「思い残すことは、ないでありますか?」
「死にに行くような言い草ですね」
これは失敬と笑うジーヤに、安田もまた笑い返す。来た時とは逆に、空港からヘリで向かう形となったが、以前と違うのは民間ヘリでなく二〇一四年現在、自衛隊に配備されて間もない
旧日本軍の軍人であった安田が、米国製の輸送機で本土に舞い戻るというのは皮肉な話だが、元より彼は使える物は使う主義であり、道具に対して差別意識など持ち合わせてはいない。
「流石に速いですね」
「万里華様にお礼を言わなくてはなりませんな。綾之峰の権力フル活用でありますから」
現在、この輸送機に乗り込んでいるのはジーヤ、安田らといった天鏡島の来訪者六名。そして生き残った巫女の中でも、精鋭たる古参巫女が十と、それを率いる巫女大将に歌凛子である。
巫女たちは誰もが一様に得物を磨き、火器を隈なく点検していた。
「戦地にでも赴くようでありますな」
確かにと皆笑うが、事実その通りであることは、口にしたジーヤとて理解していた。征麻呂の私兵が、規定の時間に奥屋敷に踏み込む事は目に見えている。未だ奥屋敷から連絡がないのは、恐らくは既に制圧されたからか。
或いは、予期していない
「見えましたね……ですが」
それを見た誰もが、英里華同様に息を飲んだ事だろう。
壮麗にして歴史情緒ある奥屋敷は、地が割れ溢れた地下水に飲まれ、また人為的な破壊によって見るも無残な姿に成り果てていた。
「叔母様は、ご無事で……?」
「心配ないでありますよ、英里華様。幸運にも財閥関係のお仕事で、奥屋敷どころか市を離れていましたので」
思わず胸を撫で下ろしたのは、安田も同じ。たとえ一日だけの関わりであったとしても、母の友人を死なせては目覚めが悪いし、何より親子の仲を取り持ってくれた恩人なのだ。
「ですが、食い止めねば何処に逃げたとしても同じ事です」
ああ、分かっている。巫女大将の言う通り、破滅に転がり進む全てを食い止めねば、後にはただ厄災が待っている。
「でも……本当にいいの? 登郎」
彼にとって、大刀自は仇で。何より、陛下に成り代わって日本国を手にした存在の筈だと征綺華は問う。もしやすれば、ここで死に至るかも知れないというのに。
「迷いはありません」
助けると決めた。ここに来るという事を選択した。
ならば後は進むのみ。狂にして愚。後先など考えぬ無謀極まりない馬鹿者に、二人の少女は静かに笑う。
これが、この少年がこうだからこそ、自分たちは好きになれたのだと。
報われた少女も。選ばれなかった少女も。
好きであった事そのものに、決して後悔などしない。
「ほれ、父様の戦勤めじゃぞ。きっちり嫁として仕事をせんか」
そして、歌凛子は選ばれた少女にある物を渡す。
「
「付け方は教えてやる。将来の伴侶なれば、父様の覚悟を形にしてみせい」
胸に交差するよう巻きつけた白襷。それを背中で縛り止めるのを見届けてから、よしと満足げに頷いた。
「初めてにしては上出来じゃ。さて、其方も」
私も? と、もう一人にも白い布を渡す。襷と比べ短いそれは、おそらく鉢巻なのだろう。
「できれば我がしたいところじゃが、背が足りんでな。何より、父様には死んで欲しくなかろ?」
願掛けという奴じゃよ、と。制帽の上から巻かせてやる。
文字も何もないそれからは、前世で妻に送った香水の香りがした。
「母様も、この国の何処かで生きております。父様、どうかその事をお忘れなく」
出会えず、知らず、分からずとも。かつて愛したその人が、何処かで幸せになれるか否かは、この戦いにかかっていると。
それが何処かを見通せながら口にしないのは、歌凛子もまた母との決別を誓ったからだろう。
「居たのか……」
遠い異国でなく、この日本に。
「はい───もう二度と、お会いする事は叶いませぬが」
「構わない」
そこに後悔など、決してない。
今という世に生き、幸せなって欲しいと願うのは、安田もまた歌凛子と同じだった。
「準備は済ませたでありますか?」
着陸するというジーヤに、一同は顔と心を引き締めた。
◇
敵影は何処にもない。護衛を任せた攻撃ヘリからも奥屋敷内での動きは見えない事から、内部に潜んでいるのかと訝しんだが……
「手を拱いている訳にも行かんじゃろう。巫女大将、頼めるな?」
御意、と歌凜子に命じられるまま、白刃を抜いて巫女らを率いる。それに続くべく芹沢らも後を追い始めたが、待てと腕を掴まれた。
「其方らは駄目じゃ。我と一緒に残っておれ」
戦力外だと言う事なのだろう。奥に進むにしたところで、安全が確保されない限りは絶対に認めんからなと歌凜子は口を酸っぱくして聞かせる。
「ですが、」
「信じて待つのも、女子の度量ぞ」
良いな、と有無を言わせぬ口調で、しかし彼女らしい優しさからなのだと判ってしまう。
後ろ髪を引かれながら、残る事を決めた女たちから一歩、違う影が前に出た。
「……登郎」
「男だから、行くなどとは言わないで下さいね」
そうではない。そんな事、応えた安田自身だって判っている。
きっと、これから安田は普通の親子であったなら恨まれる事をしてしまう。例え直接手を下さなかったとしても、それは彼自身がしなかったというだけなのだ。
「恨んで頂いて、構い───」
「───誤魔化さないで」
だが、それも違う。本当に征綺華が聞きたくて、伝えたいのは……
「君を好きなのは、君に恋した女の子たちだけじゃ、ないんだよ」
だから。嫌になったら、逃げても良いから。
どうしようもなくなったら、諦めたっていいから。
「死んじゃ、駄目だよ……僕は、泣きたくないんだ」
「はい。私も、征綺華さんには泣かれたくはありません」
これ以上は留まれないというように、安田は背を向けて行ってしまう。
それを、ちゃんと見送れたら良かった。真っ直ぐ去って行く背を見届けられたなら、きっと綺麗に別れられたんだろう。
“駄目だな……前、見えないや”
きっと、彼は約束を守ってくれる。そう信じていながら、どうしても不安を拭いきれなかった。傷つくことに───耐えられなかった。
◇
門より踏み入った先にも、人の気配はない。
木々は折れ、庭は崩れ、広がる景色は上空から垣間見たのと同様、唯々無残に死に絶えている。
「巫女大将、駄目元で訊くでありますが、『未来視』は使えるでありますか?」
「……使用そのものは問題ないが、使えば大刀自様に負担を強いる。巫女姫様が残られたのも、そういう事情だよ」
一度使えば、それこそ『鏡』は亀裂どころではなく完膚なきまでに砕け散る。だからこそ天鏡島の時と違い、慎重な足取りで踏み込んだのだが……。
「静かに過ぎる」
「確かに。大刀自様の命で早々に脱出した者らはともかく、護衛官ぐらい残っていても良さそうなものでありますが」
残っているというのは、何も生きている者だけを指している訳ではない。
如何に敵が精鋭だとしても、両陣営いずれかの遺体一つは有って然るべきであるし、そうでなくとも交戦の痕は残る筈だ。
ちゃぷ、と踝まで水に浸かる。湧き出た水は長靴の上からでも冷たさが伝わるが、そこに不快感はなかった。ばかりか、この水の感覚を、安田は知っている。
「……泉の女神」
「綾之峰山の水脈は、市街地一体にまで及んでいますから。安田少年の知る女神様の泉も、ここが源流の可能性があるであります」
成程と、ジーヤの応えに感心したように屋敷へと更に歩を進め───
───途端。込み上げる吐き気と不快感に、誰もが地に伏しかけた。
「これは……」
進むべき足を固めかねない程、警鐘を鳴らす防衛本能。ここに留まるべきでないと判って居ながら、それでも眼前の脅威に足を竦ませてしまう小動物にも似た心境。
この感覚の正体が何なのか。既に経験し知り得ているジーヤでさえ、喉元からせり上がる吐き気に思わず口元を抑えかけた。
「……、っ」
脈打つ心臓の音が響く。『鏡』と直接相対した時程ではない。だからこそ身を固めても、先に進むという意思を揺らがず己を保てている。だというのに、あの時と違う『何か』がある。
明確に異なるそれが何かは分からず、しかし進まぬ訳にも行かないのだと奮起した所で、悠々と背後から前に出た男が一人。
「安田少年は、大丈夫なのでありますか……?」
「恨み辛みの類は、慣れていますので」
身に叩きつけるような、全身を縛るような感覚。
憎悪、怨恨、悲痛、悔恨……これは人の怨念であり、他者を妬む負の発露。何故、どうして自分がと嘆きながら、同時に他人を恨まずにはいられない人の感情そのものだ。
綾之峰に奪われたもの。綾之峰に阻まれた可能性。未来に介入さえされなければ、勝者になり得ていた者達の想念が、意思を持って阻んでいる。
「おそらく、我々が大刀自を救出しようとしているからでしょう」
行かせるものか。諦めて戻れ。渦巻く凶禍は天鏡島のそれと違い、無作為な呪いが指向性のある妨害へと変質していた。
「ミス・マクミランらが、進もうという意思を持てているのも、そういった理由かと」
これが、誰をも狙わぬ無秩序な災害のような力であれば、思わず身を怯ませたのかも知れない。だが、これには確かに人の持つのと同じ意思がある。来る者を阻み、汚し、否定しようとする悪意がある。
「……成程。通りで」
動ける筈だ。進める筈だ。人の悪意など誰であろうと体験するし、ましてジーヤは綾之峰に敵対する多くと相対してきた身だ。
如何に恐ろしく強大であれ、それが抗うべきものであるなら乗り越えられる。
安田が誰より先んじて前に出て来たのは、やはり乗り越えた修羅場の多寡が如実に出た為か。日露から世界大戦まで、生きる事がドラマであった激動の時代を潜り抜けた猛者にしてみれば、不条理に蝕まれた人間の怨恨など、日常であったに違いない。
お前達は確かに不条理に敗北したのだろう。本来ならば、栄達を約束されていたのかもしれない。
だが、それが何だ? 人生とは争いで、生きるという事は必ず他者を踏み越えていく。それは非日常の世界でなく、日常でこそ多くを味わう。
或いは受験。或いは就職。己より上を行こうとする意思が、己の未来を阻む事は往々にしてあるのだろう。
無論、綾之峰の方法が理不尽であった事は否定しない。努力の上にある物でない事は承知しているし、これが敗者の正当な反逆である事も理解していた。
それでも───恨まれようと、相手が正しいのだとしても。己の目的の為に進むことを、決して安田は止められない。自分には既に、奪われた者たち以上に大切な物があるから。手放したくない多くが、お前達の阻む先に待っているから。
だからこそ───影から身を躍らせる障害に、安田は一切の容赦をしなかった。
「────」
交差する視線。意識の失せた表情と、繰り糸に手繰られたような手足を踊らせながら凶刃を振るう男の頭蓋に、安田は肩より提げた
「───巫女大将殿。刃があらぬ方に向いているようですが?」
ぴたりと。首筋に当てられた白刃に、引き金を絞る指を止めた。
「貴様は動くな。我らがやる」
巫女らは複数人がかりで正気を失った護衛官を押さえ込み、手錠を手足にかけて転がしている。随分と準備の良いことだが、おそらくは『鏡』から溢れた呪詛が、このような効果を及ぼすことを予見していたに違いない。
“人を操る事もするのか”
未だ首筋に刃を添えられたまま、視線だけを下げる。さながら悪霊。手足を封じられた護衛官は、未だ憑かれたように狂い猛り、犬歯を剥き出しにして巫女らの足首を噛み切ろうと身を捩っていた。
犬歯は既に即席の轡を噛まされている為に砕けず済んでいるが、完全な無力化と同時に護衛官は床へと身を沈め、湧き上がる水で溺死しようとした。
拘束している巫女が止めなければ、そのまま死んでいたに違いない。
『鏡』の呪詛にしてみれば、綾之峰の犬が何匹死のうと知った事ではない。むしろ、役に立たぬなら疾く死すべきだという呪怨の叫びが耳に届くようでさえあった。
「連れ戻るので?」
真に無事を願うなら、そうすべきだろう。だが、輸送機まで運ぶには最低でも二名を要する。未だ先に幾人が潜んでいるかも分からぬ状況下で、戦力を削ぐ愚行は承知しかねた。
「……いいや。そこまで甘くはない」
少なくとも、大刀自の救助までは壁にでも繋ぐだけに留めるつもりだということだが、それにしたところで巫女大将は甘すぎると安田は感じざるを得なかった。
今のように一人であったのは、呪詛の漏れ出ている大刀自から遠いために過ぎず、近づけば近づくほどに重みを増す。
強まる力に支配された者が、この護衛官のように緩慢な動作である保証も、ましてや自分達が満足に動ける保証もない。
「何か、言いたそうだな?」
「いいえ」
巫女大将の問いを、敢えて否定する。白手袋越しに白刃を摘まみ、物打ちを下げさせてから先へと進もうとしたが、ジーヤが安田より一歩強引に先んじた。
「安田少年は、殿をお願いするであります」
「承知致しました」
巫女大将の時同様、不平不満の色はおくびにも出さない。
ここで仲間割れを起こすぐらいなら、多少の不手際程度飲み込んだ方が良いという考えであり、当然そこには巫女大将とジーヤも気付いている。
安田登郎は、平時でこそ少年らしく──見た目の上では──年長である者らを立てるし、同年代であろうと礼節を保って行動する。
譲れないものでなければ一歩引くし、極力諍いを起こさぬよう努めもする。
だが、そうした聞き分けの良い少年とは別に、安田登郎には黒瀬正継という軍人としての顔も持っている。
私人として、人を助ける為に己を省みぬ直向きな姿は、確かに紛れもない安田登郎の一面であり、粉飾に満たされた偽りの姿という訳ではない。
単に、人としての善性を持ちながら、同時に軍人としての意識に切り替えられるというだけ。己という人間を状況に応じて使い分けているに過ぎず、そうした部分は軍隊仕込みのジーヤにも共通している。
ただし。天鏡島では綾之峰家に仕える人間として合理的に判断しつつも、結局は所々情で動いていたジーヤと異なり、安田は徹頭徹尾合理性というものを追求してしまう。
助けられるなら助けよう。助力が必要なら惜しみはしない。尤も、それらは飽くまで『特別な人間』を除けば、『無駄にならない』事が前提だ。
先ほど柱に縛り付けられた護衛官とて、まず殺して動かなくなるか
危険な芽は早々に摘むに限る。下手に手心を加えた結果、窮地に陥る愚は犯さない。
軍人とは誰しも
巫女大将は安田が拳銃を抜いた動作からそう手早く判断して止めたし、ジーヤも同様に判断して前に出た。
命の重さは、個々人によって大きく異なる。
ジーヤにとって、奥屋敷に勤めていた者らは一人残さず顔も名も知っている。先ほどの護衛官には幾度となく口説かれた事があったし、無事に逃げ果せた給仕らも、休日に食事を共にした事がある。
賊に、見ず知らずの敵には兵士の心で排除出来ても、共に釜の飯を摂った者らに非道になる事は難しい。
正規の訓練を受けた軍人でさえ、いざ敵兵と目が合えば殺人を躊躇してしまうことを考えれば、彼女らの心的負担は推して知るべきだろう。
だが、安田にしてみれば奥屋敷に残った人間というものは赤の他人だ。彼と屋敷の人間を繋ぐのは日本国民という点だけであり、軍人であったなら守るべき対象であったというだけ。
彼らが自分達の目的を妨げる事で、結果として国を脅かす存在になり得てしまうのなら、安田は即座に排除を選ぶ。
“恨み辛みには慣れている、でありますか”
ああ、成程。確かに慣れているのだろう。己が下した決断一つ、立てた作戦一つで幾人の犠牲が出たか。それが今の世という本来と異なる歴史の中にあっても、黒瀬正継の人生に屍山血河が付き纏ったのは知っている。
それを乗り越える中、どれほどの痛みを背負ったかをジーヤは知らないし語る気もない。確かなことは、安田登郎にとって障害とは脇に退けるものではなく、踏み越え踏破するものに過ぎないということ。
見合いの儀で綾之峰征綺華を対話でなく拳で沈めたように。彼は行く手を遮る物が自らの命と同等、否、それ以上でない限り決して躊躇しない。
だから───
ずしり、と邸内に一歩を踏み締めた瞬間に加わる重圧。先程まで不可視であった呪詛が黒々と色付き、悪意の声が風鳴りのように耳へと届く。
天鏡島の『鏡』を目にした時と変わらぬそれが、今緩やかに自分たちへと迫るのを自覚した瞬間、全員が安田を前に出さぬよう陣を整えた。
「申し訳ないでありますが、殺させてやる訳には行きません」
年配の給仕がいた。壮年の護衛官がいた。ああ、誰も彼も頼りになる同僚で、だからこそジーヤは涙さえ出そうになる。
結局、征麻呂の息のかかった人間は居なかった……ここにいる誰もが、この呪詛に当てられたがために意識を奪われたのだろう。
生きているのか、死んでいるのかさえ定かではない。ただ、奪われた喉から迸る怨嗟だけしか届かない。
「黒瀬、ここからはジーヤと二人で行け」
元より、大刀自の救出は貴様の案だろうと巫女大将は顎で示す。
「突き当りを右だ。後は階段を上がって桁橋を渡れば着く」
巫女大将の言葉に、嘘はないのだろう。先程までに見せた応酬からしても、安田を戦力として数える訳に行かなかったというのも有る。
だというのに、安田は進めるべき足を止めた。軍人としての判断だけでなく、戦力の上でも二人程度であれば消えた所で問題はない。そうでなくとも、平時であれば唯々諾々と従った筈である。
「……彼らを抑えた後は、引き返すべきです」
何を言わんやだ。今更敵と見做し、殺す事さえ厭わなかった相手に情を抱きでもしたのかとジーヤは怪訝な表情を浮かべたが、安田はその答えを示すように、強引に巫女大将の覆面を引き千切った。
「何を……っ」
ジーヤが安田の蛮行を咎めようとした瞬間、そこに見た真実に顔を青くした。
綾之峰の名の下、力を使い続けた巫女もまた、綾之峰同様真っ先に蝕まれる対象なのだろう。呪詛の影が手の形を取り、巫女大将の首筋を締め上げていた。
「……いつから、そうなっていたでありますか?」
「今は目の前の事に集中しろ」
言われるまでも無い。現に、この会話の最中でさえ他の巫女らは同僚というべき者達を拘束すべく動いているし、ジーヤも同様だ。
人手は充分で、加減も申し分なし。少々数が多い、力任せに動くだけの連中など、いとも容易く組み伏せた。
◇
「……何時気付いた?」
「歌凛子が輸送機に残った時から」
当惑する巫女大将と違い、安田のそれは至極あっさりとした物だった。戦力にならない事や銀香らの身を案じての居残りであるのは正しいだろうが、それならここに来るまでも避難した他の巫女らと同じ船に乗せれば済んだ話だ。
わざわざ奥屋敷に入らぬよう止めさせたのは、綾之峰に連なる者に、この領域は厳しいと見たためだろう。
「他の巫女も、同じような症状が……?」
「いや、私は古参の中でも特に年季が長くてな」
年寄りが無理をするなとジーヤは口走りかけたが、流石に冗談を叩けるほど巫女大将のそれは軽くない。
「ですが、他の巫女も大刀自に近づけば同じようになるのでしょう?」
ならば、どの道ここまでだと安田は肩を竦める。操られていた者は誰も彼もが手錠なりロープなりで拘束を終え、一先ずの安全を確保し得たものの、これが本来の目的という訳ではない。
「だが……」
引き返せと言われた。そうすべきなのは巫女大将達とて判っている。それでも。
「……貴様は、同僚を殺す」
それだけは、絶対に駄目だと。許されないと巫女大将は一同を代表して睨めつける。
その瞳には仲間の安危以上に、安田への猜疑の念があった。
「───殺しはしません」
そう誓う事で、貴女方が離れるのなら、そうしようと。
口にするだけならば容易く、しかし確実に果たすという意志を込めて、一同を見渡した。
「貴様が、死ぬとしてもか?」
「私が、道半ばで斃れるとしても」
偽りなどない。欺瞞の仮面を被り、台本を読むように言葉を紡いでいるのではない。
ただ純粋に、真っ直ぐに見つめ返して、安田は巫女大将らにそう誓う。とはいえ、その言葉の裏にはこの程度の相手ならば、殺さずとも後れを取る事はないという意味合いも隠れているのだろうが。
「ミス・マクミラン、巫女大将をお願いします。巫女の方々は、拘束した方々を連れて輸送機に」
「……信用しろと、言うのでありますか?」
目付は確かに必要だろう。ジーヤならそれが最適だというのも判る。だが、安田はそれに頭を振った。
「戻ろうとする相手を襲う事も考えられます。ミス・マクミランなら、対処は容易かと」
随分と高く買ってくれるものだが、それとこれとは話が違う。ジーヤが危惧しているのは、自分達の身の安全以上に、安田が殺めるべきでない者を打算と合理性のみで殺め、傷つけてしまう事だ。
「安田少年は……、冷た過ぎるであります」
例えそれが、正しい事なのだとしても。間違っていないのだとしても。
そんな少年に、妹が恋をしたとは信じたくなかった。
彼にとっては赤の他人なのだとしても、ジーヤ達には大切な仲間だという思いを、どうして汲んでくれないのだ。
ほんの一欠片。細やかなものであっても構わない。するしないではなく、小さな優しさを垣間見せてくれたなら、後を信じて託せたのに。
「……彼らを、人と思わない訳ではありません。私には、貴女方の方が大切なだけです」
「…………」
結局、安田にとってはそれが全てだったのだろう。命の重みは、個々人によって異なる。人を人と思わなかった訳でも、彼自身が冷血漢だった訳でもない。目の前に現れた見知らぬ誰かより、ジーヤや巫女大将の命が大事だったというだけだった。
“きっと、そうやって生きてきたのでしょうな”
複数の命を天秤に乗せながら、常に最良を選び続ける。選択一つ、命令一つで多くを死に至らしめてしまう地位にあった安田にとって、それでしか自らを受け入れる術がなかったのかもしれない。
彼らの命には意味があった。決して無駄ではないのだと、そう誤魔化しながら天秤にかけ続ける事を受け入れなければ、きっと安田は自分を保てなかったのかもしれない。
華々しい経歴。彩られながら後世に語られる英傑もまた、一人の人間でしかない。若々しい見目も、揺るぎ無い姿も剥ぎ取った後には、ただ重圧に潰されぬよう抗う老人だけが残るのだろう。
ある者は敵を憎悪し、ある者は全てを数字と割り切り。またある者は自らの為に使われる道具として他者を見做して生きた戦乱の時代に、彼はそうする事で己を壊さず守り続けたに過ぎない。
「何か、言いたそうですが?」
「いいえ。全く」
察していても、理解しても、安田と同じようにジーヤは返した。ここで安田の内に抱える全てを語って見せて、お前は悲しくて寂しい男だったけれど、それは時代のせいだ。きっとやり直せるし、考えを改める事も出来るだろうなどとは決して言えない。
そんなご高説を語れるほどジーヤは聖人君子でも、ましてや安田程人生経験を積んでいる訳もない。
「……信じられないのであれば、」
「信じるで、ありますよ」
万の労りも、同情も今は無意味だ。だから、求めているものだけを差し出す。
同時に、この男が決して折れないようにする為の、誓いを貫かせる為の、魔法の言葉も。
「少年は、マイシスターと銀香お嬢様に、恥じない男の子でありますからな」
破ることは許さない。もしそうでないのなら、二人に二度と関わるな。言葉に重みのない男が、愛などという生涯をかけて守るべきものを誓えるものかと言外に告げた。
「これはまた───」
───随分と、痛い所を突いてくれる。
「勿論、ジーヤ達の思いもしっかり受け止めてくれる位の気概も持っているのでありましょう?」
その上、更にハードルを上げてくるなど嫌がらせにも程があるが……思えばこの姉妹に関わらず、綾之峰に係わる者と言えば、誰も彼も安田を試したがっていたか。
信用のない事だと、己を嘆いても良い。目を覆いたくなる日々だったと、恨みがましく漏らしても良い。だけど、今はそうすべきではないだろう。
「期待に応えるべく、奮励努力致します」
後ろ向きで、振り返るばかりでは進めない。今は前に、ただポジティブに受け止めて進むべきだ。後悔など、失敗した後から幾らでもできる。今は笑いながら、迷わず進むべき時だ。だから───
「後を、任せて下さいますか?」
「宜しく頼むでありますよ、少年。もし、無事に戻れたら───」
───今度は、冗談じゃなく大人なキスをして上げますから。
「前にも言いましたが、遠慮します。いえ、貴女に魅力を感じない訳では無いのです。浮気紛いな事をするなと、そう二人に言いつけられていますから」
「ああ、それで……」
堅物な割、何処か誘惑に弱そうな少年が遠慮したのはそこだったらしい。頬への口づけを避けなかったのは、あれぐらいなら挨拶程度だからという判断からか。
「安心したであります。安田少年にまで、マイシスターの様に肌年齢を気にしろなどと思われているのではないかと」
「ミス・マクミランは、大変魅力的ですよ」
冗談でも、真っ赤な嘘でも、見え透いたおべっかでもない。
安田登郎にとって、ジーヤは理想的な女性だった。ただ、恋をするにはお互いの距離や立ち位置が不味かっただけだ。
「こらこら。浮気紛いの事をするなと言われて口説く奴がありますか」
油断も隙もありゃしない。もうさっさと行ってしまえと、プレイボーイを手で追い払う。
「では、どうか健やかで」
「死にに行くようには、言わないで欲しいで有ります」
お互い、別れ際に笑い合う。きっと、これが一番良い関係で楽しく続けられた時間の最後だ。だけど、何故だろう。背を見せた安田の背が、まるで別れを告げる様に感じてしまって……
「すぐに戻るでありますから、無理せず進むでありますよー!!」
そんな言葉を、背中に大きく告げたのだった。
◇
「ところで、巫女大将と少年ってどういう関係だったので?」
そこだけは訊かされてないのでありますが、とジーヤは予てからの疑問を当人が居なくなってから問い質す。
「下らん事だ……奴が無事に戻ったら、訊かせてやる」
「今訊かせろであります」
でなきゃ置いてくぞ、と脅迫同然の問答に、巫女大将は渋面を作り……
「……黒瀬が家庭を持つ前、一夜を共にした」
「あ……いや、その。申し訳ないで有ります」
吐き捨てるような口調と共に出た真実に、思わず頭を下げた。
てっきり、前世で先代巫女姫と三角関係なラブコメディでも送っているとばかり思っていたのだが。
“予想外に生々しかったであります……”
同時に思う。あいつ、お堅いようで結構ダメ男だったんだなぁ、と。