永遠の美少女になって永遠の闘病生活に入った件   作:名無し野ハゲ豚

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世界観紹介

ここでは、本作「永遠の美少女になって永遠の闘病生活に入った件」の世界観紹介となります。

物語の部隊や用語などの中で、主要なものを紹介していきます。

 

 

基本的な世界観

本小説、「永遠の美少女になって永遠の闘病生活に入った件」は、主に現実世界の日本が土台の舞台になっています。

本小説は主に2017年5月から2028年9月という時系列で運用されました。物語の半分は2017年と2018年で構成されています。

例えば大学2年の2020年には、優子たちが東京五輪を観戦したり、完成した八ッ場ダムを見物したり、鉄道車両の引退や登場など、様々な実在、あるいは予定された出来事が登場しています。

基本的には、数年前の政権交代を機に、長引く不況から脱出し、好景気が続く明るい世界観で書かれております。

また、蓬莱の薬が存在し、それに優子たちが積極介入するため、物語序中盤は「現実の日本にTS病が存在する」程度の違いしかなかった世界観が、時代が下るにつれて、現実世界との時系列差も大きくなり、大きな違いが出始めています。

それはとにもかくにも、一介の女子高生に過ぎなかった優子が、大きな存在になり、世の中に影響を与えるようになったからと言えるでしょう。

高校編では、「人手不足」という言葉でのみ語られていた景気も、大学編に入ると、「好景気を実感できないのは感性がおかしい」といった描写や、「高級ラーメン」と称する値段の高い屋台に人々が行列を作るなど、随所に好景気の描写が挟まれています。

優子たちは、物語最終盤に渋谷区松濤に引っ越すまでは、首都圏の政令指定都市の一軒家に住んでいました。小谷学園や佐和山大学もここにあります。

つまり、優子たちはさいたま市、千葉市、川崎市、横浜市、相模原市のいずれかの都市に在住しています。ただし、セリフ周りから、さいたま市は除外されます。

蓬莱教授が不老の薬を世に売り出し、なおかつ100年間海外には販売しなかったために、不老国家として世界の頂点に立ちました。

エピローグ時点では、完全に未来として、宇宙進出が始まっています。

 

私立小谷学園

優子たちが通う高校です。

当初は、普通の共学校として考えましたが、後に校則がかなり緩い学校になりました。

というのも、校則があれこれ厳しいと、物語を作りにくいという作者的な都合もありました。

制服は男子学ランに、女子はリボンと大きめのボタン付きのブレザーに紺チェックスカートで、自由な校風からか丈の長さは簡単に調節できます。実際には制服を着なくても怒られないのだが、生徒側が要望する形で残っています。

現実の学校でも、学校側が制服を廃止しようとして、制服の存続を訴える生徒と対立することはあるそうです。

小谷学園の制服は、シンプルながらも優子や桂子が着るとかわいさがアップします。

学校行事は始業式に6月の球技大会、夏は1、2年が林間学校、3年生は修学旅行で、10月に学園祭、11月に体育祭、そして2月に1、2年がスキー合宿となっています。

前後期制で中間、期末試験あり。

偏差値の設定は特にないですが、佐和山大学よりは相対的に高めです。

ただし、田村恵美が女子のトッププロになったり、不老技術の立役者としてノーベル賞を受賞した篠原夫妻を輩出し、また人類最高齢の永原先生が教師を勤めているという話題性もあって受験生が殺到し、一気に難関校化しました。

この辺りは、蓬莱教授擁する佐和山大学とも似ています。

佐和山大学とは立地が近いので、小谷学園から佐和山大学に進学する生徒が非常に多く、両校の結び付きは強化されています。

優子たちが卒業した後も、度々舞台として登場していて、優子は小谷学園に行く度に制服に着替えています。

自分が面倒を見たTS病患者である稲枝弘子との面談の際にも、文化祭で1年生を装って進入していました。

優子は不老なので、制服に着替えると現役の女子高生にしか見えなくなります。なので、結婚後も、浩介とはしばしば制服プレイを行っています。

球技大会や体育祭はあるものの、部活にはあまり力を入れておらず、運動部は田村恵美のいるテニス部と、女子サッカー部以外はほぼ弱小です。

田村恵美が小谷学園のテニス部に入ったのは、元々彼女はプロになるつもりはなく、安定志向のために家から近い所を選んだためです。

自由な学校という描写が多くなされていますが、「他人に迷惑をかけるな」という校則が存在し、このために、創設者は「世界一校則が厳しい学校」と評していた。

文化祭は、浩介と優子の関係が大きく変わるきっかけを産み出しており、2年生の文化祭の時は、優子は浩介の嫉妬を直すという名目で、初めてスカートをめくられたり、パンツを触られるなどの経験をした。

その時に反射的な嫌悪感が出なかったため、後夜祭で浩介は優子に告白を決意し、正式に彼氏彼女の関係になりました。

また、永原先生や桂子と、ミスコンで3つ巴の争いを演じ、結果的に優子が僅差で優勝した。

この時、優子はライバルとして立ちはだかった永原先生と桂子が悔し泣きしているのを見て、「もっと泣かせたい」「もっと辱しめたい」と思うようになってしまい、永原先生からは、「女性としての自尊心が芽生えた証拠」と評されるも、「優子」らしくないと悩むようになる。

以降も、優子は自らの女性としての人格確立に伴う自尊心と、「優子」という名前に秘めた思いとの間で板挟みになることが増えた。

2回目の文化祭では、既に婚約は成立したも同然ながら、周囲にはほぼ漏らしておらず、後夜祭で浩介が全校生徒、教師の前で優子に婚約指輪を渡してプロポーズし、語り継がれる伝説となった。

これ以降、小谷学園の後夜祭では、想い人に告白するという習慣ができる。なお、プロポーズしたのは、未だに元祖のみ。

球技大会のイベントでは、1回目はフットサル、バスケ、ドッチボールを行い、優子は身体能力の弱さからハンデ戦となった。

最後の種目のドッチボールで、優子は転んでしまい、相手にぶつけられたことで痛みに耐えきれず泣き出してしまい、女の子の弱さから「守りたい」という感情が浩介に芽生え、これが恋へと繋がった。

2回目の球技大会は、優子はテニスを選択し、尋常じゃないハンデを課されて何とか勝利し、周囲から哀れみの目で見られてしまう。

一方で、田村恵美と篠原浩介が、グランドスラムさながらに5セットマッチでテニスを行い、序盤は技術力で勝る恵美が圧倒するものの、体力を削る持久戦法を浩介が採用すると、徐々に押され初め、最終セットは1ゲームも取れずに終了し、この試合もまた、小谷学園の伝説となっていて、恵美はプロとして華々しい活躍をしても、天狗にならないよう戒めるために、この試合のことを思い出すようになった。

体育祭は、いずれも日本性転換症候群協会の仕事と並行して行っており、この体育祭でも、優子はハンデをつけられた上に、最後の球拾いでは他の選手と接触しまたもや号泣、浩介にお姫様だっこで保健室に連れていかれたのもあって、ますます浩介に惚れる原因となった。

 

佐和山大学

物語後半の舞台は、主に佐和山大学となります。

佐和山大学は、ノーベル賞になった蓬莱教授がいる大学ですが、偏差値はあまり高くありません。

蓬莱教授を疎ましく思う学界関係者と、影で目立たなく研究を続けたい蓬莱教授との利害が一致し、蓬莱教授は他の教授とは別格の扱いを受けていて、蓬莱教授のいる学科を卒業した場合は、一流大卒並の待遇を受けることができます。

モデルの大学は小谷学園と同様特にありません。

蓬莱教授の王国と化していて、蓬莱教授は研究室ではなく、広い研究棟を持っています。

ここで不老の薬を研究したり、反対勢力と宣伝戦を戦いました。

研究棟は、誰でも入れるスペースや、蓬莱教授の業績を宣伝するプロパガンダ用のエリア、があり、上層階は大学院博士課程以上の人のみが入れる機密エリアになっていて、蓬莱教授の厚意により、優子たちは4年目に研究室に配属されてから、すぐに立ち入りが許されました。

大学生活は、イベントが高校よりも少ないので、どうしても簡易なものになり勝ちでした。

蓬莱教授や高島さんと協力しての宣伝戦やデモ活動、大学院以降も研究の成功後は会社経営に話が進みました。

ちなみに、蓬莱の薬の評判が上がるにつれ、佐和山大学の再生医療学科は志願者が殺到し、難易度に大きな格差が生じるようになりました。

 

蓬莱カンパニー

物語最終盤の舞台で、蓬莱教授が、これまで受けていた莫大な寄付金を元手に設立した株式会社。

代表取締役会長に蓬莱教授、代表取締役社長に浩介、専務取締役に比良道子、常務取締役に篠原優子、また相談役に永原先生を起き、平の取締役として、和邇先輩と余呉さんが登場します。

会社の目的は蓬莱の薬の独占販売で、長期間に渡る詐欺が容易になるなどの理由で、政府へのロビー活動を通じ、唯一無二の「不老販売業者」となった。

黙っていればとても労働環境がいいが、欲をかいて他社に機密情報を売ったり、あるいは新規参入を求めたりといった「秩序を乱す」ことには徹底的に容赦がない。

薬の非融通は死刑宣告に等しく、永原先生の提案により、密告制度と連座制の適用を行うことになった。

蓬莱カンパニーは、工場を建設し、雇用を多く産み出し、更に大きな売り上げをもたらした。

当初は非上場でしたが、証券会社の要望もあって上場し、結果的にはこれが優子たちを世界一の資産家一家にすることになりました。

巨額の資産に、世界一の時価総額の会社の常務取締役という地位を手に入れ、ノーベル賞の栄誉も賜り、それでも母親になれたことに勝る幸せは、優子にはありませんでした。

つまり、妊娠、出産に至るまでにこうした富裕描写は、全ては出産の引き立て役になっています。

物語の最後に、優子は、「幸せは身近にあったのに、検討違いの幸せばかり追い求めていたから、満足が出来なかった」と言っています。つまり、今までの幸せには価値がないということです。出産後の優子は極自然に、ノーベル賞のメダルに向かって、、「こんなものに価値はない」と言いきっています。

一介の足軽から天下を統一し、黄金の茶室を作るなど豪勢を極めたものの、子宝に恵まれず、晩年になってようやく秀頼を授かった豊臣秀吉にも似た逸話になっています。

最終的には、未来永劫に蓬莱カンパニーは人々に不老を与え続け、また難病患者の人々にも、大きな希望を与えています。

蓬莱の薬が製品化され、更に100年は日本国内のみの販売となった。

蓬莱教授のポリシーから、「一部の特権階級のみが薬の恩恵を享受するのは避けたい」というものと、「しかし全世界の同時発売は現実的ではない」とする現実との妥協案のもとに生まれた。

これは、結果的に日本の覇権を引き出し、日本経済の更なる躍進へと繋がった。

 

日本性転換症候群協会

1917年に、永原先生を初めとするTS病患者たちで設立された団体。

正会員、普通会員、賛助会員、一般会員、家族会員、メール会員、幽霊会員がある。

患者の当事者がなるのは普通会員で、正会員は普通会員の中から特に優秀と認められた人が就任する

会長の永原先生を含め、役職についたり、新しい患者さんのカウンセラーを務めるのは正会員のみで、優子のカウンセラーは永原先生。

過去の患者対応におけるノウハウを独占しており、病院にもある程度顔が利く。

いきなり正会員に任命された優子は、皆が諦めかけていた幸子を救ったことで協会内部でも頭角を表した。

佐和山大学入学後は、そのTS病患者の中でさえ抜群の美少女だったため、広報部長となり宣伝を担当しました。

会の方針としては、「私たちは女性であるから、トランスジェンダーや第三の性としての扱いは屈辱であり、女の子として扱って欲しい、見た目の第一印象そのままで、考えて欲しい」というもので、元々「性転換症候群」という名前だった病名を、「完全性転換症候群」に変えさせたこともあります。

そのため、いわゆる「LGBT」の運動とは一線を画しており、誘いなどもきっぱり断ったが、これが牧師より恨まれる要因となりました。

一方で、美少女の多さからインターネット上では人気が出て、アイドル視する人も出ました。

 

 

完全性転換症候群

通称TS病、または性転換病で物語内では専らTS病が使われる。この物語の根幹をなす病気で、当然ながら、現実世界には存在しない架空の病気。

この病気は、10代から20代前半までの若い男性のみが発病する病気で、原因遺伝子は不明、TS病はある日突然発病し、発病すると初めお腹に軽い痛みと違和感を覚える。

そこからしばらく時間が経つと、子宮形成に伴い下腹部が猛烈な痛みに教われ、立つどころか座ってもいられなくなる。

倒れると血を吐き出し、その後は痛みは引くものの、聴覚以外の全ての感覚を喪失し、更にしばらくすると、男性因子消滅に伴い精巣が完全に空になるまで射精が続く。

その後は意識を失い、その間に女性としての器官や、体つきが出来上がり、目が覚めると女の子になる。

TS病患者は、胸とお尻が大きく安産型で、母性本能も強く、また例外なく目を引くような美少女であるため、特に女性を強調した女性になりやすく、これが精神的負担を大きくしています。

なお、男に戻ることは医学的に絶対不可能で、患者たちはこれまでの男性としての人格を捨て、女性として生きることが求められる。

そのため、まず患者は、協会から派遣された正会員の指導のもと、母親などとも併せて患者の指導、教育を行う。

女性としての人生を始めるため、女の子の服装や振る舞いを学び、また家事の教育や、女の子の感性を学ぶために、男時代の本や服装は、全て中古品売り場に売却させられ、代わりに女の子向けの少女漫画や女性誌などを読んで感想文を書かされるといった教育を受け、女の子らしくない言葉遣いも矯正の対象になります。

協会では、これまでも「男に戻りたい」と思ってしまったり、男女中間や第三の性を模索した人々の記録もあって、これらの人々はことごとく自らの現実を受け入れられずに自殺に追い込まれている。

肉体的には完全に女性になるため、他の女性と変わらず生理が来る他、妊娠、出産も可能となっていて、作中でも子孫のいる比良さんや、出産を報告した幸子さん、そして優子も、最終話で男の子を産みます。

TS 病患者は、赤ちゃんを妊娠し、出産をした際の母性は凄まじく、優子に至っては、赤ちゃんから引き剥がすだけでも激しく狼狽した挙げ句に大泣きしてしまっています。

そしてもうひとつの特徴が不老となることで、この病気になると老化が完全に止まり、理論上は数千年数万年あるいはそれ以上に生き続けることが可能になっています。

しかし、昔はこの病気は全世界で不吉とされており、発病した者はすぐに殺されてしまうか、村や町を追い出されるため、すぐに死亡してしまい、また極めて強力な疫病が蔓延した場合、TS病の遺伝子でも対処しきれずに死んでしまうこともあった。

室町時代後期、戦国時代前期生まれの永原先生が現代まで生きているのは、本人も認める通り「奇跡」であり、永原先生の次に年上の人は、江戸後期の天保生まれまで存在せず、いずれも幕末のどさくさに紛れて生き残った人々であり、永原先生の生存能力の高さが伺えます。

またこの病気になると、男女の違いが重くのし掛かってきて、身体能力の低下や、男たちの性的な視線、生理などに悩まされます。

また、スカートを穿いたり、女性の文化なども学ぶため、この病気になった人々は、男女平等の非現実性を思い知らされるため、誰一人としてフェミニストにならない。

更に精神の女性化が進むと、男時代の知識をふんだんに生かして、男子にモテるようにもなるため、フェミニストにとっては極めて都合の悪い存在になっています。

不老遺伝子のメカニズムは3つあり、患者はそのうち2つのうちのどちらかをメインで動かしており、それぞれα型とβ型で別れています。患者数はα型が多いものの、どちらも本質的には不老に代わりはなく、サブのγ型ともども、バックアップ体制で患者たちの不老を支えています。

なおここで注意しなければいけないのは、不老でありながらも様々な要因で生存率が低いように、不老であっても不死ではないということです。

不慮の事故に巻き込まれれば死ぬため、これらを乗り越えた患者は、今度は交通事故を警戒しなければならないことになっていて、協会でも、女の子になりきったと判断した患者を対象に、「安全講習」という講習が設けられています。

発病者は有史以来1300人という極めて少数ながらも、日本人の患者がその8割を占める。

また、女性を受け入れない限り自殺に追い込まれることからも、現在の協会の会員が300人いないことも踏まえて、優子が協会に入るまでは、患者の長期生存率はとても低かった。

明治の日清戦争期以降は不吉の風潮がなくなったものの、男女の違いに適応できない自殺者は多く、大正時代に協会による支援が開始、昭和後期の時代にはノウハウが確立され、自殺率は概ね4割で推移するも、フェミニズムや男女差を過小評価する風潮が出始め、またTS病患者には禁忌とされる性別適合手術が普及した平成期に自殺率が急上昇し、ここ最近の自殺率は過半数で高止まりしていた。

優子が会員となり、プログラムに変更を加え、またフェミニズムの愚かさの発信や、TS病への正しい理解に勤めた結果、自殺率はほぼ0になった。

ちなみに、希少な病気ながら日本人ばかりがなる病気は実在し、その病気はこのTS病とは逆に、若くして老化が始まるために、早死してしまう病気である。

 

 

明日のTS病患者を救う会

通称「明日の会」、もちろん架空の組織であり、言うまでもなく実在する全国の「明日の会」とは一切無関係です。

100年のノウハウを持つ日本性転換症候群協会の教育方針に、例の牧師が反発して設立されました。

ここでは、「間違った教育方法をするとどういうことになるか?」という実例が示されています。

牧師は、安易に間違った個人主義イデオロギーをTS病患者に持ち込み、また「日本人女性の、それも女性らしい女性になろうとする人ばかりが集まる協会に多様性をもたらす」などという名目で、患者に早々性別適合手術を受けさせた。

優子たちの工作もあって、学校のクラスメイトはそれを止めたものの、かえって意固地になり手術を決行、しかし、元のような男には決して戻れない事実に絶望し、性別適合手術を受けてすぐにその患者は自殺に追い込まれてしまった。

世間の非難が集まる中、牧師は責任転嫁に終始して信用が失墜、「患者自殺へのお詫び」の文章の記録を最後に、実質的活動停止に追い込まれました。

その後は、ホームページの更新も停止の後、牧師の行方不明もあって自然消滅しました。

 

優子の居住地

優子の住む家は、石山家、篠原家、そして渋谷区松濤にある320坪の豪邸と変わります。

石山家は実両親との3人暮らし、篠原家では義両親と夫の浩介との4人家族になります。

いずれも、家の面積はほぼ同じで、ごく普通の一軒家という位置付けになっています。

浩介と結婚してからは、「優子ちゃんのかわいい声が寝室まで響くことがある」と言われていて、浩介の技術に翻弄され、大声をあげさせられることに悩んでいます。

優子の部屋は、初期には優一の面影を残した殺風景な散らかり気味の部屋だったが、浩介に恋をし、また女の子を磨くため、カーテンやベッドなどを女の子らしい部屋にリフォーム、以降このデザインは篠原家にも持ち込まれました。

物語最終章で、優子たちは資産家となったため、渋谷区に引っ越します。

移住計画に出てきた松濤、元麻布、高輪、田園調布といった候補地は、いずれも都内にある高級住宅街で、その中でも渋谷駅とも程近い松濤は超高級住宅街で有名です。

松濤は敷地面積が広い家が多いですが、それでも320坪は非常に広く、土地代だけでも数十億が飛んでいます。

家の面積が広めで、1階は20畳の部屋多数を含めた16LDK、2階も13LDKの間取りを実両親に与えています。

優子の部屋も20畳となり、テレビも大型になるなど部屋に余裕が生まれましたが、基本的なデザインは変わっていません。

3階は浩介の祖母とその介助士のための空間で、屋上はプール兼露天風呂で、また庭は茶室と倉庫の離れや、池と橋のある日本庭園に、また木が数本ある小さな森もあります。

この豪邸も、「世界一の資産家にしては質素だ」と評されています。

物語最終話で優子が優輝を産み、総勢8人の大家族となっています。

数年後におばあさんが亡くなり、優子たちは更に何人かの子供を産みます。エピローグ時点では25人いましたが、同居している人は少ない模様で、また子孫も把握しきれなくなってきています。

また、本人よりも年下の叔父、叔母、大叔父、大叔母といった存在も珍しくなくなっており、エピローグでも7歳の優子の末っ子と、高校生の孫が登場しており、初孫の年齢を考えると、かなり複雑な家系図となっていると思われます。

 

林間学校、スキー合宿、修学旅行

小谷学園の学校行事のイベント空間で、いずれも3泊4日に渡る長丁場になっています。

林間学校は、優子の女の子が形成されていく時なので、女の子としての成長も見られます。

初めて女湯に入ったり、バーベキューでは家庭的と評されたり、どんどんと女の子になっていきます。

優子は、林間学校で浩介との交流を深め、特に登山の時におんぶしてもらって山に登れてから、また重いものを運んでもらうなど、男の子のかっこいい面を見た浩介へと想いを寄せていきます。

優子の中で、女の子としての男への恋を知るようになると、どんどんと女の子らしさが自然と身に付いていきます。

帰りの途中で、暴漢にナンパされ乱暴されそうになった時に、浩介に守られ、恐怖と痛みから大泣きしてしまい、浩介に頭を撫でられてから完全に陥落し、女の子としての恋心を完全に開花させた。

ちなみに、初めて浩介にパンツを見られたのがこの場面で、色は水玉だった。

 

スキー合宿では、閉館間際のホテルが使われ、部屋の都合などもあって、通常男女別の部屋を浩介と2人で使用した他、家族風呂の最後の客にもなりました。

初めて一緒にお風呂に入り、また同じ部屋で寝るといった行動は、後の花嫁修業の時と同様に、夫婦生活の予行演習にもなりました。

特にお風呂では、最初はお互いタオルを巻きながらなのが、最終的にはお互い裸を見られ合い、見せ合いごっこをするまでになっていました。

一方で、スキー合宿そのものは、優子はスキーが極度に苦手な永原先生と共に、地元の小学生のグループに参加して、一番優しいグループに入りました。

一方で、スキーが大の得意だった浩介は、上級者クラスの中でも優秀だったので、スキーでは最後に独演を行い、優子がメロメロになりました。

 

修学旅行は新幹線で京都に行くものの、京都の寺社巡りは最終日のみで、2日目と3日目は自由時間になっており、優子は2日目には永原先生の引率のもと京都の鉄道博物館に行きました(ちなみに、筆者はまだここには行ったことがありません)、この時に、永原先生は明治になって衝撃を受けたことがきっかけで、鉄道にのめり込むようになったことが明かされます。

また、朝のお風呂では「胸の格差」や、「江戸時代の痴漢」などが話題に上がりました。

古い町ということもあって、永原先生の長い人生とよく対比になっています。

3日目は、最初に永原先生と新しい患者の面談に行き、その後は浩介とデートのような形で、大阪駅や道頓堀、そして阪神なんば線経由での神戸ビーフ堪能といった楽しみをしました。

小谷学園の修学旅行は自由時間なので、門限を守ればどこに行ってもよく、過去には福岡まで行った猛者もいる。

もちろん、高校の修学旅行でこんなことは言うまでもなくあり得ないが、小谷学園の自由の象徴として、続けられている。

ちなみに、この修学旅行中も、浩介は優子にスカートめくりなどのセクハラをしていて、徐々に性欲を押さえるのが難しくなってきています。

夏場は服の露出も増えるため、優子のような女の子は一気にエロさが増すことになる訳です。

 

海水浴場

優子たちが夏に行く海水浴場で、近くには水族館も併設されています。

林間学校終了後、永原先生が「クラス交流」を名目に、クラスの男女を海に誘います。

最もこれは、浩介と優子の距離を近付けるのが目的で、いわゆる「水着回」ということになります。

最初に海に行った時は、案の定優子の水着は人々の目を釘付けにし、また好きになった浩介と関係を深めようとして、日焼け止めクリームを濡らせたりしていました。

なお、最初の海では、肉体的、反射的にはまだ男が残っており、浩介が下半身を大きくしたときに、肉体的な嫌悪感と精神的な喜びとの解離に悩んでいました。

この辺りは、優子に降りかかった困難でもあり、「女の子になりたい」という気持ちが先行し続けた優子ならではの悩みとも言えます。

2回目の海は大学生の時に協会の会員たちと行った海で、幸子さんがすっかり女の子になって登場します。

優子も、結婚後ということもあって、浩介相手に積極的になっていました。

優子は、水着を2着持っていて、1着目は可愛く露出度も高めで、エロくあどけなくをイメージし、上下白のビキニに、バラ売りしてあった水色の超ミニスカートをつけています。

2着目は、1着目よりも更に露出度が高く、セクシーさを強調した黒ビキニで、こちらは「肉食系女子」の気分を高めたい時に使います。

ちなみに、水着に着替えると優子も積極的になって、浩介を襲うことも多く、「優子ちゃんに食べられちゃう」という言葉の後、食べられた後に優子が「ごちそうさまでした」と言うのがお約束になっている。

海水浴場に併設された水族館もデートの舞台になっていて、優子たちはここで蓬莱教授と偶然出会い、「君は佐和山大学で偉大なことを成し遂げる」「俺の研究に反対していた連中も、いずれひれ伏す時が来る」という予言を受けました。

 

 

蓬莱の薬

TS病患者が持っている不老遺伝子を応用し、万人に不老を提供する薬で、毎日1回、5日間飲むと、繁殖、伝搬性の強い不老遺伝子が全身に回り、服用者は不老となる。

実は2、3日で効果は十分で、残り2回は予備になります。

薬の名前は実は特になく、蓬莱伸吾教授が開発したため、蓬莱の薬と呼ばれています。

この物語では、これの開発、販売が重要な鍵となっていきます。

蓬莱の薬を開発することで、TS病患者の積年の課題であった「恋人や旦那、子孫との死別」の問題が解決されることが期待されており、当初は実験に懐疑心を持っていた永原先生も、蓬莱教授が結果を出すことで信頼を獲得し、以降協会と強調路線になる。

当初は遺伝子提供が永原先生のみであり、その後優子が実験に協力するも、薬は不完全なままで数百年の寿命しかなかった。

大学3年になり山科歩美が佐和山大学に入学、歩美の遺伝子を借り受けたところ、TS病遺伝子のβ型が発見され、ブレイクスルーを達成する。

しかしながら、理論上では完全不老になるはずなのに、まだ有限寿命の薬しか開発できず、第三の型であるγ型の捜索が開始されます。

結果的に協会会員全員の遺伝子を分析したものの、α型とβ型しか発見できず、蓬莱教授は手詰まりに陥る。

しかしながら、大学院生になった優子が、これまでとは違った視点から蓬莱教授の盲点をつき、γ型を発見します。

そして、そのままの勢いで完全不老の薬を開発、この功績によって、優子は2027年のノーベル生理学・医学賞を受賞しました。

優子の発見により、浩介との寿命問題は解決したものの、薬を大量生産する上で、当初は歩留まりが悪くなっていました。

これを解決したのが篠原浩介による方法で、この功績を持って、篠原浩介は2027年のノーベル生理学・医学賞に輝きました。

更に蓬莱の薬を世界で唯一販売できる蓬莱カンパニーが設立され、蓬莱教授の策略もあって優子と浩介が常務と社長となり、また株式をそれぞれ14.99%持つ、20%の蓬莱教授に次ぐ大株主となり、この株の資産が暴騰した結果、篠原家は夫婦併せて世界一の資産家一家に、また個人でも蓬莱教授に次ぐ世界第2位の資産家となり、株式配当だけで数千億円の収入が入るようになりました。

このように、蓬莱の薬は優子と浩介の永遠の愛を決めただけではなく、その栄誉と富をも決定付けた存在になりました。

 

 

総合病院

 

優一がTS病となった時に担ぎ込まれた総合病院で、物語の初めと最後に登場する、いわばこの物語の「始まりの地」でもあります。

いずれも個室に入院しており、最初は病室で目覚めたら、慌ただしくTS病と診断後、健康診断を受けさせるという忙しさで、目覚めて半日で退院しており、扱いは相応という感じになっています。

しかし、物語最終盤にはVIPルームで広々とした個室で至れり尽くせりのサービスになっており、優子の11年間での変わりようが分かります。

基本的にはあらゆる科に対応している大きな病院で、入院患者の棟と通院患者の棟に別れていて、両棟はスカイブリッジで結ばれています。

小谷学園とも提携していて、健康診断を担当する(優子が受けた健康診断は学校のものより多め)他、部活の怪我や教職員、生徒の体調不良にも対応しています。

初めての赤ちゃんを産むときに、優子がここを選択したのには、やはり女の子の原点があるからでしょう。

 

 

ノーベル財団

 

ノーベル賞を司る実在の財団、優子たちがノーベル賞になってから、様々にお世話になった団体で、もちろん実在です。

ノーベル財団は、優子たちのノーベル賞を決定した際に、蓬莱教授の意見を取り入れました。

ちなみに、作中での受賞者たちの行動は、ほぼ妄想で補われていますが、ノーベル博物館にある椅子にサインをしたり、授賞式で受賞者が英語でスピーチしたり、授賞式の様子、晩餐会や舞踏会に蛙跳びといったイベントは実在のものです。

物語内では、2回目の受賞となった蓬莱教授が、優子と浩介を引率してくれています。

 

 

永原先生の家宝類

 

永原先生は、その長い人生に反映して、数多くの貴重な歴史的書物や絵画を所持しています。

ここでは、実際に出てこなかった永原先生の所持家宝についても紹介します。

ちなみに、大半が架空のものです。

 

吉良上野介の着物

元禄年間に、吉良上野介より与えられた着物、京都の呉服屋のもので、実際の費用は幕府側が用意した。

当時は着物は、着られなくなるとそのまま雑巾などに再利用されており、江戸中期の着物が残っているのは極めて稀。

実際にはそのようにして消失した着物も多く、特に立派な服を永原先生は温存しており、「国宝か重要文化財でもおかしくない」と鑑定士に評された。

現在も大切に保存してある着物は、皮肉にも浅野による吉良への刃傷沙汰の際にも宮中行事のため着ていた。

永原先生にとっては、自らが受けた恩義の証拠であると同時に、歴史学的にも、吉良上野介本来の人柄を忍ばせる貴重品になっています。

鑑定額は億を越えており、学術的にも極めて貴重な品となっている。

 

歌川広重の肉筆画

歌川広重が、永原先生のために描いた肉筆画。

不老の娘の噂を聞いた歌川が、永原先生を自宅に呼び出して「俺の絵画を後世に伝えて欲しい」と話し、永原先生のためだけに製作された絵画。

こちらは世界に2枚とない国宝級で、鑑定番組の鑑定額2000万円の数倍は下らない価値があり、億の値段がついてもおかしくない一品。

 

徳川吉宗の茶器

江戸幕府8代将軍徳川吉宗が永原先生に寄贈した茶器。

葵の御紋に徳川吉宗直筆の署名入りで、当時の茶の湯文化を知る文化財としても極めて貴重。

 

柳ヶ瀬まつ一代記

第三者の視点から、永原先生の人生を記した書物で、歴代の老中や側用人が永原先生の人生を記録している。

最初の1巻のみ永原先生本人が出生から江戸城に入るまで、以降は10年ごとに将軍の側近が記録していった。全巻原本現存。

日本語の移り変わりが記されていて、例えば「二段活用の一段化」や、ナ行、ラ行変格活用の四段活用化を知ることもできる。

永原先生が江戸城を退去することになった所で打ち切りとなっているが、永原先生の人柄や当時の様子、老中側用人の筆跡や考え方などが分かる貴重な資料である。

赤穂事件の部分が博物館で公開されており、水戸黄門や忠臣蔵で悪役となっていた柳沢吉保が、浅野側に傾いた世論から肩身の狭い思いをするだろう永原先生を気遣う基準があり、彼の本来の人柄がうかがえる内容もありました。

 

柳ヶ瀬日記

江戸城にいた永原先生の日記、娯楽の少なかった当時において、日記はほぼ永原先生の日課になっていた。

1653年より1867年までの214年間は、江戸城に住んでいて、江戸の街からも出ることはなかった。

内容は、その日起きたことや事件、事故や祭りの記録などで、明暦の大火でも、運よく永原先生の居住区は燃えなかったため、全巻が原本現存。

江戸時代における日本語の変化も随所に記録されており、古典学としても貴重な資料になっており、また消息不明だった歴史上の人物のその後も記されるなど、歴史学的にも第一級資料となっている。

永原先生は、江戸城で働いたり、大名や旗本に戦国時代の話、特に関ヶ原の合戦の見物談を話したり、大名旗本から家宝を贈られたりしていた。

江戸城での仕事が無い場合や、街での仕事の方が稼げそうな日は、街に繰り出して仕事を見つけてはお金を稼いでいた。

また、祭りや娯楽イベントがある際にも積極的に参加し、その日の終わりには銭湯に入った。

永原先生は江戸時代の日本人らしく、痴漢されることにおおらかであるばかりか、むしろ「女として魅力的だと思われて嬉しい」という感情さえ持っており、この日記でも、19世紀の文政年間には「江戸一番の美女」と自称する女に嫉妬し、祭りの時に痴漢された回数を競いあうという行動を行った。

この時、痴漢された回数で負けたことで悔しさのあまり路上で号泣し、相手の女に指を指されて嘲笑われるという屈辱を味わっている。

このエピソードについては、「痴女担当」の河瀬龍香でさえ「さすがに引く」と言わしめた。

江戸時代当時は、基本的に痴漢は無罪であり、江戸の街は7:3の男余りだったのでなおのこと激しかった。

特に混浴の銭湯や人が集まる花火大会、川などを渡る渡し船では、日常的に痴漢がありふれており、通りがかりに胸や尻を触られることもしょっちゅうだった。

それどころか、女性の側も、「痴漢されるのは女としての魅力が高いから」と、自らの自信にする有り様であった。永原先生のこの感情は、江戸時代以前の日本人にはごくありふれた価値観であった。

こうした牧歌的な雰囲気は、幕末以降の欧米人に拒絶されてしまい、明治以降急速に鳴りを潜めてしまったが、現在でも随所にこの時代の名残が見受けられる。

 

初版東海道五十三次

永原先生が趣味で買い集めた浮世絵コレクションの1つ。

説明不要の歌川広重の代表作で、永原先生はこうした絵画などを数多く所有していて、状態もよく鑑定士を驚かせた。

 

初版富嶽三十六景

葛飾北斎の代表作でこちらも実在。

海外からも評価の高い浮世絵で、永原先生は個人的に北斎のファンだった。

ただし、江戸城を出る時には持ちきれないとして、いくつかの絵画を捨ててしまっている。

これについては鑑定士からは「余りにも罰当たり」と批判されたが、当時の価値観では、そこまで値打ちのあるものではなかった。

以上の7作品を、美術館側は「永原マキノの7大家宝」と言ったが、本人は余り気にしていない様子だった。

 

奥村文角の墨摺絵

江戸時代中期で、初期浮世絵の名画家奥村文角の作品で、白黒の墨摺絵。

当時の値段は20文で現在の価値でも3-400円程度の値段で、下級武士や庶民といった大衆娯楽だった。

永原先生は鑑定番組で本人評価額を400円とし、400万円の値段を付けた鑑定士に呆れられている。

実際に、文角の絵画は高値で取引され、状態によっては重要文化財となってもおかしくないものである。

永原先生は、その他にも鈴木春信、歌川貞秀、菱川師宣といった当時の名画家たちの絵画を大量に所持している。

 

徳川綱吉の扇子

江戸幕府5代将軍徳川綱吉より永原先生に贈られた扇子。

特に4代目と5代目の将軍は永原先生を尊敬しており、また5代将軍に倣った8代将軍も、永原先生に寄贈品を送っている。どれも架空のものだが、実在すれば国宝に指定されてもおかしくないものである。

葵の御紋が入っており、永原先生は仰いだことがほぼない。

 

島津斉彬の薩摩切子

幕末の薩摩藩主、島津斉彬が永原先生に寄贈した薩摩切子で、薩摩切子は技術的にも断絶があり、数百万円で取引されている。

当時はこうした大名や旗本が永原先生に大量に寄贈品を送っており、それらだけでも数十億円の資産価値があると見積もられている。

 

鳩原家の食器

永原先生がまだ鳩原刀根之助だった頃から存在する当時の庶民の食器で、永原先生の持つ家宝で唯一、永原先生の産まれる以前から存在している。

死別した両親の形見でもあり、状態は悪く価値は現代でも1000円と低いが、お金では買えない価値があり、現在でも大切に扱っている。

 

徳川家綱の食器

江戸城に行った時に、粗末な食器しかなかったために、食事に支障がないようにと徳川家綱が永原先生に贈った葵の御紋入りの食器。

ただ、服に関しては幕府の財政の都合からも融通することはなく、永原先生も、この当時は街に繰り出すことも少なかったため、金銭的にはあまり余裕はなかった。

陰口が激しくなるのは、次代将軍徳川綱吉の時代で、吉良上野介の執り成しで陰口が止んだ。

 

曲亭馬琴の小説

江戸時代の小説家、曲亭馬琴の小説を、永原先生は愛読していた。

永原先生は「椿説弓張月」を鑑定に出し、「南総里見八犬伝よりも当時は人気だった」などとし、また葛飾北斎の挿絵も紹介している。

江戸城に住んでいた当時は暇を持て余すことも多く、小説はそうした暇つぶしにはもってこいだった。

 

東海道中膝栗毛

十返舎一九が書いた、化政文化の代表的小説で、弥次郎兵衛と喜多八が、道中を旅し色々な失敗をする滑稽本だが、実際の2人はいわゆるエロオヤジで、失敗というのは、女を手篭めにしようとして失敗するという意味である。

永原先生は、はまぐり屋で女中のお尻を触ろうとする弥次喜多のエピソードを紹介している。

大ヒットしたため、東海道だけではなく他にも続編が書かれ、最終的に作者死去までこれが続いたため、十返舎一九は「もうネタ切れなんだけどやめさせてもらえない」と愚痴っている。

 

古事記伝

本居宣長による、古事記の注釈書。

永原先生は、水戸黄門の影響からかこうした国学にも通じており、古事記伝も現存。

 

明治時代の鉄道切符

永原先生が所持する、明治時代の鉄道切符、いわゆる日本における鉄道コレクションの中では最古のもので、こうしたマニアが喉から手が出るほど欲しい一品を、永原先生は大量に所持している。


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