永遠の美少女になって永遠の闘病生活に入った件   作:名無し野ハゲ豚

174 / 555
幕間 ここまでの小説に出てくる歴史上の人物

 第六章に入る前に、一旦ここまでに出てきた歴史上の人物(実在)についてまとめてみました。

 なので、読まなくても物語に支障はありませんが、永原先生のキャラクター設定も大分溜まってきたので(当初はこんなに大きな役柄や設定ではなかったのですが)一度復習してみるのもいかがでしょうか?

 

 

 真田幸綱/真田幸隆/真田源太左衛門/真田弾正忠(1513~1574)

 永原先生が鳩原刀根之助と名乗っていた時代の主君に当たる人物。

 信濃の小豪族で海野氏の支流とされている。永原先生の5歳年上で弟の矢沢頼綱は永原先生と同い年。

 永原先生は、元々天文2年(1533年)より5年間真田家に仕えており、役割は伝令役の足軽だった。また、小さな小規模争いにも参加していた。

 天文7年(1538年)、永原先生はTS病に倒れ村より逃亡、天文10年(1541年)には武田信虎が諏訪頼重・村上義清と同盟を組んで海野氏を滅ぼすために侵攻を開始。

 これを海野平野戦いといい、この時真田幸綱も上野の長野業正を頼って逃亡、永原先生がほとぼりが冷めて領地に戻った時には、既に主君は村上義清に代わっており、永原先生がTS病に起因する最初の罪悪を抱くきっかけとなってしまう。

 その後、武田信虎が息子の武田晴信に追放されると、真田幸綱は武田に仕えるようになり、村上義清への調略に参加、一時は砥石崩れによる大敗も遭ったものの、天文20年(1551年)には村上義清より旧領を奪還し、義清は長尾景虎を頼って越後へと逃れている。

 当時TS病は不吉とされてすぐに殺されてしまっていたため、永原先生は真田家へ帰参できず、「柳ヶ瀬まつ」と名乗って村娘の一人になっていた。

 永原先生は武田家に仕える以前の真田家に仕えており、「弾正忠」ではなく通称の「源太左衛門」の方を用いている。

 永原先生にとって、真田家は自らの罪の象徴であるとともに、心の拠り所でもあり、物語内でも「私は真田家の人間」と度々言及している。

 

 

 武田晴信/武田信玄/武田太郎/武田大膳大夫(1521~1573)

 ご存知武田信玄。父晴信を追放後、川中島の戦いで上杉謙信と死闘を演じ、三方ヶ原の戦いでは徳川家康を破るなどの活躍をしたものの、志半ばで病死した。

 「人は城、人は石垣、人は堀、情けは味方、仇は敵なり」という言葉は有名。

 父晴信を追放した他、嫡男に謀反の疑いをかけて切腹させる、北条・今川と結んだ三国同盟やその後に結んだ徳川家との大井川同盟や、織田家との同盟も破るなど、不義理な人物でもあり、上杉謙信にはかなり嫌われていたらしい。

 

 

 真田信綱/真田左衛門尉(1537~1575)、真田昌輝/真田兵部丞(1543~1575)

 直接には言及されていないが、長篠の戦いで戦死した真田昌幸の兄2人。

 永原先生はこの時にも、何もできなかった自らを嘆いている。武勇に優れ、将来を期待されていた。

 長篠の戦いの頃、永原先生は自らを不老ではないかと疑い始めた。

 

 

 織田信長/織田弾正忠/織田右府/織田前右府(1534~1582)

 ご存知織田信長、あまりにも有名な人物なので事績は記さない。

 永原先生の生まれ年を聞いた時に真っ先に「織田信長より年上」と生徒が言及していた他、永原先生も本能寺の変の時には「織田前右府」と称しており、明智光秀は「明智日向守」と称しており、このことは優子が桂子、龍香と3人で遊んだ時のクイズゲームで役に立った。

 

 

 松平蔵人佐/松平元信/松平元康/松平家康/徳川家康/徳川次郎三郎/徳川内府/徳川右府/征夷大将軍/上様/大御所/神君/東照大権現(1543~1616)

 ご存知徳川家康。上記の呼び方はごく一部。

 こちらも説明不要の人物で、永原先生は関ヶ原の戦いを公家とともに遠目で見物した時に一度だけ姿を見たことがある。

 徳川家康について、永原先生は基本的に「東照大権現」と呼んでおり、関ヶ原の見物談を話すときのみ当時の呼び方であった「徳川内府」と呼んでいる。太平の世を築いた偉人として敬意を示している。

 ちなみに、体育祭の騎馬戦の時には、2年2組男子の戦法を「島津の退き口」になぞらえている他、小早川秀秋の裏切りや大谷吉継隊の壊滅のことも話している。

 また、方広寺鐘銘事件でも言及されており、永原先生は「諱を犯すことは極めて無礼」として、「徳川方の言い分は言いがかりではない」として擁護している。

 

 

 真田昌幸/真田安房守(1547~1611)

 真田家の2代目、永原先生とは面識はないが、領民として接している。

 長篠の戦いの後、真田家の家督を継ぐ。

 織田信長による武田征伐で自主独立、最初は織田信長に仕えて滝川一益の与力となるものの、すぐに本能寺の変が発生。

 その後は独立勢力として上杉、北条、徳川、上杉と次々に主君を変え、「表裏比興」と言われながらも生き残る。

 この頃の永原先生は村人からも不老を疑われており、本能寺の変を機に再び村を逃亡。その後に待ち受けていた真田家の苦難を知っておきながら、凶事を恐れて大坂の陣後まで村へと戻ることは出来なかった。

 豊臣秀吉が没し、関ヶ原の戦いが起きると真田家は分裂、真田昌幸は西軍につき、徳川軍を苦しめるものの結果的に破れ九度山に配流され、そこで病死した。

 永原先生からは「安房守殿」と呼ばれており、主君であった父とともに謀略に長けたその智謀に尊敬の念を抱いており、林間学校で優子の部屋を男女から引き離そうとしていた教頭先生を謀略にはめた時には「我が主真田源太左衛門様や真田安房守殿が今の私をご覧になれば、さぞお褒めになってくださると思いますわ」との言葉を残している。

 

 

 真田源三郎/真田信幸/真田信之/真田伊豆守(1566~1658)

 真田昌幸の嫡男で真田家を継ぐ。永原先生からは「伊豆守殿」と呼ばれており、恩人にして罪悪感の象徴であるとともに、2人の初恋の相手の1人でもある。

 関ヶ原の戦いでは父、弟と袂を分かち東軍に付く、これが結果的に真田家の存続となる。

 関ヶ原の戦いの後、父と弟の助命懇願を行い、大坂の陣後は信濃松代藩となる。

 一方、永原先生は大坂の陣後に江戸に住むようになったが、人口の多い江戸ではすぐに不老の噂が流れ、再逃亡を考えていた矢先の承応2年(1653年)に当時の4代将軍徳川家綱への拝謁が許された。

 信之は当時88歳であったものの健在で、永原先生の話を聞き、それがすぐに所領で噂になっていた「不老の娘」と同一人物であることを理解し、出奔したことを許し、そればかりか長年の苦難に耐えたことを労った。

 永原先生はこの寛大な処置に感極まって大泣きしてしまった。既に136歳になっていた永原先生は、ろくに恋愛などもしておらず、優しくされただけで恋に落ちてしまった。

 それ以来「大恩人に対して恩を仇で返した」として、自らの回想録でも「私は自分が憎い。私がしたことは許せない。命惜しさに自己断罪するような勇気さえもないことも含めて」と記している。

 

 

 真田源二郎/真田信繁/真田左衛門佐(1567~1615)

 真田昌幸の次男、兄は源三郎で弟は源二郎であるが、この時代にはよくあることである。

 関ヶ原の戦いで東軍に付いた兄と袂を分かち、父とともに西軍に付く。徳川秀忠の軍勢を苦しめ、遅参に追い込むものの、関ヶ原本戦で西軍が敗れ、兄の助命懇願もあって九度山で配流の日々を過ごす。

 ちなみに、兄の仕送りが家計の頼りでもあった。

 その後、大坂の陣が勃発、真田信繁は密かに逃亡し大坂城に入ると冬の陣では真田丸を築き徳川方を苦しめた。

 また、夏の陣でも徳川本陣間際まで追い詰めるも、一歩及ばず戦死。

 永原先生からは「主君の跡継ぎの、偉大な息子」として尊敬されている。

 また、真田幸村の名でも知られるが、永原先生はこの名で広められることを極めて嫌っており、上田駅前の「真田幸村像」に向かって悪態をついた挙句、なだめにかかった篠原浩介に怒鳴り込んだり、真田氏を記念した公園でも、「真田幸村」に対して「恐れ多くも安房守殿の次男、真田左衛門佐殿の名を勝手に剽窃して作り上げた架空の人物」と称している。

 諱を曲げて伝えるというのは、永原先生の価値観では到底あってはならないことなのである。一方で、永原先生は「左衛門佐殿」と呼んでいる。

 また、真田十勇士の逸話についても「デタラメ」として極めて嫌っている。

 

 

 徳川家綱/征夷大将軍/上様/公方/大樹公(1641~1680)

 江戸幕府4代将軍、父は3代将軍徳川家光。

 永原先生が後年「大恩人」と評するとともに2人の初恋の相手の1人でもあり、「罪悪の象徴」でもある。

 1651年にわずか11歳で征夷大将軍となる。江戸幕府が開かれ50年目の節目の年に「江戸の街の不老娘」の噂を聞き、永原先生を江戸城へと呼び寄せる。

 永原先生に生まれ年を聞き「永正15年、136歳」との答えを得る。また、真田家への仕官を証言したため、真田信之を呼び、その後、永原先生が自分の目の前で大泣きする事件が起きる。

 この時、そばにいた家老は「無礼者!」と永原先生を怒鳴りつけるが、すぐに「よい、泣かせてやれ」と制止して事なきを得る。

 永原先生が一通り泣き止んだの地、真田信之を下がらせ、ねぎらいの言葉を述べると、永原先生はまた大泣きしてしまう。

 その様子を見て「辛かったろう、気の済むまで存分に泣け」と言って江戸城に泊まるように申し付ける。

 これをきっかけに、真田信之とともに永原先生の初恋の相手になった。

 永原先生はこのことに多大な罪悪感を感じており、後年には「時折藩主や旗本たちに戦乱の話を聞かせ伝え、毎晩毎晩罪を懺悔する日々だった。2人の恩人はあの世から今も私を許してはくれないだろう」と述懐している。

 永原先生は徳川家綱より江戸城に常駐するように命じられ、以降代々の将軍に引き継がれた。

 その後明暦の大火が発生し、この時は永原先生は徳川家綱から真っ先に逃されており、真田信之に敬意を払うなど、彼の立場を超えた年長者への敬意が伺える。TS病がバレても殺されなかったのも、父家光による儒学教育の影響とも言われている。また、地位が不明瞭だった永原先生に武士の身分を与えている。

 後年、永原先生からは「幼少にして立派な人だった」と、後世の印象とは違った評価を下している。

 

 

 徳川光圀/徳川中納言/水戸光圀/水戸中納言/水戸黄門(1628~1701)

 ご存知水戸黄門。永原先生は江戸城で何度か面識があり、水戸藩が勧めていた「大日本史」の編纂の時には、直接話を伝えている。永原先生は「徳川中納言」や「水戸中納言」と呼んでいる。

 ちなみに、時代劇でよくある「諸国漫遊」についても永原先生は「嘘」と断じている。

 史実の光圀は江戸に常駐していて、諸国漫遊どころか、関東からもほぼ出たことがなく、実際に諸国漫遊をしていたのは彼の家臣である。

 

 

 吉良義央/吉良上野介(1641~1703)

 吉良家出身の高家旗本、名門の家柄で、領地に黄金堤を築くなど安定した治世をしていた。

 永原先生にとっては大恩ある人として、「3人目の恩人」とも呼んでいるが、一方で「またも恩を返せず」として、自らの無力と罪悪の象徴でもある。

 当時の永原先生は、江戸城内で住んでいながら町娘としての服を使用しており、他の大名や旗本、江戸城内で働く人々は、表向きは「不老の町娘」として敬意を払うものの、裏で陰口を叩かれ続けていた。

 これを不憫に思ったのが吉良義央であり、徳川綱吉とも掛け合って立派な服を与えた他、上方の作法を教え込むなどした他、徳川綱吉にも陰口を辞めさせるように進言し、綱吉もこれを採用。

 徳川綱吉は江戸城内や大名・旗本に向けて「遠き戦乱の世の時代を知る柳ヶ瀬殿に陰口を叩かず、心から敬意を払うように」と命じ、陰口は途端に止んだ。

 この一件以降、吉良家に強い恩義を感じるようになるが、元禄14年(1701年)に江戸城内で朝廷の使者を迎え入れる儀式の準備中に浅野長矩から斬りつけられる事件が発生し、この時に徳川綱吉より「無抵抗だったのは寧ろ殊勝である」としてお咎めなしとなり、一方で浅野長矩は即日切腹・赤穂藩も改易となった。

 元禄15年(1703年)、大石良雄を中心とする赤穂浪士が吉良邸に討ち入りに入り、非業の死を遂げた。

 永原先生はこの一件以来、浅野家や赤穂浪士に対して、極めて無礼と知っておきながら故意に諱を呼び捨てるほどに強い敵意を持っている。ただし浅野長矩の弟浅野長広については「大学殿」と呼んでおり、特に敵意はない。

 また、忠臣蔵の物語についても「吉良殿にいわれなき汚名を着せた」として、永原先生は赤穂浪士を連合赤軍やオウム真理教と同列に置くほどに嫌っている。

 後年の永原先生の述懐でも「温厚で優しい方」「恩義に手厚い人」と言った絶賛を受けている。

 本人は「何もできなかった」と後悔していて、「きっとあの世で恨んでいるに違いない」と考えていたものの優子の手により罪悪感から解放された。

 

 

 浅野長矩/浅野内匠頭(1667~1701)

 赤穂藩主、忠臣蔵で有名。

 元々癇癪持ちな上に精神病のきらいがあったらしく、母方の叔父も同様の刀傷事件に及んで切腹・改易となっている。

 吉良の「いじめ」について、永原先生によれば、「無理矢理吉良殿を悪人に仕立て上げるための創作」だという。また、永原先生は「かけがえのない恩人にいわれなき汚名を着せる行為」として、このような話をすると誰彼構わず怒り出してしまう。

 ちなみに、一般的には、勅使に対する礼儀作法の指南役だった吉良に授業料を出さなかった(賄賂とされているが、現在の価値観では授業料という意味に近い)ことを咎められて逆恨みした上での犯行という説が根強い。

 斬りつけられた後の取り調べても、吉良は「何ら身に覚えがない、乱心としか言いようがない」と答えていた。

 これは、乱心ならば罪が軽くなるとしての配慮だったが、浅野は単に「恨みがある」とのみ繰り返していて、具体的には何も語らず、一方で朝廷との重要な儀式を台無しにされた将軍綱吉は、永原先生が「あの時の怒りの形相は今も目に焼き付いている」と称するほどに激怒し、浅野長矩に即日切腹を言い渡した。

 永原先生は、本来の流儀ならば「内匠頭殿」と呼ぶべき所を「長矩」と諱を呼び捨てにしている他、「キチガイ」「狂人」とも言っており、評価は散々である。

 

 

 大石良雄/大石内蔵助(1659~1703)

 赤穂事件の中心人物、お家再興に向けて尽力していたが、それが敵わないと知ると、吉良家に討ち入りを決定する。

 吉良の首を泉岳寺にある浅野長矩の墓前に供え、その後は他の赤穂浪士とともに切腹を命じられた。

 永原先生はこの行為を「逆恨み」だとして、また恩人を殺害しただけでなく、吉良家の取り潰しのきっかけを作ったとして赤穂浪士に対しても「大石良雄」と諱を呼び捨てにするほどに強い敵意を抱いている。

 

 

 徳川綱吉/征夷大将軍/上様/公方/大樹公(1646~1709)

 江戸幕府5代将軍、徳川家綱の弟で、兄の死と共に将軍となる。

 戦国時代の気風を一掃し、文治政治を推進した。勤皇家でもあり、朝廷との関係を重視した。

 後年の永原先生の述懐では「実直な人」「誠実な人柄」と肯定的な評価を下しており、「天下の悪法」とよばれた「生類憐れみの令」についても好印象を持っているが、永原先生にとっては、徳川綱吉に対しても吉良上野介の進言を受け入れた恩があるという一面もある。

 赤穂事件の時の処分について、永原先生は「喧嘩両成敗は時代遅れであり、生類憐れみの令にも反する」と進言したものの、「征夷大将軍といえど世論には勝てない」と却下されてしまった。この判断については、永原先生も一定の理解を示している。

 一方で、刀傷事件における吉良お咎めなしの裁定にはほぼ全肯定的な態度を取っている。

 

 

 昭和天皇(1901~1989)

 ご存知昭和天皇、あまりにも有名なので事績は記さない。

 永原先生にとっては戦時中に裏切った相手として罪悪感を持っている。

 永原先生は教師として、戦時中は田舎に疎開しており、「久々の大戦争に血湧き肉躍る」と振り返りつつも、「真田家や吉良家に恩を返せていないからまだ死ねない」と思いこんでしまい、米軍が襲来した際には当時の教え子を囮に一人山へ逃げる計画を立てていた。

 この計画は未遂に終わるものの「よりにもよって天皇陛下を裏切ってしまった」として後に「私は最低の女」とまで考えるようになってしまった。


▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。