時間は綾之峰英里華が、安田登郎を知るより前に遡る。
高校一年目初となる中間試験を終え、学年順位一位から最下位までが、得点を含め廊下に張り出された頃である。多くの子女らは、この格付けを暇を潰す意味で覗き見ていた。
特別科と普通科の違いはここにもあり、特別科に関しては個人のプライバシーが尊重される反面、普通科は当然の如く晒し上げられるが、やはりそこは庶子と言えども磨き抜いたもの。
最下位であろうと赤点など存在せず、上位陣に到ってはケアレスミスが勝敗を大きく左右するところなだけに、子女らも家柄や財に胡坐をかいて見下す真似は出来なかった。
尤も、そうした品性を疑われる行為自体、ここの子女らは慎んだだろうが。
“逃したか……”
眼鏡をかけた理知的な少年は、歯軋りこそしないまでも、二位という位置が余程堪えたらしい。
足早にその場を去りたい衝動に駆られはしたが、しかし試験後は子女らと交流という飴が与えられる事と、何よりここで去っては器の小ささを謗られるという事を危惧し、少なくとも表向きは泰然と構えて見せた。
だが、一位と二位の違いは大きい。誰とて一番上から見るであろうし、自分とてそうされたいが為に努力もした。
ならば、この位置に立つ男子はどのような人物か? それを確認する上でも、少年は件の男子へと視線を向けた。人はボロを出すものだが、それは何も挫折した時ばかりではない。
勝ちを得、増上慢に到る者というのも当然の如く存在するだけに、ここで成績でない部分を見極める事は、この少年だけでなく子女らにとっても重要な事だった。
「…………」
が。当人は遅れてきたかと思えば僅かに見上げ、すぐさま教室へと戻ってしまった。一七〇半ば近い身長から、人込みをかき分けずとも結果が見えた為だろう。
あくまで確認作業に過ぎないというその態度は余裕の表れかとも思ったが、やはり醸し出す空気に、そうした功名心というものを感じない。
あるがまま、ただ結果を受け止めるというその姿を澄ましていると見るか、自然体と見るか。おそらくは、姿を見た誰もが、この二位という位置にある少年でさえ後者だろうと息を零す。
ここに集った男子であれば誰もが持ち得る欲求を、勝ち上がりたいという意気心胆を、あの男は持っていなかったのだと。
◇
当然ながら、数少ない交流の機会にあってさえ、男……安田登郎は、一人黙々と参考書を開いていた。
他のクラスの男子達は人付き合いが悪いのかと訝しみ、であれば、ここではやって行けないだろうと誰もが思ってたが、その考えは時間を経てすぐに消え失せた。
どうやら自ら進んで干渉しないだけであり、決して人を寄せ付けぬという訳でも無いらしい。成績が芳しくなかったクラスメイトが声をかけ、要点を丁寧に教えた所から始まり、次いで遠慮混じりに近づいてきた子女らも、教え方の巧みさから声をかけられては応えていったが、その間にこの男は嫌な顔一つせず、寧ろ進んで鞭を取っていた。
「私からは以上ですが、何かご質問は御座いますか?」
その口調に、思わず子女らの口端が動いたのも致し方ないだろう。この齢の庶子が己を私と呼称する所もだが、何より喋りに時代がかった感じが否めない。
クラスメイトにしてみれば、今日という日まで幾人か会話した事がある分慣れてはいたが、この落ち着いた空気も合わされば、まるで退職した教師と会話をしているようで、現に他のクラスの男子に到っては吹き出す者もいる始末だ。
「少し良いか?」
そうした中、ずいと前に出たのは、当学園切っての有名人であった。
綾之峰家より、英里華の身辺警護と補佐を仰せつかった侍従の纏め役。周囲の子女から、親衛隊隊長と持て囃されており、近習の役職に違わぬ才女である。名を。
「構いません。芹沢さん……と、お呼して宜しいですか」
ほう。と芹沢は静かに目を開く。自己紹介を覚えはなかったが。
“他所の会話を盗み聴いたか? であれば、随分と俗なことだが”
「そう眦を釣り上げず。立ち上がりこちらに来る際、幾人から名を呼ばれれば、自然と耳に入るもので」
確かにその通りである。余程勉学に集中しているか、過度の狭窄視野でない限り、男の言う通り耳にも入る。
「確かに私の無礼だった。私を呼ぶのはそれで構わない。貴様が安田だな?」
「はい。普通科一年、安田登郎と申します。無礼と言うならば申し遅れた私にもございますので、お気になさらず」
まるで好々爺だと芹沢は思わずに居られない。人の顔色を伺うのは慣れているが、謙っているような素振りもなければ、バカ丁寧な口調にも下卑た下心は伺えない。
話しかけた子女らが、こちらの差金と気づいて尚、腹を隠しているなら大猩々と言わずにいられないが、何にも増して瞳から野心を感じられない事からして、腹を探ろうとした事自体愚かしく思えてしまう。
「それで、御用の向きは?」
口実であれば、他の者ら同様、解りかねる部分があると言えば容易いが、実際は普通科が学ぶ範囲で解らぬところなどない。何より、同年代の侍従を纏め上げる立場にありながら、虚偽を申してまで一介の庶子から教えを請うのは躊躇われた。
「いや何。素直に優秀な男だと感心してな。学友として、友誼を結びたいと言うのは可笑しいか?」
子女、男子らを含め、聞き違えたかと周囲に動揺が走る。
特に子女らに関しては、あの潔癖性で知られる芹沢が、あろう事か羨望から未だ会話に踏み切れぬ子女を差し置き、庶子の男などと友情を深めたいなどと言えば、それこそ卒倒しかねぬ事態であろう。
「失礼を致しました。女心の機微には疎いもので、女子の口から述べさせてしまうとは」
「言った通り、恋慕でなく友誼だ。畏まる必要はない」
それでもです、と安田は正面から見据えた。
そうした面も悟れないのは甲斐性のない男のする事だと思っているのか。つくづく前時代的だと嘆息したが、芹沢自身も旧時代的価値観の持ち主である以上、他人のことは言えぬ身である。
「しかし参りました。世間話に花を咲かせるにも、何分、口下手なものですので」
「構わん。私とて、男と面と向かっての会話など楽しめた試しはない」
事実である。幼少より姉に試練と称して、見合いの席を幾度となく強引に設けられただけに、芹沢は男というものに内心一定の距離を置かざるを得なくなっていた。
それを弱点と姉は称しているが、そもそもにして原因は強引な姉そのものにある。
それでもこうして曲がりなりにも会話が出来るのは、やはりこの男が、これまで見たどの若く、進んで芹沢に関わろうとした男共とは大きく異なるからだろう。
……何より、どうしてかこの男には、親しみというものが感じられた。
「では、共通の話題を出すとしよう。英里華様の事だ」
さて。この男は目の色を変えるか否か。
市井の者ならば、興味にしろ色恋にしろ、お近づきとまで行かずとも、人生で一度相見えればと思うであろうし、この男のように前時代的で、かつ保守的な空気を持つ男にしてみれば、それこそ逢瀬を交わすこと自体誉れとするに違いない。
「宜しいので? 男子の間でも、芹沢さんの立場は有名ですが」
「世間話だ。職務に関わらず、不敬にならぬ範囲であれば問題ない。ああ、それでも是非一目会いたいと言うならば、口聞き位はしても良い。今日は本邸に呼ばれている為、拝謁は明日以降になるがな。私がここにいるのも、姉が傍にいる為だ」
このような機会、二度とないが? と暗に示し笑ってみせる。
しかし、飛び付くどころか、さり気なく興味があるといった風さえ見せない。
「過分な栄誉ですが、芹沢さんにご迷惑をお掛けする訳には参りませんので」
「私に、か」
てっきり英里華様のご心労となりますので、などと口にするかと思ったが。
「……見当が外れたな。貴様は国と主君に身を擲てる人間だと思っていたのだが」
「いいえ。確かに私は、日ノ本を想っております」
微かに細められた目。そこには、今を生きる人間とは隔絶した何かがあった。
自分自身の大望。或いは芹沢のように、綾之峰という仰ぎ見る主君に全てを捧げんとする忠義……言い換えれば、身を犠牲にしてでも守りたい何か。
そうした人が持って然るべき全てを、どうしてもこの男からは見出せない。
“自身の将来の目標も、大切だと願う何かも、まだ定まっていないのなら解る。だが”
この男はそれらを一度得ていながら、人生の何処かで置いてきている。もう手を伸ばそうと届かない、そんな遠い彼方に。芹沢と同じ齢の、それも庶子の男が。
「貴様、親兄弟は?」
「両親と姉が一人。皆息災です」
穏やかな瞳。そこにある慈しみの色は、間違いなく肉親を思う心に溢れている。冷血であるという訳でなく、親への孝と家族の繋がりを忘れぬ出来た男ではあったらしい。
ならば、置いてしまったものはそれ以外の筈で……ああ、すると益々見当がつかない。
「負けだ。貴様という男は判らん」
素直に両手を上げる。それを癪だと思えれば良かったが、壁にぶつかるというより、柳に風であっただけに、そんな気も起きない。
「芹沢さんはお若く、聡明です。私のような未練がましい男に、気を揉まれる事は御座いません」
「褒めてくれるな。警護を担う侍従が、人一人の、まして未だ青い男の裡すら読めなかったんだぞ」
だが、未練がましいというは収穫だ。この枯れ木めいた男にも、そうした所はあったらしい。或いは、語らずとも良い事を気遣って口にしてくれたのやも知れぬが。
「さて、宴もたけなわだ。次の授業もあるので、お暇するとしよう」
「ええ。その時は是非、芹沢さん自身の事をお聞かせ願えますか?」
「さらりと口説くのだな」
そのようなつもりでは、と安田は一歩引く。その姿を見て、ようやくこちらも一本取れたと笑を作った。
「ああ、英里華様の事を話すといったが、あれは嘘だ。食いつけば切って捨てていた」
「承知しておりました。与り知らぬ場で囀られるのは、当人にしてみれば愉快な筈もないでしょう?」
「違いない」
無遠慮にもどのような生活を送られているのかと内々で語らっていた男共に視線を投げ、軽い足取りで教室を後にした。
そして、誰も居なくなった場で、芹沢はふと思い返す。
「『はじめまして』とは言わなかったな」
それが単なる手抜かりであったかどうかを理解したのは、物語が進んでからである。
原作がラブコメなのに、全くラブのない駆け引きな件。