民間軍事会社"鎮守府"   作:sakeu

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 大和という艦娘に、俺が初めて出会ったのは俺が軍部の世界に入って2年目の夏のことだ。そのとき、俺は陸軍からの派遣として横須賀鎮守府に勤めていた。

 出会いそのものは至って普通なものであった。

 俺はいつものようにトレーニングに勤しみ、鎮守府内を一周し終え、一息をいれていたときであった。

 道の真ん中にいる若い女性が、何やら紙のようなものを手に持っていたが、落ち着かない様子で、キョロキョロと辺りを見渡していた。明らかに挙動不審である。しかし、俺はこの後のトレーニング内容を考えるのに集中したく、顔を上げずに考え込んでいたのだが、女性の方は落ち着く気配がない。

 どうしたのかとふと顔を上げると、女性と目があった。合った途端に彼女は思い切ったように口を開いた。

 

「すいません。道を教えてくれませんか?」

 

 張りのあるよく通る声であった。

 俺がしばらく唖然としていたのは、唐突なことで驚いていたわけではない。その当時、俺は散々な評判で"死神"とも呼ばれるほどだった。海軍の中に陸軍の者という異端な奴が手柄を立てすぎたからだ。だから、俺に声をかける者は誰一人いなかったし、俺自身気にしていなかった。だからこそ、その生き生きとした明るい瞳に、迂闊にも怯んでしまったのである。

 ここに配属されたばかりで、迷子になってしまった、と女性は困ったように説明したのち、自らを戦艦の大和と名乗った。すらりとした四肢に膝まで伸びる茶髪のポニーテールが特徴的な女性である。凛とした雰囲気中にどこが幼さが残る顔立ちは、内から溢れる活力に満ちていた。

 まぁ、拒む理由もない。俺はとりあえず彼女に案内をしたのである。

 目的地に着いたところで「必ずお礼をします」と言って、駆け出したが、こちらは午後から訓練が控えていたので、のんびりとしていられなかった。「別にしなくてもよい」とだけ言い背を向けた。名前すら名乗らないのだから、あの時の俺は相当、冷めた奴だったのかもしれない。

 こうして運命の巡り合わせは終わりを告げたかと思われたが、それから半年が過ぎた春ーー俺が始めて隊長を務める部隊が発足したばかりの頃だ。その日はいつものように鎮守府の外に足を延ばした。混雑の激しい横須賀鎮守府の食堂では、自分の食べたいように食べれないので、昼になると近くの定食屋に寄るようにしていた。いつものように迷彩服のまま、路地を歩いていたところで「あ!」と声が聞こえ、振り向いたところ、そこには大和が立っていた。

 

「すいません、案内してくれた人ですよね?」

 

 道のど真ん中で、開口一番そんなことを言う。そして、俺の格好を見て、もう一度驚きの声をあげた。

 

「陸軍の方でしたか」

 

 半年前に比べていくらか顔は引き締まってあり、少し大人びた印象になっていたがら弾みのある声は、変わらない快活さが含まれていた。

「そうだが」とまったくもって芸のない返事をした俺に構わず、大和は、

 

「すいません、あのときはジャージ姿でしたので、てっきり海軍の方かと思っていました」

 

 と言い、迷いのない動作で俺の手を握った。その柔らかな感触に少なからず当惑しているところに、大和は華やかな笑顔で付け加えた。

 

「遅くなって、本当にごめんなさい。でも、ずっと貴方のこと探していたんですよ?」

 

 その一言なら、どんな男もあっさりとハートを撃ち抜かれたことだろう。

 こんな路上ですれ違いざまに気づいたんだから、探していたことは事実であるだろう。さらに言えば、お礼が遅くなったのは、こちらが名乗りもせずさっさと立ち去ったせいであるのに、まるで自分が悪いかのように何度もすまなさそうに頭を下げてから、

 

「兵隊さんは、もう昼ごはんは食べましたか?」

 

 明るい声で問い、いいやと答えると、

 

「それじゃあ、せっかくですからご一緒しませんか?」

 

 と告げ、目の前の店を指し示した。首を動かすと、「レストランマルハク」という、古びた看板が目に入った。

「常連客なのか?」と聞くと、大和は少し恥ずかしそうに答えた。

 

「3日に1度は来ます」

「…………そうか、友達とか?」

「たまにですけど、いつもは1人ですよ」

「1人?」

「一緒に来てくれるような人がいればいいんですけど、私、とてもせっかちで、トラブルメーカーだったりするんですよ。今日も兵隊さんに会わなければ1人でした」

 

 白い歯を見せて、大和は笑った。

 後で知ったことだが、大和はこの横須賀鎮守府の艦隊の中でもエースの1人であった。彼女に取り付けられた大きな艤装からの砲撃は、たまたま通りがかった俺を驚嘆させるには十分だった。自分でせっかちだと言うものの、聡明な感性とポジティブな性格なため、艦隊の中でもムードメーカーの役割も果たしていた。

 そんな彼女に一兵士に過ぎない俺が一緒にいるのだから、側から見れば奇妙な組み合わせこの上なかっただろう。

 いずれにせよ、その日から彼女は昼頃に必ず俺のもとにやってきて、この「マルハク」に誘ってくるようになった。

 俺を見つけては嬉しそうな顔をして、

 

「ここのカレー気に入りました?」

 

 と、問われれば俺は何も言わず、縦に首を振ったのである。その当時は、今以上に口数が少なく、愛想も良くないので一緒に食べていて楽しいのか?と疑問に思ったりしたのだが、顔を見る限りあまり案ずる必要もなかった。

 そんな奇妙な機会を繰り返していき、ある日、「兵隊さんはどんな部隊にいるんですか?」と、問われ「見に来るといい」などと、訳の分からん誘いをしたのである。あまり自分のことを語りがらない俺が初めて自分のことについて言及したものだから、彼女は目を輝かせて「ぜひ!」と言った。のちに「マルハク」の女主人が言うには、「あんなべっぴんさんといながら、黙っているなんて男失格よ」という酷評になる。

 無論、今頃反省したところで過去を変えることは不可能だし、どの時代においても、男にとって女心は解読しがたい難解な問題なのだ。

 我が部隊は、発足当時から妙な連中を従え、なんのためにあるのか側から見れば分からない、意味不明な部隊だった。普通に考えれば、そんな部隊に見学しに来いと言ったところで来るとは思えないが、彼女は興味津々に来たいと答えたのである。

 

「すごいですね!」

「…………艦隊のエースである君には全く敵わない。俺たちはせいぜい、撹乱することしかできん」

「そんなことはありませんよ」

「…………」

「みんな言ってますよ。兵隊さんの部隊のおかげで、作戦がスムーズに進んでいるって」

「大層な評価だな」

 

 俺の言葉は聞く人によっては皮肉とも捉えられるはずだが、彼女は気も悪くした様子もなく、この後も演習を終えたあと、ときおり俺たちの訓練に訪れるようになった。

 訓練とはいっても、すみっこでこじんまりと訓練しているだけだ。

 そんなところにもら彼女はいつもと変わらない明るい光を運び、真剣に見学するようになった。常日頃、妙な訓練してばかりの部隊に女性の明るい声が聞こえて来るようになったのだから、通りすがりの人たちも驚いたに違いない。唯一、まともな隊員の広瀬航と彼女が出会ったのもこの時期だ。

 後の経過については、特に面白いこともないので多くを語る必要もない。

 死神さんは、美しい艦娘にではなく、目の前の戦場にばかり目がゆき、彼女の気持ちに全く気づかなかったようである。彼が戦地で血を浴びているうちに、優秀な部下がさらりと彼女をさらっていったという次第だ。

 この一件は、熊野の言う"三角関係"として、横須賀鎮守府に有名となった。が、実際は三角関係というほどのことは何一つ起こっていない。俺を媒介として、素晴らしいカップルが生まれただけだ。2人の交際が発覚した時の俺は相変わらずトレーニングに勤しんでいた。

 その日は夏で、真夏の夜の下、いつもよりベンチプレスの回数が増えたことを覚えている。

 

 

 ーーーー

 

 

「珍しいですね、提督」

 

 カウンターの向こう側からの声な、俺は記憶の底から現実に戻った。

 居酒屋「鳳翔」のマスターである、鳳翔さんが、苦笑を浮かべてこちらを見下ろしていた。

 

「提督が煙草を吸うなんて珍しい」

 

 一本だけ3時間も前に吸っただけなのだが、さすが鳳翔さんである。的確な指摘だ。俺は水を飲み干して、肩をすくめた。

 

「随分と考え込んでいたようですけど、悩み事でも?」

「別に大したことではありませんよ」

「ふふ、その様子だと長門さんも不在のようですね」

「ええ、少なくとも今週はいませんよ」

 

 少々投げやりな応答にも、鳳翔さんは気を悪くした様子はない。

 時刻は夜10時ごろ。今夜は客が多かった。

 

「最近はこの居酒屋も繁盛しているようですね」

 

 刺身を切り分けながら、鳳翔さんは苦笑した。

 

「水ものです。今日は来ていますけど、日によっては誰1人も来ませんよ」

「1人も?」

「えぇ」

 

 鳳翔さんの細い腕が、繊細な動きで鰹を捌く。苦しいことなのに、あっけらかんとしているのはさすがだ。

 

「でも、最近は熊野さんがよく来てくれますよ」

「熊野が?」

「友人を連れてきてくれます。あの人は相変わらずワインばかり飲んでいますけど、なにせたくさん食べてくれますからね。作りがいがあります」

「熊野にワインはもったいない。ブドウジュースにしてもバレやしません。ぜひそうしてください」

 

 俺のトゲのある言葉にも鳳翔さんは、笑う。

 

「今日は殺伐としてますね」

 

 そう言って、鳳翔さんは杯を1つ取り出し、一升瓶を傾けた。

 

「長門さんの代わりになれるかは分かりませんが、今日はお付き合いしますよ」

「まさか、十分すぎるほどですよ」

 

 そこまで言うと、鳳翔さんは杯を差し出した。

 

「…………ですから、酒は必要ないかと」

「ふふ、こういう時は、お酒が1番ですよ。安心してください。飲みやすいのを選びましたから」

 

 言いながら、鳳翔さんは新しい杯になみなみとお酒を注ぎ、俺の前に提供する。普段から酒を控えろと口すっぱく言っている俺が飲むのも気がひけるが、今夜だけは鳳翔さんに甘えることにした。

 乾杯、と鳳翔さんが杯に口をつけ、俺も応じて一気に飲み干す。

 思わず「美味い」と漏れてしまい、鳳翔さんが微笑を浮かべる。ふいに「いらっしゃい」と言ったのは、新たな客がやってきたからだ。振り向けば、痩せた初老の男性が1人。年季の入った古びたジャケットを着た紳士だ。

 

「おや」

 

 と呟くのと、俺が軽く目を見張るのは同時だった。

 

「提督さんじゃないですか」

 

 そう告げたのは橘さんだった。

 

「妙なところで会いましたなぁ」

 

 俺のすぐ隣に腰を下ろして、橘さんは言った。

 いつもは俺に負けず顔色が悪いが瞳の光は澄み渡っている。ヨレヨレの作業着しか見たことがなかったが、私服姿は町の片隅の小物屋の主人みたいで不思議と愛嬌がある。

 

「それは俺のセリフですよ。ここでお会いするのは初めてではないですか?」

「そうですねぇ…………私も数え切れるほどしか来ていませんから。鳳翔さんの記憶にもあるかどうか…………」

 

 ちらりと橘さんが鳳翔さんの方を向くと、鳳翔さんはニコリと答える。

 

「満さんが来たのは6ヶ月前ですね。待ちくたびれましたよ」

「敵いませんなぁ、鳳翔さんには」

 

 嬉しそうに橘さんは肩を揺らした。

 ちなみに橘満(たちばなみつる)というのが橘さんのフルネームだ。

 

「ようやく仕事が終わったんですか?」

「ええ、珍しく仕事がすべてさばけたものですから。工廠外に出るのは4日ぶりですかね」

 

 これは冗談ではない。橘さんは相変わらず連日泊まり込みで働いていたのだ。

 

「せっかくの帰宅の日なんですが、家には誰もいませんからね。そんな時はここに寄るようにしてるんです」

 

 言いながら、「ぬる燗を1つ」と穏やかに告げる。

 届いた一杯に口をつけ、幸せそうに目を細めた。

 

「それにしても、今日は一段と冴えない顔をしてますねぇ」

「いやいや、ご冗談を」

「冗談じゃないですよ。広瀬さんの件でしょう?」

 

 何も見てないようで、相変わらず橘さんの目は的確だ。

 

「久しぶりに出会った部下が、すっかり変わってると、困惑せざるを得ません」

「変わっていましたか」

「ワタルのアホがあれほどアホになっているのは予想だにしませんでした。昔のように説教してやろうかと思いましたが、逃げ足が速くて…………」

 

 橘さんは、楽しそうに笑いつつ、お酒を水のように飲み干し、おかわりを所望する。

 

「まぁ、考えすぎもいけませんよ。彼には彼なりの信念があるかもしれません」

「橘さんは寛容ですね。俺も見習いたいものです」

 

 酒の勢いなのか、普段の毒よりもさらに強い毒が言葉に含まれる。

 

「彼には熊野さんや提督さんのような素敵な友人がいますから大丈夫です。1人じゃないことはとっても重要なことなんですよ?」

「俺の様な口を開けば愚痴を言う変人と、熊野の様なお嬢様かぶれが友人とは、ワタルも恵まれない男です」

 

 俺の言葉に、橘さんは可笑しそうに笑った。

 

「友人とは、そんな曲者ばかりですよ。私だって、まともな人なんていやしませんでしたから」

「あら、それでは私もまともな人ではないんですね?」

 

 ここに来て意外にも鳳翔さんが口を開いた。

 

「そういえば、お二人は俺に出会う前からの付き合いでしたね」

「そうなりますねぇ…………彼女が子供の頃からの付き合いですから」

 

 俺が一杯飲むうちに三杯消える。

 いくら飲んでいても橘さんの顔色は、青白い。

 

「しかし、橘さんは俺が生まれる前から延々と深海棲艦と戦ってきたことになります」

「戦うと言われると少し違う気もしますけど…………まぁ、そうなりますねぇ」

 

 まるで今気づいたかのように目を細めた。

 そのまま、「もうそんなになりますか…………」と呟きながら、三杯目をするりと飲む姿は、どこかの仙人のようだ。

 

「橘さんは、ずっと昔から日本の平和を支えてきたんですね」

「かの友人と、大切な約束をしたんです。だから、辞めるわけにもいかないんですよ」

「約束?」

 

 突然の言葉に、俺は橘さんを見返す。

 

「"この国に、誰もがいつでも楽しめるために、平和な海を"。それが私の友人の口癖でしたよ。そのために尽力しようと、学生の頃に約束をしたんです。まだ、果たせていませんが」

 

 可笑しそうに肩を揺らす。

 

「そんなことがあったんですか…………」

「肝心の友人は亡くなってしまいましたけどね。だから、私だけでも約束を果たそうと」

 

 鳳翔さん、しめサバを1つ、と告げる。理想を実現せんとするために、走り続けは橘さんの姿が、ふいに実感を伴って、胸の内に立ち上がった。ほとんど無意識に俺は言った。

 

「橘さんは、この鎮守府という船のエンジンです。橘さんが、いなくなってしまうと、もう船は進むことができません」

「過大評価ですよ。私には、そんな大きな船、支えきれません。私よりも…………」

 

 ふと目を細める。

 

「提督さんや長門さんたちの方がよっぽど大事なパーツです。私は皆さんが動かす船にちょいと風を送っているだけです」

 

 ふふっと笑う。

 

「いずれにせよ、広瀬さんも大事なパーツになることは間違いないです。そのためにも友人を大切にした方がいいですよ」

 

 その声は、温かさがあった。

 

「橘さん」

 

 俺は一呼吸おいて、

 

「なんだか愉快になってきました。今日はもうしばらく付き合ってください」

「奇遇ですね。私もです」

 

 かすかに笑ってうなずいた。

 次の一杯を、と顔を上げると、鳳翔さんの、温かな笑顔が見えた。

 俺は鳳翔さんが注いでくれた酒の取り上げた。橘さんと、せっかく献酬の、機会を得たんだ。ワタルの問題など程よい苦味だ。あいつとは一度手合わせでもすれば、分からないことも分かるようになるだろう。

 気づけばすでに橘さんが、うまそうに酒を飲み干していた。俺もまた、一息で飲み干して、美酒に酔いしれたのである。

 

 

 ーーーー

 

 

「困ります、広瀬さん」

 

 気弱な声が食堂に響いた。

 ある平日の夕方のことだ。

 日中の執務で疲労困憊して、なかば朦朧と椅子に座っていた俺は、首だけを動かして振り返った。食堂の隅で航と神通の姿がある。

 ノートパソコンを持ち出して仕事をしていた航と、青白い顔で立ち尽くす神通の間合いには、ただならぬ緊張がある。とは言っても、航の前では、神通は蛇に睨まれた蛙である。

 

「別に君が困る話じゃないだろ?明日やればいいことは明日やればいいんだ」

「でも、駆逐艦たちは、不安なんです。新しい作戦について、航さんに詳しく聞きたいって…………」

 

 神通が答えている間も航は迷惑そうに眉をゆがめている。時折、時計に目をやっているが、まだ6時半だ。

 

「今回の作戦は他の鎮守府と合同なんだ。簡単に説明できる内容じゃないんだ。説明は明日の9時から。さっきもそう言ったじゃないか」

「でも、駆逐艦たちは少しだけでも説明が聞きたいって、今も待っているんです。だから…………」

 

 言いながらも声はしりすぼみに小さくなっていく。見ているだけで歯がゆい状況だ。

 とうとう見かねて口を挟んだのは、川内だ。

 

「広瀬さん、説明だって指揮官の大切な仕事だと思う。少しくらい時間とって、説明してあげてもいいでしょ?」

「僕も忙しいんだ。今日は無理なんだ」

 

 航の冷たい態度に、川内は髪を揺らして、語調を強めた。

 

「毎日どういうつもりなの?夕方になるとすぐに帰るし、夜連絡取れるときなんて少ない。その上、ちょっとした説明の時間も取れないって言われれば、私たちだって納得できない」

「もしものときの指示は全て出しているはずだろ?トラブルは生じていない」

「生じてからだと遅いんだよ!」

 

 川内の張り詰めた声が、食堂に響く。

 その後にくるのは、耐え難い沈黙だ。ほかの艦娘たちは何もないようにしているが、明らかに航と川内の方に注意を向けている。

 俺は軽い頭痛を感じ、額を押さえた。

 川内の態度はたしかに厳しい。叢雲ならそんな態度はとらないだろう。が、最大の問題は、航の冷淡な態度だ。どういう考えかは分からんが、これでは艦娘たちが納得するわけもないし、苦情がきて当たり前だ。"期待のエース"の肩書きは返上せざるを得ない。

 黙然と天井を見ても、妙案が浮かぶわけでもない。叢雲がいれば、どうにか収まりがつくかもしれないが、こういうときに限って、出撃中だ。

 しばらく、考え込んでいると、しゃくりあげるような声が聞こえた。

 

「でも広瀬さん…………暁ちゃんや電ちゃんは難しい作戦名で…………すごく不安になっていて…………」

 

 神通がポロポロと大粒の涙を流している。

 

「広瀬さんだって大変なのは分かっています。…………でも、少しくらいお話してあげてもいいじゃないですか」

「少しで済むならすぐにでも話すさ。でも、半端な説明だとかえって誤解と不安を生むだけだ」

「それでも…………」

「いい加減にしてくれないか」

「作戦は予定通り遂行する。説明も明日だ。分かったら駆逐艦たちにそう伝えてくれ」

 

 言い終わらないうちに、神通は完全に泣き出してしまった。

 泣く方も泣く方だが、航も航だ。

 再び訪れた沈黙に、神通のしゃくりあげる声だけが響く。川内がそっと神通の肩を抱きながら、キッと航を睨みつけるが、肝心の航はパソコンに向かって忙しそうに手を動かすだけだ。艦娘たちも困惑から憤りに変わり、ワタルの背中を見つめている。

 期待を込めて窓の外を見たが、叢雲は帰ってきていない。帰ってきていない以上、叢雲以外の誰かが、この場を収めないといけない。

 俺はもう一度額に手を当てた。

 それから冷めたコーヒーカップを手に持ち、ゆっくりと立ち上がった。

 

 

 ーーーー

 

 

 パソコンへの入力を終え、立ち上がろうとした航が、動きを止めたのは、俺が目の前に立っていたからだ。

 俺を見上げ、さすがに少し戸惑いを見せた。

 

「…………何か要件ですか?隊長」

「別に、さほどのことはない」

「言いたいことは分かりますが、今日は時間がないんです」

「そうみたいだな。でも、旧友と話すぐらいの時間は取れるんじゃないか?」

 

 俺はわずかに目を細める。

 

「すいません、今日は無理です」

「そうか、残念だな」

 

 言って、俺は右手のカップをおもむろに机に置いた。

 あっ、と短く叫んだのは神通と川内だ。俺が、左手で航の胸ぐらを掴んだのである。

 次の瞬間、俺の右の拳が航の顔にめり込み、鈍い音が響いた。食堂内の艦娘があっけにとられている一方で、倒れ込んだ航の口からは少しながら血が滴り落ちていた。

 俺は呑気にもカップを持ちコーヒーを飲み、口を開いた。

 

「…………パンチというのはただ力任せに振ればいいのではない。体重移動をしっかりすることでより破壊力を増すことができる」

「…………そんな説明を求めた覚えはないんですが…………」

 

 拳を受けた航から、淡々とした声が聞こえた。

 見下ろせば、血を流したまま、航は真っ直ぐな瞳を向けている。

 俺も黙ってそれを見返す。

 

「悪いな、あまりに君が寝ぼけたことを言うものだから、目を覚ましてあげようと、ね?」

 

 俺はカップの中のコーヒーをすべて飲み干した。

 

「目は覚めたか?」

 

 航の目がじっと俺を見つめている。その目に動揺はない。

 航はこういうとき、感情任せに動くタイプではない。何をするべきか、1人でよく考える男だ。

 無論、俺も動じない。動じる理由がそもそもない。

 人にはそれぞれ信念がある。

 その信念を道しるべとして、多難な世の大海原を進んでいくのが人生だ。その道に他の船があるとき、体当たりをかまして突き進むのは愚か者のすることだ。俺たちは人間である以上、思いやって時に船を止めなければならないのだ。

 航がどの道を進むのかは俺にはさっぱり分からないが、少なくとも船を進めるときに、前方に船があるなら、道を開けてくれと叫ぶのは必要な義務だ。それを怠っているから、彼はアホなのだ。

 ゆえに、彼は2つのうちどちらかを行うしかない。

 

「神通たちに事情を説明して帰るか、駆逐艦たちに顔を出して帰るか、選べ」

 

 静かな食堂に俺の声がよく響く。

 艦娘一同声を出すこともなく、成り行きを見守っている。神通に至っては、先刻の涙が嘘のようにあっけにとられて口を開けたままだ。

 航はしばらく沈黙したのち、口を開いた。

 

「どっちも時間がかかる話なら、駆逐艦たちの方を優先させます」

 

 言って立ち上がった。

 

「川内さん、すみませんがガーゼと何か冷やすものを持ってきてくれませんか?」

 

 川内は弾かれたように何処かへ駆けて行った。

 

「相変わらずですね、隊長。隊長の破天荒ぶりはいつも予測できませんよ」

「変人扱いはもう慣れている」

「そういうところまで相変わらずです。…………なんだか懐かしくなってきました。急にあの頃を思い出しましたよ」

「なんだと?それだと、まるで今まで忘れていたようではないか」

 

 航は少しだけ目を見開いた。

 俺はなお憮然として告げる。

 

「俺は一度も忘れたことはない。君との絆、もな」

 

 静まり返った食堂に俺の声が響いたとき、航はかすかに苦笑した。

 

「本当に相変わらずだ。でも、1つだけ言っておきますよ」

 

 口の血を拭いながら、航は静かに言った。

 

「治療代は隊長持ちですからね?」

 

 俺は大きく縦に首を振ったのである。

 

 

 ーーーー

 

 

「何考えているのよ!」

 

 開口一番、そう言ったのは、帰投した叢雲である。川内から事情を聞いた叢雲が、早速俺に事を聞きに来たのだ。

 時刻はすでに8時だ。

 

「食堂で部下を殴りつけるなんて、普通の人がやる事じゃないわよ。いくら変人の司令官でも、度がすぎるわよ!」

 

 今回ばかりは反論の余地はない。でも、過ぎたことはしょうがないのだ。

 

「君がいたらこんな騒ぎにはならなかった。軽巡とワタルがぶつかりあっていれば、見て見ぬ振りもできん」

「だからって、やってることは広瀬さん以上に無茶苦茶よ。今まで穏便に事を済ませて来た私の努力が水の泡じゃない」

 

 そう言う叢雲の眉間にシワがよる。

 なるほど、今まで大きなトラブルが生じなかったのは、航が気を配っていたのではなく、叢雲がうまく切り回していたからか。こんな有能な艦娘の手腕を見逃してたとは。

 

「…………それで、広瀬さんは?」

「駆逐艦たちに説明したら、早々に帰ったよ。ほんの10分前のことだ」

 

 6時から始まった説明は、航の言う通り1時間に及ぶものだった。

 30分ほどは待っていた俺も、それ以上は待てず、執務を行っていたら、航は帰ってしまったというわけだ。

 

「広瀬さん、よく怒らなかったわね」

「俺の思いが通じたのだろう。治療代をきっちり払えば、許してくれるらしい」

「本当に?」

「そうあって欲しい」

 

 俺がうそぶく中、叢雲はもう一度深くため息をついた。

 

「広瀬さんだって立場があるでしょ?艦娘の前でそんな扱いを受けたら、収まるものも収まらないわよ」

「その通りだが…………艦娘にだって立場があるし、なによりも、あいつの友人でもある俺にも立場というものがある」

「なにそれ、全然意味が分からないわ…………」

 

 叢雲が額に手を当てたところで、神通が執務室のドアを開け、やってきた。俺の前に来ると、いつものようにおどおどとした様子で、でもしっかりと頭を下げた。

 

「ありがとうございました。提督」

「礼を言われるようなことは何一つしていない。むしろ提督としてあるまじき行動をしたおかげで、叢雲に怒られているところだ」

 

 嫌み言わないの、と呆れ顔で言う叢雲の横で、神通は懸命に言う。

 

「で、でも、提督のおかげで、広瀬さんが説明してくれて、駆逐艦たちもとても喜んでくれて…………多分、いろんなことがうまくいったんです」

 

 何もかも解決していないのだが、先刻まで泣いていた艦娘が嬉しそうな顔をしているということは、とりあえずは収まったのだろう。

 

「それに、広瀬さんのこと、私誤解していました」

「誤解…………?」

「広瀬さんの説明、とても丁寧で、優しくて、分かりやすくて、駆逐艦たちの質問にも一つ一つ丁寧に答えて、隣で見てて、とっても胸が温かくなったんです」

 

 頰をいくらか赤く染めて、神通は真っ直ぐな目でそう言う。

 

「ひどい人だと思っていましたけど、あんな説明ができる人が、悪い人なわけがありません。私、もっと広瀬さんのことが分かるように努力します!」

 

 言うなり、もう一度頭を下げた後、駆け出してしまった。

 

「…………何なんだ?」

「若い娘にありがちなことよ」

 

 肩をすくめつつ、叢雲は言う。

 

「孤立状態のワタルに1人くらい味方ができるのはいいが…………」

「味方ができたところで、根本的な解決はしていないでしょ?連絡の取れない指揮官じゃ困るわよ」

「…………相変わらず、正確な洞察だな」

 

 再び、頭痛の足音が聞こえてきたような気がして、こめかみを指で押さえた。

 そんな俺を見て叢雲はさりげなく一笑する。

 

「そうは言っても、あんたが1人で抱え込む問題でもないわ。部下を殴るような提督がいる鎮守府だもの。広瀬さんくらい、どうってこともないわよ」

「前向きなのか後ろ向きなのか…………。だいたい、今のところなんとかなっているのは、君が骨を折ってくれているからだろ?」

「あら、高く評価してくれてるのね」

 

 静かに笑った叢雲が、妙に老成して見える。

 

「ま、少なくとも今のうちは心配しなくてもいいわ」

「ありがたいことだ。礼と言ってはなんだが、提督ファンクラブに入会させてやる」

「あら、変な事を言うのね。ファンクラブの会員ナンバー1番は私よ?」

「…………」

 

 笑顔で平然と言った。

 動揺する俺に、叢雲は「知らなかったの?」と笑顔で言ってくるくらいだ。完全に一本やられている。

 

「だから、お礼は、ケーキでいいわ。せっかくだし神通も呼ぼうかしら」

「また、高くつきそうだな」

 

 もう一度、俺は額を押さえた。

 以前、叢雲にケーキを奢ったのだが、予想以上に食べ、俺の財布を危機に陥れたのである。

 

「…………好きなだけ食わせてやる。期待しておけ」

 

 できる限りの虚勢で答えた。

 すでに日が落ちた廊下に出ると、窓の外が明るいことに気づいた。

 真っ青な月光により、海がはっきりと見える。

 人は多難な大海原を突き進む。時には迷ったり、嵐に出くわすだろう。だが、今日のように美しい景色になるのもまた事実である。

 俺は大きく伸びをして廊下を歩いて行った。


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