永遠の美少女になって永遠の闘病生活に入った件   作:名無し野ハゲ豚

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赤ちゃんの名前

 臨月の入院生活は、順調に進んでいた。

 予定日が1日1日と近づくにつれ、今度はお腹に、今までとは別の痛みも感じるようになってきた。

 お腹が張るような感覚はどうしても馴れることが出来ず、いつ破水や陣痛が発生するのか分かったものじゃない。

 そんな中で、あたしの心の支えだったのが、浩介くんと義両親に実両親、そしてお腹の中の赤ちゃんだった。

 

「もうすぐよ。もうすぐ産まれてきてね」

 

 毎日、あたしは赤ちゃんに声をかけ、浩介くんも、両家両親も、そしてすっかり元気を取り戻したおばあさんまでもが、赤ちゃんに優しく声をかけ続けた。

 日が経つにつれて病院での検査の間隔も短くなっていく。赤ちゃんの様子を日々観察するに連れ、愛おしさが溢れ、あたしの目にも涙が浮かんでいく。もうすぐ、もうすぐこの子を抱けるんだって。

 看護師さんによれば、「後はもう、産まれてくるのを待つだけ」とのことだった。

 出産予定日通りに出産できる妊婦は意外に少なく、ある程度早くなったり遅くなったりをする。

 その場合も、通常通りの出産の手続きを踏むことになっている。

 

 そんな、予定日を間近に控えたある日だった。

 

「優子ちゃん、この書類」

 

「うん」

 

 浩介くんが持ってきたのは、「出生届」と呼ばれる書類だった。

 産まれた赤ちゃんの名前や日にちなどを書いて、所定の役所に提出しなければならないことになっている。

 赤ちゃんの名前と、産まれた日付以外の部分は、既に書かれている。

 

「優子ちゃん、ここに」

 

 浩介くんが、あたしに出生届を出してくれた。

 

「ええ」

 

 浩介くんから万年筆を渡され、あたしは手の震えを必死に抑えながら、書類に書き込んでいく。

 新しい赤ちゃんの名前は、あたしの手で書く。

 篠原浩介と篠原優子夫妻の長男の名前、「優輝(ゆうき)」くんの名前を書く。

 名前が間違っていないか、そしておかしな所がないかを、あたしたちは何度も確認した。

 

「よし、これでいいな」

 

 浩介くんが、問題ないことを確認してから、安堵の表情を浮かべた。

 昨日の時点で既に決めていたけど、こうして出生届に名前を書いて、初めてこの子は優輝になれたと思う。

 

「うん」

 

 この名前は、「優しく、だけど皆の中心になって輝いて欲しい」という意味が込められている。

 当初あたしは、家族とは特に何も関係ない文字を使おうと思ったけど、浩介くんが、最初の子供は「優」という漢字をどうしても入れたいと言って来た。

 あたしも、その思いを是非とも尊重したいと思ったので、色々と2文字目で悩み抜いた末、最終的には浩介くんの熟考の末、「優輝」という名前に決まった。

 浩介くんがこの名前を出してきた時、「『優輝』は『勇気』ともかかっているんだ。優しく、そして勇敢にって意味さ」と笑っていた。

 そう、あたしからは優しさを、浩介くんからは勇敢さを受け継いで欲しいという、あたしたちの願いの込められた名前になっていた。

 あたしは、TS病になって初めて名前を取り戻せたけど、優輝はそうならないように、きちんと育ててあげないといけないわね。

 

「優輝、もういつ産まれてもいいのよ。ママは準備が出来ているわ」

 

 あたしは、もう一度念には念を入れて、記入漏れが無いかどうか出生届を確認する。

 うん、問題ないわね。

 

「だってさ、あーでも今は書類チェック中だから遠慮して欲しいかな」

 

「あはははは」

 

 浩介くんの軽い冗談にあたしも笑みがこぼれていく。

 あたしは、まだ書くことのできない産まれた日の部分を除き、全てを書き終えていることを確認してから浩介くんに返す。

 

「大丈夫よ」

 

 お腹の中の優輝が、喜んでいる気がした。

 名前がないなんて、かわいそうなこと。優輝はもう、そんなかわいそうな存在ではない。

 

「よかった。じゃあ、また今度な」

 

 面会時間が終わった浩介くんが、病室の出口に戻る。

 

「うん、帰り道気を付けてね」

 

「ああ。絶対に死ぬわけにはいかねえもんな」

 

 浩介くんが、にっこり笑いながら言う。

 そうやって注意をしてくれているうちなら、大丈夫だとあたしも思う。

 とにかく、無理な横断は絶対にしないで欲しいわね。

 

 あたしは、安心しながら眠りについた。

 

 

 

 出産が近くなっても、家族以外の人がお見舞いに来てくれるケースが多い。

 情報を共有していた会社の人や、永原先生に幸子さん、歩美さんや弘子さんの他、小谷学園や佐和山大学の後輩たちも、代わる代わるあたしの病室にお見舞いしてくれた。

 特に蓬莱教授と河毛教授、瀬田准教授を始め、佐和山大学の教授陣がエールを送ってくれたのは大きな励みになった。

 最も、破水とか見られちゃうとあれなので、そろそろ家族以外は面会謝絶にしないといけないかもしれないけどね。

 

「じゃあ優子ちゃん、頑張ってね。子作りも、先を越されちゃったわね」

 

 そして今日は、桂子ちゃんが入院中のあたしをお見舞いしてくれていた。

 桂子ちゃんは、まだ子供は作っていない。

 

「あはは、蓬莱の薬があるのよ、焦ること無いわ」

 

「あーうん、そうなんだけど、やっぱりどうしても女子の性でね」

 

 桂子ちゃんは、やや顔をそらし、「やれやれ」といった感じで話す。

 

「女性の性ねえ……分かる気がするわ」

 

 女の子は恋愛や結婚の話が好きだけど、それは他の女の子に対して優越感を感じたいという気持ちも大きい。

 

「あら? 優子ちゃん、分かるの?」

 

 桂子ちゃんは、驚いた表情をしていた。

 どうやら、あたしの女の子としての成長に驚いているらしいわね。

 

「うん、女の子が恋愛話好きなのは、自分や他人との比較の側面もあるってね」

 

 妊娠を経験して、あたしはもうどんどんと女性に染まっていっている。

 多分だけど、もう永原先生よりも深いところにたどり着いた気がするわ。

 

「あはは、優子ちゃん大正解よ。女子力高すぎるわ」

 

「桂子ちゃん……」

 

 桂子ちゃんから純粋に女子力で誉められたのは初めてのことだった。

 今まではあたしは桂子ちゃんからは、女子力の低さや女の子らしくない行動を注意されることが多かった。

 

「もう、私から優子ちゃんに女の子について教えることは何もなさそうね」

 

 桂子ちゃんは、どこか安堵しつつも、寂しそうな表情もしていた。

 あたしは、桂子ちゃんや永原先生、クラスの他の女子たちから「女子力低い」「女の子らしくない」とお説教されていた日々を思い出す。

 お説教してきた女子は1人また1人と減っていき、最終的には桂子ちゃんと母さん、永原先生といった限られた人になっていた。

 

「桂子ちゃん、やっぱり赤ちゃんを身ごもって変わるのかな?」

 

「ええ、母親としての女性が、強くなると思うわ。母性よ母性」

 

 桂子ちゃんは、にっこりと笑いながら話す。

 母性については、あたしも最近は強く感じている。

 

「うん」

 

「女の子らしいということは多々あるし、モテない女を中心に、女の子らしさを捨てようとする人もいるわ。でも、妊娠と出産は、究極に女の子らしい行動なのよ。おしゃれしたり、スカート穿いたり、色々出来るけど、出産ほどに女の子らしい行動はないわ」

 

「桂子ちゃん、あたしもね、心からそう思うわ」

 

 TS病患者が、今後を生きていくには、女の子らしい女の子になる必要がある。

 元男のTS病患者が女の子らしくなるためには、様々な課題がある。

 今までも、そのことで色々なことがあった。

 言葉遣いや振る舞いに始まり、浩介くんとの恋愛や結婚生活での日々。あたしの修行は、11年経っても終わらなかった。

 もしかしたら、この妊娠と出産が、本当の意味での「最終試験」なのかもしれないわね。

 

「あーあ、私も赤ちゃん欲しいなあー、でも仕事もあるのよねー」

 

 桂子ちゃんは、JAXAの宇宙移民プロジェクトのために、子供を作ったり育てたりする暇がないのだという。

 でも、周囲を見ると、桂子ちゃんも早く出産をしたいのはひしひしと感じ取れた。

 

「蓬莱の薬があるから、焦らなくてもいいんじゃない?」

 

 あたしが、桂子ちゃんを励ます。

 

「うん、それが救いよね」

 

 蓬莱の薬のお陰で、人々は恋愛に余裕が出来た。

 今までのように、「行き遅れ」の心配もなくなった。

 そのため、特に若い女性の間で、蓬莱の薬の使用率が高い。

 

「この薬が出来たからこそ、女性が婚期を焦らなくてもよくなったのよね。お陰で女性も婚期を意識せずに働けるわ」

 

「そうね」

 

 桂子ちゃんの指摘は当たっていた。

 不老になったことで、女性にとって大事な「若さ」をいつまでも保つことが出来るようになった。

 

「寿退社って言う言葉もあるけど、これからの時代なら例えば子供が大きくなってからまた再就職何て言うことも容易になったのよね」

 

「うん」

 

 妊娠して身に染みたことがもう1つあった。

 それが、赤ちゃんを産んで育てること。特に愛する人の赤ちゃんを身ごもることほどの幸せは、何にも代えがたいものだった。

 あたしの部屋にあるノーベル賞のメダルのレプリカを見て分かるように、幸せの形は他にもある。

 それでも、妊娠と出産に関しては、女性にしか味わえない幸せという意味で、大きく違っていた。

 

「優子ちゃんのノーベル賞、やっぱり私も、受賞は当たり前だと思うのよ」

 

「桂子ちゃんも、そう思うのね」

 

 篠原夫妻が自分のノーベル賞について疑問に思っていることはよく知られていて、お見舞いの人が壁に掲げられているノーベル賞のメダルを見て、あたしにそう話してくれる人が多い。

 今はあたしも、自分のノーベル賞に自信が持てるようになった。

 

「ええ」

 

 桂子ちゃんとあたしは、その日は昔話を続けた。

 優一だった頃の話も出てきて、少し懐かしそうに語ってもいた。

 もちろん優一の記憶は、あたしの中に残り続けている。でも、あたしはすっかり女の子そのものになって、男と女と曖昧な部分だった人格も、完全に女に染め上げられている。

 優一の面影はもちろん、「優一だった頃の名残の痕跡」さえ、あたしの中から消えようとしていた。

 

「優一が優子になったのはよかったことだし、優一はもう二度と出てこない方がいいって言うのも分かるわ。優一の高校時代の荒れ具合と、正反対になった今の優子ちゃんを見れば一目瞭然よ。でも、たまには会ってみたいって、すっかり優子になったのを見て、優一はどう思うんだろうって気になることがあるのよ」

 

 桂子ちゃんの話を聞くと、やっぱり悪い人間だったとしても、いなくなると寂しくなるものなのかもしれないわね。

 

「それじゃあ、私はここで」

 

「うん、またね……うっ、痛いわ」

 

 桂子ちゃんが病室を出ると同時に、また陣痛が始まった。

 これは「前駆陣痛」といわれていて、出産の時の「本陣痛」の前段階だと安土先生は言っていた。

 これでもそれなりに痛いけど、本陣痛の痛みはこんなものじゃないと脅されている。本当に妊婦は大変だわ。

 最近はお漏らしをしてしまうことも多いけど、これは尿とは違っていて、これもいわば「破水」の前段階なのだという。

 妊娠の週もどんどん重ね、あたしは既に早産と呼ばれる状況を過ぎた。

 これからは、陣痛や破水といった、出産の兆候を確認する作業に入る。

 また、予定日を過ぎて何日経っても産まれてこない場合は、陣痛を促すかどうかが決められる。

 あまりにも遅いと、子供が大きくなりすぎて、母体が危険に晒されるという。

 浩介くんは、必ず母体優先を選択するし、あたしもそうして欲しいとは思う。

 でももしかしたら、優輝がそれで死んじゃってたら、あたしは絶望のあまり病院の屋上から飛び降りてしまうんじゃないかという恐怖もあった。

 正気なうちに、もしそうなったら、自殺防止のためにすぐに精神科の閉鎖病棟に入院させるように手紙で書いてある。

 

 出産に向けての体力作りの運動も、一層軽いものになっていく。

 安静にしている時間は、どんどん長くなっていく。

 月日が経つにつれ、暑い夏が、少しずつ和らいでいく。

 8月が終わり、9月に入ると、いよいよ出産予定日になる。

 優輝も、そろそろ慣れ親しんだ母体と分かれなければいけない日が来る。

 あたしも、この大きなお腹との分かれも近くなることが予想された。

 

 ベッドの近くにある分娩台は、入院してからいつでも使えるように準備されていた。

 それはつまり、いつ産まれてもおかしくない状況が、更に克明に迫ってきたことを意味する。

 

 助産師さんや安土先生も、出産に立ち会うことになる。

 当日は、助産師さんたちの協力の下で優輝を産み、その後2時間ほど休憩を取って、その間に優輝を軽く濡れタオルで拭いたりしつつ、母子対面となる。

 優輝も優輝で、産まれた後は大忙しになる。

 まず産まれて産声をあげて泣いた後は、産まれた疲れもあってすぐに寝てしまうことも多いというし、あるいは母乳を欲しがるかもしれないと言われた。

 

 病院では、安土先生から優輝への母乳のあげ方の講座も受けた。

 でも、習わなくても、何となく本能で分かるような気がした。

 優輝も優輝で、母乳の飲み方は習わなくても本能的に分かっているから教える必要はないと言っていた。

 ちなみに、この講習でむしろあたしが感心したのは、「胸が大きいからと言って母乳がたくさん出るわけではありません」という、明らかにあたしを意識した安土先生の言葉だった。

 また、母乳が固まってしまって優輝が飲めなくなってしまうこともあり、その場合は旦那さん、つまり浩介くんにおっぱいを噛まれて吸われることで、出てくることもあるという。

 確かに、こんなことになったら頼めるのは浩介くんだけとはいえ、あたしは想像して顔が真っ赤になってしまい恥をかいてしまったわ。

 ちなみに、母乳は優輝を育てるために栄養価が濃縮されていて、浩介くんみたいな大人が飲むと、逆にお腹を壊しちゃう可能性もあると言われた。

 それでも、安土先生によれば、母性を求める男性を中心に、母乳を飲むことに興味を持つ人はいるので、あらかじめお腹を壊す危険性や、味も大人の味覚にはあまりいいものではないということを話し、それでも吸いたいと言ってきたら、優輝の分まで吸い尽くさない程度には飲ませてあげるといいと言われた。

 このことは、浩介くん次第なので、今は保留にしておこう。

 

 いずれにしても、出産時や出産後のことは人生の一大イベントとあって大変大忙しになる。

 特に産まれたばかりの優輝の生活リズムにきちんとついていけるかは、あたしも不安だった。

 たまに、あまり母乳などを取らずに、また泣くことも少なく寝てばかりというパターンもあるけど、その場合も基本的にはそこまで悲観する必要はないとのことだった。

 

「ふふ、今日は生まれてこなかったけど、明日はどうかしら?」

 

 優輝がいつ行動に移すのかが、あたしの楽しみになっていた。


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