永遠の美少女になって永遠の闘病生活に入った件   作:名無し野ハゲ豚

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夏の過ごし方

「うー、暑いわー、うっ……また蹴ったわね」

 

 梅雨の時期を過ぎて、世間はすっかり夏になった。

 夏場では、服の露出も増えるけど、それでも赤ちゃんのいるお腹は守らないといけない。

 お医者さんに言われた通り、7月のこの時期は、赤ちゃんが最も活発に動く時で、特に静かな夜に激しく蹴られると、結構痛みが脳に伝わってくるのよね。

 

 あたしは通勤中、特に外が暑いと感じるようになった。

 

「あは、また蹴ったわ」

 

 誰にも聞こえないくらい小さな声で、電車の中で独り言を話す。

 浩介くんとは別々の通勤で、帰りは一緒に帰ることが多い。

 その時には、今みたいにちょっとだけ「蹴った」何て言う話をすることもあるし、通勤中に赤ちゃんが寝ていれば、特に何もない。

 赤ちゃんは、一日の半分以上を寝て過ごすって言われているけど、子供や大人のように、長い時間起きて長い時間寝るというものではなく、短い時間で寝たり起きたりする。

 そのため、産まれたばかりの赤ちゃんは、とても手がかかると言われた。

 実際母さんもお義母さんも、赤ちゃんだった時の優一や浩介くんのお世話には苦労したと言っていた。

 

 実際、この赤ちゃんも苦労すると思う。

 胎動が激しいからそうだとは言い切れないけど、活発でやんちゃな子になりそうな気がしていた。

 

「……気がする……かあ」

 

 もちろん、根拠なんて無い。

 でも、妊娠が女を変えると言われるように、あたしはどうも最近、無根拠な予想を立ててしまうことが多くなった。

 それはこれまでのあたしからすれば、到底考えられないことだった。

 

「ホルモンバランスの変化かしら?」

 

 安土先生からも、妊娠や出産で、女性ホルモンが多く出るからホルモンバランスに注意してと言われている。

 更に、「特に篠原さんは見るからに女性ホルモンが多そうだから」とも言っていた。

 実際に、母性本能も、この女性ホルモンが支えているところに大きいと言う。

 

「女性ホルモンかあ……やっぱり妊娠すると違うのかしら?」

 

 よく考えてみれば、あたしは女性ホルモンだらけの女性だった。

 まず女性ホルモンで大きくなったと思えるくらいのとても大きな胸、街中でもあたしより大きな女性は未だに見た記憶がない。

 最近ではブラジャーのサイズがますますきつくなってきて、そろそろ更に大きいサイズを買う必要性に迫られていた。

 このかわいくて美人な顔と白い肌、潤いと張りのあるこの無駄毛が全く生えない肌も、女性ホルモンのおかげで保っているようなもの。

 そしてこの真っ黒な長いさらさらのストレートヘア、更に大きなお尻に安産体型、「優子」を支える緩やかな性格に、今は止まっている重めの生理に壊滅的な運動神経だって、普通の人よりも女性ホルモンが強いせいなのかもしれないわね。

 そしてそれは、多少に個人差があるにしても、TS病患者全員に、おおむね共通することだった。

 

「TS病って不思議よね」

 

 男性から女性に変わるだけではなく、女性らしい女性に大きく変わっていくのがTS病の特徴だった。

 もしかしたら、女として生きていかないと患者の精神が崩壊しちゃうのも、これが原因なのかもしれないわね。

 まあ、男性ホルモンが多い女性になったとしても、結果は同じ気がするけど。

 

 

「優子ちゃん、少し休んだ方がいいんじゃないかな?」

 

 休み時間、あたしは浩介くんからそんな提案を受ける。

 

「え? どうしてかしら?」

 

「優子ちゃん、赤ちゃんがお腹蹴った時に、少し判断が鈍っているんだ。今は一番胎動が激しいだろ? あくまでも仕事は二の次なんだし、赤ちゃんのことを絶対優先で頼むよ」

 

「うん、分かってるわ」

 

 ともあれ、仕事に支障こそきたしてはいないものの、仕事の邪魔になっちゃっているのも確かではあった。

 もちろん、蹴られることでの反射的な反応もあるけど、何より愛しい気持ちばかりが溢れてしまって少し仕事が鈍ってしまってもいた。

 

「あーもちろん、出産に際して危険だと言うなら、俺もさすがに母体優先を選ぶがね。優子ちゃんが死んじゃったら、俺が一番辛いし、蓬莱の薬があるんだから将来また産まれてくる子供も産まれなくなっちまう」

 

 浩介くんが、悲しく真剣そうな表情で話す。

 出産は命がけだから、決して大げさな物言いではない。

 

「うん、それくらいは分かるわ」

 

 子供を失う悲しみは大きいけど、あたしが死んじゃったら、家族の悲しみはもっと深くなると思う。

 赤ちゃんの方が、死ぬ可能性は高いというのもあるけれどね。

 

「ふう、ならよかった。最近の優子ちゃん、赤ちゃん守るためなら人も自分も平気で殺すくらいの勢いがあったからさ」

 

「うー、否定できないわ」

 

 母性がそれだけ強いということでもあるんだろうけど。

 

「それにしても、夏でも少し息抜きしたいよなあー、優子ちゃんも赤ちゃんのためとはいえあんまり『あれもダメこれもダメ』じゃストレス高すぎていけないだろうし」

 

「うん」

 

 屋上にプールはあるけど、お腹を冷やすと赤ちゃんにダイレクトに悪影響が出るので、もちろん妊娠中のあたしは使えない。

 それだけではなく、仮に赤ちゃんが大丈夫でも、冷たいプールに入る以上準備体操する必要があるけど、準備体操中に万が一転んで事故になったら怖いというのが浩介くんの見解だった。

 同様の理由で、「視界が悪い」という名目で、露天風呂もあたしは使用禁止になっている。

 日々の運動という意味では、この仕事も十分に役立っているのもまた事実だった。

 

「旅行もリスクあるし……うーん、意外と妊婦にリスクかけない息抜きって難しいなあ」

 

 浩介くんが腕を組んで悩んでいる。

 あたし自身だけではなく、お腹の赤ちゃんにも配慮しないといけないのが、この問題の難点だ。

 実際、観光地での救急トラブルの多くが妊婦絡みという話もある。

 一時期は「マタニティライフ」と称して女性誌が様々な危険行為を煽ったこともあったけど、もちろんそれらに書いていない危険行為も多々ある。

 

「うーん、降参! 安土先生に相談してくれ!」

 

 浩介くんが白旗を上げて振るポーズをする。

 

「うん、分かったわ」

 

 まあ、ここで井戸端会議するよりもずっといいものね。

 

 

「そうですね、赤ちゃんも大分育って来ていますので、外食はどうでしょう? もちろん、極端な食事はダメですが、それは妊娠していなくても一緒ですから」

 

 安土先生の答えは明瞭だった。

 最近では、「妊婦のための食事」として、家の中でばかり食べていた。

 気分転換し、ストレスを解消するためには、確かに外食はいいことだと思う。

 よくよく考えれば、永原先生と一緒にお寿司屋さんにも入ったものね。

 

 

「外食ねえ……この季節だと何があるかしら?」

 

 お義母さんが唸っている。

 

「あー、高級料亭に久々に行くか?」

 

「うーん、何となくそういう気分じゃ無いのよねえ」

 

 確かに、落ち着いた空間は貴重だし、高級料理はどれも美味しく魅力的だ。

 蓬莱カンパニーの夫妻が予約するとなると、何故かキャンセルが入ってそこに滑り込めることが多い。

 やっぱり、どうもあたしたちは遠慮される立場らしいわね。

 

「えっと……でも大衆的なお店もちょっとねえ……」

 

 そういうお店だと、あたしたちはすぐに注目されてしまう。

 ノーベル賞が決まった直後に、たまにはあたしと浩介くんでお昼にハンバーガー屋さんに行こうとなった時に、インターネットの呟きサイトで「篠原夫妻がいる」と大騒ぎになってしまったことがあった。

 あたしたちを囲む野次馬がひどくなって、店員さんも、何らマナー違反もしていないあたしたちに退店を命じるわけにもいかず困り果てていた。

 お陰様で、「次からは店を貸しきるか出前を頼んでください。場合によってはその場で調理しますので」との申し出を受けてしまった。

 というか、店を貸しきる方がよっぽど迷惑な気もしないでもないんだけど。

 

「仕切りがあるお店がいいわよね。そうするとやっぱりある程度高級で──」

 

「ここなんてどうかしら?」

 

 お義母さんが、ノートPCの画面を見せてくれる。

 そこは香川県の名店で修行を受けた料理長の打つ「高級手打ちうどん」のお店だった。

 お1人様1食あたり2000円が目安で、味もよいと大繁盛している。

 

「ここいいわね」

 

 ざるうどんとかにすれば、妊婦のあたしにもそこまで負担の大きな食事にはならないわね。

 天ぷらは少し油が多そうな感じだから、控えた方がいいとは思うけど。

 

「讃岐うどんはベタだけどおいしいわよね」

 

 讃岐うどんは、本来は一般大衆が安い値段で気軽に食べられる料理で、セルフサービス制度など経費削減の工夫がなされているのだけど、もちろん「高級うどん」も存在する。

 このお店のモットーは、「安くてもおいしい讃岐うどんが、お金をかけて高級になればこうなります」というものだった。

 最近の流行りは、こうした「安い食べ物」や「庶民の食べ物」を、お金をかけて美味しく高級にしたというものが多い。

 

「優子ちゃんや浩介が生まれる前や小さい頃からすれば隔世の感があるな」

 

 お義父さんも、こうした風潮には驚きを持って話している。

 あたしたちが小学生の頃までは、日本はとても暗く、特に当時の政権の失政と、追い討ちをかけるような巨大地震が絶望を加速させた。

 あたしはもうほとんど覚えていないけど、その時の企業たちは値下げ競争をし、人々は中身よりも価格の安さばかりを求め、コスト削減のために労働環境は悪化の一途をたどり、そうして労働者がストレスを溜めてそれを発散するためにモンスター消費者となり、お金持ちもお金をためるばかりで更に不況に拍車がかかるという悪循環だった。

 今では、それらは全て幻のような好景気が続いていた。

 

 不老社会の到来によって、人々は値段よりも中身と品質、特に持続性を求め、企業たちは高級嗜好の競争をし、コストに余裕が出て労働環境は改善の一途をたどり、そうして余裕の出た労働者がお金を使い、お金持ちたちがお金を使うことの価値が理解されて更に好景気に拍車がかかっていた。

 

 もちろん、実際には不老社会が本格到来する前から、あたしたちへの期待を持って、好景気が続いていたのも、また大きいとは思うけどね。

 

「そうねえー、でも今の景気も、浩介の会社が動かしているようなものだものね」

 

「ああ」

 

 蓬莱教授は、現在も再生医療の研究に戻り、またひとつ、難病を解決させようとしている。

 不老となったことで、また前人未到の3回目以降のノーベル賞にも期待がかかっている。

 あたしたちは……1回でも十分すぎるくらい満足だわ。

 

「よし、それでこの店は……表参道か」

 

「頑張れば歩いても行けるわね」

 

 お義母さんたちには楽でも、妊婦のあたしにはきついわ。

 というか、妊娠前でもここから表参道なんて歩いたらバテちゃうわよ。

 

「うーん、歩くのは渋谷まででお願い」

 

 出来れば神泉駅を使ってほしいけど、表参道なら渋谷駅での乗り換えを加味すれば渋谷まで歩いた方がいい可能性が高い。

 

「そうねえ……」

 

「ま、優子の負担になったら本末転倒だ。ここは渋谷から電車を使おうか」

 

「うん、そうね」

 

 帰りはともかく、行きは渋谷まで下り坂なのでそこまで大きな負担にはならない。

 そこまで距離は長くないし、渋谷なら人混みに紛れるのも簡単なので、あたしは渋谷まで徒歩で行き、そこから地下鉄で表参道に向かう案を採用した。

 

 

「それじゃあ、あたしたちは外食してくるわね」

 

「気を付けてねー」

 

 母さんに見送られ、あたしたちは家を出る。

 そしてしばらく歩くと、閑静な高級住宅街から、人々が集まる繁華街へと出た。

 こういう場所から近いのが、松濤の利便性に繋がっているとは思う。

 最も、庶民感覚が抜けていない成金のあたしたちはともかく、他の松濤の住人たちがここをどれくらい使うのかは、未知数ではあるけどね。

 

 渋谷のスクランブル交差点は、駅前だけではない。

 あまり知られていない小さめの、それでも人の多いスクランブル交差点を抜け、更に向かうと大きなスクランブル交差点が見える。

 また、ここに観光客が多く集まっていて、観光客たちはあたしたちには目もくれず、交差点の人だかりに夢中になっている。

 あたしたちは、交差点はわたらずに、そのまま半蔵門線に繋がる入り口へと降りていった。

 ICカードを改札機にかざし、あたしたちはホームへと出る。

 ホームでは、仕事帰りのサラリーマンたちの姿が多く見られた。

 もしかしたら、蓬莱カンパニーの社員も、この中にいるかもしれない。

 

 恐らく、帰りの電車はちょうど帰宅ラッシュにぶつかるとは思うけど、行きの電車は、渋谷で降りるお客さんも多く、逆方向で空いていた。

 

「次は、表参道、表参道です。乗り換えのご案内です、銀座線──」

 

 僅かな時間だけ座り、お義母さんが地図を出してきた。

 

「えっと、こっちの出口みたいね」

 

 東京の地下鉄はとにかく出口の数が多く、ここ表参道駅も、それなりの利用者数がいる駅とあって出口の数も多い。

 お義母さんが、店舗までの地図から、適切な出口を探していく。

 そしてあたしたちはそれについて行き、地上へと出てからも、出口の前にある地図と照合しながら進む。

 スマホなどでの道案内は普及しているけど、電池要らずのこの方法も、簡便で需要はまだまだ多い。

 電子書籍は普及したけど、紙の本が全く無くなっていないのと同じだわ。

 

「あったわ。ここよ」

 

 飲食店が多数入っているビルの1階に、そのうどん屋さんはあった。

 ビルの外観からして高級感があり、「さすがは表参道」という雰囲気ね。

 

「よし、入るか」

 

  チリリーン

 

 小気味よい風鈴の音が、あたしを涼しく癒やしてくれる。

 

「いらっしゃいませー何名様ですか?」

 

「あー、4人で」

 

「かしこまりました。お席空いていますのでこちらへどうぞ」

 

 幸い、まだ席は空いていたので、あたしたちも待たずにすぐに行くことが出来た。

 讃岐うどんは、あたしはざるうどんを、浩介くんは肉うどん、お義母さんがカレーうどんでお義父さんが冷たい天ぷらうどんと、見事にバラバラな注文になった。

 家族が4人いると、こういう「バラバラ注文」は、実は結構珍しかったりするのよね。

 

「では少々お待ちください」

 

 うどん屋さんは、内装もとても高級感溢れていて、和楽器による演奏が、常に流れていた。

 雰囲気としては、あんまり覚えていないけど、小谷学園の修学旅行で入った京都のお寿司屋さんに近いかしら?

 

 

「お待たせいたしましたー」

 

 4種類のうどんがそれぞれ机に置かれていく。

 そして、注文のレシートが置かれ、「ごゆっくりどうぞ」という言葉とともに、店内は再び静かな雰囲気となった。

 

「「「いただきます」」」

 

 あたしたちはいただきますをしてから、うどんを食べ始めることにした。

 うどんは、とても美味しかった。

 店内の雰囲気もよく、あたしたちは篠原夫妻ともばれずに、高級料亭同様、静かに食べることが出来た。

 

「おいしかったわ」

 

「ああ……あいたっ、あはっまた蹴った」

 

 あたしたちは、会計を済ませてまた電車に乗り込んだ。

 電車は混んでいたけど、お腹のすっかり大きくなったあたしは、見知らぬ人に席を譲って貰った。

 あたしの鞄にあった「お腹に赤ちゃんがいます」のキーホルダーが、あたしには輝いて見えた。

 安土先生の定期検診も全て異常はなく、赤ちゃんはすくすくと成長してくれていると思う。

 もうすぐ、赤ちゃんを産む日が来る。あたしが、母親としての優子が、もうすぐ来る。

 赤ちゃんの名付けも、すでに候補は絞られている。

 出産の予定日が近付いたら、入院することになる。

 そうなったら、どうなるかしら?




書き溜めエピローグまで書き終わりました。
後は最後に登場人物の設定などを語りつつ、終了です。

この物語が終わったら、一旦お休みに入ることにします。

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