永遠の美少女になって永遠の闘病生活に入った件   作:名無し野ハゲ豚

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2027年12月8日 偉大な人々

 人々の騒ぎを尻目に、あたしたちは展示を進んでいく。

 あたしたちはもちろんノーベル賞当事者だけど、だからこそ博物館を見て回りたいのよね。

 蓬莱教授が、年代別のノーベル賞受賞者の展示に目を向けた。

 最初は、1901年からだった。この年から、ノーベル賞が始まったらしい。

 

「確か余呉さんがノーベルと同級生だったかな? それを踏まえれば、永原先生たちは大半のノーベル賞の受賞者たちよりも年上ということになるな」

 

 蓬莱教授が、最初期のノーベル賞受賞者の展示を見ながら話す。

 一応、ノーベル文学賞の受賞者に、ノーベル本人よりも年上の人がいたらしい。

 この間、例えば北里柴三郎などが候補だったらしいけど、様々な事情で受賞しなかったという。

 

「北里柴三郎がむしろ研究を主導してたんだがね。死んでしまえばノーベル賞は二度と叶わん夢と消えるのさ。もちろん、例外はあるがね」

 

 蓬莱教授が静かにそう話す。

 

「おお、これだこれ。見てみなよ」

 

 蓬莱教授が、1つの展示を指差す。

 

「えっと、ピエール・キューリー……マリー・キューリー……」

 

 この人たちのことはあたしも知っている。

 キューリー夫人と言えば、女性科学者として唯一、ノーベル賞を2回受賞した人だもの。

 この展示によれば、キューリー夫人は物理学賞と科学賞をそれぞれ受賞しているという。

 

「そそキューリー夫妻だよ。篠原夫妻以前に夫婦でノーベル賞を取ったんだ。ラジウムってあるだろ? それが有名だけど、他にも色々な業績があるのさ。夫の方は、志半ばで馬車の交通事故で死んでしまったのが残念だがね」

 

 業績の展示欄は、英語の展示を見る限り、やはり放射性物質に関する研究ということになっている。

 キューリー夫人も、その娘もノーベル賞を取ったけど、当時はまだ危険性がよく分かっていなかった放射性物質を浴びすぎて、白血病で死んでしまったらしく、彼女たちの使っていた実験室は、除染作業が進んで最近ようやく公開できるようのなったとか。

 

「他に複数回受賞した人としては、物理学賞を2回受賞した人が1人、科学賞を2度受賞した人が1人、後は科学賞と平和賞を受賞した人も1人いるな。この生理学・医学賞を2度受賞したのは、この俺が初めてだ」

 

 そして、蓬莱教授は日本人としても、2回ノーベル賞を受賞したのは初めてのケースだった。

 1回取るだけでも想像を絶する偉大さなのに蓬莱教授はそれを2回、しかもどちらもノーベル賞の業績の中でも最も偉大と言われている。

 いや、不老業績は、ノーベル賞どころか「人類史上最大の革命」とさえ言われるようになった。その業績としてあたしたちまでノーベル賞になったのは意外だったけど。

 

 

 他にも、1回目の受賞者はそれなりにクローズアップされていて、ノーベル物理学賞の第一回の受賞者は、あの有名な「レントゲン博士」だった。

 今でも、健康診断なんかで「レントゲン」って言うものね。

 あたしたちは黎明期のノーベル賞受賞者たちの展示を見ていく。1900年代から1910年代、1920年代と受賞者の展示は続いていく。

 

 他にも、様々な学者がノーベル賞を取っているのがこの展示からも分かる。

 もちろん、知らない名前が圧倒的に多い。

 また初期のノーベル賞では共同受賞は少なく、単独受賞が多いのも目についた。

 そんな中で、あたしはとても身に覚えのある顔を見つけた。

 

「ほら、この人」

 

 あたしが、1921年のノーベル物理学賞の受賞者として、「Albert Einstein 1879-1955」という表示を見つけた。

 この人の展示はやはり多めで、ここで写真を撮っている人も多かった。

 比良さんが「来日した時はニュースにもなった」と言っていた。そう言えば、比良さんも余呉さんもアインシュタインよりも年上なのよね。

 

「お、優子さんいい所に目をつけたな。そう、恐らく歴代のノーベル賞受賞者の中でも最も有名なアインシュタインだな」

 

 そこのパネルには、アインシュタインの顔と共に、彼の業績が書かれていた。

 20世紀で最も偉大な物理学者も、この栄誉に預かっていた。まあ、当たり前といえば当たり前よね。

 

「ところで、アインシュタインのノーベル物理学賞の受賞理由は何だと思う?」

 

 蓬莱教授がここで問題を出してきた。

 普通に考えれば相対性理論ということになるんだろうけど──

 

「わざわざ蓬莱先生が問題にするってことは、相対性理論ではないということよね?」

 

 やっぱり永原先生も、同じ考えに至っていた。

 

「その通りだ。彼は『光量子仮説による光電効果の発見』によってノーベル賞になったんだ」

 

 蓬莱教授曰く、相対性理論はあまりにも革命的な理論だったため、当時まだ学者の間でも議論があった。

 とはいえ、これほど偉大な学者にノーベル賞を授与しないわけにもいかず、そこでノーベル物理学賞の理由として、ノーベル財団があえて光電効果の方を選んだという。

 とはいえ、光電効果だって、立派なノーベル賞レベルの大発見で、場合によってはむしろ相対性理論よりも大きな発見でさえあるという。

 

「彼が物理学賞を受賞したということは、まあ当然と言えば当然だ。だが、俺は彼に親近感を感じているんだ」

 

 蓬莱教授が「アインシュタインに親近感を感じる」と言った。

 それは、単に「同じノーベル賞」という意識を超えている。大天才同士何かあるのかしら?

 

「あら? 蓬莱先生がですか?」

 

 比良さんが不思議そうな顔をする。

 恐らく、蓬莱教授がアインシュタインに親近感を感じている原因は、蓬莱教授1回目のノーベル賞の時の話だと思う。

 

「彼の業績で有名なのは、相対性理論だ。しかし彼は、相対性理論でノーベル賞を貰ったんじゃない。そうさ、俺と同じ、一番偉大な業績ではノーベル賞を取れなかった。俺がアインシュタインと違うのは、間違いなく人類史上最大の革命となるであろう『不老技術の立証』でもノーベル賞を取ったことさ」

 

 蓬莱教授が、首から掲げられたメダルをまた誇示している。

 博物館の天井部分に、数多くの人々の白黒写真が束のように渋滞していた。

 

「さ、もっと新しい年代に行こうか」

 

 蓬莱教授がアインシュタインの展示から歩みを外す。

 1935年のノーベル生理学・医学賞には、さっき出てきた「ハンス・シュペーマン」もいた。結構威圧感のある写真だけど、近くで見ると、確かに「偉大さ」を醸し出している。

 他にも、ノーベル賞の受賞者たちの経歴はたくさん紹介されていて、また展示品の中には、ノーベル賞を取った実験の実演まであって、あたしたちを飽きさせない。

 そして、戦後のノーベル賞受賞者のコーナーになると、日本人のノーベル賞受賞者たちの顔が見えてくる。

 

「ほら、彼が日本人で初めてノーベル賞を受賞した『湯川秀樹』だ」

 

 蓬莱教授が、日本人の展示の前で止まる。

 

「私も覚えてるわ。日本人で初めてノーベル賞ということで、多くの人が自信を取り戻したのをね」

 

 永原先生はどこか傍観的に言う。

 つまり、永原先生には、そうしたことで自信を取り戻したりといった感じではないのかもしれないでわね。

 恐らく、江戸時代を生きてきたからというのもあるかもしれないわね。

 

「日本人のノーベル賞は結構数が多いんだ。特に最近はね」

 

「そして、私たちのお陰でこれからも増えますね」

 

 余呉さんが明るい顔をして言う。

 それはそうだ。今日本政府はその財力と長寿命に物を言わせ、基礎研究に膨大な予算をつぎ込んでいる。

 多くの国民が蓬莱の薬を飲み始めたことで、日本人の思考回路が極めて長期的な視野になっている。

 そのために、今後更なる科学技術の発展と、それに伴いノーベル賞受賞者も急増すると考えられている。

 もちろん各国も日本に勝とうとはしているけど、不老ならざる人々は、不老の人間の集団に、どのようにあがいても勝つことはできない。

 

「そうだな」

 

「まあ、私は今まで、蓬莱先生くらいしかノーベル賞取ったって人には会ったことないですけど」

 

 永原先生が、つい勇み足を出してしまう。

 

「おいおい永原先生、それはちょっとないんじゃないですか!」

 

 思わず、浩介くんが突っ込んで抗議する。

 まだ自覚がないからあまり傷つかなかったけど、あたしたちを忘れられちゃうのはちょっとどうかなとも思うわね。

 うーん、あたしももう少し、「ノーベル賞らしい」振る舞いを覚えたほうがいいのかしら? でも、やり方分からないし、今まで通りでいいかしら。

 

「あ、篠原君、篠原さん、ごめんなさい……そうよね。私、教え子がノーベル賞に……それも2人も、なのよね」

 

 永原先生が、自分に言い聞かせるように深呼吸しながら暗示をかける。

 そう、永原先生にとっても、あたしと浩介くんのノーベル賞は、自分の教え子のノーベル賞でもある。

 もちろん、高校ではそんなに専門的なことはしないとは言え、それでもノーベル賞ともなれば思いは違うはずだわ。

 

「さ、どんどん見ていこうか」

 

 戦後のノーベル賞は、共同受賞が多い。

 取り分け多いのが、「ノーベル物理学賞」で、文学賞と平和賞を別にすれば、あたしたち「生理学・医学賞」は単独受賞が多い。

 最も、今回はあたしたちの共同受賞だけどね。

 また複数回受賞した人は、それも含めて多いに称えられている。

 

 その後、あたしたちは戦後のノーベル賞受賞者たちを次々と見ていき、そして2000年代のコーナーに入る。

 このあたりは、あたしたちが生まれて、物心つくかつかないかの頃の受賞者たちだった。

 様々な分野で受賞者がおり、その中には民間人までいた。

 

「俺としては、この人こそ素晴らしい研究者だと思っておる。博士どころか修士号も取ってないのに、科学3分野でノーベル賞だからな。大天才がノーベル賞取るにしても、最低限基礎的な知識はどうしたって必要だ。そのラインが、博士だと俺は思っとる。そういう意味では、彼の受賞は俺の理解をも越えるものだ」

 

 以前話していた、民間人のサラリーマンのノーベル賞受賞者の話だった。

 蓬莱教授によれば、ノーベル賞受賞者の多くが、電話がかかってきたときに「冗談」だと思うらしい。

 もちろん、あたしたちや彼のような例外を除けば、事前に候補者としての兆候があるらしいんだけど、仮にあったとしても、「まさか自分がノーベル賞になるとは思わなかった」というらしい。

 ノーベル賞になるに決まっていると思っているような例外的な存在は、それこそ2回目の蓬莱教授くらいなものだった。

 

「彼の受賞で、マスコミのノーベル賞熱は高まったんだぜ」

 

 2000年代の受賞者はとても多い。

 業績についても、昔のノーベル賞に比べると、かなり複雑化している。

 いくつもの発見で、科学は加速度的に上昇していた。

 

 そしてあたしたちはついに、2010年代の受賞者のコーナーに入った。

 

「ふう」

 

 蓬莱教授が、少し緊張している。

 そう、何を隠そう蓬莱教授は2012年、今から15年前にも「ノーベル生理学・医学賞」に輝いている。

 さっきから再三言われているように、この博物館にも蓬莱教授の展示があるはずだもの。

 

「よし、こっちだ。これを見てくれ」

 

 蓬莱教授が一目散に目指した目標、そこには、今より本の少しだけ若い蓬莱教授の写真があった。

 名前も「Shingo Horai」とあり、下の英文には1回目のノーベル賞の受賞経緯として、「万能細胞の発見」があった。

 あの時メダルを見せてもらった時と同じくらいか、それ以上に、蓬莱教授のノーベル賞を自覚できるわね。

 

 蓬莱教授が、展示に背を向けて自分の写真と並ぶ。

 するとあたしたちだけではなく、周囲もざわつき始めた。

 

 

「Dr.Horai! He’s Dr.Horai!」

 

「He is Nobel!」

 

「Oh my god! She is Yuko Shinohara!」

 

 

 さっきまでは、「何だか似ている人」という感じだったが、こうして写真と並ぶと、言い訳できないくらいに同一人物で、周囲が騒ぎ立てるのも無理はなかった。

 

「ほ、蓬莱教授、まずいですよ」

 

 あっという間にあたしたちは人だかりに囲まれ、サインや記念撮影をねだられ始めた。

 蓬莱教授だけではなく、あたしと浩介くんもノーベル賞なので、人々の注目はとても高い。

 しかも、今はノーベルウィークで、2日後に授賞式があるから尚の事よね。

 

「全く、落ち着いて展示も見られねえなあ。これからが本番だったのに。ったく、しょうがねーや」

 

 蓬莱教授は半ば呆れつつも、サインや記念撮影に応じ始めた。

 というか、そりゃあ博物館で記念されてる人本人が来たら、普通にこうなるとは思うけど。

 

 

 何とか警備の人が群衆を散らしてくれたので、あたしたちは見学を再開することができた。

 更に館内放送でも、「現在ノーベル賞の方が見えられていますが、迷惑のないように」という注意喚起の放送まで流れる始末だった。

 まあそりゃあ、ノーベル賞学者だって、ノーベル賞のお勉強したいものね。

 

 

「ここは歴代のノーベル賞たちの名言などを集めた場所だ」

 

 色々な所から映像が流れ、ノーベル賞の人たちが何かを話している。

 

「すごいわね。でも、一体これって?」

 

 永原先生が不思議そうに話す。

 

「まあ待て、よく見ていろって」

 

「「「あ!」」」

 

 蓬莱教授がそう言いかけた次の瞬間、映像の中に蓬莱教授が写し出された。

 映像の中の蓬莱教授は、展示の頃と同じ感じだった。

 

「ノーベル賞は栄誉だ。だがそこで立ち止まってはいけない。研究に終わりはない。俺には更に大きな予定がある。その時に、できればまた、ここに来たいものだ」

 

 映像の中の蓬莱教授は、今横にいる本物よりも少し若い声で話していた。

 蓬莱教授の映像が消え、また別の人が写し出された。

 

「俺が1回目のノーベル賞を取った時にマスコミに向けて言った言葉だ。『ノーベル賞は目標ではない』ということに加え、『また取ってやる』という意思表示もあるんだ」

 

 そして今、蓬莱教授は15年越しに有言実行して見せた。

 

「さ、次に行くぞ」

 

 蓬莱教授は、次の展示へと向かっていく。

 途中、団体客が何やら実験に注力していて、団体の1人があたしを指差し一時騒然となりかけた。

 うー、もしかして、明日も明後日もこんな感じになるのかしら?

 授賞式が終わって帰国してもしばらくは針のむしろだろうし、ノーベル賞って大変だわ。

 

「さて、これがノーベルのデスマスクだ」

 

 更に館内を歩いていくと、ノーベル本人のコーナーに入った。

 ノーベルは、死の直前に遺言状で自らの遺産を使ったノーベル賞を構想した。

 2日後に行われる授賞式も、ノーベルの命日に行われている。

 

「そしてこっちが遺言状だな」

 

 よく分からない言葉で、ノーベルの遺言状が書かれている。

 もちろん、みんな内容は知っているけど。

 言うなれば、「全てはここから始まった」といってもいいわよね。

 

「この遺言状、レプリカを博物館で買うことができるぞ」

 

 蓬莱教授がとんでもない事実を話す。

 いくらノーベル賞と言っても、遺言状が販売されているって、世界広しと言えどもここくらいじゃないのかしら?

 

「そ、そうなのね」

 

 内容は知っていても、スウェーデン語なんて読めないし、買わなくていいわよね?

 ともあれ、ノーベルについて、もう少し展示を見て行こう。

 

 その後も、ダイナマイトを作るノーベルの様子などが、この博物館で誇らしげに展示されていた。

 

「兵器から、人々の生活は便利になっていくんだ。ノーベルはダイナマイトが軍事利用されることなんてはじめから分かっていたし、実際軍需会社に多く売っているからな」

 

 軍隊だけではなく、トンネル工事にもダイナマイトは多く使われていて、またノーベル自身はダイナマイトの改良品として「ゼリグナイト」を世に出しているという。

 

「まさに彼は死の商人さ。でもその死を補って余るほどに、『生の商人』でもあったのさ」

 

 蓬莱教授によれば、ダイナマイトやゼリグナイトの長所は、これまでの爆薬よりも安全であることこそが真価であり、そういう意味ではまさに「生の商人」でもあったのだという。

 

「蓬莱先生の言う通りだわ。私も京都の商家に奉公してた時があったから分かるわ」

 

 蓬莱教授は、「死の商人は生の商人でもある」と語っていた。

 永原先生は、その話に大きく賛成していた。

 ノーベルは自信の発明が大量殺戮に使われることを悲観してノーベル賞を作ったと言うのは、どうやら俗説らしい。

 ただ、ノーベルは当時のマスコミの誤報で、一度死んだことにされていて、その時に「死の商人死す」と書かれて以来、死後の評判に執着するようになったんだという。

 結果的に、その執着が、世界で最も権威があると言われている「ノーベル賞」を生み出した。

 

 そうこうしているうちに、あたしたちは展示のほぼ全てを見終わってしまった。

 途中様々な妨害もあって、結構長居してしまい、いつの間にか時間は既に午後1時を回っていた。

 

「さて昼食といきたいんだが、その前に優子さんと浩介さんにやってもらいたいことがある」

 

 蓬莱教授は、博物館にある食事コーナーに向かいながらそう話す。

 やってもらいたいことって何かしら?


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