きっかけは些細なことだったのかもしれない。
ほんの小さな違和感がいつまでもしこりのように残り続け、なんとなく気づけば目で追っているようになって、そして疑惑と疑念が積み重なり、それはいつしか真実へとたどり着く階へと変貌した。
あとは簡単なことだった。最初の一人が声高に呼びかければ周囲の人も認識を改める。
それまで築いてきた関係も絆も尽く否定し、脳裏に浮かぶ共に過ごした記憶をおぞましいものと忌避した。
別にそれはなんら不思議なことではない。
彼らと彼女達の関係を鑑みれば至極当然のこと。むしろこれまで曲りなりにでも上手くいっていたこと自体が僥倖とさえいえる。
しかし、それが偶然による産物だったとしても、脆く崩れる飛沫の様な淡い幻だったとしても、彼女達にとってはかけがえのないものだったのだ。
避けられ責められ疎まれ恐れられ、それまでまともに目も合わせられなかった彼女達からすれば、僅かの期間であっても何の障りもない対等でいられたその時間は至福の時だったとさえ言えたのだ
きっとこれからもこうしていられる。自分達はここに居られる。
夢見る少女のように確固とした理由も理屈もなく純粋にそう思うことができたのは、文字通り彼女達が少女だったからだろう。
少女であるがゆえに幸福な日々に夢見、少女の夢であるがゆえにそれは儚く打ち砕かれた。
自らの生まれというどうしようもない理由でようやく手に入れた幸せを打ち砕かれた時、彼女達はどう感じただろうか。
渇望していた安息が結局は仮初めのものに過ぎないと知った時、彼女達はどう思っただろうか。
希望を、平穏を、幸福を、僅かでも手に入れることができていた分だけ、彼女達の心は深く深く堕ちていく。
結果として彼女達の内、妹の方は心を深く閉ざし、姉の方は妹の為に辛うじて踏み止まった。
それが彼女にとって善いか悪いかは別として。
彼女達を脅かす脅威は依然としてそこにいる。逃げようとするも動けない。妹が微塵とも動こうとしない。生きているとも死んでいるともいえない有様だった。
妹を見捨てて逃げれば助かるかといえば、そんなことは無い。そもそもそんな考えなど彼女の中には存在しない。引き摺ってでも、二人で助かり共に生きると決めていた。
けれども彼女の体も動かない。絶望が泥のように彼女の身を重くし、迫ってくる集団の悪意が彼女の身を竦ませる。
対する集団も彼女達を恐れていた。鍬や鋤、太い木の棒などで武装しているといえども、目の前にいるのは彼らの恐怖の権化。震えを覚えずにはいられない。
だが、仲間がいる、自分は一人ではないという安心感と、あまりにも痛々しく弱弱しい彼女達の姿に覚える優越感が、彼らの足を少しずつ前に押し出していく。
静かに圧倒的に進む敵意の塊を目の当たりにし、姉は声にならない悲鳴をあげた。
そこは小さな村だった。
集落という形態をとれる最低限の規模しかないそこで、人々は慎ましく逞しく暮らしていた。
立地は良く、山も川も近くにあって自然の恵みには困らない。土も柔らかく肥沃で田んぼや畑も満足のいく出来になる。
いつ頃からだろうか、村の端にある小さな家に幼い姉妹が住み着くようになった。
以前の持ち主だった夫婦は一人娘を嫁に送り出してから老いて逝き、数年は無人となっていた家屋にどうして二人の少女が落ち着くようになったのかは村人達には定かではなかった。
けれど深く問い詰めることをする人はいなかった。親と一緒に居るはずの小さな子どもたちだけでいるという事実に並々ならぬ経緯があったのではないかと考えたからだし、なによりもお互いに支えあう懸命なその姿に悪いものがあるとは思えなかったからだ。
二人は主に大人の手伝いをして働いていた。姉の方は真面目でしっかりとしていて大人達の手ほどきを受けながらどんなことにも真剣に取り組み、妹は目に映るすべてが輝いているかのようにどんな時でも笑顔を絶やさずにいた。
子供だけでは不便もあるだろうと一緒に住むことを提案してくれる家もあったが、迷惑を掛けるからと二人は断った。
まだ幼い矮躯でありながら助け合って暮らす健気なその姿は村に住む人たちの心を打ち、積極的に関わるようになっていった。少女達は施される親切に恐縮しながらも、村人達と同じ輪の中にいれることをとても喜んでいた。
けれども趨勢は容易く揺れる。安定は崩壊へ向かっていく。
姉妹と暮らす村人達はその時間が増えるにつれて、意識しないまでも無意識下では疑問を抱くようになっていた。
何故あの姉妹は、成長しないのか。
貧困な時代である。栄養が十分ではなく背丈が十分に伸びないことはありえないことではない。
しかし、乳飲み子が大きくなり立派に鍬を振るえるようになる程の年月が過ぎても、姉妹の外見は一切変わることはなかったのだ。
やがてはっきりとした疑念を抱くようになった村人達は、何かの病ではないのかと考え姉妹を気にかけるが特に不調は見られない。
ではどうしてなのか。こんなことはあり得ない。なにかがおかしい。理由は何だ。
もしかして、いやそんな筈は無い。あの子達に限って。あの気が利いて、人の間を取り持つことが上手くて、動物に優しく、動物からも好かれるような、あの姉妹が。
やがて答えは見つかった。
勇ましくも危うい一人の少年が無謀なことに夜の山にふらりと入った時のこと。
ちょっとした悪ふざけのつもりで山に入った少年は、まるで人目を避けるように暗い闇の中で川で身を清める姉妹を見つけた。
そして、彼女達の体から伸びる不気味に光る三つ目の目を見てしまった。
転がるように家へと帰る少年。姉妹がそのことに気づいた時はもう遅い。
僅かでも足を緩めれば死んでしまうかのような勢いで走る少年は。
そして。
嗚呼、と少女は嘆く。
夢から醒めた少女は、現実をその目でしかと見る。
暗く重く荒い、怒涛のような感情がその頭に流れ込む。小さな心が軋みをあげるが、腕の中のぬくもりを思い出しそれに耐える。
嗚呼、と少女は思う。
きっとこれは罰なのだ。優しいあの人たちを長く欺いてきた私達への、当然の報いなのだ。今彼らの内で煮えたぎる感情は、私達が気づいてきた信頼と絆が裏返った結果なのだ。
嫌われ者の妖怪として生まれたくせに、誰かに愛されたいなんて不相応な望みを持ったのがいけなかったのだ。
嗚呼、と少女は願う。
彼らをだまし続けてきた自分達は、きっと最低だ。この場で殺されてしまっても文句は言えない。
けれど、それでも、傲慢にももう一つだけ望みを抱けるのなら。
妹が心を取り戻せるといいな。
彼らの感情に耐え切れず、彼らの心を負い切れず、自らの全てを閉ざしてしまったこの愛しい妹が、もう一度心から笑えるようになればいいな。
この子が今を生き延びて、未来に繋がるためならば。
私は。
小さなその体で、より小さな妹の体を包むように抱きしめる。
終わってしまうその瞬間は、せめて幸せだった夢の中にいたいと目を瞑り、
「―――――――――――――――」
声が聞こえた。少なくとも彼女はそれを幻聴だと思った。危機に瀕した自分が作り出した、薄っぺらい救いのようなものだと思った。
硬く目を閉じている少女は、けれど何時までも覚悟した衝撃が訪れないことを不思議に思う。
何かあったのか。目を開けるのは怖い。このまま閉ざしたまま何もかもが終わってしまえばいいと思うが、それでも知りたいという衝動を抑え切れなかった。
恐る恐る、目を開く。
男が一人、立っていた。
長身でやや大柄の、けれどたったの一人。
それなのに、まるでそこに巨大な壁が立ちはだかっているかのような存在感。
ちらりと肩越しに男が少女を見やる。
男の片目と、少女の両目と第3の目が交差する。
「………………っ!」
それだけで、たったそれだけのことで、少女は確信する。
ああ、自分達はもう大丈夫だ。彼の背中を見ている限り、もう自分達を脅かすものなど存在しない、と。
心を読むまでも無い。彼女の心は男の心に呑み込まれた。あまりにも深く大きく強い男の心は、少女の胸中にあった負の感情を一掃し、その支えとなるには十分に過ぎた。
「―――――――――――――――」
再び声が聞こえる。男が何かを言うだけで、少女達を追い詰めていた群集がじりじりと後ずさっていく。
絶望から一瞬で対極の感情へと移行した少女は、その反動で揺れる意識のせいで男の言葉を認識することは出来なかった。
さらに二言、三言。
その度に退いていく群集にやがて男は背を向け、少女達に歩み寄っていく。
少女の霞む視界ではその姿は朧げにしか捉えられない。
けれど少女の髪を撫でる大きく暖かな手のひらの感触は、しっかりと少女の心に刻まれた。
まどろむ様に、夢見心地で目を閉じる。
目の端に溜まっていた雫が押し出され流れ、少女の第3の目をつたって滴り落ちる。
その雫を手で受け止める男。
「すいません、涙舐め取らせてもらってもいいですか」
少女は意識を手放した。
★
「んぁ」
ふと目が覚める。
阿呆のようにだらしなく口を開いて欠伸をしながら上体を起こした。
ソファなんて狭いところで寝ていたから、ちょっと体が硬い。
「あ、ギン。目が覚めたんですね」
冷涼な声の元へ目を向けると、ソファの背もたれ越しにさとりがこちらを見ていた。
ああそうだ、思い出した。久しぶりにこの姉妹のところに遊びに来て、そのまま泊まっていったんだっけか。
「おはようさとり。いい朝だね」
「おはようございます。こんな場所では朝も何も関係ないですけど」
それもそうか。地獄で迎える朝なんて、そんなに気分のいいものじゃないな。だったら地上に出ればいいじゃないかと思うが、そうもいかない。
さとりは、名の通り『悟り妖怪』。心を読む妖怪。目立った能力といったらそれだけなのだが、人も妖も関係なく心を読めてしまうさとりは、人からも妖からも忌避されている。
周囲の全てがさとりを良く思っていないことを、彼女はさとりであるが故に否応無く知ってしまう。見せ付けられてしまう。
だからこそ彼女は自ら進んで、こんな地獄の片隅なんていう辺鄙な場所で妹とペットたちと暮らしている。まるで世捨て人だ。
全く、心を読まれる程度がなんだというのだ。俺はこれっぽっちも気にしない。読まれて困るような心なら、最初から持たなければいいのに。
「しょうがないことです。皆が皆、ギンの様な訳ではないのですから」
そうだな。皆が皆、俺のように人が出来ている訳ではないからな。
「それだと語弊がありますね。訂正してください」
「おお、そういやそうだな。俺は鳥だったか」
「ああ、いえ。そういうことじゃ…………まあ、そうですね」
なにやら疲れたようにため息を吐くさとり。そんな彼女を心配したのか、彼女が飼っている犬やら猫やら鳥やらがさとりの元に集っている。
さとりは心が読める。つまりは動物とかの気持ちも分かってあげることが出来るので、あいつはものすごく懐かれるのだ。俺が元凶だと判断したのか何匹かが威嚇してくるのがちょっと傷つく。
「あれ、そういえばこいしは?また無意識でふらふらしてんのか?」
「えっと、こいしならそこにいますけど」
そう言ってついと俺を指差すさとり。俺の体?どういうことだ。まさか眠っている間に俺とこいしの体が入れ替わったとか……!
「いえ、そうではなく。ギンがしっかり抱きしめています」
「え、あ、ホントだ」
言われて、指されて、ようやく認識することが出来た。確かに俺の上で、さとりの妹であるところのこいしちゃんはすやすやと眠っていた。いやー、全然気づかなかったよ。ま、無意識なら仕方ないね。
別に言い訳ではない。これはこいしの『無意識を操る程度の能力』に起因するのだ。
誰かの無意識に潜り込むことで認識されなくなり自らの無意識に従うように行動する、そんな予測不可能回避不可能ガールなのだ。言ってしまえば困ったちゃん。
誰にも気づかれないなんて、男としては憧れてしまう様な能力だが。これが姉と同じように悟り妖怪である彼女が生来の能力と自らの心を捨て去った結果の副産物であるということを考えると、迂闊に羨ましがれ無かったりする。
悟りであるから疎まれ、嫌われるくらいならと悟りであることを捨てた。言ってみればそれは自らの存在を捨てたということだ。一体今のこの子は何者であると言えるのか。カワイイ子である、とは文句なしに言えるのだけど。
心を捨てた少女。誰かの心を読むことに自らの心が耐え切れなかった少女。自分の心が読まれているということに恐怖した心に押しつぶされた心を持っていた少女。
ならば、今彼女の胸の中には何があるのだろうか。
「ちょっと。姉の目の前で妹の胸に触ろうとしないで」
「くそ、目聡いな。悟りだけに」
さとりにはもうこいしの心は読めないのだという。読めないのか、読むものが無いのか。
さとりの読心には能力で抵抗できる。実際紫なんかはその境界の能力で上手いことやって読まれるのを防いでいた。まああいつの心境なんて読んでもさとりの教育に悪いからいいのだけれど。
俺も出来ないことはない。この身の全てを凍結し、あらゆる干渉を撥ね退けてしまえば心を読まれることは無いだろう。
でもしない。そんなことに意味は無い。心を読まれる程度、なんてことはない。別に大したことじゃないだろう。他の奴が嫌がる理由がさっぱり分からない。
人様にお見せできないようなことを考える方が悪いのだ。見てしまうさとりに罪はない。
それに胸のうちを赤裸々に明かされてしまうとか羞恥プレイ的にはむしろウェルカムだし。俺はさとりの前でも構わず妄想を描くことが出来る。
「後半無視しますけど、ギンのそういうところ、私は好きですよ」
「俺もさとりのことが大好きだよ」
俺たちは笑い合う。
俺には今さとりが心から微笑んでいることが手に取るように分かる。
ほら、心を読むなんてこの程度なのだ。
「ん、んぅ」
おっと、腕の中のこいしがもぞもぞしている。強く抱きしめすぎたのかと腕を緩めると、ずいっと伸ばされた手が俺の顔を通り過ぎ、頭に巻いた手ぬぐいを引っぺがした。
照明の光が、つるりと光る俺の頭に反射される。
「…………っ!」
俺にはさとりが今必死に笑いを堪えていることが手に取るように分かる。
「……にゅふふ」
そしてこいし、無意識でも許さない。