ある日の朝、ジェネッタの宿にて。レフィーヤは己の目を疑う光景を目撃した。今見ているのは夢では無いのかと思うほど意味の分からない事だった。あぁ、しかし彼女はすでに夢ではないのだと理解してしまっていた。現実なのだ。目の前の。
「ワン! ワンワンワン、ワン!!」
牛に向かって犬の様に吠えている宿の女将であるジェネッタは、紛れもなく本物であるのだと。
「えっと……何してるんですか?」
「ワン? ワンワンワン!!」
「すみません、人の言葉でお願いします」
「あ、熊語は分かりませんでしたか」
「くっ?!?!」
余りに意味が分からないことが多すぎて思考が停止する。真っ白に染まる頭の中に薄っすら浮かぶのは、熊語が正しいとして何でそれを牛に向かって言っているんだ・・・・というどうでもいい事だった。
「と言う事があったんですよ」
「またやってたのでござるかジェネッタ殿は」
「また? え、また言いました今?」
同じような事を前にもやっていたという事なのか? 出来れば嘘であってほしいのだが。そう思いつつ視線を向けるが、しかしそこに込められたもの理解したうえでゴザルニは首を振る。
「鍋に向かってワンワン言っていたのを見たことがあるでござるよ」
「…え、意味が分からないのですが?」
「拙者も分からなかった故、訊いてみたのでござるが…その」
「なんですか?」
「使い続けると意思が宿るという話を聞いたらしく試していたらしいでござる」
「え、意味が分からないんですけど?」
「ござるなぁ」
いや、意思が宿っているうんぬんは別にいい、良いのだが何故吠える。犬の様に…熊語? を鍋に向かって。意味が分からな過ぎてレフィーヤはジェネッタが同じ人なのか疑わしくなってしまった。種族は違うけれど。
というかそもそも熊語ってなんだ。
「知ってますか?」
「知らぬでござる」
「ゴザルニさんだって良く分からないござる口調なのに」
「泣いていいでござるか?」
「え、鳴く?」
「んー? なにか違うでござるな」
というか良く分からないというのは否定しないのかと思いつつレフィーヤは首を傾げるゴザルニを見て。ふと、ある事を思い出す。思い出してしまう。
「良く分からない口調、言語。そしてさらに良く分からない情報」
「ん、どうしたでござるか?」
「いえ、ちょっとそんな様な事を広めそうな人が居たなと」
「誰でござ……あぁ、確かに」
思い至ったのか納得したように頷くゴザルニ。そう、居るのだそんなことをしそうな人物が一人。アイオリスの街で狂人と呼ばれている見た目だけなら美人な内面が壊滅的にとち狂っているのが。
「師匠ならあり得るでござるな」
「ゴザルニさんのも確か可愛いからって理由でしたよね?」
「らしいでござるな。同じ理由であっても可笑しくないでござる」
「と言うか、私的にはそうであってほしいですよ。だってそうじゃなかったら…その、ほら。セリアン族がかなりあれな種族だと思ってしまいそうですし」
「酷い偏見だと言いたいでござるが今までレフィーヤ殿が会ってきた人を思えば…うん、否定できないでござるな!!」
その言葉は声量だけならばとても元気に思えるだろう。完全に空元気だけれども。それは置いておくとして。
「…確認しに行きますか?」
「ござるなぁ。拙者としても思うところあるでござるし…否定する材料が欲しいでござるし」
「決まりですね」
神曰く善は急げというらしい。別に他にやることもない二人は早速元凶と思われる存在、ゴザルニの師匠であるミカエを探しに宿を出た。
その凡そ数十分後、二人はあっさりミカエを見つける事ができた。悲鳴が聞こえる方へ向かっただけというとても簡単な事だった。
「色々と言いたいことはあるでござるが取り合えず訊きたいことがあるでござる」
「あら、こんな状態にしておいて何を訊くというの?」
「喜んでいるようにしか見えないんですけど」
「何を言っているの? 全く、嬉しいに決まっているでしょう?」
「あ、そうですか」
簀巻き状態で道に転がされているミカエの言葉に理解する事を放棄するレフィーヤ。断じて、自分の体を捩りそこらに転がっている石に押し付けて恍惚とした笑みを浮かべているミカエなど見ていない。いないのだ。
「ま、まぁそれは置いておくとして良いですか?」
「訊きたい事でしょう? えぇ、良いですよ。こんなにもいい気分にさせてもらったのですから。出来る事ならもっとバッサリといってほしかったのだけれど」
「…ジェネッタさんを知っていますか?」
平然と頭の可笑しい発言を何とか流し問いかける。少し考えるように視線を彷徨わせてから思い出したように声を零す。
「あの宿の可愛らしい人ね。熊語なんて素敵な言語を使いこなすあの。わたくしも教えてもらいましたけど本当に素晴らしいものですよね。こう、口にするだけで冷たい視線を感じられるところとか」
「あぁー……色んな意味で聞きたくない事が聞こえた気がするでござるぅー」
声というよりも音といった方が正しく思えるものを口からこぼしながら耳を塞ぎ、足でミカエをど突く。艶めかしい声が聞こえたがそれを無視して言葉にする。
「あの、今教えてもらったって」
「そんなことは言ってないでござるな」
「言ってましたよね? ほら、受け入れましょう? 逃避してても辛いだけですよ?」
「何言ってるでござる? 師匠はそんなことは言ってないでござるよ? おら、そういえ」
「あっ! あ、あふふふふふ。流石ゴザルニね。少ししか経ってないのにこの成長ぶり。わたくしの目に狂いはなかったわ……だからこそ言うの!! わたくし確かに彼女から熊語を教わったと!! だってその方が気持ちよくなれそうだから!!」
「あぁぁあぁああああああああああああああ!!」
「良い、良いわ!! でももっと、もっと責め立てなさいな!!」
泣きながら蹴りを叩き込むゴザルニと喜びながらさらに要求するミカエ。そんな二人を見て、レフィーヤは立ち去った。そっとしておいた方がいいと思ったからだ。
だからレフィーヤは静かに歩いていく。セリアンはあれなのが多いという事と、ゴザルニも傍から見れば十分すぎる程にあれであると言う事実を心の奥底にしまいながら。
……まぁ、街中であんな事してるのだから意味ないだろうけど。