ここを、こうやってっ、こうだ!
カチッ。
音が止まる。
バンダナを巻いた男が、息を吐く。
やっと完成した。
後はアイツ次第だ……。
お前がどうするのか、楽しみにしてるぜ。
男は、炉の中の火花が散るように、笑った。
万里谷祐理は、急いで下校していた。
普段から品行方正な彼女が、誰にも何も言わず、この大事な時期に早退する、という事態に、学校は揺れた。
が、しかし、彼女にそれを気にする余裕はなかった。
事の発端は、三十分ほど前に遡る。
午後一時くらいのことだった。
突然、万里谷家に電話がかかってきた。
非通知ではあったが、電話を取った万里谷家当主である万里谷の母は、その番号がなんなのかを知っていた。
正史編纂委員会である。
あの子の霊視の予定は入っていないと記憶していたが、と思いつつ、電話を取った。
なんでも、一刻も早く、万里谷祐里の霊視能力を貸して欲しい、という要件であった。
始めは、まあ、祐里を貸し出すのは構わないが、彼女にとって大事な時期であるし、ということで、夜に行うようにして貰ってもいいか、という方向で話を纏めようとしていた。
だが、次に放たれた言葉で、そんな甘い考えは捨てざるを得なくなった。
まつろわぬ神、降臨の危機迫る。
この言葉を聞いて、万里谷母は、祐里をすぐに呼び戻すことを決めた。
大事な時期ではあるし、トラウマもあるだろうが、我慢して貰わねば。
日本の危機にそんな悠長なことは言っていられない。
まさか、と疑いもしたが、いつも余裕綽々としている沙耶宮の麒麟児のあの焦った声を聞く限り、まず間違いないだろう。
いい加減、祐里にも携帯を持たせよう、と決心しながら、彼女は学校へと電話をかけた。
そうして、今に至る。
祐里は、母から、学校を通じての緊急の連絡を受けて、急いで階段を駆け下りていた。
校門を出ると、黒塗りの車が道端に停まっていた。
ドアが開いたので、急いで飛び乗る。
ドアが閉まるや否や、車は急発進した。
運転していた、黒服の女性が、今回の件の詳細を説明します、と言った。
万里谷祐里は、強い決意と、僅かな怯えを秘めた目で、お願いします、と言った。
沙耶宮馨は、焦りを感じつつも、努めて冷静に今回の件について考えていた。
甘粕からの報告を思い出す。
報告のあった神具の形状は二つ。
天秤と、短剣。
甘粕によれば、天秤の方は割と予測がつくらしい。
曰く、対象の旅行先を参照して考えるならば、恐らく、女神ユースティティアの天秤であろう、とのことだ。
ユースティティアとは、ローマ神話の神々の中の一柱で、テミスやアストライアー、ディケーなどの、法と正義の女神が習合して生まれた神らしい。
ユースティティアだ、と考える根拠としては、
対象は、シチリア島からイタリアに入国し、イタリア西部のナポリ・カポディキーノ国際空港から出国している。
ということから、イタリアから出ていないのを見るに、イタリア圏の神だと考えるのが自然だろう、ということらしい。
甘粕は、いまいち掴めていない私のことを察したのか、少し詳しい説明をしてくれた。
イタリア、というのは、かなり沢山の神が流入した土地だ。
しかし、その中でも天秤を持った神は、かなり限られる。
細かい民間伝承まではわからないが、イタリアでメジャーなのはユースティティアだ。
そもそも、天秤とは、法や掟が形をとったものである。
法が複数種類あると、国にとって、好ましくない。
従って、天秤がいくつもあるのは神話においてあまり好まれない。
だから、天秤を持った神は数が少ないのだ。
そして、女神ユースティティアには、天秤を手放した逸話が残っている。
対象の持つ天秤は、おそらくその天秤だろう、ということらしい。
まさか勉強をサボっていたツケがこんな形で回ってくるとは…、と思いつつ、考察を進める。
しかし、これまで欧州の魔術結社で公開されている情報の中には、天秤型の神具が発見された、という記録はない。
従って、天秤に関しては、魔術師の関与の可能性は低いだろう。
私なら、そんなに隠し通している神具を使わせるなら、ズブの素人ではなく、もっと優秀な人材に使わせるからね。
案外、フリーマーケットとかで購入したとかかもしれない。
まさかとは思うが。
推測しやすい天秤に対して、推測しにくいのが、短剣である。
こちらは単純に、該当する神話が少ないことが原因らしい。
意外とありそうだが、そうでもないそうな。
短剣そのものが出てくる神話は割とあるのだが、『誰々が作った』とか、『逸話や名』があったりする短剣が少ないのだと。
やはり、騙し討ちなどの印象がある短剣よりも、堂々とした剣の方が人気があったのだろう。
短剣で有名なのは、英雄テーセウスのミノタウルス退治くらいしかないが、その短剣も、ミノス王の娘アリアドネーが差し入れた、という記述しかなく、候補にはならない。
いったい何の神の持ち物なのか……。
と、色々考えを巡らせていると、砂利を踏む音が聞こえ、思考を中断する。
おまたせしました、と彼女は言った。
私は、では、行こうか、と言って、本殿へ足を向けた。
甘粕がトイレから帰ると、甘粕の携帯が鳴り始めた。
打ち合わせ通りである。
甘粕は、出来るだけ穏便に事を済ませるため、彼に裏のことを隠したまま、なんとか媛巫女に霊視してもらい、対処を進める、という案を馨に提案した。
馨は(面白そうだから)これに乗り、正史編纂委員会も、初めは渋ったものの、甘粕が理由を説明すると、納得して、計画を承認した。
理由としては、暗示が効かないので、他の魔術も効かない可能性があるということと、かなりの地位にいる人物なので、消すにしても影響力が大きく、まつろわぬ神に対応した後では手が回りきらない可能性がある、というものである。
そうして、ここに今、秘密作戦一号が発動された。
これは、その第一段階で、偶然を装って、霊視の誘いをかける、というものだ。
因みに、提案は馨である。
彼に、今日の予定はありますか?と聞いた。
彼は、いや、特にはないな、それがどうしたんだ、と聞き返した。
甘粕は、さっき話した、それの鑑定をしてくれる方の予定が空いたそうで、どうですか?と勧めた。
ここで断られれば、無理にでも連れて行くしかないが……。
甘粕は、緊張を呑み込んで答えを待つ。
彼は、ああ、うん、その方には申し訳ないが、頼んで貰ってもいいだろうか、と答えた。
甘粕は、ガッツポーズをしたい気持ちを堪えながら、わかりました、では、そのように、と答えた。
甘粕は、電話から耳を離すと、後十分ほどで時間が空くので、それから来てください、だそうです、今から向かってちょうどいいくらいですね、と彼に伝えた。
彼は、そうか、それで、目的地はどこなんだ、と聞いた。
甘粕は、芝公園の近くなんですけどね、と説明を始めた。
私が運転しますよ、ちょうど車で来ましたし、と甘粕は申し出た。
彼は、すまない、恩に着るよ、と言った。
車の中で、彼は、そういえば君、公安やめて何してるんだ、と聞いてきた。
甘粕は、なんてこと聞くんだ、と思いつつ、古物商の会社です、これでも社長秘書なんですよ、と言った。
嘘ではない。
甘粕は、正史編纂委員会のダミーカンパニーの一つで、そういう事になっているからである。
彼は、疑った様子もなく、そうか、何処のだ、と聞いた。
甘粕は、佐野山古物商というところです、とダミーカンパニーの名を言った。
彼は、そうか、と言って、それからは目的地に着くまで、黙ったままだった。
甘粕は、芝公園近くのパーキングに車を停めると、こちらです、と彼を手招きした。
彼は、物珍しそうにしながら、甘粕について行く。
彼が階段を登ろうとしているのを見て、甘粕は、先輩、こっちですよ、こっち、と彼を呼んだ。
彼は、少し目を見開いて、エレベーターなんてあるのか……、と言った。
エレベーターを降りると、そこはもう境内だった。
甘粕は、こっちです、と言って、歩きだす。
彼は、ああ、と言って、追従する。
靴を脱ぎ、本殿の中に入ると、甘粕は、ここからは私の上司が案内してくれます、ちょうど知り合いに会いにきていたらしくて、鑑定の時は席を外すので、安心していただいて大丈夫ですよ、と伝えた。
彼は、むっ、そうか……、と言って、君の上司というのは、その、彼か?と前方から歩いてきた馨を見た。
馨は、目を見開き、動揺を隠すように彼を見て、どうも、こんにちは、貴方が彼の友人の方かな、と聞いた。
こちらですよ、と馨は彼を案内する。
彼は、何も言わず、ついて行く。
そして馨は、扉の前にくると、ここの和室です、じゃあ、あとはご自由に〜、と言って、去っていった。
彼は、ああ、ありがとう、と言って、扉を開いた。
そこでは、美しいものの、何処からどう見ても中学生か高校生くらいにしか見えない少女が、お茶の用意をして、座っていた。
彼は、訝しげに、甘粕に目線を向けた後、少女に目線を合わせて、今日はよろしくお願いします、と言って頭を下げた。
彼女は、万里谷祐里と申します、今日は宜しくお願い致します、と綺麗な礼をした。
甘粕は、続けて、よろしくお願いします、と言った。
祐里は、甘粕に向けて、よ、宜しくお願い致します、と慌てて言った。
リュックが、少し熱く感じた。
男が、突然立ち上がる。
ッ!気取られたか?
クソッ!
………………。
仕方ねぇ、表に出るか。
久々に、酒も飲みたいしな。
男は、少し屈伸すると、バンダナを外した。
近くのタオルで、汗を拭く。
楽しみだなぁ。
男は、心底楽しみで仕方ない、というように、笑った。