかった。そもそもそれらに回すだけのエネルギーは存在せず、微かなふるえさえも走りはしなかった。
しかし、それは確かに叫びだった。
彼女は、それを選択したのだった。
何故ならば、彼女は電だったから。
「それでも、助けたいのです……っ!」
残り六分三十五秒分の燃料が砲塔を回し、そうして砲弾は放たれたのだった。