この時代の普通の人よりも、少しだけ優しいのだろう、と思った。
何か下心があるのかと疑ったが、別にそんなことはなかった。
それは、無償の親切だった。
受け取った分、返したくなった。
しかし、彼の親切は、見返りを求めない、押し付けのような親切だった。
だから、私も、押し付けてしまうことにした。
法と掟の権能が形を変えた天秤。
まつろわぬ神として顕現した時に持っていなかったのは、このためかもしれないな、と思った。
私は、そろそろ日本に帰ることにした。
休暇がそろそろ終わりだったからだ。
女神テミス。
あの女との別れから一夜明け、私は、天秤を荷物の中にしまうのに苦労していた。
あの女どうしてこう収納に困るものを、と考えながら、新しい荷物を手に持った。
別れくらい、言わせて欲しかったな。
ふと、そう思った。
イタリアを北上していた私は、そこから一番近い空港へ向かった。
しかし、日本へ直行の便は、一番近くても二日後だった。
とりあえず、その便を予約した。
ちょうど日が暮れた頃だった。
そして、その後、私は、宿を探していた。
運悪く、持っている金額で泊まれそうな宿が全て埋まっていた。
なんでも、近くでスポーツの大きな大会が開催されるそうだ。
私は、なんと間の悪い、と愚痴をこぼした。
すれ違う女性の、足が止まった。
女性は、私に、どうかしたのですか、と尋ねた。
私は、貴女には関係のないことです、と言った。
女性は、関係ないなんてことはありません、貴方はなにやら困っておられる様子、私に、少しばかりの助力をさせてはいただけないでしょうか、とひと息に言った。
私は、目を見開いて、驚いた。
女性は、なんだか得意げであった。
私は、思わず笑ってしまった。
女性の顔が、不機嫌そうになった。
これもまた、出会いと別れの一つ。
私は、思わず笑ってしまったことを謝罪した。
女性は、全く、最近の子は、などと言いながらも、許してくれた。
女性は、それで、何に困っているのですか、と私に聞いた。
私は、宿がなくて困っているのです、と言った。
女性は、では、私の家に来ますか、と私に聞いた。
私は、その申し出を、ありがたく受けることにした。
女性の家は、周囲の家と、そう変わりなかった。
強いて言えば、暖炉があるくらいか。
女性は、お腹が空いたでしょう、少し待っていてください、と言った。
何か作り始めた様だった。
私も手伝おうとしたが、私の手伝いなど必要なさそうだった。
今どき珍しい、竃でご飯を作っていた。
女性は、得意げに、特注なんですよ、と言った。
私は、そうなのですか、と答えた。
女性の料理は、とても美味しかった。
まるで、母親のような味付けであった。
私は、すぐさま完食した。
女性は、満足そうであった。
私は、せめて洗い物くらいは手伝おうとした。
しかし、女性に、そこで待っていてください、と言われた。
あまり、反抗しようという気は起きなかった。
女性は、手早く洗い物を済ませてくると、貴方のことを聞かせてください、今夜の宿泊費はそれで結構です、と言った。
私は、少し考えたが、泊まらせてもらっている恩を返すために、少しずつ、話すことにした。
失恋したこと。
彼とのこと。
『彼』とのこと。
女とのこと。
大事な部分はぼかしたが、でき得る限りを語った。
女性は、コロコロと表情を変えた。
失恋の話では、悲しみの表情で。
かつての友の話では、憤りの表情で。
『彼』の話では、驚きの表情で。
女の話では、微笑んでいた。
女性は、全ての話が終わった後で、こう言った。
「貴方は、とても、大変だったのでしょう。今日はもうおやすみなさい。夜も遅くなりましたから」
私は、そうさせてもらう、と言った。
その夜、誰もが寝静まった頃。
寝ている男の横に、女性が腰掛けていた。
「貴方は、これから、大変な目に遭うのでしょう。その中で、少しでも助けになるように、私の力を与えましょう。なんだか不器用な子供のようで、放って置けないのです。貴方の行く先に、幸せがありますように」
女性は、髪を切った。
切られた髪は、ひとりでに宙を舞い、燃え始める。
女性の纏う空気が変わる。
まるで、暖かく包み込む暖炉の火のような雰囲気だった。
女性は、言葉を紡ぐ。
「我が名はヘスティア。竃と家庭の女神。我が
女性ーヘスティアは、慈愛に満ちた笑みを浮かべていた。
次の日、私は女性に、昨日のことは誰にも話さないでほしい、と頼んだ。
女性は、快く了承した。
私は、何かいいことでもあったのか、と尋ねた。
女性は、別に何も、と優しく笑った。
私は、そろそろお暇しよう、と言った。
女性は、もっといてもいいのですけど、と言った。
私は、後六日で休暇が終わるのだ、だから帰らねばならない、と伝えた。
女性は、そうですか、できればまたいらして下さい、と言った。
私は、喜んで寄らせてもらおう、と言った。
女性は、微笑んでいた。
女性の家を出て、空港から近い宿の予約をとった。
明日の昼にはもうこの国には居ない、と考えると、無性に何かしたくなった。
身体が、火照っていた。
天秤に、私が顕現できる限界ぎりぎりまで削った神格と、私の持つ権能の全てをつぎ込む。
予見、法と掟、裁き、などなど。
あの簒奪者どもにくれてやるよりよほどいいだろうと思う。
残った私は、『まつろわぬテミス』という名を持つ神に過ぎなくなった。
渡した、渡した、渡してしまった。
私の本体、私そのものとでも言えるものを、だ。
どう、思っただろうか。
喜んでいてくれると、嬉しいのだが。
速く離れなければ。
あの男に、醜い姿を見せたくはないからな。