この鎮守府のある町はかつて漁業が盛んな町だった。
しかし、深海棲艦によって漁をやめざるを得ない状況となり、その盛り上がりは影すら見せなくなってしまった。海の近くに住む人々はできるだけ内陸部に引っ越し、漁師は職を捨て、海沿いの景色は物寂しいものとなった。
それでも、昔の賑やかさを取り戻したい人はおり、強い要望の元、俺たち民間軍事会社"鎮守府"が一役買って、漁業を制限はされているものの再開、少しずつかつての活気を取り戻しつつある。
その昔を知る1つの建物、「甘味処ひろせ」の古びた看板が風に揺れているのを見つけ、俺は足を止めた。
鎮守府から北へ、車も通れない小道の奥にある、木造二階建ての古い一軒家がそれだ。
人通りは稀で、たまにその辺の野良猫がのんびりと歩くだけののどかな道だ。他にも数軒の店があるが、大体は開いているのかいないのか、よく分からない。1つの店先には、絶え間なく湧き出る水の溢れる井戸があり、心地よいせせらぎが聞こえる。
「久しぶりですわ。ここに来るのは」
熊野が日差しに手をかざして、古い看板を見上げた。
「そうだな。軍人時代に何度かお邪魔させて貰ったが、何も変わってない」
「少し、この辺も寂しくなってきたような気もしますけど…………」
ああ、と首肯したところで、店の格子戸がからりと内から開いた。飛び出してきた少女が、俺を見た瞬間驚いて、中に引き返し、今度は顔をだけ窺うようにのぞかせた。
「ちんじゅふのおじちゃん?」
恐る恐るそう言ったのは、航の娘の渚だ。可愛らしい割烹着を着て、手伝っているらしい。
「そうだ」
頷く俺の横で、熊野は丁寧に頭を下げる。
「渚ちゃん、ですわね。熊野といいますわ」
「熊野お姉ちゃん」
今度は不思議そうな顔になったが、熊野の笑顔を見て、やがて安心したかのように渚も笑った。
「いらっしゃい」
明朗な声と共に顔を出したのは航だ。
店を手伝っていたのだろう。紺色の作務衣を身にまとった航は、こうして見ると全然違和感がなく、軍人だったとはとても思えない。
しばらくぼーっとしている俺に向かって、航は怪訝な顔を見せた。
「どうしたんですか?」
「…………ん、あまりにも自然だったから、ビックリしてるんだ。あの不評判な補佐にはとても見えん」
「不評判は余計です」
苦笑する航に、熊野はどことなくバツが悪そうな顔をした。
「この前は悪かったです、熊野さん」
「わ、わたくしも少し言い過ぎましたわ」
ふむ、これでひとまず和解、だな。
どうぞ、と航は店内に差し招いた。
「渚はずいぶんと隊長のことを気に入っているみたいですね」
「航の娘にしては人を見る目があるようだ。…………1つ気にかかるのは、俺がおじちゃんで、熊野はお姉ちゃんということだ」
「隊長の言う通り、渚は人を見る目があるんですよ」
ちっと胸中で舌打ちをしつつ敷居をまたいだ。
外装は二階建てだが、中の天井は取り払われ、大きな梁が黒々と腹をさらしている。テーブルがいくつか置かれているだけの店内に人影はなく、古民家特有の木の香りがかすかに通り過ぎた。
"久しぶりに、うちの店に来ませんか?"
航がそう言って俺を誘ったのはバレンタインの後のことだ。
"こっちに来てから、隊長にはお世話になりっぱなしですし…………"
告げる航の目には、柔らかな光がある。来たばかりの頃からずっと宿していた不似合いな冷淡さが減るとともに、見覚えのある穏やかさが垣間見えた。
「和菓子の1つや2つで数々の恩を返すのか」
と俺は言ったが、
「うちの和菓子にはそれくらい価値がありますから」
と爽やかに返されてしまった。
まだ軍人だった頃「甘味処ひろせ」には何回か足を運んだことがある。ここの和菓子はどれも絶品で、甘いものが苦手な俺でも抵抗なく食べることができた。特に羊羹は絶品で、航の母が1人で作ってるのを聞いて驚いた。しかし、軍人である以上、あまりここに来ることはできなかった。
古びた椅子に腰を下ろすと、奥から航の母が出てきて、丁寧に頭を下げた。
「先日はどうもありがとうございました」
夫を亡くしても1人でこの店を守ってきた苦労からなのだろうか。頭髪はもうほとんど白くなっている。前ここに訪れた時は、ここまで白くなかったから、鎮守府で出会った時もすぐには分からなかった。
航の母は慣れた手つきで、ゆったりと湯のみにお茶を入れ、また一礼して奥に消えていく。「懐かしい」とか「久しぶり」などの、おきまりの社交辞令もなければ、何か話題を振ってくることもない。そういう不思議な距離感は、相変わらずだ。
「ずっと1人でここを続けているのか」
「父が死んでからは閉めようかなと話しましたけど、続けていく方が楽しみがあるからいいって母さんが言ったんです。半分趣味のようなものですけど、それでも時々遠くからここの和菓子を食べたいってやってくるお客さんもいるんです」
「まぁ、ここの羊羹は美味いからな」
「そう言われると嬉しいです。今じゃ、こういう店も減ってきて、和洋折衷なカフェが流行りつつありますから」
俺は不意に昔を思い出した。
初めてここに来て、航が真剣な顔で和菓子を作っている顔が目新しく映ったものだ。
「たしかに流行りのものと組み合わせれば、人気が出るかもしれませんが、この店の目的はそれではありませんからね。隊長は羊羹ばっかり食べてましたから、他のも是非食べてくださいよ」
航の声に頷く。ふと熊野に目をやればすでに団子を頬張っていた。
不意にバタンと大きな音がしたのは、店の中を走り回っていた渚が、ぶつかって椅子を倒したからだ。
「こら渚、店の中で走り回っちゃダメだろ」
航の声が飛ぶ。渚はやっと構えてもらえると思ったのか、かえって満面の笑みで駆け寄り父の足にしがみついた。
こんな様子をだけ見れば、あの親子が抱える問題が嘘のように思える。
綱渡りのような際どいバランスの中でも、どうにか立て直そうとしている航の心意気がたしかにある。
熊野が立ち上がり、渚と楽しげに話し始めた。もともと人懐っこい性格なんだろう。渚は、熊野ともすっかり打ち解けいる。
「大和とは連絡はどうだ?」
「音沙汰なしです」
答える声は、悲痛な響きを持たなかった。
「電話は出ませんし、メールも返事が来ません。今日もどこかで平和のために戦っているんでしょう」
皮肉じゃなかった。そこには感嘆やら羨望やら苦笑やらが、入り混じった航らしい優しさがあった。
「今は待つしかありません」
「ふっ、何か悟りでも開いたのか?」
「隊長に話したことで、少し頭の中が整理ができた気がするんです」
不意に聞こえてきた朗らかな笑い声は、渚のものだ。熊野と一緒に、格子戸の外を眺めてなにやら楽しげだ。
「僕が横須賀から去ると言った夜、大和は泣いたんです。声も出さず、ただ黙って泣いていました。何も言いませんでしたけど、きっと…………胸の中はいろんな言葉が詰まっていたです。今はまだ混乱しているだけで、いつかはその言葉を、口に出して言ってくれると思います」
卓上に置かれた湯のみを見つめながら、穏やかな声で付け加えた。
「とにかく、今は待ちます。なんだって、大和は僕の"妻"ですからね」
「なんだ、独身の俺への当てつけか?」
苦笑とともに言えば、航の笑い声が聞こえる。
その笑い声は、もう翳りのない心からの笑い声であった。
ーーーー
また、最近海上自衛隊の方から頻繁に声がかけられるようになった。
いや、厳密に言えば1人の人物から声をかけられている。その人名は佐久間さんというのだが、昔は前線で戦っていたベテラン中のベテランの軍人である。艦娘もいない時代にその生身の身体で深海棲艦と戦ったというくらいの猛将だ。我が鎮守府のベテランの橘さんとはどうやら旧知の仲であり、この豪快な性格の佐久間さんと何を考えているのか分からない橘さんの組み合わせだともうカオスである。
今は最前線を退いて、海上自衛隊の左官を務めている。俺がかつて部隊を率いていた頃、俺たちを前線に推薦し、功績を上げることができた恩がある。その縁で、時々食事に誘われたりするのだ。
そんな彼から連絡があったのは、「甘味処ひろせ」からの帰りのことだ。鎮守府の前で熊野に別れを告げ、そのまま佐久間さんに指定された店に直行となった。
最初は服装をきちっとした方がいいような気がしたが、言われて場所が居酒屋だったのでそのままにしておくことにした。法定スピードギリギリの速さでやってきたが、当の佐久間さんが見当たらない。入り口でキョロキョロ見回していると、マスターらしき人物が手招きしているのが見えた。
「
「あ、はい」
「佐久間さんはあちらです」
そう言って指差した先は、1番隅っこの方だった。あ、果てしなく今更だが、八幡とは俺の苗字である。この苗字が軍神と呼ばれる一因であったりする。
「よお、はたちゃん。こっちだ」
いきなり野太い声が飛び込んで、反射的に姿勢を正した。
俺に呼びかけたのは、恰幅の良い体と、毛虫のように太い眉と加えて煙草がトレードマークの還暦を過ぎた着物の男性だ。いくら歳とは言え、まだまだ元気な方である。
「調子はどないや?」
「まぁ、皆元気にやってますよ」
「艦娘のことじゃあらへん、はたちゃんのことや」
ぎょろりと大きな目を向けた。別に怒っているわけではない。元々の目つきがこれなのだ。おかげではたから見れば、ヤクザにしか見えない。
「ぼちぼち、と言ったところですかね。とは言っても、最近は仕事が増えてますが」
「そうやろうな。最近は深海棲艦の動きも活発やし」
そう言い、すでに注がれている杯を一気に飲み干した。
深海棲艦もだが、海軍の方もかなり積極的に動き始めている。
「はたちゃんは真面目やから、少しくらいサボることも覚えへんとアカンで?」
「昔は少しでも手を抜くこと鬼の形相で怒っていたような気がしますが…………」
鬼の佐久間、その厳しさや風貌から付けられた異名だ。彼が怒るときは顔を真っ赤にして、文字通り鬼の形相だから兵士はとにかく彼を恐れた。
「ま、ええわ。とにかく飲めや」
「すいません、今日は車で来てますので」
「せやか…………」
が、今回の佐久間さんにはそんな様子が微塵も感じられない。なんていうか…………何かを躊躇っている?そんな様子だ。
豪快な彼からは想像もできない様子なので、しばらく放置するのもアリだが、そんな暇はない。俺は思い切って聞いてみることにした。
「それで、今日は何のために俺を呼んだのですか?」
「…………隠してもしゃあないな。今、海上自衛隊で1つの計画が立てられとる」
「計画?」
「大本営を設置しよう、とな」
「え?」
俺は思わず耳を疑った。しかし、彼の野太い声から聞き間違えるとはとても思えない。
「安心せぇ、名前だけや。陸海軍の統帥権は全くない。あるのは艦娘のだけや」
「はぁ…………つまり、艦娘と海上自衛隊を切り離す、と?」
「せや。はたちゃんも分かってると思うけど、今までは守りに徹していたんやけど、ついに攻めに転じようとしとる。艦娘の人数も増えてきた今、きちっと分けることで、動きやすくする、という心算や」
なるほど、今までは隊員と艦娘は同じところが統率していた。ところが、佐久間さんの言う"大本営"の設置で、2つに分離することで別々に統率することで統率しやすくし、また艦娘が肩身の狭い思いもしなくなるだろう。
「しかし、何故俺に?」
「その大本営の長ーーつまりは元帥なんやけど、わしがなる予定なんやねん」
「まぁ、今までの功績、年齢的にも妥当かと」
「せやけどな、元帥は艦娘の中でも選りすぐりの艦娘による艦隊が組まれんねん。しかしな、わしは艦娘の1度もしたことがあれへん」
「え、そうなんですか?」
「せや」
たしかに佐久間さんが指揮しているところを見たことがない。どちらかというと、むさい男どもを引き連れて先頭だって戦っている印象だ。
「そこで、はたちゃんに元帥になって欲しいんや」
「…………え?」
「はたちゃんの噂はよう聞いとるで。部隊を解散した後、民間軍事会社でも立てて、艦娘を率いとるって」
「たしかにそうですが…………」
「指揮能力は、はたちゃんが入隊したての頃から見とるから分かる。はたちゃんの指揮能力は本物や。それに艦娘からえらい好かれとるらしいやんか、信頼も大事や」
「…………しかし佐久間さん、お言葉ですが俺は第一線を退いた身ではありますがまだ30もいかぬ若造です。いくら指揮能力が高くても、ほかの長いキャリアを持つ提督からはいいように捉えられることはないかと」
「なんや、はたちゃんは周りの視線を気にする人間なんか?」
佐久間さんの声が1つ低くなる。その目つきはもはやヤクザだ。並みの人では恐ろしさで失神してしまうだろう。しかし、こちらにも退けない理由がある。
「今更、周りの視線なんて気にはしません。俺が気がかりなのは艦娘です。上を妬むばかりにその捌け口を艦娘にされるが俺はとても嫌なんですよ」
俺は真っ直ぐに佐久間さんを見据えて言った。佐久間さんも相変わらずの目つきで返すが、俺は動じない。動じる理由がない。
「…………安心したわ。武器を手放して丸くなってるかと思ったけど、やっぱりはたちゃんは、はたちゃんだったわ。昔と変わらんその目、その雰囲気」
いつのまにか異様な目つきは豪快な笑い声とともにかき消されていた。
「でも、残念やな。やっぱり、はたちゃんが適任やと思うのにな」
「買いかぶり過ぎです。俺よりも艦娘の指揮に向いている人はいますよ」
「でもなぁ、保身のために戦わへん人なんてはたちゃんくらいやで。あとは長門ちゃんもやな。今の奴らは出世や金のためにしか動かへんからなぁ」
「そうですか…………でも、俺が見てきた人は少なくとも出世や金のために戦ってなんかいませんよ」
「…………はたちゃんも成長したなぁ。昔はツンツンして他人のことなんて興味ない、って感じやったのに」
もう過去のことはあまり掘り返さないで欲しいものだ。
「ま、ええことや。それより、ワタルの調子はどうや」
「ワタルはうまくやってますよ。最初はどうなるかと思ってましたが」
「せやろな。あないな状態やったし」
「もしかして、ワタルの件知ってたんですか?」
「せや、はたちゃんのとこに行くように仕向けたんのは、わしやからな」
「そう、ですか…………」
「ま、正解っちゅうわけやったな。うまくやってるならそれでええ」
「まぁ、そうなんでしょうが…………」
しばらく俺は佐久間さんと何気ない会話をしていたが、長居するわけにもいかず、区切りのいいところで帰らせてもらうことにした。
立とうとする際、佐久間さんから
「まだ、諦めたわけじゃないで。いつか気が向いたら言ってくれや」
と言われた。相変わらずな人だ。そして、
「あと、満にたまにはわしと飲もうやと言っといてくれ」
と付け加えた。俺はもちろんです、と答え店を後にした。この後、佐久間さんはすぐに橘さんに会うことになるとは知らずに。
ーーーー
鎮守府に戻ると俺は額に手をやり、やれやれとため息をついた。
どうも俺は佐久間さんに弱い。嫌なら嫌とはっきり言えば、それで終わりなのだが、彼には多大な恩がある。簡単に無下にもできない。かと言って、話を呑むかと言われればNOだ。
佐久間さんがすんなりと元帥になることを祈りつつ、何気なく航からの報告書を見ると、ここ1カ月の深海棲艦の情報や軽巡のデータが、航らしい生真面目さで、こと細やかに記載されていた。
装備を作戦ごとに細々と変更して、最高の状態で対応できるようにしている。どうりで、川内や天龍の成果が右上がりなわけだ。
深海棲艦はやはり活発に動いており、死者こそは出てないものの被害は少しずつ増えている。海上自衛隊では対処しきれていない模様で、討ち漏らしが多い。なるほど、そりゃあ大本営を設置したくもなる。
そして、気になる情報がもう1つ。海外もどうやら艦娘に興味を持ち出したらしく、艦娘に関する技術やそれを指揮くる提督のノウハウを教えて欲しいと乞うている、とのことだ。名目は国際貢献だが、どう考えても軍事力として取り込もうしている。
「おや、広瀬さんの報告書ですか」
ふいに肩越しに、橘さんが書類を覗き込んだ。いつもながら、登場は突然である。
「また彼と連絡つかないんですか?」
「いえ、ワタルの仕事ぶりをチェックしていただけです」
俺の減らず口にも、穏やかな笑顔で、橘さんはソファに腰を下ろした。
「広瀬さんの書類はなかなか優れものでしょう。私も装備や艤装で依頼されるときに書類を貰うんですが、とても丁寧で分かりやすいんですよ。それでもって、詳細に書いてかつ軽巡全員分やっているんですから、大したものです」
お茶を淹れながら、何気ない様子でそんなことを言った。
俺はその横顔に目を向けて、しばらく沈黙していたが、やがて胸の中に引っかかるものを吐き出した。
「橘さんは、ワタルの早上がりが娘の迎えのためだということを、ご存じだったんですか?」
「ん?なぜです?」
「いえ、ワタルの評判がすこぶる悪かった頃から、どこかその心情を汲んでいるように見えましたから」
「別に深く考えていたわけでもありませんよ。ただ、彼が何か大事なもののために、あんな働き方をしているんだろうなって感じてただけです」
橘さんの目は、いつでも俺とは少し違う場所にある。そしてその場所はいつだって俺の視線よりも、数段高い場所だ。
お茶をすすりながら、橘さんがふいに語を継いだ。
「働く人にとって、仕事をとるか、家族をとるかというのは、難問なんですよ。特に私たちのように何かを守るような仕事だとなおさらです」
見返す俺に、橘さんはかすかな苦笑で応える。
「両方とれるのならそれが一番ですが、現状だととても叶いそうにありませんからね」
「だからこそ、大本営の設置とか改革を行おうとしているんでしょうが、現実を見れば何も変わっていません。遺憾なことです」
「交わされる議論が、いつでも戦力や金銭の問題に終結しているからですよ。最初から艦娘や兵士を1人の人間として認識していないんです。兵士にも艦娘にも家族が、大切な人がいる。そういう当然のことが議論の中に無いのですから、人間らしい生活というものは、簡単には手に入りそうにもありませんね」
ロクでもないことを、なんでもないかのように言う。
「はぁ、それだと希望もありませんね…………」
「希望ならありますよ」
意外にも明るい声が返ってきた。
いつのまにか湯のみを置いて、橘さんは、静かな目を俺に向けている。
「どんなに過酷な状況でも、私がいて、あなたがいる。そして、大切なものを抱えながらも、こうして仕事を続けている広瀬さんがいる」
こんなに心強い希望はそうありません、と思いのほか芯の強い声が答えた。
このような過酷な環境にいながら、航を全面的に肯定する橘さんの寛容さには、返す言葉は1つもない。ただただ感服するばかりだ。
「橘さんには敵いませんね。俺なんて1年経つともう投げやりになっているのに、橘さんはこのお仕事をもう何十年と続けていて、なお意気軒昂です」
「それは、過大評価ですよ。提督さんのお言葉を借りるなら"買いかぶり過ぎ"です」
橘さんは、再びお茶をすすりつつ、
「私はね、提督さん。ただ臆病なだけです」
「臆病?」
「私の胸の中にあるのは、熱意とか使命感とか、そういう美しいものではありません。ただただ臆病なだけなんです」
これはまた…………難しい話だ。
「私が泊まり込みで働くのは、どこかミスしているんじゃないか、どこか欠陥があるんじゃないか、この装備はこの調整でいいのか、そんな風にいつもビクビクしているだけなんですよ。とても胸を張って言えるような内情じゃないです」
「そうだとしても、橘さんのおかげで艦娘たちが戦えているのも事実です」
橘さんはかすかな微笑を浮かべたまま、首を左右に振った。
「いけませんよ、提督さん。いつまでも仕事をするということは、いつでまでも家族や大事な人のそばには居られないということになりますから」
さりげない一言、だがズシリと重い言葉だった。その重さを探り当てるより先に、橘さんはいつもと変わらない素振りで、のんびりと立ち上がった。
「さて、たまには私もゆっくりとしますかねぇ」
穏やかに告げて歩き出す。
その体が、視界の片隅でふいにゆらりと右へ流れた。
おや、と顔を上げた先で、まるでスローモーションを見ているかのように、痩身がゆっくりと傾く。
「橘さん…………?」
声をかけても、動きは止まらない。
「た、橘さん!」
俺が叫んで立ち上がるのと、橘さんが音もなく床に倒れるのが同時だった。
ーーーー
橘さんが倒れた。
全くの青天の霹靂だった。
夜の執務室で工廠長がいきなり昏倒したのだから、これは大騒ぎだ。
俺が慌てて抱え起こした橘さんはひどい熱のようで、意識は朦朧としている状態だった。いつのまにこんな状態になっていたのか、直前まで話していた俺は全く気づかなかった。
とにかく救急車を呼び、病院に運ばれて診てもらい、とりあえず点滴をほどこしてもらって落ち着きを取り戻したのが夜の11時。どこから連絡を受けたのか佐久間さんまでも駆けつけてきたのはその30分後だ。
ーーーー
病院の個室125号に「橘満」の名札が下がっている。
医者が病室に入っておよそ10分が過ぎていた。ついでに佐久間さんも入って行っている。気を配って病室に入らず廊下で待っているが、それはそれで不安が募る。
名札と窓の外の景色を、順々に眺めてきたところで、ようやく医者が出てきた。俺を一瞥してスタスタとどこかに行ってしまった。その後に、佐久間さんが出てきた。
「おお、はたちゃん」
超然と笑む佐久間さんを見て、俺はやっと緊張を解いた。
「大丈夫なんですか?」
「過労や。体力が落ちとった時に、風邪をこじらせたらしい。今は落ち着いてんけど、1日2日は入院するようしといたから。意外とあいつも頑固やったわ」
ゆっくりと廊下を歩き出した。
「思えば、満ももう60過ぎやからな。昔のようには働けへんわけやな」
「そういう意味でも佐久間さんも、橘さんの1つ上なだけでしょう。人ごとではないかと」
「わしはあいつとちごて、普段から手を抜いとるから平気やねん」
大きな声で、とんでもないことを口走っている。
いずれにしろ、無事と分かれば心持ちも全然違う。ようやく人心地だ。そんな心中を見透かしたかのように佐久間さんはニヤリと笑う。
「安心するのはまだはよないか?数日とは言うても、満の抜けた分をどないするんや」
「問題ないでしょう。橘さんには心強い弟子がいるんですから」
「せやか」
佐久間さんの豪快な笑い声が廊下に響いた。状況のいかんにかかわらず、この豪放な笑い声を聞けば、困難も逆境もどっかに吹き飛ばされてしまう。
「これを機に満は健康診断でも受けといたほうがええやろ」
「そうですね。なら、佐久間さんも受けたらどうです?」
「わしか?バカ言いぃ。病気が見つかったらどないするんや。困るやんけ」
とんでもない暴言を言いながら、
「とりあえず、はたちゃんも病室に顔を出してやってくれ。満が気にしとったからよ」
佐久間さんは大きなお腹をポンポンと叩きながら、悠々と去って行った。
ーーーー
125号室の扉を開けて最初に視界に入ったのは、鳳翔さんだ。
俺がこの件を鎮守府に連絡したところ、一番最初に駆けつけてきたのだ。
「先ほど、解熱剤を使ってもらってから、やっと落ち着きました。今は眠ってしまいましたけど」
さすがに少しばかり血の気がないが、いつもと変わらない落ち着いた微笑が戻っている。うなずいて床上に目を向けると、静かな寝息を立てている橘さんが見えた。
「提督には大変な迷惑をかけてすいません、と言ってました」
「何かの勘違いですよ。迷惑がかかった記憶は微塵もありません」
「いえ、満さんはとても心配していましたから」
鳳翔さんの手が伸びて、橘さんの布団を整える。
「一時とはいえ自分が現場に抜けてからでは、ただでさえ忙しい提督には大変な負担をかけてしまう、と」
「もともと火の車のような状態です。そこに松明が2、3本飛び込んでも、いつも通りの火の海。見える風景に変わりはありませんよ」
俺の声に、鳳翔さんは微笑む。
そのまま街灯がともる窓の外を眺めて、
「せっかくですし、しばらく橘さんの元にいてください」
俺の言葉に、鳳翔さんも不要な社交辞令は述べなかった。
「本当を言いますと、私、少しホッとしているんです」
見送りがてら廊下まで出て来てくれた鳳翔さんは、青白い頰にほのかな微笑を浮かべつつ、遠慮気味に言った。
「満さんと、2人きりで過ごす機会をもう何年も求めようとしましたが、ようやくしばらくは2人でゆっくりと過ごせそうです」
ふいに雲間が切れたのか、薄暗いろうかに、柔らかい月光が差し込んだ。月光を受けた鳳翔さんの横顔が、白磁のような美しさを漂わせた。
「でも、やっと手に入れた時間がこんな形で手に入るなんて、なんだか皮肉ですね」
声音のどこかに、かすかな寂寥が漂っていた。
そんな言葉に俺は気の利いたセリフが思いつかない。下手に口出すより黙っている方がいいだろう。いつもながら、俺は力不足だと、そう実感せざるを得なかった。