民間軍事会社"鎮守府"   作:sakeu

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『よっ!元気してっか?』

 

 海に出るたび、脳裏をよぎるこの声。どんな時でもこの声を忘れたことはない。

 短く切り揃えられた髪に、希望に溢れた眼差し、まるで自分の未来に絶対的な自信を持っているようにすら見える。

 

『今日も頼むぜ!相棒!』

 

 そう言い、背中を強く叩かれたことも記憶だけでなく、身体が覚えている。

 硝煙の臭いが立ち込める海で、俺はただひたすら深海棲艦の砲撃を避け、銃を撃つ。水上オートバイを加速させ、深海棲艦と肉壁するほどの距離を通り抜ける。

 

『ほら!さっさと来いよ!』

『待って!』

 

 そんな中でも、俺は1人の男を追いかけている。いくらスピードを上げても、追いつくことはないと分かっているはずなのに、俺は追いかける。

 なぁ、君は俺のことをまだ覚えているのだろうか?いくら叫んでも、その声は届かない。俺は君の相棒に相応しかったのだろうか?そう問いかけても、答えは返ってこない。そんなことは、最初から分かっている。でも、俺は掴みようがない幻覚を追いかける。

 俺の気持ちとは裏腹にその背中は遠ざかって、気づけば戦いも終わって、血を浴びて、帰ってきている。

 そんな姿を周りは"死神"と呼んだ。俺がいたせいで死人が出たから?違う。ただ、俺の風貌が普通じゃなかっただけだ。

 躊躇いもなく深海棲艦に向かう姿、怯むことなく引き金を引く姿、返り血を浴びても平然としている姿、なによりもその目にはらんだ狂気の光。それを総じて、周りは"死神"と名付けたのだろう。

 

『今日も無傷かよ…………』

『一体どうなってやがるんだよ…………化け物か?』

 

 俺が歩けば周りは端により、何かを言う。でも、俺にはそんなのどうでもよかった。とにかく、俺は戦っていたかった。

 敵討ち?もう悲惨なことを繰り返さないため?平和を取り戻したい?そんな大層なこと1ミリも考えてはいない。俺はとにかく、あいつの背中を追いかけているだけだ。そして、この震えを止めたいのだ。

 もうこの海原にすら君はいないことは分かっている。でも、俺は追いかけていないと…………もう、ここにいることすら辛くなってしまいそうで、戦っていないと、君がいないという恐怖で押し潰されそうで。

 

『隊長!今日もお疲れ様です!』

『兵隊さん、今日もお昼、食べに行きませんか?』

 

 そんな俺にも君たちは優しく接してくれる。戦うことのみでしか、震えを止めることができない俺に。そんな君らが少しずつ、俺の空白部分を埋めてくれて、何かが変わったのだろうか?

 

『すごいよなぁ、今日も死傷者ゼロだぜ』

『さすが"軍神"だよなぁ』

 

 本質は何も変わっていないーー震えを止めようとしているだけなのに、俺はいつしか"軍神"と呼ばれるようになった。まだ、あいつの背中を追いかけているのに。

 

『隊長、今までありがとうございました』

『兵隊さん、お元気で』

 

 いつしか2人は俺を追い越してしまって。それでも、俺はまだあいつを追いかけていて。まだ、俺には死神が張り付いていて。

 

『どこに行くんですか!隊長!』

『危険過ぎます!ここは待機しましょう!』

 

 孤立無援になっても、俺はあいつを追いかけて深海棲艦に向かって行く。たかが人間の反抗なんて分かりきっているのに。気づけば右腕は半分ぐらい千切れて、左脚も動かなくて、唯一の銃も弾切れで。その時、俺はどんな顔をしていたのだろう?笑ったのだろうか?泣いていたのだろうか?

 

『よかった…………!生きていて…………!』

『長門…………?』

 

 それでも、俺は生きていた。死ぬ気で突っ込んだ訳ではないが、確実に死んでしまうような行動は取っただろう。でも、生きていた。

 そして、今更気づいた。俺はあいつと一緒に死のうとしていることに。

 今の俺が君を追いかけていないとは言い切れない。でも、簡単に死のうだなんて思ってはいない。少なくとも震えは止まったから。

 

 

 ーーーー

 

 

「提督?」

 

 提督が執務室におらず、探してみれば予想通り港で海を眺めていた。彼は何か物思いにふけるとき、ここに来たがる。

 

「ん?長門か。出張から戻って来たてたのか」

「ついさっきにな」

 

 そうか、と顔一つ変えず言う提督。相変わらずこの人は表情の変化に乏しい。だが、かすかに彼の雰囲気は変わっている。

 この感覚は他の人には伝わらないだろう。

 室内は愚痴を漏らしながら執務をこなす提督であるが、ひとたび海の近くまで飛び出すとたちまち昔の雰囲気が漏れ出し、不思議な輝きを発する。その輝きは彼の強さを表し、そして彼の弱さを表している。そんな危険性を含んでいる光なのに私には眺めていたくなるほど魅力的だ。

 私はあえてゆっくりと提督のもとへ向かった。

 

「また悩み事か?」

 

 告げれば、提督なかすかに苦笑を漏らした。それからまた少し息を吐いた。

 

「まぁな。だが、それも解消しそうだ。長門の方はどうだったか?」

「こっちもぼちぼちだ。目立った動きもなくて、皆暇してるぐらいだ」

「それが一番だろう。むしろ、その暇さを分け与えて欲しいものだ」

「やはり、依頼は止まらないか?」

「そうだな。ま、今のところは呼び出されてもいないし、意地の悪い輩も長門が帰ってきた日くらいは気を使ってくれてるのかもな」

 

 少しばかり穏やかな口調で提督は告げる。

 

「そうだ。新人の広瀬っていうのはどうしてる?陸奥から聞く限り、いい話は聞いていないが」

「陸奥の話のまんまだ。あいつの人望は最悪。ようやく1人味方ができたぐらいだな」

 

 海の向こうを眺める提督の目にはどこか寂しそうだった。昔からの知り合いである以上、彼の噂を快く思っていないはずだ。

 

「それよりも心配なのは朝潮だ。身内もいなくて寂しい思いをさせてしまっているようでな…………どうにかしてあげたいのだが」

 

 眉を寄せながら、朝潮のことを我が事のように嘆いている。私もそのことはどうにかしてあげたいが…………相手が深海棲艦ならそれなりに相手できるのだが、説得というのは私の苦手分野だ。

 少し歩こう、と提督は言い並んで散歩につこうととしたとき、ちょうど2人の姿が見えた。

 古びたジャケット姿の痩身の男性と、薄紅色の和服を着た女性だ。

 私たちが足を止めたのと、提督が声を出したのは同時だった。

 

「橘さん」

 

 提督の声に橘さんも穏やかな笑みを浮かべた。

 

「おや、最近は工廠以外でもよく会いますね」

「いいことです。終始工廠で会うよりはとても健全なことだと思いますよ」

 

 なるほど、とうなずく橘さんに、私は頭を下げた。

 

「お久しぶりです、橘さん。いつもお世話になっています」

「そんな頭を下げなくても…………私もお世話になっているんですから」

 

 穏やかな声に私は思わずもう一度頭を下げた。

「おかえりなさい、長門さん」と落ち着いた声で告げたのは、傍の女性だ。

 

「元気にしていましたか?」

 

 ゆったりとした動きの中にも凛とした空気がある。前線を退いて、私たちのサポートに回ってくれた鳳翔さんはいつものように穏やかな笑顔を私に向けた。

 橘さんと鳳翔さんはそれなりに歳が離れているはずだが、不思議と2人の雰囲気は長年を共にした夫婦のようにすら見える。

 

「鳳翔さんには、艦娘になってからお世話になりっぱなしです。いつか恩を返してたいと思っているんですが、なかなか果たせなくて…………」

「大丈夫ですよ。提督から活躍のほどは聞いています。私よりも提督を支えてあげてください」

「そうですか…………でも、感謝の言葉だけは言わせてください。ありがとうございます」

 

 私の言葉に、鳳翔さんは少しながら戸惑いを見せるが、すぐに笑顔になった。

 

「本当にお2人は似てますね」

 

 私たちのことを「似てる」と言うのは珍しい。

 私は目線を鳳翔さんに戻しつつ、

 

「今日は2人揃って散歩ですか?」

「まぁ、そんなところです。明石や夕張が頑張ってくれてますから、工廠も落ち着いていて、ゆっくりとできるんです。こういう日も大事にした方がいいですね、鳳翔」

 

 そう言って橘さんは、鳳翔さんを見た。鳳翔さんがうなずき返すその動作が温かい。

 気のせいか、いつもは青白い橘さんの顔は血色よく見える。

 

「休めるときに十分休んでください。最近はひときわ痩せているように見えます。倒れてしまってはいけませんので、十分休んでください」

 

 提督の声に答えたのは、鳳翔さんだった。

 

「提督さんも最近忙しそうに見えますよ。顔色も満さん以上に悪いです。仕事もほどほどにしてくださいね」

「は、はい…………」

 

 逆に提督が心配されて、提督は動揺している。

 その傍で私は口を開いた。

 

「橘さんが頑張って働けるのは、鳳翔さんのおかげですか?」

「そんな、私のおかげではありませんよ。でも…………」

 

 鳳翔さんは、少しいたずらっぽい目を向けて、

 

「働きすぎる人は、仕事が来た途端他のことなんて忘れてしまうような人ですから、少し乱暴に言うくらいがちょうどいいんです」

「はは、頭が痛い話ですね。提督さん」

「そうですね、あはは…………」

 

 鳳翔さんにはただ優しげではなく、芯の強さが垣間見える。たしかな経験がその強さを生み出したのだろう。いつもは目元には深い光を持つ橘さんも、鳳翔さんの前では気の良い好々爺だ。

 

「今日はお互い、のんびりした日になると良いですね、提督さん」

 

 と、橘さんが言った瞬間、提督の懐から携帯電話がうるさい音を響かせた。はい、と提督がでる。どうやら、叢雲かららしい。話の内容は軽空母どもが朝っぱらから酒を飲みまくって暴れているそうだ。さすがに放っておけまい。

 

「苦労ですねぇ、提督さん」

「いつものことですよ」

 

 すると、今度は橘さんのポケットから携帯が鳴り響いた。

「おや、私もようですね」と細い目をさらに細くして笑う。

 

「せっかくですし、一緒に行きましょうか?提督さん」

「そうしましょう」

 

 提督は一礼をして私を見ると、少し不安げな目が映った。

 これから散歩をしようとしていてばかりだ。多分、そのことを気にしているのだろう。

 私はあえて明るく言った。

 

「頑張ってこい、提督」

「…………ああ」

 

 不安げな顔から提督はいつものような顔に戻った。

 見上げれば今日は冬晴れで、少し暑いくらいだ。おかげで、白い鎮守府の建物も映えて見える。そこへ向かう提督の背中はやはり頼り甲斐のあるものであった。

 

 

 ーーーー

 

 

 ここは軍事会社である。軍事を行う以上油断は許されない。ましてや勤務中の飲酒なんてもってのほかだ。だからこそ、ここは飲酒に厳しい。

 

「飲んでませんよ、提督」

 

 執務室に入るなり、千歳は豊満な胸をそらして答えた。たしかに意識に問題が出てはいないようだ。とりあえず、胸の中で息を吐く。

 

「だが、叢雲から酒を飲んでいたと聞いているが?」

「私は飲んでませんよ。提督の言われたように、お酒は控えてます」

 

 ちょっと不機嫌そうな顔だ。美人な千歳は、そういう不機嫌な顔になっても、様になる。気勢がそがれてはいけない。

 たしかに千歳を筆頭に、酒飲み勢はお酒を控えてくれるようになった。が、日数を考えれば我慢できなくなったと考えざるを得ない。が、これを証明するには少し骨が折れる。

 アルコール検査器でもあればいいのだろうが、ここはそんなもん備えていない。だからこそ、自白させるしかない。

 

「本当に飲んでいないのか?」

「飲んでいません」

 

 整った顔を背けてきっぱりと答える。

 

「そうそう、最近は民間人でもアルコール検査ができるんだよなぁ」

 

 とりあえず、胸元のペンを取り出しつつ、

 

「どのくらい飲んだかまで、はっきりと分かるんだよ」

 

 何気ない俺の言葉に、千歳は少し頰を引きつらせた。

 

「もう君の息から調べてあるから飲んだか、分かるんだよ。嘘をついても、簡単にバレるよ?」

 

 ちらりと見ると、完全に動揺している千歳の目とぶつかる。

 

「…………ほ、ほんと?」

「嘘だ」

 

 冷ややかに答えた。

 千歳は何か言い返そうとしたらしいが、言葉につまり、やがてしょんぼりとした。

 

「…………ごめんなさい」

「禁酒しているわけじゃないからな?ただ、時と場所を選んでほしい。が、それすら守れないのなら禁酒せざるを得なくなってしまう」

 

 口調だけ厳格に告げて、千歳を退室させた。これでも随分と甘い。長門なら有無を言わさず酒屋を破壊するだろう。

 俺も廊下に出ると休憩所で誰かいることに気づいた。

 少し覗くと、日当たりの良い窓際で、朝潮が気持ちよさそうに眠っていた。その彼女を膝枕して、のんびりと朝潮を見つめているのは、金剛型の榛名である。

 榛名は、ときどき思い出したかのように首を動かして、窓の空を眺めて、それから海に視線を変え、再び朝潮に視線を戻す。

 

「最近、ずっと榛名といるのよ」

 

 廊下を通りがかった叢雲がそんなことを言った。

 

「朝潮がとても寂しそうだから放っておけないって。私がどうにかしてあげないといけないのに、榛名が優しそうな顔で言うから、何も言えないわ」

 

 俺は無言でうなずくだけだ。

 幸せそうな2人は側から見ればもう母と子にしか見えないだろう。無力な話だが、俺では彼女のようにできない。

 そのまま工廠へと向かおうとしたところで、反対側の廊下から足早に歩いてくる男の姿に出くわした。

 

「休日にも鎮守府に姿を見せるなんて驚いた変化だな。ワタル」

 

 皮肉をたっぷり込めて言えば、苦笑まじりに答える。

 

「人をろくでなしのように言わないでくださいよ。来なければ説教され、来たら来たで皮肉を言われれば、僕にも立つ瀬がありません」

「自業自得だ。何か問題でもあるのか?」

「新しい装備について少々。みんなは少しずつ慣れてきているようですが、那珂さんはまだなようで」

「ふーん…………それで神通が心配していたのか」

「でも、今は問題ないですよ。橘さんにも頼んで調整もしてもらいましたから」

 

 そう告げる航の顔には、指揮官としてのたしかな自信がある。武術においては俺に分があるが、こういう指揮能力は航に敵わない。

 

「頭のいいワタルのことだ。さぞ、万全な手を打ってるんだろ?」

 

 そんな皮肉を言うのがせいぜいだ。

 航は苦笑しつつも、ちょうどやってきた神通を呼び止めて、細かな指示を出した。必死に指示を聞く神通の様子はなかなか健気なものだ。やがて指示を受け終えた神通は、どこかへ駆け出した。

 

「今日は1日中いるのか?」

「すいません、それは無理です。指示を出し終えたら帰ります」

「うむ、相変わらず忙しそうだな。だが、まだ午前11時前だ」

 

 俺の意味深な発言に、航は足を止めた。

 俺は武道場のある方角を指して言った。

 

「向こうに武道場がある。1度お手合わせできるかな?」

 

 航は少し目を見開いた。

 

「そんなに驚くことか?」

「いえ、あのとき以来、もう僕と手合わせする気はないかと思っていましたけど…………」

「まさか、そんなに心の狭い奴ではない」

 

 そして、小さく笑い付け加えた。

 

「無論、俺に恐れをなして逃げ出すと言うのなら、諦めるが」

「…………そこまで言われたら、退くに退けませんね。6年ぶりの再戦、といきますか?」

「そうこないとな。海軍に引き抜かれて、体が鈍っていないことを祈るばかりだ」

 

 悠然と立ち上がった瞬間、航は告げた。

 

「30分後が楽しみです」

 

 

 ーーーー

 

 

 30分後だ。

 

「で、何が楽しみなのだ?ワタル」

 

 武道場に俺の低い声が響く。

 北風が入り込む、暖房器具もないこの武道場にやってくる物好きはいない。床に倒れている航を見つめるばかりだ。

 武道場には、服すら乱れていない俺と、息も上がって満身創痍の航が仰向けに倒れ込んでいる。

 

「容赦ない人ですね。僕には長い間ブランクがあったというのに…………」

「はは、それは負け犬の遠吠えというやつだ。言い訳する奴は成長しない、と言っただろう?」

 

 そうでしたね、と航は言い立ち上がった。

 航はそれなりに動けていたが、やはりブランクが響いたのだろう。昔のようなキレはなく、ただ俺に弄ばれるばかりだった。航はしばらく沈黙したのち、両手を上げて言った。

 

「降参です」

「6年ぶりというのに随分とあっけないな。もう少し粘ってもいいんだぞ?」

「久しぶりに手合わせしましたが…………勝てる気はさっぱりしませんよ。不意打ちすら効かなさそうです」

 

 時計を見ればまだ1時間も経っていない。やはり体力は落ちているようだ。ふと航の方を向くと、航の真剣な目とぶつかった。

 

「…………なんだ?」

「何も聞かないんですね、隊長」

「ん?君が弱くなってしまった理由か?」

「横須賀で何があったか、ですよ」

 

 武道場を去ろうとした足を止めて、俺は航を一瞥した。航の見つめる眼の奥に、こちらを窺うような光がある。

 

「そんなに聞いて欲しいのか?」

「そのつもりで、隊長は僕を誘ったのかと思ってました」

「…………まぁ、あわよくばとは考えていた」

 

 俺は出口の方を向き、

 

「だが、よくよく考えたら、話したがらない君に聞くのなら大和に直接連絡を取った方が早い」

 

 何気ない俺のセリフがどうやら爆弾だったようだ。航の顔は凍りついた。

 

「一応連絡先は持っているし、大和とは一応2年ほど顔を合わせた知り合いだ。久し振りに連絡をすれば、彼女も喜ぶだろう」

「た、隊長…………」

「と言いたいところだが、俺も忙してくてな。電話をかける暇すらない。まったくもって残念だ」

 

 俺は出口まで足を運び扉に手をかけたところで、顔を向けた。

 航はただ黙って俺を見ている。思案、混乱、困惑、などと様々な感情がごちゃまぜになっているようだ。

 少し間をおいて、俺は付け加えた。

 

「ま、君が話したくなったときに話してくれ。そのときくらいは暇を作るから」

 

 そのまま扉を開け、俺は武道場を後にした。

 

 

 ーーーー

 

 

 恥ずかしい話だが、俺はトレーニングをしているとき、不思議といろんな悩みを忘れていられる。トレーニングの内容はまったくと言ってもいいほど覚えてないが、その最中の風景だけは妙に鮮明に覚えていたりする。

 今も鮮明に覚えているのが、航が"期待のエース"と呼ばれるようになった頃だ。

 そのときは暑さの厳しい夏だったと記憶している。

 普段は多くの人たちが行き交う鎮守府もこの日は閑散としていて、平日の昼でも訓練などの予定がない限り、静かな空気に包まれていた。

 一方で、俺は暑さに構わずベンチプレスやダンベルやらと様々なトレーニングに勤しんでいた。この時期になると帰郷もする者も少なからずいるのだが、生憎俺にはそんなところはない。

 毎日のように朝8時には鎮守府の外を走り回り、勝手にトレーニング室を使う俺の姿は、大変珍しかったらしく、この頃には夏の風物詩と化していた。

 午前中に5種類ほどのトレーニングをこなし、その合間に訓練を行って、午後にはまた別のトレーニングを行う。この頃は航も一緒にトレーニングするようになり、たちまち手合わせをすることになるのが日課となっていた。

 

「すっかり夏ですね。向日葵もあんなに咲いていますよ」

 

 水を飲み干しつつ、航は穏やかに告げる。

 勝手に持ち出したバーベルを持ち上げつつ、鎮守府の庭を眺めると、太陽の光を浴びて、向日葵が一面に咲いている。

 

「…………誰か手入れしているわけでもないのに、あんなに咲くとは。妙なものだ」

「そうですね。横須賀鎮守府七不思議の一つに数えられるくらいですから。隊長がそんなにトレーニングしているのに疲れていないのも一つですよ?」

「…………ふん」

 

 あまり反応を見せない俺にも航は穏やかな目線を浴びせる。

 

「隊長はもうすぐ休暇が与えられますけど、どうするんですか?」

「…………さぁな」

「しかし、昔お世話になった人たちに会いに行くのも大事だと思いますよ?大事な人はいつまでも生きているわけではないんですから」

 

 航の言葉には重みがある。彼が父を亡くしたのは、この部隊に配属されたばかりの頃だ。

 今では母と2人暮らしの彼の心の中には、ときおりどうしようもない悲しみがあるようだ。

 

「なるほど…………"期待のエース"の言葉はしっかりとまで心にしまっておくとする」

「何ですか、それ?」

「皆がそう言っているだけだ」

「へぇ…………」

「君が、艦娘の待遇について異議を唱えたときから、その名が広まっている」

 

 言えば、航は「そんな大したことではないんですがね…………」と苦笑を浮かべる。

 艦娘は彗星の如く現れた新戦力だ。だが、その規格外の力が元々いた兵士たちにはよく映らなかったらしい。あまりいいとは言えぬ待遇を彼らはしてきた。

 そんな状況を改善せんと、上層部に直々に求めたのが、平等だ。しかし、なかなか実現せず、ときおり改善したなどと言って、少しばかり給料を上げるだけという焼け石に水の対応を行なっているのだ。

 そんな状態を一変させたのが、航である。

 自ら提督や事務関係の者にまで直訴し、持ち前の頭脳や弁舌をふるい、少しずつ風向きを変えた。得体の知れない部隊の一隊員がただ喚いているだけだと、誰も相手しなかったが、彼の篤実な性格と演説が、明らかに他の者のそれとは違う印象を与えたようだった。

 半年近くに及んだ活動は身を結び、ようやく艦娘もある程度平等に扱われるようになったのである。

 航はタオルで汗を拭き、微笑しながら言った。

 

「僕は、ただ差別されている状況がおかしいと思っただけです。僕たちよりも頑張っている彼女らが報われないことは、あまりに酷なことですからね」

「…………そうか」

 

 航は微笑を苦笑に変え、

 

「それにこの件は僕だけの功績じゃないですよ。隊長だって、やってたじゃないですか?」

「何かしたか?」

「覚えてないんですか?」

 

 必死に考えている風を装いながら、バーベルを再度持ち上げる。

 

「あれは大活躍でしたよ。最大の難関の司令官をやりこめたんですから」

 

 そう言って彼は声を上げて笑った。

 今でこそ、この鎮守府の司令官は変わったが、前任の司令官は堅い頭の中でもひときわ堅い時代錯誤な人物として知れていた。彼が話を求めたときも人を小馬鹿にした態度で薄笑いを浮かべるばかりで、まともに相手する様子すら見せなかったのだ。その司令官が言うには、「これまでの者はそんな環境であった」と。

 新しい意見に対して、過去の忍耐を例にあげるのは、思考が硬化したジジイの行動だ。議論すら成り立たない。

 さすがに気落ちした航を見て、俺はなんと思ったのか、ある行動に出た。作戦から戻ってきた際にそれは起こったのだ。

 たしか、その日は真冬。凍えそうな環境の中、艦娘たちは怯まず深海棲艦に立ち向かい、我が部隊の出る幕すらなかった。しかし、戻ってみれば司令官は俺らを褒めるばかり。艦娘など相手すらしなかった。そのときに俺は彼女らの活躍を報告したのだが、無視され褒賞を渡してきたのだ。その瞬間、俺は彼を殴り、褒賞を艦娘たちに渡したのである。無論、俺が凄まじい剣幕に遭った。除隊させられなかったのは、生身の人間の部隊で唯一深海棲艦とまともにやれる部隊の隊長だったからかもしれない。

 しかし、問題が無視できなくなったのも事実だった。その日から艦娘たちへの待遇が軟化していったのだ。

 

「隊長のすることはいっつも予測できません。トレーニングばっかりしてるかと思いきや、ヒヤヒヤするようなことを平気でやったりする」

「それはお互い様だ」

 

 交渉が難航する中、どの人もこの問題を諦めかけていたとき、友人から相談を受けた彼は、交渉役を自ら買って出たのである。その行動にさすがの俺も諌めたが、彼は突き進んだ。

 

「殺伐したこの場所にそんな理想を実現しようとしている男がいて、驚いたもんだ」

「隊長には敵いませんけどね」

「…………そんな立派なもの、俺は持っていない」

 

 小さく呟いたせいで航には聞こえなかったようだ。なんです?と聞いてきたが、なんでもない、と答えた。

 

「隊長さん!」

 

 不意に明るい声が聞こえ、俺らは顔を上げた。

 その先には、言わずと知れた戦艦、大和である。演習を終えたばかりなのだろう。

 

「やっぱりここにいたんですね」

「…………この鎮守府のエースがここに来て大丈夫なのか?」

 

 彼女は横須賀鎮守府でも旗艦を務める娘だ。その実力は折り紙つきだ。

 

「今日は早めに終わったんです。この後は暇なのでこっちに来ました」

 

 弾むような声だけで、むさ苦しい男どもの空間が明るくなる。

 ため息を吐く俺の隣で、航は苦笑まじりに言った。

 

「あんまり、隊長の名は出さないものだよ、大和。隊長は君の後輩たちに恨まれているんだ。先輩を変な奴のもとに連れて行かないでくれって」

「大丈夫ですよ、隊長さんは色々言われていますけど、信頼もあるんですから」

「…………はぁ」

「そもそも、見にこないかと初めに誘ったのは隊長さんじゃないですか」

 

 そんなことを言われ、俺はいささか返答に窮する。

 

「それよりも隊長さんは相変わらずハードなトレーニングをしてますよね。大丈夫なんですか?」

「その辺のヤワな輩と一緒にしないでくれ」

「でも、巷では脳筋って呼ばれているんですよ?」

「構わん」

 

 堂々と言えば、大和は呆れ顔になる。

 その横で航はすました顔で口を挟んだ。

 

「大和、これでも隊長は頭もいいんだ。ガムシャラにトレーニングしているように見えて、かなり効率的なトレーニングになっているんだぞ?」

「本当ですか?」

「ああ、だから隊長はバカと言うよりも頭脳の使い道がズレているだけなんだ」

「なんだかすごいですね」

 

 2人してバカにしているようにしか聞こえないが、この際不問にしておく。

 俺はバーベルを置いて、一息つくことにした。

 

「もう終わりでいいんですか?」

「いや、君と手合わせしようかと、頼めるか?」

「はい、402敗に1敗加わってしまいますが、相手しましょう」

「…………ふっ」

 

 2人は間をおいて立つ。

 そして、大和は側からそれを見守った。

 

「どうする、ハンデはいるか?」

「いいえ、今日はハンデなしでお願いします」

 

 真剣な顔で言われ、いささか当惑した。

 

「なんだ、やけに自信があるようだな」

「いえ、さすがに女性の前でハンデを貰うのも気が引けますから」

「ふむ、なら調子づかせたらダメだな」

「あ、本気出さないでくださいよ?」

「…………戦いに本気もクソもあるか。さぁ、こい」

「ええ、いきますよ!隊長!」

「お2人とも頑張ってください!」

 

 明るい声が鎮守府の端で響く。そんな温かい雰囲気の中、一緒に過ごすときは意外と俺は好きだったのかもしれない。

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