詩人の詩   作:117

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コロナ禍も物語もきっついわぁ!!
大変お待たせいたしました、最新話をどうぞ。


106話

 船というのは乗る時と降りる時には必ず乗船券の確認をする。といっても、別に犯罪者かどうかを見る訳ではない。極端な話、どんな極悪人でも乗船券を買えれば船にとってはお客さんだ。乗船券を買う際に検問を設けるかはそれぞれの国や都市に任される。ある場所では犯罪者でも、別の場所では英雄というのは珍しい話ではないからだ。

 船を運行する側が問題とするのは密航してお金を払わない者だけだと言っていい、そんな不届き者を捕まえる事のみ重視しているのだ。密航者が隠れやすい倉庫などは必ず船員が見回りをするし、乗降時の切符の確認をする意義はわざわざ明記するまでもないだろう。

 リブロフに到着する寸前の船を見て、陸から監視する者が気を付けるのは海に飛び込む者がいないかだ。海のモンスターに海中で襲われる可能性は高いが、それでも絶対ではない。密航者は目的地が近くなったら海へ飛び込み、そのまま陸に上がろうとすることもある。そういった不届き者を見つけ、陸に上がるところを捕縛するのも船を経営する側にとっては重要な仕事の一つ。

 だから。数十メートルまで近づいた船から、海面ではなく陸に向かって跳んでくる人影を見るのは流石に予想外だった。

「は?」

 監視員は間抜けな声を上げながら、船から自分の方に向かって跳躍した人影を呆然と見ていた。いやいや、それは人間業ではないだろうと。

 そんな現実逃避気味な監視員など知った事ではないと言わんばかりに、彼の側に降り立ったのは紅髪の美少女。それからやや遅れて吟遊詩人の恰好をした男と、黒髪の美女が降り立った。人間離れした行動を起こした奴が三人もである。呆然とするなという方が無理かも知れない。

 その中で紅髪の美少女が脇目も振らずに走り出す。

「ちょ、タチアナ。マジ落ち着きなさいっ!」

 それを追う黒髪の美女。脱兎の如く走り出した二人は、あっという間に監視員の視界から消えてしまう。残ったのは吟遊詩人の恰好をした男。

「はい。あの二人と、俺の乗船券」

「あ、え、へ?」

 ポンと手渡される、三枚の乗船券に目を白黒させる監視員。まあ確かに乗船券さえあればお金を払った証拠になるかもだから問題はないかも知れないが――問題ないか?

 初体験過ぎる事態に動揺を隠せない監視員を尻目に、吟遊詩人の恰好をした男も歩き出してしまう。

「あ、俺らはラザイエフ家のところに居るつもりだから、何か問題があったらそっちに来てくれ」

 すたすたと歩く吟遊詩人の恰好をした男だが、家の側に近づくと、ひょいと擬音が付きそうな身軽さでその屋根の上に飛び乗る。簡単そうに言うが、屋根は十メートル以上も地上から離れている。

 そしてそのまま屋根を蹴り、次の屋根の上へと姿を消していった。

「――なんだったんだ、アレ」

 乗船券を持ったまま呆然とする監視員に答える者はなく。ピドナから来たその船はゆっくりと港へとその船体を横付けし、乗客や積み荷を降ろす準備を始めていた。

 

 エレンとタチアナ、どちらが速いのか。これは一概にどちらと言い切るのは難しい。

 タチアナは小柄であるために短距離での速度を比べたりすれば、もしくは方向転換などの動きの鋭さを見ればエレンに勝る。一方でエレンは長距離走や、拳速など決まった動きをするにはタチアナに勝る。一長一短があり、確定的にどちらが上だとは言い切れないのだ。

「ちょ、タチアナ! 待って、待て!!」

 そんな事実を無視するように、タチアナはエレンを徐々に引き離してリブロフの町を爆走していた。中距離どころか長距離でもエレンに勝る速度を出しているのは正しく火事場の馬鹿力といえるだろう。父が危篤と聞いたタチアナは、サラの危機に向かうエレンが如き気迫で一等地に建つラザイエフ家へと向かっていた。リブロフに初めて訪れるエレンは彼女を見失った瞬間に迷子に為りかねず、必死にタチアナに付いて行くのだった。まあ、リブロフでラザイエフ家を知らない者の方が珍しいので、多少時間がかかっても辿り着けないということはないだろうが。

 さておき。それではタチアナが一番にラザイエフ家に辿り着くのかといえばやはり否。最初に辿り着くのは家の屋根から屋根へと飛び移り、道順や人込みといった煩雑さを無視する詩人である。別に彼自身が急ぐ理由はないが、明らかに冷静でないタチアナを思えば一足早くラザイエフ家に着いて事情を説明しておきたかった。

 詩人はそう思い、あっさりとラザイエフ家に辿り着く。多少時間の猶予はあろうが、余裕はない。ドアノックをゴンゴンと鳴らし、対応を待つまでもなく扉を開く。

「……どちら様ですか?」

 非礼といえば非礼な来訪者に、玄関で控えていた下働きの男が少し鋭い目で詩人を睨んでくる。

 それに平然とした表情で答える詩人。

「ラザイエフ家の末娘、タチアナ嬢の師匠だ。間もなくタチアナが帰還する、然るべき対応を願いたい」

 その言葉に下働きの男は怪訝な顔をする。

 彼とてタチアナにラザイエフ家当主であるアレクセイが危篤であるという伝令を放ったということは聞いている。

 だがしかし、唐突に来訪したこの詩人を信用するかは話が別だ。言葉を鵜呑みにしてこの場を離れた隙に玄関にある調度品を盗もうとする不届き者である可能性も否めない。かといって、タチアナが戻るかも知れないという先触れを無視するのも問題だろう。端的に言って、下働き程度の男の判断に余る話なのだ。

 こういう時に有効な手は決まっている、より判断力のある上司を呼ぶ事。備え付けられたベルをチリチリチリンと鳴らす。ちなみに鳴らし方に意味があり、場合によっては不審者侵入の音にもなるのがこのベルである。

 今回はもちろんそんな訳だった訳ではなく、程なくラザイエフ家を取り仕切る執事の一人が姿を現した。幸いというべきか、以前に詩人がここを訪れた時、タチアナの師匠になったという話を聞いた一人である。

「おお、詩人殿ですな! ということは――」

「ああ。タチアナは間もなくここに――」

「パパっ!」

 詩人が言い切るまでもなく、バタンと大きな音を立てて玄関の扉が開かれた。

 その紅髪の少女に、執事などは大きく目を見開く。もう一年以上昔になるのか、タチアナがこの屋敷から去ったのは。産まれた時からタチアナを見てきた執事が僅かに感極まってしまうのは仕方がないかも知れない。

 ともあれ、そんな執事の心情など今のタチアナが考慮する訳もない。

「パパの容体はっ!?」

「落ち着いて下さい、タチアナお嬢様。今日は比較的体調が良く、お話もできるかと」

「話ができないくらい酷い時もあるのっ!?」

「……昏睡状態になられた時もありました。正直、あの時はわたくし共も覚悟したものです。そして、何時その状態になるかは医者も分からないと」

 隠しても仕方がないと、執事は語る。それに下心もあり、アレクセイの状態を悪く語ればタチアナがリブロフに留まることも期待しての発言だった。

 効果は覿面であり、タチアナはぎゅっと唇を噛む。自分勝手に家出をして父親に心労をかけた負い目が彼女を襲っていた。

 そこにようやく肩で息を切らしながらエレンが到着する。

「ハァ、ハァ……。タチアナ、速すぎ」

「思ったよりも速かったな、エレン」

「詩人が速いのは驚かないけどさ」

 なかなかにエレンから詩人への信頼が厚い。それをさらっと無視した詩人は、エレンと下働きの男にと指示を出す。

「エレンはこのまま留まって、ユリアンたちを迎えてくれ。タチアナの同伴者ならば最上級の扱いがされるだろう。

 お前はエレンの他に四人の客が来るから、丁重に迎えてくれ」

 何故か詩人が指示を出す事に下働きの男は憮然とした表情を作るが、執事が納得したように頷くのを見ればそれ以上に反応することはない。即座に取り繕った表情に直し、タチアナを含めた七人を客人として持て成す指示を裏方に出し始めた。

 後顧の憂いを無くせば、とうとう案内が開始される。その前に一応というか、詩人が尋ねる。

「さて。それでタチアナ、俺も一緒に行った方がいいか? それとも一人で行くか?」

「? なんで詩人さんが来ないの」

 来なくても常識の範囲内であるとは思われるが、タチアナ的には詩人が一緒に行くことは決定事項だったらしい。

「本当はエレンさんにも来て欲しかったけど……」

「悪いけど、流石に初対面の方が危篤なのにいきなり行く程、あたしの面の皮は厚くない」

「それ、言外に俺の面の皮が厚いって言ってないか?」

「一応アンタは初対面じゃないでしょ?」

「まあ、それはそうだが。他人と言えば他人だぞ?」

「いいから! 早く行こうよ!!」

 いつになく焦った様子のタチアナに促されて動き出す。ちなみにこの茶番劇を仕組んだのは、少しでも長くラザイエフに準備をさせる為である。

 ほんの一分にも満たない時間であったが、ラザイエフといえば最上級に数えられる一つ。少なくとも見苦しくない程度に体裁は整えられるだろう。タチアナが近いうちに戻ると予想していれば尚更だ。

 平然とした表情で案内を開始する執事を見るに、この予想はおそらく間違っていない。アレクセイの側も準備が整ったのだろう。

 詩人を連れて、屋敷を歩くタチアナ。勝手知ったるのは当たり前で、時々執事を追い抜こうとする程に足を速くするのだから、執事も歩調を早めて詩人はタチアナの肩に手を置いて落ち着くように促す。

 やがて辿り着く、一際立派な扉。執事は仰々しくそれをノックすると、内側から開かれた。中に控えた使用人が扉を開けたのだ。

「パパっ!」

 ここまで来てタチアナが辛抱たまる訳がない。今までが辛抱していたとも言えないくらいであるが、もはや誰の静止もなくベッド脇へと駆け寄り、荒い息遣いをするアレクセイの元へ寄る。

 悲痛な顔をするタチアナを確認しつつ、詩人はゆっくりとタチアナの側に近づく。その際見えたアレクセイの死相を見て、長くないどころかよくぞここまで持ったものだと感服してしまった。

 普通ならば死んでいる。それを偏にここまで生き延びたのは、生きてタチアナを一目見る為だったのだろうと容易に予想はついた。

「ぉ、ぉぉぉ…。タ、タチア、ナ」

「う、うん。うんうん、私だよ、パパ!」

「よ、よく。よく、かえ、かえって、きた」

「うん、うんうん! 帰って来たよ、パパ! 私は側に居るからっ!!」

「ぉもいのこ、す、ことは、もうな、いな」

「パパっ!!」

 執事曰く、これで良い方であるらしい。なるほど、言ってはなんだが長くはないだろうと誰でも分かる。ラザイエフならば多少の延命は出来るだろうが、それが精一杯ともいえた。

 タチアナは縋るような目で詩人を見る。詩人はその視線を受け、アレクセイに顔を向けた。アレクセイもしっかりと瞳を詩人に合わせ、応える。死を間際にしたその瞳はとても純粋な輝きを灯していた。

 それを正確に読み取った詩人は、腰に付けた道具袋から油紙で包んだ粉薬を取り出した。

「生命のおおもとから作り出した秘薬、生命の素だ。寿命を延ばすには無理があるが、体調を整えるには役立つだろう」

 そう言って詩人はそれを世話役として控えていたメイドに渡す。彼女にすれば得体の知れない男が取りだした得体の知れない薬であるが、タチアナもそしてアレクセイさえも頷いたのを見てその薬をアレクセイの口元に運ぶ。

 ごほごほと咳き込みながらも生命の素を飲み干したアレクセイは、ほんの少しだけ安静な時間を欲した。その僅かな間に、見る見ると顔に生気が戻ってくる。

「パパっ!」

「ふぅ……。まるで生き返ったような気分じゃ。礼を言わせてくれ」

 喜色を浮かべるタチアナに、ベッドから起き上がって詩人に頭を下げるアレクセイ。しかし詩人は表情を柔らかくしない。

「礼は要らないさ。言った通り、寿命を延ばした訳じゃない。残念ながら、余命は僅かだと先に言わせて貰う」

「分かっておるよ、もう儂も爺じゃ。遅かれ早かれという奴じゃな。しかしこの薬が無ければ今一度タチアナを抱きしめる事も出来んかった」

 そう言って、アレクセイは側に居たタチアナを抱き寄せる。

 これが今生の別れといった風情に愛娘を抱きしめるアレクセイに、嬉しそうに辛そうにその抱擁を受けるタチアナ。

 ほんの少し、存在し得なかった筈の温もりを確かめ合う父娘(おやこ)。やがてその体勢のまま、アレクセイは口を開く。

「ラザイエフ商会はニコライに譲ったよ、ボリスも納得してくれた。

 ただ、ボリスもやる気を失った訳ではなくてな。伝手を使ってトーマスカンパニーで良い仕事を貰ったよ。あいつならば成り上がる事も可能だろう。

 ニコライとベラ、そしてボリスにはお前の事を気にかけてくれるように頼んでおいた。困ったら頼りなさい」

「…………」

「儂はもう長くない、もうお前を守ってやれんのだ。分かってくれ、タチアナ」

「…………、うん。分かってるよ、パパ」

 次の言葉を言うかどうか、タチアナはおそらくアレクセイの危篤を聞いた時からずっと悩んでいた。

 だがしかし、こんな弱った父を見てしまえば天秤はそちらに傾いてしまう。密かにエレンには話したが、彼女は理解を示してくれた。なればこそ、次の言葉を発することになんの躊躇いもない。

「でも、これからずっと私はパパの側にいるからね」

「ふふ。タチアナに看取られるとは、儂も幸せ者よな。どうか最期まで側に居てくれ、タチアナよ」

 ここでタチアナの旅は終わり。その想いを込めてタチアナは声を出す。

 受けて答えるアレクセイの言葉も安らぎに満ちた返事をする。

 詩人はその光景を前に、そのターバンのような帽子を深くして表情を隠していた。その奥にどんな表情をしていたのか、知る者は居ない。

 そのまま詩人はその場を辞する。

 そして合流したエレンたちと共に客間に案内され、しばらくゆっくりとした時間を過ごした。タチアナがこのままリブロフに残るようだともそれとなく伝えるが、今際である父を選んだタチアナに対して何かを言う者は当然の如く居ない。エレンとしても最も長く旅をしてきたタチアナが今この時に抜けることには幾らか感想があるとはいえ、沈黙をもって全て押し殺した。

 やがて一人の執事が現れる。

「タチアナお嬢様から話を聞きました。皆さまは乾いた大河を渡り、死の砂漠を超えるそうですね。

 その是非は敢えて口にしませんが、その支度をするように大旦那さまが命じられ、旦那様も了承しました。

 おおよそ一週間の準備の期間を頂きたく願います」

「分かったわ」

 代表してエレンが答えた。この屋敷に居る間はタチアナと軽く挨拶はするだろうし、出発の時には見送りもしてくれるだろう。しかし彼女はアビスには向かわない。それは言葉にしなくても分かっていた。

 今頃はきっと、父に今までの旅の話をしているだろう。そんな娘のようやく最後の親孝行をどうして止められようか。誰ともなしに静かになり、その場は解散となった。

 

 深夜。月が天に輝き、星々が煌めいて空を彩る。

 それを見ながら、アレクセイはベッドから半身を起こして人を待っていた。約束した訳ではない、だが来ると確信していた。

 きっと、自分の意を汲んでくれると確信していたのだ。

 そしてやがて、窓からするりと一つの人影が彼の部屋に入り込む。

「待たせたか?」

「儂が勝手に待っていただけじゃよ」

 笑いながら窓から入り込んだ男、詩人を迎え入れる言葉を口にするアレクセイ。詩人は真面目な表情のまま、酒瓶を持ってベッドの側にあった椅子に腰かける。

 ほんの少し、沈黙が流れた。

「潔いな、あんた」

「いやいや、なんとか取り繕っているだけに過ぎん。実を言うと怖くて怖くて仕方がないわい」

 アレクセイを褒める詩人に、彼は茶目っ気たっぷりに返事をする。

 くすくすと笑ったアレクセイだが、真剣な顔をして詩人に向かって頭を下げる。

「――返す返すも、感謝の念しかない。

 タチアナを救ってくれたこと。タチアナを鍛えてくれたこと。タチアナと死に目に会わせてくれたこと。タチアナに言葉を遺せること。

 これらは全てお主のおかげじゃ。改めて礼を言わせてくれ」

「先に言っておくが、礼しか要らんぞ。全ては俺が勝手にやったこと。感謝するのは自由だが、それ以上は求めていない」

「ふふ、金も地位も何もかも要らぬか。欲がないのか、それとも興味がないのか」

 それもアレクセイにとってはどうでもいいことである。この期に及んで彼は詩人に何も言うことはない。

 最初に出会った時、頭を下げてタチアナを託す代わりに全てを捧げると言った。それに結局何も求めなかった詩人は、詩人こそは真の意味でタチアナを任せられると安心したのだ。こればかりはニコライもベラも、ボリスにも任せられない。所詮彼らも人であり、自分かタチアナかを迫れば自分を取るに決まっている。アレクセイはそれを責める気もないが、その家族愛よりも自己愛を取るという事実に、タチアナの心に嫌気が差したというのは感じ取っていた。

 だからこそ、タチアナが旅先に出会ったこの詩人という男に感謝を捧げられるのだ。

 無垢にタチアナと接してくれたであろう彼と、そんな運命のような出会いを作ってくれた聖王に対して最大の感謝を。

 祈るようなその心情に一段落をつけたアレクセイは、ベッドサイドに置いておいた杯を持つ。その底には白い粉がいくらかあった。

 それは、毒。

 命を安らかに奪う、悪意ある慈悲と呼ばれる薬。安楽死の為に使われるそれを盛った杯を詩人に向ければ、詩人もよどむことなく持ってきた酒瓶の封を切り、アレクセイの盃に注ぐ。続いてどこからともなく自分用の杯も取り出してそこにも酒を注ぐ。

 詩人が用意した酒はアヴァ・アウレリウスと呼ばれるもの。誓いを込めた時にしか飲むことが許されない、特別な酒。

「聖王の名に毒を盛るか」

「命を対価にするには悪くないと思ってね」

「ふふ。最期にこんな悪事をするとは、儂の逝く先は聖王様の御許ではないかも知れんのう」

「自殺する時点でそうだろうな」

 聖王文化は自殺を認めていない。自ら命を絶つ事は、最も罪深い事の一つとされている。

 敵やモンスターに捕まってもはや死しかない場面で命を辱められる前に死ぬ事などの例外はあるが、今回のアレクセイはそれに当たらない。病気で苦しんで死を選ぶ事は黙認されているが、彼が自死を選ぶ理由はそれですらないのだからアレクセイは自分が許されざる者だと自覚しているだろう。

 だがしかし、その上で死を選ぶ彼に悔いは全くなかった。

 そう、全てはタチアナの為。何よりも誰よりも愛しい娘の為。こんな生い先短い老爺の為に、タチアナの希望に満ちた未来を僅かでも陰らせてはいけないというただその一心が、アレクセイに毒を呷らせる。

 察した詩人は止めなかった。間もなく死ぬ定めである、その命の使い方を選べた事に彼は文句をつけるつもりもない。

「では我が人生の全てに――」

「――乾杯」

 天に向かって掲げた後、ぐいと一息に杯を乾かした二人。

 そのまま詩人は無言で窓へと行くと、振り返る事無くそこから身を翻して部屋から消えた。

 アレクセイはそれを見届けると、杯をベッドサイドに戻してベッドに横になる。

 徐々に眠気が訪れて、これに呑み込まれた時に二度と目覚める事はないと理解していた。

 すべき事を為したという実感がアレクセイに満ちていた。ラザイエフ商会と長女であるベラは自分が見込んだ男であるニコライに任せ、ボリスも新天地に送る事ができた。

 幼かったタチアナも立派に巣立ち、武芸者としてやっていける確信を得た。思い残す事は何もない。

(ああ……)

 どんどん朦朧とする意識。思い返せば、ベラとボリスの母には愛情がなかった。ただの政略結婚、自分も嫁もラザイエフ商会を大きくする為の道具。それでもその道具は大事にしなくてはいけなかったので、不自由はさせなかった。豪商らしく金に飽かせて贅沢をした。そんな不摂生が祟ったのか、前妻は早世してしまったが。

 それでも子供が出来れば問題ないとひたすらに仕事に励み、やがてニコライを見出してボリスも立派になった頃。アレクセイは一人の女を愛した。ひたすらに自由で朗らかだったその女に強く惹かれ、壮年でありながら初めて恋という感情を知った。

(だから、こそ)

 彼女との間にできたタチアナには、彼女の様に奔放自由であって欲しかったのかも知れない。ラザイエフ商会が支配するリブロフからタチアナが出奔できたのは、心のどこかで自分が望んでいた事なのかも知れない。世界に飛び出し、どこまでも羽ばたく事こそを願っていたのかも知れない。

(タチ、ア)

 ぷつりとアレクセイの意識が途切れた。唯一恋をした女との間にできた愛娘、その顔と名前を浮かべながらの往生だった事を知る者は居ない。

 しかしその表情は安らかであったと、葬儀に参加した全ての者に感じさせた。

 

 それがアレクセイという男の全てを表していたと云えるだろう。

 

 

 

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