キタカミベイベー 作:SPAM
その頃、呉鎮守府、その執務室。
執務机に携帯電話を放り出してノートパソコンと書類で睨めっこをしながら職務に励む呉の提督がいた。
「……はぁ、何も起きてないといいけど」
不安げな声は佐世保にいる大井に思いを馳せてのものだ。大井があちらに移ってから一週間。それなりにあちらにも慣れてきたころだろう。そう信じている。未だに佐世保から大井絡みの連絡が来ないのはきっと、何も問題が起きていないからだろう。そう信じていないと彼の胃は壊滅する。それほどに神経虚弱なのが彼の短所だった。それと引き換えに彼は無類の慎重さを手に入れていた。賭け事の一切を好まない彼は、勝ち筋一本になった勝負しかしない。安全管理という一点においてなら彼に及ぶ者は居ない。その証明として、前提督のように艦娘を散らせたことは一度たりともなかった。彼の指揮下にある艦娘は、これからも轟沈の憂き目に遭うことはないだろう。
そこに三回のノックの音が転がる。
入ってくるのは決まっている。彼の隣に今居ないならば、ここで入ってくるのは彼女しかしない。
「不安になるのを休んでもいいのではないかしら……そろそろハーブティーの時間です。今日もセント・ジョーンズ・ワート。流石に飽きると思うのだけれど」
返事も待たずに入ってきたのは加賀だ。ガラスのティーポット、陶器のカップが2つ載った盆を片手にしている。そして相変わらずの無表情を顔に貼り付けて、平坦な声でそう声を掛けてきた。提督はそれに苦笑し、
「うん、ありがとうございます。やっぱり僕はこれがないとちょっと……それで大井さんのことですけれど、まぁ、出発がアレでしたし」
「便りがないのは良い便り、そう思っていればいいじゃない」
机の上の書類をガサガサと動かして除けると、加賀がそこに盆を置いてカップにハーブティーを注ぎ始める。
特徴的な香りが部屋に漂い始める。加賀はこの匂いがあまり好きではなかった。彼女の生来の無表情はそれを余人には気取らせないが、呉の提督はそれもなんとなく理解していた。彼は加賀の表情より、声のトーンの微妙な差異で感情を読み取ることにしていたからこそ、それが分かる。
「佐世保の提督ならそう言うでしょうけどね……僕はああまで楽観的にはなれません。アレは才能ですよ」
彼はカップを右手で取ると、静かに傾けて口にする。……彼は慣れていた味だが、少しばかりクセが強いのは分かる。そろそろ麻痺してきた頃だが、少し間を空ければまたこの人を選ぶ味に苦戦するだろう、と彼は考えていた。ただし、間を開けられるほどストレスから解放される時間が取れれば、の話だった。
彼が茶を口にしたのに合わせて、加賀はポットからもう一つのカップに茶を注ぎ始める。そして僅かに息を詰めると、
「何度か顔を合わせたことはあるけれど……それは同感です」
加賀の声は平坦だが、先程息を詰めた理由が思案していたからだ、と提督には分かっていた。
表情のない彼女、しかし所作の一つ一つの意味を丁寧に汲み取っていくと、雄弁なまでに感情の表れが見える。彼は加賀のそういった、決して冷たいわけではない、むしろ豊かな内面を愛していた。椅子に座ったまま、彼女の立ち姿を見上げて彼は微笑み、
「うん。だから僕は僕の出来ることをしていくだけです。……それしか出来ない、というだけなんですが」
尻すぼみの語尾を誤魔化すように再びカップに口をつける提督。加賀は執務室の隅に置いてあった丸椅子を彼の傍らに寄せると、そこに座ってカップを手にし、
「それでいいの。そのままで居て」
「そう褒められても、僕にはあまり応えられませんよ」
苦笑する提督の隣、加賀は一口茶を含んで、そして憮然とした表情で飲み下すと、
「今ので褒められているとは随分傲慢になったのね」
「あっれェ今そういう流れじゃありませんでした!?」
「そういうところダメね、あなたって」
隣からじとりとした視線を送られ驚愕のあまりカップを傾けすぎて、
「あ、熱っ!」
右足に滴る茶の熱さに身動ぎする彼を横目に見据えて加賀は溜息一つこぼし、
「本当、あなたってダメね」
立て続けに貶しを受ける提督は肩を大きく落とすとティーカップを一度机に置いた。今は手に持っていたくなかった。これ以上リアクションで茶をこぼすことが無いように。
一方加賀はもう一度茶を口に含み、ほう、と息を吐く。匂いも味も未だ苦手ではあったものの、効能のせいか、それとも温かい飲み物を口にしたからか、彼女はひと心地ついた様子だった。泰然自若とした自分の恋人の姿に暫し見惚れ、だがあんまりだと思い、提督は、
「加賀さんって、僕には殊更容赦ないですよね……」
「そうね……そうかもしれないわ」
加賀はどこ吹く風で素っ気ない。しかし、確かに彼女は彼の方へと体をもたれ掛からせていく。
加賀の体重が自分にゆっくりと染み渡っていくのを感じて提督は、それに小さく、恍惚で震えた。
背中にしたガラス窓は風に震え、カタカタと静寂の中に波紋を落としていく。
彼と彼女の呼吸、暖房の駆動音、窓の震え。環境音だけの完成された空間。全てが淀みない。
その水面のような音の世界をひと搔きするように、
「ねぇ、提督」
加賀は提督に呼びかけて、少し息を詰めた。
「……なんです?」
「好きよ」
雫が溢れるような、か細い声で、彼女はそう言った。
「……僕もです」
彼は柄にもなく彼女を抱き寄せて、透き通った氷のような顔、その唇に口づけようとして――――――――電話のコール音が鳴った。執務室直通、それを示すコール音のパターンだった。
それを認識した提督はすぐに加賀を椅子に元のように座らせ、
「はい、呉鎮守府です」
受話器を取って電話に出た。それに一息の間程呆然とすると、加賀は大きく溜息し、
「……本当、あなた、ダメね。無視してくれたら満点をあげたのに」
普段と変わらぬ鉄の表情、しかし赤らんだ顔で、消え入るように毒づいた。
●
「でなぁ、うん。君のところの大井はよくやってくれているんだな、これが」
『それは何よりです……こっちはいつ何時もヒヤヒヤものなので』
佐世保の提督の陽気な声に続いて、スピーカー越しに呉の提督の安堵の声が響く。かなり大きめの音量だ。
佐世保の提督はこの話が大井や夕張にも聞こえるよう、スピーカーからも声が聞こえるようスイッチを押していた。夕張としては、これ見よがしに……と憤懣遣る方無い。かと言って口を挟むのは不敬がすぎる。あまりにバカバカしいこととは言え、この通話は鎮守府2つのトップ会談だ。さしもの夕張とて間に入るのは困難だった。
「それでな、大井をこのままこっちで使いたいんだよ」
『え?それは一体どういうことで……』
「うん。だからついでに北上もくれんかな」
一瞬間を空けると、大きく息を吸う音とともに机を叩く音が電話越しに聞こえてくる。そして、
『……何を言ってるんですか!そんな―――――』
突然、呉の提督の声は途絶え、何かが床に落ちる音がした。加えて重い物、そして空洞のあるプラスチックの物体が落ちる音。通話の音そのものにもガサつくようなノイズが走る。
にわかに起きた事件らしき物音に、夕張が焦燥を覚え、
「え?ちょっと、あっちで何が……」
「ああ、心配要らん。いつものアレだ」
「いつものアレ……?」
至って平静を保っている佐世保の提督に対して、彼女は疑問符を隠せない。どう考えても電話の向こうではただならぬことが起きているのだ。不自然なまでに自然体を崩さない上司はいっそ不気味である。
それから数秒経つと、
『もしもし?』
女性の声がこちらに返事を問う。夕張にとっては馴染みの無い声だ。呉に知り合いと言えば、水雷戦闘が可能な艦くらいだった。他所の鎮守府の大型艦に知己はいない。一方で佐世保の提督は通話の相手をしっかりと認識しているようで、誰何を問うことはなかった。代わりに、
「ああ、そっちの提督はまたかね」
『またです。……あまりこの人を興奮させないで欲しいのだけれど。そちらは佐世保の提督でよろしかったかしら?』
「いかにもだ。久しぶりだが……君も苦労してるなぁ、加賀」
『お久しぶりです。苦労と言ってもそちらの鳳翔さんほどではありません。自重してください。私、これでも少し頭にきているので』
「お前の『頭にきている』はかなり怖いなぁ……。ともかく、そっちの提督はいきなり立ち上がったもんだから貧血起こして倒れているんだろう」
『ご明察です。今は動けませんので、私が代わりにご用件を承ります。それで、何を仰ったのですか』
「うん、お前もそっちの秘書官だから話をしたほうがいいよなぁ。ま、話というのは何を隠そう、お前のところの大井をこのままウチで使いたいんだな」
『使えるとは思いませんが。今現在大井がマトモに働いているのは“帰れる”ことが前提にあるからです。……それくらいご理解いただいていると思っていましたけれど?』
「おう、分かってる。だからついでに北上も貰いたい。セットでくれんか」
そのやり取りを聞いている夕張はドン引きしていた。人間とはこうまで厚かましくなれるものか、と。
事実、大井をここで使うならば北上を連れてくればいい。別に呉という場所に特別の思い入れがあるわけではない。北上が呉にいるから帰りたがっているのであって、彼女がここ佐世保に来たならばそれで大満足のはずだ。なんの問題もない。ただし、それが実現不可能ということに目をつぶればの話だ。
とどのつまり、佐世保の提督のやろうとしていることは、
『呉の戦力を削ぎたいのですか?』
呉に対して泥を投げつけているのと同様のことだ。
それを指摘されてもなお佐世保の提督の面の皮は厚い。表情に焦りなど欠片も見当たらない。
「こっちのほうが前線に近いし、いいと思うんだが」
夕張は再びドン引きした。その論で行くのか、と。要するに“前線に近い基地のほうが偉い”とマウンティングしているようなもので、多分提督にそこまでの悪意や野心はないにしても、いやむしろ自覚がないからこそ質の悪い一言だった。
電話の向こうで加賀がため息を吐いたのがわかった。息が送話器を鳴らす音がノイズになって響く。
……おそらく加賀はそこまで理解したのだろう。怒るわけではなく、かなり呆れが混じった音だった。先程の会話の流れで、加賀と提督が知己であることはわかっていた。秘書艦をやっているとこういう横のつながりに巻き込まれるということなのだろうか。ともかく、彼女もこの提督の悪癖を理解している。だからこそ、彼女は感情的になるわけでもなく、冷静だった。
『……瀬戸内海はもちろんのこと、四国周辺海域の鎮守もこちらが請け負っています。佐世保ではカバーできません。我々の戦力が削がれればこちらでの実施も覚束ないこととなります。それとも、あなたはこういう意図でいらっしゃるのですか?「徳島・愛媛・高知・うどん県は涙をのんで海を深海棲艦に明け渡してくれ」と?』
彼女が選んだのは呉への愚弄を責めることではなく、業務上立ち行かなくなる、という根本的な指摘だった。が、アレ?と夕張は思った。提督も思ったのか、眉を顰めて首をかしげている。
「……おかしいな、俺が知っている四国はうどん県の代わりに香川県があったはずだが」
『うどん県が何か?』
夕張はその場で耳をトントンと叩き、耳がおかしくないことを確認した。そもそも、提督も同じく聞こえていたのだから疑問を差し挟む意味もなかったことに気づき、更に首を深く傾げた。
彼女は耳が良く、それが密かな自慢だった。その長所を存分に活かせるのが対潜である。他にも機微に聡くなるといった利点があったし、だからこそ彼女は教官役に落ち着いていられるのだ。機微に疎くては務まらない。
ともかく、この押し殺してもなお通る声は“香川”ではなく“うどん”と言っているらしい。それは確かだった。
「いや、うどん県じゃなくて香川県だろ」
『うどん県じゃなくてうどん県?……イントネーションの話かしら?』
「お前の耳は本当に器用だなぁ、んン!?」
どうやら”香川県”という単語が”うどん県”に置き換わって聞こえているらしい。夕張はそれにも引いたが、どこか納得していた。彼女達の食い気は物凄いからだ。
航空母艦組は艦娘の中でもとりわけ大食いだ。それは使用する物資の量を揶揄しているだけではなく、本当に大食いなのだ。消耗が激しいのか、本当によく食べる。艦娘は皆それなりによく食べる方だとは思うが。夕張自身も佐世保バーガーを平らげた後にデザートを頂いてしまうくらいには食う。
……あれは二航戦だった。一航戦は配備されてから呉で練度を高め、その過程で瀬戸内海の平定に成功したのだが、遅れて配備された彼女たちはやはり佐世保に研修、いや今はそういう名目だがかつては違う、増援に来ていた。
……あの二人は本当によく食べた。聞けば一航戦はそれ以上に食べるというのである。この時点でもう一航戦は途轍もない大食いと分かった。だから彼女達は一見マトモに見えても一皮剥けば食欲魔神なのだ。これもその表れだろうか……と夕張は下世話なことを考えていたのだが、
『冗談です。……まさか本気で言っているとでも?』
夕張はずっ、と足元が滑りそうになるものの、そこをなんとか踏み止まる。新喜劇じゃあるまいし、と体勢を立て直すが、一方提督は椅子からずり落ちそうになっていた。
「……本気に聞こえるからやめたほうがいいなぁ!?」
『少しはユーモアを覚えたほうが愛嬌は身に付く、と赤城さんが言っていたのですが……どうも私には向いていないようですね』
「ああ向いてないな!何言っても本気に聞こえるからな!」
『そうですか。そちらは冗談が似合いますね、先程のも御冗談ということでよろしいかしら?』
「うん……うん?あ、いやこっちは本気――――」
『ジョークを披露して頂けて大変嬉しく思います。それでは、ご健勝で』
「あ、いや、ちょっと待ってくれ」
『失礼します』
「ちょ……あ」
提督が食い下がろうとするも、あちらからの音は無機質なツー、ツー、という音。切られたらしい。
執務室に不通の音が響き渡り、ややあって提督は受話器を下ろした。
沈黙が場を包み込むが、それもしばらくのこと。提督は口を開き、
「…………まぁ、言う分にはタダだ!」
「時間は無駄になりましたけどね!」
「た、タダで手に入るものに限りはあるって学習できた!無駄じゃなかったな!」
「今までの人生で何を学んできたんですか提督!?」
と、大井が気を失っている間、鎮守府の人気者と馬鹿者はこうしてワイワイと騒いでいるが、無論だが大井はそんなことは知らず、夢想の中で北上を探し続けているだけだった。