【完結】Why will the hardship take me?   作:雷電p

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―――恋は、心を弱くさせる―――




Departure~さよなら~

[ 西木野家別荘 ]

 

 夜――――

 

 

 μ’sの合宿で同行していた洋子は、ただ1人部屋の中にいた。

 明りも点けない真っ暗な部屋。時々、雲の隙間から出てくる月夜の光が部屋を照らすが、それも一瞬のみ。用意されたベッドに腰掛けて、ついこの間のことを頭の中で巡らせた。

 

 

――私は非力だ。

 

 私は、私の力で親友を、蓮花ちゃんを助けてあげられなかった……。

 あれだけ自分に言い聞かせていたはずなのに、いざ親友の危機に直面した時、何もできなかった……身体が動かなかった……。あの時、蓮花ちゃんが死んでしまうかもしれない、そう感じた瞬間身体の自由が奪われてしまった。差し迫った恐怖が、また私を弱くした―――

 

 

――いえ、そうじゃない。元から私は、弱かったのです。

 

 誰を助けることも、手を差し伸べてあげることさえもできない無力な私……。

 それだのに、私が行ってきたことはすべて、誰かを不幸にさせている……。

 そうです……あの時だって、もっと私が注意していれば……あのような悲劇が起こらずに済んだはず……

 

 

 明弘さんたちは気にするなと言いました……でも、それは違う。ただ単に現実から逃げる自分への言い訳だ。明弘さんはやさしいですから、そのやさしさに甘んじて自らの過ちを見過ごそうとしている。

 

 それは……いけません……。

 

 

 

 身体を丸めるようにうずくまる彼女に、部屋の暗さよりも深刻な暗々たる影が落ちていた。

 それは自らの好奇心から生じた過去の過ちのこともさしていた。彼女が関わったとされる出来事は、彼女のみならず、この合宿に参加しているメンバー全員に対しても拭いきれないモノがあった。それを未だに自らへの足かせのように繋いだままのメンバーもいる。正直、心穏やかではないはず。

 

 だが、そんな彼女たちには心強い相手が傍にいる。どこに居ようとも、その相手がいる限り彼女たちは前向きに進んでいくことができるのだ。

 

 しかし、彼女だけは違った。

 たとえ、心強い相手が傍に居ようともその罪悪感からは逃れられないのだと身を震わせていた。そうした意味では、彼女はいま、孤独の渦の中に取り残されていた。

 

 

 

 ガタン、ガタン―――――

 

 

 

「ん、扉が開く音……?」

 

 ふと、耳に入ってくる音に反応して窓の外を覗いてみる。

 

 

「あっ、明弘さん……!」

 

 暗い外で揺れ動く人影。この家の外灯に照らされて見えたその姿に、声を弾ませた。無意識なのだろう、彼女の表情が引き上がって嬉しそうにしているのが。彼女の秘めたる思いの先には、彼がいる、ということなのだろう。幸せそうな視線が遠ざかる彼を追っていた。

 

 

 

 けど、それは束の間の出来事だった―――

 

 

「えっ……り、凛……ちゃん……?」

 

 遠ざかって行く彼を追うかのように、外を駆けて行くもうひとつの影。その姿を目に焼き付けた彼女は意外な目で走って行く凛を捉えるのだった。

 

「ど、どうして、凛ちゃんが……? あ、明弘さんと一緒に行くだなんて……」

 

 疑問が彼女の中で廻って行くと、ハッとした表情であることを思い起こした。それは、凛が彼に好意を抱いていた、ということに……

 

 

「あ……あはは……そう、ですよね……確かに、凛ちゃんは誰よりも早く、明弘さんのことを………」

 

 ズキンと、胸が痛む。

 息苦しいようで、気味が悪いこの感じに彼女は頭を抱えた。この感じは、以前にもどこかで……

 

 

 

『あっ、そう、なんだ……。私、あの人のことが好きなんだ……』

 

 ふと、病室の中で聞かされたあの言葉を思い起こした。その時、そう発した彼女の表情を今でも覚えている。あんなに女の子らしい姿をした親友を見たことがなかったから……

 

「ばか……です、ね……どうして私は、あんなことを……こんなに苦しくなるのなら、教えてあげなければよかったのに……」

 

 そうなのだ。彼女はあの時、傷付いた親友にかけてあげた言葉の中に、その気持ちを諭してあげたのだ。だが、それがかえって自らを傷つける行為になるとは思いもしなかったのだ。

 

 

「凛ちゃんと蓮花ちゃんの表情は、どう見ても明弘さんのことが……なら、私は……?」

 

 胸の辺りをギュッと握りしめる。遅く気付いてしまったこの気持ち。しかし、それはもう本当に遅すぎたのかもしれない。むしろ、気付かなかった方が幸せだったのかもしれない。

 

 

 

 こんなにも、彼女自身を追いこむことになるのなら――――

 

 

 

 

 

 

 

――

――― 

―――― 

 

 

[ 淡島 ]

 

 

 合宿最終日―――

 

 予定通りのPV撮影も完了させた一行は、この島のホテルの経営者の娘である、小原鞠莉のもてなしを受けていた。今回の撮影は彼女の働きかけがなければ行われなかった。本来ならば、こちらがもてなすべきなのに、実際は至れり尽くせりだ。と言うより、有無を言わせず押し切って行く彼女のスタンスに諦めざるを得ないと言ったところだ。

 

 ただ、こうしてくれたおかげで地元の人間との交流もできて結果的にはよかったのだ。こうした地道な働き掛けが彼女たちを大きくさせていくきっかけに繋がってくる。苦労することの連続だが、ファンが増え母校の知名度を上げていくことができると思えば容易かった。

 

 

 そんな彼女たちの賑やかな声が飛び交う中、1人何かを探すかのように見回す男がいた。

 

 

―――滝明弘、だ

 

 

 

 

「なあ、鞠莉ちゃん。洋子の姿を見なかったかい?」

「ん~? あのシャッターガールのことかしら? そうね……私は見ていないけど、どうかしたの?」

「いや、さっきから探しているんだけど、どうも見つからないんだ」

「それは大変ね。でもごめんなさい、私もさっきから辺りを見渡しているけど、姿を見てないわ。どこかでまた写真でも撮りに行ってるんじゃないかしら?」

「ふむ、そうかもしれないな。わりぃな、邪魔して」

「いいのよ、アナタも大いに楽しんじゃってよね♪」

 

 少し困りながらも伺った明弘に、クスッと魅力的な微笑みを返す鞠莉。普通ならその姿に反応して色欲を高めるのが彼の心情であった。

 

 だが、いまは違う。

 彼は彼女に何も返すことなく怪訝な顔を浮かばせていた。

 

 

――おかしい。洋子のやつ、どこに行ったんだ?

 

 こういう撮り甲斐のあるような雰囲気なのに、その影さえ見せないのはどういうことなんだ? それに、肌身離さず持ち歩いていたカメラがここにある。コイツとは一心一体のような存在だって前に話していたはず。なのに、それがあるというのはどういうことなんだろうか?

 

 彼女が残していった謎が彼を困惑させる。何か良からぬ事に巻き込まれていなければいいのだが、と爪を噛みつつ海岸線を睨みつけた。

 とは言うモノの、これまでの洋子のことを考えればそうも言ってはいられない。この短期間に彼女が関わってしまった出来事を振り返ればまさにそうだ。

 だとしたら、今回も同じことが――――

 

 

 

「くっ……一体どこに行っちまったんだよ、洋子……!」

 

 みんなが集う空間を後に、彼は砂浜を駆けて行く。確証はないが、この島のどこかに必ずいるのだと考えていた。そのわずかな思いを胸に、逸り出す鼓動を押さえつつ進んでいくのだった。

 

 

 

 

 

 

――

――― 

―――― 

 

 

 吹き抜ける潮風。

 打ち立てる白波。

 

 白浜に押し寄せる海の産物は、めずらしく荒れていた。

 

 彼女たちが集う場所から正反対のこの浜辺に、彼女はいた。

 太陽が沈み出し、朱色に焼き付ける夕焼けが大海原の水面上を照らして黄金色に光る。その反射した光が、そのまま彼女の身体に当たって輝かせようとするのだが、深く沈んだ瞳に明りが灯ることはなかった。

 

「きれい……ですね……。ほんとうに……まぶしいくらい……」

 

 やや薄みかかった目蓋を開かせて見た景色は、彼女から見ても絶景だった。この美しい光景に抱かれていたい、カメラのレンズよりも鮮明なレンズ()を通したそれを彼女は今までにないほどに深く噛み締めた。1枚の写真――破れ、汚れて、風化していく1枚の紙よりも、色褪せることを知らない写真としてシャッターを押す(瞳を閉じる)。こうしてフィルム()に色濃く刻まれたその景色は永遠となる。

 彼女はそれを携えて白波の中に足を潜らせる。

 

 

―――冷たい

 

 真夏の海でありながらも、彼女にとってはまだ寒かった。身震いしてしまいそうな、でも心地良い海水に溶け込まれてしまいそう。彼女は、何かを求めるように足先を一歩、また一歩と、深みに浸けこんでいく。いつの間にか、海水が腰の辺りにまで沈んでいた。

 

 

 

 

 白波が押し寄せる。

 

 やや高く波打つそれは、彼女の身体に打ち当たると、下から呑みこんでいくように全身を濡らした。髪先から水滴が零れるほど濡れたのに、彼女は迷うことなく足を踏み出していく。内から鳴らす警鐘にさえも耳をかさず、何かに摂り付かれたかのようにひたすら前に進んでいくのだ。

 

 

 

 

 

「洋子!!!」

「――――っ!!」

 

 その刹那、彼女の名を叫ぶ声が轟いた。

 耳に栓したかのように周りの音をかき消していた彼女は、さすがにこの声だけは聞こえていた。彼女は立ち止りゆっくりと首を回してみると、そこには大変な剣幕を見せる明弘の姿が……。

 

 しかし、彼女はちっとも嬉しそうにない様子で彼を仰ぎ見ていた。

 

 

「何やってんだよ、洋子!! そんなところにいたら波にさらわれてしまうぞ!!」

 

 彼は彼女が立つ海の上を目指して歩み始める。腰まで海水を浸していた彼女のところまではそれなりに遠かった。波に足をとられたりもするので、すぐさまと言うわけにもいかなかった。

 

 

 必死に駆け寄ろうとする明弘に対して、洋子はとても冷たそうな表情で彼のことを見ていた。

 

 

「服着たままこんなところまで……ほら、早くこっちに来いよ!」

 

 彼女に近付いた彼は、手を差し伸べる。お互いに手を伸ばし合えば掴むことのできる距離だ、洋子もきっと伸ばしてくれるだろうと信じていた。

 

 

 

 だが――――

 

 

 

 

「―――来ないで、ください」

「なっ――――?!」

 

 彼女は、拒絶した。

 

 彼は一瞬、絶句したかのように動きを止め、目を見開いた。

 

 

――彼女はいったい何を言っているんだ?

 

 彼の頭の中では彼女のその言葉に頭を痛めた。何故そんなことを口にするのか理解できなかったからだ。

 

 

「何を言っていやがる! そんなところにいたら溺れちまうぞ!!」

「いいんですよ……別に溺れたって……」

「はぁ!? 洋子お前、正気か?!」

「何を言ってるんですか、明弘さん……私は至って正気ですよ……?」

 

 明弘の必死な問いかけに対し、洋子は青白い顔で冷笑した。何て冷え切った表情なのだろう、すべてを諦めたかのようなそんな姿に明弘は息を呑んだ。

 悲嘆―――、そう表現すればいいのだろうか。彼女が見せる姿は、どことない儚げさをはらんでいるように思えた。彼の抱く情熱でさえも一気に揉み消してしまいそうだ。

 

 

「正気だと……? バカを言え、普段の洋子ならこんなことはしない。お調子者だが、人を大切にするやさしさを持った女の子が洋子じゃないか。そんな洋子が、どうしてこんなことを……!」

「やさしい……? 私が、ですか……? ふふっ……そんなわけ、ないじゃないですか……」

「なに……?」

「明弘さん、あなたは私がやったことを知っているじゃないですか。私が蒼一さんの写真をバラ巻きさえしなければ、あのようなことは起こらなかった。みんなの顔から笑顔を絶やすことをしてしまったことを……」

「あれは……偶然起こってしまったことに過ぎない。洋子が抱えるようなモノじゃないと、あれほど言ったじゃないか……?」

「いいえ。結果的にみんなを煽り立ててしまった事実は変わりません。平穏な日常を奪い取ってしまったこと、それが私の過ち。決して消えることのない罪……」

「だから、洋子はこんなことを……?」

「そうです。私がいる限り、周りの友人が傷付いてしまうのであるならば、いっそのこと消えたいのです……私と言う存在を残すことなく……」

 

 悲嘆に暮れる彼女の声から冗談が見えない。本気でこの大海原に身を投げようとしているのだと明弘は悟った。

 

「何をバカなことを……! 洋子がいなくなったら助かった蓮花ちゃんはどうなる? あの子をひとりぼっちにさせる気か?!」

「大丈夫ですよ……蓮花ちゃんには、明弘さんがいるじゃないですか……」

「はぁ!? 何を言って……」

「私じゃダメなんです。蓮花ちゃんの隣に相応しい人は、私じゃないんです……。私よりも遥かに、明弘さんがいてくれたら……」

「ふざけるな!! お前はわかっちゃいねぇ……わかっちゃいないんだよ!! 蓮花ちゃんの気持ちを一番理解しているのは洋子なはず! なら、蓮花ちゃんが必要としているのが誰なのか、ハッキリしているだろ?!」

 

 明弘が張り叫ぶ怒号に洋子も一瞬その口が止まる。わずかにぼぉーっと気が抜けたかのように口を開け、ジッと彼のことを見つめた。

 しかし、彼女の意思は変わることはなかった。

 

 

「………ッ!! 洋子ォ!!!」

 

 目の前に起こったことに気が付いた彼は、それを彼女に伝えようと声を上げる。彼の驚愕する表情に気が付いた彼女は彼が見ている背後の様子を伺おうと振り向く。するとどうだろう。明るさまに彼女よりも大きな波が、真っ白な潮を吹きだして迫ってくるではないか。秒が過ぎるごとに差し迫り、段々と大きく感じられたのだ。

 

 彼女に掛ける彼の声が遠くなっていく……。キーンと耳鳴りのように周りの音が遠退いて行く感覚に懐かしさを抱く。そうだ、これはあの時と……。自らの危機に反応を示す警鐘。彼女にとって、それは人生2度目の感覚だった。1度目は暴漢たちによる暴行の最中に。そして今回、瞬時にそれは助かることのないモノなのだと理解した。

 

 悟っていた。悟っていながらも彼女は、それを受け入れた。

 

 

「―――――ッ!!!」

 

 

 ごおぉっ! という唸り声を上げた荒波は、大きな口を開けるように彼女の全身を捉え、口を閉じるように一気に呑み込んだ。大蛇が蛙を一飲みするかのように、生き物と化っしたその波は、彼女をペロリと平らげた。

 その波は彼の許にも届くのだが、彼女を呑みこんだほどの威勢はなく、彼の身体をかする程度に触れるばかりだ。彼は打ち当たる波を払い除け、見開いて正面を捉えるが、そこに立っていたはずの彼女は消えていた。

 

 

 

「よ……洋子ォォォ!!!!」

 

 

 彼は張り叫んで彼女を呼ぶ。

 それに応える声は聞こえない。

 

 まるで泡沫のように海の中へと消えていくのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

――

――― 

―――― 

 

 

 

 薄青い光のベールが海中を泳ぐ。

 

 空からの光が海面に降り注がれるが、その多くは反射し海中には届こうとしない。薄暗い水の牢獄に閉じ込められるような感覚に囚われる。

 

 

 彼女もまた、囚われ人となる。

 海の大蛇に呑みこまれ、体内に押し込まれるかのように身体中を波で圧迫されていく。ただ、その衝撃は彼女の身体には負担が大きく、耐えきれるモノではなかった。特に彼女の頭への衝撃は激しく、意識がもうろうとなってしまったのだ。

 身体が比較的穏やかな海中に放り込まれるのだが、意識がハッキリとしない今の彼女にはどうすることもできなかった。その身体はゆっくりと、静寂を保ちながら深く、深くと沈んでいくのだった。

 

 

 ぷちんっ、と髪を束ねていたゴムが途切れて、長い髪が一気に解けていく。沈んでいく身体とは対照的に、海面を指すように伸びていく髪。まるで、海上へと戻ろうとしているような、そんな意思を感じさせるような様子であった。

 

 

 

 

――あっ………

 

 途切れていた意識が蘇る。

 薄ら開いた瞳からゆらゆらと揺れ動く光を捉える。

 

 

――全身が冷たい……耳に入ってくるのは水の流動……。息は……うっ……!

 

 一瞬、彼女は息をしようと鼻を吸い上げようとした。が、見ての通りここは海の中、息継ぎなど出来るはずもない。彼女はそれを理解しないままそうしたので、息苦しくむせ返した。

 

 

――こ、ここは……海、の中……なのですか……?

 

 小さな気泡をつくりながら彼女はゆっくりと理解していく。今の彼女の状況を。

 

 

――そう、ですか……私はここで……

 

 

 何かを悟った彼女は全身からわずかな力を抜いていく。

 彼女は浮き上がろうとしなかった―――いや、浮き上がれなかったのだ。全身を水圧で締め付けたため、浮き上がるためだけの力を失ってしまったのだ。辛うじてあったのは、指先だけを細かに動かすだけの力……。

 

 

――なら、もういいですよね……

 

 すでに、生きる気力を失いかけていた彼女は、それを受け入れるのに時間を要さなかった。ゆっくりと眠りにつくかのように目蓋を閉じ、力を抜いた。

 小さな気泡だけを小まめに吐き出しながらその身体は、さらに光の届かない場所へと向かっていく。

 

 誰にも気付かれず、誰の目にも届かない場所へ……。

 そうして彼女は、そっと意識を閉じようとするのだった―――――

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「――――――」

 

 

「―――――っ――――」

 

 

 

 何かが呼びかけていた。

 

 

 荒れた息遣いが海中を響かせ、彼女の耳元にまで届いた。

 もう一度意識を戻して耳を澄ますと、また何かが呼びかけるような声が聞こえたような気がしたのだ。

 

 

――なん……でしょう……誰かが……私を……

 

 

 沈んでいこうとする彼女の名前を呼ぶ声がする。一瞬、空耳なのだろうと聞きながすが、それが何度も同じ波長で鼓膜に響いてくるのだから無視できなくなる。彼女は揺れる視界を広げようと目蓋を恐る恐る開いてみると、彼女に降りかかっていた光が遮られ、代わりに彼女を覆い隠してしまうほどの影が現れた。

 

 

――魚……? 鮫……? それとも……?

 

 そんな時だ。目の前の影が彼女の身体を覆うように絡みついた。そのまま、彼女の肩がグッと引き寄せられて、胸が影に触れる。不思議にも影には温もりがあった。意識が沈むとともに身体も冷たくなっていった。そのためか、いまの彼女には熱く感じてしまうのだった。

 

 それにしてはなんて心地良いのだろうという感覚に陥る。こんなにも彼女の心を突いてくるようなそんな気持ちにさせてくれる存在なんて限られていた。それを理解すると、ぼやける意識をハッキリさせようするが、悲しいかな彼女の息は続きそうになかった。

 

 

 このまま果ててしまうのだろう、そう諦めかけていたその時だった―――――

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『――――――――』

 

――えっ……?

 

 

 彼女の唇に柔らかな感触と温もりが触れて、塞がれる。

 初めての感触に、彼女の身体は不思議な感覚に包まれる。

 冷え切った身体を芯から温めてくれる熱が彼女の唇を通して全身に行き渡っていく。それと共に、萎んだ彼女の肺に生命力あふれる息が注がれて膨らんでいく。死に絶えてしまいそうだった身体は、一瞬にして蘇るのだった。

 

 

――これって……ま、まさか……!

 

 

 その異変に気が付いた彼女は、恐る恐る目蓋を開くと、そこには彼女の唇に自分の唇を押し付けていた彼の姿が……!

 彼の思いもしないその行為に彼女は驚愕するとともに、胸を熱した。

 

 

――あっ、明弘さんが……わ、わたしと……!

 

 彼女の身体が震える。まさか、彼がそうするだなんて思いもしなかったから。こんなこと一生訪れないのだと決め込んでいた彼女にとって、青天の霹靂とも呼べる出来事だ。

 この気持ちをずっと秘め続けていくものだと思っていた。だが、思いがけないままにこうして彼と交じれているという事実に彼女の心は大きく揺さぶられる。

 

 

――こんな……こんなことって、あるものなのですか……。夢でも構いません……もう少しだけ、あなたとこういさせてください……

 

 そう願いつつ、彼女の腕がゆっくりと彼の身体に触れていく。高まる気持ちが、彼女を無意識に動かさせた。それは奇跡なのか、それとも単なる悪戯なのか。どちらにせよ、彼女は喜びの内に満ち満ちた思いを乗せていくのだった。

 

 

――明弘さん……わたし、あなたのことが………

 

 

 泡が彼女の鼻から抜けていくように、この想いも一緒に溶けて消えてしまうのだろう。泡沫の夢として、この一瞬に生まれたやさしさに包まれながら、彼女はまた、夢を見る。

 

 深く、深く。どこまでも深いその場所へ。

 けれど、そんな彼女の気持ちは晴れやかで、どこに行こうとも迷うことはないだろう。

 

 心にくべられたその灯火が、彼女を導いてくれるのだから。

 

 

 だから、今だけは――――

 

 

 

 

 

 

 おやすみ―――――

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

――

――― 

―――― 

 

 

 

「――――――」

 

 

「―――――こ――――」

 

 

 

「――――よう――こ――――」

 

 

 

 

 

 だれか……わたしを………。

 

 わたしを……よんで………

 

 

 

「………うっ……げほっ、げほっ!!」

「洋子……! やっと気が付いたか!」

「うぅっ……あ、あきひろ……さん……?」

「ったくよぉ……バカなことしやがって……まったく……」

 

 ぼやけた視界が私の前に広がっていく。

 薄っすらと見えてくるのは、明弘さんの姿……なのでしょう。聞こえてくる声も私の見る方から来ていますので間違いはないはず……。

 

 

 どうやら、私は助かってしまったようですね……

 

 仰向けになったままで感じる身体の状態を知りつつ意識を取り戻していた。

 

 私はあの時、波に呑みこまれてそのまま海の中に放り込まれてしまったはず……。なのに、こうして浜辺にいると言うことはつまり、明弘さんの手によるものなのでしょうね。自然に戻ったとは思えませんですし、こうしてまた助けられたと考えてもおかしくないようです。

 

 

 

 それに……なにか、忘れているようなことが……?

 

 

 気持ちが上の空になりかかろうとしていた時、肩に強い力で掴まれるモノを感じ取った。痛いっ、ビリッと沁みるような刺激が全身に走ったみたいで、ぼやけた意識も半ば強制的に目覚めていく。そうすると、目の前に広がる視界もハッキリしてきて、しばらくもしないうちに曇りもない光景が見えてきた。

 

 

 

 そんな時だ――――

 

 

 

 ぽたり―――ぽたり――――

 

 

――みず……? 顔にいくつもたれて………

 

 

「―――――!?」

 

 彼女は見上げた。この滴ってくる雫がどこから出たモノなのかを。そして見つけたその先に、充血した瞳から涙を零す彼の姿を捉えた。

 

 初めて目にした彼の涙。嬉々に富み、穏やかな表情で彼女を見つめていたその顔から溢れんばかりの涙を流している。とても苦しそうな顔つきで、見てて居た堪れない気持ちを受けてしまう。

 だからなのだろう、彼女は身体の奥底から震えてしまったのだ。

 

 

 

 

「………どう、して……どうして、私なんかのために泣くのですか……? 私を助けても、みんなが不幸になるだけなのに……」

 

 

 弱った唇から紡がれる言葉。微かに震えた声で語られるそれは、彼女のいまの気持ちすべてを表しているものだと言える。いまにも消えてしまいそうな、そんな素振りさえ見せた。

 

 

 すると――――

 

 

 

 

 

 パンッ――――

 

 

「―――――――っ!?」

 

 彼の手が彼女の頬を叩く。

 

 いや、撫でたと言うべきだろうか。それはあまりにも勢いの無い弱い叩きで、受けた彼女さえも自分が叩かれたことに気が付かないほどだ。

 痛みはない。ただ、彼に叩かれたのだと言うことを知った瞬間、彼女は驚きの顔で彼を見上げたのだ。

 そして、彼がいままでにないくらいの苦痛に満ちた表情をしていたのを見ることになる。

 

 

 

「このっ、バカが……バカヤロウがっ……! お前はっ……お前自身がそんな安っぽい人間だと思っていやがるのかよ……! ふざけるな……ふざけるんじゃない……!」

 

 ものすごい剣幕で言葉を吐き出す明弘。喉から絞り出されたような声は、苦しさを押し殺したように小さく彼女に向かう。それを耳にした洋子は、全身を震わせ、彼の顔から零れ落ちる雫をただ受け止めるばかりだった。

 

 彼女にはわからなかった。

 何故、彼はこんな私に向かってそんな顔を見せるのか? と。それが不思議でたまらなかった。

 

 けれど、そんな凝り固まった疑問も彼のこの言葉によって打ち解けていく。

 

 

 

「洋子っ! おまえはっ……お前がいなくなったらみんながどんな思いをするとか考えたのか!? 蓮花ちゃんや、俺のことも!! 洋子は必要な人間だ、俺たちにとってかけがえのない大事な存在だ。それなのに、お前がいなくなるのを黙って見過ごせってか……? ふざけるんじゃないッ!!!」

 

 彼は彼女の胸ぐらを掴んで叫ぶ。強く、強く、彼女の芯に届くくらい強く叫ぶ。

 

「洋子がいると不幸になる……? んなもん、自分で決め付けんな! 自分が幸か不幸かなんて、己で決めるもんじゃない……まして、誰かに決めつけられるもんじゃない……! 手に入れるものなんだよ、自分で! 苦悩して、抗って、引き寄せて初めて幸せは訪れるんだ。そうすることさえも諦めるのかよ、洋子は……?」

「わ、わた……わたしは、ただ……私のせいでみんなが傷付くし、私の力では誰も助けることができない。非力な存在なんだと……」

「違う……違うぞ、洋子。非力なもんか……お前は立派に人を助ける力を持っているじゃねぇか」

「えっ……?」

 

 彼の言葉に驚く彼女に、彼はさらに差し迫って言う。

 

「洋子にはたくさんの情報がある。それを活用できる機材もあるし、それを自在に操ることもできる。それは、誰にもできないことだし、お前の最大の武器でもあるんだ。現に、洋子は俺たちやお前の友を助けているんだ。ヒデコを助けた時や、あの惨劇の中で洋子の出した判断があいつらを助けた。これが何よりの証拠だ」

「そ、そんなの偶然、です……。そんなの理由に何か……」

「十分だ。それで十分なんだよ、洋子。人を救うってのは、ひとりがやることだけじゃない。協力してできることも含めてのものなんだよ。だから、胸を張れ。お前には人を救う力があるんだってさ」

 

 彼女はただ呆然と驚きをもって聞き入った。

 彼の口から出るひとつひとつの言葉が、彼女の中にスッと入っていく。入っていく度に心が安らんでいく、不思議な感覚に取り付かれた。そうして段々と、彼女の中で凝り固まったモノが溶け、心を揺らすのだ。

 

 救われている――いつしかそんな気持ちが彼女の中で芽生えだし、感情の関を打ち壊そうとしていた。

 

 

 心が震えている、そんな彼女に、彼は穏やかな顔で語り伝える。

 

「もし、洋子に不幸が訪れても、俺が払い除けてやる。大切な“友”の笑顔を護るためなら安いもんさ」

「―――――っ!!」

 

 

 暗雲を打ち払う閃光。彼が示した一筋の光は、彼女の不安に満ちた心を照らした。

 とてもやさしく、触れるとやわらかな温もりを持った彼の言葉が、彼女の胸を包み込む。

 

――あぁ……これは私の望んでいた光……私の求めていた言葉……

 

 彼から与えられたすべてを汲み取った彼女は、つぶらな瞳を煌めかせる。今日に至るまで思いを馳せていたこの気持ちの意味を知った彼女は、ゆっくりとそれを受け止めていこうとする。

 

 そして、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 

――彼にとって、私は必要な存在……けれど、それ以上になることは、もう2度とないのですね……

 

 

 心の内にて振り返ると、無性に涙と嗚咽が止まらなくなってくる。自分の手で首を絞め、止めてしまいたい。しかし、首を絞めても身体中が嘆き悲しみ叫ぶのだと思った。

 彼女は、彼の前で、彼の胸元に飛び込む形で泣き叫ぶ。彼に見せる最後の恥として心おきなく、また何も残すことなく彼の中で泣き叫んだ。

 

 そんな姿を見る彼は、彼女はただ自分を追い込んでしまったことの苦痛から泣いているものだとばかり思っていた。

 

 しかし、それは違う。

 彼女が泣いていたのは、それもあるのだが、もうひとつの想いを捨てたことにあった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

――あなたにとって、私は“友”なのですね……なら私は、ずっとあなたの“友”であり続けます……

 

 

 彼と彼女は、もう2度と交じ会うことはない。決別の思いを持って流した涙は、とても冷たかった。

 瞳から雫が零れ落ちていく度に、彼女の悲しみが消えていく……彼女の恋した思いが消えていく……。雫はやがてこの大海原の一滴となって流れていくことだろう。幾億幾万もの雫が交り合う中では、彼女の想いは微々たるモノなのかもしれない。だが、彼女はこの海に触れる度に思い返すのだろう、彼に抱いたあの美しい思いの数々を………

 

 その時、彼女はどう感じるのだろうか?

 その答えを知ることなど、到底できないだろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 最後の涙が零れ落ちる――――

 

 

――あっ………!

 

 

 彼女はようやく忘れかけていた記憶を呼び起こす。

 不格好で、それこそ正しい姿などではないものだが、それでも彼女にとってこれまでにないくらいの喜びでもある。

 

 唇に残ったこの感触を……彼と初めて交わしたこれを………。

 

 

 

 

 

 

 

 そして、彼女は――――

 

 

 それも美しい思いでとして涙に込め――――

 

 

 

 流し、落とした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

――さよなら、わたしのだいすきなひと………

 

 

 

 

 

 

 

 

...Hope is there for...?

 

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