人生の価値とは、所詮その程度の物。   作:兎一号

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第三話 我らが父の住まう場所

 私は人の事など気にしないで歩いた。誰にもぶつかる事など無いのだから。辺りを見渡しながら、歩いていた。子供が歩いていたら怒られそうな吹き抜けの手すりの上に登り、そこから空の色を見る。今日も良い青色だ。

 

 

 日本の空も綺麗だなぁって思いながら空を見上げる。

 

 

 必死に私を探している森鴎外の姿を見て私は上から見下ろしていた。どうしてそんなに私を必死に探しているのか、と思った。そして預けられた子供が突然いなくなったらそれは探すか、と思った。そして私はいっその事、このショッピングモールから出てしまおうとも思った。

 

 しかし、それは考えるだけで私の中の良心が痛んだ。全く馬鹿らしい事だった。

 

 

 心なんてものは、生きているからこそ価値のある物だと言うのに。

 

 

 私は手すりから降りて適当に歩き出した。なるべく彼に近付かない様に。なるべく彼を近づけない様に。

 

 しかし、これ程広いと待っている方が退屈だ。そして私はかくれんぼと言う遊びに対してある意味で反則をしていることになる。鬼がいつ来るかなんてドキドキ感は味わえない。ただ30代の男性を弄んでいるだけなのだ。

 

『ねぇ、あれ買って!』

 

 駄々をこねる子供の声が聞こえた。目を向ければ、何処にでもいる親子がそこにはいた。何かおもちゃを買って欲しいらしい。私は少年が指さしていたおもちゃを見た。何が楽しいのか分からないが、その少年はそれが欲しかったらしい。

 

 私は首から下がっているロザリオを持って祈った。

 

 彼の少年に幸福が訪れますように、と。彼の少年の願いが聞き届けられますように、と。ピリッと右手に痛みが走った。親指と人差し指から血が流れ出していた。血が流れ出したところで私の血を誰かが見て驚く訳でもないし、誰かが気付く訳でもない。少しだけピリピリとするが亡霊(ゴースト)となってから痛みに鈍感になった気がする。

 

 私は指先を咥えた。口の中に鉄の味が広がる。いつか、アントニオがやってくれたように。爪の隙間から流れ出す血を舐めていく。

 

『もう、仕方ないわね。これ一つだけよ。』

 

 と、到頭母親が折れた。子供の笑顔を見て私は笑みを浮かべた。良かった、と溜息を付いた。笑顔になった子供を見送って私は森鴎外が近づいている事に焦りを感じた。辺りを見渡して私は急いでエレベーターの中に入った。たまたまエレベーターが止まっていてよかった適当なボタンを押した。

 

 そして適当な階で止まった。私は辺りを見渡した。そこには森鴎外の姿はなかった。私は小さく溜息を付いた。それから、何処に隠れればばれないのかを考えた。

 

 

 これは女子トイレに入ってしまえば勝ち組なのではないだろうか。

 

 

 と、思ったがそれは私が楽しくないので止めた。彼の後ろを付いて歩く事が一番の正解なのだろうけれど、それは最早かくれんぼでは無い。ただの追っかけでは無いか。

 

 サービスカウンターの下で悶々と考えていると聞き覚えのある声が聞こえてきた。私を必死に探す森鴎外の声だ。ここで待っていても森鴎外は私を見つける事は出来ない。見つけてもらえない。

 

 見つからない事を楽しむゲームなのに、見つけられる事を望むなんて本末転倒だ。

 

「はぁ…。」

 

 と、思わず溜息を付かずにはいられなかった。こう気分を何というのだろうか。矛盾している。

 

 私はトボトボと歩き出した。周りの声なんてものを全て拒絶して、自分の存在を否定してほしかった。私は聞こえる声が遠のく方へと歩いていた。気が付けば、外に出ていた。屋上駐車場だ。

 

 朝はあんなに晴れていたのに、今は雨が降っていた。その一粒一粒は私の身体を濡らす事は無い。私をすり抜けていった。ゲリラ豪雨と言う奴だろうか。地面に叩きつけられる雨粒は丁抹(デンマーク)では到底味わえない勢いだった。

 

 

 尊き我らが父よ、どうか私の願いを聞いてください。

 

 今だけでいい。私に自然を感じさせてください。

 

 尊き我らが父よ、どうかお願いです。

 

 

 そう祈った。そして私の身体は突然の衝撃に思わず驚いてしまった。

 

 高い音を立てて雨水が地面に打ち付けられているのが聞こえた。

 低い音を立てて雷鳴が雲の中でとどろいているのが聞こえた。

 

 先程降り出したばかりなのだろうか。

 地上の方では、誰かの何処か楽しそうな悲鳴が微かに、どこか遠くから聞こえてきた。

 

 痛いほど私の身体に打ち付けられる雨水は私の身体を伝って地面に流れて行く。それは私が想像していたよりも冷たく、そして心地よい物だった。

 

 湿った空気を肺一杯に取り込んだ。この湿度で肺が腐ってしまうのではないか、なんて下らない事を考えながら、そんな事さえ私は楽しいと思えて仕方がなかった。

 

 あぁ、そうか。雨とはこう言う物だったのか。

 シャワーを浴びている時の感覚とは違う、濡れて行くという事がここまで気分が高揚するなんて知らなかった。

 

 額から流れ落ち頬を伝う雨水をペロリと舐める。普段飲んでいる水道水とは違う味がする事さえ、愛おしい。

 

 どうせ濡れてしまうのだから、と私は履いていた靴と靴下を脱いだ。靴下を靴の中に押し込めた。その靴を持って私はクルクルと回り出した。

 

 重力に従って落ちていく雨水を私の腕で弾いた。空を見上げれば、降ってくる雨水が顔に打ち付けられる。しかし、一瞬見える雨水に感動し、そんな事を気にする余裕などなかった。額に張り付いた前髪を搔きあげ、私は屋上でそう、踊っていたのだ。

 

 ここは何処かのダンスパーティーで使われるような綺麗な舞踏場では無かった。ただの屋上、しかも駐車場だ。それでも、私にはここが一番に思えた。今は、ここが一番だった。

 

 どこかの誰かと遊びをしていたなんて記憶の片隅にもなかった。今はただ、この世界でこの自然に酔いしれていたかった。心沸き立つ世界の一員であることがとても感動的で、とても幸福だった。

 

「あぁ、我が父よ。やはり、私は幸福です。」

 

 

 綺麗な装飾の施されたシャンデリアなんてなくても良い。

 完璧な赤色に染色されたカーペットなんてなくても良い。

 

 

「あぁ、我らが父よ。尊き我らが父よ。この世界は、なんて愛おしいのでしょうか。」

 

 空に向かってそう叫んだ。

 

 その時の私は少し、可笑しかった。恐らく、慣れない土地で、慣れない人間関係に経った数時間で心が摩耗していたのかもしれない。

 

 ここは4階建てのショッピングモールの屋上。地上よりも強い風が吹いていた。その風が叩きつける雨水の痛みが私と言う存在を私の中に刻みつけていた。

 

 

 私はもう痛みと言う物が伴わなければ、私と言う存在を確認出来なかった。

 

 

 私は屋上の手すりに手をかけた。そこで初めてヨコハマと言う土地を眺めた。郊外のショッピングモールの屋上駐車場から見ただけの景色をヨコハマと言うな、なんて言われてしまいそうだったけれど。それでも、私はその景色を心に焼き付けた。

 

 5つの大きな建物が建てられているこの街。人の多さに圧倒される。混凝土造りの建物に煉瓦造りの建物。新旧が混在した面白い、興味深い街。少し騒がしいのが難点だけれど、また来たいと思ってしまった。あの村も好きだけれど、この街は楽しい。沢山の願いで溢れた。

 

 だけれど、私は知っている。何もない日々こそが、何も起こらない日常こそが、幸福であるということを、私は知っている。忙しなく動き続ける()()こそが幸福。それ以上を望んではいけない。

 

 絶望とは、欲望の隣にあるのだから。

 

 私は到頭手すりに足をかけた。先程吹き抜けの場所でそうしていた様に、手すりの上に立った。

 

「あっ!」

 

 風の勢いに負け、私は再び屋上へと戻されてしまった。私は負けじと再び手すりに足をかける。ゆっくりと手を離し、身体を起き上がらせる。今度こそ成功したと思い、前を向いた。奥の方では雲の切れ間から太陽の光が漏れている。天使の梯子、と呼ばれるそれ。

 

「時に彼は夢をみた。一つのはしごが地の上に立っていて、その頂は天に達し、神の使たちがそれを上り下りしているのを見た。」

 

 創世記28章12節。

 

 あぁ、確かに彼がこの景色を天使が行き来していると表現した事に納得がいく。雲の隙間から零れだす薄い光の幕はその美しさに人の心をとらえて離さないのだろう。

 

 

 あぁ、あれを。あれを掴むことが出来れば、私は天国へ行く事が出来るのだろうか。

 

 

 この際、天国でなくともよかった。ただ、地上では無い何処かへ行けるのなら、私はそれでよかった。私はそれに手を伸ばした。決して手が届かない事など知っていた。分かっていても手を伸ばさずにはいられなかった。手を伸ばして、それを掴もうとした。

 

 私の身体を駆け抜けて行く風が切る事を止め、すっかり伸びきってしまった髪を靡かせる。暫く感じていなかった肌寒いという感覚が懐かしさを呼び覚ました。未だ、お父さんが遺骸となる前のこと。穏やかな日常の中で生きていたころの話。

 

 

 私は、あれ以上の幸福を望んだ事などなかったのに。

 

 

 私がまだ人間だと思っていた頃の事を、思いだした。

 

 あの時は、風が吹き抜けると言うのはこんなに心地の良い物だったと感じていただろうか。

 

 

 あの時の私は、なんと幸福で愚かだっただろうか。

 

 

『止めろ!!』

 

 突然の大声に私は驚いて振り返った。私はその声の正体に大きく目を見開いた。雨に濡れキラキラと光る金色の髪。しかし、瞳は飛行機から見た海のような青では無かった。

 

 分かっている。彼で無い事くらい。声の質からアントニオで無い事くらい、分かっていた。

 

 

 それでも、私は…。

 

 

 この出会いに感謝した。

 

 いつかの日のように私の身体はスローモーションのように落ちていく。

 

 

 あぁ、私はなんてひどい女のだろうか。

 

 

 自分の満足感の為だけに幼気な少年の心に傷を残す。こんなんだから私は亡霊(ゴースト)になってしまったのだろう。

 

 焦った表情がとても愛おしくてその顔をずっと見ていたいとさえ思った。必死に私に手を伸ばす少年は私の身体を掴むことなくすり抜けた。その様子に驚いた表情を浮かべながら、もう一度私を掴もうとしてくれるその少年の正義感に感銘を受けた。

 

 だからこそ、私は彼に掴まれる訳にはいかなかった。ただの亡霊(ゴースト)の悪戯に将来がある少年を巻き込む訳に行かなかった。私は心中がしたい訳では無い。私は心中をしたいとは思わない。

 

 

 死ぬ事が幸福と言うならば、それを一人占めしたいと思うでしょう?

 どうせ、他人とは分かち合えない幸福なのだから。

 

 

 少年の吠える様な叫び声が聞こえて来る。手すりの隙間から必死にこちらに手を伸ばしている。手が私にの腕に触れているのに、決して掴むことのできない絶望が少年を襲っている事だろう。

 

「ごめんなさい、ありがとう。」

 

 どうせ私の言葉など、あの少年には理解できないだろう。届いていないと思いながら、私はそう呟いた。私を救おうとしてくれた少年に私は心から感謝を述べた。これから落ちると言う感覚を味わう。私はそっと瞳を閉じた。

 

 

 水中の時とは打ち付けられた衝撃は違うのだろうな。

 

 

 と、必死な少年と違い、私には過去を懐かしむ余裕さえあった。しかし、グンッと重力に逆らう力が私には働いた。驚いた私が見上げるとそこには、フェンスを乗り越え私の左手に巻かれた包帯を掴んでいるエリスがいた。

 

 何より驚いたのはエリスが空中を飛んでいる事だった。いや、空中で立っているのだろうか。重要な事はそこでは無いのだが、そんな事を考える余裕さえないほど私の頭はこんがらがっていた。

 

 何回も瞬きを繰り返す私を見てエリスは呆れた様に溜息を吐き出した。それはそれはとても大きな溜息だった。

 

 エリスは私を屋上へと戻した。何が起こったか分からず屋上に座り込んでいた私に、先程の金髪の少年がこちらに近付いて来た。

 

『この、大馬鹿者!!』

 

 その声の大きさに私の身体は無意識に震える。そんなに大きな声でなくとも私は聞こえている。と、言うかこの少年に私が見えている事に驚いた。がっしりと肩を掴まれ、それからは怒涛の説教だった。おそらく説教をされているのだろうと思った。ただ、彼から発せられる日本語の殆どを私は聞き取る事が出来ず、首を傾げるしかなかった。

 

 

 何かを必死に伝えようとしている少年には申し訳ないが、どうか丁抹(デンマーク)語を習得してから出直してきてほしい。私には何を言っているのかさっぱりだ。

 

 

『聞いているのか!?』

 

 何かを訪ねているようだったが、私は首を傾げた。

 

『あぁ…、ごめんなさい。せめて英語を話してくれない?』

 

 なんて言ったって、私と同い年位の少年に伝わる訳も無かった。ただ、私が外国人だという事は伝わったらしい。それからはアワアワと何をどう話していいのかを考えているようだった。

 

 先程の勢いからの変貌ぶりに私はクスクスと笑みを浮かべた。私の様子を見て少年はまた怒りだしてしまった。そしてそこで私はこちらに近づいて来ている願望がある事に気が付いた。それはもうすごい勢いでこちらに近づいて来ていた。

 

 私は立ち上がり、出入り口の方を見詰めた。私はかくれんぼの最中だった。鬼が近づいてきたら隠れなくてはならない。しかし、それを許さなかったのは他でもないエリスだった。

 

 どうやらエリスと森鴎外はグルだったようだ。まぁ、だいたい予想はついていたのだけれど。

 

「エリスお姉さん?」

「ダメ、離さない。貴女は一度しっかり説教を受けるべきよ。」

 

 説教なんて、私は何一つ悪い事をしたなんて気はなかった。確かに幼気な少年の心を弄び、健気な中年間近の男性の心を弄んだが、それで説教を受けなければならないのだろうか。

 

 自動ドアが開き、こちらに来ている男性を私は見上げた。その男性の表情には、隠しきれていない怒気が溢れている。

 

 意外だった。目の前の男、森鴎外は感情を隠すのが上手だと思っていたから。表情を作るのが上手だと思っていたから。いや、これさえも作られた表情なのだろうか。

 

 所詮、私に聞こえて来るのはただの願望でしかないのだから。

 

 そして私の顔は正面から強制的に右を向かされたのだった。




お疲れ様でした。

ここ数週間は中間テストでとても忙しかった…。

それにしても、原作でこそ中年と言っている森鴎外ですが、12年前だと若々しいお姿で…。

久しぶりに原作の12巻を見直しましたが、良かったです…。
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