永遠の美少女になって永遠の闘病生活に入った件 作:名無し野ハゲ豚
「当機の機長です。まもなく夕食になります。お支度ください」
さっきの昼食の時には一緒に食べていた機長さんの放送が入る。
アニメも既に10話目を見終わっていて、シベリアも既に東部に差し掛かっていた。
飛行機は現在39000フィートを巡航中、燃料を消費して機体が軽くなったことを考えれば、恐らくこの後更に上空を飛びそうね。
外側の窓を見てみると、行きの時とは違い、まだ青い空で体勢を寝転ばせて下から見ると、ほんのり薄黒い色が見える程度だった。
行きの時は43000フィートと787型機のほぼ性能限界まで登ったけど、今回はどうなるのかしら?
あたしは、体を起こして後ろの方へ向かう。
「優子ちゃん、こっちこっち」
浩介くんが手招きしている。
あたしたちに向けられた夕食は、完全な純和食だった。
白米と藁で包んだ納豆にお吸い物、そしてそばに焼き魚に漬け物のたくあんに小さな梅干しと、和食派でも滅多に食べないような純粋な伝統料理だった。
まさに、日本に帰国するには打ってつけのメニューだわ。
「最後の料理、日本へ帰る訳ですからこうした形にさせてもらいました」
食材も、別途貨物機のスペースを用意してそちらで運んでもらい、わざわざあたしたちのために国産品を取り寄せてくれたらしい。
何だかいくらVIP待遇でもここまでされちゃうと驚きだわ。
「すごいわ。まるで江戸城にいた時みたい」
永原先生も、その徹底ぶりに感激していた。
それにしても、永原先生って何を食べていたのかしら?
「永原会長って、何を食べてたのかしら?」
疑問になって聞いてみる。
「あら? うーん、江戸城だと、各大名からの領分……あーごめん、今は藩って言うんだっけ? そこの殿様方が献上してくださった旬の特産食材と……えっと、今で言う天領、つまり幕府直轄領からの年貢米を食べていたわ。衣食住は城で面倒を見てくれたから、仕事を探して、お金を貯めて、それで浮世絵とか本を買ったのよ」
へえ、永原先生、意外といい生活していたのね。
まあ、江戸住みならともかく、地方は地方でかなり大変だったらしいけど、永原先生は明治維新まで江戸から出てないからそのことは知らないわね。
「へえ、他には何か食べてるんですか?」
今は休憩中の機長さんが、話に加わってくる。
確かに、江戸城だけで食事をしていたという感じではなさそうだものね。
「後は江戸前寿司……といっても今の寿司とは味も落ちるし似ても似つかないんだけど、今で言う東京湾から取り寄せたお魚がよく食べられていたわ。その前は……仕事をしながら店でお米を買ったりしたわ。当時はお米はお金の代わりにもなったから、仕事の報酬がお米だったなんてこともあったわね」
永原先生は江戸時代はほぼ変わらない生活を続けていた。
永原先生の人生の半分が、江戸時代でできている。生まれた時代である戦国時代と同じか、それ以上に永原先生の人格形成に大きく寄与したのが江戸時代だった。
江戸時代は変化のない時代と言われるが実際には全く違っていて、西暦で言うところの18世紀から19世紀に入ると、江戸も活気付いて色々な技術が発展したんだとか。
特に花火や浮世絵のように、「色の芸術」の発展は著しかったそうだ。
「色々な食べ物があったんですね」
「ええ、お米が中心でしたけど、それだけじゃまずいことは当時からも知られていましたから」
永原先生の江戸時代での生活は、既に「柳ヶ瀬日記」によってかなり解析が進んでいる。
とはいえ、やはり本人の口から直接聞くことで、学べることも多くある。
「ズズ……それにしても塩分が多いわねこの食事」
母さんが、お吸い物を飲みながら、少し不安そうな表情をする。
「なあに、蓬莱の薬を飲んでいるんだ。それこそよっぽどじゃねえかぎり大丈夫だって。例えばビタミンC皆無の食事を取り続けて壊血病とかな」
母さんの不安そうな声に対して蓬莱教授が笑い飛ばす。
そう、蓬莱の薬を飲めば、食生活に関する制約も大幅に解ける。
もちろん、食べ物を食べすぎれば太るし、あまりに太りすぎれば若くても死んでしまうから、節制は必要だけどね。
「それにしても、お吸い物にこの焼き魚も塩がまぶしてあって、だめ押しと言わんばかりに梅干しに漬け物でしょ? いくらなんでもねえ……」
母さんは、まだ納得がいかないみたいね。
「別に普通じゃない。そのくらいの塩分。今はそうでもないけど、江戸の私……あの時は『俺』って言ってたけど、とにかくあの当時の私だったら、『この料理味が薄い』って言ってたわ」
「「「え!?」」」
永原先生のその言葉に、比良さんと余呉さんを除いた全員が驚愕の声をあげる。
「そうでしょうね」
「ええ」
比良さんと余呉さんも、永原先生に同調している。
あたしとしても、純和食だからというのを差し引いても、この塩分の多さはちょっとどうかと思うのに。
うー、まさにジェネレーションギャップを体現しているわね。
そしてもう1つ、永原先生が江戸時代には俺と言う一人称を使っていたことを暴露していた。
「永原会長、塩分のことはいいんですけど、俺ってなんですか俺って……」
あたしが、思わず突っ込んでしまった。
「あら……そう言えば言い忘れていたかしら?」
永原先生が、「そう言えば」という表情になる。
それにしても、江戸時代は一人称俺だったなんてちょっと信じられないわね。
だって、女の子が使っちゃいけない言葉の中でもトップに入る言葉だもん。
「……江戸時代までは私も使ってたのよ。江戸時代では、『俺』というのは将軍や大名、下級武士や農民、町民、商人や僧侶まで、老若男女身分問わず誰もが使える一人称だったのよ。明治になって言葉が変わって、私も修正に苦労したのよ」
「私たちもです」
「ええ」
比良さんと余呉さんも、それぞれ長い時間での言語の変化に適応している。
永原先生は、今でもたまに昔由来と思われる聞き慣れない単語や発音を、無意識のうちに出してしまうことがある。
特にあいうえおの「え」に関しては、や行の音が混じった「いぇ」のような発音をすることが度々ある。
「そう言えば、永原会長ってたまに『え』の発音がおかしいですよね。佐衛門佐が『さいぇもんのすけ』ってなってるところを何度か聞きましたし」
「あーうん、実は『え』の発音が今の発音になってから、今の日本語と同じ発音体系ができたのよ。逆に言うと、一番最後に変化したのが『え』なのよ。私が生まれた戦乱の時代の日本語は、文法そのものは高校で習う平安時代の中古日本語よりはずっと現代語に近いから、タイムスリップしても意志疎通にはそこまで苦労しないわ。でも、発音は随分となまっているから、その違いには苦労するわよ」
「これについては、私たちも分からない、会長独自の悩みなのよ」
余呉さんが、補足してくれて、あたしたちもやや真剣な表情で永原先生の話に聞き入る。
江戸後期生まれならば、外来語などを除けば、もう殆ど今の日本語と全く同じといっていい言葉が話されていた訳だけど、永原先生の時代はそうではない。
この辺りは、200年未満と500年以上の大きな違いとも言っていい。
「私が子供の頃、戦乱の時代で各地に流行していたなぞなぞがあるのよ、『母には2度会うが、父には会わぬものは?』っていうなぞなぞよ。戦乱の時代なら小さな子供でも解けたけど、江戸時代以降の人には古典の専門知識がないと全く解けないなぞなぞよ」
もちろん、なぞなぞというからには、理屈っぽい話でもなく、話の流れからすると、発音系統のなぞなぞなんだろうけど……
「私もはじめて正解を聞いた時にはビックリしたわ」
「あなた、分かるかしら?」
あたしが、浩介くんに振ってみる。
「俺はノーベル賞だけども、古典は専門外なんだ。高校で永原先生に習ってからからっきしだ」
浩介くんも見当がつかないらしい。
うーん、でも当時は子供にも解けたって言うわよね?
何かを見落としているんだろうけど。
「俺は正解を永原先生から以前に聞いたことあるから、話さねえぜ」
蓬莱教授が非協力の意を示す。
「うーん、難しいなあ……検討もつかん」
「昔の人は子供でもわかったっていっても、我々は現代人だもんなあ」
父さんと、パイロットの交代機長さんが同時に唸る。
キャビンアテンダントさんたちも、腕を組んで考えていたけど、誰も回答を知らない様子だった。
「じゃあ、戦乱の時代の日本語で発音するわね、『母(ふぁふぁ)には2度会うが、父には会わぬものは?』」
「「「あ!」」」
永原先生が昔の発音で言ってくれたので、あたしたちには一発で分かった。
そう、答えは「くちびる」ということ。
永原先生のなまった発音に、「え」ほどではないけれども、単語の頭の「は行音」が含まれていたことをあたしは思い出した。
他にも確か、「せ」や「を」の発音もなまっていたわね。
「は行の音はね、日本語の中でも特に大きく変わったのよ。江戸時代になって、それまで頭だけ『ふぁふぃふふぇふぉ』って発音してたのが、頭も含めて『はひふへほ』になったわ。でも、私が生まれる前の平安時代は『は行』は全部『ふぁ』行だったし、もっと前の上代は『ぱぴぷぺぽ』だったって言われているわ。今でこそ『藤原』は『ふじわら』だけども、平安末期までは『ふじふぁら』だし、それより前の奈良時代、中臣が藤原になったばかりの時代は『ぷじぱら』って言ってたはずだわ」
永原先生によれば、今使われている五十音図だって、戦乱の時代以前から存在はしていたが、今のようになったのは明治以降にようやく大々的に整理されたものだと言う。
もちろん寺子屋のこともあるし、そもそも地方の農村ならともかく、大都会だった江戸で娯楽を楽しむには識字は必要不可欠で、当時から「国語」や「文法」に関しては様々な教育がなされていたものの、流派が多くて江戸の子供も難儀していたと言う。
「私が持ってる『え』の訛りはね、平安初期に、あ行にあった『え』とや行の『え』と発音が混同されて、や行の方が残ったために生じたって言われているの。そして約1000年後の江戸時代後期になって、今度は音の変化で『え』になったのよ。実は『え』というのは日本語の発音の中で、最後に変化した発音なのよ」
永原先生が、日本語の発音の変化について、様々に解説をしてくれる。
もちろん永原先生自身、後から知ったことが大半だろうけど、永原先生が古典を教えるようになったのは、何も長生きであるからだけではなさそうね。
永原先生ほど長生きしていれば、言語がいかに不安定なのかを知ることができる。
そしてそれは、あたしたちも決して他人事ではない。
だから、コックピットのクルーたちも、蓬莱の薬を飲んだあたしたちも、永原先生の話に真剣に耳を傾ける。
今後も、あたしたち日本人や、あるいは世界の人々が不老となる過程で、こうした言語の変化に対する適応は、大きな問題になりそうだわ。
特に複数の言語を話そうと思う人にとっては、それだけ長生きをすれば言語に対する適応力の負担も大きくなることを意味している。
ほぼ日本語のみで生活している永原先生でさえ、500年間の間で訛りを完全には克服できていない。
更に言えば、動詞の活用方法や、助詞助動詞、形容詞の使い方の変化も絶えず起こっている。
今後は、蓬莱の薬によって、人間の数千年単位での生存も考えられるけど、そうなると同じ日本語でも別物に近くなっていても全く不思議ではない。
時代の変化に適用するといっても、日本語の変化に対応するのは意外と難しいんだと言うのが永原先生の話。
軽い問題だと思う人もいるかもしれないけど、昔の表現で誤解を与えることもあるし、最悪の場合、年代ごとに集団での意志疎通に支障をきたしたり、国家国民の分断要因にもなりかねないから、この問題は今のうちに対策を考えておいた方がいいわね。
「さて、私の話はこの辺にして、みんな戻ろうかしら?」
一通り話し終わった永原先生が打ちきりを提案してきた。
まあ確かに、この手の問題は話し出すと止まらないものね。
「ああ、いい勉強になったよ」
「うん」
コックピットのクルーたちは、満足した表情になっていた。
あたしも、ソファーに戻って、アニメの続きを見ることにした。
さて、あの続きはどうなっているのかしら?
「ふう、終わったわね」
昼食と夕食の時間、その後の長い歓談の時間などもあってか、アニメを見終わったのは飛行機が徐々にロシアを南下し始めてからだった。
あたしはふと他の乗客の様子を見てみると、みんな一様にリラックスをしていた。
また、永原先生とお義父さんは、仮眠を取っているようにも見えた。
正面の飛行機に記された情報、一事は対地速度が1300キロ近くになっていたものの、今は進路が南東になったので1000キロ程度に落ち着いている。
もちろん、対気速度では音速の壁は越えていない。
そして高度の方は、行きが43000フィートまで昇ったのに対して、今回は41000フィートだった。
もちろん、この高度でも十分に高いわけで、窓の外は濃紺色の空を見せていた。
行きよりも2時間短いといっても、やはりスウェーデンから日本に戻るには相応の時間が必要になる。
あたしは、アニメや少女漫画などを見終わった時に感じる独特の喪失感の余韻を味わいながら、機体前方にある飛行機の運行情報に釘付けになっていた。
飛行機は、もうまもなくロシアを抜けて日本海に入る。
もちろん家につくのはまだだけど、何故か既に「帰宅」したかのような錯覚も受けた。
もちろん、成田空港での手続きに、場合によってはマスコミ応対、そしてスカイライナーと山手線を使った帰宅も必要になってくる。
ちなみに、蓬莱教授たちとは、行きと同じように日暮里駅で解散することになっている。
スウェーデンはともかく、日本で固まっての行動は目立つので、あえて日暮里駅で時間差行動を取ることになっている。
あたしたちも、永原先生たちが乗る一本後ろの電車で帰宅することになっている。
あたしは、意味もなくドリンクバーでオレンジジュースなどを飲み、時折トイレのために立ち上がる。
こうした行動を何往復も繰り返す。
「うちの優子、今まで以上に女の子になったわ」
「ええ、でも現地のメディアはどう報じたかしら?」
「何、問題ないですよ。私たち協会にとっても、篠原さんは広報部長ですから」
母さんとお義母さん、そして永原先生の3人が同じソファーに座って話をしていた。
永原先生に言われるまで殆ど意識していなかったけど、あたしは今でも日本性転換症候群協会で広報部長を勤めている。
これはあたしが大学生になってからの役職だけど、今は殆ど蓬莱カンパニーでの活動が主になったことや、社会の理解も進んだお陰で、殆ど広報は不要になってしまった。
それでも、永原先生は、あたしを平の正会員に降格はさせず、引き続き広報部長の座に留めてくれている。
いや、もしかしたら、あの時のあたしも、無意識のうちに広報部長を意識したのかもしれないし、あるいはこうした世界に向けての広報として、蓬莱カンパニーの役員を勤めていることそのものが、協会にとっての「広報」になっているのかもしれないわね。
「ふう」
あたしは、飛行機が新潟上空に入り、高度を徐々に落とし始めたのを見た。
もうすぐ、飛行機は着陸体制に入る。
そう言えばこの辺の新潟にも、家族で旅行したっけ?
富山も、大学生の時浩介くんと2人で旅行したわよね。懐かしいわ。
「ご搭乗の皆様、当機の機長です。当機は間もなく着陸体制に入ります」
「さ、準備するぞ」
「はい」
蓬莱教授の掛け声と共に、あたしたちは荷物をまとめ、入念に忘れ物がないか確認する。
特にノーベル賞の賞状と賞金の小切手、メダルは厳重に確認した。
これを無くしたら、何のためにスウェーデンまで遠征したのか分からないものね。
あたしたちは全てを終えると、荷物を持って機体後方の座席の方に移動した。
「ふう」
ランプはまだ灯っていないけれど、あたしたちはシートベルトを締める。
成田空港の滑走路の関係上、飛行機は一旦空港を通りすぎて銚子沖に出る。
そこからくるりと回転して向かい風になるように着陸する。
窓の外には、日本の都市の様子が写っていて、あたしたちに「帰ってきた」という安心感を与えてくれた。
飛行機が一旦海の上の青い風景を見せつつ旋回し、あたしたちは他の飛行機に続いて滑走路に着陸する準備に入った。
「間もなく着陸いたします。ご注意ください」
機長さんがそう言うと、飛行機の高度がどんどんと下がっていく。
エンジン音を吹かせながら、機体が地上に接触し、エンジン音が逆噴射に変わる。
しばらく減速した後に一旦飛行機は停止し、そのまま誘導路へと向かう。
目的地はもちろん、行きに行ったときと同じプライベートジェット専用のターミナルになると思う。
やがて飛行機が完全に停止し、あたしたちは機長さんの指示にしたがって前の出口から降りることになった。