「……リー、ハリー! さあ、そろそろ起きなさい」
身体を強く揺さぶられる感覚。
次に頰に衝撃。
「う、あ……」
「やっと起きた」
見上げてみれば、爽やかな笑みを浮かべた男の人の顔がある。
「手間を取らせないでくださいよ、ハリー?」
「………」
「おっとすまない、そうだった。君の名前だよ、ハリエット・ポッター。私はギルデロイ・ロックハート。君を危険から救った者だ。実に危ないところだった……まあ、君には何のことかわからないだろうがね」
腕を掴まれて立たされた。
「さ、しっかりしなさい。君には私の新たな伝説の生き証人になってもらわなければなりませんからね!」
そのままぐいぐいと腕を引っ張られて連れ出される。
どこだろう、ここ? トイレ?
廊下を階段を、えっちらおっちら運ばれて、連れてこられたのは……ひとつの部屋の前。
「ミネルバ! 失礼しますよ!」
扉を開けて入った先。厳格な顔をしたエメラルド色のローブを着ている女が、デスクで書類から顔を上げた。
私の肩を掴みながら、延々と話す男。
彼の冒険小説のような語りを、私と目の前の女性は黙って聞いていた。
場面は彼が怪物に見つかり、倒すことを決意するクライマックスに入っていた。
「そして! 私は考えましたよ。どうすればあの世にも恐ろしい怪物を倒せるのか……!」
「ギルデロイ」
唐突に、女性が話を遮った。
「もう結構です。それ以上はあなたの書物でご存分に」
きっぱりとした口調だった。
「私が知りたいのは事実です。そこまで言うからには丸きり嘘ではないのでしょう? どこで、何があったのか。秘密の部屋を見つけたというのは本当ですか? そしてこのポッターは? なぜ彼女も一緒に?」
「ああっ! ミネルバ!」
芝居かかった仕草で、男は片手で顔を覆った。
「何という悲劇! 女性である貴女にお伝えするのがどんなに心苦しいか! どうかご理解を」
女性の眉が30度ほど吊り上がるのが見えた。
「彼女は……ミス・ハリエット・ポッターは勇敢な少女でした。そして実に優秀だった……だがそれが徒となった! 私が秘密の部屋に乗り込むことに気づいた彼女は、在ろう事か単身乗り込んで来たのです。しかしそれは……」
男は眼をきつく瞑り、悼ましげに頭を振った。
「蛮勇でした。彼女の悲鳴を聞いて私が駆けつけたときには、時、すでに遅し……。彼女は恐ろしい怪物を見て、正気を、失ってしまっていた」
「まさか、そんな」
初めて、女性が取り乱したように見えた。
弾かれたように私を見る。
「確かに普段からは考えられないほどに静かでしたが……でもまさか! ほ、本当なのですか、ポッター!」
「ミネルバ! 悲しいですが現実を受け止めなくては。正気を失った少女に何を聞いたところで――」
「いいえ、嘘です」
私は答えた。
ごく普通に。
男――ロックハートが凍りついた。
「い、今のは誰、かな?」
「私しかいないでしょう。ギルデロイ・ロックハート先生。ハリエット・ポッターです」
「まさか、そんな……」
図らずもさっきの女性――マクゴナガル先生と同じ反応をするロックハート先生。
マクゴナガル先生が椅子を蹴って立ち上がって私に近づいた。
「ポッター! 無事なのですね? この男の言ったことは……」
「100パーセント嘘ですよ、マクゴナガル先生。私は大丈夫です」
むん、と右腕で無い力こぶを作ってみせる。
そうすると先生はやっと安心した顔になった。しかしすぐに表情を引き締める。
「それは良かった。ええ、本当に……ですがそうなると疑問が残りますね」
マクゴナガル先生は私の隣に立って、ロックハート先生を睨みつけた。
「ギルデロイ、なぜこのような嘘を?」
「いや、そんなまさか……私は確かに……」
「確かに? 確かに何です?」
「ぐっ、いや……」
「私が答えましょう」
私も少し悪ノリしてビシ! とロックハートを指差した。
「彼はこう言いたかったのです。『私は確かに、忘却術で全て記憶を消した筈なのに』と」
マクゴナガル先生が目を見開く。
「忘却術! 生徒に! ……これは由々しき告発ですよ、ポッター!」
「そ、そうだ! 証拠はあるのか、証拠は!?」
絵に描いたように泡を食っていたロックハート先生が唾を飛ばして叫んだ。
「私はギルデロイ・ロックハートだ! この私に向かって――!」
「もちろん、証拠はあります」
ロックハート先生の口が、ネジが外れたようにぱっかりと開いた。
「最後にその杖が使った魔法が何か、調べる魔法がありますよね、マクゴナガル先生?」
「……直前呪文。ええ確かに、それなら誤魔化しはききません。ギルデロイ、杖を渡して――」
マクゴナガル先生がそう言った瞬間、ロックハート先生が部屋の扉に飛びついた。
咄嗟に私は杖を抜き取り叫んでいた。
「コロポータス!(扉よくっつけ)」
「ぐぎゃっ!」
ロックハートは開かない扉に強烈に衝突して弾かれた。
「見事です。ミス・ポッター」
マクゴナガル先生が素早く杖を振ると、ロックハートにどこからか縄が飛んできてぐるぐるに縛り上げ、ついでに失神させた。さらにその胸元から杖が宙を飛び、マクゴナガル先生の手に収まった。
目を見張った。もの凄い早業だ。今の一瞬で3つ呪文を使った。
私がえらく感動している間に、マクゴナガル先生は奪ったばかりの杖をピタリと構えて唱えた。
「プライオア・インカンタート!(直前呪文)」
杖から大きな黒いもやのようなものが出て、私に向かってきた。
「危険はありません、動かないで」
「はい、先生」
言われた通りじっとしていると、もやは私の頭にわらわらと絡みつき、何かを奪ったような動きをして宙に溶けていった。
「逃げ出そうとしたことで、もはや明白でしたが……」
マクゴナガル先生の声は怒りに震えていた。
「これで確定。こんなことは初めてです! 生徒に危害を加えるなど!! アルバスもまったく、このようなことがあるかもしれないから反対だと………」
先生はしばらくぶつぶつと呟いていたけど、すぐに頭を振って私に振り向いた。
「ポッター、あなたは本当に大丈夫なのですね? 記憶はしっかりしていますか?」
「はい。私はハリエット・ポッター。ホグワーツ魔法魔術学校2年生、グリフィンドール所属。住所はサリー州リトルウィンジングプリベット通り4番地……えっと、他には?」
「いえ、もう結構です。例によって、あの者の呪文が上手くいかなかったようですね」
マクゴナガル先生は鼻を鳴らした。
「ではもう行ってよろしい。このことはあまり口外しないように」
「はい。失礼します」
私は一礼して、踵を返した。
部屋を横切って扉に手をかけたところで「ああ、ポッター」と呼び止められた。
「念のために聞いておきますが、体調はどうです? 何かおかしなところは?」
「大丈夫です、マクゴナガル先生」
私は出口で振り向いて笑った。
「なんだかとっても、気分が良いんです。今までになかったくらい」
ぽかんとする先生を残して、私は副校長室を出て寮に走った。
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実際、晴れ晴れとした気分だった。
かと言っても、なにか楽しいことがあったとか、心配事が解消されたとか、そういうことはない。
ただ何故か漠然と気分が良い。不思議だね。
学校に入学してから一番調子がいいかもしれない。
翌朝は前日遅かったこともあって寝坊してしまって、パーバティに起こされた。
そして隣のベッドでわんわん泣いているラベンダーを見つけた。
「わあああん!」
「え、何事?」
「ロックハートせんせぇえええええ!!!」
「あ、はい」
ラベンダーを見ると肩を竦めていた。
どうやらロックハート解任の噂は早くも城中に知れ渡っているらしい。
この学校は本当に噂が伝わるのが早い。
ロックハートは生徒に呪いをかけた。その生徒はハリエット・ポッターだった。
これまでの本も功績も全てでっち上げだったらしい。
ダンブルドア先生は全て知った上で彼の悪事を明るみに出すために、教師として雇い入れた。
そんな噂のようだ。
概ね正確なあたり、何か作為的なものを感じなくもない。
ラベンダーとパーバティはもう朝ご飯を食べてきた後らしい。
安らかな顔過ぎて起こすのが忍びなかった、とパーバティに言われた。そんなにかな。
気遣いはありがたいけど、気にせず起こしてほしかったかもしれない。
朝ご飯を食べないという選択肢は私にはない。大急ぎで着替えて、うるさい髪の毛の相手もほどほどに、大広間に向かった。
大広間の前で、ハーマイオニーを見つけた。
誰だろう、濁り色が混じったブロンドの女の子の手を引いている。
走って近づくと、ハーマイオニーの尖った声が聞こえてきた。
「だから早くしなさいって言ったのよ! こんな時間になっちゃったじゃない!」
「パパがしわしわ角のスノーカックがいるって手紙を送って来たんだよ。読むしかないもン」
「しわしわ角の……何?」
「スノーカックだよ」
「……聞いたことないわね。それってどんな――あらハリー。おはよう」
こっちに気づいたハーマイオニーに、手を振って挨拶を返す。
「おはよ、ハーマイオニー。えっとあなたは……」
その子を正面から見ると、なかなかにおかしなポイントが多かった。
なぜか左耳に杖を挟んでいるし、首にコルクを繋ぎ合わせたネックレスをしている。
どこか浮いたような声で、その女の子が答えた。
「ルーナ・ラブグッド。あんた、ハリエット・ポッターだ」
「うん、知ってるよ」
ハーマイオニーがくすくす笑った。
「なあに、それ。ハリー、この子、見ての通り変わってるけど、悪い子じゃないわ。仲良くしてあげて」
「もちろん。よろしくね、ルーナ」
「よろしく」
ぽやぽやと握手をした。
何と言うか、浮世離れしたような子だ。あまりハーマイオニーと仲良くなるタイプには見えない。
そう思って見ていると、
「私、『おかしなルーニー』って男の子に呼ばれたの」
ルーナが突然そんなことを言った。
「そのときハーマイオニーがやめさせてくれたんだ」
「ああ、そういうこと」
さっきの疑問が顔に出ていたのかもしれない。
ハーマイオニーを見ると、ちょっと恥ずかしそうに喋り出した。
「別に、他意はなかったのよ? ただ単純に、倫理的にどうかと思っただけで……そ、それにルーナといると、たまに意味がわからないこともあるけど、今まで知ろうとしなかったことばかりで楽しいのよ」
「なるほど? 仲が良いんだ」
にやにや笑う私に、ハーマイオニーは膨れてしまった。
「じゃあルーナ、今度私にも聞かせてよ。しわしわ角のスノーカックのこととかも」
「うん、いいよ」
ルーナも嬉しそうにキュッと笑った。
笑うと普通の女の子だ。きっと私も仲良くなれそうだとぼんやり思った。
そのときふと、ハーマイオニーが不思議そうな顔をしているのに気がついた。
「ハリー、何かいいことでもあった?」
「え?」
「なんだかとっても……楽しそう?」
うーん、人から見てもわかるほどなのかな。
「いや、別に何もないはずなんだけど、何故か気分が晴れ晴れしてるんだよね。なんでだろ?」
「私に聞かれても……でも最近怖い顔をしてることが多かったから、良いと思うわ」
「そうだった? 別に悩みとかあったわけじゃないんだけど」
「……まあ、今は城中が良い雰囲気じゃないしね」
「ああ、確かにそう、だね」
明るい話題から一転、沈黙が降りてしまった。
確かに、城の中はどことなく、暗い雰囲気が流れていた。
クリスマス休暇のホグワーツ特急は予約でいっぱいだった。
みんながこの城に居たくないと思っているのは、悲しい。
でもそれも仕方ないのかもしれない。
秘密の部屋が開かれて、生徒が襲われた。
部屋がどこにあるのかも、生徒が何に襲われているのかもわからない。
そうだそれに、ハーマイオニーが狙われる可能性が高いんだった。
早く、早く――
「ねえねえ」
ルーナの声ではっと我に返った。
ルーナを見ると、柱時計を見上げている。
「私が思うに、もうすぐ授業が始まるんじゃないかな」
「あっ……そうだったわ! ハリー、ルーナ、もう朝ご飯は――」
「食べる。これは絶対」
「私も。朝食は1日の活力の源ってパパも言ってたもン」
ハーマイオニーは「バカ! ほんとにバカ!」と叫びながら寮に走って行き、私とルーナは全力で朝食を掻き込んだ。
授業にはタッチの差で間に合わなかった。