機動戦士ガンダム虹の軌跡   作:シルヴァ・バレト

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今回はリナ視点になります。

前回から数日後の話。

大切な人のために向き合う覚悟というのは大事なのかもしれない。


54:向き合う覚悟

 再び会った時、彼は壊れかけていた。

 

 自分を犠牲にして、皆を救った。自分の痛みを、悲しみを殺して。

 

 だから、包んだ。だから泣いた。

 

「もう、いいんだよ。殺さなくていいんだよ。家族のために、全てを背負う必要も」

 

 血に濡れた彼の頬に、一滴の雫が零れ、全てを抑えてきた壁が崩れ去る。

 

 彼は何度も言った。俺に出来る事をした、と。

 

()()()()()】のように何度も。

 

 彼の目は、この戦いで何もかもに汚された。どこか一点を見つめる彼は、全てを拒絶しているように見えて―――

 

 心が壊れそうだった。私は何もしてあげられなかった。一番つらい時に、苦しい時に側にいてあげられなかった。

 

 彼が世界と向き合おうと思えたのもここ最近。軍法会議でも、同伴者がいなければまともに話せないくらいにひどく衰弱していた。

 

 精神鑑定だとか言っても、まともに治療さえしてくれず、あげくに目すら合わせてくれなかった。

 

 道夜さんやユーリちゃん達がいてくれなかったら、彼の精神は崩壊していたに違いない。

 

 あの事件以来、彼はそれとなくアウロラに触れるのを拒んでいる。

 

 嫌いなわけじゃないと思う。きっと、あの子を抱く資格がないと思っている。

 

 そんな事ないのに。あなたの娘なのに。

 

 こんな無力な自分が嫌い。……きっと、彼も同じ気持ちだったのかもしれない。

 

 

 

 アウロラにミルクをあげて、ルナちゃんの朝食を作って、ムゲンに置手紙を書いて、今日もまた行ってきますと小さく言って出かける。

 

 手紙には、ムゲンが起きてからのすることや、やってほしい事なんかを一通り書いてある。

 

 今日は洗濯物を洗って、干してもらうことと、アウロラとルナちゃんにご飯をあげること。

 

 いつもと変わらない事を頼んでる。それでいい。

 

 やっと彼は、少しずつでも前へ進もうと頑張り始めたから。

 

 

 

 基地につけば、今日もいつものように仕事が待っている。

 

 整備士の朝は早い。今朝も5時起きだ。……まだ少しだけ眠いかな。

 

 トリントン基地にいる時は、基本的に色んな機体の整備をする。

 

 私やトクナガさんが異例なだけだと思うけど、少しでも事故で亡くなる人を少なくしたいから。

 

 絶対に……死なせたくないから。

 

 父が亡くなった理由で、人が死んでいくなんて考えたくない。

 

 だから、整備は入念に行う。機体のどんな部分でも見逃さずチェックし、気になるところがあればMSのパイロット自身に聞きに行く。

 

 そうして最後にトクナガさんにチェックしてもらい、整備は完了する。

 

 これを一日に30機以上、多ければ45機は整備する。

 

 イレギュラーで、損害の大きい機体が来たとしても、25機は整備しているだろう。

 

 彼と同じように、私も整備を続けているから技術力は高くなってきていると思える。

 

 それが誇りにも思うし、やりがいにも繋がっている。

 

 何より―――

 

「リナちゃん!整備あんがとなー!!」

 

 皆が無事に帰ってきてくれることが何よりうれしく思えた。

 

 ……昔はそんなこと考えたこともなかったのに。

 

 私も……変わったのかな。

 

 ううん、皆変わったんだ。

 

 道夜さんも、ユーリちゃんも、部隊のみんなも。

 

 そして……ムゲンも。

 

 皆が変わったから、私も変わった。

 

 ちょっとはムゲンとの歩幅も狭まったかな?

 

 いいや、まだまだ。まだ彼の背中を追い続けてる。

 

 きっと、追い付いて見せるから。

 

「よし……」

 

 気持ちを引き締めると同時に、機体のネジを強く締めた。

 

 

 

 整備が片付き、食堂で休憩していると

 

「座ってもいいか?」

 

 連邦の野戦服の下に、フード付きのシャツを着ていて、キリッとした目つきだが、垂れ目で、優しさを感じることのできる眉。

 

 短く切った黒髪が彼に大人らしさを与えている。少し髭が生えているからか、凄くダンディに見える。ムゲンとはまた違ったカッコよさだと思う。

 

 口元は微笑んでいて、いつもと変わらない道夜さんがそこにいた。

 

 黙って頷くと、彼は私の正面の席へ腰かける。

 

 何かの資料を見つめながら、コーヒーを飲む道夜さん。

 

「何見ているんですか?」

 

「ん。いや、この前の事件の事についての事が書かれている記事をな」

 

 言った後に道夜さんははっとした顔で

 

「ああ、すまない。お前にこの話は辛かったな」

 

 首を横に振りながら私は

 

「いいんです。それより、どんなことが?」

 

 資料を覗き込むようにすると、道夜さんが手でそれを止めた。

 

「やめておけ。あまり気分がいいモノじゃない」

 

「…でも……」

 

 道夜さんは目を伏せ首を横に振った。

 

 何となく察して、それっきりその話をすることは無くなった。

 

 しばらくの沈黙の後、道夜さんは静かに言葉を切り出す。

 

「……ムゲンの様子はどうだ?」

 

「だいぶ良くはなりましたよ。アウロラやルナちゃんの面倒も見てくれていますし」

 

「……そうか。それは良かった」

 

 彼はほっと胸をなでおろすかのように安堵していた。

 

 当然だろう。彼のあんな姿を見てしまっては。

 

「お前が止めていなかったら、きっとムゲンは狂っていた」

 

「……」

 

「俺は、あいつに何もしてやれなかった。裏切ったのを止めるので精一杯だった」

 

「でも、裏切りが起きるなんてみんな予想してなかったじゃないですか」

 

「いいや。……俺も何となくは予想出来ていた。…あいつもな。だが、そうするしかなかった。あの機会を除けば、次いつ攻撃できるかなんて分からなかったからな」

 

「……勘ですか?」

 

 彼は苦笑しながら

 

「まあ、そんなところだ」

 

 それからはユーリちゃんも混ざって3人でお菓子の話で盛り上がった。

 

 ユーリちゃんの最近のブームはチョコパンケーキらしい。

 

 ……今度食べに行きたいな。

 

 

 トリントンで起きた事件は連邦軍全体に広がるのにさほど時間は掛からなかった。

 

 部隊を守るためにムゲンが受ける代償は大きすぎて……。

 

 他の基地から受けるであろう対応や、非難は相当なものらしい。

 

 ここの基地の人たちは事件の内容を知っているだけあって、ある程度は擁護してくれる人が多い。

 

 噂では彼はこんな異名で呼ばれているという。

 

()()()()()()】と―

 

 誰がそんなことを言い出したのかは知らないけれど、彼は悪魔なんかじゃない。

 

 彼は自分を犠牲にして皆を助けただけ。

 

 確かに同軍の人を殺したかもしれない。けれど、それが仲間を守るための【最善】だったとしても許されないの?

 

 ……私は許したっていいと思う。お互いに死ぬかもしれない状況ならなおさら。

 

 彼の行動が正しいと擁護する気はないけど、あの時の行動はきっと【最善】だったと思える。

 

「あ………」

 

 廊下で考え事をしていたら、正面から小さい声が上がった。

 

 見てみると、少女と目が合う。

 

 肩までかかる程度の空のように透き通った水色の髪。どこか安心させられる薄い緑色の瞳。

 

 整った輪郭にすうっと伸びた小さめの鼻。目はどこか怯えているが、おそらく少しつり目。

 

 そして印象の良い眉。この子は確か―

 

「……リ、リナ……さん」

 

 正直、とても驚いた。前まではムゲンの後ろで顔すら見せてくれなかった子だったのに、今、彼女から声をかけてくれたのだ。

 

「どうしたの?リリーちゃん」

 

「え、っと……大丈夫ですか?」

 

「……と、言うと?」

 

「何か……悩んでいるようでしたから」

 

「そう見えた?」

 

 私も随分顔に出やすいようで……。ムゲンほどじゃないけど。

 

 リリーちゃんは黙って頷く。

 

「そっか。……少し、ムゲンの事を考えていたんだよ」

 

「……先生を……」

 

「うん。噂だけど、ムゲンが変な風に呼ばれているっていうのをね……」

 

 リリーちゃんは俯きながら

 

「血濡れの……悪魔………ですね」

 

「うん…」

 

 私達の間に少しだけ沈黙が続いた。

 

 リリーちゃんは俯きながら言葉を続けた。

 

「あの時の先生は………怖かった……。ここに来る前の……連邦の兵士と同じ目をしてた…。人を……容赦なく殺せる人の目と同じで……」

 

「……そっか……」

 

 リリーちゃんははっとして、すぐに

 

「で、でも!先生は……悪くないから……。私……先生との約束……守れなかったから……」

 

「約束?」

 

「部隊の皆を守るって……。……帰ってくるまでに、先生を……ムゲンって呼べるように……。でも、駄目だった……私は……」

 

「先生が居なかったら、今頃私達、死んでた……。だから、先生をそうやって呼ぶ人たちを私は許さない……」

 

 私は首を横に振りながら言った。

 

「……リリーちゃん、ムゲンは他人を恨むためにあなたを助けたんじゃないよ」

 

「……でも………」

 

「ムゲンは、あなたに生きて、もっといろんなことを知ってほしかったんじゃないかな。……だから、自分を犠牲にして助けたんじゃないかな」

 

「………それは……あまりにも悲しすぎます」

 

「そう、だね……」

 

 彼女の言う通り悲しすぎる。けれど、それでも彼はこの選択を選んだ。苦しくて、辛かったと思う。そして彼は完遂した。

 

 自らの犠牲を代償に、部隊のすべての、そして愛する娘の命を救った。

 

「でもね、それがムゲン・クロスフォードという人なんだよ。だから、彼の心は、目は汚されても、きっと後悔はしてない」

 

 私は知っている。彼は、自分が選んだ選択に後悔なんかしたことないと。どんな選択でも彼は自分の成すべきことを、自分を信じて進んできたから。

 

 非難されようと、扱いが悪くなろうと関係ない。大切な仲間を守るためならば。きっと彼はそう思った。

 

 助けるために多くの犠牲を伴っていたなら……きっとなおさらなはず。

 

 リリーちゃんは少し考えた後、ニッコリと笑いながら

 

「…信頼……してるんですね」

 

 私はふっと笑った後

 

「ええ。これでも一応、彼の妻ですから」

 

「私も……頑張ろう……」

 

「リリーちゃん?」

 

 リリーちゃんは大きく深呼吸した後

 

「先生がいない間は……私がこの部隊を……先生が自分を傷つけてまで救ってくれたここを……守る…!」

 

「それが、私にしかできない事だから。……この言葉は、先生からの受け売りだけど……」

 

 ちょっとだけ照れ臭そうに言葉を付け足した。

 

「……お互い、頑張ろう」

 

 右手を差し出すと、リリーちゃんは両手で握り

 

「はい……!」

 

 その瞳は強い。今の若者の強さを持ちながら、確固たる信念を秘めていた。

 

 

 

 

 しばらくして、ファングさんから呼ばれた。

 

 理由は……なんだろう?

 

「リナ・ハートライト、入ります」

 

「…そんなに真面目にならなくていいだろう」

 

 赤い短髪が揺れ、キリッとした目付きと、柔らかな眉。爽やかな好青年と言っても間違いではないだろう。

 

「それで、どうしたんです?」

 

「ああ、いや、ムゲンの事をな」

 

「……はい」

 

「ムゲンは、どうだ……?」

 

 道夜さんにも聞かれた言葉。私は目を伏せながら言葉を続けた。

 

「……前よりは良くなりました」

 

「…そうか。心配だったんだ」

 

 皆心配している。私も、声には出さなかったけど、きっとユーリちゃんも。

 

「……俺がしっかりしていないといけないのにな。不甲斐ないよ」

 

「……それは私もですから…」

 

「そう言ってもらえると、少しだけ気が楽になるよ」

 

 彼も、ムゲンも、自分に出来る事をしただけ。それがあの結果に繋がってしまったなら、仕方がないのだろうか。

 

 もっと、他に正しい道があったはずなのに――もっと、他の選択があったはずなのに――

 

 願っても、時間は返りはしない。

 

「……俺が言える立場じゃないが―」

 

 ファングさんは静かに言葉を続ける。

 

「あいつが辛い時、側にいてやってほしい」

 

「……」

 

「俺や部隊の皆では、ムゲンの心を癒しきることは出来ない。俺たちは、あいつの痛みを背負うくらいしかできないから」

 

 天井を見上げながらファングさんは

 

「だが、お前は――お前なら、変えられる。あいつの痛みを癒せるはずだ」

 

「私が……ですか」

 

 ファングさんは静かに頷いた。その瞳は、優しく背を押してくれるような、そんな雰囲気を感じた。

 

「……所詮、ニュータイプなんてものは役に立たない。……こんな、たった一人の人間さえも癒すことが出来ないなんて」

 

 彼は悔しそうに呟く。…違う。そんなことは―

 

「出来ますよ」

 

「え……?」

 

 思ってもみない言葉を返されたからか、少しだけ驚いた様子。

 

「ニュータイプも、人間ですから。皆……同じですから。人の痛みだって分かち合えますよ」

 

「だが……俺は」

 

「どんなに信頼していても、その人のすべてを知ることなんかできません。だから、知っている部分だけでも、お互いに寄り添えばいいんです」

 

「辛い時、側にいてあげる事。悲しい時、側にいてあげる事。…そして、嬉しい事は一緒に笑って―それだけで、お互いはお互いを知るんです」

 

「それが―人間しか出来ない事であり、家族の役目」

 

 ファングさんは微笑み、小さく頷いた。

 

「…そうだな。ムゲンが救ってくれたんだ。今度は、俺たちが助けないとな」

 

「ええ……」

 

 そうだよね、ムゲン。あなたなら、きっとそう言うよね?

 

 

 この言葉は、気持ちは――あなたから教えてもらったんだよ。

 

 

 あなたが私を光の下へと連れてきてくれたんだよ。

 

 

 一人じゃないから……。今度は、あなたの手を離さない。

 

 だから、今日こそ、彼と……【()()()】と向き合わなければならない。

 

 

 

 遠目からでも分かる白いジェガン。

 

 そして、その鋼鉄の鎧に張り付く赤黒いシミ。

 

 触れるのが怖かった。……あの時の彼の瞳を思い出すから。

 

 彼の瞳は……悲しみや怒り、そんな色々な感情が混ざっているような目だった。

 

 触れようとすれば手が震えて前へと進めない。

 

 変わらなくて良かった。そのままで良かった。

 

 一緒にいてさえくれればそれで――

 

 けれど、彼は進んだ。

 

 自らを犠牲にして、汚すことのない手を汚した。

 

 ジェガンに残る、彼の怒りや悲しみ、そのどれもが、傷ついた部分から伝わる。

 

 カメラアイにベットリと張り付いた血。……ダメ……やっぱり……怖い。

 

 変わってしまった彼を認めたくない。頭で受け止めようとしても、体が言うことを聞いてくれない。

 

 でも………。

 

 私は勇気を振り絞り、一歩踏み出した。

 

 触れた装甲から伝わる、彼の気持ち。

 

 彼は、殺さなければならなかった。

 

 部隊のために、自分のために死んだ仲間の罪を背負って戦うと決めたから。

 

 だから、この子と共に……。

 

 

 涙が止まらなかった。どうして、彼が背負わなければならなかったのか。

 

 それでも、この手を……止めるわけにはいかない。

 

 直さなくちゃ。彼と向き合うために。

 

 沢山伝わった。そのたびに心が苦しくなって、一緒にいてあげられなかった無力さを呪って―

 

 ジェガンの整備を終えるとともに、私は地面に崩れ落ちた。

 

 止まらない、涙が。

 

 大人なのに、声まで上げて。

 

「おい!リナ!?どうしたんだ!」

 

 トクナガさんが肩を揺すって声をかけてくれた。

 

 彼の顔を見て、抱き着いて泣いた。

 

「リナ……?」

 

「わたし……わたしっ…!」

 

「お前……ジェガンを……」

 

 機体を見たトクナガさんは、全てを察したのか、優しく背中を撫でながら言った。

 

「リナ、お前は良くやった。……ほんと、すごいな、お前は」

 

「うぅっ……!」

 

「……あれだけボロボロで汚れていたジェガンが、新品同様に戻ってやがる。……よく頑張ったよ」

 

「うん……!うん……!!」

 

 何度も頷きながら、彼の胸で泣いた。

 

「お前はあいつと、この機体と向き合って、お前は寄り添った。……お前は凄いよ、リナ」

 

 撫でてくれるその手は父のようで……

 

「リナ、お前はあいつの【光】になってやれる。……お前は寄り添えたんだよ」

 

 

 

 その日の帰り道。

 

 夕暮れから夜へと変わるそんな街を、ゆっくりと歩いて帰るのが毎日の楽しみだった。

 

 色んな光景が見れて、色んな人を見ることが出来たから。

 

 楽しそうに歩く家族や、忙しそうに仕事している人、貧しいながらも必死に頑張る子供たち。

 

 そんな幸せそうな家族を見て、心が苦しくなくなったのはいつ頃だっただろう。

 

 貧しい子供たちを救ってあげたいと思ったのはいつ頃からだっただろう。

 

 全部、ぜんぶ彼と会ってから思えるようになったこと。

 

 この手で母を殺めてしまった子供のころでは思いもしない事だと思う。

 

 今では私が母で、私も幸せな家族を持てたから。

 

 ……お母さん、私は大丈夫だよ。

 

 ふと、正面から走ってくる影。

 

 すれ違う瞬間に見えたのは、まだ若い少年だった。

 

 何かから必死に逃げているようにも見えた。

 

 気になりはしたが、私はそのまま家路へとつくことにした。

 

 

 

「ただいま!」

 

「おかえり、リナ」

 

 少し疲れたような表情を浮かべる彼が出迎えてくれた。

 

 ボサボサの黒髪、疲れ切った垂れ目、けれど口元だけは微笑んでいる。

 

 それは彼の【現在(いま)】の状態を表しているように見えた。

 

「ムゲン、大丈夫?」

 

 心配そうに顔を覗き込む。すると彼は肩を竦めながら

 

「大丈夫だよ。何も心配ないさ」

 

 彼から心配ないという言葉を聞いて安心出来るわけなかった。特に、今の状態でそれを言われても説得力に欠ける。

 

「……ほんとに?」

 

 ムゲンは静かに頷いた後

 

「ああ。大丈夫だ」

 

 そう言った。

 

「そっか。なら良いけれど……」

 

 しばらくの沈黙。彼は何かを考えているのか、少しだけ表情が暗い。

 

 きっと、何かを思い出しているのだろう。私は彼に有無を言わさず抱き着いた。

 

「お、おい……?リナ……?」

 

「辛い事も、嫌なことも、今は全部忘れちゃえ。あなたは、そうする資格があるんだから」

 

「リナ……」

 

 私に出来る事を……するだけだよね?

 

「……ちょっとは、甘えてもいいんだよ?遠慮なんか必要ないよ」

 

「……ああ。ありがとう」

 

 

「あ!ムゲンとリナがラブラブしてる!」

 

 ルナちゃんの楽しそうな声。私はルナちゃんに微笑みながら

 

「うん。ラブラブだよ」

 

「私も混ぜてー!!」

 

 ムゲンの足元でぴょんぴょん跳ねながら手を上げている。

 

 彼はルナちゃんを抱き上げ、空いた手で私を抱きしめてくれた。

 

「ほら、これで皆ラブラブだ」

 

 優しい声で彼は言った。

 

 ルナちゃんは満面の笑みで

 

「わたし幸せー!!ムゲンもリナも幸せ?」

 

「……ああ。幸せだ」

 

 今の彼が幸せと言ってくれることが、私にとって何より嬉しい事。

 

 もちろん私も幸せだ。彼と一緒にいて幸せでないわけがない。

 

「私も幸せだよ。ルナちゃんと、ムゲンといれて」

 

 

 夕食を終え、お風呂に入る。

 

 この湯船につかっている時間が、たった一人で静かにいられる時間だ。

 

 彼といるのが嫌って事じゃない。けれど、人間は一人の時間だってほしいものだから。

 

 何も考えないのもいいし、歌を歌ったりするのもいいなぁ。

 

 一人の時間を満喫した後には、彼との日課をする時間。

 

 ムゲンの心を少しでも軽くするために、言いたいことを吐き出してもらうっていう内容の、一種のカウンセリングかな?

 

「ああ……!!何で……何で!!!俺が何をしたっていうんだ!!くそっ!!くそぉっ……!」

 

「……うん」

 

 手で目を覆いながら、叫ぶムゲン。

 

「いいんだよ。吐き出して、我慢するのは苦しいから……」

 

「もう……疲れたんだ…。人が死ぬのを目の前で見るのは……」

 

「立ち止まるわけにはいかないって心で言っても、うまくはいかないものなんだな……」

 

 ある程度の時間で、このカウンセリングは切り上げる。あまりやりすぎも良くはないから。

 

 続けることが大事。

 

 私は立ち上がり、ムゲンを抱き寄せた。

 

「……リナ………」

 

「大丈夫だよ。きっと、あなたなら」

 

 こうやってカウンセリングの後にムゲンを抱きしめるのも日課。

 

 触れ合えば、互いに安心できる。……この時だけは、ムゲンと一緒に歩めていると思えたから。

 

 人間は、一人じゃ脆いから、誰かと一緒に生きていく。苦しい時、悲しい時はそれをお互いに分け合って、嬉しい時はその気持ちを共有して生きていく。

 

 だから、彼ともそうやって一緒に生きていけたら、私はそれでいい。

 

 彼がどんなに変わってしまっても、彼であることは変わらない。

 

 他の誰にもできない事を。彼を受け止めてあげる事が私に出来る事だから。

 

 大丈夫。もう、逃げないよ。

 

 だって、私はあなたの妻だから。

 

 一生をかけてあなたを受け止めるから。

 

 世界が敵になったって、私はあなたの味方だよ。

 

「……一緒に、歩いていこうね」

 

「……ああ。分かっているよ、リナ」

 

 偽りの平和だって構わない。それを勝ち取るために私たちは戦っているんだから。

 

 

54 完


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