握り込まれる柄頭。ゆらりと歩を進めながらも、互いに一挙一動さえ見逃さぬよう視線が動く。
「シィ……ッ!」
カチャリという鍔鳴りが合図となったか、滑るような足運びで安田が踏み込んだ。
苛烈を極める一手は、鋼鉄すら断たんという渾身の物だったに違いなく、征麻呂とてそれを完全には捌き切れず、寸での所でいなして距離を取る。
“何だ、この剣は?”
怒りに呑まれているのでも、素人が我武者羅に振り回すのでもない。だが、かつて。否、今をも敬愛する大佐と竹刀を交えた時とは、明らかに何もかもが違い過ぎた。
練達の使い手と判る刃筋。刀身諸共身を断ち割る剛剣。しかしそれは、征麻呂の知る大佐の動きではない。音もなく、動きを読ませず、僅かにも隙を見せればするりと入り、息の根を止める精妙の剣こそ大佐の骨頂だった筈。
“剣術徽章を胸に息巻いていた、鼻垂れの天狗鼻を幾本もへし折ったあの老獪さは何処に行った?”
修羅とも、獣とも思えるその様。呼吸を正し切れず息を吐く姿を見て、ようやく征麻呂は推量した。
“大佐殿は、最早……”
先の一撃は、最後に燃え上がる蝋燭の灯と同じなのだ。視界は既に茫洋としており、五体は刻一刻と芯から崩れてきている。夥しい呪いを撥ね退け続けた身体はしかし、意思の力で抗っているだけに過ぎない。
肺腑に、血管に、眼球に……力を増していく泥が、徐々に精神のみならず、直接肉体を犯しにかかっていた。
保って一刻。三間を容易く一息で詰める安田に今背を見せれば間違いなく斬られるとしても、時を稼ぎ、足が衰えた瞬間を見計らって全力で謁見の間へと引き返し、銃器を手にすれば征麻呂は確実に勝ちを拾える。
耐えて、耐えて、唯一時を耐え忍び続ければ、虎は老猫の如く衰えよう。
“ふざけるな”
その、策を用い、無様に去れば得られる勝利を、征麻呂は唾棄すべきものをして抹消した。それが、誰より合理性を求める安田には不思議でならなかった。
「……少佐、勝ちを拾わんのか?」
「前世でも申し上げた通り、私にも意地があります。この戦い、斯様に醜悪な幕引きで終えて良いものではありません」
過去に囚われた亡者二人が、幽明境を異にするというだけではない。
この立合いこそ、日本国の命運を決する天王山。過去と今、それぞれの日ノ本を奉じ剣を執り、雌雄を決さんと相克したのだ。
外道に窶し、玉藻前の如く国を荒らさんとする身である事は重々承知。
されども、未だ手放していないものはある。この大佐と正面から相対するに値するだけの
その誇りを、雌雄を決すべく握った刀と共に捨てる事が勝利だと笑えるほど、
おめおめと背を向ける恥辱に甘んじるような、帝国軍人の名に恥じる振る舞いがどうして出来る!
「そうか……」
青く、愚かだと。馬鹿だと安田は笑う。たとえそれが、己を生かすものであったとしても、どうして笑わずにいられよう。復讐に駆られ、自らを止める術を持たぬ悪鬼になり果てたとて、やはりこの少佐は少佐だったのだ。
“だとしても”
認め、敬意を示そうとも。魂までは堕ちていない事に歓喜の昂揚を抱こうとも。安田登郎は、綾之峰征麻呂を殺さねばならない。
過去を選んだ征麻呂が、安田を殺めねば全てを終わらせられないのだと悟ったように。
今を選んだ安田が、征麻呂を殺めねば救うべき人を救えないのだと理解したから。
◇
噛み合う刃が火花を散らす。欠け毀れた鉄粉が微かに粉雪の如く散るが、次の瞬間には距離もそのままに急所めがけ一閃した。
「ッ……!」
息を呑んだは果たしてどちらか。共に必殺・必勝を期して放たれた剣閃は、首筋と頬を浅く裂いたに留まった。
汗が冷える。魂が凍る。古の剣豪たちが味わった死の境地とは、こういったものだったのだろうか? 銃火轟く後の世に生きた二人にしてみれば、尋常の立合いなど経験はない。
されど、潜り抜けた死線であれば、二人とて古の武人にも引けは取るまい。
征麻呂の繰り出す逆胴の一閃。それを鍔元で受けつつ刃を滑らし、首を狙う安田に距離を開けるべく征麻呂は後退したが、安田は逃さぬと追い縋る。
“かかった”
引いたのは
「……ッ!?」
体勢を立て直すべく、受身も碌に取らず起き上がろうとしたが、既に征麻呂は先程と立場を入れ替えるように、安田へと大上段に構えた刀身を下ろしていた。
「……ッ、ぐ」
棟に右手を添えつつ耐えるが、受けた際の体勢もあってか、安田は徐々に押されていった。ギリギリと音を立てる刃。悪鬼の如き笑みを浮かべながら、刀と共に顔を寄せる征麻呂が視界一杯に広がっている。
“押し切られれば、そのまま頭蓋を割られるっ”
ならば、押し返すより他に活路はなし。
既に押され、口元まで迫る己の刀が息吹で白ずむ。刀身の欠け方から紋様さえ正確に知れる程迫り切った刃を、呼吸を整えながら丹田に力を入れて押し返した。
「ぬぅ……!?」
今度は偽装ではない。渾身の一手に足が縺れ、後方に揺らいだ征麻呂へ、猛る肉食獣の如く安田は飛び掛った。
「ぐぁ……っ」
叩きつけられる征麻呂の背。板張りの壁は脆くも破れ、勢いもそのまま、二人は地面へと落ちて行く。
死ねと、落ちる瞬間さえ両者は思った。同時、己は死なぬと両者は信じた。
ばしゃあ!! と。女神の水が飛沫を上げたその時になってようやく、互いは落ち切ったのだと気付く。受身は互いに取った。この程度の高さで死ぬとは互いに思っていない。
板の破片が足や腕に深々と刺さってはいるものの、それはどちらも同じことだ。
「安田少年!」
「手を出すな! これは私
死に物狂いで駆けつけてくれたのだろうジーヤに、敬語さえ忘れ言い放つ。
この程度の傷、満身創痍と呼ぶ程でもない。
「来い……、少佐。まだやれるだろう?」
「無論です」
手招くと同時、火花と鮮血が飛び散った。水に重く足を取られるが、それでも剣は揺るぎなく冴え渡っている。
「……ィっ」
「フッ…!」
正気か狂気か。互いの剣が互いの肉を引き裂き、血が湧水に混じる度に、互いは笑っていた。痛みもない。苦しみもない。唯、己の全てを賭すという覚悟が熱となって血潮を駆け巡っていた。
強く、強く、柄巻の糸が切れて柄そのものまでが潰れるのではないかと危惧するほどに、互いは刀を握り締めて。
「あああああああああああああああああああああああああ!!!!!!!!!!!」
魂魄を揺るがす程の絶叫。互いの刃が絡み押し合い、それでもなお引かなかった両者の意志は、刀身の破壊という結末に行き着くまで止まらなかった。
◇
「あ、……」
再び、溢れる水が大きく跳ねた。桁橋から落ちた時と違うのは、最早立ち上がるような余力は無いということか。
「……少佐」
何を、言うべきなのだろうか。肩口から脇下まで袈裟懸けに断ったかつてに部下を思わず呼んだものの、その言葉には何も返らなかった。
「長く、国に尽くしたな……」
七生報国。国に仕える者ならば、否、かつての日本国であれば誰もが心に留めるその言葉を、この男は体現したのだろう。
まだ二度。しかしその二度は、誰も成し得ないであろう、険しく長い道のりだったに違いない。
「貴様は、きっと靖国に行けるだろう……しかし」
もしも、再び新たな人生を送れるとしたら。
「願わくば……新しい世を、家族と笑いながら生きてくれ」
仰向けに直して目を閉じさせ、上衣を脱いで顔へとかけた。
「安田少年……この男は、征麻呂では無いのでありますか?」
「私と同じ身の上です」
それ以上は聞いてくれるなと。刃の毀れ切った軍刀を、墓標のように突き立てた。
「先に行きます……謁見の間へは、私以外は入れないでしょうから」
◇
「行っちゃったんだね……」
遅れちゃったか、と一人ごちる征綺華に、何故ここに居るのかとジーヤは問う。
「僕だけじゃないよ。ほら、あの子も」
「ちょっと、待つでありますよ!!」
「行かせてやりなよ。どうせ、もう誰も居ないんだろ?」
征麻呂がこうして倒れても、誰一人として出てこない時点で既にここには直接的な危険はないのだろう。それなら、思いを遂げた女の子が、男の子の所に行くぐらい良い筈だ。
「……歌凛子様は?」
「許してくれたよ。僕は、父親の死に顔を見たいっていう理由だからここまでだけど」
よく許したものだと思ったが、安田とジーヤが居るなら多少の事は何とかなるし、呪いに関しても危うくなれば安田を連れて必ず引き返せと念を押したらしい。
「どちらかといえば、安田少年の身を案じたという訳でありますな」
「そうとも言えるね」
くすくすと笑いながら、征綺華は父であった男の亡骸の傍に腰を下ろす。服は濡れたものの、正直構わなかった。
「ごめん。ちょっと、二人きりにしてくれるかな?」
「……なるべく、早く輸送機に戻るでありますよ」
ジーヤは無鉄砲な若者を捕まえに行ってくるでありますと、笑いながら背を向けた。
それを目で追うこともせず、征綺華は物言わぬ骸を上衣の上から撫でた瞬間───
「──っ!? 征綺華少年!!」
起き上がれる筈もない男。父であった存在が、幽鬼の如く立ち上がるのと、異変に気付いたジーヤが振り返るのは同時だった。
「死んでる……嘘だ、死んでるのに」
肋を断って心臓を破り、背骨にまで刃の達した人間が、一体どうやって生きていられるというのか。
「兎も角、離れるであります!!
だが、これこそ呪詛の真骨頂と言うべきか。足りぬ部分は泥が補う。屍となった存在を乗っ取るのは、意思を持った人間を操るより簡単だと嗤うように、死して尚握り続けた同田貫を振り上げた。
「この──ッ」
轟く銃火。既に半ばから断たれた刀身は弾雨を浴びて右手諸共ミキサーにかけたように粉微塵に散ったが、残る左腕が安田の残した刀を握る。
「ぃ──っ」
歯を噛み締めて、目を閉じる。数秒後に訪れる惨劇が脳裏に浮かぶも、それが訪れる事はなかった。
「……?」
そっと開かれた目が、大きく開いてしまう。
呪詛に操られ、死をもたらす筈だった父の屍は、その刃を自らの胸に突き立てて押し込んでいた。
「どうして……」
元より、子を子とは思わぬ男だった筈だ。家族の絆などなく、ただ己の目的の為だけに全てを利用するだけの存在だった筈だ。
それが綾之峰征麻呂という男だと、ジーヤだけでなく、征綺華も思っていたのに……
「俺は敗れたのだ……なら、大佐殿の言うように、家族というものの為に動いてもいいだろう」
「……今更だよ」
散々利用して、弄んで、いざ最期になったら良い奴みたいになるのか?
「理不尽だろ! 無責任だろ! そんな風に笑えるなら、なんでそうしてくれなかったんだよ!?」
「そうだな……その通りだ」
だから、もし次の世を生きるなら。
「───その時は、お前の為に生きてやる」
「無理だよ、そんなの」
生まれ変わったからといって、一緒になれる筈もない。安田がそうであったように、異なる人間として生きていく。
「お前は、僕じゃない誰かに優しくするんだ」
きっと、笑いながら。幸せになって生きていくんだ。
「だけど……それで良いよ」
自分の人生は、確かに滅茶苦茶になってしまった。どいつもこいつも、憎くて堪らなくて、それ以上に滅茶苦茶にしてやりたかったけれど。
「僕は僕で幸せになるんだ。お前は、一人で勝手に満足してればいい」
「そうか……」
なら、お前も勝手にしろと手を振った。
「……もう行け。長くは保たん」
「そうするよ」
最低限、子としての義理は果たしたのだ。父親も、同じようにした以上はお互い言う事はもうないだろうと、征綺華は輸送機に戻ろうとして───
「───もし。もしもさ。綾之峰なんて家に生まれなかったら、僕ら、どうなってたのかな?」
綾之峰征麻呂が征綺華を虐待したのは、綾之峰の人間だからと言うだけではない。全ては綾之峰を乗っ取り、その権威を失墜させることで綾之峰を滅ぼうとしたからこそだ。
征綺華の心を磨耗させたのも、全てを壊そうとした征綺華自身の意思さえ征麻呂の掌の上。どころか、征綺華を生したことさえ道具として利用する為だったに過ぎない。
だから、もし。もしもと思う。
平凡な家庭で、平凡な親子で。何事もなく過ごす日常だったら、きっとこんな事にはならなかったのではないか? 過去を受け入れられないとしても、続く今を、不幸な形に歪めようとはしなかったのではないか?
「さて、な……想像も出来んよ」
だろうね、と征綺華は笑う。見れば、征麻呂も僅かに笑みを湛えていて、口の釣り上げ方が、何処となく自分と似ている気がした。
「じゃあ、今度こそお別れだ。本当のゾンビなったら、そこの教育係さんにもう一度蜂の巣にして貰うよ」
「……」
そうしろと言うつもりだったが言葉が出ない。嗚呼全く、運命の女神とやらは気が利かないが、元々女神は好きではなかったなと征麻呂は心中で含み笑う。
唯一、目だけはまだ生きているのが幸いか。物言わなくなった征麻呂に、征綺華はきちんと離れてくれたらしい。
ふと横を見れば介錯のつもりか、
“家族、か……”
もう、前世の家族は思い出せない。子の泣き声も、妻の笑顔も、全ては遠い所に行ってしまった。
失われてしまった歴史と同じ───遠い遠い、もう自分の帰れない向こう側に。
“生まれ変わったとき、少しは、この日の事を覚えていられるだろうか?”
きっと、無理だろう。安田登郎と同じように、綾之峰征麻呂は、辻口基明として忘れたくないと願ってしまったから。
彼はきっと、過去を覚え続ける限り、新しい世界を生きられない。
もし、彼が新しい世界を生きられるとすれば、それは───
◆
その感触がなんなのか、大刀自───綾之峰百合華は分からなかった。
何かが自分に触れている。虫か、或いは理性なき動物かとも思ったが、そうでない事は茫洋とした意識の中でも理解は出来た。
「誰、だ……?」
声が出せたのは、奇跡に近かった。
掠れ、罅割れた音は古びたレコードか老婆のようで、嗚呼けれど、確かに己は老婆だったなと百合華は自嘲した。
「貴女の、味方です」
「────」
喉がつかえる。言い表せない思い。決して得られないと思っていたモノを、百合華は命の灯が消えゆく間際の幻だと疑った。
人の冷たさと恐ろしさは知っている。身の凍える雪の寒さも、光のない閉じた世界も知っている。
知りたくもない多くを知りすぎて、知りたかった温かいものを、知らないまま生きてきた百合華には、それが悪意以外で誰かが触れたのだと理解するのに、時間を要した。
権力欲しさに愛を囁いた男はいた。綾之峰という名のしがらみから、抜け出そうと言ってきた者もいた。だが、それらの全ては欲望を粉飾する偽りに過ぎなかった。
綾之峰への忠義を嘯く者たちとて、飽くまでお家の威光そのものに、蛾のように纏わりつくばかりであって、決して百合華を慕っていたのではない。
誰しもが、綾之峰の名や権力や財を欲しがった。直向きで一途な思いなど、欠片ほども有りはしなかった。
それも当然だ。対価として払った百合華には、最早『名』を永遠に残す以外、得られるものなど何もないのだから。
だけど、嗚呼、だからか。悪意と欲望。人の心の裏側を、飽き果てるほど見続けた百合華だからこそ判ってしまう。
こんな、どうしようもない穢れた塊を。己の名を永遠にする為に、黒瀬や辻口だけでない多くの人間を犠牲にしてきた女を───
───この声の主は、心から味方だと言ってくれたのだ。
「に、げろ……」
なら、せめて伝えなくては。
この世界で、たった一人。綾之峰への畏敬でも、欲望でも無く、本心から己の味方だと言ってくれた何者かを、遠い、安全な所に逃がしてやらなくては。
「呪いが移る……穢れるぞ」
「存じています。だから───私はここに来ました」
腕を回し、亀裂の走る胸を抱きとめて塞いだ。
「だめ、だ。離れろ」
黒々とした怨念が男に移る。この温もりが、嬉しい筈なのに。心から慕う気持ちを、待ち望んでいた筈なのに、百合華はそうしてくれる事に耐えられない。
“初めてなんだ。嬉しいんだ……生まれてきた時にしか、決して許されなかったこの温もりが”
だから、それをくれた人を死なせたくない。罪深くて、自分の事ばっかりだった女だけど、だからこそ、大切なものを壊したくない。
「ずっと、この痛みを耐えてきたのですね」
嗚呼、なのに。どうして優しくなどするんだ。どうしてこんなに欲しかったものをくれたんだ。
「これは、儂だけが……」
耐えなくては、行けないものだ。誰かに押し付けていいものでも、肩代わりして貰うものでもない。身の丈に合わないものを望み続けた人間の、当然の債務だ。
「それは違います」
名前も知らない誰かは、心から、そう否定した。
「貴女の治世は正しかった」
貧困、飢餓、犯罪……、それら全てが、皆無であったとは言わない。人の悪性や世の不条理が消える事など、それこそ空想の楽園だけだろう。
「今の世は、多くの人が笑っていました」
失われた歴史。失ってしまった多くにも、決して劣らない国。それが私欲から始まったモノであったとしても、託されたものの意味を理解していた筈だ。
「───だから貴女は、『大刀自』と名乗ったのでしょう?」
皇后でも、妃でも無く。大君に仕える者としての名を用いて、今の世の安寧を祈り続けた。手放しても良かった。進んで苦しむ必要など、初めからなかった筈なのに。
「まさか……」
覚えているのか? 全てを知りながら、失ったものを理解していながら、それでも来てくれたのか?
「私が何者かなど、どうでも良い事です」
過去に起きた事など、水に流せばいい。された事など、今となってはどうでも良い。
それ以上の多くを、彼はこの世界で得て来たから。
この女性の、銀の髪のように清く美しい今を生きて来れたから。
「御恩を、返させて下さい」
過去に生きた者として。陛下と同じく、責を負わせてしまった愚か者として。
この女性が、苦難の中で得られなかった
「少しだけでも、僅かでも、楽になりますか?」
「なら、ない」
知らず、頬に熱いものが伝っていた。傷つく事も、苦しい事も、恐ろしい事も慣れていた。だけど、優しい事には、慣れてない。胸が張り裂けそうなぐらい痛い。
なのに、これを───抱きしめて貰う事を拒めない。
そう綴った作家は、一体誰だったか? 初めて目にしたとき、何を愚かなと鼻白んだ。男にも負けぬと意気込みもした。だが、その一節は正しかったと今は思う。
「……っ、ひ、っ」
強く、深く抱かれた体に、知らず腕を回していた。溢れるものが止まらなくて、唯ひたすらに泣きじゃくっていた。
まるで稚児だ。ただ喚いて、掠れながらも大声を出さずにいられない、弱虫だ。
だけど、もう無理だ。ずっと、ずっと我慢していた。こうして縋りたくて堪らなかったんだ。
「辛かったんだ……ずっと、一人だったんだ」
「もう、一人ではありません」
あやす様に、叩かれた背。顔は見えないけれど、きっと彼は笑ってくれているんだろう。温もりは何処までも優しくて、つい眠ってしまいそうになる。
「疲れたでしょう───だから、お休み下さい。目が覚めたら、きっと、辛い事は無くなっていますから」
「そう、だな。だが、まだ儂は聞いてない───」
どうでも良いと言われたけれど、それでも、知りたい事がある。
「───名を、教えてくれ。きっと、目が覚めたら礼を」
重くなる瞼を堪えながら、顔を上げて熱くなった眼で、男を見る。
口から零れた名前は、記憶には無かった。
「お礼など、要りません。ただ、幸せな世界を生きて下さい」
「……馬鹿め」
もう充分に幸せだと、そう告げられないまま眼を閉じた。
けれど、それを口にする必要はなかった。幼子のように微笑んで寝る彼女の顔は、彼でなくとも、幸せなのだと分かったから。
◇
「女神殿、見ておいでなのでしょう?」
眠りに就いた大刀自を抱えたまま、桁橋の壁に空いた穴から、地面に流れる水に問う。
「───何用かは、問うまでも無い事か」
泉の女神。この綾之峰山にかつて贄として捧げられ、以来この地の神として祀られた女神は、溢れた水を纏いながら宙を舞い、安田の前へと姿を見せた。
「言わずとも判っておる。『鏡』の譲渡は、綾之峰の姫が一人苦痛を耐え忍ぶという契約の下で成立したもの。主が今なお苦痛を一方的に請け負っている以上───」
───『鏡』の譲渡は
綾之峰 凛が、夫との再会に二度と己を愛さぬ事を誓わせたように。取り決めが果たされなければ因果は捻じ曲がり、結果としてこれまで得た全ての恩恵も、また、ここから降り注ぐ厄災さえ消失する。
「だがな、
綾之峰の当主として生きる事になった少女。彼女は他者と触れ合えぬ事を対価として、閉鎖された社会の忌児から抜け出した。
「お主は百合華を抱き締めた。二度と得られぬ愛を与え、温もりを与え、救いを与えて
ならばどうする? 眼を閉じ、耳を塞ぎ、今知り得た真実すら口を閉ざして、再び一人の少女を地獄の底に突き落とすか? それとも───
「───やはり、女神殿はお優しい」
「いま、何と……?」
悪魔と誹られると思っていた。征麻呂がそうであったように、安田とてかつて陛下に支払わせた対価に、不満を抱いている筈だと内心訝しんでいた。
なのに、その口から漏れ出たのは紛れもない賛辞と、慈しみからの想いだった。
「聞かせる必要など無かった……ただ、私に満足させたまま終わらせる事さえ出来た筈」
だというのに。女神はそこで終わらせなかった。本来、契約を果たされなかった時点で因果を捻じ伏せ、この時間軸を消失させる事さえ出来る筈の存在が、今もこうして救いの道を残してくれている。
「妾を、憎まぬのか?」
詐欺師と、悪魔と多くが真実を悟った時、口にはせずとも思う事を、何故……
「ご自身を卑下なさるな。女神殿が何故生き永らえたかったか。安田登郎は理解しております。大刀自と同じく───この国を、愛しておいでなのでしょう?」
「馬鹿めが……」
……一体何処まで御人好しだと言いたくなったが、確かにそうだ。
生き永らえたかったのは、生き続けていたかった始まりの理由はそれだった。
幾千という年月を唯一人過ごした理由はそれで……嗚呼けれど。そんな理由、今の今まで忘れていた。人々の安寧を望み、自ら身を捧げて女神となった筈なのに、それさえいつの間にか忘れていた。生きる目的を失いながら、死の恐怖に怯えるだけの女になっていた。
「……優しいのは、主だ」
「いいえ。甘いだけです」
嗚呼、その通り。この男は、単に女に甘いだけだ。
自らを死地に追いやった
何時だってこの男は、女と見れば甘くしてきたに違いない。
本当に碌でもない、どうしようもないダメ男だ。
「……だが、許せ。対価は天秤に釣り合う物でなくてはならん」
どれだけ救われても、女神自身が満たされたとしても、そこだけは決して曲げられない。
それは女神自身が定めた物でなく、この世界に神を求めて止まなかった人間たちの総意だ。
「だから妾は───」
───お主に、最も残酷な対価を伝えよう。
「黒瀬正継として得た、全てを手放せ」
「それは───」
本当に、対価になり得るのか?
黒瀬正継として得た全て。それは陛下の存在も、過去に受けた大恩さえ忘れ、手放さなくてはならないという事。妻子との再会も、これまで黒瀬正継としての経験があったからこそ歩んできた人生も失ってしまうという事。
それだけを聞けば、確かに失うものは多いかもしれない。陛下への忠節を誓いながら、その恩義を忘却の彼方へと追いやることは耐え難い苦衷であり、許されざる不忠だろう。
だが、同時にこれは、黒瀬正継への救済でもある。
彼はもう、来世に記憶を引き継ぐ事はない。安田登郎として死した後、黒瀬正継としての記憶のみを抱いて転生しないならば、彼は未来永劫、妻子との別れに苦しまず、また過去の人間として、今を生きる者たちとの狭間を感じる事も無い。
他者と同じく、陛下に救われた今を歩む事が出来るのだろう。それを、本当に対価と捉えられるのか……?
「対価だとも。何故なら───」
「安田……!!」
───安田登郎は、真実の愛を失ってしまうから。
「あ……」
知らず、一筋の雫が頬を伝う。
忘れてしまう。手放してしまう。
好きだといってくれた少女を。少女を慕う自分の心を。
黒瀬正継として、安田登郎を生きた彼だからこそ、得られた今日までの想いを。
呪いすら耐えて、駆けつけてくれた愛しい少女を。
「……っ」
失いたくない。抱きしめて、離れたくないと縋りたい。嗚呼、だけど。
「────」
腕の中で、眠る百合華に視線を落とす。女神がそうさせたのか、迫害を受けた彼女の記憶が流れてくる。愛を知らず、人として得るべき権利も知らず、明日に希望を抱けなかった少女を見捨てられるのか?
眼を閉じ、耳を塞ぎ、今知り得た真実すら口を閉ざして、再び一人の少女を地獄の底に突き落とすか?
「済まない」
償いは、愛した少女に。たとえそれが、好きだといってくれた想いを踏み躙る物であったとしても───陛下は、この女性の幸ある世を願われたのだから。
「今からする事を、許してくれとは言わない」
これは、女に甘い、ダメな男の我が儘だ。
「───必ず会いに行く。忘れてしまうとしても、何時の日か、必ずもう一度好きになる」
この誓いさえ、忘れてしまうのだろう。
今日という日までの道は、全て無に消えてしまう。
それでも、謝意を示そうと、彼の選択は覆らない。
愛したいという思い。忘れたくないという思い。それら全てを擲ってでも、彼は果たさなくてはならない。憶え続けるという自己満足ではなく、陛下から託された後の世が、一人でも多くの幸福で満たされてこそ、大恩に報いるという事だから。
「何をっ!?」
言っているのか。何をしようとしているのか。
消えて行く景色。流星のように流れ行く世界と、薄れてしまう記憶に、少女は全てを察してしまった。
「それなら───」
手を伸ばしながらの言葉は、世界と共に消えて行く。
後には何も残さず、一柱の女神だけが全てを見届けた。