昔、人魚姫という物語を聞いた。薄暗い牧師様の部屋で父親であるハンスの部屋から持ってこられた本だ。文字の読めなかった私の牧師は私に読み聞かせた。私はあの物語を読まれた時、牧師に感想を尋ねられた。私はあの物語を『大嫌いだ』と答えた。実際、私はあの話は好きになれなかった。牧師は酷く驚いた様子だった。そしてその理由を尋ねてきた。
「何故、綺麗なお話じゃありませんか。」
「綺麗ではありません。何一つ、綺麗ではありません。」
「どこが、大嫌いなのですか?」
「だって、姫も王子もどうしようもない馬鹿です。特に人魚姫は救いようがありません。私には分かりません。絶対に叶わない願いに一体どんな意味があるのでしょう。」
私の問いに牧師様は数回瞬きをした後、笑みを浮かべた。
「そう言う物なのです、人間というのは。叶わぬ願いに思いを馳せてしまう物なのです。」
私は牧師様の言葉に首を傾げた。私の様子に牧師様は笑みを浮かべた。私はムスッとした顔をして頬杖をついた。牧師はすっかり冷めてしまった紅茶を入れなおすために立ち上がった。
納得がいかないのだ。どうして牧師様は私の様子を見て笑みを浮かべたのだろうか。私は彼の後ろ姿を見つめながら考えていた。
「分かりません、叶わぬものを願うなど傲慢ではありせんか。」
「ひどい言い様ですね。」
「違いますか?」
「貴女が恋を知れば、考えが変わるかもしれませんよ。貴女は恋慕を抱くことも、恋慕を抱かれる事も知らない少女なのですから。」
牧師の後ろ姿を見詰めながら私は溜息を付いた。それから私はポッと頭に浮かんだ問を牧師にぶつけてみた。
「牧師様は恋慕と言うのを抱いた事があるのですか?」
「それは、まぁ。私も人間ですからね。恋くらいはした事があります。」
「…、そうなのですか? 意外です。牧師様が肉欲などと言うものを抱かれる事があったなんて。」
「貴女にかかれば、願望は傲慢。恋慕の情は肉欲ですか…。いやはや、全く…。貴女は素晴らしい
私は牧師様の言葉をあまり理解できなかった。彼の意図したい意味を理解出来なかった。それはその筈だ。私は一度だって人間らしく恋慕の情を抱いた事はないのだから。抱く機会などなかったのだから。
私は恋をする前の人魚姫。
人ではない異形の少女。私の足は魚のような鰭では無いけれど、足元を見れば影はない。
「どうぞ。」
「ありがとうございます、牧師様。」
ユラユラと白く宙に舞う水の漂い。そこから沸き立つ淡い茶葉の香りに心を落ち着かせる。
赤茶色の水面に私の姿が映ることはない。鏡にだって私が映ったことはない。自身の顔の形などとっくの昔に忘れてしまった。するりと顔をなでおろすが、その感触は人の物のようだ。顔のパーツはそれぞれきちんと人と同じ数だけある。
あぁ、まるでドラキュラ伯爵のようだ。
まるで、というよりは私は自分が血を吸わないだけの吸血鬼なのではないだろうか。そんな不安が心を占めていた。
私が人魚姫という話が嫌いな理由ははっきりしているのだ。ただの同族嫌悪。
「はぁ…。」
「どうぞ。」
思わず出てしまうため息。目の前に置かれたティーカップからは湯気が立ち上がっており、それを手に取り香しい匂いに少しだけ心が落ち着いた。これから味わうであろう柔らかな甘さを想像しながら口をつけた。
「っ…!?」
目の前の牧師も自身の淹れた紅茶の味に酷く驚いているようだった。偶然ではあったけれど、あの紅茶の味のおかげで私は取るに足らない考えは吹っ飛んだ。この世に存在している時間はまだまだ短いものだが、初めてあんなに塩っ辛い紅茶を飲んだ。
★
目を覚ますと辺りは少し赤くなっていた。昼からどれ程寝ていたか分からないけれど随分と寝てしまっていたようだった。長すぎた昼寝は私の身体を酷く怠くした。そして何より、私の腿に頭を乗せている少女のせいで両腿の感覚が無い。そして最終的にエビぞりのようになって寝ていた為、腰が痛い。恐らく、ヘルニアと言う病の痛みと言うのはこんな感じなのだろうと思わざるを得なかった。
「いたたた…。」
体を起すと木漏れ日が紅く染まり、切石を彩っていた。濃淡のある明るさで模様を作る。夏だからこそ、緑と赤のコントラストはとても綺麗だった。
さて、私に残された問題はここからどうやって帰るかだ。足は痺れて動きそうにないし、身体はまるで死後硬直のようにガチガチだ。私はマリの体を揺らし、彼女を起こそうとした。しかし、その揺れさえも彼女には心地よい物となっているようだった。
諦めた様に溜息を吐き出した。四本の柱で出来ている門から吹き抜ける風がマリの少し長い髪を揺らす。赤く澄み切った空に手を伸ばす。あの空にいつか迎え入れられるのだろうか。伸ばす手が虚空を掴むだけ。それに今は梯子が掛かってはいない。
蜘蛛の糸も垂らされなければ、掴む事さえ出来やしないと言うのに。
何も掴めなかった手はそのままマリの頭の上に乗った。その衝撃でマリは少しだけ体を揺らす。「んん…。」という可愛らしい声を零して眩しいがる猫のように蹲る。この可愛らしい少女は、未だに目を覚ましたくないようだ。そんなに夢の中に何かあると言うのだろうか。
夢でも現実でもあの空には何も持って行けないと言うのに。
そこまで考えると、少し頬が冷たいと感じた。一筋、頬をなぞりそのせいで渇きに餓える。
「あぁ…。どうして。どう、して…。」
必要な水分を全て失っているような感覚だ。呼吸は困難を極め、吐き出す事も吸い込む事も辞めてしまった。マリの頭が
力を特に入れる訳でもなく、立ちあがることの出来た私の足。それもそうだろう。私は
そんなものに惑わされる訳にはいかない。私は
誰かを探さなければならない。彼女をこのままこの場所に置いて置く事など出来やしない。私を見ることの出来る人間を探しだし、彼女のもとへ案内しなくては。この街の土地勘の無い私では、マリを家に送って行ってはあげられない。
何より私はこの国の人間では無い。この国の人間であったとしても責任を持って私は彼女を育てる事は出来ない。一緒に居てあげる事は出来ない。私と彼女は別物だ。私は決して人間では無い。同じ種類では無い、私達は決して共にいられない。
「はやく、見つけないと。」
早く誰かを見つけなければならない。そんな焦りが心の中に浮かび上がった。しかし、住宅街は閑散としていて車一台通りはしない。私はどうすればよいのか、と考えた。私を見ることの出来る人間は少ない。そしてその見ることの出来る人間を見分ける方法など私には見当もつかない。
村の中で私を見て、会話できるのは牧師様だけ。
「牧師様、だけ…?」
会話が出来るのは牧師様だけ。つまりは私が発した音を聞くことの出来る人間。視界での確認は死角などもあって今の状況には最適では無い。
悲劇的な現場に人だかりが出来るのは、不謹慎にも人間の好奇心があるからだ。何か分からない物への興味。そして何より、原因の究明と自身の生命の安全を確保されているかの確認。それが無ければ、その場所にとどまろうとは思わない。
私は息を命一杯吸い込んだ。そして今まで一度も出した事のない様な大きな声で叫んだのだ。悲劇的に、女性的に。色々な方向に叫び散らした。肩で大きく上下させ、視界が少し狭まったように感じる。酸欠と言う症状に似ている気がする。ふらりとよろめき地面に膝を付く。
「大丈夫? アヌンツィアータちゃん。」
皮のブーツが視界の端に現れた。茶色のそれは昨日、同じ物を見た。そして何より、私の名前を知っている。昨日初めて聞いた声。ゆっくりと顔を上げ、私はその男の顔を見た。
「顔色が良くないね。酸欠かな? あんなに叫んでいたらそりゃ酸欠にでもなるよ。一体どうしたんだい?行き成りいなくなったって聞いたよ。グルントヴィ牧師が診療所に電話をしてきた時は驚いたよ。」
告げられた言葉に渡しは心を大きく乱した。そして迷惑をかけると言う何一つ言い訳の余地のない失態だ。
「それは、申し訳ないと思っているの。来て、オウガイ。私だけではどうしようもないの。」
弱弱しく森鴎外の服を掴み、彼の服を引っ張った。私の様子に首を傾げた森鴎外は私に引っ張られるままついてきた。
「一体どうしたと言うのだい?」
「女の子がね、私を連れだしたの。」
「お、女の子…。それは一体どれくらいの年のっ、痛い。痛いよ、アヌンツィアータちゃん!」
森鴎外と言う男は、こう言う男だ。思わず手が出てしまった。と言うよりは足が出てしまった。ゲシゲシと森鴎外の足を蹴りつけたのだ。
「それにしても、アヌンツィアータちゃんも可愛らしい所があるじゃないか。嫉妬してくれるなんて、私は嬉しいよ。」
「嫉妬なんてしてない。嫉妬は七つの大罪よ。私はそんな物は持たない。」
そう言うと森鴎外は肩を竦め、また歩き出した。
「持つさ。君の言い分を鑑みたとしても、君は人間だった。その名残が残っているものだよ。」
森鴎外の言葉が私に突き刺さった。名残が残っている。では、それをどうやったら削ぎ落とせるだろうか。どうしたら、人を止め、人を完璧に辞める事が出来るのだろうか。未だ人間としての名残が残っているから、私は上に行けないのであろう。
「この先に女の子がいるの。私では女の子を家に帰してあげられない。貴方に預けるのはとて…、とても不安なのだけれど。」
「うん、言い直せてないね。そんなに信用無い?」
「女の子と言う単語に反応した男に信用も何もあったものじゃないわ。」
腕を組んでムスッとした顔で自分を見詰める少女。どうして彼女がそんな表情を浮かべているのか。色々な想像をする事が出来るが、男はその中で一番自分に都合の悪い物と良い物を想像した。
そのどちらもいずれ彼女の中に生まれる主義に反するものだろう。それに苦悩している少女の姿を想像する。人は決して人以外になれはしない。ましてや、物語に登場する聖人様のようになれる訳が無い。
「ここに女の子がいるの。」
―――殺したい。
―――死にたくない。
相反した二つの願いが私の中に流れ込んできた。そして門の向こうで行われている真実に思わず一歩後ろに下がった。
真っ赤な鮮血で穢れていく少女の体。階段の溝を辿り、重力に従う血はその場所を汚す。音一つしない市街地で、不祥がその地を染め上げる。私は思わずもう一歩下がってしまった。
『――、―――――――。』
森鴎外はそう声をかけた。大きな血だまりは小さく波打つ。黒い髪の女性だった。マリと同じ黒い髪に赤い瞳を持った女性だった。女性の手には銃が握られていた。銃口には黒い筒のようなものがついている。恐らくサプレッサーというものだろう。だとして、どうして日本に住んでいる彼女がそんなものを持っているのだろうか。
日本では外国と違い、一般人の重火器所持は禁じられているはずだ。だから彼女は一般人ではない。濃紺色のスーツを着た女性は、こちらにも銃を向けてきた。森鴎外とその女性は何かを話しているが、これならばもう少し独学で日本語を学んでおくべきだった。
私が一歩前に出た。
しかし、女性に反応はない。
恐る恐るもう一歩前に出た。
しかし、女性に反応はない。
私はマリのほうへ駆け出した。女性が私を見えていない可能性にかけるしかなかった。女性から目を花さいないように横を通り抜ける。女性のスーツには今まで見たことがないバッジがあった。三枚の花弁が上下左右に飾られた綺麗なバッジだった。
「マリ!」
名前を叫んでもやはり女性は反応を示さなかった。自身の服が血に濡れる事など何一つ気にしている余裕はなかった。銃で撃たれた人間を見るのは二度目だ。傷口から空気が入るのを防がなければならない。虚ろな目が宙を見つめる。
私のせいなのだろうか。
―――今日が、夢だったならよかったのに。
聞こえてきた願いに、私は胸を押さえた。違う、違う。抑えるべきは私の胸ではない。押さえるべきは彼女の傷口だ。
グチュリという生々しい音とともに傷口を押さえ込む。横っ腹から溢れ出す血液は小娘一人に力では到底押さえる事などかなわない。鉄の匂いが辺りに充満する。
「いや、いやよ。」
フェージャの時とは違う。どうしてこんなに悲しいのだろうか。どうしてこんなに苦しいのだろうか。瞳からあふれ出した涙が止まらない。父親の時の死はあれほど乾いたもののように見えたのに。ひどく冷めたものに見えたのに。
「お願い、死なないで。」
どうして死なないでなんて願いが出てきたのだろうか。私は先ほど口に出していたではないか。
死ぬ事は幸福だと。ならば、目の前の少女がこのまま死んでいくことは幸福なことではないのだろうか。わからない。どうしてこんなに迷ってしまうのか、分からない。
「普通に生きてみたい。」
誰かが、そう言った。私の後ろで、誰かがそうつぶやいた。でも、そうだ。マリと最初に会った時、そう願っていた。
私には普通はわからない。わからないけれど、そう願うのならば…。それで貴女が救われるというならば。
「貴女の願いを
誰かがそう宣言した。
お疲れさまでした。
この前の件がいまだに心中に引っかかっている兎一号です。
思えば、第二章は波乱な章でした。あらすじを二、三度書き換えました。
第三章は残念ながら、オリキャラ主体で原作キャラはあまり出てきません。
仕方ないね、住んでるの外国だから。ヨコハマじゃないもん。