永遠の美少女になって永遠の闘病生活に入った件 作:名無し野ハゲ豚
いつもと変わらない冬の朝、広い部屋で目を覚ます。
暦の上では今日は元旦、怒濤の1年が終わって、2028年になった。
「うー」
忘年会が終わってからというもの、徐々に倦怠感を感じるようになった。
いわゆる、妊娠の初期症状と呼ばれるもの。
覚悟していたとはいえ、やっぱり辛いわね。
ピピピピッ……ピピピピ……
「優子ちゃん、体調どう?」
起きられないでいると、モニター越しにお義母さんが声をかけてきた。
よく見ると既に午前11時近くまでなっていた。
あたし、そんなに寝ていたのね。
「ごめん、ちょっと辛いわ」
「うん、分かるわ。吐き気はすると思うけど、赤ちゃんのためにもきちんと食べなきゃダメよ」
「うん、わかっているわ」
そう、今のあたしは赤ちゃんの分の栄養も取らないといけない。
あたしは、自然とお腹に手を当てて、丸く円を描くように布団の中でさすってみた。
多分お腹の中の赤ちゃんは、まだ目に見えるか見えないかの、小さな小さな赤ちゃんだと思うけど、これが何ヵ月かすれば、あたしのお腹も膨らんで来るのよね。
あれから数回、妊娠検査薬で追試を行ったが、その全てで陽性反応が出た。もちろん正式な検査はまだだけど、あたしたちの中では事実上妊娠は確定したも同然だった。
「お正月、三が日が終わったら産婦人科にいきますからね」
「うん」
妊娠末期になれば、あたしも入院が必要になると思う。
あたし自身の体が弱いので、お医者さんについてもらった方がいいわよね。
「じゃあ優子ちゃん、来られるときに来てね。お義母さんたちはもう明治神宮に初詣にいったわ」
そういえば、ここ松濤からなら明治神宮まで歩いて行けないこともないわよね。
いや、もしかしたら一番近い最寄りの神社が明治神宮かもしれないわね。
「ええ」
そう言うと枕元の近くにあった小さなモニターが消えた。
この家は、とても広い。
あたしたちの財力を持ってすれば、毎日お医者さんに往診に来てもらう、いやそれこそ機材ごと貸し切りすることも訳ないけど、家が広すぎるのもあるし、やっぱり色々と出揃った病院で診てもらうのが一番いいと思う。
「ふう」
ともあれ、妊娠生活については、あたしはとても恵まれていることは確かだった。
旦那の浩介くんも無理解ではないし、もちろんあたしが産休に入ることも、会社の中で以前から想定されていたことでもあった。
普通、会社の常務取締役が産休で抜けるとなれば、少なからず社員からも不満が出てくるとは思う。
そうはならないのは、やっぱりあたしがかわいくて美人で、浩介くんと仲がいいせいだと思う。
あれから安静にして1時間、既に午後になっていてもまだ起きられず、テレビなども見ながら暇を潰していたけど、あたしの気分は悪いままだった。
うー、こんな元旦はじめてだわ。
「とにかく、起きないと……」
あたしは何とかベッドから起き上がると、普段着に着替えてリビングルームへと急いだ。
着替える途中、誰かお客さんが来たみたいだった。
「おはよー」
「優子おはよう」
あたしが1階リビングに行くとまた母さんがいた。
いや、それだけではない。
「篠原さん、おはようございます」
「優子さん、おはようございます」
何故か、比良さんと幸子さんがそこにいた。
てどうしてこの2人がここに?
「えっと、その……」
「気にしないでいいのよ優子。お二人とも今来たばかりよ」
母さんが、あたしにリラックスしてもらうように手で促す。
そういえば、さっきお客さんらしき人の足音がしたのはそのためだったのね。
「でもどうして?」
「優子さん、妊娠してるんでしょ?」
幸子さんが、あっさりとあたしの妊娠のことを話す。
おかしいわね、浩介くんと義両親にしかまだ妊娠のことは話してなかったはずなのに。
「え!? どうしてそのことを!?」
「篠原さん、無意識かもしれないけど、会社の中でずっとお腹を気にしてたわよ。去年は歩いている時に妊娠検査薬も一瞬見えたし、トイレから帰ってきたときすごく喜んでたわ」
うー、あれ比良さんに見られていたのね。
「で、今回TS病患者向けに妊娠中についての講習をと思ってね」
「え!? 聞いてないわよ」
妊娠時に講習があるなんて、あたしは全く聞いていなかった。
もちろん、幸子さんも比良さんも、妊婦の経験があるから、あたしにとってはとても貴重な情報源にはなるけど。
「ええ、私たちが自主的に始めたものですから」
「そうそう、あたし、優子さんに恩返ししたいと思ったわ」
どうやら、あたしに色々な妊婦の心得を伝授してくれるらしいわね。
うん、ありがたく頂戴するわ。
「いい優子、分かっているとは思うけど、今の優子はお腹の中で新しい命を育てているのよ」
「ええ、分かっているわ」
でも、改めて言われると、あたしの中でも重いのろしがかかってくる。
今あたしは、命を育んでいるんだって。
「妊娠中はとにかく1にも2にも赤ちゃんのためを思うのよ。お酒やタバコはもちろん厳禁、激しい運動も、中の赤ちゃんを傷つけかねないから絶対にダメよ」
母さんが人差し指を立てながら、あたしに指導する。
ふふ、こうやって「女」を習うのって、何だか久しぶりだわ。
「分かってるわ」
「優子さんは知っていると思いますけど、とにかく赤ちゃんに対する母性がとても強いのが私たちTS病の特徴です。そうでなくても、女性は我が子を慈しみ、守ろうとするのが本能です」
幸子さんが、一瞬心配そうな表情をした。
「もしかして幸子さんも?」
「ええ、私も今何とか頑張って赤ちゃんを育てているわ。産んだ直後はもう赤ちゃんしか見えなかったわ」
幸子さんは、出産を契機に会社を退職し、今は専業主婦になっている。
元々は育児休暇で数年後に復職するつもりだったけど、我が子から離れたくなくなってこの道を選んだんだという。
幸い、協会が持っている蓬莱カンパニーの株式の配当金分配のお陰も手伝って、直哉さんだけの稼ぎでも十分にやっていけることが判明している。
「赤ちゃんを産んだときの幸福感は言葉では言い表せないわ。私ね、また産みたいの。痛みはもう、覚えてないわ」
幸子さんが、さらっととんでもないことを言う。
幸子さんは、出産をした時の痛みを覚えていないと言う。
「え!? 幸子さん、痛み覚えてないって──」
「もちろん覚えている人もいるわ。でも、あれだけ強烈な痛みなのに、忘れちゃう人もいるのよ」
お義母さんがあたしの疑問に答えてくれる。
どうやら、忘れちゃう人と忘れられない人といるらしいわね。
うーん、「忘れるなんて考えられない」って言うのは、男な考えかしら?
「信じられないわね……」
「それだけ、出産した時の喜びと、溢れ出る母性が凄まじいってことよ優子」
母さんが、あたしを優しくさとしてくれる。
あたしも、妊娠や出産で、赤ちゃんが育まれるように、母親の中でも母性が育まれることを知っていた。
でもそれは、あまりにも過小評価したものだった。
「今までも、『私はバリバリキャリアウーマンでやっていく、専業主婦何て考えられない』何て言ってた女性が、出産した途端に専業主婦になったとか、『子供ってうるさいし嫌い』何て言ってた女性が、旦那や家族の圧力で嫌々妊娠したのに、エコーを見た途端に赤ちゃんのことしか考えられないくらいに豹変した女性なんていくらでもいるわ。生まれながらの女性でもそうなってしまうのよ。私たちが出産したら、大抵の病院はその大きな母性に驚くわよ」
「うわー、スッゴいよく分かるわー」
比良さんの話を聞き、幸子さんが相槌を打つ。
あたしは、昔永原先生に聞いた話を思い出す。
ストーカーにレイプされて妊娠をしてしまった女の子が、彼氏と中絶のために病院で検査した。
ところが、赤ちゃんのエコーを見た途端に、女の子は母性のあまりに「おろしたくない! 産みたい!」と、レイプ犯の子供でも、自分のお腹の中で育っていた赤ちゃんを殺すのは嫌だと涙ながらに訴えたこと。
比良さんの話は、永原先生のその話にも似ていた。
「そういうわけだから、優子、これからは赤ちゃんのためにを第一に行動しなさい。ま、お母さんは心配してないけどね」
「うん、もちろんそのつもりよ」
「まず、食生活はいつもより多く食べるのはもちろんだけど、赤ちゃんにとって健康に悪い食べ物は絶対にダメよ。最悪の場合、赤ちゃんがすくすく育たなくなるわ」
そして、母さんからは、お正月も含め、厳しい食事制限が課されることになった。
更に食べる量も増やさないといけないから、少し大変だ。
「いい優子? 妊娠安定期でも油断しちゃダメよ。お腹を打つことだけは絶対にいけないわ」
「ええ、ですから、今後は階段は極力使わないこと、どうしても使わなければいけない時は手すりを必ず遣うこと。歩くときはいつもよりも遅く、転ばないように常に足元に気を遣うこと。仕事の緊急だからといって急に走ったりしないこと。優子さんは履いてないと思うけど、滑りやすい靴やヒールのある靴は絶対にダメよ。そして何かあったらまず第一にお腹の赤ちゃんを守ること。これらの決まりを守ってもらうわ。赤ちゃんを守れない妊婦は産む前からの虐待親で、母親失格よ」
幸子さんが、あたしに厳しい戒律を課してきた。
とはいえ、要するに赤ちゃんのダメージになりかねないような行動は慎めと言うだけで、妊婦としての意識や自覚があれば簡単に守れるものだ。
「ふふ、何だかカリキュラムの日々を思い出すわ」
あの時は、あたしは女の子になったばかりで、女の子の言葉遣いや振る舞いを、母さんと永原先生からみっちりと教育指導されていた。
「ふふ、今でも思い出せるわ。あのかわいい優子が、外見は変わってないのに中身はすっかり変わっちゃって。優子、ノーベル賞を取っても妊娠や出産は未経験なのよ」
幸い、妊娠や出産の経験者は、TS病の経験者よりもずっと多い。
もちろん、TS病の妊娠経験者は少なくなるけど、それでも、今のあたしの教育環境は恵まれていた。
「ええ、もちろん分かってるわ」
ノーベル賞を取っても、妊娠や出産に関しては実際に体験してみないと分からない。
そういう意味では、分かりきった話だったとしても、やはりきちんと指導を受けることで、赤ちゃんへの理解を深めていきたいわね。
その後も、あたしはさまざまな注意点を学んでいく。
とにかく、赤ちゃんより自分を優先させるような母親は妊婦として失格だと、幸子さんから繰り返し叩き込まれた。
うーん、幸子さんってあたしの教え子だったのに、いつの間にか立場が逆転してしまったわね。
「うー」
一通り指導を受けていると、またあたしの気分が悪くなってきた。
「優子、大丈夫?」
「はぁ……はぁ……うっ……」
あたしは席を立ち、トイレの方に向かう。
後ろからガタッと立ち上がる音が聞こえる。
比良さんと幸子さんが、あたしの肩を支えてくれる。
家が広いせいもあったけど、トイレに向かうまでに病状は悪化していた。
あたしは便器が視界に入ると、そのまま口を向ける。
「はぁ……はぁ……うっ……おえっ……」
もう午後だけど、寝たのも早く、昨晩から何も食べてないせいで、何も出てこない。
喉の奥が締め付けられ、僅かに苦く酸っぱい液体だけが出てきた。
「うっ……はぁ……んーっ……」
幸子さんが、あたしの背中をさすってくれる。
ものすごく、気分が悪い。
吐いたものは気持ち悪いけど、そもそも吐くものが胃の中に何もなくて、それはそれで異様な状況だった。
あたしはほとんど澄んだ色のままのトイレを流し、そのまま倒れ込んだ。
トイレの向こう側では、浩介くんと母さんの声がする。
どうやら、「男子禁制」ということらしい。
うん、そうしてもらえると助かるわ。
あたしは、便器にもたれ掛かり、幸子さんと比良さんとの2人がかりで、あたしの部屋に連れていって、ベッドで休んでもらった。
「お昼、ここまで持ってきてくれるって」
「ありがとう」
とにかく、お昼ご飯を食べたらすぐに寝たい。
さっきは何もなかったからよかったけど、食べ物を吐いてしまったら、赤ちゃんへの栄養という意味でも、大きなマイナスになってしまう。
うー、何だか赤ちゃんみたいにほとんど寝ている気がするわね。
「つわりは本当に大変よ。あたしも妊娠中はすっごく苦しめられてて、それでもお腹に赤ちゃんがいると思うと、何とか耐えられたわ」
これから母親が感じるそれらの辛さは、筆舌に尽くしがたいものがある。
実際に知らないと分からなくても、いざ知ってしまえば、もっと恐ろしいことになりそうだわ。
「でも、そうした辛い経験を経てもなお、赤ちゃんを産む喜びに比べれば、何てこともないのよ。あの瞬間に比べたら、こんな辛さはゴミみたいなものよ」
「ええ、私も同感ね」
幸子さんも比良さんの言葉を聞くと、今から赤ちゃんが楽しみになってくる。
男の子か女の子かは分からないけど、どっちにしても、あたしに似て優しく、浩介くんに似て頼りがいがあって責任感の強い子に育って欲しいわね。
「比良さんって確か、いつ頃でしたっけ?」
「出産したのはもう150年くらい前の話よ。子供たちはもう全員とっくの昔に亡くなったわ。でもそうね……みんなとってもかわいい我が子だったわ」
比良さんは、子孫が死に続けていることにあまり感慨は感じていないけど、それでも子供たちに、それも老衰で先立たれた時にはとても辛かったという。
「まあそうね、でもこうして今も生きているわ」
比良さんが悩んでいたのは寿命問題で、今は蓬莱の薬があるので寿命問題は解決できる。
蓬莱の薬によって、あたしたちは数多くの子孫を見ることができることになる。
コンコン
「はーい」
この家で扉が直接ノックされるのは実は珍しい。
扉が開けられると、お義母さんが、あたしのためのお昼ご飯を持ってきてくれた。
「はい優子、少しでも食べて元気になるのよ」
「う、うん……」
どうしてもさっきのことが脳裏に浮かんでしまう。
それでも、食べるのが赤ちゃんのため。それならさっきの吐き気何て何でもないと思えてくる。
あたしは、自分でも信じられないくらい、自己犠牲に躊躇しなくなっていた。
だって今までは、寿命を伸ばすことばかり考えていたもの。
「ぱくっ……」
さっきのこともあってか、水をやや多目に飲まされた。
そして食事も、量は多めで、あたしはお腹がかなり膨れる感覚を受けていた。
「赤ちゃんの栄養は、過程が進むにつれて多く必要になってくるわ。今は初期だから、辛くても安静にするのよ」
「はーい」
「じゃあ優子さん、私はこれで失礼するわね」
幸子さんが立ち上がる。
「あ、幸子さん、わざわざ元旦から遠いところに」
よく考えなくても、すごいことだと思う。
「あーいえ、今年は埼玉に住んでる本家筋の親戚の家に泊まっていたんでそのついでです」
「今後はテレビ電話で交流をするわ」
「はい」
そう言えば、あたしも幸子さんを指導した時にはテレビ電話を使っていたっけ?
あれも随分古くなったわよね。
幸子さんが部屋を去り、比良さんも「用事がある」ということでここには母さんとお義母さんが残った。
「それじゃあ優子、何かあったらすぐに私たちを呼ぶのよ」
「う、うん……」
ともあれ、あたしは、気分が悪いのもあって、仰向けで寝ることにした。
部屋のカーテンとシャッターをすべて閉めて、真っ暗な部屋で静かに目を閉じた。