人生の価値とは、所詮その程度の物。   作:兎一号

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4月27日 誤字訂正


第六話 生きていない事と死んでいる事の違い

 4月1日。父親、と呼んでいいのか分からないが、老人が死んだ。穏やかな寝顔でベッドの上から動かない彼を見て、私は

 

 

―――あぁ、これが死か。

 

 

 なんて他人行儀な事を考えていた。いや他人行儀なのだ。私はつい昨日、透明人間から完全な亡霊(ゴースト)となったのだ。怪物と言う生命体から、亡霊(ゴースト)と言う非生命体へとなってしまったのだから。最早、死んでしまった私には、死と言う物とは無縁となったのだ。

 

 老人の肌を触ってもその感触は人間の物で、本当に死んでいるのか私には判断が付けられなかった。ただ、やはり温かみと言う物を感じないのは、死んでいるという事なのだろうか。

 

 しかし、私は亡霊(ゴースト)だ。教会に入っても大丈夫なのだろうか。浄化されたりとかしないだろうか。そんな事を考えて教会の窓越しから中を覗いていると牧師と目が合ってしまった。急いで身を屈み隠れたが見つかった後で隠れても何の意味も無かった。

 

「何をしているのですか?」

「え、あっと…。おじいさんの事で、ちょっと。」

「おじいさんと言うのは村外れに住んでいる彼の事ですか?」

 

 私はこの牧師が老人の事を知っている事に少し驚いた。彼は周りの人間とは関わって生きていないと思っていたから。

 

「その老人の事、何だけど…。」

「何かあったのですか?」

「多分、死んだ。」

 

 曖昧な言葉だったが、それはとても冷たい言葉だった。その冷たささえ、私は感じる事が出来なかった。

 

 私の言葉に牧師は目を伏せた。そして数人の修道女(シスター)を連れて彼の家に向かって行ってしまった。一人教会の横に取り残された私は、彼らの後ろ姿をじっと見る事しかしなかった。何か出来るわけでもない私は教会のレンガを背に腰を下ろした。

 

 寒さが分からなくなったというのは少し便利だと私は思った。こう言う時、何処にいても何も感じることなく自由に居られるから。だけれど、自由とはありすぎると今度は困ってしまう物だ。暇を持て余すと言うのは何とも贅沢な事だろう。

 

 私は首から下がっているロザリオを弄り、空に掲げてみた。牧師、と言うのはプロテスタントの教職者の事だ。プロテスタントはロザリオを持たない。彼らはこう言った物を嫌うのだ。こう言ったものに違和感を感じるのだそうだ。

 

 だからこそ、彼らの城ともいえるこの教会にこれを持って立ち入るのは少し気が引けてしまう。

 

 数人の修道女(シスター)が慌ただしく、教会の中に入って行った。その後ろについて来た牧師は教会の横に座り込んでいる私を見てとても驚いた様子だった。

 

「何をしているのですか?こんな所で。冷えますよ。」

「私には、寒いなんてもう分らないですよ。」

 

 私の言葉に牧師は苦笑いを浮かべた。そして困った様に頭を掻いた。

 

「見ている私が寒いのですよ。春になったとはいえ、まだ雪が降る。それなのに、貴方はそんな薄手のワンピースで。しかも半袖。早くおいで。」

 

 牧師は私に手を伸ばした。私はその手を取ることは出来なかった。私は他人の手を取ると言う行為がとても罪深い事に思えて仕方がなかった。一度伸ばした手を私は引っ込めた。私は彼の手を借りずに立ちあがった。差し出した手を戻した牧師に多少申し訳なく思ったが、これでいいと思った。

 

「中で温かいミルクでも飲みましょう。アヌンツィアータ。」

「牧師様は、私の名前を知っているのですね。」

「えぇ、知っていますよ。これでも、貴方のお父様とは仲は良かったんですよ。」

「おじいさんと?」

「せめてお父さんと呼んであげて下さい。その方が彼も報われるでしょう。」

 

 教会の中に恐る恐る入った。特に私の身体には問題は何一つ起こらなかった。手などを見ても何も変わっていないように見えた。

 

「おじ…、お父さんは、どんな人だったの?」

「彼は、そうですね。気難しい人だった。でも、彼は誰よりも愛情深い人間でしたよ。」

 

 愛情深い。私に愛情と言う物が理解できていれば牧師の言っている事が理解できたのだろうか。私が少し首を傾げて牧師を見上げていると、牧師は少し困ったような笑みを浮かべ私の頭に手を置いた。

 

「そして何より、彼は何も信用していなかった。」

「何も?」

「えぇ、自分も、神も、何も信用していなかった。信用していないからこそ、彼は誰よりも愛情深かった。」

 

 信用していないから愛情が深くなるのだろうか。

 

「貴女は貴女らしく生きればいいんです。」

 

 私らしく生きればいい。最早、人間では無い私にその言葉はとても胸が痛かった。しかし、それは仕方のない事。この牧師は私とお父さんの会話を知らないのだから。知らないのに察しろと言うのは何とも自分勝手な話だ。

 

 彼の自室に案内された私は、何とも言えない不気味さを感じていた。教会の地下にあるという事も関係しているのだろうが少し湿気っぽいこの部屋は、蝋燭の光がチラチラと揺れ動いている。何より、暗いのだ。

 

 薄暗いと言うのはこれほどまでに人の心情を揺さぶる物だろうか。

 

 部屋の隅にある本棚には理路整然と沢山の本が並べられている。その本はどれも難しそうな本ばかりだ。最近、老人に文字の読み方を習っていたとはいえ、まだまだ幼児レベルの知識しかない私には難しい事だった。

 

「貴方はこれからどうするのですか、アヌンツィアータ。」

「どうするも、何もありませんよ。牧師様。私は唯、この世に生きる人の為に祈るだけです。」

 

 小さな礼拝堂のある村の中で一番大きな建物である教会の中で、私は父の冥福を祈った。何をしてくれたなんて記憶は殆どないけれど、それでも私と一緒に居てくれる彼に私は依存していたのだろう。

 

 一人の修道女(シスター)が牧師の部屋の中に入ってきた。本棚を見上げていた私の事など気付く様子も無く牧師の元へ向かう修道女(シスター)を私は横目で見ていた。

 

「彼の遺品は私が預かります。」

 

 修道女(シスター)にそう言っているのが聞こえた。牧師様が管理してくれるのなら何一つ心配はいらないだろう。お父さんの家には沢山の書類があったけれど、それを全部管理すると言うのは大変な事だ。いや、不要だと思う物は捨ててしまうのだろうか。それは少しだけ、寂しいと思った。あの家から紙の臭いがいつか消えてしまう時が来るのか、と思うと寂しさが募る。

 

 私の中にいるお父さんは、あの老人の姿をした人と、顔も覚えていない中年の男性だった。

 

 こう言うのは少し恥ずかしいが、私はお父さんの事をとても気に入っていた。誰かと食事をした記憶なんてないし、誰かと一緒に話をした記憶もほとんどない。そんな中で彼は私と言う存在と一緒に居てくれた。

 

 お母さんの事は何一つ、覚えていないのは何故なのだろうか。これはきっと、私は彼に造られた存在だからだろうか。元々、母親なんて存在はなかったのかもしれない。

 

 あぁ、そうか。私は望んでしまったんだ。お父さんとこれからずっと一緒に居たいという幸福を望んでしまったから神様は怒ってお父さんを死なせたんだ。

 

 私は壁に掲げられた大きな十字架を見詰めた。そこに掲げられているのは我らが父の子、イエス・キリスト。

 私もいずれは彼の様に十字架に縛られ刺殺されてしまうのだろうか。

 誰かに裏切られ、こうして他人の幸せの為に死んでしまうのだろうか。

 

 それとも、フランスの聖女のように神の声を聞き、戦いへと赴き祖国を勝利へと導くのだろうか。

 最後は仕える主に裏切られ、十字架に掲げられてしまうと言うのだろうか。

 

 こう考えてみると、なんと報われない事か。

 

 他人の為に生きると言うのは何と虚しい事か。

 

 それでも他人の為に死ぬという事は何と完美な事か。

 

 それでも構わないと、そう言って生きて死んだ彼らは本当に崇められるべき人格者なのだろう。

 

 彼らの死に様の価値は、高く評価されているのだろう。

 

 私が人間だという認識が抜けきらない為か、その事を少し怖いと感じてしまう。こんな事ではダメだ。

 

 どんな苦痛も耐えて私はこの世の人間の為に生きるのだから。私の行動はきっと誰かの幸福につながる。

 

 そう信じて私は初めて十字架の前で手を合わせた。私は、私の記憶に残っている父の言葉を思い出した。今年の冬の事以外、何もかもがあやふやな私の中でその言葉だけが確かに生き残っていた。

 

 

 老人は、私の父は言った。

 

 

 一つ、人は決して利他的にはなれない。利他的である者こそ、仮面を被っている。

 

「人が生物である以上、人は遺伝子を後世に残す為に生きている。」

 

 一つ、人の中で独りで生きるよりは、独りで一人で生きる方が気が楽だ。

 

「孤独とは、毒の一種のようなのだ。慣れれば、感覚が麻痺する。ただ、中毒性もある。故に一番恐ろしいのは毒が切れた時の禁断症状だ。」

 

 一つ、『拒絶』では無く、『理解』してやれ。人はいつでも理解者を欲する獣だ。

 

「私がそうだ。人はいつでも話を聞いてほしい。自分を見て欲しい。そう言った欲望の塊だ。だから、理解してやれ。理解出来るまで聞いてやれ。」

 

 一つ、生きる事自体に意味はないし、価値も無い。

 

「人は生まれてきた事に意味を見出し、人はその死に様に価値を求めればいい。生きる事はその間の過程に過ぎない。」

 

 一つ、お前にとっての幸福は死以外にありえない。

 

「死とはすべての柵からの解放を意味する。自らの体を押さえつける重力を失いし、自らの魂を閉じ込める体を失う。しかし、忘れるな。死とは、一度しかない。一度しかないから、恐ろしく尊いのだ。」

 

 一つ、亡霊(ゴースト)のように振舞え。

 

「人としての希望を持つな。お前は亡霊(ゴースト)だ。ただそこに存在するだけの物として、人を見るだけの存在としてそこにいると良い。」

 

 一つ、恋に溺れ、現実に苦悩し、愛に狂え。それが人のあるべき姿だ。

 

「その恋に溺れるが、しかし現実が足踏みをさせるだろう。その現実に苦しみ悩むが、しかし愛が見える景色を自分好みに歪ませるだろう。その愛は人を狂わせるが、しかし恋が人を現実に引き戻すだろう。」

 

 

 最後の言葉なんて、私にはもう必要のない言葉だ。

 

 それでも、そうしていれば私は少しか人間になれるだろうか?

 

 もし、私が彼のいう言葉を実行したならば私は本当に『みにくいアヒルの子』となる事だろう。

 

 亡霊(白鳥)であるのに、人間(アヒル)になろうとする滑稽な何かになり果てるのだろう。

 

 私の父がそう望むのなら私はあなたの言葉通りに存在し続けましょう。

 

 孤独な亡霊(ゴースト)は見える人間の理解者となり、人のように振舞いましょう。それが他人の幸福となるのなら。

 

 

「アヌンツィアータ。」

 

 思考の渦から私を引き戻したのは、最早この村の中で唯一私を見る事が出来る牧師の声だった。

 

「アヌンツィアータ。これからは私の付き人をしてみませんか?」

「付き人、ですか?」

「はい、そうです。貴女はこれから多くの人間の為に祈りを捧げると言いました。祈りを捧げるにもまずは作法などを学ばなけれなりません。」

 

 燭台を背に牧師は私にそう言葉をかけた。牧師の声は何処か厳しく『この道を歩みたくば、異論は認めない』と言っているようにも聞こえてきた。私は牧師の前に膝を付いた。

 

「宜しくお願いします。」

 

 牧師の前で手を合わせ、私は彼の提案を受け入れた。俯いている私には牧師がどんな表情で私を見下ろしていたかなどわかる筈も無かった。

 

 こうして愚かな一人の少女の人生は終わり、亡霊(ゴースト)の霊生(?)は始まった。

 

 自分が存在する事に何ら価値の無いと思っていた少女は、こう言った。

 

 

―――私の人生の価値など、所詮はこんな物。

 

―――私の人生は何一つ、価値のある物では無かった。

 

 と。

 




お疲れさまでした。

次で第一章は終わりです。
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