我が部隊が結成されて4年目からの秋。
それが軍人時代、俺と航が手合わせをした最後の試合だった。520連勝がついに途切れた瞬間でもあった。
9月と言えどもまだ夏の暑さが残っている時期だ。
昼間は日差しがまだまだ強く、ときには炎天といっても過言ではないほど照りつけてくる。それでも日が暮れると気温が下がって過ごしやすくなるからまだマシだろう。
いつものように航と向かい合いつつ、俺は声を響かせた。
「今日は動きは随分と緩慢だな、ワタル」
戦況は、俺が守り一辺倒ながらも危なげなくさばく一方、攻撃ばかりする航にはすでに余裕がない。いつもは慎重な戦い方をする航にとっては珍しい。普段は、涼しげな顔をしながら攻める機会をうかがい、隙あらば攻めてくる航が、この日は精彩を欠いている。
「最後の最後に勝利を得たいと攻め急いでいるのか?」
航を弄びながら告げる。
「残念ながらそういうわけにもいかなさそうだ。最後の日だというのに大和がいないのも寂しいな」
航は俺の言葉に少しも反応せず、攻めてくる。やがて距離を置いて呟くように言った。
「…………隊長、あなたに話さなければならないことがあります」
「劣勢の言い訳なら聞かないぞ」
まだ軽口を叩くオレに、航は迷いのない澄んだ目を向けた。しかし、その目の奥には俺を気遣うような、妙な陰りも見える。
彼が冗談を言おうとしていないと悟り、俺は軽口を叩くのをやめた。
「…………大和のことなんですけど」
大和、の言い方に何か引っかかるものがあった。
その瞬間、俺はすべてを直感した。が、あえて口には出さなかった。それを航はすべて吐き出した。
付き合い始めたんだ、と。
寒さを感じないはずなのに、なぜか冷える夕暮れだと感じた。
「人に言いふらすことではないと分かっていますが…………隊長だけには伝えたいと思って…………」
「別に俺にいう必要もあるまい」
「大和は…………」
一瞬言葉を詰まらせた航は、すぐに語を継いだ。
「大和はずっと、隊長のことが好きでしたから」
航の顔に日没寸前の夕日が差していた。
「僕も応援するつもりでした…………でも」
「…………」
航がいつのまにか肉壁していた。そして、無駄のない動きが俺を掴み、そのまま俺は宙を舞った。
「でも、隊長は大和に目を向けなかった」
「…………」
大和に目を向けなかった、とは少し驚いた。だが、客観的に自分を見ればそう言われても文句は言えない。
航は俺を起こして、向き合った。
「隊長、僕は大和が好きです」
決然とした声であった。
「そして、隊長は僕の尊敬する人です。そして、友人だと思っています。だから、伝えないといけないと思ったんです」
「暑苦しい奴だ」と、皮肉を言ってやろうとしたが、なぜか言葉にならなかった。
どれほどの沈黙があったかは分からない。だが、俺は抑揚のない声で告げた。
「めでたいことだ」
「隊長…………!」
航の顔から緊張が解けたのが分かった。
「隊長なら祝ってくれると…………」
「君のことじゃない」
一息おいて俺は告げる。
「俺もちゃんとした人の子だということが証明されたことを祝ってるのだ」
周りの輩は少し俺を人外な奴だと思っているらしいからな、と付け加えた。この試合が初めて俺の集中が途切れた瞬間でもあった。
「本当にめでたいな」
秋は日が暮れるのが早い。すでに人気のない鎮守府の片隅に夜の気配が訪れていた。
「まぁ、こんな戦い方をする男に、大和を任せるのは問題ないだろう」
「隊長…………」
「とにかく、めでたいことだ」
ようやく伝えることができた言葉だった。
どの言葉を継ぐのが正しいのかは俺には分からない。だが、俺はこの真っ直ぐな目を持つこと男を祝福しようと、半ば思ったのだ。
美しい艦娘を前に、俺に好意を向けられていたことなど微塵にも気付かず、ただ戦いに明け暮れていた俺に比べれば、バカ真面目で篤実な彼こそ、大和を守ってやれる男だ。そんな思いすら出ていた。
視界の片隅で、航はただ黙ってゆっくりと頭を垂れたのが見えた。
「君とはお別れだな」
俺は静かに告げた。
「もうこの冬には君は指揮される側から指揮する側になる。俺もこれから忙しくなっていくだろう。いつまでも遊んでいられない。大和もそんな暇、なくなってしまうだろう」
再び航に目線を戻せば、初めて会ったときよりも大きく成長した姿が見える。かすかに感慨深いものがこみ上げたが、俺は言葉にしなかった。
まだ何かを告げようとする航を無理矢理追い返し、建物の中に入っていったのは、日もとっくに暮れた真夜中であった。
ある部屋の前を通ろうとすると、艦娘と何人かの軍人が宴会を繰り広げていた。これは艦娘が仲良くやっていけていると喜ばしく思えばいいのか分からないが、ビール缶をいたずらに重ねるのはいつものことだし、そこに俺が加わらないのもいつものことだった。しかし、この日の俺はその風景をやけにじっと眺めていた。
「あら、珍しいですわね」
能天気な声を出したのは、この鎮守府でも変人と名高いお嬢様であった。熊野という艦娘は、俺らと出撃することが多いという偶然だけを理由に、俺のことを友だと言ってはばからない奇人だ。
「今日は暗い顔ですわね。どうしましたの?」
「どうしたも何もない。この顔は生まれつきだ」
愛想のかけらもなく答え、俺は騒ぎをあとにした。
「ほら!酒が足りねぇぞ!」
そんなどんちゃん騒ぎを聞こえないふりをして、俺はいつものようにトレーニング室に足を運んだ。
ーーーー
工廠の片隅で、橘さんと明石が将棋盤を挟んで座っている。
夜にちょっと工廠に用事があって足を運んだ俺は、そんな珍しい光景を見つけて足を止めた。
古びた将棋盤を挟んで、橘さんと明石が向かい合う姿はどこか微笑ましい。父と娘が久しぶりに1局指しているようだ。
「あ、提督。お疲れ様です」
明るい声とともに明石が手を挙げる。そんな様子に俺は些か当惑した。
「将棋か?」
「はい」
盤上には様々な駒が入り乱れている。
「少し部屋を整理したら出てきたものでしてね、暇ですし1局指そうという話になりました」
「久し振りですよね、橘さん。もう、かれこれ100戦はしましたよね?」
「何を言っているんだい、明石と指したことは一度もないでしょうに」
明石の笑い声に、橘さんは微笑を返す。
機械バカ同士の会話は俺に分かることなど1つもない。真面目に関わるだけ疲れるので、適当なところで話題を変える。
「最近は橘さんに助けてもらってばかりで、本当にありがとうございます」
「いえいえ、私は別に何もしてませんよ」
細い指で銀を動かす。
「私には子どもがいませんから…………こう言っては悪いかもしれませんけど、提督さんを見るとなんだか息子を持った気分になるんですよ。今度は2人で釣りでも誘おうかと思ってました」
「嬉しい限りです。そのためには、まずはお互い、暇なときを見つけないといけませんね」
俺の言葉に橘さんは苦笑する。
「なるほど、仕事に追われている状況では、招待するのも応じるのもできませんね」
「補佐ができたのに、依頼はそれ以上に増えているのが現状です」
「そういえば、その補佐の人は結構頑張ってらっしゃるみたいですね」
口を挟んだのは明石だ。
「たまにこっちにやって来たりしますよ」
「多分、那珂の調子が良くないからだろう。普通に考えれば、ライブとやらを控えれば万事解決なのだろうが、やりたいことをやるのは悪いことじゃない。多分、ワタルもそれを理解してるのだろう」
俺がそう告げれば、2人はそれぞれの笑みを浮かべる。少し不気味だ。
「…………?」
「いやぁ、なんだかんだ言いつつ、提督はヒロさんを心配しているんですね」
「あったりまえだ。あいつが働いてくれんと俺にツケが回ってくるんだからな。そもそもなんだよ、そのヒロさんというのは」
俺の抗議に構わず、今度は橘さんが口を開く。
「提督さんのおかげで広瀬さんが変わったのも事実なんじゃないですか?」
「まさか。俺は何もしていませんよ」
「食堂で殴っておいて、何もしていないとは大した度胸ですねぇ」
「…………」
ニコニコと笑いながら物凄いことを言う。
「まぁ、辛辣になるのも考えものですよ」
「広瀬さんは時間通りに来て、時間通りに帰る。別になんの変哲も無いことですから。おまけに彼が優秀であることもたしかですからね」
意外な言葉が出てきた。
橘さんに映る航は、俺のとはだいぶ違うらしい。
「へぇ…………橘さん、随分とヒロさんを評価してるんですね」
「そういうわけじゃないですよ。っと、油断していると、角をもらいますよ」
橘さんの手がふわりと動いて、明石の角を盤上から取り去った。
ああ!と叫ぶ、明石にも容赦なく橘さんは攻める手を止めない。
っと、2人の将棋に見とれている場合じゃない。
俺は挨拶をして、工廠を後にする。
今日も護衛や共同作戦、応援要請など様々な依頼がやってきている。そんな地獄へと向かう道中に駆逐艦寮があるのだが、朝潮の部屋まで来て、俺は足を止めた。中から、澄んだ歌声がかすかに聞こえたからだ。
「ねーんねん、ころーりよ、おこーろりよー」
懐かしいようなその旋律は、言うまでもなく子守唄だ。
大きな声ではない。しかし、不思議とこちらも安らぐ深い響きがそこにある。
そっと部屋に足を踏み入れると、榛名が付き添うようにして、ベッドの横にちょこんと腰掛けている。どうやら歌っているのは榛名のようだ。
「ぼうやはよい子だ ねんねしな」
聞いているとこちらも眠ってしまいそうである。
俺は入口脇で足を止めたまま、その唄に耳を澄ませた。
全て歌い終わったところで、榛名は少し息を吐き、そっと目を開けた。それと同様に俺に気づいて少し驚いた表情を見せた。
「て、提督。すいません。朝潮ちゃんが眠れないと言うので…………」
「いいよ。俺も思わず聞き入ってしまった。朝潮もよく眠れているようだし」
「昔はよく歌ってものでして」
ふいに榛名は手を口に当てた。肩が少し揺れているということは、笑っているのだろう。
「やっぱり、この歌は効果は抜群のようです。すぐに眠っちゃいました」
榛名は視線を朝潮に向ける。
「1人は寂しいものですからね…………」
その声には、憂う気持ちが込められていた。
俺が答えるよりも先に、榛名は立ち上がった。
「いつも遅くまでご苦労様です。また明日も子守唄を歌ってあげたいのでここに来てもいいでしょうか?」
「ぜひそうしてくれ」
ありがとうございます、と言って、榛名はそのまま部屋を出た。
ベッドの上には朝潮が穏やかな寝息をたてている。榛名たちが気遣ってくれるおかげで、前よりも翳りのある表情は見せなくなったが、それでも朝潮が寂しがる状況は改善できているとは言いがたい。
それぞれには様々な境遇がある。
俺はただ寂しがる朝潮を見守ることくらいしかできない。
提督には武器がない。
昔のように銃を持って様々な修羅を打破して来た。しかし、提督の身である今はそれはない。あるのは、ただこの部屋に訪れるこの足ぐらいだ。まったくもって心もとない。
その後、執務室に戻り仕事を再開した。すべての執務を終えたのは、夜9時頃だ。今日も遅くなるかもな。
と、思っているとソファに長門を見つけた。
思わずついたため息は実は安堵のため息だ。こんな夜だと、このビッグ7を見つけるとなぜかホッとする。表面には絶対に出さないが。
「疲れているようだな、提督」
「…………ああ、疲れてる」
そう告げ、ソファに腰をおろせば、長門はすくっと立ち上がり、コーヒーの準備を始めた。
「随分と依頼が来ているらしいな。叢雲も言ってたぞ。さすがに提督も参ってるんじゃないかって」
「観察眼に優れた部下がいて嬉しい限りだ。長門も少しは見習ってほしい」
「そうか?なら、わたしが貴方を見るたびに神妙な顔をして"大丈夫?"と言ってやろうか?」
「やめてくれ、想像しただけで気味が悪い」
ハハと能天気な笑い声をあげながら、長門は俺の前に一杯のコーヒーを置いた。どんなに苦しいときでも、彼女が弱音を吐いたところを俺は見たことがない。この点は俺が及ばないところだ。
胸の中で感心しつつ、コーヒーを飲めば、身震いしたくなるような甘さが口の中に広がる。
「…………相変わらずの甘さだな」
絶句とともに告げれば、長門は勘違いして嬉しそうに笑う。
長門特製のコーヒーが、この鎮守府名物の"長門ブレンド"だ。
せっかくだから作り方を教えよう。どこにでもあるコーヒーカップを1つ用意して、そこに市販のコーヒー粉末を適量入れる。そこに信じがたい量の砂糖を加え、お湯を注げば完成である。1杯飲めば、たちまち積み重なった疲労が吹き飛ぶ品物だが、たまに健康まで吹き飛ばすので注意が必要だ。
そんな劇薬とも言える飲み物を美味そうに飲む長門に呆れつつ、俺はソファにもたれかかった。
「長門の方も忙しそうだな。何かあったのか?」
「敵の本拠地らしきものが発見されたんだ。信憑性は薄いがな」
「それで連日の出撃か。恐れ入る」
「横須賀だけに始まったことではない。日本全国、深海棲艦の動きが活発になってきたせいで大忙しだ」
「どうりで依頼が増えるわけだ。熊野も疲れ気味だしな」
「呼んだかしら?」とふいに降ってきた声に、振り返ると熊野がいた。
「まだ、ここにらしたのね」
そう言いながら、静かにソファに腰をおろした。長門が「お疲れさん」と言いコーヒーセットを取り出した。熊野にも"長門ブレンド"を振る舞うつもりなのならどこかで止めなきゃいけない。
「そう言うのなら君も何故ここにいるんだ?」
「別に気まぐれですわ」
「気まぐれ、か」
「ええ」
まったくもって自由な重巡だ。
「それにしても、最近の話題が深海棲艦のことばかりでよろしくないですわね」
「ああ、そうだな」
熊野は時計に目をやる。
「何か用事があるのか?」
「いえ、最近は夜更かしが多いから早めに寝ようと考えていたところですわ」
「…………なら、ここに来なきゃいいだろ」
「毎日、提督の顔を見るようにしてますのよ」
思わず俺が絶句しているところで、コーヒーカップを持った長門が出てきた。
「熊野、コーヒーいるか?」
「ええ、いただきますわ」
あっさりと答える熊野を見て、慌てて俺は止めようとしたが、少し怪訝な顔をした熊野は、
「大丈夫ですわ。コーヒーを飲んで眠れないと言うわけでもないですの」
と応じて劇薬を口につけた。とたんに凍りつく。多分、3秒は経って、カップを机に置いた。
「…………こ、これは何ですの?」
「何と言われても、コーヒーだが?」
そう言いながら、長門が平然と飲み干す姿を見て、熊野はかすかに怯えたようだ。
「明日も早いし、私は戻る」
と、長門は足早に去っていった。とんでもない劇物を残して。
「て、提督はこれを飲んでますの?」
「まさか、飲めるわけないだろ」
「長門さんは…………?」
「大好物だ」
そう言い、俺はげんなりする。さすがの熊野と言えどもこのコーヒーの甘さには言葉を失うらしい。
紅茶を急いで淹れて、口直しをした熊野は思い出したかのように言った。
「そう言えば、聞きましたわよ。とうとうやらかしましたわね」
「勘違いしているようだが、俺がたまたま手を滑らせたら、偶然そこにワタルがいただけだ」
「あら、そうでしたの」
冗談が通じてねぇ…………
「でもワタルさんもまともになったんじゃないかしら?来ない来ないと苦情だらけでしたけれども、最近だとこの時間でも鎮守府で見かけるときもありますわ」
「まともになってくれないと俺が困る」
「それもそうですわね」
肩をすくめながらら熊野はつぶやく。くたびれた俺はボリボリと頭を掻きながら天井を見上げると、何気ない様子でそのまま言葉を継いだ。
「色々言われてますけど、ワタルさんも大変ですわよね。せめて大和さんが一緒にいれば少しは変わっているはずなのでしょうけど…………彼女、すっかりおかしくなってしまったと聞いてますから…………」
一瞬熊野が何を言っているのか分からず、天井をしばらく眺めていたが、それからゆっくりと首を動かし、熊野を見返した。
その途端、熊野は自分の失言に気づき、口を手で覆ったが、それが俺の聞き間違えではないことを示していた。
「どう言うことだ?」
俺は熊野を見たまま、静かに、できる限り静かに聞いた。
「大和がおかしくなった?」
「いえ、その…………」
「ワタルと大和の間に何かあったことは察していた。君がそのことを知っていることも、分かっていた。…………だが、さっきの言葉は聞き捨てできないぞ」
ゆっくりとソファから身を起こす。
重巡は明らかに狼狽えて、目をキョロキョロとさせていたが、俺が滅多に見せない険悪な目で睨み付けると諦めたかのようにため息をついた。
「別に隠していたわけではありませんわ。わたくしも横須賀鎮守府に顔を出したときにたまたま噂話を聞いただけでして、詳細は知りませんのよ」
決まりの悪そうに顔を下げてから、
「そこでの話ですと、大和さんは横須賀鎮守府の旗艦を務めるほどの実力者でしょう?なんでも火の車の勢いで働いているらしくって、大きな作戦になると、何日でも泊まり込んで家に帰らないらしいですの。艦娘としては非常に優秀なのでしょうけど、それだと旦那さんもたまったもんじゃないのでは、と言う話ですわ。旦那さんが嫁さんを置いてここに逃げてきたのも、分からなくはない、と」
熊野の言葉が、いまいち実感できない。トンネルのように言葉が頭をすり抜けていく。
「…………ワタルと大和は、実質別居状態なのか?」
「ええ、大和は今も横須賀鎮守府で働いていると言う話ですわ」
目の前が真っ暗になった気がした。必死に頭の中を整理しようとしても、どんどん散らかって行く。
「かつての大和さんやワタルさんを知っている人はみんなその話を知っていますわ。知らないのは、貴方くらいですわ」
半ば呆然としているうちに、熊野はもう夜も遅いと言って執務室を去っていった。
しかし、俺は未だにその事実をうまく受け止められないでいた。
ーーーー
「ひどい顔よ」
聞き慣れた声が降ってきて、俺は顔を上げた。言うまでもなく叢雲だ。
「だから前も言っただろう、ひどいのは顔ではなくて疲れだって」
はいはい、と言いながら、手際よく書類をさばく。
パソコンのモニター上には艦娘の名前が並んでいる。ソファの上でしばらく呆然としていたが、それではダメだと仕事に取り掛かろうとしたが、思考はまとまらず、ただ無駄に時間を過ごしただけだ。
「ワタルはまだいるか?」
「さっき、工廠に向かってたから、すぐに戻ってくると思うけど」
そうか、と答えて俺は立ち上がった。
「もし、ワタルを見かけたら連絡するように言ってくれ。話したいことがある」
言えば、叢雲は何かを察したかのように、何も言わずに頷いた。
そのまま執務室を出ようと扉を開けたところ、人影に出くわした。
小さな子どもを連れた、初老の女性。軍事会社という慣れない空間で戸惑ったように立ち止まり、俺を見つけて丁寧に頭を下げた。
俺が思わず足を止めたのは、その顔に見覚えがあったからだ。女性は遠慮がちに言った。
「すいません、広瀬航はおりますでしょうか?」
俺はほとんど条件反射で頷いた。
「広瀬しずと言います」
落し物を拾うのかというくらい深々と頭を下げた女性は、叢雲に問われるままに丁寧に付け加えた。
「広瀬航の母です。こんな時間に申し訳ありません」
俺は合点した。航の母には軍人時代に何度か会ったことがある。だが、あの頃に比べると髪は随分と白くなっていた。
「今は少し用事があってここにはいませんが、すぐ戻ってくると思います」
「本当にすいません。この子がどうしてもパパに会いたいと言ってぐずるものでして」
航の母が、右手に引いた女の子に優しげな目を向けた。
「渚ちゃん、ご挨拶は?」
問われた女の子は祖母の足にしがみついたまま、じーっと俺を見つめている。目が真っ赤なのは泣いていたからなのだろうか?今は好奇心の方が強いらしく涙は見えない。物怖じしない性格のようだ。
祖母に促されるまま、少女は首だけ少し動かして「ナギサだよ」と言った。慌てて自分も自己紹介をすると、少女は目を見開いて告げた。
「知ってる!パパのお友達」
「…………!?あ、ああ。よく知ってるな。パパの友人だ。よろしく」
しゃがんでそう告げると、なぜか少女は驚いて祖母のスカートの後ろに隠れた。「なに怖がらせてるのよ」と叢雲の声が降ってくる。そのタイミングで、廊下の向こうから航が歩いてくるのが見えた。
父の姿を見るなり、少女は「パパ!」と叫んで飛び出した。
「渚、どうしてここに?」
驚きながら、駆けてきた少女を抱き上げる航の姿は父の姿である。そのまま女の子を抱えて歩いてくると、母の姿を見つけてさらに驚く。
「お、お母さんまで…………」
「渚ちゃんがどうしても会いたいと言ってね」
柔らかな苦笑を浮かべつつ、
「最近は帰りが遅くなってたから渚ちゃんも随分と我慢していたみたいだけど、今日はどうしても会いたいって聞かなかったんだよ」
航はそっと娘を首から話そうとしたが、娘は娘でしっかりとしがみついて離れようとしない。
「こら渚。わがまま言っちゃダメって言っただろう」
「わがままじゃないもん」
少女は父親の首にしがみついたまま、離れない。
「ナギサ…………わがままじゃないもん!」
一層力を入れてしがみつき、声はほとんど涙声だ。
航は戸惑うが、それでも諭すように言った。
「渚、パパはまだ仕事があるんだ。だから…………」
「心配するな。パパはちょうど今、仕事を終えたところだぞ」
口を挟んだのはまさかの俺だった。突然の言葉に航と母と叢雲が振り返る。先ほど俺に怯えた少女までもが泣き腫らした顔を少し俺に向けた。
「ワタル、君は父だろ?訳の分からんことを言う暇があったら、娘のそばにいてやれ」
「隊長…………でも」
「仕事がなんだ。ほかにもっと大事なことがあるだろう」
「隊長、いつもと言っていることが逆ですよ」
「知らん。少なくとも残りの仕事は俺が変わってやれるが、娘のそばにいることはさすがの俺でも変わってやれん」
無茶苦茶な俺の言葉に、叢雲は呆れ顔だ。
航は困った顔を見せた後、苦笑を浮かべ、母へ目を向けた。
「お母さん、迷惑かけてごめん。もうちょっと時間がかかるから、渚は僕が連れて帰るよ。先に帰ってて」
息子の言葉に母は心配そうな顔をする。
「隊長とも話があるんだ。連れてきてもらいながら、勝手なことを言って悪いけど」
口調は穏やかに、それでもはっきりと告げる息子に、母もそれ以上は反論しなかった。
ーーーー
夜空に月が出ている。
冬の空気は乾いているおかげで、鮮やかな月光が地上に降り注ぐ。
いつもの港へ足を進める俺のすぐ前方にいるのは、娘を背負った航だ。暗闇の中で見ると誘拐犯にも見えなくもないが、れっきとした親子だ。娘の渚は、疲れがきたのか眠ってしまい、今は父の背中で心地よさそうに寝息を立てている。
「冴えない顔ですね」
「…………誰のせいだと思う?」
憮然と答えても、航は苦笑するばかりだ。
ようやく港に着くと、海の波が月光を受けて輝いている。航の顔を見れば、その額にうっすらと汗をかいている。
「3歳にもなりますとおんぶも大変ですよ」
そんな呟きが漏れる。
俺が隣に来ると航は苦笑まじりに言った。
「もう勘弁してくださいよ」
「は?」
「娘の前ですし、殴らないでくださいね」
「随分と根に持つんだな」
そのまま地面にあぐらをかく。航の膝元には無論娘がいる。
まだ季節は冬。夜になれば息が白くなるほど寒い。
俺は眼前の景色を眺めつつ、大きく息を吐いた。
すでに時刻は10時を過ぎている。
航が仕事を終えたのは、9時半頃で、渚はすっかり眠ってしまっていた。航は手慣れた動作で背負いあげ、3人でここまで来たというわけだ。
「…………色々と聞きたいことがある」
「はい」
ようやく出てきた言葉に、航はかすかな声で答えた。
「大和がおかしくなったのという話を聞いた。本当か?」
「はい、本当です」
ふいに頭に舞い降りたのは雪だ。風に舞う雪が、月光を受けて青白く光り、幻想的な景色となった。
見惚れるように眺めながら航は言った。
「隊長にだけは、伝えないといけませんでした。でもできなかったのは僕の弱さです」
俺は答えない。そんなことはとても小さな問題だ。
「…………嫌な話になります」
「めでたい話なんて期待していない」
しばらく沈黙したのち、海に目を向けたまま、航はそっと口を開いた。
「隊長の知っての通り、僕と大和は横須賀鎮守府に勤めていました。人材も兵装も最高レベルで、大きな作戦は必ずそこで行われるような鎮守府です。もちろん楽な場所ではありません。でも、やり甲斐はありました。忙しくても幸せだと思える毎日で、渚も産まれました。今思えば1番幸せな時期だったかもしれませんね」
「俺に手紙を送ってくれた頃か」
小さな命を大事そうに抱え込む大和と航の写真は、今も俺の机の引き出しにおさめている。無限の輝きと可能性を秘めた家族が、小さな1枚の中に最高の笑顔で写っている。
「大和も、渚が産まれて1年は育児休暇を取りましたけど、そのあとはいつも通り第一線に戻りました…………」
でも、と航は眉をゆがめた。
「僕の気がつかない場所で、大和はいつのまにか少しずつ追い詰められていたんです」
ふいに海からぽちゃんと音が聞こえた。
どうやら魚か何かが跳ねたらしい。
「育児休暇と簡単に言いますけど、今の軍事の世界は日進月歩。1年ぶりに戻ってみれば、あっという間に最新の装備や作戦ができて、自分のものは全て古いものになっています。でも、立場は新人というわけにもいかないので余計にプレッシャーがかかったんでしょう。ただでさえ過酷な環境なのに、そのプレッシャーは大和にはとてもきつかったかもしれません。不安や焦り、苛立ち、そう言ったものが彼女の心を蝕んでいったんです。そのことに、大和自身気づいていなかったと思います。だから、誰にもそんなそぶりを見せませんでしたし、僕自身も気づかなかった。そんな時、現場復帰してからずっと旗艦を務めた作戦中に、彼女は体調を崩して1日だけ休んだんです」
航は言葉を切る。
目の前には雪がはらはらと舞い上がる。
「休んだ次の日、病み上がりをおして出向いた彼女に向かって1人の隊員が言ったんです。"命を懸けて戦うのが艦娘の務めじゃないのか"って。たった1日休んだだけですよ?でも、隊員は罵倒したんです。お前に旗艦の資格はない、早く変われって」
急に顔の血の気が下がった気がした。
「その隊員を筆頭に、何人かが旗艦の交代を申請して、夜の会議で、大和が作戦の艦隊から外されることが決定しました。ずっと休まず、必死になって戦った作戦からいとも容易く外されたんです。その日の夕方、鎮守府内で見た大和は、今まで見たことがないほど真っ青な顔でしたよ。大丈夫かって言っても、彼女は抜け殻のように乾いた微笑を浮かべるだけ…………」
視線を落として、語を継ぐ。
「その日以来ですよ、大和がおかしくなったのは。毎日鎮守府に泊まり込んで、ほとんど家に帰ってこなくなりました。いつも海を駆け回り、まるで何かに追われるかのように命をすり減らして戦うようになったんです」
深いため息が漏れた。
「…………いつそうなったんだ?」
「1年半前ですかね、まだ隊長が現役で戦っていた頃」
1年半前…………。
その当時、俺は艦娘との共同作戦も少なくなかったが大和と共に戦うことは一度もなく、それどころか顔すら合わせられていなかった。多分、作戦が違ったのだろう。
「家に帰ってくるのは週に2回。着替えを取りに来るときだけ。どんなに忙しくても欠かさなかった渚の保育園の迎えもまったくしなくなってしまいました」
俺は青白い顔で海を駆け回る大和を想像しようとしたが、うまくいくわけがない。
「最初は一時的なものだと思いました。辛い経験のせいで我を忘れてるだけって。だからぼくが仕事を切り詰めながら、渚の世話をしていたんです。でも、2ヶ月が経っても大和は元に戻るどころか、ますますひどくなっていくばかり。鎮守府内で話しかけても上の空で、一度病院に行こうって言ったけど、虚ろな目で『大丈夫』と言うだけ…………そうこうしているうちに、僕の立場も難しくなっていく。渚の迎えやご飯の支度でどうしても早く帰らなければならないんです。そんな状態で提督が務まるはずもない…………ある時、他の提督から言われたんです。『育児の片手間で、提督が務まるのか』ってね」
航の口元に自嘲的な笑みがあった。
「それまで築き上げてきた信頼なんてあったもんじゃないですよ。渚が熱を出して帰るたびに、無責任なやつだと罵倒されました。嫁は必死に戦っているのに貴様はサッサっと帰る。子供が生まれてから貴様はダメになった、と面と向かって言われたこともあります。そして…………」
航は申し訳なさそうな目をこちらに向けた。
「僕は提督を辞めされました。今まで指揮してきた作戦が水の泡です。そのせいで隊長の部隊は壊滅寸前に陥って、隊長は死にかけた…………」
「俺が死のうがどうでもいい。大和は君の苦境に気づかなかったのか?」
「分かりません。でも…………」
「元の大和には戻らなかったんだな」
「戻らなかっただけじゃありません」
航の声はかすかにだが震えていた。
「去年の末の話です。渚が風邪をこじらせてひどく弱った時期があって…………何日か仕事を休んで渚のそばにいたんですけど、大和は1日も帰って来ませんでした。もともと僕がそばにいれば、あまり泣かない渚が、そのときばかりはママに会いたいって泣き叫んで、鎮守府に連れて行くことにしたんです。少しくらい大和に会う時間があるだろう、と。…………でも、それですら会えなかった」
航の手が伸びて、娘の頭を撫でた。
「知り合いの艦娘から連絡とってもらったら『今忙しい』って、返ってくるだけ」
深いため息が聞こえた。
「その夜、熱にうなされながら、いつまでも泣いている渚を見て、決めたんです。このままではダメだ。渚のためにも実家に戻ろうって」
航は痛々しい微笑を浮かべた。
「そうして、僕は逃げてきたんです…………」
声が途切れた。
あれほど降っていた雪もいつのまにか止んでいた。
「…………隊長」
再び淡々とした声が聞こえた。
「昼も夜も戦い続ける大和を見て、みんな何と言ったと思います?『立派な艦娘だ』ってね」
乾いた笑い声の中にはただ痛々しい感情が込められていた。
「…………狂っているんですよ」
「ワタル…………」
「艦娘は兵士は、命懸けで戦うべきだという。今のこの考えは狂っているんですよ。兵士が命を削り、家族を捨てて戦うことを美徳とする世界。夜も眠らずボロボロになるまで深海棲艦と戦うことが正義だという世界。艦娘?バカを言わないでほしい。僕たちも艦娘もみんな人間なんだぞ!…………それでも人々は平然と中傷するんです。夜に駆けつけなかった人に対して、なぜ来ないんだと声を上げる。みんな狂っていて、しかも自分が正しいと信じている。違いますか?隊長」
血を吐くかのように言葉を継いだ。
大声ではないが、それは間違いなく激昂だった。
にわかに慄然としたのは、脳内に朝潮の姿を思い浮かべたからだ。
彼女はもうどれくらい家族と会っていないのだろう。姉妹に会わせられないのは、何でだ?…………その理由を思いついたとき、俺は戦慄した。いつ何時でも大丈夫だと笑う朝潮の姿に、気づかぬままあぐらをかいている俺が見える。急に今この鎮守府に置かれている状況が、とても際どいバランスで成り立っているように思えた。
「無理が通らないのなら、押し通すまで…………」
無意識のうちにその言葉をつぶやいた。
「面白い言葉だよな。周りは俺らが何をして、どこにいるのか何も知らない。だから何だ?君はいつも自分の良心に従って、文字通り無理を押し通して、やってきてじゃないか」
「俺らはそうやってきただろう?ワタル」
いつのまにか俺を見つめていた航の目には涙が浮かんでいた。
「…………相変わらずですね、隊長」
「三つ子の魂百まで、君も変わっていない」
「僕も?」
「伊達に君と手合わせしてきたわけじゃない。君はいつも俺に転がされていたが、攻める手には少しも陰りは見えなかった。つまり、君はこの程度で屈するようなやつじゃない」
「隊長が言うと、無理矢理なことでも説得力があります」
「俺だって、無理矢理押し通した人間だ」
「あの日、提督を殴りつけたようにですか?」
「ああ」
航は大きく笑った。それから膝元の娘を背負いあげた。
「行くのか?」
「渚をいつまでも夜風に当たるわけにもいきませんから。明日も早いですし」
歩き出そうとした瞬間、俺は航を呼び止めていた。
「航、1つだけ言っておく」
風邪が吹き、雪が夜空に舞う。
「また、手合わせしよう。そのくらいの時間は取れるはずだ」
それが俺にできる精一杯の励ましだった。
「…………戻ってきて正解でした」
強い風にかぶさるようにかすかな声が聞こえた。
「ここに来れば、隊長に会えると思ったんです」
一瞬困惑して、その言葉の意味を理解した時、航は既に歩き出していた。
おい、と声をかけても立ち止まらない。右手を高く上げただけだ。
その姿は悲哀や孤独に打ちのめされていたが、それでもその足はまだ確固たる信念を突き進んでいた。