綾之峰学園における特別科と普通科の数少ない合同授業(週に一度選ばれるランダムでの五教科)を終え、大学の講義室に近い作りの教室から出ようとした矢先、安田は芹沢から声を掛けられた。
「放課後、時間を貰うぞ」
ここでは人気が多い事もあるが、それ以上にお互い目を引く立ち位置である為、一時その場を離れ、HRの後、荷物持ちという名目で安田を連れ出して生徒会室に移動した。
◇
「そちらの生活は問題ないか?」
「娯楽のない家ですので、お二方には不自由をおかけしますが」
「それもあるが……貴様自身どうなのだ? 私が言うのもなんだが、あの姉は破天荒な面も多くてな」
迷惑を掛けていないか? と生徒会役員としての仕事中故、淀みなく筆を走らせながら問う芹沢に対し、手際よく書類を整理しつつ安田はいいえ、と応えた。あくまで名目に過ぎない筈の手伝いだが、安田は手持無沙汰なのを嫌ったのだ。
芹沢が働くのを横目に、茶を頂くというのに気が引けたのもある。
「充実した日々を過ごさせて頂いております。特にミス・マクミランからは、私の知りえなかった知識を多数ご教授頂いており、申し訳ない限りです」
「あの姉のスパルタ教育と無茶ぶりを受けているのか……」
同情と謝罪を、双方心の底から芹沢は述べた。おそらくだが、文武両道である事にかこつけて、軍隊仕込みの教育をこの真面目一辺倒の少年に課しているのだろう。
英里華に対しては、家の重圧などもあることから、教育係として精神面でのアフターケアにも余念はなかったが、安田のような弱音を吐きもしなければ、欠片も弱点を見せないタイプには容赦がない。無論、妹である芹沢にも容赦はないが。
如何に鍛えているとはいえ、あれは肉体以上に精神への負担が尋常ではないし、そもそもにして一年の男子高校生に哲学やら心理学を叩き込む所からして間違っている。
“尤も、私の時は中学くらいだから、それを思えば良い方……とは言えんな”
如何に落ち着いているとはいえ、所詮は高一。いつかは必ず限界が来る。
“まだ家に行った事はないが、私が交代する時には、休養を与えてやらねばな”
あの姉の事である。どうせ睡眠時間は五時間あれば充分だと言い切っているだろうし、むしろ弱音を吐いてくれる様を内心悦びつつ待っているに違いない。あれは参ったと言わせる為ならば、どんな苛烈な試練でも平気で与えるサディストなのだ。
◆
「安田少年はガッツが足り過ぎであります。頭のネジが飛んでるでありますか?」
五点着地をマスターした以上、次は命綱なしで三階ほどの高さから飛び降りろと言えば泣くか。
「嗚呼……、いつ泣き顔を見る事が出来るか、楽しみで仕方ないであります」
「私らが居候だってこと、忘れてないよな、ジーヤ」
◇
「あの姉は、無理と言わねば幾らでも難題を押し付けてくるぞ?」
「承知しております」
本当に分かっているかは怪しいが、骨折や打撲はなく、精神・肉体両面での疲弊も見られないことから、訓練は初期段階なのだろう。
芹沢の時は一週間もあれば重装備での走り込みを継続しつつ格闘訓練に移行したが、流石に素人には、最序盤という事で座学だけの対応で済ませているのかもしれない。
いざという時の護衛役が、狼の牙を進んで研がせているという事には納得しかねるが。
「ところで、そちらの方は如何でしょうか? お二人に分かれた事で、何か変化は?」
「体調面でも精神面でも問題は見られんな。むしろ、精神面は二人に分かれた事で、これまでの鬱積した思いが取り除かれたように感じたらしい」
とはいえそれは、あくまで人格での裏表が分かれたという形に過ぎない。綾之峰に生きる以上、今の生活が続けば英里華は必ず限界を迎える。その時には、二人に分かれるなどという真似はもう出来まい。
「つまり、負担の軽減が必要という事ですね」
言いたいことは安田にも分かった。が、目的が分かったというだけであって、呼ばれた理由までは判らない。
「代役をお頼みするのであれば、ご本人か姉君と連絡を取れば宜しいのでは?」
「いや。そちらは目的の半分だ」
では、もう半分とは何なのか。ここに到るまで、彼が話題に挙がらなかった事からして、安田自身に関わりのある事は間違いないが。
「来月の話だが、綾之峰の別邸で七夕茶会が催される。ここ数日、英里華様が学園にご不在となる事が多いのも、茶事の亭主を務める為だ」
「それ故、芹沢さんが生徒会業務等を代行していると」
「私としては、直接お側に侍りたかったがな。英里華様はご多忙の上、一つの作業に集中すれば、他が手につかなくなる傾向がある」
だからこそ、こうして出来る範囲の仕事を肩代わりしているのだろう。ただ、やはり会話から己の話が出て来ない。生徒会の仕事や、周囲の雑務を手伝えというのなら、それこそ芹沢以外の侍従の手を使えば事足りる。
同輩を外してまで、生徒会室に安田を呼びつける理由はないのだ。
“よもや、私に茶事を手伝えという訳でもあるまい”
芹沢当人は、安田の事は調べたと以前言っていた。経歴から見れば、覚えがあるとしても、独学で身に付けた程度である筈の者に任せるとは思えない。
とはいえ、裏千家で良ければ嗜む程度に心得はあるのだが。
“知っている筈も無し。そちらに期待をかけてはいないだろう”
「無論、フォローは私を含めた侍従が全面的に行う。貴様には、さる御方よりお声がかかっていてな」
“まさか、大刀自か?”
一瞬身構えかけたが、こちらを伺っている芹沢の様子からして、その可能性はない。窮しているというより、反応を楽しんでいる節があるのだ。
「聞いて驚くな。綾之峰財閥代理当主であられる、綾之峰万里華様から貴様にお声がかかった。英里華様の叔母上にして、義母に当たる方なのでな、茶会では粗相のないように……何だ、何かないのか?」
「……驚いております」
とてもそうには見えんがな、と芹沢は背を椅子に預けて息を零す。
だが、表には出さないというだけであって、驚いたというのは本当だ。
“母とは同級生であった事は知っているが、直接の面識はない……ミス・マクミラン同様、こちらを見定めておきたいのか?”
「一つ聞きたい。有っても独学とは思うが、茶の湯の経験はあるか? 無ければ、姉から指導して貰うよう取り計らうが」
「裏千家であれば」
「そうか。とはいえ、三客であれば最低限の作法で足りる。貴様が固まる姿を見たいと思わん事もないが、恥をかけば英里華様にも飛び火するのでな。程よく肩の力を抜いて臨め」
話は以上だという芹沢に一礼し、退室すべく立ち上がる。が、それより先に芹沢が動いた。
「茶の一つぐらい飲んで行け。家に戻れば、姉が騒がしいだろう」
◇
「ほうほう。マイシスターと二人きりでお茶を楽しんでいたら帰りが遅れたと。安田少年も隅に置けぬ……というより、マイシスターの行動力にジーヤは驚きであります」
「生徒会室って、特別科の最上階のとこだろ? 校則上は男子も立ち入り禁止じゃないと言っても、実質男子禁制のとこで逢引きとか有り得ないだろ。相手が芹沢ってとこも含めて」
“姉に振り回されている妹が、同じように苦労しているのだろうという勘違いから、情を引いたのでは? などと言えば騒がれるか”
朴念仁と取られるか、はたまた余計にからかいに掛かるか。いずれにしても、藪を突いて蛇を出すほど愚かではない。
香ばしい匂いを出し始めた青魚を盛り付け、摩り下ろした大根を小皿に分けながら、安田は今後に関して口を開く。
「現状、綾之峰さんの方は仕事にかかりきりだから、銀香さんには可能な限り影武者として動いて欲しいらしい」
既に大刀自が本気で動いていない事は、芹沢にも叔母の万里華にも伝わっている為、細かな代理程度であれば問題ないと踏んでいる。それは同時に、将来の相手として安田が占われた事も伝わっているという事であるが。
「出来れば、七夕茶会の作業も分担して欲しいそうだ」
「まぁ、茶会は亭主のセンスが出るからなー」
「イメージが固まっていたら、後は配置等指示をすれば事足りるでありますがね」
だからこそ、茶会そのものは無理に代理を頼まなかったのだろう。銀香にしてみれば再び御家の都合に合わせて生きる生活に戻ってしまう訳だが、それでも一時的なものであれば、そこまで拒絶はしないだろうとも見越していた。
安田自身の出席に関しても、七夕茶会当日には期末考査を終えていることもあり、拒否する理由はない。とはいえ、拒否権など初めから無かっただろうが。
「私としても、英里華には幾つか話しときたい事もあったしな」
骨休めは充分出来たし、息つく暇もないほど働かされない限りは問題ないとの事だ。
「では、そのように連絡させて頂き、」
「おい。敬語に戻ってんぞ」
「力を抜くでありますよ、安田少年」
屈託なく笑う二人に、そうだなと同意する。距離を隔てぬ会話というのも、存外悪くないと思いながら。
そして、当人の気付かぬ事であるが……その口調が徐々に丸く、少壮のものに近くなっていった事に銀香とジーヤは笑みを零す。自分たちとの間にあった、心の距離が狭まっている事に。
◇
七月七日。ごく少数の綾之峰家親族と財閥重鎮らを招待し執り行われた野点にて、唯一部外者たる安田は、世辞を抜きに綾之峰英里華の亭主としての実力に舌を巻いた。
白の大傘は月。藍染の敷物を川と見立て、周囲の野花に星を見る。
ならば、織姫が何者かと問うは愚であろう。藍の敷物は英里華に届かず、彼女は晒された畳にて姿勢を正していた。
“そここそが対岸であると言う事か”
成程、確かに七夕茶会の名に相応しいと感嘆したのもつかの間、もし、と背後より艶やかな声がかけられた。
振り返り見れば、妙齢の女性である。年の頃は、どう多く見積もろうと見目には二十後半か半ば。それでありながら、齢を重ねた者のみが得られる落ち着き払った空気がこの女性には感じられた。
おそらく、この女性こそが安田を招待した綾之峰万里華その人であろう。
ただ絵となる美を備えているだけではない。匂い立つ気品も然る事ながら、佇まい一つとっても、古き良きと称される、過日に置き去られた古雅が伝わってくるようであった。
「本日はお招き頂き、ありがとうございます。私は、」
「安田登郎さんですね。峰子とは同級生で親友だったのだけど。まさか、彼女から貴方のような子が産まれるなんて、聞いてても驚いたわ」
本当に信じられないと。驚きの中にあったのは、僅かな疑惑か。しかし、それはこれまでの人生で、両親を知る者達から幾度となく言われた言葉である。
「皆そのように仰りますが、こればかりは生まれ持ったもののようで」
左様ですか、と気にした風でなく流されるが、関心を無くしたという訳でないのは目を見れば判る。
「貴方、正客をなさい」
「宜しいので?」
前触れなど無く告げられた為に間髪入れず返してしまったが、それが失言だと気付いたのは後の祭りだった。
「出来ぬとも言わねば、戸惑いもしないのですね」
結構、と。静かな足取りで去る背を見送りながら、安田は一介の学徒らしからぬ己の応対を恥じた。
◇
「本日、正客を務めさせて頂きます、安田登郎と申します。軽輩の身では御座いますが、宜しくお願い致します」
連客一同が揃ってからの挨拶に始まり、亭主との問答から、菓子と茶を頂いた際の礼に到るまで、つつがなく進行していく。
元より、万里華から直接招待に預かった事を客らが知り得ていた事。庶子と言えども綾之峰学園にて優秀な成績を収めており、同席した芹沢とも懇意にさせて頂いていることから、下に見るような声は上がらず、七夕茶会は静かに幕を下ろした。
◇
「見事なものだったな」
独学ではなかったのか? と芹沢は問うが、姉から時間の許す範囲で仕込まれたのだという言葉と、平時から知る安田の物覚えの良さに納得し、それ以上追及はしなかった。
「芹沢さんのからのご紹介に、助けられた部分が大きかったので」
固まった肩が解れましたと言うが、それが世辞である事ぐらい芹沢にも分かる。
「良く言う。次は着物でも褒めるか?」
「はい。実によくお似合いです」
冗談のつもりであったのだろうが、先程の助けられたというものとでは、熱の込め方が違う。本心なのであろうが、だからこそ気まずい物があった。
「止せ。貴様が銀香様のお相手とされている事は知っているのだ」
万里華様も、それを見越して主客に据えたのだろうと、芹沢は顔を僅かに顰めた。
「正直、私は貴様個人を好ましく思っているし、より良い関係で有り続けたいとも思う」
傍から聞けば、告白かと思うような言葉。しかし、それが違うことは彼女の表情からも、場の空気からも否応なく感じられた。
「だから、頼む。銀香様だけでなく、私と英里華様を支えてくれ。私では立場故に出来ぬ事も、貴様ならば可能の筈だ」
それは誠意であり、己の眼鏡に適った者への期待であり、また友誼を重ねた相手への信頼であったのだろう。
芹沢自身にとって大切な、命に代えても守りたい存在。それを、己とは別の形で守って欲しいと頼まれたのだ。
「私は───」
───その願いを、聞き届けられるか?
◇
「正直、私は貴様個人を好ましく思っているし、より良い関係で有り続けたいとも思う」
その言葉を聞いたとき、二人に分たれた綾之峰の姫は、告白かと思った。
「だから、頼む。銀香様だけでなく、私と英里華様を支えてくれ。私では立場故に出来ぬ事も、貴様ならば可能の筈だ」
だが、違った。芹沢にとって安田登郎とは信用に足ると認めた存在に過ぎず、預けるのは心でなく背中だった。
「……ひどい女だな、芹沢は」
銀香はその言葉に、落胆を覚えてしまった。確かに、男を寄せ付けぬ女なのだとは判っていたし、こういう結末も起こり得るとは考えていた。
しかし、同じ女として見ても、振り方というものがあると思う。
貴方には相手が居る。それは定められている事で、自分はそれを理解しているし、むしろ喜んでもいるのだと。彼女ははっきりと、そして一方的に突きつけたのだ。
「そうでしょうか?」
だが、英里華はその言葉に、違うものを見た。
「芹沢は、きっと───」
◇
「私は───」
「安田様」
応えることを阻むかのような声。ただ呼ばれたと言うだけでありながら、そこには有無を言わせぬ響きがあった。
「お取り込み中、ご無礼。ですが、当主代理が是非茶庵にとお誘い申し上げておりまして」
「構わん。私を気にするな」
答えを示さぬまま立ち去る無礼に、後ろ髪を引かれる思いはあったが、芹沢とて立場は弁えている。次の機会で良いと告げ、また学園で、と自ら場を去って行った。
「……伺いましょう」
◇
「芹沢は、きっと───覚えています」
はっきりと。茜に染まる横顔を見ながら、英里華は確信するように行った。
「貴女の言う、覚えていない安田さんとの出会いを。きっと思い出したんです」
その上で、身を引いた。自分の気持ちも、相手の気持ちも、全て深く考えないようにしながら、綾之峰英里華と銀香の為だけを願って。
「……そっか」
その思いを。分たれたもう一人の自分の思いを、銀香は否定しなかった。
そして、意を決したように口を開く。
「思ってたんだけどさ。お前と私は、もう別人だよ」
好きな物も、嫌いな物も。表に出す性格以外、きっと全部同じでも。
「ですが……」
英里華が居た事で、銀香が生まれてしまった。
心に抱え、澱のように濁った闇が、彼女と分かれた事で霧散した。
綾之峰を継ぐ事を嫌がりながら、牢に閉じ込められるよりはマシだと胸を撫で下ろした。
「……私の不満が、貴女を生んだんですよ? 一杯、迷惑をかけたんですよ?」
「私は、銀香で良かったと思うよ。お前が願ってくれなかったら、きっと私は色んな安田を知らなかったし、違う生活を送れなかった」
大切なものは、きっと同じ筈だった。今だって銀香は、芹沢を大事に思っている。けれど。
「私は安田の側に立って、あいつが傷ついたと感じた。お前は芹沢の側に立って、身を引いたと思った。私は、お前の知らない安田を見たよ。料理が上手くて、馬鹿みたいに鍛えて、ジーヤの無茶ぶりだってこなしちまう、真面目で出来過ぎる男だった」
それだけではない。短い日々の中で、銀香は英里華の知らない多くを見た。
梅干を嫌った自分に、好き嫌いをしてはいけないと諭しながら、好きになれるよう料理を工夫した。
女らしい週刊誌より、恐竜図鑑が好きだと知れば図書館で借りてきてくれたし、熱心に話も聞いてくれた。
ゲームもドラマも、興味なんてない筈なのに、嫌な顔一つせず付き合ってくれた。
「……今日の茶会だって、覚える事だらけだった筈なのにな」
とはいえ、そこはジーヤに仕込まれずとも、始めから覚えていたのかもしれないが。
「私は親友として、日常をくれた恩人として、あいつを見てる。お前にとっては昔占われただけの、好みでも何でもない煩わしい奴でも」
この思い出は、綾之峰英里華では、決して得られないものだったんだから。
「だから───お前を助けてやる」
もう、綾之峰銀香は多くを得たから。
「今度はお前が、幸せになる番だ」
原作がラブコメなのに、コメ部分が圧倒的に不足してる本作。