永遠の美少女になって永遠の闘病生活に入った件   作:名無し野ハゲ豚

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幕間 ここまでの小説に出てくる歴史上の人物 第十章

 第十一章に入る前に、一旦ここまでに出てきた歴史上の人物(実在)についてまとめてみました。

 なので、読まなくても物語に支障はありませんが、永原先生のキャラクター設定も大分溜まってきたので(当初はこんなに大きな役柄や設定ではなかったのですが)一度復習してみるのもいかがでしょうか?

 

 

 真田幸綱/真田幸隆/真田源太左衛門/真田弾正忠(1513~1574)

 永原先生が鳩原刀根之助と名乗っていた時代の主君に当たる人物。

 信濃の小豪族で海野氏の支流とされている。永原先生の5歳年上で弟の矢沢頼綱は永原先生と同い年。

 永原先生は、元々天文2年(1533年)より5年間真田家に仕えており、役割は伝令役の足軽だった。また、小さな小規模争いにも参加していた。

 天文7年(1538年)、永原先生はTS病に倒れ村より逃亡、天文10年(1541年)には武田信虎が諏訪頼重・村上義清と同盟を組んで海野氏を滅ぼすために侵攻を開始。

 これを海野平野戦いといい、この時真田幸綱も上野の長野業正を頼って逃亡、永原先生がほとぼりが冷めて領地に戻った時には、既に主君は村上義清に代わっており、永原先生がTS病に起因する最初の罪悪を抱くきっかけとなってしまう。

 その後、武田信虎が息子の武田晴信に追放されると、真田幸綱は武田に仕えるようになり、村上義清への調略に参加、一時は砥石崩れによる大敗も遭ったものの、天文20年(1551年)には村上義清より旧領を奪還し、義清は長尾景虎を頼って越後へと逃れている。

 当時TS病は不吉とされてすぐに殺されてしまっていたため、永原先生は真田家へ帰参できず、「柳ヶ瀬まつ」と名乗って村娘の一人になっていた。

 永原先生は武田家に仕える以前の真田家に仕えており、「弾正忠」ではなく通称の「源太左衛門」の方を用いている。

 永原先生にとって、真田家は自らの罪の象徴であるとともに、心の拠り所でもあり、物語内でも「私は真田家の人間」と度々言及している。

 

 

 村上義清/村上佐渡守/村上左近衛少将(1501~1573)

 真田家のほど近くを領地に持っている北信濃の豪族。

 武勇に長け、小領主ながら守護大名の武田信虎とも互角にやりあっていた他、上杉氏の後ろ盾を得ていた小豪族とも争っている。

 佐久郡を武田信虎に奪われるが、やがて和解し、天文10年(1541年)の海野平の戦いで海野氏を攻める。この時真田の村も連合軍に襲われることになり、真田幸綱は海野家共々隣国に逃亡、真田の村は村上義清のものとなり、真田本城の支城だった砥石城を拠点とする。

 その後武田信虎が息子の武田晴信に追放されてしまい再び武田氏と対立、天文17年(1548年)の上田原の戦いで武田軍を破ると、天文19年(1550年)には砥石崩れで大勝を収めた。

 しかし真田幸綱が武田家に仕え始めると状況がいっぺん、天文20年(1551年)には真田幸綱によって砥石城が攻略され、調略によって村上側の諸将が武田型に寝返り、最終的には越後の長尾景虎(上杉謙信)を頼って逃亡した。これが後に川中島の戦いの導火線となる。

 永原先生はこの戦いの時に別の村の住人となっていたために難を逃れ、故郷に帰ってきてから真田幸綱に再び放逐されるまでの間に主君として年貢を納めていた。

 

 

 武田晴信/武田信玄/武田太郎/武田大膳大夫(1521~1573)

 ご存知武田信玄。父晴信を追放後、川中島の戦いで上杉謙信と死闘を演じ、三方ヶ原の戦いでは徳川家康を破るなどの活躍をしたものの、志半ばで病死した。

 「人は城、人は石垣、人は堀、情けは味方、仇は敵なり」という言葉は有名。

 父を追放した他、嫡男に謀反の疑いをかけて切腹させる、北条・今川と結んだ三国同盟やその後に結んだ徳川家との大井川同盟や、織田家との同盟も破るなど、不義理な人物でもあり、上杉謙信にはかなり嫌われていたらしい。

 

 

 武田信虎/武田信直/武田左京大夫/武田陸奥守(1494~1574)

 武田信玄の父、当時としては長生きで息子信玄の死後まで生きていた。

 彼が生まれた時は、甲斐国内で祖父・叔父・父が相続争いをしており、最終的に祖父・父が相次いで死去して家督を継ぎ、挙兵した叔父を倒し、その後甲斐国衆や今川氏とも闘って甲斐を統一、富士山にも登り御鉢廻りを巡っている。

 その後は信濃の諏訪氏、村上氏、関東北条氏や駿河の今川氏などと戦いつつ、最終的にはこれらと和睦、諏訪氏村上氏と共に海野平の戦いで真田氏と海野氏の駆逐に成功、同盟関係にあった今川義元の領地に向かう帰路、息子である武田晴信によって街道封鎖によって強制隠居させられてしまった。

 その後は駿河の今川義元の元に身を寄せ、出家した上で隠居生活を送り、京都や奈良などに何度か上洛、京都と駿河を往復する生活を送りつつ、桶狭間の戦い以降は今川と武田が手切れとなり、在京奉公を開始、信玄死後は三男が居城とする信濃高遠城に身を寄せそこで死去した。

 永原先生からは海野平の戦いで言及されている。主君を一時的に追い出したことには特段恨み等は感じておらず、「戦乱の時代によくあること」という認識を持っている。

 

 

 真田信綱/真田左衛門尉(1537~1575)、真田昌輝/真田兵部丞(1543~1575)

 直接には言及されていないが、長篠の戦いで戦死した真田昌幸の兄2人。

 永原先生はこの時にも、何もできなかった自らを嘆いている。武勇に優れ、将来を期待されていた。

 長篠の戦いの頃、永原先生は自らを不老ではないかと疑い始めた。

 

 

 織田信長/織田上総守/織田上総介/織田弾正忠/織田右府/織田前右府(1534~1582)

 ご存知織田信長、あまりにも有名な人物なので事績は記さない。

 永原先生の生まれ年を聞いた時に真っ先に「織田信長より年上」と生徒が言及していた他、永原先生も本能寺の変の時には「織田前右府」と称しており、明智光秀は「明智日向守」と称しており、このことは優子が桂子、龍香と3人で遊んだ時のクイズゲームで役に立った。

一方で、永原先生自身は織田信長については深く言及していない。

 

 

 木下藤吉郎/木下秀吉/羽柴筑前守/羽柴秀吉/豊臣秀吉/関白殿下/太閤殿下/豊太閤/豊国大明神(1537~1598)

 ご存知豊臣秀吉、こちらもあまりにも有名な人物なので事績は記さない。

 永原先生からは天下人として度々言及されていて、主に「太閤殿下」と呼んでいる。

 天下人として、永原先生は多大な敬意を払っているが、江戸城暮らしが長いためか、長い泰平の世を築いた徳川家康ほどには尊敬していない様子が見て取れる。

 

 

 松平蔵人佐/松平元信/松平元康/松平家康/徳川家康/徳川次郎三郎/徳川内府/徳川右府/征夷大将軍/上様/大御所/神君/東照大権現(1543~1616)

 ご存知徳川家康。上記の呼び方はごく一部。

 やはりこちらも説明不要の人物で、永原先生は関ヶ原の戦いを公家とともに遠目で見物した時に一度だけ姿を見たことがある。

 徳川家康について、永原先生は基本的に「東照大権現」と呼んでおり、関ヶ原の見物談を話すときのみ当時の呼び方であった「徳川内府」と呼んでいる。太平の世を築いた偉人として敬意を示している。

 ちなみに、体育祭の騎馬戦の時には、2年2組男子の戦法を「島津の退き口」になぞらえている他、小早川秀秋の裏切りや大谷吉継隊の壊滅のことも話している。

 また、方広寺鐘銘事件でも言及されており、永原先生は「諱を犯すことは極めて無礼」として、「徳川方の言い分は言いがかりではない」として擁護している。

 

 

 木下辰之助/羽柴秀俊/小早川中納言/小早川秀秋/小早川秀詮(1582~1602)

 豊臣秀吉の正室の甥で、豊臣家親族として、重きをなした。

 小早川隆景と養子縁組をなし、18歳ながら豊臣家の重鎮となっていた。

 関ヶ原の戦いでも、大軍を率いて松尾山に陣をはり西軍として参加するが、既に徳川方に内応しており、戦闘には参加せず傍観する。

 徳川方の催促もあって小早川秀秋は東軍に寝返り、以降明智光秀と並んで「裏切り者」の代名詞的存在になる。

 1602年に21歳の若さで急死し、跡継ぎもなく小早川家は断絶となった。

 永原先生は、「小早川中納言殿の裏切り」として、関ヶ原の戦いの目撃談の時には必ず登場する。

 

 

 大谷吉継/大谷紀之介/大谷刑部(1565~1600)

 大谷吉継の名で知られる武将。病のため失明していた。

 関ヶ原の戦いでは西軍に属し、小早川秀秋の裏切りを受ける。圧倒的な兵力差でも奮戦し、数度小早川隊を押し返すも、山の麓に小早川の裏切りに備えていた4将が連鎖的に寝返ったこともあって衆寡敵せず。

 大谷吉継は家臣の介錯で切腹して果て、小早川秀秋に対して「人面獣心なり、3年の間祟りをなさん」として死んだとされている。小早川秀秋はこの2年後に死亡している。

 石田三成の無地の親友であるが、東軍諸将とも交流が深く、また関ヶ原の戦いでも西軍必敗を見抜き石田三成を止めたが、三成の熱意に押されて西軍に属するなど義理堅い人物で、その死は多くの人から惜しまれた。

 永原先生は、小早川秀秋の裏切りによって大谷吉継の軍が壊滅する様子を見物している。

 

 

 島津義弘/維新斎/島津兵庫頭/島津侍従/島津宰相/鬼石曼子(1535~1619)

 戦闘民族と称される島津家の17代当主。

 慶長の役では明朝鮮連合軍5万人をわずか7000の兵で破るなど伝説的な戦いを何度も演じてきた。

 関ヶ原の戦いでは東軍に参加しようとして伏見城に馳せ参じたが、鳥居元忠が援軍を拒否したためにやむなく西軍に参加。

 石田三成にも軽んじられたため、関ヶ原本戦では兵を動かさなかった。

 そのうちに小早川秀秋の裏切りで西軍が壊滅し、島津隊は退路を断たれ完全に孤立してしまう。

 島津義弘はここで、東軍が一番多く集まる所に突撃しながら退却するという捨て身の戦法を取った。

 多数の東軍諸将が動揺し、300人のうち僅か80人のみが薩摩に帰れたとされている。

 永原先生は関ヶ原の戦いの一部始終を見物しているため、当然島津の退き口も目撃しており、体育祭での騎馬戦で、浩介らが取った戦法をこれになぞらえている。

 

 

 真田昌幸/真田安房守(1547~1611)

 真田家の2代目、永原先生とは面識はないが、領民として接している。

 長篠の戦いの後、真田家の家督を継ぐ。

 織田信長による武田征伐で自主独立、最初は織田信長に仕えて滝川一益の与力となるものの、すぐに本能寺の変が発生。

 その後は独立勢力として上杉、北条、徳川、上杉と次々に主君を変え、「表裏比興」と言われながらも生き残る。

 この頃の永原先生は村人からも不老を疑われており、本能寺の変を機に再び村を逃亡。その後に待ち受けていた真田家の苦難を知っておきながら、凶事を恐れて大坂の陣後まで村へと戻ることは出来なかった。

 豊臣秀吉が没し、関ヶ原の戦いが起きると真田家は分裂、真田昌幸は西軍につき、徳川軍を苦しめるものの結果的に破れ九度山に配流され、そこで病死した。

 永原先生からは「安房守殿」と呼ばれており、主君であった父とともに謀略に長けたその智謀に尊敬の念を抱いており、林間学校で優子の部屋を男女から引き離そうとしていた教頭先生を謀略にはめた時には「我が主真田源太左衛門様や真田安房守殿が今の私をご覧になれば、さぞお褒めになってくださると思いますわ」との言葉を残している。

 永原先生の謀略を好む性格は、真田幸綱及び真田昌幸、真田信繁の影響が強い。

 

 

 真田源三郎/真田信幸/真田信之/真田伊豆守(1566~1658)

 真田昌幸の嫡男で真田家を継ぐ。永原先生からは「伊豆守殿」と呼ばれており、恩人にして罪悪感の象徴であるとともに、2人の初恋の相手の1人でもある。

 関ヶ原の戦いでは父、弟と袂を分かち東軍に付く、これが結果的に真田家の存続となる。

 関ヶ原の戦いの後、父と弟の助命懇願を行い、大坂の陣後は信濃松代藩となる。

 一方、永原先生は大坂の陣後に江戸に住むようになったが、人口の多い江戸ではすぐに不老の噂が流れ、再逃亡を考えていた矢先の承応2年(1653年)に当時の4代将軍徳川家綱への拝謁が許された。

 信之は当時88歳であったものの健在で、永原先生の話を聞き、それがすぐに所領で噂になっていた「不老の娘」と同一人物であることを理解し、出奔したことを許し、そればかりか長年の苦難に耐えたことを労った。

 永原先生はこの寛大な処置に感極まって大泣きしてしまった。既に136歳になっていた永原先生は、ろくに恋愛などもしておらず、優しくされただけで恋に落ちてしまった。

 鑑定番組では、大まかな内容は紹介されたものの、恋に落ちたことは伏せられていた。

 それ以来「大恩人に対して恩を仇で返した」として、自らの回想録でも「私は自分が憎い。私がしたことは許せない。命惜しさに自己断罪するような勇気さえもないことも含めて」と記している。

 

 

 真田源二郎/真田信繁/真田左衛門佐(1567~1615)

 真田昌幸の次男、兄は源三郎で弟は源二郎であるが、この時代にはよくあることである。

 関ヶ原の戦いで東軍に付いた兄と袂を分かち、父とともに西軍に付く。徳川秀忠の軍勢を苦しめ、遅参に追い込むものの、関ヶ原本戦で西軍が敗れ、兄の助命懇願もあって九度山で配流の日々を過ごす。

 ちなみに、兄の仕送りが家計の頼りでもあった。

 その後、大坂の陣が勃発、真田信繁は密かに逃亡し大坂城に入ると冬の陣では真田丸を築き徳川方を苦しめた。

 また、夏の陣でも徳川本陣間際まで追い詰めるも、一歩及ばず戦死。

 永原先生からは「主君の跡継ぎの、偉大な息子」として尊敬されている。

 また、真田信繁は真田幸村の名でも知られるが、永原先生はこの名で広められることを極めて嫌っており、上田駅前の「真田幸村像」に向かって悪態をついた挙句、なだめにかかった篠原浩介に怒鳴り込んだり、真田氏を記念した公園でも、「真田幸村」に対して「恐れ多くも安房守殿の次男、真田左衛門佐殿の名を勝手に剽窃して作り上げた架空の人物」と称している。

 現在の記録では、真田信繁は少なくとも死の前日まで「真田信繁」と名乗っていたことが確認されており、徳川光圀もわざわざ「幸村というのはあやまりなり」と記していることからも、「真田幸村」は作られた存在である。

 諱を曲げて伝えるというのは、永原先生の価値観では到底あってはならないことなのである。一方で、永原先生自身は諱を直接口にすることは憚って、当時の呼ばれ方である「左衛門佐殿」と呼んでいる。

 また、真田十勇士の逸話についても「デタラメ」として極めて嫌っている。

 京都の龍安寺に真田信繁とその妻の墓があり、普段は非公開ということになっているが、永原先生は真田家関係者のため、優子達も特別に墓参りすることができた。

 

 

 徳川家綱/征夷大将軍/上様/公方/大樹公(1641~1680)

 江戸幕府4代将軍、父は3代将軍徳川家光。

 永原先生が後年「大恩人」と評するとともに2人の初恋の相手の1人でもあり、また「罪悪の象徴」でもある。

 1651年にわずか11歳で征夷大将軍となる。江戸幕府が開かれ50年目の節目の年に「江戸の街の不老娘」の噂を聞き、永原先生を江戸城へと呼び寄せる。

 永原先生に生まれ年を聞き「永正15年、136歳」との答えを得る。また、真田家への仕官を証言したため、真田信之を呼び、その後、永原先生が自分の目の前で大泣きする事件が起きる。

 この時、そばにいた家老は「無礼者!」と永原先生を怒鳴りつけるが、すぐに「よい、泣かせてやれ」と制止して事なきを得る。

 永原先生が一通り泣き止んだの地、真田信之を下がらせ、ねぎらいの言葉を述べると、永原先生はまた大泣きしてしまう。

 その様子を見て「辛かったろう、気の済むまで存分に泣け」と言って江戸城に泊まるように申し付ける。

 これをきっかけに、真田信之とともに永原先生の初恋の相手になった。

 永原先生はこのことに多大な罪悪感を感じており、後年には「時折藩主や旗本たちに戦乱の話を聞かせ伝え、毎晩毎晩罪を懺悔する日々だった。2人の恩人はあの世から今も私を許してはくれないだろう」と述懐している。

 永原先生は徳川家綱より江戸城に常駐するように命じられ、以降代々の将軍に引き継がれた。

 その後明暦の大火が発生し、この時は永原先生は徳川家綱から真っ先に逃されており、また将軍ながら真田信之に敬意を払うなど、彼の立場を超えた年長者への敬意が伺える。TS病がバレても殺されなかったのも、父家光による儒学教育の影響とも言われている。また、地位が不明瞭だった永原先生に武士の身分を与えている。

 後年、永原先生からは「幼少にして立派な人だった」と、後世の印象とは違った評価を下している。

 

 

 徳川光圀/徳川中納言/水戸光圀/水戸中納言/水戸黄門(1628~1701)

 ご存知水戸黄門。永原先生は江戸城で何度か面識があり、水戸藩が勧めていた「大日本史」の編纂の時には、直接話を伝えている。永原先生は「徳川中納言」や「水戸中納言」と呼んでいる。

 ちなみに、時代劇でよくある「諸国漫遊」についても永原先生は「嘘」と断じている。

 史実の光圀は江戸に常駐していて、諸国漫遊どころか、関東からもほぼ出たことがなく、実際に諸国漫遊をしていたのは彼の家臣である。

 

 

 吉良義央/吉良上野介(1641~1703)

 吉良家出身の高家旗本。吉良家は名門の家柄で、領地に黄金堤を築くなど領民をよくいたわり、安定した治世をしていたとされる。

 永原先生にとっては大恩ある人として、「3人目の恩人」とも呼んでいるが、一方で「またも恩を返せず」として、自らの無力と罪悪の象徴でもある。

 当時の永原先生は、江戸城内で住んでいながらも、城内では町娘としての服を使用しており、他の大名や旗本、江戸城内で働く人々は、表向きは「不老の町娘」として敬意を払うものの、裏で陰口を叩かれ続けて耐え忍ぶ日々を送っていた。

 これを不憫に思ったのが吉良義央であり、徳川綱吉とも掛け合って立派な服を与えた他、上方の作法を教え込むなどした他、徳川綱吉にも陰口を辞めさせるように進言し、綱吉もこれを採用。

 徳川綱吉は江戸城内や大名・旗本に向けて「遠き戦乱の世の時代を知る柳ヶ瀬殿に陰口を叩かず、心から敬意を払うように」と命じ、陰口は途端に止んだ。

 この一件以降、永原先生は吉良義央及び吉良家に対して強い恩義を感じるようになるが、元禄14年(1701年)に江戸城内で朝廷の使者を迎え入れる儀式の準備中に浅野長矩から斬りつけられる事件が発生。

 この時に徳川綱吉より「無抵抗だったのは寧ろ殊勝である」としてお咎めなしとなり、一方で浅野長矩は即日切腹・赤穂藩も改易となった。

 しかし元禄15年(1703年)、大石良雄を中心とする赤穂浪士が吉良邸に討ち入りに入り、非業の死を遂げた。

 この時、吉良義央が討たれたという報を聞いた永原先生の嘆き悲しみは深く、柳沢吉保の記録では「数刻にも渡り柳ヶ瀬殿の嘆き悲しむ声が江戸城中に響き渡っていた」と記されている。

 永原先生はこの一件以来、浅野家や赤穂浪士に対して、極めて無礼と知っておきながら故意に諱を呼び捨てるほどに強い敵意を持っている。ただし浅野長矩の弟浅野長広については「大学殿」と呼んでおり、特に敵意はない。

 また、忠臣蔵の物語についても「吉良殿にいわれなき汚名を着せた」として、永原先生は赤穂浪士を連合赤軍やオウム真理教と同列に置くほどに嫌っている。

 後年の永原先生の述懐でも、「温厚で優しい方」「恩義に手厚い人」と言った絶賛を受けている。

 一方で、吉良上野介に対して、「あれだけの恩を受けておきながら何もできなかった」と後悔していて、「きっとあの世で恨んでいるに違いない」と考えていたものの、後に優子の手により罪悪感から解放された。

 自身が持つ多くの家宝を鑑定番組へ出すことを了承したのも、最終的には吉良の汚名を削ぐことが大きな動機になっている。

 

 

 浅野長矩/浅野内匠頭(1667~1701)

 江戸時代の大名で赤穂藩主、忠臣蔵で有名。

 元々癇癪持ちな上に精神病のきらいがあったらしく、母方の叔父も同様の刀傷事件に及んで切腹・改易となっている。

 吉良の「いじめ」について、永原先生によれば、「無理矢理吉良殿を悪人に仕立て上げるための創作」だという。また、永原先生は「かけがえのない恩人にいわれなき汚名を着せる行為」として、このような話をすると誰彼構わず怒り出してしまい、忠臣蔵の話を真に受けていた教え子の志賀さくらに対して、「吉良殿はそんな御方ではない」などとして、我を忘れて怒鳴りつけている。

 ちなみに、江戸城での刀傷事件については、一般的には勅使に対する礼儀作法の指南役だった吉良に授業料を出さなかった(賄賂とされているが、現在の価値観では授業料という意味に近い)ことを咎められて逆恨みした上での犯行という説が根強い。

 斬りつけられた後の取り調べても、吉良は「何ら身に覚えがない、乱心としか言いようがない」と答えていた。

 これは、乱心ならば罪が軽くなるとしての配慮だったが、浅野は単に「恨みがある」とのみ繰り返していて、具体的には何も語らなかった。

 一方で朝廷との重要な儀式を台無しにされた将軍綱吉は、永原先生が「あの時の怒りの形相は今も目に焼き付いている」と称するほどに激怒し、浅野長矩に即日切腹を言い渡した。

 永原先生は、本来の流儀ならば「内匠頭殿」と呼ぶべき所を「長矩」と諱を故意に呼び捨てにしている他、「キチガイ」「狂人」とも言っており、評価は散々である。

 このことは、鑑定番組内でも江戸城の日記を鑑定した鑑定人から、「浅野家に対する恨みが見て取れる」と評されている。

 

 

 大石良雄/大石内蔵助(1659~1703)

 赤穂事件の中心人物。浅野長広を当主としてのお家再興に向けて尽力していたが、それが叶わないと知ると、吉良家に討ち入りを決定する。

 吉良の首を泉岳寺にある浅野長矩の墓前に供え、その後は他の赤穂浪士とともに切腹を命じられた。

 永原先生はこの行為を「逆恨み」だとして、また恩人を殺害しただけでなく、吉良家の取り潰しのきっかけを作ったとして、赤穂浪士に対しても「大石良雄」と諱を呼び捨てにするほどに強い敵意を抱いており、同情の余地がないとしてオウム真理教や連合赤軍と同列に置くほどに嫌っている。

 

 

 徳川綱吉/征夷大将軍/上様/公方/大樹公(1646~1709)

 江戸幕府5代将軍、徳川家綱の弟で、兄の死と共に将軍となる。

 戦国時代の気風を一掃し、文治政治を推進した。勤皇家でもあり、朝廷との関係を重視した。

 後年の永原先生の述懐では「実直な人」「誠実な人柄」と肯定的な評価を下しており、「天下の悪法」とよばれた「生類憐れみの令」についても、「やりすぎな面もあったが、戦乱の時代の荒廃を一掃した」として肯定的な評価を示している。

 永原先生にとっては、徳川綱吉に対しても吉良上野介の進言を受け入れたため、恩義を感じていて、後年の否定的な評価にはいい顔をしていない。

 赤穂事件の時の処分について、永原先生は「喧嘩両成敗は時代遅れであり、生類憐れみの令の精神にも反する」と進言したものの、「柳ヶ瀬殿の言うことは最もではあるが、征夷大将軍といえど世論には勝てない」と却下されてしまった。この判断については、永原先生も一定の理解を示している。

 一方で、刀傷事件における浅野家取り潰し、吉良お咎めなしの裁定にはほぼ全肯定的な態度を取っている。

 

 

 柳沢十三郎/柳沢出羽守/柳沢左近衛少将/柳沢美濃守/柳沢保明/柳沢吉保(1659~1714)

 江戸時代の譜代大名で、徳川綱吉の側用人として重用されるが、綱吉死去後には新井白石に実権を奪われ、やがて隠居となった。

 幕政を手動しつつ、水戸黄門や忠臣蔵では悪役を割り当てられてしまっているかわいそうな人物でもある。

 物語内では、永原先生の江戸城での人生を記録した「柳ヶ瀬まつ一代記」の著者の一人で、吉良上野介が徳川綱吉と掛け合って「柳ヶ瀬殿に陰口はやめ、敬意を払うように」という所を「全くもってその通り」とした他、赤穂事件の時には永原先生の嘆き悲しみを表現し、また「世論が浅野側に傾く様子を見るに、柳ヶ瀬殿の心痛察するに余りある」とも評しているなど、他人を思いやる心を持った情け深い人物として書かれている。

 

 

 徳川吉宗/征夷大将軍/上様/公方/大樹公(1684~1751)

 江戸幕府8代将軍、享保の改革でも知られる。

 米将軍と呼ばれた他、暴れん坊将軍のモデルとしても有名。

 永原先生は徳川吉宗より葵の御紋と本人の署名がついた茶器を贈られており、これは後世の鑑定番組では2500万円という値段がついた。

 

 

 奥村源八/奥村政信/奥村文角(1686~1764)

 江戸時代前期の浮世絵師で、浮世絵の歴史の中でも重要人物の一人。永原先生は彼の墨摺絵を持っている。

 浮世絵の様々な分野を開拓し、錦絵以前の浮世絵文化洗練に果たした役割は大きかった。

 永原先生は享保10年(1725年)に彼の浮世絵を当時の値段にして20文で購入している。これは現在の300円から400円である。

 鑑定番組に出演した時には、本人評価額を「買った時の値段を現代の価値に直して400円」としてしまったため、400万円と鑑定した鑑定士からは「こんなの前代未聞ですよ」「失礼ながら神を畏れぬ所業としか思えない」とたしなめられている。

 

 

 中島八右衛門/葛飾北斎(1760~1849)

 江戸時代後期の浮世絵師。世界的に有名な浮世絵師で、高齢ながらも様々な創作活動を行っていた。

 一方で、奇行も目立つ変人で、典型的な天才型だった。

 「蛸と海女」などの春画にも積極的に取り組むマルチタレントで、永原先生も「富嶽三十六景」を初版で全てきれいに所持しているが、幾つかの浮世絵は「持ちきれない」として江戸城を出る時に捨ててしまっており、このことを鑑定士からは「罰当たり」と評された。

 

 

 滝沢左七郎/滝沢興邦/曲亭馬琴(1767~1848)

 江戸時代の作家、『椿説弓張月』や『南総里見八犬伝』で知られている。

 永原先生も曲亭馬琴の小説を愛読していて、当時書店で買った『椿説弓張月』を鑑定番組に持ち込んでいる。

 また、葛飾北斎とも親しかったとされている。

 

 

 安藤重右衛門/歌川広重(1797~1858)

 江戸時代末期の浮世絵師。東海道五十三次で世界的にも有名で、西洋画家にも影響を与えた巨匠。

 永原先生は東海道五十三次を全て良い保存状態で初版ものを全て所持している他、広重本人とも面識がある。歌川広重は「不老の娘」の噂を聞きつけ、永原先生を直接自宅に呼び出した後、「是非俺の作品を後世に伝えて欲しい」として、永原先生のためだけに書いた肉筆画を託されている。

 

島津斉彬/島津又三郎/島津薩摩守/島津左近衛中将/照国大明神(1809~1858)

 幕末の大名、永原先生の正体は当然に知っており、薩摩切子を送っている。

 吉良上野介の一件以降、永原先生は特に大名や旗本から敬意を持たれるようになり、こうした大名旗本からの寄贈品を数多く所持している。

 織田信長、徳川家康、伊達政宗の血を引いており、薩摩藩の富国強兵に成功し、明治維新の礎を築いた。

この功績により、死後正一位を追贈された上、鹿児島市照国町照国神社の祭神となって「照国大明神」と言われるようになった。

 

 

 

 昭和天皇(1901~1989)

 ご存知昭和天皇、あまりにも有名なので事績は記さない。

 永原先生にとっては戦時中に裏切った相手として罪悪感を持っている。

 永原先生は教師として、戦時中は田舎に疎開しており、「久々の大戦争に血湧き肉躍る」と振り返りつつも、「真田家や吉良家に恩を返せていないからまだ死ねない」と思いこんでしまい、米軍が襲来した際には当時の教え子を囮に一人山へ逃げる計画を立てていた。

 この計画は未遂に終わるものの「よりにもよって天皇陛下を裏切ってしまった」として後に「私は最低の女」とまで考えるようになってしまった。

 

 

 島安次郎(1870~1946)

明治から昭和にかけての鉄道人。

特に明治期は後藤新平、十河信二と共に国鉄広軌化に邁進、また蒸気機関車の設計に数多く関わり、永原先生からはその優れた技量から、木下淑夫、結城弘毅と並び3人の神様、「車両の神様」として讃えられている。

一方で、永原先生は連結器交換の功績については詳しく話してはいないが、日本の鉄道が世界を驚かせた最初の事例とも言われている。

原敬内閣により、広軌化の夢を絶たれ鉄道省を下野し、満鉄に転身、そこでは筆頭理事などを勤め上げ、また新幹線のプロトタイプだった弾丸列車計画に、息子の島秀雄と共に関わるが、戦局悪化によって計画は頓挫し、終戦直後に間もなく亡くなった。

 

 

 結城弘毅(1878~1956)

鉄道省の運転士、当初は山陽鉄道に入社し、国有化に伴って国鉄職員となった。

彼の機関士の技術は随一と言われ、また投炭の名人でもあった。

彼は「時間に正確な鉄道の重要性」を世界で初めて認識し、それを実際に実行に移した。

彼の技量は当時他の職員を圧倒していて並び立つものはいなかったが、その卓越した指導力で彼の技量は他の職員にも受け継がれていった。

彼は今日の時間に正確な日本の鉄道を文字通り1人で作り上げた人物でもあり、速度計もない時代から時間に正確な鉄道を目指した。

永原先生からは「運転の神様」として、木下淑夫、島安次郎と共に3人の神様と讃えられ、特に結城弘毅は「3人の神様の中でも最も偉大な人物」としてその筆頭に上げている。

その後、鉄道省では「超特急燕」の運転を開始し、指導に加わるが、間もなく鉄道職員の減俸問題に抗議するために辞表を提出、2度と鉄道省に戻ることはなかった。

 

 

 木下淑夫(1874~1923)

明治・大正期の鉄道官僚、訪日外国人向け旅行ガイドブックの先駆けとなるものを作ったり、また観光と鉄道の融合を思いついた人物。

その手腕は「営業の神様」と呼ばれ島安次郎、結城弘毅と並び称され「3人の神様」と呼ばれた。

鉄道博物館での会話ということで、永原先生の口からは軽く出てくるだけだが、実際には現在の日本の鉄道における手厚いサービスの基礎を作った偉大な鉄道人である。

 

 

 十河信二(1884~1981)

 東海道新幹線建設時の国鉄総裁、頑固一徹な性格で人情深く、情熱が凄まじいという、良くも悪くも昭和の力強いおじいさん的な性格の人だった。

 戦前から師匠の後藤新平のもとで広軌論者として活躍、その後しばらく隠居生活をしていたが、東海道新幹線開発のため1955年より71歳にして国鉄総裁に就任する。

 既に「古びた老機関車」と揶揄されるが、その強い政治力で東海道新幹線の開発を強く推し進めた。

 永原先生からもその手腕は高く評価されており、東海道新幹線に初めて乗ったときには鉄道開業時以上の衝撃を受けた。

 永原先生の時代は2週間以上かかった距離を3時間で到着できることは同時代人以上に衝撃を受けていたことは想像に難くない。

 東海道新幹線に反対する勢力に対抗するためにあらゆる手段を講じるが、東海道新幹線開業直前に予算の過少申告が発覚、1963年に総裁に再任されなかったが結局歴代総裁で一番長い8年を国鉄総裁として仕事をこなした。

 新幹線は翌年10月に開業するが、開会式には正体されず、「新幹線の父」と言われた男を招待しなかったことは後年罪悪感が残ったのか、東海道新幹線東京駅のホームには十河を記念したレリーフがあり、1973年にこれが出来た時、十河はたった一言「似とらん」と言ったとされている。

 

 

 朝倉希一(1883~1978)

明治から昭和にかけての鉄道人で、京都の鉄道博物館の蒸気機関車を解説する際に永原先生の口からその存在が語られる。

島安次郎に師事し、また師の息子である島秀雄を指導した。

鉄道技師として多くの著書を執筆しており、9600やC51蒸気機関車の設計に関わり、その後も蒸気機関車の設計に携わる。

昭和11(1936)年に一旦鉄道省を退官するが、戦後は十河信二、島秀雄と共に東海道新幹線の調査委員に就任し、また日本鉄道技術協会の会長も務めるなど、95歳で亡くなるまで重鎮として活躍した。

 

 

 島秀雄(1901~1998)

 島安次郎の長男で鉄道技師、朝倉希一の弟子で、蒸気機関車から新幹線までの開発まで関わった。

 永原先生をして「車両の神様」と呼ばれた父安次郎を上回る日本最高の鉄道人と絶賛されており、実際に彼が日本の鉄道に与えた影響は大きく、JRや大手私鉄の鉄道会社の社長から、現場に携わる人、一介の鉄道マニアや鉄道に触れ合う子供に至るまで、おおよそ日本で鉄道に係る人間のほぼ全員が、島秀雄に何らかの影響を受けているとさえ言われており、彼と並び称されるのは、日本の鉄道に「正確さ」の概念を創造した「結城弘毅」のみとされている。

 劇中ではC11やD51、またC53からC62までの各蒸気機関車の設計に携わったとして永原先生からはC54を除いて高く評価されている。

 弾丸列車計画では父の島安次郎と共に深く関わり、機関車の試作などをしていたが結局実現しなかった。

 戦後は鉄道技術者や旧陸海軍の技術者などを集めて基礎研究を続け、「電車」の重要性を見抜き、戦後は中距離電車の先駆けとなった湘南電車の開発に関わった。

 ところが桜木町事故で一旦国鉄を辞職し民間に転身したが、東海道新幹線を作る際に十河信二の熱意に押されて技師長として復帰する。

 その後は151系こだまや0系新幹線電車の設計の責任者になった。

 最終的に予算超過の問題の際に十河信二ともども辞職してしまい、開業式は自宅のテレビで見ていたという。

彼の末弟はYS-11の設計に加わり、また次男も鉄道技術者として東海道新幹線の開発に携わった他、台湾新幹線の建設にも大きく関わっている。

 その後、島秀雄は現在のJAXAの前身の1つ宇宙開発事業団が創設されると初代理事長に就任し、68歳にして新天地に旅立ち、日本の宇宙開発の基礎を作り上げた人物でもある。

 

 

 細川泉一郎(1908~2000)

 鉄道技師、島秀雄の弟子として永原先生から紹介されている。

 C57やC58、D52の開発やD51の改良に携わった他、戦後は151系こだま電車の設計にも深く携わっており、永原先生からも「とても優秀な人」とやはり高い評価を受けている。

 本人は生前「島さんが常に大将で僕は生徒」と言っていたそうである。

 2000年5月に亡くなったため、優子が生まれる1ヶ月前まで生きていたことになる。


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