それはある晴れた昼下がりのことだった。
いつものように放浪の旅をしていたギンは偶然行き着いた川原で魚を獲って昼食にしていた。火を熾し、魚に串を通し、いい焼き加減になるのを今か今かと見計らっていた。
その時だった。
『くぱぁ』とオノマトペが描写されそうな感じで、ギンの足元が割れたのだ。
「……え?」
突然のことに呆然とするペンギン。そしてその一瞬が命取りだった。
まあ、当然のように落ちますよね。万有引力バンザイ。
『うわあぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ……』とやけに尾を引く悲鳴を上げるギンを飲み込むと地面にできた隙間は閉じられ、辺りは何事もなかったかのような静寂に包まれた。
あ、放置された魚は私がもらいますね。ぱぱっと塩を掛けて、はぐはぐ。うまうま。げぇっぷ、と。
さて、ペンギンは一体何処へ行ってしまったのか。そしてこの事態は誰の仕業なのか。
真相は後半で明らかに!
……え、嘘!?俺の出番コレで終わり!?ふざけんなよまだ五百文字もしゃべってないんだぞ!
あ、ちくしょうクソ作者覚えてやが…………
★
これから楽しいご飯タイムだと思っていたら盛大にお預けを食らった。そしてあのお魚くんたちはもう俺の腹に収まることはないのだろう。この憤りは何処にぶつければいいのだろうか。
「ごめんなさいね、ギン。いきなり呼び出したりして」
とりあえずはこの目の前にいる胡散臭い少女にぶつければいいのだろうか。
コマンド・『アイアンクロー』
「実はアナタの力を借りぃいいいいたたたたたたたたたたたたたっ!」
「いいだろう。力を貸してやる。お前が払う代償はたった一つ」
「なっ、なによぅ」
「俺の飢えを満たせ。さもなければお前を食うぞ」
「食べるっ?!わ、私を、食べるの?!食べちゃうの!?」
なにを焦っているのだろうか。いつもの胡散臭い演技はどこに行ったんだ。
はぁ、もういいか。食い物の恨みは恐ろしいけど、そこまで腹が減ってるわけでもないし。さっきの魚も直前に猪一頭丸々食って口直しに魚肉を食いたくなっただけだし。
ぱっと紫の頭を鷲づかみにしていた手を開き開放する。
「んで、一体何の用だ」
「…………っ!え、えぇ。さっきも言った様にアナタの力を貸して欲しいの。詳しい話は現地に行ってからするわね」
くるりと振り返り、何もない宙を縦に指でなぞる。すると裂けるように空間にスキマが生まれた。覗く景色はどこかの屋敷の庭。丁寧に整備された人口の風景。
そして、はらはらと桜の花びらが風に乗って流れていた。
「……なんか入ったら怒られそうだなぁ」
「ぐだぐだ言ってないで、早く来なさい」
季節的には春真っ盛り。別に桜が咲くのはいいのだが、この花びらの量だけは納得がいかない。なんだろう、花びらが積もり溜まってるのって見てて気持ち悪い。
すたすたと歩く紫を追い、スキマを跨ぎ、
「―――――!」
寒気を感じた。
ぞっとするほどの悪寒。俺が普段用いるものとは別枠の冷気。それが俺の体を震えさせる。
一歩も進めぬままその場に蹲る。自らを抱きしめる。強く。強く。
この手を離せば、また立ち上がれば、その瞬間に自分が掻き消えてしまうように思える。今この瞬間にも雲散しそうな我が身を繋ぎ止める。
歯の根が合わなくなった口腔から白く染まった息がもれ出るのを幻視した。
「――ンッ!ギンッ!しっかりしなさい!」
「っ!」
不意に耳に届く紫の声。頭の中で音が言葉として識別されると同時に、我に返る。
気付けば俺の体は蹲った体勢のまま体の半分以上が凍り付いていた。どうやら無意識のうちに能力を使用していたらしい。
意識がはっきりした今でもあの悪寒は常に襲ってくる。気を張っていれば耐えられるが、これは一体……?
「ごめんなさい。私の不注意だわ。急ぐあまりアナタへの気配りを忘れていた」
「紫……なんだ、ここは…?」
紫に手を借りて立ち上がる。けれど足が震える。体が冷たい。こうして紫の手を握っていなければまた座り込んでしまうだろう。
「…ここは白玉楼。今ここは、ちょっと面倒なことになってるのよ」
「……手短に頼む」
「分かってる。今、ある妖怪の影響でここ一帯は『死』がとても強くなっている。生きとし生ける者はすべて否応なく死に引き込まれる。私が結界を張って抑え込んでいるからまだあまり範囲は広くないけど、もしそうしなければ恐らくこの周囲の人里は全滅する。全員が自ら命を絶つ。アナタは力が強大だからなんとか保ったけど、ただの人や中級妖怪までなら一瞬で死に呑み込まれる」
紫の言葉を頭の中で何度も反芻する。恐慌状態に陥ったように思考が空回りをするが、どうにか理解する。
そうか、これが「死」か。
「そういや、なんでお前は平気なんだ?強いからか?」
「私は能力で、自分の生と死の境界を曖昧にしてるから影響がないの。出来れば貴方も何とかしてあげたいんだけど、ごめんなさい。自分ならともかく他人の生と死の境界を操るのは少し危険なの。下手をすると殺してしまうかもしれないから」
「……いや、大丈夫だ。それからありがとう。お陰で何とかなるかもしれない」
握っていた手を離す。瞬間的に襲い掛かかってくる死に必死で耐えながら、自分の胸に手を当てゆっくりと息を吐く。
紫は能力でこれを無効化している。なら、俺の能力でも出来るかもしれない。
以前から常々考えてはいた博打を、どうやらする時が来たようだ。
「『俺という存在』を、凍結する」
ふっ、と体が軽くなる。先ほどまで感じていた異様な冷気も、存在は分かるがそれが俺を侵すことはなくなった。
「成功したみたいだな。ふー、すっきり」
「あの……一体何をしたの?どうやら死に曳かれる事は無い様だけれど」
ああ、そういえばそうだな。俺が今何をしたのか。見ていただけの紫には分からないかも知れないな。
いいだろう、話をしよう。
・俺は自分の存在を凍結した。
・凍結、つまりは固定、もしくは停止。俺の存在はこの時点から動くことはなくなった。
・動かない、変化しない。死ぬことも老いることも傷つくこともなく、加えて恐らくは他者からの能力や術による介入も効かなくなった ←今ここ
こんな感じ。
「分かりやすい説明をありがとう。けれどそんなことが実際に可能なの?……あら、本当だわ。境界が弄れない」
「おいこらスキマ」
「冗談よ冗談。西行妖の影響もなくなっているようだし、信じるわ。……それにしても、なんて応用性の効く能力なのかしら。ほとんど反則じゃないそれ」
確かにこの状態はかなり強力だ。しかし俺はあまりこうなるのを多用したくない。常用なんて以ての外だ。
変化しないということは成長しないということだ。未だに俺のペンギンフォームは子どものままなのに、これ以上成長しなくてどうするよ。たとえ云百年子ペンギンのままだとしても、俺はまだ大人になるのを諦めたりしない。早く大人になりたい……。
まぁ、実はこの荒業は結構リスクが高く、下手すれば俺は存在ごと凍てつき凍りつき、俗に言うコールドスリープ状態になっていたかもしれない。もちろんこの氷を融かせるのは俺しかいないので、二度と俺が動くこともなかっただろう。
いやいや、うまくいって良かった良かった。
「あん?おい紫。今言った西行妖ってのはなんだ?」
「この濃密な『死』の発生源。もとはただの美しい桜の木だったんだけどね」
「桜の木が妖怪に変化したってことか?じゃあこの舞ってる花びらはそいつからか」
ようやく軽口を叩けるくらいには回復してきた。体のどこかに違和感が出るわけでもないし、ちゃんと成功していたわけだな。
ぐるりと辺りを見渡す。
美しい庭園だった。日本庭園だか和風庭園だったか。そんなかんじ。整えられ景色のあちこちに桜の花びらが積もりなんか台無しになっている。
「豪勢な庭だな。どっかの雅なお人の家なのか」
「有名な歌人の屋敷よ。貴方、西行法師って知ってるかしら」
「…………ああ、うん。知ってる知ってる」
「知らないのね」
「いや知ってるし。俺その人のファンだし」
「はいはい、分かった分かった」
流されてしまった。なんか俺のあしらい方を身につけているようだ。いつの間に。
「その西行法師ってのがこの屋敷の元主。数年前に桜に木の下で自害したのが全ての始まりだった」
お、なんか昔語りが始まる予感。いいかい、みんな。これから始まる長台詞に辟易しちゃダメだぜ?
「さらにその後を追うように彼を慕っていた何人もの人々が桜の木の下で自ら命を絶った。そしてその血と精気を吸い込み桜の木は妖怪になり、花が満開になるたびに周囲に死を振りまく存在になってしまった」
「人の味を覚えたってことか。じゃあもうこの屋敷には誰も住んでいないのか?」
「いいえ、住んでいたわ。少なくとも二人。西行歌人の娘と半人半霊の庭師が」
「半人半霊……なんか大体想像がつくな。大方半分死んでるからそれ以上死に近づかなかったんだろ。それじゃあ、その娘さんのほうはどうなんだ。死にはしなかったのか?今何歳?可愛い?美人?キレイ系?」
「ぶっとばすわよ。……西行歌人の娘、西行寺幽々子。彼女は生まれつき『死霊を操る程度の能力』を持っていてね。それが西行妖の影響で『死を操る程度の能力』に変化してしまった。そのお陰、と言うべきかは分からないけど、彼女はすぐに死に近づくことはなかった」
紫の話に集中し過ぎていたせいか、自分がお屋敷の縁側を歩いていることに今気付いた。先導する紫は迷った様子もなく廊下を進み、一室の襖を開けた。
「彼女は――幽々子は、苦しんで苦しんで、考えて考えて、悩んで悩みぬいた末に、自ら死を選んだのよ」
部屋の中央にぽつんと敷かれた布団の上に一人の少女が寝かされていた。
身にまとう白装束に劣らぬほどに白い肌。端正な顔立ちは白粉と紅でほんの僅かに彩られ、しかしその魅力を何十倍にも引き出していた。はっとするほど美しく、時を忘れて魅入ってしまいそうなほど。
しかしその全てが死んでいた。
少女の体が横たえられている部屋には少女の遺体から発せられる冷気が充満しているような気さえした。濃密な死の匂い。死へ誘うという桜のあの冷気とは似て非なるものだった。
「……友達、だったのか?」
物言わぬ西行寺幽々子の顔から目を離さず、いつの間にか一歩後ろに下がっていた紫に問いかける。まあこの時点で大体予想はついてるけど。
「…………ええ」
ほらね。
人が、或いはそれに非ざるそれに準じるものが死んだ時、冷たい死を想起させるのはなにも死体だけではない。死に打ちのめされた親兄弟親族知人友人周囲の人全てが、死を受け入れようとする姿もまた深い死を匂わせる。
そして今、紫の姿もまたその冷たいを感じさせた。
背後にいる紫の表情は分からない。しかめ面かもしれないし能面のような無表情かもしれない。無理に笑おうとしているのかもしれない。
どれでもいい。ただ俺はそんな顔は見たくない。俺が、見たくない。それだけだ。気遣いなどありはしない。
畳の上を音も立てずに歩き、布団の傍で膝を折る。
綺麗な顔してるんだけど、死んでるんだぜこれ。
「そういえばもう一人はどうしたんだ?半人半霊ってヤツ」
「彼は……部屋にいると思うわ。仕えるべき主をみすみす死なせてしまったことを悔いてるのかもしれないわね」
責任を取って腹を斬るとか言わないといいのだけれど、と紫は呟いた。
どうも半人半霊は侍らしい。野郎のようだから興味はないが。
「それで?そろそろ話してくれないか。俺をここに呼んだ理由を。なんか手伝って欲しいんだろ」
「ええ、そうよ。他でもない貴方の力が必要なの」
嬉しいねぇ。お兄さん求められちゃったよ。
くるり、と。百八十度回りながら膝を伸ばして立ち上がる。紫の顔を正面から見つめた。
彼女の顔はしっかりと前を向いていて、
「西行妖を封印する。手を貸して頂戴」
翳りは、見つからなかった。
★
「封印、って、どうするんだ?具体的な方法は決まっているのか」
「当たり前よ。私を誰だと思っているの」
「胡散臭い(笑)大妖怪さま」
「張っ倒すわよ……封印には、幽々子の死体を楔として使う。似たような性質を持っていたからこれ以上なく適しているはず」
「……うーん」
「何よ、何か不満でもあるの?」
「いや、そんなのはないんだけど。……そこまで決まってんなら俺の出番無くない?言っとくけど、俺そういう術とか知らないよ。そっち方面では力になれない」
「そんなこと分かってるわよ。こっちだって貴方にそっちの期待はしていないわ。言ったでしょ、今私は西行妖の影響が出ないようにこの屋敷の周りを覆うように結界をはっている。けれどこの封印は片手間でそんなことをしながら実行できるような簡単なものではないの。けれど結界を解除しても封印がかかるまでの間は西行妖は何の障害も無く死をばら撒ける。仮に一分以内に終わらせたとしても、その間に四方一里にいる生き物は全滅する。そして、恐らくこの術はそう簡単には終わらないわ」
「成る程ね。結界が無くなってから術が完全にかかるまでの間の繋ぎとして俺は呼ばれたわけか。了解了解。任せとけ。たかが血に染まった桜の木如き、何時まででも凍結させてやるよ」
「有難う。心強いわ」
「よせよせ。照れちまう」
「そう……それで、他には質問はある?なければ早速取り掛かりたいのだけれど」
「ああ、うん。もう一つだけ、いいか」
「何?」
「紫、どうしてお前は桜の木を封印するんだ?」
「――――」
「お前ほどの妖怪ならば木の一本くらい、簡単にへし折れるだろう。西行妖の最大にして唯一の、攻撃にして防御であるところのそれは、お前には効かないのだろう?なら俺なんか呼ばずにさっさと木っ端微塵にして、火でもつけて炭にでもしてしまえばいいんだ」
「………………」
「もしお前に破壊できるほどの力が無いって言うのなら、それこそ俺に任せておけ。さっきも言ったとおりに何時までも凍結させてやる。それでも不安なら俺が叩き壊してやる。跡形も無くしてしまえば、それで解決のはずだろう」
「…………それは、駄目よ」
「どうしてだ?俺からしたら封印なんていう解けてしまう可能性があるものに頼るほうが余程危うく思える。それともあれか?封印しなければいけない訳でもあるのかい」
「……それは」
「安心しろよ紫。お前の考えを聞いて、俺が手を貸すのをやめるというのは絶対にない。俺は当の昔にお前に力を貸すと決めたんだ。約束したじゃないか。そんな約束が無くたって、友達のお前に手を貸すのを渋るほど俺は狭量じゃない」
「ギン……」
「俺はお前を手助けする。それが前提条件だ。お前がそれを望んでいるというだけで、俺には頑張る理由になる。だから紫、安心してくれ。そして隠し事をしないでくれ。別に教えてくれなくても構わない。けれど、お前がその胸の内を明けてくれたのなら、俺の頑張る理由がもう一つ増えるのかもしれないんだ」
「…………」
「…………」
「…………」
「…………」
「……木を、壊すわけにはいかないの」
「どうして?」
「壊してしまったら、幽々子が戻ってこれないから」
「…………え?」
「壊さないで、封印すれば、また幽々子に会えるかもしれないから」
「……どゆこと?死んでるんじゃないの?」
「死んだからといって、もう会えなくなる訳ではないわ」
「いや、普通会えない……まさか、幽霊として?でもこいつは自ら命を…………お前まさか、楔って、そういうことか……?」
「そうよ。幽々子の体を使って西行妖を封じ込める。代わりに、幽々子の魂をこの世に縛り付ける」
「そこまでして、か?そうまでして会いたいほど、幽々子はお前にとって大切な友達なのか?」
「確かに、私ってこんな性格だから友人と呼べるのは僅かだし、親友と呼べるのは片手で数えるほどしかいないわ。その中でも特に幽々子は一際大事な親友よ。……でも、それだけじゃないの」
「……なんだ?」
「幽々子はね、いつも言っていたの。『父が愛した桜が、こんな人を殺すだけのおぞましい化け物になってしまって、そして、自分も同じような化け物になってしまったことが耐え切れない』って」
「…………」
「死を操る、なんて能力、人の手には余る代物。当然のように幽々子は自分の能力を御しきれず、死を周囲にばら撒いていた。お陰で、話し相手になれるのは私や半人半霊のような存在ばかりで、あの子には普通の友達がいなかったの」
「…………」
「そして幽々子は死んだ。彼女は何もしていないのに。悪いことなんて一つもしていないのに。ただ周りの人たちが起こした愚かな騒動の余波を浴びただけで、彼女の人生は歪んでしまった」
「…………」
「遺書が残してあったの。『これ以上誰かを死なせたくない』と、書かれていたわ。けれど彼女の死をもあの桜は取り込んだ。そしてさらに強大な力を手に入れた。分かる?彼女が誰かを死なせないためにした行動が、結果として更なる被害を呼ぶことになってしまった。ホント、馬鹿みたいよね」
「…………」
「だけど、そんなのって悲しすぎる。一体何のために幽々子は命を散らせたというの。生きている間をめちゃくちゃにされて、迎えた終わりにも意味なんて無くて。そのまま終わり続けるなんて、あまりにも惨たらしい」
「…………」
「だから私は幽々子を呼び戻す。このまま眠らせてなんてあげない。彼女が生きている間に得られなかった幸せを、延々と続く終わりの中で取り戻させる。それが私の願いよ」
「…………」
「……やっぱり、下らないと思う?」
「ああ、よくわかんねぇや」
「そう……」
「俺ってば友達少ねえし。そこまで思うことの出来るほどの関係なんて皆無だし。だからお前の友達を大事に思う気持ちを理解できない。仕方ない。こうなったら幽々子ちゃんにそれくらいの親友になってもらわないとな」
「え……?」
「行こうぜ紫――――友達作りの第一歩だ」
★
封印の儀式は終わった。
一人の少女の人生を奪った根源の末路にしてはあまりにもあっさりと。
納得がいかない。溜飲が下がらない。
途中参加の俺ですら不完全燃焼だったのだ。一から十までとはいかずとも、三、四から十まで見てきた紫の中ではどれだけの火が燻っているのだろうか。
紫の本心は、表情からは窺い知ることが出来ない。
彼女の表情は、西行妖を封印し、その場に西行寺幽々子の霊体が現れた瞬間から変わっていない。喜びと悔しさを混ぜ不安を折り込んだような、そんな表情。
彼女の魂を引き摺り下ろしたことを、後悔しているのだろうか。
西行寺幽々子は亡霊となった。彼女の体は桜の木の下に埋め込まれた。この死体を見ると今度こそ彼女は死んでしまうとの話だが、まあそうなることは無いだろう。
そしてもう一つ、この蘇生(と言っていいのかは疑問だが)には問題があった。
今の彼女には生前の記憶は無くなっているということだ。
必死になってようやく再会できた親友が自分のことを忘れているというのは、そしてそれが自分のせいだというのは、どんな気持ちなのだろう。
考えの読めない面持ちのまま、紫は布団に寝かされた親友の顔を見つめている。
「………ぅん」
小さくうめく様な声がした。
聞きなれない声であり、それが西行寺幽々子のものであるということはすぐに分かった。
うっすらと瞳を開けただけだが、彼女はしっかりと動いていた。
ゆっくりと目蓋を押し上げて、焦点の合わない瞳が俺と紫の間を行き来している。
俺は座ったまま前に進み、枕元から幽々子の顔を覗き込んだ。
「ここは何処?お前は誰?」
お決まりのフレーズ。使う場面はあってる筈だ。
「……ここは、白玉楼。私は、西行寺幽々子」
ぼんやりと、霞の向こうから聞こえたようなか細い声で、
「……あなたたちは、誰?」
彼女は、揺らぐことなく問いかけた。
口を開き答えようとして、止めた。一番の権利は、彼女にあるはずだから。
視線を向けて促すと、紫は俺の方など見ていなかった。
紫はしっかりと幽々子の目を見て、気付かれないように一呼吸置いて、
「はじめまして、西行寺幽々子。私は八雲紫というわ」
初めての出会いに相応しく、柔らかく微笑んだ。