永遠の美少女になって永遠の闘病生活に入った件 作:名無し野ハゲ豚
コンコン
「はーい」
「優子ちゃん、俺だけど」
赤ちゃんに癒やされていると、扉がノックされる音がした。
そして部屋の中に入ってきたのは、浩介くんだった。
「あら、あなた、どうしたの?」
「あの、ね。嫌だったら嫌でいいんだけど」
「うん」
どうしたのかしら? 改まっちゃって。
「お腹の中の音、ちょっと聞かせてくれるかな?」
「え!?」
それは、意外な申し出だった。
確かに、浩介くんも赤ちゃんのことを知りたいのは当然だった。
だからあたしは──
「いいわよ」
ちょうど椅子をリクライニングしてかけていたので、あたしは服を少しめくりあげて、浩介くんにお腹を見せてあげる。
「うわー、大きいなあー」
浩介くんのこの言葉は、いつも胸やお尻に向けられるものだったけど、今は違う。
もちろん、これからどんどんと大きくなっていく。
「えへへ」
浩介くんがゆっくり近付いていく。
あたしのお腹に、ゆっくりと、やりすぎなんじゃないかと思えるくらいに慎重に耳を当ててくる。
あたしの中でも、ゆっくりと赤ちゃんが動いているのが分かる。
「んっ……」
浩介くんは耳を当てているので、あたしからは浩介くんの表情をうかがい知ることはできない。
「どう? あなた」
「んー」
あたしの問いかけに、浩介くんは「んー」とうなるばかりだった。
どうやら、あまりよく聞こえてないみたいね。
浩介くんが顔を離すと、ゆっくりと立ち上がった。
「よくわかんねえ、内蔵が動いているようにしか聞こえねえや」
浩介くんが、お手上げと言う表情で言う。
だからあたしも、フォローしてあげないといけないわね。
「あなた、それが胎動よ。今日気付いたものだけど、あたしは以前からそんな風に内蔵が動いている感じはしていたのよ。今思えば、それが胎動だったんだって」
「なるほどなあ」
事前の調べでは、今は妊娠5ヶ月目で、これから2か月後には、胎動がピークを迎えると言う。
一方で、産まれる直前の妊娠末期になると、赤ちゃんもお腹の中から出る準備をするため、胎動の「質」も変わってくるのだという。
「これから赤ちゃんが元気に動く時期なんだって」
「うー、大変そうだけど、妊娠してからの優子ちゃんを見てると、優子ちゃんって強いなあって思うよ」
浩介くんが、あたしを誉めてくれる。
でもあたしは、素直に受け止められなくて。
「ううん、あたしは弱いわよ」
やっぱり、こう言ってしまう。
「確かに、体は弱いかもしれないけど、優子ちゃんは心がとても強いんだよ。強がっている人なんかより、よっぽど、さ」
浩介くんの物言いは、どこか懐かしかった。
「……遠い昔、そんなことを言われたわね。そうあれは……11年前の」
「ああ、俺が優子ちゃんとデートし始めた。あの懐かしい日々のことだな」
「ううん、それよりもう少し前、あたしがあなたの虜になっちゃう前の林間学校でね、恵美ちゃんと虎姫ちゃんが、あたしに浩介くんと同じことを言ったの」
そう、小谷学園の2年生だった時に、林間学校で同室だった恵美ちゃんと虎姫ちゃんが、あたしのことをそんな風に評していた。
浩介くんも、似たような言葉をあたしに投げ掛けていた。
「安曇川や田村……あー、安曇川は旧姓だっけ? まあともかくあいつらが言った心の強さ、ともまた違うんじゃねえかな。こう、母親特有の強さって言うのかな?」
浩介くんが、要領の得ない言葉を話す。
「言葉では言い表しにくいんだけど、赤ちゃんを想う気持ち、今でも児童虐待するような親っているじゃん? 優子ちゃんは母親として涙脆いところで素直に泣けるって、とっても強いことだと俺は思う」
浩介くんは、あたしをじっと見つめながら話す。
確かに、赤ちゃんのために素直になれるのは、いいことなのかもしれないわね。
「うん、もしかしたら、女の子の『本当の強さ』って、違うのかもね」
それは、まず間違いなく結婚も出産も出来ない行き遅れたフェミニストが語る「強さ」ではない。
結局、浩介くんや、あるいは昔の小谷学園のみんなに言われたことを、今ようやく理解しつつあった。
男性にはない、女性の、母親の価値観を受け入れること、そしてそのように振る舞えることが、男からは弱く見えていても、女性にとっては真の強さなんだって。
「ああ、当たり前だ。ありがとう、俺の子供、ちゃんと産んでくれよな」
「分かってるわ」
浩介くんがそう言うと、あたしの部屋を出ていった。
部屋には再び、静寂が流れた。
そして音楽が、あたしを包み込んでくれていた。
「そろそろ、外も暖かいわね」
お昼が近づいた午前中、あたしは庭を散歩して日本庭園の安らぎを抜け、小さな小さな森林の中に入っていった。
数本の木が生い茂るこの場所に腰を掛けると、赤ちゃんも安らかに、すくすくと成長してくれている気がした。
ふと、1羽の鳥が木の中に降りてきた。
すると突然、ピーピーという甲高い音が聞こえてきた。
鳥は巣を作っていて、母親が雛鳥たちに餌をあげていた。
東京の町中にも、こんな自然がある。
母親が、子供を育てるのは、鳥だって同じ。
今はああやって雛鳥が巣の中にいるけど、巣立ちの時だっていつか来る。
もっと前は、雛鳥は卵の中にいた。
人間は鳥とは違ってお腹の中で子供を育てる。
雛鳥は何羽もいて、無事に成長するのはごくわずか。
人間だって、少し昔までは子供のうちに死んでしまう例は多かった。
もちろん、一度にたくさん産まなければいけない動物に比べれば、双子以上が珍しい人間は恵まれているとは思うけどね。
この子も、無事に健康でいさえしてくれれば、きっと蓬莱の薬で長生きをしてくれる。
そう思うと、あの鳥の親子よりは、報われているのかもしれないわね。
「鳥に餌をあげたくなる人の気持ち、分かるわね」
親鳥も雛も、多分あたしが産む赤ちゃんよりも小さいと思う。
都会の中でも、こうして独特の自然が築かれていく。
あたしが新しい命を育てるのも、こうした自然の一環なのよね。
「ずいぶんと、あたしって小さいわね」
鳥の親子を見ながら、あたしはまた独り言が出る。
あたしが小さな存在な訳はない。
蓬莱の薬の開発に関わって、世界の歴史をひっくり返して、世界一の資産家になって、こんな豪勢な家に住んで、おまけにノーベル賞まで貰ってしまったあたしが、小さな存在なはずはない。
そんなことを言っちゃったら、あの鳥たちにも、この木々にも、いや、この辺に浮かぶ微生物たちにも申し訳ない。
それでも、あたしは自分を小さく感じてしまう。
お腹の中の小さな命が、母親も小さくしているのかもしれない。
「ふふ」
赤ちゃんがまた、ゆらゆらと揺れるように動いた。
ふふ、ずっとここにいられる気がするわね。
トン……トン……トン……
何分経ったか分からない時間を無意識に過ごしていると、ふと小さな足音が聞こえてきた。
「ここにいたのね、優子ちゃん、お昼出来ているわよ」
ふと振り向くと、そこにはお義母さんがいた。
お昼、もうそんな時間なのね。
「うん、ありがとう」
あたしは立ち上がり、ふと鳥の巣を見てみた。
親鳥が巣にいて見張りをし、雛鳥たちは眠っていて、鳴き声は聞こえてこない。
「あら? 鳥?」
「うん、鳥が巣を作ってたの」
お義母さんも、あたしが振り向いた方向を見てきた。
「あらあら。優子ももしかして?」
「うん、小さな空間だけど、何だか心が暖まってね」
「そうねえ……近くの公園にいくのも、いいかもしれないわね」
「うん、この近くにも公園があるものね。もしかしたら、そこから来たのかもしれないけど」
遠出は危ないけど、近場なら、自然とふれあうのも大事だと思う。
赤ちゃんにとっても、都会の喧騒やオフィスの喧騒ばかりは不健全だものね。
「さ、行くわよ」
「うん」
あたしは、庭を進んで、お義母さんが用意した昼食にありつくことになった。
「それでね、庭に鳥が巣を作ってたのよ」
「へー、まあこんだけ広い家だものな」
お義父さんは、あくまでも冷静だった。
鳥だけではなく、色々な動植物が来てもおかしくない。
あの池にも、きっとカエルなどが住み始めたりするかもしれないものね。
「ふむふむ、でもよ。東京のど真ん中でも、生き物はたくましく生きてんだな」
「そうよ。このお腹の子も、ね」
浩介くんの話に、また赤ちゃんを絡めて話す。
あの木々の中で胎動を感じてから、あたしはますます赤ちゃんがかわいくてたまらなくなっていた。
そして、「早く会いたい」という気持ちも強くなっていく。
この安らぎを手放すのは惜しいけど、でも赤ちゃんに会ったらどんな感じなのかしら? という気持ちもある。
「赤ちゃんは、不思議だよな。出産を経験すると、宗教を信じやすいっていうのも頷けるぜ」
「ええ」
もちろん、出産に関しては様々なことが医学的に分かっている。
それでも、やはり何かを信じたくなる人が多くなるんだと思う。
最も、あたしのこの母性は、宗教的なものではないことくらいは、分かるけどね。
「優子ちゃん、足元を気を付けてな」
「うん」
浩介くんが、あたしに注意を促してくれる。
あたしはこれからエレベーターに乗って、オーディオルームに向かう。
オーディオルームは、あたしは今まであまり使っていなかったけど、これからは使う機会が増えそうだわ。
「お、優子か」
オーディオルームには先客がいた。
それは父さんだった。
「赤ちゃんに、音楽聞かせてあげようと思って」
「赤ちゃんに? 赤ちゃんも耳が聞こえるのか?」
「うん、そうみたいよ。だから言葉を覚えるのも早いって」
「なるほどなあ」
あたしは、オーディオルームに入っているPC画面を開いて、何を聞こうか考える。
「ん?」
あたしは、奇妙な音楽を見つけた。
曲名は、「川のせせらぎと鳥の鳴き声」というものだった。
気になってクリックしてみると、曲名の紹介には「川のせせらぎの音と小鳥のさえずり声を収録、自然の中にいるような気分に、あなたをさせてくれます」とあった。
あたしは、さっきの小さな森の中を思い出す。
あそこでは、鳥が巣を作っていて、親鳥が雛鳥に餌を与えていた。
川のせせらぎがこの家にあるわけではないけど、何となく似た感じを受ける。
これがいわゆる「音楽」かというとちょっと疑問な所もあるけれど、今は何となくこれが聞きたい気分だった。
ガラガラガラガラ……チュン……チュンチュン!
マウスをクリックし再生してみると、部屋一面から音楽が流れてきた。
「お、『川のせせらぎと鳥の鳴き声』か」
父さんは、以前かけたことがあるような顔をする。
「以前にもかけたの?」
あたしが聞いてみる。
「ああ」
あたしが、部屋の床に座り込む。
このまま、眠っていてもいいかもしれないわね。
「川の音、きれいね」
「うん、この曲は同じ音源がずっと流れているんだ」
「へえ、やっぱりループなのね」
父さんは、以前より書斎に籠ることが多く、20畳に広がった部屋も、石山家の物置にあった本などを移すと、父さんの書斎は本で一杯のなってしまった。
それでも、母さんとの関係は良好で、おそらくお互い過干渉にならないからうまくいっているという側面もあると思う。
「こうやって、優子と二人きりってのも珍しいよな」
「うん、そうよね」
石山家にいた時は、優一の時は色々な知識で盛り上がったりしていたが、優子になってからは女の子になるためのことや、浩介くんとの恋愛もあって、以前より関係は薄くなった。
蓬莱カンパニーの株を上場したために、あたしたちが資産家になってここ松濤に移住し、父さん母さんともまた一緒に住み始めた時も、この豪邸は二世帯住宅という建前なので、どうしても石山家のフロアに行く機会は少ない。
むしろ、トレーニング機材のある部屋がある分、浩介くんの方が石山家との関係が深いくらいだわ。
「とうとう、孫の誕生か。優子は、変わったよなあ」
父さんがにっこりと笑いながら、懐かしそうに話す。
「えへへ」
「優一だった時は、将来あの家は優一と、あるいは優一とその家族が相続してくれるものとばっかり思ってた」
うん、普通はそう思うわよね。
石山家は東京からも通勤圏にある家なので、わざわざ独り暮らしする必要性はなかった。
それは、石山家より東京から遠い篠原家からも会社に通勤していた事実からも明らかだった。
つまり、あたしはあのままTS病にもならなければいれば、あの家でひっそりと暮らし続けていたんだと思う。
「うん」
「優一が優子になって、お嫁に行った後は、喪失感が大きかったよ。娘が嫁に行くよりも、ずっとね」
「あたしに兄弟姉妹はいないわよ」
だから、父さんも、生まれつきの娘が嫁に行く感覚は知らないはずだわ。
「あーそうだったな。ただそれよりも不安だったのは、あの家がどうなるか。だったんだ。蓬莱の薬のお陰で、しばらくはその心配も要らなくなったがね」
「そうよねえ……」
今では蓬莱の薬が広く普及し始めている。
あたしたちも、殺到するお客さんへの対応に追われている最中だ。
「ま、とりあえず今はこうして一緒に住むことができたんだ。恵まれているだろうな」
「ええ」
父さんも母さんも、あたしが女の子になった後は、動揺しつつもきちんと娘として扱ってくれた。
特に母さんは、あたしを時に優しく時に厳しく、あたしを女の子らしい女の子にしてくれた。
父さんはあまりあたしに深く干渉はしてこなかったが、見守るという姿勢が重要だと知っていた。
そういう意味でも、間違った善意で不適切な対応をしたために、一時は自殺寸前に追い込まれた幸子さんよりも恵まれていると思う。
恵まれた女の子の生活が、今の充実に繋がっていると思う。
「優子は、男として生まれて、今はこうしてお腹の中に子供がいるんだろ?」
「ええ」
「想像もつかないよな普通は。TS病は珍しい病気だしさ」
「うん、でも、まだ発生原因さえ分かってないのよね」
今でも、新しいTS病患者は生まれ続けている。
あたしの新しいカリキュラムが、自殺者をほぼなくしてくれたものの、稀に少し危ない例はある。
去年の患者には、女湯に入れても男の人格が揺らがなかった患者さんがいて、さすがに担当のカウンセラーさんも冷や汗をかいた。
カリキュラムでも、最近は滅多に見られなかった成績不良者の行動パターンに陥っていて、かなりの問題患者になってしまった。
その子は今でも言葉遣いが治らない。
ただ、男に戻ることはとりあえず諦めてくれていたようなので経過観察中になっている。
今後は男言葉に怒るのではなく、女言葉が出た時に大袈裟気味に褒め称えるように指導を出している。
TS病患者は、精神的な負担は大きいけど、それでも「蓬莱の薬を購入しなくていい」というのと、「蓬莱カンパニーの主要株主である『日本性転換症候群協会』の会員になれる」というメリットが生まれた。
最も、それでも女の子に変わる精神的負担は大きく、「なりたい」と思う人は昔も今も少ない。
それに、倒れて女の子になった時の激痛はとんでもないものね。
「不思議だよなあ、TS病って」
川の流れる音と、小鳥の優しいさえずり声が、オーディオルームに響き渡る。
これはまた、本物の音とは違う臨場感を、あたしたちにもたらしてくれていた。
「うん、あたしもそう思うわ」
何故TS病だけ不老になるのかはよく分かっていない。
結局、蓬莱教授が突き止めてくれるのを待つしかないのかもしれないわね。
「父さんは今でも思うよ。優一のままの人生を、ね」
「うん、でも多分、いや間違いなく、今よりもよくない人生になったと思うわ」
もしかしたら、桂子ちゃんと結婚していたかもしれない。
小谷学園での卒業間際の桂子ちゃんの話、桂子ちゃんは嘘だと言ってからかってたけど、もしかしたら、あのまま恋愛に発展したかもしれない。
そうなれば、学校一の美少女と交際した優一はますますクラスの男子からも嫌われただろうし、浩介くんも、もしかしたらどこかでぐれてしまった可能性だってある。
優一と桂子ちゃんのカップルになった場合、もちろん蓬莱教授とのパイプは築けない。
蓬莱の薬の開発も遅れていただろうし、下手をすれば優一たちが生きている間には、完成の目はなかったかもしれない。
「でもさ、今の人生は、ちょっと出来すぎている気もするんだよね」
「そうかしら? 蓬莱教授に随分と引っ張ってもらったもの。むしろもっとうまくいっていた可能性もあったんじゃないかしら?」
実際、蓬莱教授の研究に違和感を感じて、すぐに実験を実行に移していれば、あたしたちの蓬莱カンパニー設立や、ノーベル賞の受賞も早まった可能性はある。
最終的には女の子として好きになれたけど、浩介くんとの和解も、もう少しいい手段があったんじゃないかと、今にしては思えてくる。
「……なるほどなあ」
父さんも、唸っていた。
自分の中では最善と思って行った手も、実はよくない手だった何てことは往々にしてある。
あるいは、短期的には後悔する選択肢でも、長期的には正しい選択だったことは多く存在する。
幸子さんの命を救った時にできたカリキュラムのお陰で、自殺率が急減し、間接的に多くの人が救われている。
野洲さん、あたしに乱暴したお陰で、あんなにも多くの命を救っちゃったのよね。
実際、彼にとっては欲望のままに行動した最悪中の最悪の行動なのに、社会全般からすればものすごいことをしでかしたことにもなる。
こういうのを、「バタフライ効果」って言うのよね。
「ふう、じゃあ父さんは書斎に戻るよ」
父さんが立ち上がる。
「うん、あたしもう少し聞いていくね」
あたしは、そのまま一人でゆっくりと音楽を聴く。
また少し、眠くなってきた。
「うーん……」
自然の中で心地よく休み、ストレスを軽減すれば、きっと赤ちゃんも元気になってくれるから。
トンッ……!
「んっ……」
朦朧とした意識でぼけーっとしていると、突然お腹の中に痛みを感じ、あたしは起き上がる。
うー、これ、胎動が激しくなっちゃったら夜眠れるのかしら?
ともあれ、もうすぐ詳細な検査をすることになっている。
今度のエコー写真では性別も分かるため、浩介くんも同行することになっている。