『天鏡島』
本州の南、数百キロの地点に佇む南洋の島々を纏め称されるこの地は、古くから綾之峰家と深い関わりを持つ島であり、世界有数の『星のよく見える』島である事から、古代の綾之峰家が星を読み未来を占う天文方を設立。
以来、千年に渡る天文方を統べる『星読みの巫女姫』が治める本島は厳格に立ち入りを禁止されている一方、本島より離れた離島の一部は、天文学者や極一部の富裕層が観光に訪れる、日本国屈指の避暑地として知られている。
「懐かしいものですね」
「あれ? 安田って、ここ着た事あんの?」
「八つの頃、長期休暇を利用し家族と共に」
へぇ。と銀香が意外そうに漏らすが、ジーヤとしてはここまで言ってまだ思い出せないのかと、安田のさり気無いヒントが無に帰してしまった事に同情さえ抱いた。
“というか、安田少年はマイシスターと銀香様のどっちが好きなのでありますかね?”
時間こそ短いが、共に過ごした日々が濃密過ぎるだけに、そろそろどちらかが泣く前に決めて欲しいものであるが、安田当人としては一日だけの幼馴染に、昔の事を思い出して欲しいという思いが優先されてしまっていた。
「ところで、今後はどのように?」
「本島にはジーヤが直接行って、連絡を取ってから再度飛行艇で向かうであります。まぁ、万里華様が手を回してくれている筈でありますし、歌凛子様は既に『視て』いる可能性もありますが、それでも上陸に当たって手続きは踏む必要がありますので」
となれば、今日一日は離島での滞在を余儀なくされるという事だろう。
宿に関しては綾之峰の保有するプライベートビーチ内の別荘で過ごすという手もあるにはあったが、征麻呂の息のかかった追手が先回りしている可能性も否めない為、事前に大衆の目に付くホテルに予約を入れていた。
「ただ、征綺華少年の分は計算してなかったでありますので、安田少年とのツインを改めて取っておくであります」
「僕としてはダブルでも良いよ~?」
しなを作りながら、安田の腕に絡まって女性陣に笑みを作る男の娘改め征綺華。
当然、女性陣は良い顔などする筈も無い。
「おいバカ姉。こいつだけ別荘に放り込んで、綾之峰に回収して貰ってはどうだ?」
「……芹沢ほどは言わないけど、ツインじゃなくてシングルにした方が良いんじゃないか?」
と。芹沢からは過激な、銀香からは公序良俗に則った意見が出た。
「あ! ウソウソ! ツインでも良いからさ! ほら、僕か弱いし、この中で捕まったら一番不味い立ち位置だから!」
「……ならそういった行動を取るな。それから貴様、何故されるがままなのだ?」
ジロリと芹沢が睨む。当の安田と言えば棒立ちのままであり、抵抗らしい素振りすら見せなかった。
「もしや、安田少年は同性愛者でありますか!?」
した事を考えれば当たらずとも遠からずなジーヤの発言であるが、流石に社会的立場が潰されかねないともなれば、安田とて否定する。
「……ミス。日頃の私を見て言っておられるので?」
「そりゃそうだ。安田は誰が迫っても動じなさそうだもんなー」
「流石に、来る者拒まずも過ぎればどうかと思うがな」
やはり信用とは日々の積み重ねである。崩れれば脆いが、地を固めれば役に立つ。
……実際のところは、在らぬ疑いどころか有罪だが。
◇
「ハードスケジュール続きでありましたし、暫く海で遊んでろであります」
と。言うだけ言って最低限の荷を載せたボートで本島へと向かって行ったジーヤを見送り、チェックインを済ませる事数分。オーシャンビューが美しい、最上階のスイートという狙ってるのか判らないツインの一室で、安田は思案した。
“歌凜子なら確実に『視て』いる筈だが”
ならばこれは報酬の一部という事か。至れり尽くせりではある物の、自ら志願しての事であるだけに、安田には何ともバツが悪かった。
「わ~! 見て見て、すっごい綺麗!」
「こういった場は慣れているのでは?」
「そうなんだけどさ。やっぱりロマンチックじゃない? 一夜を共にした人と居るとさ」
“随分と懐かれたものだ”
はにかみながら笑う征綺華に肩を竦めつつ、居室に仕掛けが無いか確認していく。映画でもあるまいにと思われるだろうが、万一にも爆弾で吹き飛ばされては堪ったものではないし、そうでなくとも盗聴の怖れもある。
“スイートともなれば、真っ先に疑われる場だからな”
結果だけ見れば仕掛けなど何処にもなかった。明日には引き払う事を考えれば、問題はないだろう。
「如何しますか? お部屋で休んでも良いですが」
「えー? 折角リゾートに来たんだよー? あ、ひょっとして、まだ物足りないの?」
あんなに激しかったのに、と両の手に頬を添えて大仰に顔を赤める。
「日も高い内にというのは如何なものかと」
「あ。じゃあ今晩にでも、」
「安田ー! 海行こうぜ海ー! 芹沢も英里華も待ってるぞー!」
ドンドンと響くノック音。それに顔を顰めながら、征綺華は、ちぇ、と可愛らしく舌打ちした。
「まぁ、良いさ。君が情で僕を抱いたのは、理解してるつもりだしね」
だから、ちゃんと決めて幸せにしてやれと笑って。
「両方から振られたら、僕が貰ってやるよ」
そんな告白を、口にした。
◇
水着の用意など有る筈も無かったが、そこはリゾート地。
現地で買えば事足りるし、土産屋での物色も楽しいもの。午前は気ままに散策して食事を摂り、本格的に遊ぶのは、正午をやや過ぎてからとなった。
「ちょっと本格的な夏には早いけど、充分泳げそうだな!」
降り注ぐ日差しの暑さも、白い砂浜と潮風の前では苦にならない。むしろ、存分に堪能したいという欲求が、銀香の声をより溌溂としたものにする。
「銀香様、英里華様。日焼け止めをお忘れなく」
何せ、どちらとも日に焼ければ水膨れになる体質なのだ。こうし必要物品を購入する上でも、散策を午前に回した理由の一つだ。
「お! サンキューな。英里華、交替で背中塗ろうぜ」
「そうですね。同じ身体を塗るというのは、少々新鮮ですが」
少なくとも他人に任せるより抵抗はないし、芹沢に頼むにしても、二人分というのは結構な労働だ。
「しかし安田め。美少女三人に囲まれての海水浴とは、何とも贅沢なものよ」
水着姿に固まるんじゃねえの? と銀香は笑うが、それはどうかなー? と征綺華は口元を吊り上げた。
「彼、裸だったとしても絶対動じないと思うなー。それより、君らが彼の肉体美にドギマギしちゃうんじゃない? 背筋のラインが綺麗なんだよね~。胸も荒鷲みたいに逞しくてさ」
「おい待て何故貴様が知っている!?」
知りたい? 知りたい~? と言葉尻を浮かせながら流し目で芹沢を挑発する。優越感にも似た態度に芹沢は気炎を上げかけたが、意外なところから声が出た。
「……飛行艇でシャワーを浴びたと言われてましたし、覗かれたのでは?」
若しくは水着の試着時にでも見たのだろうと、至極真っ当な想像で語る英里華に、残る二人はそれだなと納得した。
「ちょっと待ってよ! 人を覗き魔みたいに、」
「必死だな」
「男同士故、罪には問えないが……これは本当にシングルに分けて貰うべきだな」
奴の貞操が危険だと芹沢は危惧したが、それに関しては時既に遅しという他ない。いや、奪われたのは征綺華の方だが。
「失礼。お待たせしました……しかし、こうしたものは女性陣が遅らせるものなのでは?」
何故男児の己を遅らせたのか、安田には皆目見当がつかない。
大胆にも黒のビキニを身に着けた銀香然り。清楚にワンピース系を纏う英里華や、フリルのついた愛らしいタンキニに身を包む芹沢然りだ。
「良いから良いから! 見て見て、僕も結構イけてるでしょ?」
ひらひらと水着のそれでない本物のワンピースを纏い、白くつばの長い帽子を被りながら手を引く征綺華に、一同は思わず距離を詰めた。
「だから近いっての!? 安田! お前本当に身の危険を自覚しろよ絶対やばいってこいつ!」
「銀香様の仰る通りだ。貴様は暫く一人で泳いでいろ」
「はあ……」
理解しているのかいないのか。おそらくは後者であろう気の抜けた返事に、溜息を吐きながら二人は安田を泳ぎに出した。
◇
「泳ぐの滅茶苦茶速いなあいつ……」
勝手に泳げと伝えた直後、準備運動のつもりか浜辺をぐるりと走って入水。遊泳禁止区域限界まで全力で泳ぎ切ったかと思えば、同様の速度で泳げる水位まで戻るという往復作業を繰り返す事既に六回。
周囲の観光客などは、専門のスポーツマンが来たのだろうと双眼鏡片手に見物する始末であった。
「……魚雷ですね、まるで」
銀香と芹沢が呆れ交じりに呟いたのを見計らってか。それとも単に飽きが来たのか。そろそろ良いかとでも言うように、安田は涼しげな顔で浜辺に上がって来た。
「次は何をすれば宜しいでしょうか?」
「いや、遊べよ!?」
取り敢えず、この遊びという物を知らな過ぎる男を教育するところから始まった。
◇
そこから先は、大よそ若者らしい順当な過ごし方を楽しんだ。
近場の露店で西瓜を買って西瓜割を楽しみ、レンタル店でゴーグルやゴムボートを借りてシュノーケリングを行ったり釣り糸を垂らしたりと、それこそ挙げれば切りなどない。
だが、何にも増して意外だったのは、安田も乗り気であったということか。
時折、同級生というより保護者が年頃の娘を見守るような接し方をしていたのは、少女らにしてみれば少々癪だったが、それでもこの実年齢に対して異常な落ち着きぶりの男が笑う姿を見れただけでも、十分良い一日ではあった。
「遊んだなぁ」
「遊んだねぇ」
「遊びました」
「良い日でした」
「ええ。本当に」
銀香も、征綺華も、英里華も、芹沢も、そして安田も。誰もが今日という日と夏を満喫した。海の向こうに沈む夕日を見ながら夕食を摂り、口々にその日のことを思い出しながら話題に挙げた。
安物のデジタルカメラで撮った写真も、時間が経てば良い思い出として見返すだろう。記憶が薄れてしまうとしても、記録を残してさえいれば、思い返す事も出来るのだから。
嗚呼、けれど。そんな物に頼らずとも───
「ずっと───覚えていられたら、良いですね」
微かに漏らした安田の言葉に、どれほどの重みがあったのかは分からない。いや、分からなかったというべきか。掬い上げた砂の様に、掌から溢れ落ちたものの価値を、一度失い、思い出した今となってから、少女たちは理解できたから。
「安田。夜、少し付き合って貰いたい……出来れば、銀香様も一緒に」
「良いのか……?」
良いのです、と銀香に微笑みながら芹沢は席を外す。決意するような表情の意味を察したのは、おそらくこの場にいた全員だろう。
◇
「君は仲間外れ?」
「私は、安田さんにそういった思いを抱いていませんから」
ふぅん。と既にホテルに居ない三名を見送った後、対面で紅茶など口にしていた。
綾之峰としての血筋以外では接点の薄い征綺華と英里華である。自然、共通の話題となれば渦中の三名か、あまり愉快ではない見合いの事になる。
「話は聞いたけどさ。君ら、本当に二人に分かれたんだね」
隠し子とかじゃないの? と征綺華にしてみれば至極当然の疑問を口にする。英里華とて、逆の立場であれば間違いなく訝しんだ事だろう。
イソップ童話そのものといって良い出来事が、現実に起こってしまったのだから。
「ええ。ですけど、私達はもう別人なんです」
だから、もう一人のような思いは抱いていない。過去の思い出は確かに大切なのかもしれないが、それはあくまで大切だというだけで特別ではない。
あの思い出を特別にしたのは、英里華とは違う時間を過ごした銀香と、小さな頃、この地で出会った男の子に恋をした芹沢の心だ。
「え? 何、君らってプライベートで付き合いがあったの?」
おそらく、安田も含めて主従としての繋がりだとばかり思っていたのだろう。気持ちは英里華にも分かる。芹沢同様、安田のそれは同い年の人間が取るには堅苦しいし、常に一定の距離を置いていたから。
「てっきり、あの教育係の女性と同じで、護衛かなんかだと思ってたんだけど」
「ジーヤですね。彼女なら近くに居ますよ」
「流石でありますな、お嬢様」
何時からお気付きに? と気配を消していたジーヤが問う。曲がり間違っても、素人に感付かれる事は無かった筈だ。
「安田さんが、征綺華さんから離れたからです」
おそらくは安田も、日中浜辺を走ってから入水するまでにジーヤを見つけたのだろう。そうでなければ、彼が無防備な姿を晒すとは思えなかったし、自分たちが視界に入らない場所に居る筈も無い。
「本島へ行くと言ったのは、私達を気遣っての事でしょう?」
「降参です。ジーヤとしても、お嬢様方には少しでも楽しい時間をお届けしたかったので」
「ま、確かに彼が、僕らを放ったらかしにするとは思わなかったけどさ」
話、戻していいかなと征綺華がジーヤの紅茶も追加で注文する。
「彼と君らって、どういう関係なの?」
「幼馴染なんです」
名前も知らなかった、たった一日だけの。
「お嬢様は、思い出したのでありますな」
「この島についてからです……安田さんが、笑ったのを見て」
「じゃあさ。ちょっと聞かせてよ。秘密って訳じゃないんでしょ?」
「ええ───始まりは、八年前の夏でした」
◆
八歳になった夏の日。綾之峰英里華は、身も心も擦り切れ渇いていた。
日々続く綾之峰の姫としての教育。周囲の与える苛烈な課題と重圧は幼く、何より養子の身でありながら綾之峰の名を背負う事になった英里華には、荷が重すぎたのだろう。
彼女は、綾之峰英里華は純正の姫ではなかった。母は綾之峰家当主代行、綾之峰万里華の妹であり、叔母は子を生せなかったが為に、母亡き英里華がその地位に就いたに過ぎない。
所詮は代用。それでも、綾之峰の後継者と決定した以上、その象徴が積み上げた繁栄に影を落とすような事はあってはならない。
無論、英里華とて良家の子女として教育は受けていたし、決して飲み込みが悪い訳ではなかった。
ただ、周囲の期待だけが苛烈だっただけ。綾之峰という絶対を、地に落としたくないという必死さが、幼い少女の心を蝕んだ。
呵責もなく、慈悲もなく。姫として他者を、国民を魅せる華であれば良い。
ただそう在れかしと。それ以外である必要はないのだと、言葉でなく教育という鞭が、常に英里華を打ち据え続けた。
だから英里華は願ってしまった。助けを、乞うてしまった。
───抜け出したいの。
今にして思えば、子供らしい我が儘だったのだろう。
行く先など考えもせず、そこから先の事など思いつきもしないまま、唯逃げたいと思ってしまった。
そして、それを、初めて会ったばかりの一人の女の子に押し付けてしまった。
───お願い、連れ出して。
一日だけでも、ほんの少しでもいいから、どうかお願いと。
綾之峰に仕えるという、その事を漠然としか知らず、けれど綾之峰の姫を支えるよう言われ続けた女の子の立場を、特に考えもせず利用してしまった。
愚かな事だ。綾之峰から逃げたいが為に、理解できないまま綾之峰の力に頼り、それを、自分と同い年というだけの女の子に押し付けてしまったのだから。
女の子は困惑した。逆らうべきではないが、何をして上げればいいのかは分からない。支えて、守ってあげなさいと言われて来ただけの女の子には、何が正解だったのかは分からなかった。
───分かりました。
結局、そう言うしかなかったのだ。否定する事など、拒絶する事など、始めから出来る筈が無かったのだから。
連れ出して欲しいと、英里華は言った。だから、子供なりに出来ることを考えた。私有地である離島の一つから、他の近い離島までボートを漕ごう。怒られないように、ほんの短い間だけ無邪気に遊べば良い筈だ。
その冒険心はきっと、女の子も同じように、日々に不満を感じていたからこその物だったのかもしれない。
小さな手漕ぎのボートに乗って別荘を抜け出し、そこから観光客が集まる島に行こう。
別荘からでも、その島が夜も明るくて楽しそうなことは、女の子も知っていた。
二人で一生懸命に漕いでいった。途中、疲れて漕げなくなった英里華の分まで、女の子は一生懸命に。
だけど、それが行けなかったのだろう。
明るかった夕日は雨雲が包んで、岸に辿り着く頃には、酷くなる一方だった。
帰ろう。帰りたい。
英里華はそう言いたかったけれど、それが無理だと分かっていた。女の子の手はとても痛そうで、戻る事なんて無理なんだと。
大丈夫、大丈夫ですから。
女の子の言葉に、思わず泣きたくなった。
自分のせいで、自分の我が儘で、こんな事になったんだと。強くなる雨音に、余計心細くなって───
───どうしたのかな?
そんな声を、突然かけられた。
ひょっこりと。まるでお巡りさんが、迷子の子供を諭すように聞くものだから、二人揃って顔を見た。
同い年くらいの、自分たちよりちょっと背が高いだけのその男の子が、どうしてか凄く頼もしく見えた。
───ここに居たら、濡れるよ?
そんな事、言われなくても分かっていた。だから、泣きたかった気持ちを抑えて、強がりを言った。
分かってる。大丈夫。
分かってなんかいなかったし、大丈夫だなんて思ってなかった。
怖くて、心細くて、どうしたら良いのかなんて、全然分からなかった筈なのに。
───そっか。なら、屋根のある所に行こうよ。
言葉の細部は思い出せないけれど、きっと、そういう言葉を告げた筈だ。知らない人には付いて行くな。大人はよく子供にそう言うけれど、同じ子供なら大丈夫だと思った。
その後は、男の子が泊まるホテルに行った。男の子は凄くテキパキと自分達の事を告げながら女の子の擦り剥いた手を消毒すると、迎えが来るまで一緒に居ても良いかを、両親とお姉ちゃんだと言う人に伝えていた。
だけど、英里華も女の子も、ここに居るのは嫌だった。
帰りたいと思っても、帰って叱られるのが怖かった。
だから、こっそり抜け出そうとして、なのに、男の子はしっかり付いてきていた。
───帰りたくないの?
聞いてきた男の子に、二人はこくりと揃って頷いた。
───お家の人、心配するよ?
そんな事ないと、思わず叫んだ。
どうだって良いし、自分じゃなくたって良いんだと。子供らしい癇癪で、相手が悟れるはずも無い事を口にして。だけど。
───辛かったんだね。
まるで大人のように、自分達と同じように、ずぶ濡れになりながら言ってくれた。
───でも、心配してくれる人、居るみたいだよ?
言って、後ろへと視線を向けた。この雨の中、息を切らして走ってきたのは女の子のお姉ちゃんで、叔母以外で英里華に優しい、たった一人の女性だった。
───心配、したでありますよ。
雨の中、抱きしめてくれたその人の温かさと優しさを、きっと英里華も妹も忘れないだろうと思っていた。
良かったねと。優しく微笑んでくれた少年の事も───
◇
「───ずっと。覚えていると思っていたのにな」
幼い頃、三人が歩いた砂浜を、再び同じように歩いていく。
違うのは手が擦り剥いていない事と、心が晴れやかな事ぐらいか。ぬかるみ沈む足元も、思い返しながらなら、決して悪いものではない。
「雨が、酷いですね」
「ああ。あの時は傘も持たなかったんだったか」
今とは違うな、と。この大雨を見越して傘を差し歩く姿に、芹沢は笑う。
「銀香様も、思い出されましたか?」
「……芹沢が教えてくれて、やっとな」
酷い事を頼んでしまったと、銀香は思い返しているに違いない。
けれど、それで良かったと芹沢は思う。己は綾之峰の為に、この国の象徴で在らせられる御方々の為にあれと、そう告げられた事に対する不満は確かにあったのだ。
「あの時、逃げ出したかったのは私も同じでした。何より、英里華様が私と変わらぬ女の子であった事も嬉しかったのです」
ただの道具として、便利な従者としてしか見てくれなかったら、おそらく芹沢はここには居なかっただろう。
出来の良い姉に全てを任せきり、英国辺りに留学して、家族とは喧嘩でもして疎遠になって暮らしていたかも。
「怪我をした手を、治るまで案じて下さいました。英里華様自身が、何度も傷を看て下さって……」
それが、親しくなるきっかけだった筈なのに。
そのきっかけを、作った一日だった筈なのに。
「───私達は、貴様だけを忘れてしまったな」
雨が、止む。
海を背に振り返る芹沢の向こうには、星空の天幕が海に映り込んでいた。
「鏡の星海。天鏡島の名の由来となった現象でな。嵐の後に来る大凪の夜、一瞬だけ見られる奇跡だ」
この景色さえ、記憶から消えた。
英里華と一緒にジーヤに抱きしめられた後、確かに男の子とこの景色を見ていたのに。
「ありがとうと言った。忘れないと言った」
綾之峰である以上、英里華も芹沢も、名前は教えられなかったけれど。
辛い事があっても、この日を覚え続けて、いつかきっと───
「───ちゃんと。名前を伝えに行くと」
約束して、いた筈だったのに。
「安田───今からでも、遅くないか?」
「はい」
あの人同じ。優しい笑顔で安田は頷く。多くを口にしないからこそ、心から伝わるその誠意に芹沢も、銀香も笑って。
「私はバヤリー・芹沢・マクミラン」
「私は綾之峰英里華……今は、銀香だけどな」
「お久しぶりです。私は、安田登郎と申します」
遅すぎた自己紹介を。いつかの約束通り果すのだった。
◇
「因みに、実はジーヤは早い段階で発見出来ていたというオチが着くでありますが」
「そりゃ、綾之峰のお姫様と実の妹がいないって分かったらそうなるよねー」
当然だねと征綺華が頷く。如何に二人に甘い所があるジーヤと言えども、見過ごして良い場面でない事ぐらい弁えている。
それでも到着が遅れたのは、他ならぬ安田のせいであった。
「ある程度泣かしたら叱って帰るつもりだったのですが、当時からして安田少年はあんな感じでありまして」
優秀過ぎたが為の問題だろう。既にホテルも迷子の案内を出し、警察にも連絡をしていた為、勝手には連れて帰れなかったのだ。
「とはいえ、そのおかげでジーヤはミセス峰子とばったり再会したりと、色々良かった事もありましたが」
「確か、初めてお会いしたのは万里華叔母様とご旅行に赴かれた時でしたか?」
「そうであります。宿泊先に強盗が押し入ったと聞いて、現地の警察隊員らと突入したのですが、既にミセス峰子が制圧済みだったであります」
当時の峰子曰く。
『良かったな万里華───騎兵隊の到着だ』
「と。拳銃両手に実に勇ましいものでありました。あの母の元なら安田少年が出来過ぎなのも納得であります」
獅子の子は獅子というべきか。それとも獅子の母が生むからこそ、子もまた獅子として相応しい者が生まれたか。因果というものを知れば後者だが、彼女らにそれを知る術はない。
「で? 今回も遅くなったら怒るの?」
「征綺華少年。ジーヤはマイシスターがどんな気持ちで安田少年を連れ出したかぐらい判ってるでありますよ」
だから、今日ぐらいは良いだろうと。窓辺から見える、清澄な星空を眺めた。
◇
果たされた約束。
幼い頃、小さな感謝で満たされた胸と、同じ物を抱いた今。
バヤリー・芹沢・マクミランは、秘めていたものを打ち明ける。
「安田───どうやら私は、恋をしたらしい」
潮風が、決して長くない髪を揺らす。煌々とした月と星明かりを背に笑う彼女の頬は、青で満たされた世界とは逆に赤く。初めて見せた恋慕の笑顔は、言葉を失う程に美しかった。
「だけど。それはきっと、銀香様も同じなのでしょう?」
そして彼女は、意中の相手にではなく、銀の髪を揺らす、何処か物憂げな主に向いた。
「初めは、身を引こうと思いました」
巫女姫の占いがあり、身を分かたれたこの状況ならば、庶子であろうと愛し合えると。或いは英里華が見初めたのだとしても、争おうなどと思わなかった。
「ですが、私には無理でした」
過ぎた思いだと弁えていた筈だった。恋に鍔競り合うには、余りに立場が違うと自分を納得させていた。
「私は銀香様のような、特別な時間などなかったのでしょう」
出会いは同じで。再会からは目を離さぬ冒険も、涙を誘うドラマもない。進む物語の中で、バヤリー・芹沢・マクミランはどう見たところで脇役でしかない。
それでも、この思いを抱いたのだ。
「負けたくない。譲りたくない。私以外の誰かが───」
───安田登郎と添い遂げる事が、我慢できないのだと。
「芹沢、私は……」
「愛してなどいないと、ご自分の顔を見ても同じ事を口に出来ますか?」
初めは好みとは到底違う、真面目で堅苦しい奴だと思っていた。何故こんな奴が、自分に相応しい男として占われたんだと憤った。一緒に暮らして行く内、良い所もあると思った。
助けに来てくれた事が嬉しくて、占いが本当だったんだと喜んだ。
出会いは同じで。再会からは、目を離せない多くがこんなにも短い時間に起きて、助けられたことが、泣いてしまいそうなほど嬉しくて───
「───認めるよ。私も、こいつが好きなんだ」
助けられたからという、一時のものだけじゃない。七夕茶会で、芹沢とのやりとりを見たその日から、きっと心は変わって行ったんだろう。
芹沢の事は大切で。幸せになってくれたらと願う以上に、安田に肩入れした時点で。
「思い出したのは、お前がずっと早かった。恋をしたのも、きっとそうだ。今までだって、数え切れないぐらい、色んなものを貰ってきた」
だけど。
「ごめんな。やっぱり、こいつは渡したくない」
「良いのです」
迷ったままで、いて欲しくなかったから。ちゃんと、お互いを理解したかったから。きっと、どちらかは泣くだろう。今まで通りの関係では、居られなくなるかも知れない。
でも、ずっと隠したまま。お互いに気持ちを押し殺したままなのは、絶対に嫌だったから。
「下らんメロドラマに付き合わせたな、安田」
思いは伝えた。どちらかを今すぐに決める必要はないし、何だったら二人とも振っても構わない。
「安田が誰を好きになろうと、それは自由だ。だけど───その時は、はっきり言ってくれ」
複数など選べない。添い遂げられるのは一人で、二番目なんてない事を覚えていて欲しい。
「貴様が、二人に分かれてくれるなら別だがな」
そんな風に笑って。
言い残す事はないというように、芹沢は踵を返して去った。
◇
「……良い女だな、芹沢って」
小さく呟いて、銀香もまたゆっくりと帰路へと歩む。
「悩むなら、悩んでくれていいよ。私も、気持ちは芹沢と一緒だ」
二人ともなんて選べない。ただ一人に摘まれる華で在りたいから。
「───判っています」
短い返答に、銀香も満足げに去って行く。
残されたのは一人だけ。星の海で満たされた世界ではなく、去って行った二人を見て思う。
“私は───”
───隠したままで、本当に良いのだろうか。
告白したダブルヒロインより、既に数光年分差のつく行為をした奴がいる模様(台無し)