私を助けてくれた青年の名は、アントニオと言うらしい。いや、本人から聞いたのだから『らしい』と言うのは失礼か。
彼は村の近くに住む猟師の息子。そんな息子であるアントニオも将来猟師になるための訓練の一環として猟銃を背負い、森の中を時折歩いているという。そんな彼ら猟師でもあの池の存在を知らなかったのだから、私があの池の存在を知っているはずもなかった。
「今日も早いな。」
金色の髪に、碧色の瞳。ごく一般的な容姿をした青年だった。年は今年で17歳。私とは10歳以上の差がある。そんな彼は私を妹のように可愛がった。と、彼の行動を言葉にしてみたが、私は妹と接している兄の姿を見た事が無いし、私自身に兄がいる訳では無いから。だから、彼が私に向けている感情は私の想像上の産物でしかない。
そんな彼と私はあの日以来ずっとこの池で会っていた。会わなければいけない理由があったわけではない。ただ、私たちはその池で会い、話をし続けた。もし、これに名前を付けるのならば、密会となるのだろう。その言葉は何とも心躍る。彼は快活な性格から色々なこと話してくれた。学校でのこと、家の事。将来、猟師ではなく、動物の医者になりたいということ。
本当にたくさんのことを、私は聞いた。私はまず、私のことを話すことはなかった。私は彼に自分を話せるだけの思いはなかったから。それだけの思い出は残っていない。それに男に男の話をしてもきっと楽しくない。
「やる事、ないし。」
投げやりな私の言葉にアントニオは意外そうな表情を浮かべている。池のほとりに生えている木の隣に腰を掛けていた私はアントニオを見上げると、彼は微笑んで私を見下ろしている。今日、アントニオは猟銃を背負っていない。そして彼は右手を後ろに隠している。私は首を傾げた。
「なぁ、今日がどんな日か知ってるか?」
「今日は、何か特別な日なの?」
「つまり、知らないってことだな。」
アントニオの言葉に私は縦に首を振った。
「それで、今日はどんな特別な日なの?」
今日は特別だとは思えなかった。確かに今日は暖かい。昨日の寒さが嘘のように今日は暖かい。いつもは静かな森の中も今日はあちらこちらでドサッと、枝に積もった雪が落ちる音が聞こえてくる。
「今日は
「くりすます?それの何が特別なの?」
「今日は神の子が生まれた日だ。それを皆でお祝いするんだ。」
私はふうんと興味なさげな声で返事をした。その神の子という人はきっととても高潔な人だったのだろう。だってたくさんの人に誕生を祝ってもらえるのだ。それは、愛されている証拠で、幸福である証拠だ。
「
「それは、そのサンタクロースっていう老人はたいそうなお金持ちなのね。この村の子供だけでも10人以上いるのに。」
サンタクロースという老人が何を持ってくるのかは知らないが、それでもここに来るまでの交通費だけで一週間は生きられそうだ。そんな贅沢ができるほど、そのサンタクロースとかいう老人は稼いでいるのだろうか。それとも、サンタクロースは一年に一度の
「おい、何を考えているかわからないが、あまり夢のないことを考えるべきじゃないぞ。」
「本当に私の考えていること、分かってないの?」
「人間っていうのは、経験則から大体の事は想像がつくんだよ。」
と、いうことは世の中の人間は一度でもこのサンタクロースという老人について考察したことがあるということなのだろうか。
「それで、今日がその
私がそうたずねれると、アントニオは言い辛そうに視線を彷徨わせながら言葉を探している風だった。
「いや、ほら。俺もサンタクロースの真似事をしてみたくなっただけだ。」
「村中の子供たちに
「そうじゃなくて。ほら、お前今までサンタクロース来た事ねぇよね。」
「まぁ、その存在を今しがた知ったから。来ていたとしても何もしないで帰って行ったと思う。」
「よし、取り敢えず目を瞑れ。」
「なんで?」
突然の言葉に私は首をかしげて尋ねた。そんな私の問いなど聞く耳を持たないといった様子でアントニオは『いいから。』と言って私を急かした。私は彼の言う通り目を瞑った。頭に少し重みを感じ、目を開こうとしたが彼の手によって覆われてしまった。その手はとても大きく、ごつごつと固い手だった。
「出来た。」
そう言った彼は手を放した。頭を触ると、そこには髪以外の何かがあった。ペタペタ触り続けるが、それが何なのか私にはわからなかった。ただ、頭に布があるのが分かった。
「お前の髪は真っ白だから青がよく映える。赤もいいと思ったけど、やっぱりこっちだな。お前には血の色より空の色がよく似合う。」
私にはアントニオの言っていることがわからなかった。私を見て、彼は視線を落とした。眉を寄せ地面をにらみつけていた。私は彼の表情の意味が分からなかった。
「どうしたの?」
私の口から出たのは単純な疑問だった。私は今、アントニオが考えていることを知りたいと思った。知らなければならないと思った。
―――一つ、『拒絶』では無く、『理解』してやれ。人はいつでも理解者を欲する獣だ。
―――『拒絶』をファッションのように着飾る人間にはなるな。
―――人はいつでも話を聞いてほしい。自分を見て欲しい。そう言った欲望の塊だ。
―――だから、理解してやれ。理解出来るまで聞いてやれ。それだけで、救える奴は救える。
あの男は私にそう言った。自分も理解者が欲しかった、と私にそう告げた。だが、理解者というのは本当にいるのだろうか。だって、私は私のことさえ分からないのに、私は誰かを理解することなど出来るようになるのだろうか。
「あぁ、いや。お前ともっと早く出会いたかったって…、思っただけだ。」
「もっと、早く?」
彼が悩んでいるのは時間の問題なのだろうか。
「いや、何でもない。言っても仕方がないことだ。そうだ、お前あの爺さんとはどんな関係なんだ?家族、ではないんだろ?」
「この森で遊んでてたまたまあのおじいさんの家を見つけたの。それから、一緒に食事をする仲になった。別に仲良しってわけじゃないし。あぁ、でも、私あのおじいさんのこと好きだよ。意外に優しいの。今日はクライナーとブロンケーアいうものを作ってくれるんだって。手伝うって言ったんだけど…。ほら、この前のおじいさんの料理しているところ見たでしょう?あの年でケガをすると大変だから、って言ったら、首根っこつかんで私を追い出したのよ。」
信じられる?と言うとアントニオは苦笑いを浮かべて頬を掻いた。
「それで、やることないし、だったんだな。」
アントニオは今日、彼女のテンションが異常に低い理由がわかったと、苦笑いを浮かべた。
「それにしても、クライナーにブロンケーアか。爺さんの料理、見かけによらず料理美味かったな。」
「そうだね、やっぱり一人で生きてきたって言うのが大きいんだと思う。」
「あの人、奥さんとかいないのか?」
言われてから気が付いた。ただ、口から出た何気ない言葉だった。何も知らないはずのあの老人の生きてきた道をどうこう言うのは良くなかったかもしれない。
「知らない。ただ、そう思っただけ。だって、おじいさん。優しいけど口が悪いんだもの。それに滅多にあの家から出てないみたいだから、そう言った出会いもなさそうだし。指輪してないし。」
そうだな、とアントニオは私の言葉に頷いた。私は老人の奥さんがいたとしたらどんな人だろうと考えていた。彼の奥さんはきっととても温厚な、心の広い人でなければ務まらないだろう。それでいて、あのおじいさんの暴走を諫められる度量のある人じゃないとあの人とは付き合えないと思う。
「それにしても、お前はあの人に好かれてるんだな。」
アントニオの言葉に私はそうだろうかと首を傾げた。あまり人と関わった事が無いからだろうか。他人に好かれるというのが良く分からない。
「そう見える?」
「あぁ、だってあの気難しそうなあの人が一か月近く一緒に誰かと過ごしてるんだろ?」
「ご飯の時だけだよ。それ以外は仕事しているからお話しないし。」
「あの人って何の仕事してるんだ?」
「うーん、なんだろう。何時も何か書いている。物書き、なのかな?」
私は老人の仕事について考え始めた。いつも机に向かってペンを取っている。そのペンはとても高そうなペンで、紙もとても高級そうだった。いつもいつも何かを書き続けているあの老人の頭の中は一体何で出来ているのだろうか。
「ねぇ、話が戻るんだけど。」
「なんだ?」
「クライナーとブロンケーアって何?」
「焼き菓子だよ。クライナーって言うのが
「甘いの?」
「あぁ、甘くて美味しい。」
甘くて、美味しい。甘いとは、贅沢な物が大抵甘いものだ。あの老人は甘い物を作れるという事はそれ程砂糖を買うお金があって、それはつまりあんな所に住んでいても沢山お金を持っているという証拠。それとも、サンタクロースと同じで徹底的に節制生活を送っているのだろうか。
―――はっ!?
「あのおじいさんが、サンタクロース…?」
「いや、何でそうなった?」
アントニオの反応からどうやら私の推察は間違っていたようだ。良い線だと思ったのだけれど。
「違うのか…。もし、おじいさんがサンタクロースだったら素敵だったのに。」
「あの爺さんに、素敵さを求めるのはどうかと思うぞ?まぁ、良いけどさ。さて、今日はもう帰ろうか。」
「もう帰るの?」
立ちあがったアントニオに私は尋ねた。
「
「捌く…。」
「あ、えっと…。だってそのままだと食えないだろ。」
私が小さな声で彼の言った事を復唱すると、それを聞いたアントニオは焦った様に私の言葉を食いついて来た。
「知ってるし、分かってる。そんな事、言われなくても。ただ…。」
「ただ…?」
「アントニオは辛くないの?」
「辛い?どうして?」
立ちあがったまま私を見下ろして、彼は私の質問の意味が分からないと言った表情をしていた。私の方こそ、彼がどうして?と尋ねて来る意味が分からなかった。
「だって、アントニオは動物の医者になりたいんでしょ?動物を生かす仕事がしたいのに、動物をこれから殺さなきゃいけないんでしょう?それって辛くないの?」
「それは…。」
アントニオは口をパクパクとした後、顔を俯かせた。しかし、私からは彼の表情が良く見えた。辛く苦しそうな表情を浮かべるアントニオ。なんて答えていいのか分からない。困った顔をしていた。
きっと、私のせいなのだろう。私が、余計な事言ったのだ。
それでも、私は頭が良くないから。聞かなければ理解できない。聞いても一度では理解できない。だから、理解出来るまで聞かなくてはならない。
「どんなに嫌な事でも、やらなきゃいけない時があるんだ。それが、社会で生きるって事だから。」
社会で生きる、という事。私にはあまり理解できない事柄だった。私と言う社会から爪弾きされた人間には、そんな簡単な事さえ、理解するのは難しいという事なのだろう。
でも、私にはただ言い訳にしか聞こえなかった。ただの都合の良い道理を用いただけにしか聞こえなかった。それは、理解したということになるのだろうか。それは、理解者という事なのだろうか。
まず、理解者と言う物を理解していない私には無理な話しだった。
私は、取り敢えず彼の答えに満足することにした。私が立ちあがるとアントニオは顔を上げた。
「私も帰るわ。おじいさんの手伝いをしなくてわね。嫌な事では無いけれど、手伝いはやった方が良い事だものね。」
私が笑みを浮かべながら言うと彼は一層苦しそうな顔をした。
「アントニオ。」
「何だ?」
「
「あぁ、それは…。良かったよ。」
私は手を振りながら、アントニオから離れて行く。後ろ向きに歩き、最後まで彼を見ている。彼は最後まで手を振ってくれた。彼の律儀な所を私はすごく好ましく思っている。
私は雪に足を取らせそうになりながら、老人の家に向かった。家が近づけば近づくほど美味しそうな匂いが漂う。老人の家のドアを勢いよく開けるとそこには似合わないエプロンを付けた老人がいた。
「静かにしろ。」
「見て見て、アントニオがくれたの。」
私はそう言って老人の元へ駆け寄った。オーブンの隣で本を読んでいた老人は本を閉じて私を見た。
「頭のこれなんて言うの?」
私がそう尋ねると老人は私の頭の上に手を置いた。そして少し乱暴に私の頭を触った。
「これは…、アリスバンドだな。」
「アリスバンド?」
「不思議な国のアリスと言う物語を知っているか?」
老人の言葉に私は大きく頷いた。何時だったか、あの男が読み聞かせてくれたのを覚えている。
「その主人公が髪を纏めるのにしている布の事をそう呼ぶ。」
「それじゃあ、私は今アリス?」
「そうだな。」
「それじゃあ、それじゃあ。私、兎を探してくる。そうしたら、木の根元に大きな穴が開いてるんでしょう!」
「兎を探すのは勝手だが、兎は大抵巣穴から出て来んぞ。探すなら冬でなく、春になってからにするんだな。」
老人の言葉には私はがっくりと肩を落とした。
「それで、今日は帰って来るのが矢鱈とはやいが、何かあったか?」
「あのね、おじいさんのお手伝いをしようと思ったの。アントニオもお手伝いするって言ってたから。」
「いらん、そこらの本でも読んで大人しくしておけ。」
「私、文字読めないもん。」
「なら、教えてやる。」
そう言って老人は適当な本を手に取った。それを机の上に置き、指でなぞりながらその本を読んでくれた。
その声は少し掠れていて、その声は少し小さかった。
でも、この時間は、とても幸福だと思った。
お疲れ様です。兎一号です。
調べていて知ったのは、カチューシャとは日本語で
ヘアバンドとか、アリスバンドとかと言うんですね。
この作品では、可愛さからアリスバンドと言う事にしました。