速水奏は寝不足のまま、翌日を迎えてしまった。
鏡に映る目元には大きなクマがある。
だけど。
口元には笑みが溢れていた。
この日を待ち望んでいた。
長い長い夏休みが始まる。
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変わらず、俺は速水奏にからかわれる。
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寝不足だ。
軽く頭痛を感じるほどの寝不足。
今日を楽しみにしすぎてあまり寝れなかった。
そんな状態で俺は目的地に向かって走っていた。
遅刻するのはダメだ。前回やってしまった失敗を繰り返さないために、グローブとボールを持って少し早く家を出た。
毎日走っているから体力には自信がある。
目的地は近くの公園。
今日は奏と遊ぶ約束をしている。
朝、奏からキャッチボールがやりたいという
奏とキャッチボールをやるのはこれが2回目だ。
あいつが野球好きになってくれるのはすごい嬉しいし、少しでもあいつと一緒にいたい。
だから、あいつが俺と一緒の高校に行くって言ってくれた時は嬉しかったけど、それは本当に正しい選択なのか、今ではそんなことも考える余裕も出てきた。
奏は夢がないと言っていた。
俺の夢はプロ野球選手になること。
それが実現するかは当然まだわからない
それでもその道を進むと決めたから、なれなかったとしても後悔だけはしないようにと決めている。
だから全力でやる。
でも奏は違う。
それは奏も言っていた。
じゃあ奏にとっての正解はなんなんだ?
そんなことを考えていると、公園に着いた。
中に入って奏を探す。
「今日はちゃんと遅れずに来てくれたのね」
後ろから声が聞こえて振り返る。
「遅かったか?」
「ううん、わたしも、今来たところよ」
そう言いながら奏は黒のグローブを俺に見せてくる。
「買ったのか」
「えぇ、これでいつでもキャッチボールができるわね」
やる気は十分そうだ。
「じゃあ始めるか」
「えぇ、始めましょう」
お互いに少し距離を取る。
グローブを右手に。
奏が満足そうにボールを要求してくる。可愛い。
奏が構えたところにボールを投げる。
受け取ったたけで、ドヤ顔する奏。可愛い。
何回か投げ合って、ふと考える。
甲子園に行きたいって、思っていたけど俺一人の力じゃ絶対に行くことはできない。
強豪校に入ったからといっても、三年間甲子園に行くことができないかもしれない。それでも、みんな諦めずに、毎日きつい練習に耐えて、バットを振って、投げ込んで、走っている。
甲子園を目指しているのは、俺だけじゃない。
この日本にいったいどれだけ野球をやっている奴らがいるのかは、正直言ってわからないし、実際興味もない。
ただ全員に共通して言えることは野球が好きだということだ。
今は、それで良いと思う。
だから、叶うかも分からない約束を今交わす。
あの時の嘘が現実になるように。
今度ははっきりと言う。
「奏」
「なに?」
首を傾げながら、奏は俺を見る。
「連れてってやるよ」
「……」
「甲子園に」
「……、」
「絶対に」
そう言って、俺は奏に向かって、ボールを投げる。
受け取りながら、奏は小さな笑みを浮かべて、静かに笑っていた。
「うん」
ただ一言、そう呟いて、奏はもう一度ボールを投げ返す。