『聞こえてるか、バカ姉。今到着したが、控えの広間に英里華様が見えない』
「その呼称は酷いでありますよマイシスター。となれば、禊の為の湯殿でありますな」
厄介なことだとジーヤは嘆息した。沐浴となれば警邏とて近づけぬが、裸のまま連れ出す訳にも行かない。
「安田少年。お嬢様はおそらく入浴中でありますから、先に周囲を無力化し、逃走経路を確保して欲しいであります。お嬢様は、直接ジーヤが」
首肯の後、安田はジーヤと二手に分かれる。逃走経路の確保といえば難題に聞こえるが、要は抱き込めていない護衛官を片付けるか、誘導すればいいだけだ。
“とはいえ、殺さずにというのも骨が折れる”
背後から頚動脈を締め上げ、気を失ったところを抱き込んだ護衛官に引き渡す。落としたままにしては、そのまま死に至るか脳に障害が残りかねない。
“出来る限り、手早く連れ出して貰いたいものだ”
◇
だが、そうした安田の期待とは裏腹に、ジーヤは思わぬ事態に臍を噛む。
“居ない……儀を省略したでありますか!?”
おそらく、安田は既に命令通り護衛官を片付けているに違いない。となれば、如何に抱き込んだ人間が工作を手伝おうとも限界が来る。
「安田少年、おそらく綾峰山、山頂での寝所にて儀を執り行おうとしている筈であります。この際、バレてでもお嬢様を連れ出して欲しいであります!」
◇
『安田少年、おそらく綾峰山、山頂の寝所で儀を執り行おうとしている筈であります。この際、バレてでもお嬢様を連れ出して欲しいであります!』
“無理を言ってくれるものだ”
寝所までの道は長く、それも一本道。どう足掻こうと、門扉を跨いで石段を上る限り気づかれる。
加え、裏から回ろうと山頂までは断崖絶壁である上、頂上と寝所との間には裂け目が広がっている。運を悪くすれば、奈落の底まで一直線だ。
“だが、恩は返さねばな”
やらず後悔するぐらいならば、死してから後悔するまでだ。
◆
『英里「香」……お前に次期当主である「華」の一文字を、今日より英里華を名乗ることを許します。華の一字を継ぐ綾之峰の「華の姫」よ……その身は最早人に非ず。綾之峰という家そのものであると知れ』
“『その身の全てをお家に捧げ、絢爛たる華開くが如き繁栄をもたらせ』、か”
大刀自より華一文字を与えられた遠い日を思いながら、英里華は静かに石段を上がる。
心を揺らすな、人で在るな。この身は家と、そして国家の安寧が為に捧ぐ供物に過ぎぬ。
“そう、生き続けてきたんだから”
「ふぅん。あれが寝所か、黴臭いとこだね」
他人事のように征綺華は漏らす。そこには控えの広間で垣間見た、内に秘めたものなど何処にも感じない。目新しい物に興味を向ける、子供のような無邪気さが見えるだけだ。
「随分落ち着いてるね。ひょっとして、もうどうにもならないから腹を括っちゃった?」
だとしたら拍子抜けだと、口笛を吹くように征綺華は語る。
「……どうして、禊をしなかったので?」
「だって、気持ち悪いじゃないか。どうせ湯浴みの最中ベタベタ触ってきてさ、初夜はああしろこうしろって口煩く言ってくるんだよ?」
生憎、僕の方がずっとテクニシャンなんでね。と嘯いたが、どうにもそれだけではなく思えた。
「ひょっとして、男子ではないので?」
「まさか!」
からからと、口元に手を当てて征綺華は笑う。その所作一つとっても男である事を疑いたくなったが、やはり口から出たのは否定だった。
「あと少ししたら、下も見せてやるけど。この腰のラインを見たら分かるだろ?」
どんなに見目麗しかろうが、誤魔化しようのない部分というものはある。それは男が男である以上、女が女である以上、決して変えられぬ部分だ。
「ですが、その声は……」
「おっと。そこまで詮索したいなら、褥で幾らでも語ってあげるよ。とはいえ───」
───鳴く意外、出来なくなると思うけどね。
「いや、ここが終着だ」
◇
「いや、ここが終着だ」
その声と、その姿に、二人は我が目を疑った。
誰も来れない。近づくことは決して許されない筈の寝所という神聖不可侵の頂。
そこに、有り得ぬ筈の影を見た。聞こえぬ筈の声を聞いた。
「安田、さん? どうやって……」
「人間、為せば成るものでな」
断崖絶壁の背後を登り、僅かな足場から奈落への裂け目を飛び越えた。死の恐怖をかなぐり捨て、ただ一念を以て、不断の意思で踏破したまでの事だ。
「でも、いいえ、ですが……帰ってください! 私には、綾之峰英里華には勤めがあります! この国と、そしてお家の為、果たさねばならぬ責務があるのです!」
庶子の身になど分かるまい。人が生まれながらに果たすべき物の重みなど。生涯の全てを擲ってでも、進まねばならぬ運命など。
……それを。姫となる事を、自ら選ばなければならなかった人生など。
「国を思う意思と義務。その何たるかを、見た事のない貴方では!!」
だから、帰って欲しいと。こんなに酷い事を言ったから。貴方と私は違うのだから、と。
「確かに、私と貴女は違う」
だが───見たことならば、ある。
国を思い、身を捧ぐ覚悟を。そして、どうする事も出来なかった、己の不甲斐なさを。
「それを忘れたくないからこそ、祈り願ったのだから」
“え……?”
「何を言っているのか、分からないな」
一人の少年が、一歩前に進み出る。突如として現れた、何処の誰とも知らぬ闖入者を見上げながら。
「君が誰だかなんて興味ないし、口上に付き合ってやる義理もないけど、これだけは言っとくよ。僕は綾之峰征綺華。綾之峰英里華を、妻とする者だ」
だから、お前は邪魔だと。目的を果たす為に消えろと、更に一歩石段を上る。
「───悪いが。女神の神託など偽りだ」
「だろうさ。神様なんか信じちゃいない」
どうでも良いだろうと、石段を上り続けていく。手が触れる位置、境界線となる相手に触れ得る距離まで詰めて、ようやく止まった。
「邪魔を、するんだね」
「ああ。邪魔立てする」
睨み合う両者。彼我の力量は、誰がどう見たとて安田登郎に軍配が挙がると知れただろう。征綺華とて、この鍛え上げた長身の男に徒手空拳で敵うなどとは思わない。
それでも───
「───押し通る。僕が、全てを壊すために」
「それが望みなら」
終わらせてやると、安田は構えた。
◇
「が、ごほっ……」
決着は、一撃だった。骨も内蔵も無事だが、一刻は食を摂れば戻すだろう。
「ま、て……」
石段を下りる足を掴む手。胃液と吐瀉物を散らし、息する事さえ苦しい筈だというのに、征綺華は離そうとしなかった。
「……僕は、僕で居たいんだ……だから、必要なんだ……お願いだよ、手は出さない。ただ、結婚したって事実が欲しいだけなんだ」
「申し訳ないが、貴方に斟酌してやれる暇はなさそうだ」
流石に、時間をかけすぎたらしい。遥か下からの騒ぎの声が、ここにまで響いてきている。
「それに、彼女は英里華ではない」
え? と。信じられないものを見るように、征綺華は黒髪の少女を見た。
「遅くなったが、迎えに来た」
「どうして……、分かったんだ?」
何もかも、同じ筈だ。髪だって、染めたのはお互い様だったのに。
「綾之峰さんは、貴女ほど行儀が悪くなかった」
「……は。何だよ、それ」
酷い見分け方もあったものだ。
「どうせ来るなら、少しは気の利いた台詞でも言ってくれよ」
違いない。違いないからこそ、言ってやろう。
「泉の事を、覚えているか? 『この私の王子というなら、』」
「『声を聞いて』」
嗚呼、確かに来てくれた。声にならない声を、確かにこの男は聞いてくれたのだ。
「私を───攫ってくれるか?」
小高い塔に、囚われた姫を。
「私は、王子には程遠い身だ。それでも───、貴女に望まぬ恋路はさせたくない」
その為だけに、銀香を綾之峰から奪い、攫いたいという一心で安田は来た。
誰かの欲や、野心などという悪意に呑ませはしないと。
どんな障害が阻もうと───真に銀香が、誰かと笑い愛し合える未来を望んでいるから。
「うん、そうだな───お前の在り方は、王子じゃなくてナイトだ」
いずれにせよ、華がない時点で似合いはしないと安田は笑う。けれど、どうだって良い。 似合う似合わないでなく、銀香の目から見た彼が、そういう男だというだけだ。
既に足は、解かれている。伸ばされた手を恭しく掴み、まるで絵本の姫にするように、彼は堂に入った動作で一礼をしてみせた。
“なんだ……助けてくれる奴が、居るんじゃないか”
羨ましいし、妬ましい。だから───
“僕と違って、幸せになるといいさ”
静かに。眠るように、征綺華は冷たい石段に身を横たえた。
◇
結局。そこから後は絵に描いたような脱走劇だった。
“上へ下への大騒ぎ。我ながら、よく抜け出せた物だと思うであります”
さて、とジーヤは機内で染料を落とし、操縦席にやってきた二人の少女を見やる。
“……おそらくは茶会の時と思うでありますが”
事情を知った銀香が、助けようと身代わりを務めたのだろう。惜しむらくは、長年教育係を勤めていた己や芹沢ではなく、真っ先に安田が気付いてしまったという事か。
“愛の力で有りますかなぁ……妹との三角関係に、ジーヤは複雑であります”
「……ジーヤ。思ってる事があんなら口に……ああいや、やっぱ良いや」
どうやって弄ってやろうかとウズウズニヤニヤしているジーヤに、むしろチャックでもしとけと銀香はジェスチャーした。
「で? こっからどうすんだよ?」
「万里華様が大刀自様に直接説明して、お見合いを取り下げて貰う間は
「あの歌凛子様の処でですか……」
確かに、他に行く宛はありませんものね、と英里華も頷く。
「ところで……偽の婚約者は、あの男と奥に?」
「んん? マイシスター。気になるなら見に行って来ても良いでありますよ? 安田少年が可愛い子を看病してるのが気になるなら、はっきり言ってくれれば何時でも大丈夫でありますよ?」
「黙れバカ姉。第一、男同士で何があると言うんだ」
全くだと。芹沢の言葉に一同は深く頷いた。
◇
「なんで……連れ出したんだい?」
口にはしたが、征綺華とて事情は判る。全てが実父である征麻呂の仕組んだ事であり、大刀自さえ偽ったとあれば、例え知らなかったとしても征綺華にも類が及ぶだろう。
……それでも。わざわざ脱出のリスクを増やしてまで、連れ出してやる義理はなかった筈だ。
「あの場では、斟酌する暇はなかったとお伝えした筈」
「そんな理由か」
律義な事だが、同時に残酷でもある。彼の、征綺華のこの後を考えれば。
「結局。君は見捨てられなかっただけだろ」
自分の都合で、仔猫でも拾うように征綺華を助けたつもりなのかもしれない。けれど、その後は? 大刀自からは、綾之峰からは逃げられない。どれほど手を尽くした所で、いつかは釈迦の如く掌で弄ばれ、そして花を摘むように人生を手折られる。
「酷いよ、本当に……。花婿にしてくれたら、英里華はどうだって良かったのにさ」
「それが理由です」
もし、征綺華があの場で英里華を愛すると、守り抜くと口にしたならば、安田は身を引いただろう。
婚姻から始まる恋愛など、家の事情で契りを交わした黒瀬とて経験がある。
そして、どのような形であろうとも、結ばれた者同士愛し合える事も経験していた。
「貴方は綾之峰英里華を、銀香さんを道具にした」
「家の道具だって言うなら、僕だって同じさ」
女系にしか与えられぬ華一文字を、そして親から征の一文字を賜った時点で、征綺華はいずれこうなる事を定められていた。
そして、物心つく時から、それを察してしまっていた。
「……いっそ。本当に女の子に生まれたら良かったのにな」
そうすれば、きっと。こんな今は訪れなかった。
分家の人間として多少の束縛はあったとしても、ある程度は自由に生きられた筈で、安田にも、その吐露が本心からのものだと伝わった。
初顔合わせでは、女の恰好をしていたというのも。その声も、全てはそう在りたいがためだったのだと。
「性同一性障害って言ってくれてもいいよ?」
半ば自棄になっているのだろう。どうにもならないなら、全てを話してぶちまけてしまいたいという欲求を、征綺華は抑えようとさえしなかった。
「カストラートって、知ってる? オペラや聖歌隊でさ、高い声を出す為に去勢するんだけど、宦官みたいに全部切り落とす訳じゃない」
男性としての機能を失わせずに、少年期の声を残す技術。現代においてカストラートは人権問題から姿を消したが、征麻呂は息子にそれをしたのだ。
「『障がいは認めてやるが、胤は与えられるようにしろ』ってね。万が一も考えて遺伝子バンクもあるから、膜さえ破れりゃどうでも良かったんだろうけど」
不快で、本当に不快で仕方がなかった。道具としてしか見ない父も。権力欲しさに同意する母も、全てが嫌で堪らなかった。
「……ああ、でも。やっぱり女の子には、生まれなくてよかったかも。あの父親、英里華に求婚したって言うし」
その頃にはもう自分がいた筈で。母も、家柄からの結婚でしかなくて。
「きっと、女の子だったら、あいつは僕を犯してた。英里華に見立てて、ずっと酷い事をし続けてた」
だから、どう転んでもやっぱり絶望しかなかった。
取れる選択なんてなくて。人生に意味なんてなくて。
ずっとずっと、死ぬまでずっと───
「───後悔しながら、生きて死、」
「そのような事、口にするものではありません」
そんな風に語るなと、全てを捨ててしまうなと、悲劇に酔う征綺華を遮る。
「何だい? 同情でもした?」
「ええ……しました」
悲惨であったし、悲痛でもあった。英里華や銀香以上に、重く苦しいものを抱え生きた少年に、安田は確かに情が移ったのだろう。
他者の悪意に弄ばれた、少年の身体の少女を、何とかしてやりたいと思ってしまった。
「なら……どうしてくれるって言うんだい?」
一緒に泣いてくれるなら、子供にだって出来る。慰めるだけなら、何とでも言える。
「君が、全部壊したんだぞ?」
結婚さえしてしまえば、後は幾らでもやりようがあった。英里華は浮気なり何なりすれば良かったし、自分だって不安定なまま生き続けなくても良かった。
「全部君が悪いんじゃないか。君がお姫様を攫って、その上僕に情なんかかけて」
殺せと、力なく洩らしながら、涙を湛え懇願する。
「殺してくれよ……頼むよ、助けると思って」
「お断りする」
はっきりと、雫を指で拭いながら、安田は願いを拒絶する。
「殺しなどしませんし、死なせる気もありません」
「……ずっと苦しめっていうのか?」
英里華を、否、銀香を利用した罰として、苦しみながら死を待ち続けろと?
「いいえ───護ります」
綾之峰に手出しはさせぬ。無明の生など送らせぬ。
如何な時とて、この誓いを破りはしない。
「どうやってさ?」
「持てる全てを使って」
「言うだけなら、誰にだって出来る」
「果たせねば、腹を召します」
「……君さ。時代劇の見過ぎじゃない?」
ふふっ、と。馬鹿みたいに真面目な顔で喋るものだからだろう。どうにでもなれと言うように、ソファに身を投げて笑い転げた。
「けど。本気にするよ? 本当にお腹切れるの?」
「貴方が、絶望する時が来れば」
嘘ではない。きっと、この男は本気で切るだろう。頼もしい以上に恐ろしいが、気持ちぐらいは受け取ってやっても良い。
「そっか。なら、前渡しに」
軽く。触れる程度に重なる唇。
「どう? 男でも、僕ぐらい可愛かったらドキドキするでしょ?」
「……酸い味がします」
それは君のせいだよと、微塵にも動じぬ姿に眉を顰めた。
「……君。初めてじゃないね?」
「貴方も、経験が豊富なようで」
歯と歯がぶつからず、唇は震えてもいなかった。ある程度回数を重ねねば、ああも上手くは行かないものだ。
「経験を重ねたら、男らしくなれるかもって親が押し付けてたんだけどね」
やっぱり、女は気持ち悪かったと苦い口調で言葉を吐いた。
身体が男であろうとも、心が、同性を抱く事を拒絶し続けたから。男として腕に抱くのではなく、女として身を任せていたかったから。
「だからさ。女連中はきっと部屋に来ないし……君さえ良かったら、して上げるよ?」
細い指を頬に這わせ、耳朶を噛みながら甘く囁く。口づけを知る程度には色男でも、顔立ちから察するに所詮は十六程。よもやこちらの経験などあるまいと、首筋から舌を這わせて、されるがまま動かぬ男の唇を舌で割り、
「ふぐッ……!?」
突如、己以上に激しく絡まる舌の動きに、思わず唇を離して突き飛ばした。
「え? え……? 待って。僕、男だよ? 何でそんな……」
「性別など、些細な物でしょうに」
安田改め黒瀬が、過去に二人ほど春を買った事は既にお伝えした通りである。
しかし、色欲しさに買った一人目の経験から、女というものの味が伝え聞くほどでなかったと落胆し、趣向を変えて地元で評判であった十代の陰間までも買っていたのだ。
当時にしても西洋圏の価値観が既に入り、同性での性的行為は明治五年に鶏姦罪として罰せられてはいた物の、法自体成立してからも形骸化していた事と、黒瀬が買った頃にはこの刑罰自体廃止されていた為、男色の敷居は現代人が思うより低かったというのがある。
尤も、黒瀬当人は男だろうと女だろうと情事自体そこまで楽しめるものではないと悟り、以来きっぱりと遊ばなくなったが。
「手弱女として、扱って欲しかったのでしょう?」
拒絶もなく、汚れていると否定もしない。美しい花を扱うように、柔らかな腰を掻き抱いて、顎に手を添える。
未だ操縦席で雑談など交わす子女らが見れば、間違いなく卒倒する光景であるが、当人は既に扉に鍵を掛けて棒まで挟むという徹底ぶりであった。
「……いいの?」
「私で不服でなければ」
無理に手篭めにしたい訳ではない。情事など所詮一時の欲を発散するもので、そこに愛がなければ虚しいものだ。
けれど、それを相手が望むなら。そうする事で荒んだ心が満たされるというなら、別段拒もうとも思わなかった。
「ううん。けど……後悔するなよ?」
両手の指で足りぬほど女を泣かせた手練手管で、この時代錯誤な男がどのように鳴くか。女として扱われる事への悦びも混じらせつつ、征綺華はどう虐めてやろうかとボタンを外した。
◇
「おや? 安田少年。遅かったでありますな」
「シャワーをお借りしていたので」
成程、確かに見てみれば着衣に違和感があった。
備え付けのコーヒーメーカーで淹れたコーヒーを女性陣に配りつつ、安田は何食わぬ顔で操縦席に繋がる大部屋のソファに腰掛ける。
「ところで、征綺華少年はどうでありましたか?」
「話す内、落ち着かれました。どうやら父に強制されたに過ぎないようです。婚約の事も、儘ならぬが故の自棄だったのでしょう」
そうでありますか……と、ジーヤらだけでなく、無礼を受けた銀香も安田が細かく事情を伝えるに連れ、征綺華への怒りは萎えて行った。
誰かの悪意に踊らされる人生など、誰にとっても聞いて気持ちの良いものではない。家という物に縛られる彼女達だからこそ、同じ境遇になり得た可能性のあった征綺華に、同情を寄せるのは時間の問題だった。
「その、征綺華少年はどうしてるので?」
「疲れが出たのでしょう。気持ちを整理する上でも、暫し休ませても宜しいかと」
賛成であります、と一同を代表して応えるジーヤに、安田は人心地付く。
“染みの類はコーヒーを零すとして、残りは涙や鼻水で汚れた事にするか”
黒々としたコーヒーを飲み干しながら、物的証拠を手早く片付ける目算を立てて行った。
◆
「英里華は逃げたか」
「追手を?」
良い、と警護として侍る近衛巫女に大刀自は袖を振る。途端、その身に触れぬよう一歩巫女は後退ったが、大刀自自身それを咎めようとは思わない。何しろ、大刀自に忠を抱く彼女らでは、触れれば唯では済まぬのだ。
「事情は万里華より聞き及んでおる。暫くは好きにさせておけ。狂言であれ何であれ、如何なる者が綾之峰を貶めようとしたとて、儂と『鏡』が無事ならどうとでもなるでの。ああ、その方らも、もう下がって良いぞ」
礼を取って退室した巫女らを見送る事もせず、気怠げに座位を崩しながら、大刀自は宙を仰いだ。
“今日は、特に痛むな……”
ずぐずぐと、胸から全身に広がる苦痛。最早慣れたものとは言え、やはり痛みは痛みでしかない。
だが、その痛みとて、遠い過去に比べればマシだろう。見る者全てに疎まれ、忌まれ、誰しもが己を唾棄し続けた、あの日々を思えばどうという事はない。
“陛下……”
心中で呟く。泉の奥で光となって消え行く刹那、彼の御方は言ってくれたのだ。
済まなかったと───どうか、後の日本国で幸福であって欲しいと。自らの治める国に、斯様な苦しみを与える風習が残されていた事に気付けなかった不実を、卑賎な忌児に最後まで詫びながら。
“……なんと不敬であったことよ”
そのような方を、大刀自はあの日、僅かにでも恨んだのだ。どうしてこの国は、こんなに冷たく残酷なのだと。この国を治める者は、何故何も見えていないのかと恥知らずにも謗ってしまったのだ。
大御心の何たるかを、矮小な小娘が推し量れる筈もない。あの覚悟、あの慈愛に包まれた今の世こそが、何よりの証明だ。
「日ノ本よ───、其方は永遠だ」
綾之峰の名と共に。託された全てを、何物にも勝る栄華で満たそう。
───それこそが、永遠の名こそが大刀自……綾之峰百合華の唯一無二の願い故に。
最強主人公(性癖が最低)