謹呈の世 銀嶺の今   作:c.m.

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Attack 14 過去回なのであります

 日露戦争以後、国内……少なくとも軍部は大いに沸き立った。

 賠償金を得られず、国民の生活が貧しくなったことも、戦争費用による借款も多大であったことも、まるで存在しなかったかのように、陸海は共に拡充の道を進むことになる。

 それが、後の世に負担を強いることになる前借りという事実が隠された物であることを知っていたのは、急死した児玉源太郎大将を代表とした幾ばくかの現実主義者と、国防方針に意見を組み込むことを許されなかった、政治家・閣僚の有識者達だろう。

 加え、日本という国は折り悪くというべきか、第一次大戦によって日清戦争後、ドイツに略奪された青島を占領。列強が骨肉の争いを繰り広げる最中、中国利権をほぼ一国で得られたために、財政面で逼迫しながらも国家基盤が崩れず維持し得る程度の資金を稼げてしまった。

 だからこそ、というべきか。国家も国民も、或いは危機を知っていた政界さえも、この音なく国家に走る亀裂が、修復可能なのだと過信してしまった。

 

 故。だからこそ、と重ねて言わざるを得ない。運によって得られた光明など、所詮一時のものでしかないのだと、彼らは否応なく知る事となるのだ。

 陸海両軍が自らの基盤拡充の為に敵を求め、南北併進という現実を無視した方針を打ち出した時点で、こうなると判りきっていたツケは、世界恐慌という最大級の荒波によって虚飾に塗れた覆いを流し、危機を白日の元に晒してしまった。

 それだけなら、良い。晒したのならば、縮小という手さえ打てれば良かった。

 しかし、それを快く思わない者も、当然ながら存在した。

 何しろ、予算を削減するということは、栄達の道が狭まるという事である。また、政戦一致を図らず来たことが、政界という内部に敵ありという軽率短慮な者を生み出してしまった。

 軍部のツケという形で出た錆を認めたがらず、国家困窮を己の価値観のみで作り上げた敵に向けた結果が、更に自らの首を絞めるとも分からずに。

 

 

     ◇

 

 

「…………」

 

 紫煙を燻らす。殊更好きという程でもないが、遣りきれぬ事を悩むなら、出来る事をすべきだと意識を切り替えるための一服だったが、失敗だったと苦いる他ない。

 幼い娘は、口にしないだけでこの匂いを嫌っていたフシがある。道を歩けば誰も彼もが紙巻やら煙管やらを咥えているのを目にするが、だからとて好き好んで愛娘に嫌われたいとは思わない。

 

“不思議なものだ。家庭など、持とうとは思わなかったというのに”

 

 元は、父が喀血し、床に就いた事が原因だったと思う。血が途絶えることを、誰より危惧したのは母だ。慶応生まれの父に若くして嫁いだ母は、当然ながら保守的思想を父より染められており、国家以上にお家の大事に重きを置く母にとって、父が結核だと診断されたことは、奈落に突き落とされる心地だったに違いない。

 子を生せと。お小言に過ぎなかったそれが、鬼気迫る物になったのはその頃だ。

 一方、己はそうした幕府存続の時代ではなく明治生まれであった事と、士官学校出という立場から、この頃既にお家にではなく日本国そのものを拠り所にしていたし、北清事変といった騒ぎもあったが為に、耳を貸そうとはしていなかった。

 軍に身を置くは、既に死したるを覚悟しての事であったし、それを尚武の血として肯定したのは、他ならぬ己の父である。

 故、国家大事の今、一個人・一家の行く末などという瑣末に気を揺らすなどあってはならぬ事ですと反駁した。

 病床の父には、来る露西亜との戦いは生る。まずはこの未曾有の窮地を乗り切らねば、少なくとも家庭に時間を割くことは出来ませんと申し立て、父の言質を取らせた上で黙らせた。

 主を持つ以上の、より深い大義に生きよと納得した父と違い、親不孝と陰ながら母に泣かれた事は堪えなかった訳ではないが、この頃は陸大での勉学でそれどころではなかったのだ。

 

 ただ。これに関しては己のみでなく、軍人として身を立てる者であれば、ある程度肯定される意見であったし、誉れある恩賜組の一員として、忠勤に励んだ事が間違いであったなどと毛ほどにも思わない。

 日露戦争による国民の批判は確かにあるが、あれによって列強は立場を変え、日本国は五大国の一員にさえ加われたのだ。

 若かりし頃の己は、今振り返れば天狗となっていたのやもしれない。大日本帝国の輝かしい歴史の一助となれたこと。直属の上官のみならず、多くの将官から期待を向けられ、部下から羨望の眼差しを向けられた事。

 そうした中で、ただ酔い切っていた己は何と愚昧であっただろう。確かに勝利は極上の美酒であったのだろう。しかし、その酔が醒めた後を、どれほどの者が理解していたか。

 

「貴方?」

 

 知らず、戸を潜った自分を妻は夜分遅くにも関わらず、出迎えてくれた。

 いつ戻るか分からぬし、帰る事も出来ぬ日とて多いので、寝て構わないと常日頃より言っているのだが、この妻が出迎えぬ日はなかった。

 

「ああ、済まないな」

「滅相もありません」

 

 このやりとりとて、何時もの事だ。謝意を素直に述べても、殿方にそのような事を言わせたくないと妻は恥じる。

 だが、家庭を顧みれぬのは己の不徳である以上、述べずにいるのは道理が立たぬと思うし、己自身が許せぬのだから、我が儘と聞き入れて貰いたい。

 

「睦まじいこと」

 

 そんな自分たちを見てか、母はコロコロと嗄れた喉で笑う。

 

「母上、歌凜子は寝ましたか?」

「ええ。(なお)を待ちたいと駄々を捏ねていましたが、早く寝れば朝に会えると言えば、それはもうころりと」

 

 直と未だ幼名で呼ぶ母の顔は穏やかなもの。真っ直ぐ伸びよという願を掛けて付けた直真の通り、四尺六寸(約一七五センチ)の長躯となり、天井にぶつけかねぬ身となって尚、この母にとって己は稚子のままなのだろう。

 そうですか、と笑みを返し、灯りをなるだけ入れぬよう薄く戸を開けて入り込む。

 薄い布団で寝息を立てる娘の髪を、ただ静かに撫でた。

 

 歌凜子……『歌』は母から、『凛』は妻より一字を貰い、それで良いかと思うたが、妻は他の子らと仲間になれるよう、流行りの『子』を入れた。

 当世風とも言えぬ変わった名だが、今は愛しくて堪らぬのだ。

 

「人は変わるものですね」

 

 嫌味ではない。本心のものとして漏らした母に、己も頷いた。

 

「今は妻も娘も、愛しくてなりません」

 

 母を相手にとは言え、斯様に軟弱な言葉を漏らす男と知られれば、周囲より落胆と怒声が聞こえかねぬが、聞き咎める者など居る筈もなし、相好を崩して本心を吐露する。

 日露戦の後には家庭を持つと父母共々と約定し、家宝『吉岡一文字助光』にて指を切って血判を押した程であり、要はそれほどまで家庭を持つ事に消極的であった。

 それが今やこれなのだから、この母には頭が下がり通しである。

 

「そうでしょうとも。凛様は、本来ならば我ら黒ノ瀬の主たる御家のご息女なのですから」

 

 全くその通りでありますと一二もなく頷く。明治以降、士族の多くが事業に手を出しては倒れて来たが、妻である凛の家もまた、その例に漏れず自転車操業で糊口を凌いではいたものの、いつまでも続く筈もなし。

 かといって、出自卑しい成金の世話になるには、御家柄が邪魔をしたのだろう。

 結果。地元の士族でも、父が師範学校を難なく出た為に地に足が着いていた黒瀬家と……より正確には、将校として出世頭となった自分に縁談が回ってきたのだ。

 藩閥でないにも拘らず恩賜組の一員となった事から、地元では時の人として扱われていたのも大いに買われたのだろう。

 世が世であれば、それこそ平身低頭でご奉公せねばならぬお家のご息女を妻に迎え入れるなど考えられぬ話である。

 如何に数多く勲章を頂き、年金も含めた銭を持っているとは言え、それで喜ぶのは親だけの話。決して色男でもなければ面白みもない男を、うら若いご息女が好くとは到底思えずいたのだが……。

 

「一体私の何が良いやら、未だ皆目検討が付きません」

「直や。巷では恩賜組だの、神算鬼謀だのと煽てられているようですが、頭が固う御座いますね」

 

 お恥ずかしいと、お叱りに粛々と頭を下ろす。

 

「妻に問うても、ただ笑われるだけでして」

「凛様は、心の裡が解るお方で御座います。直は仕事以外で口を上手く回せませんが、それは嘘をなるだけ伝えたがらぬ、一途さである事を承知しておいでなのです」

 

 男尊女卑が罷り通る時代である。常に妻子を案じ、慕い、囁かなものであれ睦言を交わし、遠方に赴けば絶えず文を送る。

 それだけでも、母の時代からすれば十分と言われればそれまでだが、それは軍部の方針で海外留学に赴いた傍ら、他国における夫婦の在り方というものに感化されたからに過ぎない。

 

「私は、斯様な男では御座いません」

 

 元より、他者に対し横柄に振舞うことを嫌っていた事も大きい。嘘を吐きたがらぬのも、軍人としてはともかく、私人としては譎詐奸謀の働かぬ男でる事を自覚している為だ。

 

「知っております」

 

 ピシャリと言われ、背筋に氷柱が突き立ったかのように、心なしか一層ピンと背が張った。じとりとした汗が、軍人刈りの頭からコメカミヘ伝う。

 

「ですが、それは家庭を持たず居た頃の話。凛様にも、ご納得頂いております……とはいえ、女人ならばいざ知らず、陰間まで買ったのは頂けませんが」

 

 女も男も一度だけです、と口に仕掛けたが飲み込んだ。一度であろうが三度であろうが、不純不潔に相違ないのだ。

 一体若い頃の己は何を考えていたのか……いや、単に色を欲していただけだろう。そして買った女というものが指して上等でなかったが為に趣向を変え、陰間でも特に若く麗しい者を買い、結局そこまで楽しめるものでもなければ、時間も金も馬鹿にならぬと仕事に精を出したのだったか。

 思い返せば、悉く愚かさが目に付き、目に余るものであったが、己の恥以上に問題なのは母の言である。

 

「その、妻は知っておいでで……?」

「売れ筋の陰間を腰砕けにした挙句、岡惚れさせたと有名でしたよ。男の甲斐性ですのでと、凛様は流しておいででしたが、その日は懐刀を忍ばせておりました」

「……妻の元へ出向かせて頂きます」

 

 そうなさい。と半目となった母の言を背に、その場を心なし足早に後にするのだった。

 

 

     ◇

 

 

 かくして。洗い浚い過去の不純をぶちまけ、許せぬなら腹を召しますと匕首を置いた己に、妻は過ぎた事ですと笑うが、しかし目が笑っていない事は判っていた。

 女子より少年がお好みのようで、と小言を言われた方が何倍もマシである。或いは素直に腹を切った方が楽ですらあったが、母の言う通り、妻は心の裡というものが解るのだろう。己の胃と良心が、斯も痛くなる方法を心得ていた。

 楽に終わると思うてくれるなと。釘を深々と木槌で打ち込まれる心地であったが、全ての非は家庭を持つと約定を結びながら、清い身に在らず一時の情欲に流された己にある。

 

「貴方」

 

 声をかけられ、居住まいを正す。見れば、妻の視線は置かれた匕首にあった。

 やはり気が変わったので、腹を詰めろと申すのだろうかと考えたが、目が先程までとは違う。

 

「……何やら、御加減が優れぬご様子ですが」

「判るか……」

 

 そうだ。いっそ腹を切れればと、妻とは関係なく、そう思っていた。

 それが卑怯な逃げであると、誰より分かっていた為に出来なかっただけで。

 

「先日、陛下の行幸に扈従させて頂いた」

「はい。近衛の配属のみならず、侍従武官に任官されて以来の、喜ばしい事で御座いましたね」

 

 そうだ。己は他の武官らと同様、天にも昇るかの心地で同行し、そして……

 

「ここから先、他言無用に願う……言った処で、気狂いと思われるだろうが」

 

 歯切れ悪く、しかし目を逸らさず、起きた事を語る。己自身でも信じられないがと念を押しながら。

 

「あの日、皇紀元年の頃より湧く泉に、皆で足を運んだ。陛下が、呼ばれたのだと仰られたのが理由だ」

 

 朱塗りの鳥居の奥に湧くその泉は澄み切っており、その輝きは西欧、ドイツに伝わるニーベルンゲンの歌に描かれたラインにも勝る見事なものであったが、しかし、その場にいた誰しもが、陛下と共に足を運べたのだという歓喜に胸を沸き立たせる事は出来なかった。

 

「私は……、あの泉にいた皆が、そこで仙女を見た」

「は……?」

 

 聞け、と口を閉じさせる。

 

「誰も疲れていた訳ではない。目に異常があった訳でも、集団で毒を吸った訳でもだ。陛下でさえ、その光景に目を奪われた。ソレは、己を女神だと宣ったのだ」

「泉で? 高天原に坐のではなく?」

 

 だから仙女と言ったのだ、と応える。

 

「織姫を思い描くが早い。唐代の衣装に身を包み、羽衣を揺らす様などは正にそれであった」

「美貌に目を……?」

「いや、私には凛の方が眩い」

 

 お上手な事と笑う。釣り上がりかけた眉根が下りたのに内心人心地つき、本題に戻る。

 

「その仙女がな、見せたのだ……これから先、二十余年程までの先行きを」

「……良き事では、無いのでしょうね」

 

 ああ、と頷いた。でなくば、このような事を語らず、胸に秘めたまま忠勤に励めば良いだけだ。少なくとも、世界大戦と称された大戦(おおいくさ)は終わり、大日本帝国は青島を占領下に収めた。大恐慌とて、高橋是清蔵相による歳出拡大で徐々に持ち直しつつある。

 

「誰も、信じようとはせなんださ。陛下が居られた故、凶行に走る者は無かったが、それは幸いであったやも知れぬ」

 

 あの女神は言った。信じぬならばそれで良し。なれど、全ては真実であると。

 

「変えようとすれど、主らのみでは変えられぬ。日が東に降りぬのと同じ事だとな」

「では、何を以て、そのような先を見せたのですか?」

 

 既に妻は理解している。これが妄言の類ではないのだと。そして、それを見せた事には確たる意味があるのだと。

 

「察しの通りだ。仙女は……」

 

 口になどしたくはない。耳と目を、脳髄を抉り忘れ去りたいと、そう願わずにはいられない。だが……話す。後には引けぬ。引けるならば、このような事を口にはしない。

 

「……仙女は、陛下ご自身を、その御家の歴史を供物とせよと」

「……!!?」

 

 息が詰まったは、当然であろう。当世の日ノ本において、そのような事を許容する国民が居る筈もない。居たとすればそれは既に日ノ本の民草に非ず、畜生にすら劣る国賊である。

 

「『その存在を、これまでの信仰と歴史の全てを捧げる事でこの日ノ本を救う奇跡を授けましょう』と」

「泉を潰しては?」

 

 仙女が黒幕とあらば、それを考えるべきだろう。だが、そうではない。

 あの仙女は、確かに日ノ本を救済するために対価を提示したのだ。

 

「ならば、陛下以外の血では……」

「違うのだ。あの仙女はな、不遜にも陛下を劫殺したいのでも、人が苦しむ事を愉悦としているのでもないのだ」

 

 でなければ、帝国将兵全て枕を並べ泉の御前にて腹を切り、五臓六腑を投げ入れる事さえ辞さぬ構えであっただろう。

 

「仙女はな、奇跡を起こすには己の力では足りぬと申したのだ。だからこそ、陛下に白羽の矢が立った」

 

 この国で、神州大和において、今最も奉じられているのは何方か。論ずるに足らぬその問こそが答えなのだ。

 

「大日本帝国臣民九千万。その全ての忠誠と信仰を仙女が糧とし、定まり切った歴史の筋道を定まらぬ物として捻じ曲げる。その機は、二度目の世界大戦が起こった後には存在し得ない」

 

 何故なら敗戦の後、陛下は日本国の象徴にして実権を伴わせぬという横暴を受け、国民の意識すら変わる。皇室への敬意が薄れ、君民離別すれば国体は自然、崩壊し、信仰を糧にすることは不可能となるのだ。

 それ以前に、大戦が起これば泉そのものすら、米国の爆撃で吹き飛ばされてしまう。

 見せられた未来では、全てが後の祭りとなる。

 

「……陛下は」

「判っているだろう。慈悲深く温厚な陛下が、民草と保身の何れを選ぶかなど」

「ですが……!」

 

 ああ、そうだ。だからこそ、その場にいた全てが乞うた。ある者など、泉に入るならば、この場で腹をと軍刀を抜いた程である。

 とはいえそれは、その場にいた者ら全員の総意であった。

 

「だからな。仙女の言が正しいかをご確認して頂く事で、その場を収めて頂いた。

 仙女のお告げでは、今年の五月一五日、犬養総理が暗殺されるとの事だ」

「つまり、」

 

 そう。一週間後だ。

 前もって未来を見た以上、事件に直接関与した人間は全て満州に送り、首謀者も内密に処理した。既に総理官邸では、海軍内で不穏な動きありと、陸を中心に厳戒態勢を取らせている。

 

「あの仙女の通り、変わらぬというのならばそれで明らかとなる。蟻一匹とて入れぬ中、同月同日同時刻にて、青年将校に暗殺が出来るならば、な」

「もし……」

 

 それが出来てしまえば、どうなるか。口にするには、あまりに悍ましい未来である。だが……

 

「案ずるなとは言えん。正直、私とて震えが止まらんのだ」

 

 全てが真実であるのならば、この帝都は焼け野原となるのだろう。

 そこには、この妻と娘が……

 

「……貴方?」

「明日から、私も警備に穴がないか動く。寝食も、全てあちらで行う。だから、今日と明日の朝は」

「はい。歌凛子も、早く起こします……それから」

「いや、いつもと同じであってくれ」

 

 この平穏を。最も愛すべき日々を、噛み締めたいと願っているから。

 

 

     ◇

 

 

 その日以降、日露戦争の頃から常に険悪であり続けた陸海は、統帥部の号令下、総力を挙げて暗殺妨害に取り組んだ。作戦指揮には将官らが集い、犬養総理にも陛下より直々に先の一件を伝えられた。

 当日犬養総理には、総理官邸には一歩として近づかぬという措置を取って頂き、代わり陸軍参謀本部に待機して頂いた。

 知らぬ者からすれば、総理大臣といえどもこれ程までの厳戒態勢を取る事に、しかも政界という少なからず軍部との軋轢のあった存在に対し行うことに疑念を抱く者は多かっただろうが、大元帥たる陛下直々の勅命とあらば、誰とて嫌は言えぬ。

 

「参謀本部周辺に、それらしい動きはあったか?」

「いえ。警邏からは、そのような報告はありません」

 

 宜しいと下がらせる。例え参謀本部に乗り込めたとしても、侍従武官らは既にその時間、直接犬養総理に侍っている上、扉と通路にも兵を配置している。実現し得る残された手段を挙げれば空爆だが、観測の任に就いている者らからも、それらしい動きはない。

 残り五分。しかし、兜の緒を緩める訳にはいかない。

 

“残り、一分”

 

 銀時計の針を確認する。心の中で秒を刻んだのは、おそらく真実を知る全員だろう。

 

“五、四、三、二”

 

 瞬間、陸にとって聴き慣れた音が、参謀本部に轟いた。

 

 

     ◇

 

 

「総理は、総理はご無事か!!?」

「……残念ながら」

 

 こんな、こんな馬鹿な事があって堪るかと崩れた壁を殴る。

 総理が居られた部屋を知る者は限られている。限られていながら、警備に付かせた戦車から堂々と凶弾を撃ち込まれた。

 

「他に、犠牲者は」

「室内に居られた侍従武官は、全員」

 

 分かったと頷き、現場を見やる。

 撃ったのは陸の人間でこそあったが、年若い如何にもな青年将校であった。

 事前に配置についていた人間ではない。だが、詳細に関してはどうでも良かった。

 

「同月同日、同時刻……か」

 

 誰がやったか。どのような方法かは瑣末なことなのだろう。結果として犬養総理は暗殺された。結末を知る者らが如何な努力を重ねても、歴史という歯車には太刀打ちできない。

 

『小川を塞き止めることは出来ても、後の世にまで動かす津波は、人の手では遮れぬ。塞いだ小川とて、いずれまた流れよう』

 

 仙女が告げた言葉の一つを思う。個々人の運命を曲げる事は出来ても、大勢を動かす流れは変わらず、救った命も別の形で消えてしまうのだと。

 歴史を知った者達にとって、最も訪れて欲しくない、残酷な真実を目の当たりにした瞬間だった。

 

 

     ◇

 

 

 ご聖断は、迅速に下された。

 この日本国の国民(くにたみ)の、後の幸福の柱となれるならばこれに勝る喜びはないと述べられた。

 将官ならび、侍従一同は滂沱の涙と共に崩れたが、陛下は己も含め、彼ら一人一人の肩に手を置いて下さった。

 

“この御方こそ、紛れもなく日本国そのものであった”

 

 ならば、このお方を忘れてしまう己は、果たして日本国の人間であろうか?

 陛下を忘れ、安穏に生きる国民は、果たして日本国民なのだろうか?

 泉に入る陛下を見届ける多くは、その光景に涙した。

 こうあって欲しくはないと。代わらせてくれと。いっそ死なせろと。

 誰も彼もがこの現実に絶望する中、自分は違う事を願ってしまった。

 

“忘れたく、ない……!!”

 

 この結末を覆せぬのなら、変えられぬならば、自分だけは覚えさせて欲しいと。

 地獄に落ちて剣の山を登り、或いは永劫業火に焼かれようとも覚えさせて欲しいと。この場にいる皆と見届けて。

 

 ───それが、お主()の願いか?

 

 ああ、そうだとも。たとえこの後、どのような事が巻き起ころうと。誰一人、覚えていないのだとしても。

 

“私はこの国を、妻子を陛下がお救い下されたという大恩を───”

 

 ───その願い、聞き届けて進ぜよう。

 

 

     ◇

 

 

 目が覚めた時、最初に見たのは妻の横顔だった。

 

“何が、起きた……?”

 

 幸せな笑みを浮かべ眠る妻は一糸纏わぬ姿であり、それがあの事件から一週間前の夜であったのは確かだろう。

 ならば、これは過去ということなのか?

 

「……黒瀬様?」

 

 己が動いた為だろう。身を起こした妻は、先程までの夢心地と打って変わり、こちらの心を読み取ったらしいが……何故、姓で呼ぶ?

 

「少々、夢見が悪く……どうした?」

「いえ……その、ですが、これは」

 

 おかしい。己が狼狽えるならばともかく、何故妻がこのような顔を……

 

「すまんが、問いたい事がある」

 

 もしやと。一縷の望みを賭け、妻に問う。

 

「陛下を、覚えておいでか?」

「───いいえ」

 

 だが、返った言葉は否定であった。それに、その事実に。奇跡が成った事が胸を締め付けたが、ふと思い至る。

 

「何故、いいえなのだ?」

 

 陛下とは何方かと問うならば解る。だが、否定するという事は……

 

「先程までは、知りませんでした。陛下の事も、黒瀬様……いえ、貴方の身の上も全て」

「それは、どういう……」

「では、私から問います。貴方は、私の苗字をご存知で?」

「何を、」

 

 言うのかと口にしかけ、脳に激痛が走る。本来経験した筈の生涯。ここに至るまでの全てと、経験した筈のない己自身の記憶が混ざり合う。

 

「那須か、綾之峰か……」

 

 恐らくは後者。源氏の頃より続いた性を、この妻は持っていない。そして、この妻はもう、黒ノ瀬の性を名乗ってはくれまい。

 

「はい。どちらも正しいですが、後者で御座います。そしてここは、泉の女神より力を与えられし綾之峰家の中で、特に才ある者が星読みの巫女として生きる天鏡島。貴方はここで、」

「ご無礼。巫女姫様」

「下がりなさい。これが、最後の逢瀬なのですよ?」

 

 突如として現れた闖入者を見やる。黒子のような覆面を顔に垂らした巫女は、しかし、と躊躇いがちに口にした。

 

「ご当主がお見えになられております。如何に巫女姫様と契りを交わした殿御とはいえ、所詮は優秀な種を残すと見通された結果に過ぎませぬ」

「時間は取らせません。子の名付け親となって頂きたいのです」

 

 二人目かと思うたが、記憶を手繰った瞬間、自身でも狼狽したのが解る。巫女には、自分が乱心したかに見えただろう。

 

「歌凛子は、歌凛子は何処か!?」

「ご安心を。子は確かにここに。歌凛子……良き名です」

「凛……、」

「無礼な! 巫女姫様と呼ばぬか!!」

 

 我慢ならぬということなのだろう。思い上がりも甚だしいと腕を掴むが、所詮は女のそれである。分かっているとすげなく立ち上がり、非礼を詫びた。

 

「名付け親とさせて頂いた栄誉、私は生涯忘れませぬ」

「はい、貴方。どうか……息災、で」

 

 ふと見た妻は目を腫らしていた。それがどうしてなのか、この時の自分は、その真意を理解し切れてはいなかった。

 

 

     ◇

 

 

 綾之峰家。それが改変以前の歴史に代わる、日本国の天子様なのだと知ったのは、妻と別れ、別室で着替えながら記憶を整理してのことだった。

 

“日清・日露の戦いまでの歴史は、流れそのものは然程変わらぬ……違いはその後か”

 

 児玉源太郎大将は急死せず、陸は現実主義的思想を貫き、海軍も軍備整理に努め、陸・海・政は完全に一致した上で国家を動かしている。

 これは陛下が立憲君主制を重んじたのとは違い、絶対王権のそれに近い形で綾之峰家が舵取りを担ったのが大きいのだろう。

 常日頃から干渉するのではなく、あくまで有事に限る形なのだろうが、この点だけでも己が知る日本国との違いは大きい。

 

“何にも増して大きいのは、星読みの巫女の存在か”

 

 人の心を読むだけでなく、限られた範囲とは言え未来をも通すその術。

 それも、己が泉で経験したものと違い、定められた道筋を見るだけでなく、見通した後は干渉さえすれば変化させる事も可能となれば、歴史を動かす上で最強のカード足り得る。

 世間一般には神事を担当するのみと伝わっている様だが、その実、綾之峰家が国を動かす上で最大の協力者と言えるのがこの島の巫女達という訳だ。

 

“その巫女姫の子を為すのに選ばれたのが私というのは、皮肉だな”

 

 選ばれたのは、先に述べられた通り種馬として、最も優秀だという結果が占われたに過ぎぬとの事だが、それだけで無い気がしてならない。

 

“妻の寝顔を見るに、こうなる事を予見していたのではないか?”

 

 ここで、自分と出会い、契りを交わして異なる記憶を得る事。単なる夜伽の相手でなく、最も幸福な相手として……

 

“シェイクスピアの読み過ぎだな”

 

 ロマンチズムに走るにも程があったと自重し、軍服に袖を通す。

 これもまた本来の記憶と大差はないが、帽章が魔除けの星でなく、また近衛の桜葉も無かった。金メッキの施された華の帽章は、綾之峰家の家紋に与ってのものだろう。

 

“銀飾緒も侍従武官章もなしか”

 

 だが、鏡に映る己は五十近く、短冊型の肩章も記憶と同じ大佐のそれだった。

 

“私自身は日露以後、短期間の海外留学を経て政情不安も鑑み、参謀本部付から工作任務従事も視野に入れた露西亜の駐在武官に転身。世界大戦の方は……成程、皇太子暗殺は日本の派遣大使によって食い止められたか”

 

 歴史を知る強みが遺憾無く発揮されている。戦争がない分、技術の進歩は多少なりとも遅れるだろうが、少なくとも現状日本国は軍事より経済に力を注いでいる。

 

“独逸皇帝は未だ健在。露西亜もニコライ二世が在位したままか”

 

 十月革命は成らず。これを良しとするか否かは知れぬが、少なくともこの一件でも日本国は抜け目なく貸しを作っており、実感はないが駐在武官を務める傍ら、己も一役買っていたらしい。

 

「ご当主がお待ちです。お早く」

 

 戸を開け、急かされる声に分かっていると言外に示し、軍帽を脇に携えて部屋を後にした。刺すような女の視線は、妻の件以上に何処か個人としての私怨が混じったように感じたが、こちらの己の記憶を探れど、思い当たる節はなかった。

 

 

     ◇

 

 

「此度の伽、大儀であった」

「勿体無きお言葉」

 

 綾之峰家当主への拝謁の栄に与ると知り、妻がいるかと思ったが、どうやら既にそちらの用向きは済まされたらしい。

 緞子の向こうには、不自然に声を作っているが、何処となく若い声色である事が伺えた。

 

「貢献に報いる故、近う寄れ」

「はっ」

 

 示された場。緞子から伸ばされた手が届く位置まで歩を進める。

 

「……覚えているのだろう?」

 

 その瞬間、己以外聞こえぬ声で、当主は笑うよう口にした。

 

「良い良い。この場でどうこうしようとは思わぬでな、警戒してくれるな。さて」

 

 控えた巫女が、恭しい所作で掲げられた勲章を、当主は己の胸につけた。

 二匹の龍が円をなし、その中心に家紋が描かれたそれは、幕府が作成を企図していたという葵勲章に近い。

 

“綾之峰家に対し、特に功労ある個人が授与対象とされ、年金授与のみならず一代限りの有爵者とすることを認る、だったか”

 

「餞よ。お主にもまた、この国の礎となって貰わねばならぬ故な」

 

 妻の時と違い、言葉の心理を読み取るのに、然して時間を要しなかった。

 

 

     ◇

 

 

“ここが、年貢の納め時か”

 

 当主の言から解っていた事であるが、本土へ戻り、かねてより確約されていた少将でなく中将への特進が言い渡された時点で、この結末は納得済みだった。

 日本軍は殉死等の例外を除き、他国のように功績に対し特進するなどという事は無い。あくまで進級は成績と年功序列であり、その枠を逸した時点で他の者らからしても何事かあるのは容易に察せられただろう。

 

 対米関係の悪化に伴い、米国は日本国に対し中国利権の一切を手放すよう勧告したが、日本国はこれを拒絶。

 結果、南方諸島へ米国軍が奇襲攻撃を仕掛けたのは、中将への特進が決定すると同時に島流しも同然の憂き目に遭い、この地の司令官に任ぜられてから、僅か数日の事だった。

 

“星読みの巫女が居ながら、外交に手抜かりがあったとは考え辛い”

 

 実に壮大な嫌がらせと思わなくはないが、流石に己一人を処理したいが為の物ではなかったのだろう。ここに集められた者は、皆現実主義的立場から軍の禄を食む者でなく、精神論的行動を主軸とする者や、幼年学校出身という立場を誇るばかりで実務には役立たぬ石頭ばかりであった。

 

“統帥部から、一度として派遣された参謀はなし。幾度電報を打てども『目下交渉中故、防衛に務められたし』の一点張り。各方面軍の連絡も沈黙”

 

 単純明快さもここまで来れば清々しい。そもそもにして、味方艦隊の艦影さえ一度として拝めぬ始末だ。

 

“おそらく、世論とは異なり、本国は米国と共謀関係にある”

 

 中国利権の一切合切は初めから米国に委ねる気であり、インフラ整備や外国工場を最小限に止めていた事からも、これは確実。中国利権を欲しているのは欧州も同じだろうが、日本が実効支配している地域だけでも米国の旨みは大きい。

 

“日本は膨張の可能性を持つ軍備を敗戦という形で縮小。最悪沖縄まで食い込む可能性はあるが、これを機として敗者であることを理由に法整備まで手を出せば採算は取れると踏んだか”

 

「閣下、最早……」

「ああ。生きて虜囚の辱めを受けずと、自決するのは容易いが」

 

 それでは詰まらぬだろうと、拳銃を抱いた中佐に笑う。

 

 掃き溜めに集められた者らと違い、この中佐は優秀だった。

 立案する作戦は具体性を伴い、作戦が決定した後の各隊長への監視と指導、連絡は何れも充分であり、情報整理も申し分ない。兎角挙げれば切りがないほど、何故このような僻地に飛ばされたのかと首を傾げたくなる男だった。

 

「負け戦に付き合わせた。私の首を手土産に、白旗を上げても咎めんが」

「ここは中世では有りません。何より、自分にも意地があります」

 

 これである。既に靖国に向かった者共同様、この中佐も実に愛国心に厚い。

 何より、負け戦に腰を砕かぬ骨の太さも実に好ましく、歴史が変われど、この中佐が己の知る男のままであった事が、誇らしく喜ばしかった。

 

「侍るなら一兵卒として死ぬが、覚悟に変わりないのだな?」

「お供致します」

 

 宜しいと、己にとってはどうでも良い、綾之峰の勲章を胸につけてやる。

 

「参謀飾緒を無駄にさせたな。誇れ、辻口(つじぐち)中佐。今より貴様は、最も勇敢な一兵卒だ」

「……」

 

 だが、どうした事だろう。この少佐は、胸につけた勲章を、まるで無価値なもののように弄ぶのを見て、そこで気づく。

 

「中佐……まさか貴様も」

「閣下。願わくば、綾之峰の勲章でなく大佐殿と呼ぶことを、お許し頂けますか?」

 

 不覚にも、目尻に浮かぶものを抑えきれなかった。

 嗚呼、居たのか。こんなところに。こんなに近くに、同じ事を願った者が。そして、だからこそだろう。この男ほどの参謀が、捨石にされた理由は詰まる所そこなのだ。

 

「覚えているか? 同じ侍従武官であった頃を」

「はい……得難い時間でありました」

 

 私もだと軍刀を携え、死の行軍を開始する。

 このような愚行は、軍歌の中だけと常日頃より思っていた。

 後方支援に欠けた突撃など愚か者のする事であり、平時であれば散々なじる死に様を、自分自身でするとは夢にも思わなかったが……。

 

“捨石には、相応しい末路だろう”

 

 心残りは、妻の最後の言葉か。

 あの日、声を詰まらせた妻はおそらく、今日という日を予知してしまったのだろう。この、馬鹿馬鹿しい死を。逃げ場のない檻となった土地で、屍を晒す己の事を。一度として、産まれる子に顔を見せず消える己を見てしまったのだ。

 

「済まなんだな……」

 

 つくづく、己は不徳な男であったものだ。

 

 

     ◆

 

 

「いいえ」

 

 夫と離れてより数刻。これから起こる未来を両の目で見通し、凛は謝意を述べながら散る夫に、そう声をかけた。

 

「不徳であったは、私の方」

 

 彼女は契りを結んだ後の結果を知らなかった。ただ占い、綾之峰に影を落とすやもと現当主に事前に告げてしまったが為に、夫は部下共々死地に投げ込まれた。

 より深く。より広く未来を見通していたならば、きっと夫は……

 

「ですが。いずれお会いできます。私は老い、貴方は若くなって」

 

 言葉の聞こえた者がいたとして、理解できるのは島の者と当主だけだが、当主の身は既にこの島にない。

 

「巫女姫様。そこは冷えます故、お体に障ります」

「見送らせても、くれないのですね」

「あれは種馬。夫とは認められませぬ」

 

 分かっている。だからこそ、本来婿養子として綾之峰の性で呼ぶべき所を、黒瀬と呼び続けたのだし、戸籍の上でも決して夫婦とは認められない。

 

「ですが、娘は父を思うでしょう」

 

 この未来視の力を。泉の女神の力より授かった引き継ぐとき、母の記憶を読み取る事で。

 あの、日向の日々を心に刻むだろう。

 

「……陰間を買う不埒ものが父と知るのは不幸かと」

「おや? こちらの黒瀬様は、そのような事をしておらぬ筈ですが」

「……目を合わせた折、記憶を。正直、後悔しております」

 

 それは、不埒なもの見たからという意味ではあるまい。彼女の言葉は、己自身を支えていたものが揺れる音でもあった。

 

「信じられませんか? 全てを捧げ、この国をお救い下さった御方が居られた事が」

 

 夫が奉じ、忘れぬと誓った、日ノ本全てにとっての象徴たる大恩人の居た事が。

 

「であれば、綾之峰に尽くす我々は何なのでしょう……? いえ、我ら国民(くにたみ)の全て、授かった大恩を忘れながら日ノ本で幸福を得る権利はあるのでしょうか?」

「無論、御座いますよ」

 

 それが陛下のお望みになられた未来であり、それを壊したくないが為に、夫もまた死する時まで綾之峰に恨みの一つも零さなかった。

 

「捧げられた事で、得られたモノを無碍には出来ません。我らが尊き御方々意志の上に立ち、幸福を食み続ける以上───」

 

 ───この力を以て、日ノ本に尽くさねばならないのだから。

 

 

     ◇

 

 

「ところで、温厚な貴女らしくもありませんが、何故黒瀬様を毛嫌いなさったので?」

「……あちらの日本国で種馬に買われた女人は、この私に御座いまして」

 

 ぴきりと、告白する巫女のこめかみに青筋が浮かび。

 

「指して、上等なものではなかったなどと思われては……、その、苛立たずには居れぬと申しますか……」

「……それは、夫に非がありますね」

 

 過ぎた事と流した為、深く思い起こさなかったが、成程確かに若い頃に夫が買った女人と、この巫女の容姿は一致する。夫が顔を覗き見ていれば、間違いなく思い出しただろう。

 

「その猛りは、来る日にぶつける事を勧めます。何、百年もせず会えますよ」

「その間、現役でいろと仰るのですね……」

 

 向こう五十年もすれば新たに才気ある者に力を託した後、下野し殿御と家庭を築く事も可能な筈だが、それをせずここに留まれとこの巫女姫は言うのだから、理不尽という他ない。

 如何に巫女が力を持ち続ける限り、老いぬ身であるとはいえ、だ。

 

「ですが、貴女は少なくとも数十年見通しても、浮ついた話は……」

「……お許しを。巫女姫様のお言葉は言霊も宿ります故」

 

 口にすれば、それだけである程度の力を宿すほどに強大な異能。ただ、これは見通す術ほどのものではなく、あくまで気休め程度のそれでしかないのだが。

 

「何にせよ、この子をお願い致しますね。夫が居ないと、すぐにぐずってしまう子でしたから」

 

 未だ見ない筈の子を宿した胎を撫で、消え去った過去を思い返す。力を授けた巫女は、後は唯人並みの寿命を得て老いる。

 数十年の先。親子三人が揃うのは、ただ一度きり。死を控えて臨まねばならないのだと承知している。けれど、その日を幾度となく見通しながら妻は待つ。

 姿形も、声も変わってしまう夫を───

 

 ───これからずっと。ここで待っていく。

 

 

 

 




 蛇足ですが、主人公が送ってた妻へのラブレターは多聞丸閣下みたいな感じでございます。
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