もし凶月刑士郎がヴィルヘルム・エーレンブルグに戻っていたら
「――――――太・極――――――」
器が割れる。刑士郎の魂―――その深奥が顕れる
生まれ変わる。かつての吸精の修羅へと
「ァア、ハハハハァ…いーい気分だ。なぁそう思うだろう姉さん」
返る言葉はなく、代わりにかつて凶月咲耶だった存在は応えるように刑士郎の全身を高揚させた
咲耶を喪した悲しみはない。ああ、こうあるべきだ。こうあるべきだったと、顕現した白面の吸血鬼は嗤う。
求道の面を剥がし、総身から漏れだす闇夜は。瞬間、堰を切ったように流れ出す。
これこそ刑士郎の真の異能。この闇夜の結界は敵の全てを暴食する略奪空間だ。
黄金を頂き、神格の業まで高めた死森の薔薇騎士_________
__________修羅曼荼羅・血染花
己が新生に哄笑を上げる鬼に相対するはもう一人の鬼。
「あらら、戻っちまったか。天魔、血染花、おめでとうさん」
刑士郎の領域は相対するもう一人の鬼、天魔・宿儺の領域を侵し始めていた。いわばこの幾何学模様空間は宿儺の腹の中だ。外界で鬩ぎ合うならまだしも、癌細胞にも似た刑士郎を腹に入れておくのは得策ではない。
「覇道に戻った以上、ここにはおいとけねぇなぁ、っと」
宿儺の空間(じごく)が解ける。それは刑士郎の空間(じごく)に食い破られるためであったが…何より食い切れてしまうため。
幾何学模様は消え、元あった空間に還る。
刑士郎の背後に顕現したのは巨大な黒死鳥(ずいじんそう)。敢えて既存の形に当て嵌めるなら鴉だろうか。
その総体は悪路や母禮の随神相に勝るとも劣らない。
互いを見据える。敵を屠る必殺の機を伺う。
「ハァ!」
初めに動いたのは刑士郎だった。身体から杭を生やす。先刻のそれとは比べ物にならない強度の杭を宿儺に投げつける。
否、刑士郎だけではない。闇夜の領域に侵された大地は変生し、地面から無数の杭を形成する。
吸精の杭は宿儺のほうへ向けられ、一斉に飛翔する。随神相が咆哮を上げ、その大翼を広げる。数千数万、あるいは億にも数えられる翅が羽ばたきとともに濃密な弾幕を形成する。これら総てに吸精の性質が乗せられており、宿儺は総身とともに領域ごと活力も運気も吸い取られる。
「へぇ闇の不死鳥とか吹かしてたらマジに不死鳥出しちゃったよ。なぁ、お兄ちゃん。いや、もう弟ちゃんか」
恐らくここにきて初めて宿儺は正真の迎撃態勢を取った。宿儺の持つ随神相、両面の大鬼がその主手副手に持つ四門の大砲を眼前の大鴉に向ける。
発砲、発砲、発砲________________________________
「うるせぇ糞餓鬼。今黙らせてやるからおっ死ね」
凄惨なまでの撃ち競べ。否、根競べ。常人ならその場にいただけで視力聴力を失っているだろう。それほどのまでの砲戦を只の二人で繰り広げた。
「ふぅ_____________あ~あ、やっぱ駄目だったか。ほんと、あ~あだわ。おい、ワリィけど手加減はヤメだ」
「__あぁ?聞き間違いか?信じらんねぇくれぇ舐められた気がしたが」
根競べを制したのは宿儺。空間を埋め尽くした黒の群はしかして、全て打ち砕かれた。
宿儺の防御をどれほど掻い潜ろうともそもそも当たる前に掻き消える。あっさりと、当然のように。
敵わない。どれほど異能を高めてもそれが異能である以上、宿儺には及ばない。
それが永遠の刹那の癌細胞たる宿儺の異能。無間身洋受苦処地獄。
「いや、だってよ。勝負は釣り合いがなきゃ成り立たねぇだろ。俺が対等な振りして、どれだけ互角の勝負を演じてみせても。_______そいつは茶番だ」
「なぁヴィルヘルム。そうなっちまったらお前にもわかるだろ?俺に死森の薔薇騎士は通じない。いや、アイツとアレ以外に俺は倒せねぇんだよ。______どうする?黄金様のいないお前さんは突っ立ってるだけで体が砕けちまうぞ。バリバリバリィ___ってな」
「…知ったことかよ。俺は貴様を殺らなきゃ終われねぇ」
そうだ。自分は咲耶を捨てた。ならば目の前の悪鬼を縊り殺さねばならない。それが残された唯一の道に他ならない。
白貌の吸血鬼は吼える。血染花は宿儺から確かに力を吸い上げている。それでも鬩ぎ合いにならない。ほんの少し圧力を加えられるだけで抵抗もできず刑士郎の空間は押さえ込まれる。宿儺の異能はそういうものだ。神と神の領域に触れただけでそれを消し去る。恐らく、あの黄金や水銀の流出でさえ、宿儺の地獄を押し返すことは許されない。
もはや勝敗は明らかだった。
「相変わらずその夜は脆いねぇ中尉殿」
南蛮銃を刑士郎に向け、発砲。
撃ち落としのために投げた杭も体から生やした杭も貫通して四肢に精確に命中する。
「かなり深度を上げた。もう通じねぇよ」
「アゥ…ガッ…ハァ」
「おらおら。吸えるもんなら吸ってみな。できねぇよなぁ!」
銃弾は刑士郎の身体の要所を的確に射抜き、抵抗力を削り取る。だが刑士郎が動けない理由はもう一つある。
「無間身洋受苦処地獄(こいつ)はアイツの力に依存しちまってな。俺もどうよこれと感じるところはあるんだが」
「まぁ悪く思うなよカズィクル・ベイ」
既に黄金はなく。かつてヴィルヘルム・エーレンブルグと呼ばれていた男はその支えを失い、消滅しかけていた。
「最後通告だ。こっちに振れ。所属を乗り換えれば死なずにすむぜ」
「…ハッ、糞ったれだぁ!!!!!!!!」
最期の抵抗として体中から杭を生やした刑士郎は宿儺に体当たりをかけた。太極の源泉たる自身の特攻であるならば異能が潰える前にあるいは宿儺に届くかもしれない。
そのわずかな祈りを______
「そっか。…あばよ、ヴィルヘルム」
瞬間、幾何学模様がソラを埋め尽くした。刑士郎の太極など初めからなかったかのように
「おっ、おおおおアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア」
____________銃声
そこに心臓を撃ちぬかれ倒れ伏す一人の吸血鬼があった。
見下ろし、もう一人の鬼が呟く。
「なぁヴィルヘルム…お前の大切なもんってのは、なんだったんだ?」
応える者はない。凶月刑士郎の物語はここに幕を下ろす。