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春も近づいてきた。
年が変われば何かが変わるだろう、と淡い期待を寄せていた俺を見事に裏切る形で現実は何も変わっていなかった。
俺は、相変わらず質実剛健な提督として不眠不休で働いているし、この"鎮守府"は、国内・国外、昼夜問わず依頼が殺到する大繁盛だ。
どれほど大繁盛でも"どんな艦娘でも受け入れる"というスタンスは変えないらしく、さらに社員が増えるかのでは?と戦々恐々と仕事をこなす。社長と言えども胡座をかいているわけにもいかず、命を削り切り、幽霊のごとく働いている。
と、云々言っているが簡単に言えば状況は何一つ変わらず、睡眠不足と勤続疲労を両手に持ち、足元にはこびる理不尽と窮屈を蹴散らして、執務室という名の戦地へ赴く日々が続いているだけだ。
「作戦が完了した艦隊が、入港しました!」
軽空母のよく通る声が、執務室まで聞こえてきて、俺は軽く額に手をあてた。頭痛がする…………
ちらりと時計を見れば、夜11時。先ほどの艦隊の帰投でようやく今日の依頼は終えた。しかし、艦娘たちの仕事が終えたと言えども提督の仕事はこれからだ。傍らに積み上げられた報告書やなんやらはいたずらにも高さを増すばかり。今日が終えるまで後1時間しかないのに、すでに提督は虫の息だ。どうやら神様は今宵も愛の鞭を緩めるつもりはさらさらないらしい。
脳内で舌打ちを連発しつつ、パソコンのモニターを睨みつけても、非力な好青年のひと睨みですべて打ち込まれるはずもない。俺は無駄な努力を諦め、その日の成果をまとめ始めた。
そんな中、元気な声で執務室にやってきたのはいかにも帰投したらしい、柿色のセーラー服に黒のミニスカート姿の艦娘だ。
「は…………?」
彼女の告げた言葉に、思わず間の抜けた声を発した。
「なんて言った?」
「夜戦しよう!私はもう準備万端だよ!今週できなかったから早くしよう!」
目を爛々と輝かせそう告げる。その笑顔は花の咲いたようだ。
たしかに時刻は11時。夜戦にはちょうどいい時間だろう。が、俺には目の前にある書類を今日中に捌かないといけない。あと1時間で。俺の状態を見て、夜戦を要求するのだから驚嘆に値する。
「そうだ、先週もできてないからその分も今日のうちにしよう!」
「却下だ。忙しいときに夜戦なんかできるか」
「えぇー、そんなケチ言わないでさぁ、私だって夜戦したいのをずっと我慢してたんだよ?2日分したっ…………」
「忙しいと言ってる」
ジロリと一瞥すると、さすがに川内は沈黙した。
たしかに最近は夜戦の演習ができていない。
さらに言えば、演習らしい演習もしておらず、とにかく依頼をこなすことに没頭している。ここ最近の評判がうなぎのぼりなためか、依頼が殺到している。依頼のほとんどが貿易船の護衛や漁に出る際の護衛などのビジネスに関わることだ。
が、なかには強者がいるものでクルージングをしたいから、という理由で依頼してくるから頭が痛い。しかし、ここは民間企業だ。黙って受ける方が得策というのが、俺の学んだ結論だ。
とにかく、うるさい夜戦主義者を追い出し、再び仕事に没頭すれば苦笑が聞こえる。
重巡の熊野だ。
「絵に描いたような"塩対応"ですわね」
「美人で有能なお嬢様に感心していただければ、努力のし甲斐もあるというものです。さらに手伝っていただければなお…………」
「それはお断りしますわ」
熊野はきっぱりと言い、紅茶に口をつけた。
熊野は、創設時より働いてきた古株の1人だ。彼女がいるだけで、仕事が早くなるわけでもない。
「最近、あの夜戦バカの騒ぎっぷりにはみんな、辟易してましたのよ。この前の長門なんて怒鳴りつけていたぐらいですからね」
「俺はまだそこまでの器じゃないんでね。とりあえず、長門よりは優しい対応をしたつもりだ」
うそぶきながら書類をめくっていけば、苦情の書類が見つかった。
「隼鷹の飲みっぷりに苦情がきてるのか…………」
流し読みしながら、はぁとため息をつく。
「また飲んで、暴れてらっしゃるの?」
「暴れて…………まではいかないが、迷惑をかけてることは事実だな。真昼間から飲んで、他人にも勧めてくる」
かなり気が滅入る。徹夜で働かされている上に、夜戦バカや酔っ払いにまで付き合ってやらんといけないとは。
「あら、まだ執務してたのね?」
よく通る声を響かせて入ってきたのは、叢雲だ。駆逐艦最年長で、冷静さと判断力には定評のある頼りになる人物だ。
「そっちこそ、こんな夜遅くに…………何の用だ?」
「今日は一段と忙しそうだから手伝いに来ただけよ」
本当、頼りなる。熊野にも見習ってほしいものだ。
叢雲は机にある書類の量を見るなり渋い顔をした。
「本当に今日はひどいわね…………最近でさえ多いのに」
「やはり、わたくしの言う通り厄払いをした方がよくってよ?」
「そうかもしれん…………」
今年、最初の御籤で大凶というこの上ない評価を神様からしていただいた。その日からか、普段の1.5倍の仕事が来るようになった。なんの科学的根拠はないが、実際に忙しいから反論もできない。
「時雨でも連れてくるか?」
投げやりに冗談を言うものの、キレがない。
と、突然電話が鳴り響いた。叢雲が応じて、何やら話したあと、苦い顔で
「また、依頼よ。釣りがしたいから護衛を頼むって」
「…………了解した、とだけ言ってくれ」
相当苦い顔をしたのだろう。熊野の顔には同情するような感情が込められていた。同情するなら手伝ってほしいが。
「あなた、呪いでも受けるのではなくって?」
「そうだな…………早めにお祓いを受けるとするよ」
ほとんど自棄になって、俺は執務に取り掛かった。
長い1日もとっくに終わり、今度はより長い夜が始まった。
ーーーー
結局昨夜の執務は朝の5時までかかり、途中途中依頼の電話も鳴り響き、"大凶"の本領を遺憾なく発揮した。叢雲も最初は苦笑で済んでいたものの、明け方になると笑う気力もなくなり、真顔で「いい加減にしてちょうだい、提督」と言う始末。当たり前だが、神に見放された俺が神にいくら祈ろうとも、仕事の量は減らない。
明け方から少しの間仮眠をソファで取ったものの、くたびれた頭は逆に冴えわたり熟睡もできず、ひたすら窓の景色を眺めることしかできなかった。
執務室は古びたソファセットや叢雲が持ってきたコーヒーセット以外、執務用の机とパソコン端末が置かれているだけの殺風景な部屋だ。朝の7時では俺以外誰もおらず、寒々しい。
今日の執務のスタートまであと1時間半はある。どうしようかと考えたところで、ドアが急に開かれた。
視線を向けて面食らったのは、長門が入ってきたからだ。
「提督、おはよう」
俺を見るなり、少し微笑んで手をあげる。
「なんだか久しぶりな気がするな」
それもそうだ。彼女は1週間ほど海上自衛隊に借り出され、留守にしていた。
「元気にしてたか?」
「元気に見えるか?」
徹夜明けの青白い顔で見返せば、長門は苦笑するだけだ。
「やっぱり、厄払いをした方がいいんじゃないか?」
それは先ほども言われた。占いなどは信じないタチだが、周りのためにもした方がいいかもしれん。
長門は、民間軍事会社"鎮守府"を支える大黒柱で、俺にとっては、幼き日からの顔馴染みだ。戦場では一騎当千の実力で敵を蹴散らし、その立ち振る舞いからは尊敬する艦娘も少なくない。古今東西の艦娘なら知らない娘などいないだろう…………
「で、何の用だ?」
「ちょっとした野暮用だよ。新入社員にこの鎮守府を案内していたところだ」
「新入社員?」
「そうだ、今週からにも加わってもらう。提督もいるしちょうどいい」
また、艦娘が増えるのか…………心配していたことが現実になるとは。とことんついてない。
「入ってきてくれ」
その声にこたえるように姿を見せたのは、黒のスーツを隙なく着こなした1人の青年だった。
「
長門の声に合わせて、青年が丁寧に頭を下げた。そして顔を上げたとき、その理知的な目がおや、と見開かれた。
「こっちが君の社長にあたる提督だ。変人と呼ばれているが、いざという時の判断力と生真面目さは天下一品だ。困ったときは彼に相談するといい」
長門の意味不明な紹介にかさばるように青年はつぶやいた。
「隊長じゃないですか」
「ワタル、久しぶりだな」
俺が答えながら眉をひそめたのは、目の前の青年に不快を覚えたわけじゃない。単純に頭痛がしたからである。
ーーーー
「驚きましたよ、隊長、まさかここで頑張っていたなんて」
言葉とは裏腹に、落ち着いた声で告げるかつての部下の前で、俺はおもむろにカップを手に持ち一気に冷えたコーヒーを飲み干した。
「退役した後、どこに行ったか分からなくなってしまったものですから心配しましたけど、相変わらず志は変わってないんですね。さすが、隊長」
「買いかぶりすぎだ。ビッグ7に振り回されているだけだ」
「ビッグ7?」と不思議そうに首をかしげる航に、なんでもない、と俺は首を振った。
当の長門は、俺と航が顔見知りだと知った途端に「あとは、頼む」とどこかに行ってしまった。今では、スーツ姿の品のいい青年と、みすぼらしい姿の青年がいるだけだ。
「とにかく、お久しぶりです。こうして直接会うのは僕が部隊を離れてからですね」
「そうだな、3年ぶりと言うことになる」
なんともないように振舞ってはいるが、心底驚いている。
広瀬航は俺にとっては軍人時代の数少ない知人の1人だ。
あとで知ったのだが、彼はこの街の片隅にある和菓子屋の一人息子だ。生粋の努力家で、人と接するときは常に紳士的かつ頭脳は明晰という模範的な兵士だった。銃を片手に終始戦いに明け暮れ「軍神」という名をほしいままにしてきた俺とは違う意味での評判の良さであった。
はっきり言って俺と航は対照的なのだが、同じ部隊に所属し、軍人時代の多くをともに過ごしたのは奇縁というほかはない。途中でその優秀さから海軍に引き抜かれ、司令官として優秀な人物として名を馳せ、俺は優秀な兵士とそれぞれ道は分かれたが、こうして顔を合わせると、自然と懐かしさがこみ上げてくる。
「ここにくるのなら、連絡の1つしてくれてもいいだろう。いきなりやってきて驚かせるなんて君らしくもない」
「すいません。まさかここで頑張っているとは思わなかったもので…………僕もとても驚いているんですよ」
口では言うものの驚いているようには見えない。昔と変わらず穏やかな風貌に、人の
「今じゃ、"ついったー"だの"らいん"だのいうものが発達しているが、使わなければ役にも立たない典型的なタイプだな」
「そういう隊長こそ、連絡をくれたのはいつですか?」
「そうだな…………君がいなくなって2年後か。ちょうど君に子供が生まれたときだったかな?」
そう言いつつ、「とにかく、座ってくれ」と目の前のソファを示した。
「だいたい、最強の艦隊を作り上げ、大作戦でも成功を収めた君が、なぜこんなところにいる?今頃は海上自衛隊のお偉いさんにでも出世してるはずだろ」
「いろいろありまして…………」
航は微笑を苦笑に変え、肩をすくめた。
まぁ、ワケありってなことだ。多くは語らないかつての部下に、俺も無闇には聞かない。古い付き合いだ。話したくないことを聞くのは、礼儀に反する。
「まぁ、いい。せっかくの再会だ。とりあえず、部下の凱旋を、心から祝福しよう」
「出世も何もしてませんから、身1つで帰郷してきた僕に凱旋と言ってくれるのは隊長だけですよ」
「出世?馬鹿か。世の中、出世すれば、責任と義務と窮屈が増すだけだ。わざわざ肩書きのために苦労するのは面倒だ」
俺の言動に、航は軽く目を見開いてから、楽しそうに笑った。
「本当に相変わらずですね」
そう言って笑えば、この鎮守府には不似合いな爽やかな風が執務室中に広がる。
あくまでなんでもないように、コーヒーを2人分用意する俺に、航はふいに両手で構えて剣を振る真似をしてみせた。
「隊長、あなたと話しているとまた一戦やってみたくなりました。5年ぶりのお手合わせ、できますか?」
俺は軽く眉をひそめる。
軍人時代、一対一で取っ組みあったものだ。
「それとも、もう身体が動きませんか?」
「それほど衰えとらん」
俺は一瞥してから、湧いたポットを持ち上げつつ、淡々と答える。
「辞めたとは言ってもトレーニングを欠かさなかった俺に君が勝てると思っているのか?」
航は小さく笑ってから、ふいに声を低くしてつぶやいた。
「…………頭が良くても、その通りに身体が動かなければ意味がない」
「自分の身体が1番動きやすい戦い方が1番。よく覚えてるじゃないか」
「ええ、地面に叩きつけられるたびに、言われましたからね。もう頭にこびりついて忘れられませんよ。ただ、今の時代は艦娘たちが戦うからこの教えも広がりませんでしたけど」
「しょうがないさ。もともと俺らの部隊はアウトローな存在だ。積極的に俺らの考えを学ぼうとする奴はいない」
隊員もみな若く、与えられた場所も少ない。訓練も隅っこでやっていた。ときどき、通りすがりの他の兵士たちが興味深そうに覗いてはきたが、入隊を希望するものは少なかった。当然といえば当然だが。
「本当に懐かしいです。たしか500回ほどやって、499勝でしたかね?」
「俺がな」
「分かってますよ」
卓上に1つカップを置き、もう1つを手に持ち、目の高さまで上げた。
「いずれにせよ、歓迎するぞ、ワタル」
一口飲んで、決まり文句を言った。
「ようこそ、民間軍事会社"鎮守府"へ」
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前日2時間しか寝てないようが、翌日はしっかりと執務はある。
提督業の恐ろしいところは、翌日からでも通常通りに執務が始まるところだ。夜、艦娘が「お疲れ様でした」などと達成感にあふれた顔をして部屋に戻って行くのを見ながら、俺は夜の執務をこなす。そして、「おはようございます、今日も頑張りましょう」と言われる頃にはすでに満身創痍だ。
ずいぶんとひどい職場環境だが、この鎮守府はこのスタイルのおかげで成り立っている。いまのところ、このスタイル以外で執務をこなす方法もない。これはどの鎮守府にも言えるだろう。
特に最近は、徹夜で働かせたあげくに寝不足から不注意が少しでも起き、問題が発生するとすぐさま非難の的になる世の中だから困ったもんだ。
こうして、軍隊と国民の間には、心ない上部の関係が積み上げられ、互いの歩み寄りをより困難にしているんだ。
まったくやりにくい世の中だ…………、と思ったところでハッと目が覚めた。
顔をあげるとモニターが目の前にある。
いつのまにか、キーボードに突っ伏してうたた寝していたらしい。モニター上には、gの文字が何ページにもわたって入力されている。突っ伏した頭でキーボードを押してたようだ。慌てて全て消す。そして、時計を見ると夜の9時。
夜9時だ。
日中の執務をかろうじてこなして、午後に演習の様子を見て、工廠に行って…………なんやかんやして、執務室に戻ってきたのが8時頃だ。そのままパソコン作業に入ろうとして気を失ったらしい。こんな時間では執務室に入る暇人もいない。
「ずいぶんと顔色が悪いですよ、提督さん」
いきなり前方から声が聞こえて、声が出るほど驚いた。
気づけばソファには、橘さんがいた。
「そんなに驚かなくてもいいでしょう」
血の気のない顔に穏やかな笑みを浮かべる。
「相変わらず気配がないですね、橘さんは」
「徹夜ですか?なんだかたましいが抜けたような顔をしていますよ」
どちらかというと橘さんも抜け殻のような風貌だが、そんなことは言えない。
「叢雲さんに聞きましたよ。依頼の電話が朝で15件。それに午後に演習も…………私も海上自衛隊のときはそれなりに忙しかったんですが、さすがに平日にそれはちょっと普通じゃないですねぇ」
「俺にとっては、いつも通りなのですが…………」
できるだけの虚勢を張って言ったが、負け惜しみじみている。
「先生こそ、疲れの色が見えます。もう何日泊まり込みですか?」
「はて、3日…………いや4日…………いやいや5日でしたかな?」
青白い顔を少しかしげて言った。
橘さんは、艦娘の装備のためなら何日でも工廠に泊まり込む習性がある。一見するとただの老人だが、この鎮守府ではなくてはならない存在である。
ゆっくりと立ち上がった俺に橘さんは問うた。
「やっとお休みですか?」
「いいえ、見回りです」
一瞬沈黙した橘さんは、やがて苦笑とともに手をひらひら振った。
「お気をつけて」
ーーーー
鎮守府をぐるりと回って、再び執務室に戻る。
夜の鎮守府では艦娘は業務を終え、自由時間を満喫していた。
徹夜で疲れた提督が、ひどい顔をして回ったところで、彼女らの休みに差し支えることはない。そのまま、執務室のドアを開けたところで、明るい声が聞こえた。
「大丈夫?ひどい顔よ」
叢雲だ。切れ長の瞳が、少しばかり呆れた顔で見ている。
「日本語は正確に使ってくれ。顔がひどいんじゃなくて、疲れがひどいんだ」
「どうでもいいけど、いい加減休みなさいよ。提督は1人しかいないんだから」
「そういう君も一日中出撃してただろう?なんで、ここにいるんだ」
「今回はいろいろあったのよ。そしたら、ふらふらしてるあんたを見たの」
軽く肩をすくめて、いつものようにコーヒーを淹れた。
「とりあえず、遅くまでお疲れ様」
ことりと机に置かれたカップからコーヒーの良い匂いがする。ソファに座り一口飲めば程よい苦味が鈍った脳を覚醒させる。同じ原材料を使ってるのに、俺がコーヒーを淹れるとまったく別物のように感じるから不思議だ。
「本当に美味しいな。ありがとう」
「ん、珍しいわね、素直に礼を言うなんて」
「俺はいつも素直のつもりだが」
「"つもり"でまともに伝わったことないじゃない。わざわざ遠回しに言って…………頑固なじいちゃんみたいよ」
「俺がじいちゃんなら、君はばあさんだな」
「…………コーヒーいらないのね?」
「ジョークだ。叢雲は美人で有能で若くて独身の艦娘だ」
「余計に頭にくるわね…………」
冷ややかな目になった。それでも手先は要領よく動いて書類を仕分け始めている。
「とにかくそれ飲み終わったら休みなさい。あんたがいなくなったら、私も対応しきれないから」
「そういうわけにもいかん。まだ、やるべき仕事が…………」
「あとは私がするから大丈夫よ。それよりも、あんたが倒れる方が迷惑よ」
まったくもっての正論だ。反論の余地がない。
とりあえず、表面だけでも平然を装いながらコーヒーを傾けていると、デスクワークを続けながら、何気なく叢雲は口を開いた。
「そういえば、新しくやってきた広瀬さんって、知り合いなの?」
「昔の部下だ。なんだ、早速やらかしたのか?」
「違うわよ、むしろ艦娘たちが夢中になってるわ。あっちこっちで、広瀬さんの噂ばかり。カッコいいとか優しいとか知的とか」
航が既婚者であることをわざわざ言わない。世の中、妄想と勘違いで成り立っている。わざわざ口に出して、不評を買う必要もない。
「まぁ、ワタルは昔からモテるやつだった」
「珍しいわね、提督が素直に褒めるなんて」
「珍しくないだろう、熊野のようなやつと一緒にいれば、ワタルくらいなると褒めるようになる」
「わたくしがどうかしましたの?」
いきなり頭上から聞き慣れた声が降ってきた。
顔を向けてみれば、お嬢様がニヤニヤと見下ろしている。
「わたくしの噂ですの?」
俺はたちまち眉をひそめる。
「重巡が執務室に何の用だ?ここは仕事する場所だ。ただ休憩しにきたのなら帰ってくれ」
「いいえ、用事があってきましたのよ」
「では、早く済ませてくれ」
「あなたに会うことですわ」
答えて、俺の隣に座る。
熊野は、俺が軍人の頃、しばらくの間共同戦線を張っていた仲だ。
「ワタルさんが来たのは本当かしら?」
紅茶の準備をしながら、そう告げる。いつの間にやら、熊野の紅茶セットも常備されている。
「ああ、本当だ。一応、補佐として赴任している」
「こんな田舎にある鎮守府に同僚が3人だなんて、すごいですわね」
「外見も行動も奇妙なお嬢様とは違って、ワタルは"期待のエース"と呼ばれた男だからな。近年稀に見る朗報だ」
こういう小さな鎮守府だと、補佐がいるだけで状況がかなり変わる。が、熊野は、俺の言葉とは裏腹に沈黙した。
「なんだ、しけた顔をしているな。ポジティブの塊の熊野にしては珍しい。気になることがあるのか?」
「いえ…………ワタルさんが元気ならそれでいいですわ。気にしなくても構いませんわ」
「余計に気になるぞ」
「いいんですわ、わたくしもワタルさんに会うのは久しぶりですので、楽しみですわ」
そう告げ、先ほどの憂うような顔はなくなり、いつもの能天気な顔に戻っている。さらには、叢雲に向かってニヤリと笑った。
「ねぇ、叢雲さん、提督がどうしてワタルさんを褒めるのかご存知?」
「どうしてって、理由でもあるの?熊野」
「実はありますのよ、これが」
「熊野、こんなところで油を売るほど暇か?」
「暇ですわ。実はですわね、わたくしと一緒にいた軍人時代、軍隊中に有名になった"三角関係"があったんですのよ?」
それまで興味なさげにキーボードを打っていた叢雲が、ふいに態度を変えた。
「それって、提督の
冷静沈着の叢雲が珍しく、大きな声を出し、興味津々に熊野を見た。
「知りたいですわよね?」
「ええ、興味深いわ」
身まで乗り出して答える叢雲に、俺はげんなりして言う。
「叢雲、やめておけ。なんのオチもないつまらん話だ。聞くに値しない」
「そんなこと、関係ないわよ。提督って、自分の昔話全然しないじゃない。口開けば愚痴しか言わないし」
「当たり前だろ。面白くない過去話をするくらいなら、今の世の中に物申す方がよっぽど建設的だ」
「はいはい、でも私はあんたの昔話が聞きたいわ」
「…………長門にでも聞け」
「そういう意味じゃないわよ」
いくらか問答を繰り返したところで、叢雲はふいに我に返ったように口をつぐみ、目を細めた。
「…………また話を変えようとする」
ちっ、と胸中で舌打ちをする。さすが、叢雲。この手の手段じゃ、通用しないらしい。
「で、熊野、話の続き聞かせて?三角関係」
「あれはわたくしたち艦娘と提督の部隊が協力して、ようやく慣れてきた頃でしたわ。提督たちの部隊は少々関わりにくかったんですけど、その部隊に現れたのが…………」
「川内、熊野が夜戦したいそうだ」
俺が必要以上に大きな声で言った途端、ドアがバタンと開いた。
俺の声にやってきた川内は、すでに目を爛々と輝かせている。
「夜戦!?熊野が夜戦したいって本当!?」
夜にもかかわらず元気な声でやってきては、熊野も話を中断せざる終えない。
「いえ、そんなことは…………」
「そうだ。一緒に夜戦してやれ」
「やったー!行こ!熊野!」
「え?ちょっと…………提督!?」
明らかに行きたがっていない熊野を引きずるように川内は執務室を出た。
あとは呆れ顔の叢雲が残るだけだ。
「うまくかわしたわね」
「何度も言うが、つまらん話だ。そんなことで、有能な艦娘の時間を潰したくない」
「そ、心遣い感謝するわ」
答える叢雲はなにやらひとりで嬉しそうな顔だ。
「…………なんで、笑ってる?」
「どっちにしろ安心したわ」
「何に?」
「提督も人並みに恋する時期があったんだってね」
少し誤解しているようだ。
「俺をどんな目で見てるんだ」
「艦娘の状態と運動にしか目がない、トレーニングオタクね」
「なら、提督になる前は、ただのトレーニングオタクだな」
「そうね。でも、熊野の話だとそれなりに楽しんでたようね」
「冗談よしてくれ」
「で、広瀬さんと女性を取り合ったの?」
「まさか。あの時は、今以上に戦闘オタクだ。そうじゃないとしても、ワタルがモテるのは自明の理だから、驚きもしないが」
「広瀬さんが好青年なのは認めるけど、提督もなかなかものと思うわよ。隠れファンも結構いるんだから」
意外な返答がきた。
「なら、隠れず出てきてほしいな」
投げやりに言う俺を、叢雲は優しげな瞳で見下ろす。なぜかは分からんが負けた気になってくる。
はぁ、とため息をついたところで、叢雲はふいに手をポンと打った。
「大事なこと忘れてた。その好青年の話になるけど、連絡が取れなくて困ってるのよ。今度会ったら気をつけるように言っておいて」
「連絡が取れない?」
「ええ、軽巡の管理を頼んだんだけど、神通が聞きたいことがあって連絡したらしいけど、全然繋がらないんだって。今はまだ大きな問題もないからいいけど、もしものときに困るから」
赴任初日から航は軽巡の管理や指揮を任せてある。相変わらず容赦ない職場だ。
「分かった」
「よろしく、それから提督、仕事は片付けたから、せめて日付の変わるまでには寝なさいよ。あんまりこき使うとファンに恨まれるから」
「どうせなら1人くらいファンを教えてもいいだろ?」
「そうね…………駆逐艦の朝潮ね。大ファンよ」
額に手を当てる。それは隠れじゃないだろ。
「ちなみにファンクラブ最年少」
「そうか、光栄だな」
言って俺は立ち上がった。夜10時。連続38時間労働をようやく終えた。酷使もいいところだ。
そして、何日振りの自室へと帰路である。
これからの投稿のスタンスですが、リクエストがあり次第閑話を、なければ本編を投稿しようと思います(理由は閑話の話が全く思いつかないからです)。
活動報告のアンケート欄にてリクエストをしてください。
次回もお楽しみに。