永遠の美少女になって永遠の闘病生活に入った件   作:名無し野ハゲ豚

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修学旅行2日目 大いなる遺産

「「「ごちそうさまでした」」」

 

 あたしを最後に全員が食べ終わると、あたしたちは再び博物館の見学に戻る。

 

「そう言えば、京都ってエスカレーター逆じゃないんですか?」

 

 エスカレーターに乗っていると龍香ちゃんが疑問を述べる。確かに言われてみればそんな感じ。関西はエスカレーター逆のはずだけど。

 

「京都は観光地ってのもあって左右が混在しているわ」

 

「へーそうなんですかー」

 

 永原先生が分かりやすく説明してくれる。

 新幹線や空港でも、結構困ったことになるわよね。

 

「そもそも大部分の地域はエスカレーターの左右なんて決まってないわよ。前の人に続くって感じかな? もちろん、これから大阪神戸に行く人は要注意よ」

 

「そう言えば、あたしは明日――」

 

「ええ、エスカレーター逆のところに行くわよ」

 

 おっと、あまり仕事のことは話さないようにしないと。

 

 永原先生の誘導で、一旦一階へと戻る。

 ここの屋外に、まだ見てない展示があるというのでついていく。

 そこは「トワイライトプラザ」と称した場所で、客車が3両、機関車も3両展示されている。

 

「これはトワイライトエクスプレスのA寝台ね」

 

「へー、こんなに豪華なんですか!」

 

「今のクルージングトレインと比べたらとてもコストパフォーマンスがよかったわ。で、こっちはEF65よ……トワイライトに牽引されたかは忘れたけど、寝台列車だけじゃなくて貨物列車も含めて、今も少数が元気に働いているわよ」

 

 永原先生が言う。

 このEF65はとても使い勝手のいい機関車で、色々なところで活躍しているという。

 だけど、奥に展示してあるもう一つの機関車は、使い勝手でEF65を上回るという。

 でもその前に、あたしたちはもう一つのA寝台の他、トワイライトエクスプレスで使われていた食堂車を見学した。

 

「食堂車が廃れた理由。駅ナカや車内販売にに取って替えられた理由を考えれば、食堂車は立派に役目を果たしたといっていいわね」

 

 永原先生はさっきの話を念頭に言う。

 そして、もう一つ奥には、機関車が2つ展示してあった。

 一つにはEF58、もう一つはEF81とある。

 

「永原先生、使い勝手がいい機関車って言うのは?」

 

「もちろん、このEF81のことよ。日本のJRには直流電化、交流電化とあって、そのうち直流電化の方は概ね1500Vで統一されているわ。一方で、交流電化は50Hzと60Hzがあって、しかも電圧も20000Vと25000Vとあるわ。幸い交流25000Vは新幹線専用だから、周波数と併せて3つに対応できれば良かったの。そしてそれに対応した万能機関車がこのEF81よ」

 

「へえ、それで、やっぱり大活躍したのか?」

 

「もちろん……というか貨物列車ではまだ一部現役よ。これも国鉄時代の設計で、古いけど民営化後になってわざわざ新造されたくらいの高機能だったわ」

 

 永原先生の説明が続く。

 以前はこのトワイライトエクスプレスの他、北斗星やカシオペアといった豪華寝台列車の牽引機関車にも使われたという。

 このEF81の後継機として、現在ではEF510と呼ばれる機関車が活躍しているという。

 

 一方のEF58はかなり古い機関車で、もう走ってはいないとのこと。

 これでここトワイライトプラザも終了した。

 

「さ、これで残るは扇型の車庫だけよ。一旦2階に上がるわよ」

 

 永原先生に言われるがままに2階に上がる。

 

「こっちよ、ついてきて」

 

 永原先生の言葉と共に、ガラス張りの廊下に行く。

 すると、眼下には整備工場のようなものが目に入る。

 

「あら、残念だわ」

 

 永原先生が残念そうな顔をして「残念だわ」と言う。

 

「何が残念なんだ?」

 

 恵美ちゃんがすかさず質問をする。

 

「いつもだったらここで蒸気機関車の修理とかをしているのよ。今はやってないみたいね」

 

 永原先生によれば、これも博物館の見学の一環なのだとか。

 

「まあ、仕方ないですね」

 

 ともあれ、気を取り直して、先へと進む。この先は蒸気機関車が大量に保存されているという。

 

 

 あたしたちは再び地上に降りると、一旦屋外に出た。

 

「うわーすごいですねえー!」

 

 それは、見るものを圧倒する風景だった。

 扇形に広がるように黒い蒸気機関車が並んでいた。しかも、どれもこれもが間近で見ることができる。

 

 あたしたちは、まず一番右の蒸気機関車に注目した。

 

「これは8620、通称『ハチロク』と呼ばれる蒸気機関車ね。さっき出てきた島安次郎の設計作よ。いろいろなところで活躍したわ」

 

 永原先生の解説を聞く。

 どうやら島安次郎というのは、連結器交換のほかにも、新幹線の原型を構想した人でもあるという。

 隣は空になっていた。展示によれば、いつもはここにC62が展示されているけど、今日はイベント列車に使われるらしい。

 次にあったのはC61、そしてその隣がD51、鉄道に疎いあたしでも、「デゴイチ」は聞いたことがある。

 

「ところで、CとDってどう違うんだ?」

 

 恵美ちゃんがふと疑問に思って言う。

 

「ふふっいい質問ね。それは機関車を横から見るとよく分かるわよ」

 

 永原先生がそう言うので、あたしたちは車庫の内部に入っていく。

 

「あ、見てください。車輪の数が違いますよ!」

 

 龍香ちゃんの言う通り、C61は3つ、D51は4つの車輪で、一つ一つの大きさはC61が大きい。

 

「本当だわ。でもどうして?」

 

「例外はあるけどCは旅客列車用、Dは貨物列車用よ。蒸気機関車は動輪の回転のスピードに限界があったの。だから動輪が大きければ大きいほど速い速度を出せるわけ。日本の場合は制動距離600メートルの法律があった上に軸重の制限も大きかったから、大体95キロだけどね」

 

「なるほど、でもあんまり大きいとバランス悪そうだな」

 

「ええ、そうよ。それに動輪の数が少ないと引っ張る力も弱くなるわ。3人で引っ張るより4人で引っ張る方が強いでしょ? 貨物列車は速度よりも引き出し力が必要だから、貨物用のD51は動輪が4になっているのよ」

 

 ふむふむ。

 

「このC61の後ろにある2って言うのは何ですか?」

 

「ああそれは単純に2号機っていう意味よ」

 

 永原先生からつまらない答えが出る。そこはもう、それ以上の進展がない。

 

「そう言えば、さっきの『ハチロク』とかはアルファベットが無かったわよね」

 

「ああ、それは命名法のルールが代わる前だからよ」

 

「そうですか」

 

 あたしの質問に、永原先生があっさりした風に答えてくれる。

 

 その隣に出てきたのは「C57 1」と書かれている。

 

「これは『シゴナナ』ね。私も何度か乗ったことがあるわ。戦前に戦後に、様々に活躍したわね。これは初期型だけど、後期型は『貴婦人』何て呼ばれていたわ」

 

 「貴婦人」かあ、あたしもそんな風になれるのかな?

 永原先生や他のTS病患者を見てるとどうしても、あたしは「少女」のままな気がするけど。

 

 そしてその左隣、C57よりやや小型の機関車、C56が展示されている。

 番号から考えて、C57の直前に作られたのかな?

 

「なあ先生、これって『シゴロク』とか言ったりしねえか?」

 

「ええそうよ田村さん」

 

 恵美ちゃんの当てずっぽうが当たる。

 そして永原先生は遠い昔のことをまた懐かしそうに語る。

 この機関車は軽量ながら長距離運用に適するという特徴を持っていて、戦時中には東南アジアにもって行き、そこで生涯を閉じた機関車もあったという。

 蒸気機関車は通常は石炭だけど、それ以外の材料を燃やしていいといった理由で、軍用鉄道向きではあるという。

 さて、その隣は一段と小さな蒸気機関車が展示されていた。

 先頭を見るとB20とあって、さっき見た黎明期の蒸気機関車に近い。

 

「これは小型機関車よ。豆みたいでかわいいわね」

 

 永原先生はよく分からない感慨を見せていた。蒸気機関車は逆向きに連結できないので、それを何とかするために入れ替えに使われたという。

 さらに左隣、こちらは「1070」、名前の振り方から見てもわかるように古い設計で、イギリス製。左隣の「9600」と比べても大分小さい。

 

「9600は通称『キューロク』で、これは島安次郎の弟子に当たる朝倉希一の設計よ。この頃から、島安次郎は線路幅の狭い在来線での限界を感じていたわ。それが新幹線に繋がったのよ」

 

 その隣、今度は「C11」と「7100」と呼ばれる二つの機関車が展示されていた。7100はさっきあたしが食べた中華そばの海苔に書かれていた「義経」号で、かなり特徴的な形をしている。

 どちらもやや小ぶりだけど、さっきのB20と比べるとかなり大きい。

 

「このC11は昭和初期に作られた蒸気機関車でありながら、使い勝手のよさで蒸気機関車の末期まで使われた名機よ。私もよく乗ったものだわ」

 

「へー、これがそんなにねえ……」

 

「実際、今でも動態保存されている蒸気機関車はこのC11が多いわよ。設計したのは『島秀雄』氏よ」

 

「ん? 島ですか? もしかして今まで出てきた島安次郎さんの――」

 

「ええ、長男よ。父を超える偉大な人だったわ」

 

 龍香ちゃんが言い終わる前に永原先生が答えを言ってくれる。

 

「え!? 『車両の神様』よりも偉大だったんですか!?」

 

 あたしが驚いた風に言う。

 さっきの屋上での話ぶりでは、明治・大正期の神様の中で、運転の神様が最も偉大だと言っていた。

 つまり、今日の日本の鉄道の正確性を作り上げたその人くらいに偉大だという事。

 

「ええ、何分彼は……父が構想した新幹線を現実に作り、そして日本の電車技術の基礎を作り上げた人ですから」

 

「し、新幹線を作ったんですか!?」

 

 あたしたちが、修学旅行や、協会の仕事、あるいは林間学校の帰り道で使った新幹線、島秀雄は、それを作り上げたという。

 

「さっきのD51も彼の製作よ。日本の蒸気機関車の中で最も多く生産されたのよ」

 

 永原先生が言う。

 そしてこのC11も、傑作機だったという。

 そしてその隣、こちらもC62の一機、結構C62はよく見るわね。

 

「C62の改造にも、島秀雄が関わったのよ。狭軌最高速度を記録したこともあった機関車だから、速力には優れていたわ。それでも、法令のために営業の最高速度は95キロだけどね。新幹線ができた頃には、蒸気機関車もどんどん姿を消していったわ。まるで役目を終えたかのようにね」

 

 永原先生が感慨深く言う。

 思い出のC62を見て、永原先生にも思うところがあるらしい。

 さて、そのC62の隣にあったのはまたしてもD51だけどこっちは「D51 1」と書いてあって、つまりトップナンバーでさっきのD51と比べてもなんか雰囲気が違う。

 

「これは初期型のD51で、『ナメクジ』と呼ばれたタイプよ。初期型は重量の不均衡といった問題点もあったから、島秀雄が彼の弟子の『細川泉一郎』に相談して改良を加えたのがよく見るD51なのよ」

 

「その細川さんっていう人は?」

 

 あたしが質問してみる。

 

「ええ、確か石山さんたちが生まれる年くらいまで生きてたわよ。彼はその後昇進した島秀雄に代わって後期型の機関車を多く作ったわ。彼もまた、優れた鉄道人だったわよ。本人は『島さんが上でいつも僕は言われるがまま』と謙遜していたけどね」

 

 細川泉一郎は、C56以降の蒸気機関車の他、151系のこだま電車の設計にも関わったという。

 

 さて、その隣に鎮座していたのはC55、永原先生によればこちらも島秀雄の製作で、失敗作となってしまったC54を改良したものだという。

 永原先生によると、C54は、まだ彼が若い時に作られた蒸気機関車で、重さ制限の厳しい路線にも乗り入れられ、尚且つ高速性能を求められたために、極限までに軽量化を押し進めたものの、やりすぎて空転が多発したのだという。

 

「空転って?」

 

「要するに、車輪が滑って空回りしちゃうことよ。最悪の場合動けなくなっちゃうわ。雨雪の日の機関車……特に蒸気機関車はこれがよく起きるわ。対策としては砂をまいたり、死重を載せてわざと重くするのが一般的よ」

 

 最も、欠点ばかりが目立つC54で行われた軽量化技術も、C11なども含めた後の小型機関車に応用されているから、完全に無駄な機関車にはなっていなかったという。

 

「私はC54に乗ったことないわね。こっちの方は何回かあるけど」

 

 ともあれ、次に行く。扇形は中央を超え、再びカーブし始めていた。

 次に見えたのはC58、細川泉一郎が設計主任で、課長として島秀雄の監督のもとで作ったのだという。

 

「C58では、スピードなどの性能に限界があったから、主に労働環境の改善に焦点を当てられたわ。密閉型の運転室になったのよ」

 

 その隣はD50、D51のプロトタイプと言える機関車で、永原先生によれば、使い勝手がよく、その後に与えた影響を鑑みればD51以上の傑作と言ってもいい機関車だという。

 

 そしてその次はD52、こちらはD51をパワーアップさせた機関車で、設計主任は細川泉一郎。

 「日本最強の蒸気機関車」ともいわれているという。

 

「戦時設計だったからボイラーの爆発事故がよく起きたのが難点だったわね。とはいえ、改良をすればそのパワーをいかんなく発揮したわ。有名なC62にもこのボイラーが使われたのよ」

 

 展示されている蒸気機関車の残りも少なくなってきた。

 

「これはC59、『シゴク』よ。特急やお召し列車の牽引にも使われて現場の信頼も高かったのよ。戦後にも作られた蒸気機関車で、改善も見られているわね。とにかく強力型として有名だったわ。隣のC53共々ね」

 

 永原先生が隣の機関車を指す。

 それがC53だった。島秀雄が最初に作った蒸気機関車で、日本が設計した唯一の3シリンダー型だったという。

 

「他の機関車はシリンダーが2つ、これは3つで強力ではあったけど、複雑さ故に整備に難点があったわ。それでも、超特急燕の牽引にも使われたくらい、強力型であったのは確かよ……そうそう、燕の牽引に関わったのも、結城弘毅だったわね」

 

 永原先生が、ここで運転の神様の名前を出す。

 こんなところでつながっていたのだ。

 C59の登場で、ようやく2シリンダーで追いついたのだという。

 更に隣の機関車、これが最後の機関車になった。

 そこにはC51と書かれていた。

 

「先生先生、これは誰が作ったんですか?」

 

「島安次郎と朝倉希一よ。ええ、傑作でしたわ」

 

 C51は後の機関車に大きく影響を与えた。例えば動輪の大きさなどが、後の機関車に影響を与えたという。9600の後継で、広軌改築論のための布石にしようとしたが、あまりの傑作機のために「これほどの傑作機なら狭軌で十分」と言われてしまったんだとか。

 

「自滅みたいな格好になっちゃったけど、その後上層部は更に高性能な機関車を欲したんだから、的外れではあるわね……さ、これでここはおしまいね。あそこの客車が休憩所になっているわ」

 

 永原先生の先、そこには真っ赤な車両が1両、「京都↔柘植」と書かれて待機していた。

 

「うわあ、50系客車、私も青函トンネルの海峡でお世話になったわ。量産こそされたけど、悲運の車両だったわね」

 

 国鉄末期にこれまで運用されていた旧式の客車列車を置き換える目的で大量生産されたものの、電車化、気動車化という島秀雄が推し進めた動力分散方式にすぐに取って変えられて、大量の余剰が発生してしまったという。

 

 永原先生にとっては、青函トンネルが開業して間もないころに走っていた「快速海峡」で、当時は凄まじい轟音だったが、それでもあれだけの長大トンネルを走ったのは感動的だったという。

 

 中はというと、昔ながらの座席という感じがする。

 今でも、こんな感じの座席があるという。

 

 

「さ、これで見るべき車両は全て見たわね。さ、最後に動態保存してあるSLに乗れるらしいわ。行ってみましょう」

 

「お、楽しみですねえー」

 

「ワクワクするぜ」

 

 みんなで、近くのSL乗り場まで移動した。

 乗車料金は300円で、あたしも100円玉を3枚払う。

 赤い客車は2両、牽引するC62に比べるとかなり貧弱で、永原先生曰く「C62がこんなのを2両だけ引っ張るなんて何とももったいない」と言っていた。

 

「発車する時、揺れるかもしれないから気をつけてね」

 

「おう」

 

 アトラクションにはかなりの人数が乗っている。

 

「えー、間もなく出発いたします。揺れますのでご注意ください」

 

 永原先生と同じことを、添乗員さんが言う。

 

  プオオオオオオオオオオオオオオオオオ!!!!

 

 ガックンという音とともに、蒸気機関車が汽笛を鳴らして走り出す。

 とは言っても、これは博物館のアトラクション、大してスピードも出ず、永原先生は逆向きに走り出し続けた所に爆笑していた。

 すぐ近くにはJRの現役の線路が見えていて、「新快速」と青い文字で書かれた電車が大きな音を立てて通過する。

 線路は行き止まりになっていて、しばらくするとC62がまた大きな汽笛を鳴らして同じ向きに移動する。

 永原先生が行き止まりにある信号機を「懐かしい」と言っていた。

 そう言えば、2階でも見たっけ? 確か名前は腕木式信号機だっけ?

 

 ともあれ、10分弱の短い旅も終わり、あたしたちは全ての展示を見終わって出口へと向かう。

 ここは旧二条駅舎だという。かなり古いタイプの駅舎だ。

 

「あら、いつの間にかこんな時間ね」

 

「わっ、本当だ。夕食を考えねえと」

 

 あたしたちは元来た道を戻り、京都駅付近で食事を探すことにした。


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