鎮守府の一角に、鳳翔さんが営む居酒屋がある。
もともと何もない部屋だったが、鳳翔さんの強い要望のもと貸し出したところ、あっという間に立派な店に変わっていた。軽空母の酔っ払いどもがよく通っているが、俺も時折訪れる。
暖簾をくぐれば、落ち着いた雰囲気に飲み込まれる。そこに悠然と姿を見せたのは、頭に不思議な機械のついた艦娘であった。
「お、提督じゃねぇか」
我が艦隊の切り込み隊長の天龍だ。
不敵な笑顔とともに、右手の杯を持ち上げた。
「もちろん、飲むよな?」
残念ながら健康志望の強い俺は酒は飲まん。俺はニコリともせず、首を横に振った。
「珍しい事もあるんだな、提督」
酒の入った杯を一気に飲み干して、俺を見返した。
「昼間っから、ここにいるなんて」
「今日は珍しく、依頼もないんだ。電話が鳴る前にここに逃げてきた」
俺としては、真昼から酒を飲んでいる方が気にかかるが今回は置いておこう。
とりあえず、俺は鳳翔さんに腹の膨れるものを頼む。
「最近は、ひどい顔で仕事してみんな心配してんだぜ?まったく仕事ばっかりしてるから」
「季節が変わったところで状況が変わるほど鎮守府の問題は簡単じゃない。こんなひどい環境に飽きもせず残ってる。それでもこれからは、1人補佐がきたから救いもあるだろう」
「へぇ、その補佐が、提督の元部下ってわけか?」
「そうだ、まったく奇遇だ。頭は良かったんだが、君と同じくらい負けず嫌いな男でな、軍人時代はさんざん手合わせを受けたもんだ。横須賀鎮守府で活躍してたのにどういうわけかここに来たんだよなぁ…………」
鳳翔さんの出した、鳥の唐揚げを頬張る。間宮さんのも美味しいが、個人的には鳳翔さんの作る唐揚げが好きだ。
「ワタルは、奇人変人の集まる我が部隊において、"期待のエース"と呼ばれてた。秀才な上に、篤実な性格のできたやつだ」
ふいに天龍は杯を傾けたまま、ニヤリと笑った。
「もしかして、女が絡んでるのか?」
「な…………!?…………鋭いやつだ」
「褒めるなよ。まぁ、提督もそんな時代があったんだな」
「まるで、俺が隠居した老人みたいなこと言うな。ほんの数年前の話だ。"陸海三角関係"といえば、軍の同期で知らない奴はいない。戦闘狂と思われた軍人が、女性に興味を持ったと、誰もが噂してたもんだ」
いくらか投げやりに告げ、唐揚げを口に頬張る。
「可愛かったのか?」
「俺を筆頭とした変人の集まる部隊に、物怖じせず、顔を出す魅力的な女性だった。まぁ、俺が敵を倒すことに夢中になっているうちに、気づいたらワタルと引っ付いていたという話だ。オチもヤマもない」
我ながら珍しく昔話を語っていることに驚いている。
「提督にも青春時代ってあったんだな」
「俺をなんだと思ってるんだ…………」
「変人か、トレーニング馬鹿か…………」
「分かった、分かったから、やめてくれ」
どうやら俺はロクでもないやつと思われているようだ。失礼なものだ。俺とて普通の人間だというのに。
そんなタイミングで、1人また来客したようだ。
「お邪魔するクマー」
暖簾をくぐったのは、栗毛色の髪でバネのようなアホ毛が特徴的な艦娘だ。もっとも、特徴的なのはアホ毛にとどまらないが。軽巡球磨は、隅っこで飲んだり食ったりしている俺たちを見つけると手を振りながらやってきた。
「久しぶりクマー」
「あ、ああ。たしかに久しぶりに会う気がするな…………」
提督として、社長として恥ずかしい話だが艦娘たちの仕事に顔を出すことができない。そのため、球磨のようにほとんど顔を合わせる機会がない艦娘も何人かいる。
「提督の話は天龍から聞いているクマ」
「あえて聞かんが、まともじゃないことだけはたしかだろう」
「そうかクマ」
「まぁ、好きなように思っててくれ。所詮、俺が介入するところじゃない」
「あ、球磨も日本酒がいいクマ」
「…………天龍、こいつも酒を飲むのか?」
「そうだぜ?俺と同い年なんだからあったりまえだろ?」
俺が思わず頭を抱えれば、球磨は受け取ったグラスをそのまま一気に飲み干した。
「結構な飲みっぷりじゃないか。天龍と同い年なら成人したての若者のはずだが…………そうとは思えんな」
「そうかクマ?まぁ、大きな声では言えないけど前から飲んでたクマ」
「俺としては酒を一人前に飲む前にやるべきことはいくらでもあると思うぞ。物事には順序がある。未成年が酒を飲むなど、"国のため"に戦いますと言うぐらい愚行だ」
「"国のため"じゃダメクマ?」
「"国のため"がダメなんかじゃない。よく考えずに"国のため"と言うのがダメなんだ。周りの人たちのことを考えもせずに若者はこぞって"国のため"などと言うから馬鹿馬鹿しい。国のために戦ったところで得るものはない」
「そうかクマ。ダメクマか」
「その前に、その"クマクマ"言うのをやめてくれんか?実害はないはずだが、どうも料理の味が落ちる気がする」
「そうかクマ。ダメクマか」
神妙な顔つきをする球磨に声を荒げるのも大人げない。ため息混じりに言った。
「…………いい、好きなようにして」
そんなやりとりを、天龍は面白そうに眺めている。
「長門が不在だと、提督は不機嫌だからな」
「ホントかクマ?」
目を丸くしてこちらを見る。
好きにしてくれとは言ったものの、やはり"クマクマ"が耳についてどうも話の据わりが悪い。まぁ、こちらも口を開けばまともなことを言っていないので、無下に押し切るのもよくない。
「もしかして、提督って結婚してたのかクマ!?」
「なぜそうなる。古い付き合いだが、結婚はしとらん」
「へぇ…………結婚"は"ねぇ?」
「今日はえらく機嫌がいいようだな、天龍」
胸中舌打ちしつつ、水を飲み干す。いかん、酒の匂いにでもやられていらんことを言うようになったようだ。
「まぁ、今日からでも球磨と仲良くしてやってくれ」
「よろしく頼むクマー」
2人がグラスを傾けば、たちまち俺の頭痛は増す気がする。まぁ、こうやって普段会わない、艦娘と話をするのも悪くはない。
ーーーー
提督ファンクラブ最年少の朝潮が最近、元気がない。
もともと姉妹や友人がいたらしいのだが、ここへは1人でやってきている。
「3日ほど前にはいつもの笑顔を見せてくれてたんだが…………」
ため息混じりに、駆逐艦たちの演習の様子を見れば、朝潮の表情に明らかに翳りのある。
「私が大丈夫?って聞いても、大丈夫の一点張りよ」
告げたのは、叢雲だ。
午前中の執務を終え、珍しく午後はのんびりできると散歩に出ようとした瞬間、叢雲に呼び出しを食らったのだ。
「せっかく今日はゆっくりできると思ったときに、悪いわね」
「問題ない。艦娘の状態が良くなければ、出向いてくるのが提督の仕事だ」
海の上では、朝潮が1人孤立して動いているようにすら見えてくる。
一通りの演習を終えて、朝潮は俺の姿を確認するとすぐさま駆けつけた。
「司令官、今日もご苦労様です!」
「ああ、朝潮もお疲れさん」
この後、俺は何を言えばいいか分からなくなった。しばらく、沈黙を続け、意を決して聞いた。
「朝潮、寂しくないか?」
「…………大丈夫です!」
大丈夫じゃないだろ、とは言えなかった。朝潮が俺のことを気遣っていることが痛いほど伝わるのだ。
小さな瞳が、窺うようにじっと俺を見つめている。
「…………そうか、ならいい。これからも頑張れよ?」
「はい!」
元気よく答える声は、今日に限って安心できる声ではなかった。
ーーーー
「なんとかしてあげたいわね…………」
叢雲が珍しく気遣わしげにそう言ったのは執務室に戻ってきてからだ。俺は、朝潮について書かれてある書類を眺めながら、眉をひそめた。
「数少ないファンクラブのメンバーだ。俺もなんとかしてやりたいが…………」
「できないの?」
「できないわけではないが…………難しいな」
朝潮が前に勤めていた鎮守府に姉妹がいることが分かったのだが…………どうやら、主戦力として働いている。民間企業が自衛隊から主戦力を引っこ抜くなど聞いたこともない。
「少し話だけはしてみる。だが、相手すらしてもらえない可能性もある」
そう、と応じた叢雲のもとに、1人の艦娘が困惑顔で駆け寄った。茶髪に緑のリボンをつけた、どこか頼りない様子の艦娘だ。神通のたどたどしい報告を聞いて、叢雲は顔をしかめた。
「どうした?」
「軽巡にも少し見てほしい娘がいるのよ。見てくれる?」
「見るのはいいが、ワタルが担当しているだろう?」
「連絡がつかないのよ」
言いながら叢雲が渡してきた書類を見れば、"那珂"と書かれている。
俺が眉をひそめるのと叢雲がため息交じりにに答えたのは同時だった。
「…………また、ワタルと連絡が取れないのか?」
視線を神通に向ければ、おどおどした様子で、
「は、はい…………休日とか平日の夜とかは、結構電話がつながらないことが多いんです。軽巡は演習とか、ワタルさんに見てもらうので、いくつか問題が…………」
「ワタルは超がつくほどの真面目なやつだ。軽巡を担当しておきながら、連絡が取れなくなるようなことが、あるとは思えんが…………」
困り果てた顔をする神通に変わり、叢雲が答えた。
「思えなくても実際にそうなってるからしょうがないでしょ。提督の見る目を疑うつもりはないけど、最初の印象ほどまともな人じゃないみたい」
珍しく叢雲が毒を吐いていることは、口に出している以上にトラブルが多いのだろう。叢雲は、小さなことを大げさに言うタイプではない。
俺の胸の中にあるのはむしろ意外だ。
久しく会ってなかったとはいえ、彼は志の高い男に違いはない。部隊を辞めた後も、指揮官として、才能を磨き、若輩ながら横須賀鎮守府の提督を務めたほどだ。なによりもあの男の人に向ける真摯な態度を、俺はよく知っている。
どうも雲行きがあやしい。
「とにかく、那珂の演習を見よう」
言えば、神通が緊張した様子で先立って案内を始めた。
ーーーー
広瀬航の評判が悪い。
赴任して早々の浮ついた評判はなくなり、10日間で少しずつ、だがたしかに苦情が聞こえるようになった。
昼間はあまり軽巡のもとへ来ない。夕方になればすぐに帰ってしまう。夜、連絡が取れないのはいつものこと。物腰は穏やかでも、明らかに現場とは距離を置いた行動が、艦娘たちの不信感を煽っている。
担当である軽巡寮では、さすがに航も気を配っているのか、それほどトラブルはないが、比較的接点の薄いほかの寮ではすこぶる評判が悪い。艦娘によっては直接、航の問題行動を訴えてくるほどだ。
当初は半信半疑で傍観していたが、さすがに黙ってもいられなくなった。しかし、俺は四六時中執務に追われている身であり、顔を合わせる暇もない。やっとの思いで夜に仕事のめどがついても、航は鎮守府から姿を消しているから困ったもんだ。
かくして当惑のまま時間が過ぎていった。
ーーーー
「どういうつもりですの、ワタルさん!」
朝の7時半に鎮守府に響いたのは、熊野の声だ。
早朝の閑散とした鎮守府内に、険悪な空気が漂う。出てきたばかりの俺は、何があったのか分からなかった。
書類を持って歩いていた航に、熊野が見たこともない剣幕を向けているのだ。対する航は、落ち着いた様子で熊野を見ている。
「軽巡は貴方が担当ではなくて?」
「うん、紛れもなく僕だよ」
「なら、なぜ貴方が軽巡の演習に来ないのですか?」
「軽巡の能力はある程度把握している。だから、僕が見たところで何かできるわけでもないし、隊長に対応を頼んだからといって、不都合があったとは思えないけど…………」
「そういう問題ではないですわ。貴方は軽巡の担当ではなくて、と聞いているのですわ」
「もちろん彼女らの担当だ。担当者としての役割は十分果たしているつもりだ」
平然と答える航に、さすがの熊野も戸惑ったようだ。
「なんですの…………貴方らしくありませんわ」
論理的ではない熊野の言葉だが、今回ばかりは俺もまったく同感だ。
「仲間に何かあれば駆けつける、それが広瀬航ではないのですの?」
「熊野は変わってないね…………」
独り言のようなつぶやきの中には、俺の知らない男の冷淡さが見えている。
「自分の信念に従って進む。それはいいことだと思うよ。でも、自分とは違う信念を持っている人もいることを忘れているんじゃないかな」
「ワタルさん…………」
「僕は僕の信念に従って進む。手を抜いているつもりはないよ」
廊下の片隅に立つ俺からは2人の顔は見えないが、少なくとも熊野が唖然として立ち尽くしている様子は分かった。
しばらくの沈黙は、嫌な緊張感をはらんでいた。俺はただ黙って眺めるしかない。ほかに誰もいないのがせめての救いだ。
その沈黙を破ったのは、熊野の押し殺した声だった。
「ワタルさんが勤めていたのは横須賀鎮守府でしたわね…………」
熊野の唐突な言葉は、意外にも大きな効果をもたらした。身を翻して、戻ろうとした航が、動きを止めたのだ。
「…………そうだけど、横須賀鎮守府がどうしたんだい?」
「どうもありませんわ。ただ…………」
「なら僕に構わないでくれるかな」
冷ややかな声が響いた。
その声にたじろぐ熊野に構わず、感情のない声が続く。
「自衛隊の頃のような身分じゃないんだ。仕事の邪魔になるから、構わないでくれと言っているんだよ」
「なんですって!」
さすがの熊野のも大きな声を出した。ほとんど掴みかからんばかりの剣幕だ。
「止めなくてもよいのですか?」
いきなり耳元に声がきこえ、仰天した。振り返ってみれば、橘さんが立っていた。
「び、びっくりしました。いつからいたんですか?」
「初めからですよ」
邪気のない笑みが応じる。
「7時から、延々と同じような口論をしてるんです。理屈じゃなくて哲学の問題ですから、決着はつかないと思うんですがね」
右手の湯呑から、煎茶をすする。
視線を戻せば、ちょうど航が立ち去っていくところだった。熊野の呼び声すら無視して、廊下を渡っていく。去り際に一瞬でも俺たちの姿に気づき驚いたようだが、言葉は発さずらそのまま去っていった。
俺が額に手を当てたのは、最近いなくなった片頭痛が再び遠くからやってきたからだ。
ふいに目の前に、湯呑が差し出された。
「提督さんも飲みますか?」
顔を上げれば、かすかに苦笑を交えた橘さんがいる。
「煎茶は頭痛に効くんですよ」
俺はありがたくこれをいただいたのである。
ーーーー
鎮守府の裏には港がある。
そこは基本的に俺や長門の休息の場所であったが、今ではここに来る暇さえない。
そんな港で立ち尽くして、一服しているのが、広瀬航だ。夕暮れの光を浴びて、煙草の煙が漏れる。これはこれで風流に見えるから、皮肉だ。
「煙草、吸うんだな」
声をかけた俺に、航は驚いて振り返り、すぐに苦笑した。
「隊長。今朝はどうもすいません。ちょっと疲れていたみたいで…………」
素直に謝る航の姿は、昔とまったく同じだ。
俺は隣に並び、懐から缶コーヒーを取り出した。
「酒も煙草もしていなかったはずだが…………いつのまに喫煙家になったんだ?大和が見過ごすとは思えんが」
大和、彼女がかつて"三角関係"のもう1人である。航が部隊を辞めたのと同時に航と籍を入れたはずだ。
セブンスターを指に挟んだままワタルは苦笑する。
「こんなに早く見つかるなんて…………隊長も一服しますか?」
「結構。いたずらに肺を壊すような真似はしない」
「厳しいですね」
「加えてここの艦娘たちも、煙草の煙が苦手なんだよ」
「いい艦娘たちを持ったようですね。長門さんが言ってましたよ」
「そうだな。みんな立派過ぎて俺が霞んですら見える」
ふわりと煙を吐く。
視線をめぐらせると水平線に日が沈まんとしていた。鎮守府から賑やかな声が聞こえるのは、きっと艦娘たちが帰投したのだろう。
「言うまでもないが…………」
おもむろに俺は口を開いた。
「俺はここの鎮守府の艦娘たちを自慢するためにわざわざ出てきたわけじゃない。朝の一件もそうだが、さっきは陸奥からも言われたよ。あの補佐をどうにかしてくれ、ってね」
これは冗談ではない。多忙な中、合間を見つけて陸奥が執務室にやってきてみれば、その手には大きな書類の束をぶらぶらと下げていた。そして、珍しく不機嫌に言ったのだ。
"これ、ぜーんぶ苦情よ"
どさりと机に置かれた書類を覗くと、さまざまな艦娘たちからのクレームの書類だったのだ。
"提督の友達は、仕事を減らすどころか増やしているわよ…………"
ぽつりと呟くように言った。
いつもは「あら、あらあら」と感情の読み取れない娘であるが、今回ばかりは簡単に読み取ることができた。口元には薄い笑みが浮かんでいるが、目が笑っていない。冗談など通じるわけもない。
長門の妹なだけあり、仲間へ対する思いはとても強い。そんな陸奥の目に航の行動がどう映っているのか、想像するだけでも恐ろしい。
"ねぇ、どうしたらいいと思う?"
また難しい質問だ。
"放ってもおけないわ。でも、私からは強く言えないわよ?もちろん、提督が忙しいのも分かっているけど…………昔の知り合いなら、ねぇ?"
簡単に言えば、俺がどうにかしろ、ということだ。
もちろん、拒否権などない。極めて難しいこの問題を俺は快諾し、半ば逃げ出すように退室したのだ。
航は俺の顔を見て、何か察したようだ。
「僕の知らないところで迷惑をかけてしまっているようですね」
「夜は呼び出しても来ない。休日に至っては連絡もつかない。大量のクレームがきている。おかげで前評判にたいして、鎮守府での君の評価は最低だ。…………本来なら、俺は君の評判が下がろうが知ったことではないが、あっちこっちで君のことは信用できると言った手前もある。無視してしまうと、俺の人を見る目にも疑いがかかってしまう」
「…………つまり、隊長の期待を裏切っているわけですね」
「まぁ、そんなところだ」
俺は平然と告げ、缶コーヒーを傾けた。嫌な苦味が口の中に広がる。
航は、吸い終えたセブンスターを携帯灰皿に押し込み、新たな1本を取り出した。
「隊長、提督とはなんだと思いますか?」
いきなり、呟くように言った。
「哲学は苦手分野だ。そのことついて話したいなら哲学者としてくれ」
「真面目な話ですよ」
「…………提督とは、艦隊の指揮官のことだ。作戦練り、指揮し、必要があれば自らも出向く。が、指揮するのは軍艦ではなく艦娘だ。彼女らに不安が有れば取り除くし、サポートする。辞書にどう書かれているかは知らんが、少なくとも艦娘の演習に来ないなどの態度は指揮するもののそれではない」
「…………おかしいと思いません?」
俺が困惑したのは、航の言葉の意味が理解できなかったからだ。しかし、航はあくまで淡々として続ける。
「僕たちはただ提督であるというだけで、まともな食事も睡眠も保障されてないんですよ。おかしいと思いませんか、隊長」
「何を今さら入隊したての兵士みたいなことを言ってるんだ。そんな理不尽、俺らは百の承知でやっているだろ。それが嫌なら…………」
最後まで続けることはできなかった。かつて情熱のこもった目には、完全に冷めきった、冷徹な光が浮かんでいたからだ。今朝、熊野に見せた俺の知らない男の姿がそこにはいた。
俺が無理矢理言葉を継いだのは、立ち込めかけた嫌な空気を嫌ったのかもしれない。
「…………少なくとも、熊野の言いたいことは君なら分かるだろ?たとえやってあげることが無くても、指揮官がいるだけで、安心感は段違いに上がる」
「安心感、ですか…………」
今度は少しではあるが、口元が歪んだ。それが笑いであることに、数秒ほど時間がかかった。
「面白いことは何一つ言ってないはずだが?」
「そんなもののために休みなく働けるほど、僕たちには余裕があるんですか?隊長」
「…………そんなもの?」
「艦娘の安心感という実態のないもののために、働いていられるほど余裕があるんですか?叢雲さんから聞きましたけど、隊長はこの1年間で1日ぐらいしかまともに休みがなかったらしいじゃないですか。それでいいんですか?」
「いいか悪いかではない。理不尽な環境の中で、1番マシな選択肢を選んでいるだけだ。ただ理屈を並べたいのなら…………」
「長門さんは納得しているんですか?」
唐突な言葉だった。
怪訝な顔をする俺に、航はさらに続ける。
「隊長に家族がいないことは知っています。長門さんや陸奥さんが隊長と幼い頃から一緒にいて家族同然だということも知っています。だからこそ、隊長は1人で生きているわけではないんでしょ?」
淀みない声、淀みないからこそ、ずっしりと肩にのしかかった。
「問題なんてない。過酷になることは長門から告げられたし、俺も了承した」
「そんな状況自体、おかしくないですか?」
「…………大和がそう言ったのか?」
出し抜けに言った俺の方に、苦いものが広がった。
しかし、口に出した以上、退くわけにもいかない。
「俺が知っている限り、大和は聡明な女性だった。バカ真面目な君と比べても、平和に対する熱意は十二分に備えていた。そんな大和が、君に…………そう言っているのか?」
航は答えない。
「君たちが横須賀で何があったかは知らない。だが、ここは少なくとも横須賀ではない。ここは…………」
「すいません、隊長」
唐突に、そしてあからさまに、航は腕時計に目をやった。
「少し用事がありまして」
それが会話の終了を伝えた。
俺の視線から逃げるように、身をひるがえす。立ち去ろうとするその背中に、俺は大きく言った。
「不満を募らせる人間に、居心地のよい椅子は決して見つからない」
静かな港に場違いな声が響く。
航は足を止めて、振り返った。
「…………ベンジャミン・フランクリンですね。覚えてたんですか?」
「文句を言う仲間に君が投げかけた言葉だろう?」
「よく覚えてますよ」
「なら、俺の言いたいことも分かるだろ?」
航は何も言わなかった。わずかの間をおき、背を向けそのまま立ち去った。
久しぶりに再会した部下が、すっかり変わり、俺は時代の流れという得体の知れない化け物の存在を実感する。実感したところで、何も変わらず、美味しくもない缶コーヒーを飲むしかない。
最近ひどくなってきた頭痛がして、ポケットの中を探したが、頭痛薬はとっくに切らしたことに気づいた。
「あら、あらあら…………珍しいわね」
そんなことを言って姿を見せたのは、先刻直々に航の苦情の書類を渡した陸奥だ。
「提督、煙草吸ってたかしら?」
「まさか。ワタルが吸ったんだよ。あんな煙のどこがいいのやら…………ところで、今は暇なのか?」
「ええ。提督が鎮守府内にいないと電話も止むのよ」
なんじゃそりゃ…………まるで、皆俺がいるのを計らって依頼しているみたいじゃないか。
「広瀬さん、すごく暗い顔してたわよ?」
「願ったり叶ったりだ。少しくらい悩んでくれないと、俺の立つ瀬がない」
「何があったかは知らないけど…………友達は大事にしなさいよ?」
「友達、か…………ワタルには家族はどうなんだ、と言われたところだ」
「家族…………?」
「長門と君のことだよ」
「ふーん…………そう見られているの?」
そう問う陸奥の顔はいくらか赤い。
「さぁ…………少なくとも、ただの知人には見えないだろうよ」
「あら、今日は本当に落ち込んでるわね」
「やめてくれ」
頭の中に浮かぶのは、去り際に見せた航の冷ややかな目だ。ああいう目をする男ではなかったはずだ。
釈然としないまま、俺は頭を掻きむしった。ふいに目の前に缶コーヒーが出された。陸奥が軽く片目を閉じてみせた。
「こういうときに、一服したらいいんじゃない?」
俺は黙って缶コーヒーを受け取った。
まとまらない思考がさらにぐちゃぐちゃにかき混ぜられ、掴みようがなくなっていく。そんな中、ただ一つ分かったことは、缶コーヒーはやはり大して美味しくないということだった。