人生の価値とは、所詮その程度の物。   作:兎一号

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第四話 悲鳴を上げる

 頬を打たれたのだと理解するのには少し時間が掛かった。何せ、初めての経験だったから。じくりと痛む左頬に思わず手を当てた。雨に濡れ体は冷え切っているはずなのに、その部分だけが熱を持った様だった。熱くて、熱くて…。どうしていいのかわかなかった。

 

 

 しかし、何故だろうか。痛いのだ。打たれたのは頬なのに、心臓がとても痛かった。

 

 

 必死に泣くまいと歯を噛み締めて俯いた。私の頬を打った森鴎外から何か言葉が降ってくる訳では無かった。

 

『少年、この子が悪かったね。』

『え、あ、いや…。俺は、結局何も…。』

『いや、君のお蔭でエリスちゃんが間に合った。』

 

 私に目を向けることなく森鴎外は少年と何かを話していた。私は膝を抱えた。どうやっても我慢しきれなかった涙が溢れて来るのだ。

 

『済まないね、少年。少年も早く親の所に戻ると良い。きっと心配しているよ。』

『でも…。』

『この子は、私の子では無いけれど私の友人の子でね。早くに親を亡くして、今日は私が面倒を見る筈だったのだけれど…。いや、ダメだね。少年、どうか私に親らしいことをさせてはくれないだろうか?』

 

 何を言われたのか知らないが少年の足音が離れて行くのが聞こえた。地面を睨みつけていた私の視界の端に綺麗な革靴が目に入った。視線を上げることなく俯き続ける私に森鴎外は私の肩に手を置いた。

 

「辛いのは分かるよ。でもね、あんな事をしても何の解決にもならないんだ。」

 

 諭すような声で森鴎外は私に言ってきた。何が分かる物か。私自身、目の前の男の人生を知っている訳では無い。私より何十年も長生きしているのだから色々な経験をしている事だろう。だけれど、だからと言って私の何が分かると言うのだろうか。

 

 何もわかる筈が無い。

 

「ねぇ、どうして…?」

「何がだい?」

 

 私は立ち上がった。そして空を見上げた。

 

「ねぇ、どうして?神様。中途半端な優しさなんかいらないよ。奪うなら全部持って行ってよ!私から、存在全てを奪ってよ。この魂ごと、全部、全部!持って行ってよ!私を消してよ。私を幸せにしてよ…。」

 

 光が溢れる雲の隙間に私は叫んだ。両手を強く握りしめ、空に向かって吠えた。

 

「特別なんて、要らないんだよ!醜くても良い、私をアヒルにしてよ。ねぇ、どうして?どうして、私は白鳥なの!この世界はとてもきれいだよ。でも、私にはこの世界は綺麗すぎるんだよ。純水じゃ、私には苦しくてたまらないよ。」

 

「純水の中じゃ、誰も生きられないんだよ。」

 

 呼吸に必要な酸素さえない純水の中では魚でさえ生き残れない。とっとと窒息死してしまいたいのに、亡霊(ゴースト)であるためにいつまでたってもこの世界から抜け出せない。

 

 お父さんは死を大切にしろといったけれど、死んだ私はどうやって死を大切にすればいいのだろうか。私の手から零れ落ちてしまったものを拾い直せば良いとでもいうのだろうか。

 

 いまだに降り続ける雨が私の体をすり抜けていく。もう先ほどのように寒さも、風の心地よさももうわからない。先ほどの事がまるで夢のようだった。

 

 

 辛い。辛いだけの世界だ。

 苦しい。苦しいだけの世界だ。

 

 

 酸素で溢れた世界に行きたいのに、世界で生きたいのに。異常性(塩基性)を持って生まれた私には、その世界はとても猛毒だった。私という存在の性質を変えてしまう、恐ろしい世界だった。

 

 上を向いて叫んでいた私は胸元を掴まれ、現実に引き戻された。私の目の前にいるのは気に入らないという表情をした男。

 

 目の前の男は私とは全く反対だった。性別から、生まれ持った色から何もかも反対だった。自分が悲観的で自虐的な性格をしている事は分かっている。きっと目の前の男は私の様な性格をしてはいないだろう。少なくと物事を悲観的に捉える様な思考をしてはいないと思う。

 

 そして、私のように神に縋る様な性格もしていないだろう。と言うよりは、神を信じているかどうかさえ怪しい。

 

「気に入らないね。私は君と話しているんだよ。神様なんて居るか居ないか分からない物なんかの話はしていないのだけれどね。」

 

 真っ直ぐ私を見上げている赤い瞳に私が映っている。

 

「君の目には、誰も映っていないね。」

 

 森鴎外の言っている意味が分からない。私の目には誰も映っていないとはどういう事なのだろうか。

 

「君は誰も見ていない。君が見ているのはいつも君だけだ。」

「分かるの?ついさっき、数時間前にあったばかりなのに。」

「あぁ、分かるさ。私は医者だからね。人の事は良く見ているつもりだよ。」

 

 それだけでは無いと思った。私だって人の事は良く見ているつもりだ。それ位しかやる事がなかっと言えばそうなのだけれど。それでも、村の人間の事をずっと見ていた。だからこそ、私は彼を警戒していた。彼の思考は普通の人間のそれでは無いと直ぐに分かったから。

 

「君の目に映るにはどうしたらいいのかな?」

「私の目に、あなたは移ってるよ?私は盲目じゃないもの。」

 

 そうじゃないよ。と、森鴎外は言う。彼の言いたいことはなんとなくわかっていた。それでも、私はそれに気が付かないふりをする。

 

 

 それに気付くと、私は…。

 

 

 私の頬をするりと撫でられる。

 

「何をそんなに悲しんでいるんだい?」

「私は何かを悲しんでいるの?」

「悲しいから泣いているのではないのかい?」

 

 私は自分の頬を撫でた。濡れているのは雨にあたっていたせいかもしれない。

 

亡霊(ゴースト)は泣かないわ。私、何も悲しくないもの。」

 

 ゆるゆると首を振って笑って見せた。私の顔を見て森鴎外は手を頭の上に乗せた。

 

「君は…。いや、何でもないよ。そんなことより靴はどこにやったんだい?」

「靴…?あぁ、多分落としちゃった。」

 

 後ろを振り返りながら私は下に落としてしまっただろう靴のことを思い出した。ペチャペチャと裸足で混凝土の上を歩く。手すりに手をかけて下を見下ろす。しかし、ここからでは下の様子はわからない。

 

「仕方ないね。それじゃあ、靴を買いに行こうか。服もこんなに濡らして風邪を引いてしまうよ?」

「大丈夫だよ。風邪なんて引いたことないもの。」

 

 そういうと森鴎外は少し困ったような笑みを浮かべる。でも、たしかに靴がないと牧師様に心配されてしまう。落としてしまった靴だった下にないかもしれない。

 

 ペタペタと私は自動ドアの方へ向かった。

 

「アヌンツィアータちゃん?」

「服、買ってくれるんだしょう?とびっきり可愛いのが良いです。よろしくお願いしますね、オウガイ。」

 

 女は誰でも女優だと言うけれど、それに釣られる男もどうかと思う。況してや、10歳の少女に釣られる30代の男なんて目も当てられない。

 

「あぁ、でも。赤は嫌。私は青が好きだから。」

「わかった青いお洋服だね。」

「そう言えば…。ごめんなさい、エリスお姉さん。エリスお姉さんのお洋服、濡れちゃった。」

「良いのよ、服くらい。何処かの誰かの血で濡れる位なら雨の方がマシよ。」

 

 なんて心を切り替えた。切り替えた、ということにした。私は柔らかくない絨毯の上を水を滴らせながら歩いていた。ぺったりと額に張り付いた前髪を弄りながら私は手すりの上を歩いていた。空に向かって叫んでから少しすっきりした感じがある。

 

「アヌンツィアータちゃんは神様を信じているのかい?」

 

 私は森鴎外のほうを見た。少し深めの赤い色をした真っ赤な瞳が私を見つめていた。

 

「えぇ、もちろん。」

「どうしてだい?」

「どうして…?」

「あぁ、神様がいるという証拠でもあるのかい?」

 

 証拠…。私は腕を組んで首をかしげた。そして誰にも言った事のなかった私の本心が口から出ていた。

 

「宗教って、妄想だよね。」

 

 私がそう言うと森鴎外は少し驚いた表情を浮かべた。こんな言葉を牧師様が聞いたらきっと卒倒してしまうと思う。でも、それが私の素直な感想だった。私はあの小さな礼拝堂で100人近い村人がミサの為に教会に訪れる。そこから聞こえて来る願望はまちまちだ。人によって願っている事が全く違う。

 

「宗教って一応共通の認識っていうか、聖書があるから誰もが同じ様に願っているように見えて、全然違う。家族の健康、来年の作物の豊作、誰かと結ばれたいだとか。全部自分勝手な願いばかり。結局全部その人の頭の中の世界。誰も、隣人なんか愛していない。」

 

 私はまた歩き出した。

 

「でも、そうだよね。皆が隣人を愛していたら、戦争なんて起こらないのよね。」

 

「だから、私に言えるのは私の中では神様はいるよって事かな?いてくれると嬉しいなぁ、って感じ。」

 

 曖昧な表現で私はそう告げた。実際私には本当に神様がいるかどうかなんてわからない。ただ、いてくれると私の気が楽だという事なのだ。いてくれれば、この世の全ての不条理をその神様とやらに押し付けられる。そう思っているから。

 

「オウガイは?いると思う、神様?」

「私は、信じてないかな。」

「うん、そうだね。オウガイはそんな感じ。日本人は基本的にあんまり宗教に拘っている感じしない。」

 

 辺り見回してもどうも日本人と言うのは拘らないイメージだった。興味が無いと言い換えてもいいかもしれない。彼らはそう言った事には疎いのかもしれない。

 

「と、言うより。オウガイは何かを信じるより、自分以外を信じていない感じがする。ねぇ、オウガイは私が欲しいの?いや、私が欲しいの?それとも私の力が欲しいの?」

 

 首を少し傾けて私は彼に尋ねた。彼は少し怪しげな笑みを浮かべながらこちらを見ている。

 

「どうして、そう思うんだい?」

「お父さんが言ってたわ。質問を質問で返すなって。」

「ふむ、そう言われてしまうと困ってしまうね。」

「困ってしまうの?大人なのに?」

 

 と、意地悪な言い方してみた。口元に笑みを浮かべた。

 

「あげても良いよ。私のこと。」

 

―――ただし…。

 

「私を人間にしてくれたらね。」

 

 人差し指を立てて私は笑って言った。私の発言に鴎外は首を傾げた。

 

「君を、人間に?」

「お父さんが言ってたの。恋に溺れ、現実に戸惑い、愛に狂えって。それが人間のあるべき姿だって。ねぇ、オウガイは恋愛をしたことはある?なさそうね。オウガイは恋愛下手そう。」

「言ってくれるね。私はこれでも君よりは長生きしてるんだよ。」

「長生きしていたら恋愛が上手?そんな訳ないじゃない。恋愛は、その人に溺れてもがき苦しみ、その苦しみに狂うことをいうのよ。オウガイは、本当にその人のために狂える?私には無理だと思うなぁ。」

 

 鴎外から聞こえてくる願望から鴎外の思考を読み解いていた。時間が止まったように周りの音が気にならなくなった。ただ、目の前の男から流れてくる願望にだけ耳を寄せる。

 

「オウガイは相手のためにこの命投げ出してもいいって思ったことある?」

「まるで君にはあるような言い方だね。」

「私はね、あるよ。というか、今もそう思ってる。」

「誰に対して?」

 

 森鴎外の問いに私は大きく両手を広げた。

 

「この世すべての人間に。」

 

「お父さんが言っていた。私にとっての幸福とは死しかないんだって。そして私の価値はその死に様で決まるの。だから考えたの。どんな風に死ねば、どんな風にこの世から消えれば私の生に価値があったと証明できるのだろうって。」

 

 我ながら器用だと思う。手すりの上でクルクルと回りながら、私はこの状況を楽しんでいた。

 

「それで、どんな結論に?」

「神様にお願いをするとね、私の体って傷つくの。きっと私がこの世からいなくれるのはこの方法だけなんだろうなって思ったの。だから、私は誰かの願いをかなえて消えることにした。誰かの願いが叶ってその人が笑顔になったのなら、私も嬉しいから。」

「君のそれは偽善だよ。君は君が死ぬために相手の幸福を利用しているだけだ。」

「そうね、その通りだと思う。」

 

 これは完全な善良な心の無駄遣い。心を擦り減らし、擦切らせて。

 

「君は狂っているんだね。」

「そう言う事になるね。」

 

 

 今日も誰かがどこかで悲鳴を上げている。耳を劈くような悲鳴がこの世界の何処かで上がっている。

 

 水で湿った服が別な液体で濡れていく。

 

 口から零れだす鮮血を服の袖口で拭う。

 

 左腕にまかれた包帯はその役目を果たせず、真っ赤に染まり始める。

 

 その瞬間、そのショッピングモールは地獄絵図と化した。

 

 誰もが普段手に入らないような幸福感を手に入れる。

 

 宝くじ、骨とう品、先ほどまでそこにはなかったクジ引き所。

 

 ありとあらゆるところで人が満ち足りた幸福感から狂気的な買い物に走っていた。買うつもりのなかったものを次々と籠の中に詰めて行く。

 

「君は知っているね。それが一体どんな能力を持っているのか。」

「私には特別な力なんてありはしない。持っていたのはお父さんの方。私は唯の亡霊(ゴースト)だよ。」

「そうやって目を背けていても何も解決しないよ。」

「何の事か、私には分からないわ。」

 

 誰もが神様に精神を支配されたその空間で、唯一正気を保った男が原因の少女を見上げていた。

 

 真っ白な髪は雨のせいでそのぺったりと張り付いている。綺麗な弧を描いている彼女の唇から漏れだす音が響く。着ている深い青のワンピースからは鮮血が滴り落ちる。青紫色の瞳には、しかし影は無く。そこから窺えるのは彼女がこの世界に絶望していないという事。

 

 絶望とは、欲望の隣に立っている。

 

 アヌンツィアータはこの世界に何一つ望んではいない。

 だからこそ、アヌンツィアータはこの世界に絶望などしていない。

 

 彼女は愛しているのだ。

 だからこそ、彼女は狂っている。

 

 愛とは、狂う事なのだから。




お疲れ様です。

今年ももうあと3日ですね。

一年とは早いですね。

平成もあと少しで終わってしまって…、少し寂しいと思ってしまいますね。

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