民間軍事会社"鎮守府"   作:sakeu

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 執務室に明かりが点いている。

 今は深夜の2時だ。

 閑静な夜の鎮守府のほとんどが真っ暗闇の中、この部屋だけ明かりが点いているのはいささか不自然だ。おまけにその部屋からは、話し声まですら聞こえてくる始末である。

 一応、俺の仕事が行われる部屋なのだが、最近は熊野や叢雲、長門のいずれかが必ずおり、段々とその3人の私物が持ち込まれつつある。熊野は紅茶セット、叢雲はコーヒーセット、長門はダンベル。ダンベルはたまに俺が使っているので、そこはなんとも言えない。

 廊下から扉を開け、中を覗き込めば、ソファで物の見事に3人が揃っていた。

 

「おかえり、提督」

 

 真っ先に声を発したのは長門だ。無論、3人とも橘さんの件は知っている。少し風邪をこじらせただけだと、告げると長門と叢雲は安堵のため息をついた。

 そうして近づくと、珍しいかな、古びた将棋盤が1つ。驚いたことに叢雲と長門が指し合っている。

 

「なんだ、長門。世界のビッグ7が随分と悲惨な戦いを強いられているじゃないか」

 

 そんな俺の声に、長門は盤上を睨みつけたまま顔を上げようとしない。生来、頭より体の方が先に動くタイプだ。テーブルゲームは得意ではないだろう。

 

「なに、ビック7ともなると花を持ちすぎるからな。叢雲にも花を持たせてあげないといけまい。それにしても、叢雲に将棋の心得があるなんて意外だな」

「あんたの方が意外よ。ま、昔少しだけ教えてもらっただけよ」

「ハハ…………口を謹んでくれないか?昔少しだけ教えてもらった叢雲に大敗しては、私の立場がなくなる」

「悪かったわね。もっと強いのかと思っていたから」

 

 相変わらず叢雲はきついことを言う。フォローのしようがないセリフを言われ、長門はいっそう顔をしかめて盤上を睨みつけるばかりだ。

 傍らでは、熊野はティーカップを手に持ったまま眠っている。普段から美容のためだと早寝しているせいか、この時間まで持たなかったようだ。あまりにも芸術的な居眠りなため、面白い。

 ふいに叢雲がすくりと立ち上がって言った。

 

「コーヒー淹れるわね」

「お、叢雲、さては敵前逃亡だな?それだと戦局に関わらず、勝利は私のものになるぞ」

「なら、勝ちを譲るわ。司令官が随分とひどい顔をしているから、それどころじゃないわ」

 

 微笑とともにそんなことを言って、コーヒーを取り出した。いくつか反論したいことがあるが、長門が叢雲の座っていた場所を指差した。

 

「やむを得ん。相手としてはいささか物足りないが、提督に続投を依頼しよう。まあ、座れ」

 

 言われるままに腰を下ろした途端、

 

「口には出さないが、みんな貴方のことを心配しているぞ」

 

 唐突だった。反射的に顔を上げると、長門は相変わらず盤上に目を向けたままだ。

 

「最近の貴方は何やら1人で鬱々と考え込んでいることが多過ぎる。艦娘のことか?広瀬のことか?それとも昔の女のことか?どれでもいいが、少しくらい相談してくれてもいいだろう」

「事情説明する前に、昔の女というのは噂になっているのか?」

「そりゃあ、海軍三角関係事件は誰でも興味があるだろう。今は広瀬と提督のホモ疑惑がもっぱら人気だが」

「おい、その噂はなんだ?」

 

 まったくもって心外な噂ばかりとかと思えば、ホモ疑惑。どうしたらそうなるんだ。

 

「それはともかく、その噂の中にまた君が出て行くんでは?という内容があってだな」

 

 駒を取りかけた俺の手が、思わず止まる。

 

「実はやっぱり、海上自衛隊に戻りたがっているんでは?と艦娘たちは気が気ではないんだ。こんな職場環境が故にその心配も大きくなる」

「そんなことを…………」

「そこまで思わせるほど、貴方は艦娘を放置気味なのだろう。おまけに、どこかに女ができたのでは?とも心配している」

「え?」

「冗談だ」

 

「時間切れだ」と長門は告げ、勝手にパチリと歩を進めた。

 呆気にとられている俺の前で、今度は自分の桂馬を進める。

 それからやっと顔を上げ、ニヤリと笑った。

 

「そんなに慌てるくらいなら、初めからしっかりしろ、提督」

「…………長門も随分と性格が悪くなったな。どこから嘘だ。ホモ疑惑からか?」

「それは本当だ。出て行くのでは?という(くだり)から全部嘘だ」

 

 両肩から力が抜ける心地がした。

 長門はいっそうニヤニヤと嬉しそうに笑っている。その笑いを少し収めてから言った。

 

「大きな荷物を1人で抱えて、助けを無視しているのが今の貴方だ。心配する気持ちも分かるが、そのままだと思わぬところで転倒してしまうぞ」

「はぁ、よく言われることだな。1人で無理し過ぎだと。それにしても、重みのある言葉だな」

 

 俺が少々皮肉を込めて言えば、再び長門はニヤリと笑う。

 

「意味深だろ?」

「そうでもない」

「そんな余裕があるかな、ほら、王手だ」

 

 長門の細い指が桂馬を前へと進める。

 どう見ても悪手だ。恐れる必要はない。

 すぐさま桂馬を粉砕しつつ、沈思した。

 振り返れば、航がやって来てから言うものの、その航の問題に駆け回り、その後は大和一件も加わって1人で考え込むことが多かった。今は今で、胸中の大半を占めるのは、橘さんの体調のことなんだから、そう見られてもしょうがない。かかる心配を見せない艦娘に対して、長門に言われるまで気づきもしない自分の狭量があまりにも情けない。

 俺は胸の中で恥じて、目の前のビッグ7に告げた。

 

「ありがとう」

「ん?何か言ったか?」

「独り言だ」

 

 王手、と俺は角行を進めた。

 

「ありがとう、と言ったそばから容赦ない一手だな」

「聞こえてるじゃないか」

「聞こえていたが、もう一回聞きたかったんだよ」

「そんなことを言ってないで、早く王を守ったらどうだ」

 

 訳の分からない問答をした後、呟くように言った。

 

「ダメだな…………俺も」

「今度は自己嫌悪か?」

「さあな…………皆は軍神と持て囃しているが、本当は無能な奴なのに…………今もこうして、自己嫌悪に陥っている」

 

 今日は疲れているようだ。普段の己からは想像もつかないほど弱気になっている。

 

「自己嫌悪に陥っているのは確かだが、無能ではないだろう。軍神の名にふさわしい実力は持っている」

「そうだろうか…………指揮も上手くないし、戦場に出たとしても艦娘に敵わない…………人付き合いも下手だし、口開けば皮肉しか言わない…………」

「かの軍神がこうだとみんなは驚くだろうな」

「はぁ…………」

 

 すでに将棋の勝敗は決している。しかし、俺の心は晴れぬまま。すると眼前にコーヒーカップが置かれた。

 

「あまり司令官をいじめるものじゃないわよ、長門」

「いや、珍しく落ち込んでいるものでな。ついからかいたくなったんだ」

 

 ここで、長門の言葉が蘇る。助けを無視しているのが提督だ、と。

 

「叢雲…………」

「謝らないで」

 

 静かな、だが芯のある声が俺の声を遮った。

 少し言葉に詰まっているうちに、叢雲ははっきりと続けた。

 

「あんたは考え過ぎなのよ。こんな時間くらい、考えるのをやめないと、休む時間がないわ」

 

 すっと手でカップを示して、

 

「それにコーヒーも冷めるわ」

 

 にこりと微笑んだ。

 こんな時、相変わらず気の利いたセリフは出てこない。

 ただ言われるがままに一杯を飲めば、豊かな匂いが鼻腔をくすぐり、頭の中の嫌悪を押し流していく。俺は心の中のいろんな言葉を捨て、ただ一言言った。

 

「やっぱり美味いな」

 

 その言葉に長門と叢雲は何やら優しい笑顔を向けたのである。

 

 

 ーーーー

 

 

 白昼の大通りで、歩いていたら突然背後から後頭部を殴りつけられる。

 そんな経験したことがあるだろうか?

 もちろん言葉通りの経験ではない。それくらい驚愕するような、という意味だ。

 軍事関係の仕事に就くと、年に1度くらいはそんな出来事にあう。人生初めての仕事が深海棲艦相手だったり、昨日まで元気だった奴が次の日にはいなくなっていたなどと笑えない驚愕が溢れている。

 しかしその日の一件は、さして長くもない人生の中でもとびきりにタチの悪いものだった。

 

「えっと…………本当なんですか?」

 

 夕方の病院の一室で、俺は座ったまま、ようやく声を絞り出した。

 

「はい、間違いありません」

 

 答えたのは、橘さんの担当医の先生だ。この辺の病院では一番の腕と名高い医者だ。

 時刻は夕方の6時。ちょうど午後の執務が佳境にかかる時間だ。その多忙な時間にいきなり、この人から呼び出しを受けたのだ。

 

「本来なら、家族の方に来てもらうのが普通なのですが、橘さんにはいらっしゃらないので、貴方に。勝手ながら、家族のような関係だと判断して、お話しします」

 

 先生の配慮に頭を下げつつ、俺は目の前のレントゲン写真に目を向けた。

 

「これは午後一番に撮影したものです」

 

 先生が示したのは腹部の写真だ。医療系は全くと言っていいほど知識はないが、明らかに異物の腫大化した何かはいいものではないことぐらいは分かった。

 

「悪性リンパ腫を疑っています。全身に転移しているかと」

 

 先生の言葉に、すっと血の気が引く思いがした。どんな病気かは知らないが並ならないものだと察した。

 先生が言うには血液のガンで白血病の親戚だと考えてくれ、と言われた。そして、まだ橘さんには伝えていない。

 

「本当は勝手に知らせてはいけないんですが、状況が状況ですので電話させていただきました」

「…………ご、ご配慮、痛み入ります」

 

 答えた自分の声はかすかに震えていた。

 

「これからどうするのかを話します」

 

 先生の説明に俺はただ呆然と聞くことしかできなかった。

 

 

 ーーーー

 

 

 書類だの書類だの、やたらと高く積まれた部屋の中央に佐久間さんがいる。その右手に握られているのは橘さんの診断書だ。

 夕方の多忙な時間に突然訪れた俺に、佐久間さんは一言の苦言を呈さなかった。少し不思議そうな顔をして、俺が差し出した一枚の紙を受け取っただけだ。

「橘さんのものです」とわざわざ声に出す必要もなかった。ちらりと患者目の欄に目を向けた佐久間さんは、わずかに目を細めて、そのまま何も告げずに診断書に目を通した。

 それから5分は経っただろうか。

 その間、佐久間さんは眉をピクリとも動かさず、口も開かず、診断書の1文字1文字を噛みしめるように見つめていた。

 途中1度だけ、美人な秘書が顔を出して、「そろそろ会議の時間ですので、顔を出していただけると…………」と告げた瞬間、佐久間さんは、最後まで聞かずに短く答えた。

 

「悪いけど行けへんようになった」

 

 さすがに秘書は驚いて赤い唇を開きかけたが、それよりも先に佐久間さんが続けた。

 

「風邪を引いたとでも伝えといてや。わしの代わりくらいなんぼでもおるやろ」

 

 言葉の内容に不釣り合いなほど、穏やかな声だったが、秘書は反論をせず、一礼して部屋を出た。

 

「ちょうどええ、わしも見せたいもんがある」

 

 と、一枚の写真を取り出して、俺に渡した。そこには海が写っており、その中に白髪の女性が遠くながらもいる。

 その女性の姿を見た瞬間、体が強張った。わずかながら、写真を持つ手に力が入る。

 

「なんやと思う?」

 

 佐久間さんが静かに顔を上げた。

 

「…………"姫"かと。2度も見ましたから見間違いではないと思います」

 

 自分の声が、理不尽なほど冷ややかに聞こえた。

 

「せやろな。2度の深海棲艦の上陸を許してもうた時に、その群れの中にいた奴やわな」

「いつ、この写真が?」

「今朝や。最近は妙に活発に深海棲艦どもが動きよるから、少し遠くに偵察に行ってんや」

「偵察の方は無事だったんですか?」

「全員大破。辛うじて生きとるわ」

 

 佐久間さんの眉がかすかに動いた。

 全員大破、生きていただけラッキーだろう。

 "姫"ーー戦艦や正規空母のように完全な人の形を成しいるが、今までのどの深海棲艦とは類を見ないほどの力を持つ。2度の深海棲艦の上陸が起きた直接的な原因だ。艦娘たちの力を持ってしても敵わず、被害を増やした。

 そして、その2度の上陸前に"姫"の姿が確認されている。つまりは、そう言うことだ。

 

「他に異変は?」

「あらへん、少し活発になったくらいでそれ以外は平常なんや。あの日と同じようにな」

「そう、ですか…………」

 

 ふいに佐久間さんは微笑した。いつものおちゃらけた笑いなどではない。凄絶と言っていいほどの、笑みだった。

 

「どないする?今まで全敗の戦相手にどないする?」

「全敗など関係ありません。いつも通り、勝利を狙うだけです」

「せやな。はたちゃんのお陰で、被害は抑えられたもんな。ほかの輩なら被害は増えたかもしれへん」

 

 ゆっくりと佐久間さんは立ち上がった。

 

「ついて来なはれ」

「どこへ?」

 

 眉1つ動かさず、平然と答えた。

 

「満と作戦会議や」

 

 

 ーーーー

 

 

 佐久間さんの振る舞いはかなり無茶苦茶だった。

 写真や書類を持って出た佐久間さんはそのまま真っ直ぐに病院へ行き、橘さんのいる病室に向かった。ベッドの上に橘さんが起きているのを確認すると、無造作に書類や写真を投げ出したのだ。俺が止まる暇もあったもんではない。

 呆気にとられている手前で、橘さんは診断書やら報告書やらいろいろ混ざった書類をゆっくりと1枚1枚眺めていった。その間、佐久間さんはいつもの不敵な笑みを浮かべたまま超然と腕を組んでベッドサイドに立っている。

 

「ひどいものですね」

「ひどいもんや」

「道理で最近は調子が悪かったわけです。妙に咳が出たり、背中が痛かったり、倦怠感もあって…………歳のせいかと思っていましたけど、こんな病気なってるとは」

 

 橘さんの淡々とした声が響いた。その細い瞳は、普段と変わらない。まるで明日の天気での話でもしているかのような気安さだ。

 

「症状はいつからあってん?」

「3ヶ月ほど前からですかねぇ…………」

「このアホが…………」

 

 最後のつぶやきが、泣いているように一瞬聞こえて、驚いて佐久間さんの顔を見上げた。しかし、少なくとも外面上は、少しの変化も見られなかった。

 

「ただでさえ緊急事態が起こりそうやのに、なにをアホなことをやってんのや」

「すいません。まさかこんなところで脱落するとは、私も思ってもいませんでした」

 

 答えた橘さんの目元に、なぜ今まで気づかなかったのか不思議なくらい濃厚な病の影が見えた。

 

「ま、病気のことは医者に任せたらええ。それより、これどない思う?」

「確実に来ますね。しかし、今の私の体では役に立ちそうにもありません」

「心配せんでもええ。指揮はわしが取るさかい」

「余計心配ですよ。最近、あなたも忙しくてろくに寝れていないでしょう?」

「徹夜なんて、いつものことや」

「そうでしたねぇ…………」

 

 佐久間さんの豪快な笑い声に、橘さんの穏やかな笑声が和した。

 俺はただただ呆然と立ち尽くすばかりだ。

 

 

 ーーーー

 

 

「…………なぜ、そこまで落ち着いていられるんですか?」

 

 帰りの車の中で、俺は心中のモヤモヤとしていたものを吐き出した。

 そこにあるのは怒りではない。苛立ち、不安、驚愕といったものが入り混じって複雑になりながらも、妙に乾いた感情があった。

 少し荒っぽい運転をしながらも、目元には相変わらず不敵な笑みが浮かんでいる。

 

「そう言うはたちゃんも随分と落ち着いてんちゃうか」

「落ち着いてなんかいません。理解できていないだけです」

「わしも似たようなもんや」

 

 超然と構えて、眉一つ動かさない。

 

「せやけどな、パニックになって、大騒ぎしよる暇はないねん。大事な約束があるさかいにな」

 

 独り言めいた太い声が響いた。

 ほとんど反射的に脳裏をよぎったのは、橘さんのお酒で青白くなった笑顔だ。

 

 "この国に、誰もがいつでも楽しめるために、平和な海を"

 

 酒の席でそんな言葉を聞いたのは1ヶ月ほど前だった。

 ほとんど無意識に、その言葉を口に出して告げると、佐久間さんは太い眉を動かして、さすがに驚いたような顔をした。

 

「なんではたちゃんが知ってんのや?」

「いえ、前に橘さんと酒を飲む機会がありまして、そこで言っていました。自分を支えて来た大切な約束だと」

 

 佐久間さんがもう一度微笑んだ。それはいつもの不敵な笑みではなく、意外にも柔らかさを含んだものだった。

 

「なんや、満のやつ、まだ覚えとったのか」

 

 佐久間さんはわずかに目を細めて、静かに語を継いだ。

 

「なぁはたちゃん、どうして満に嫁がいないか知っとるか?」

 

 突然の問いだ。当然俺が知っているわけがない。

 沈黙をもって答える俺に、佐久間さんは淡々と告げた。

 

「満にも昔は彼女がいたんや。そんで、プロポーズも済ませとったわ」

 

 ただエンジンの音が響く。

 

「あとは日を待つだけやった。仕事の都合でな、満の彼女が船で移動してたんや。当時はまだ船での移動に規制はなかったやからな」

 

 すっと血の気が引く思いがした。

 船の規制がまだだったとしても、その時にも深海棲艦はいたはずだ。

 

「あん時は、海上自衛隊も深海棲艦にどう対抗するか分かっとらへんかったからなぁ…………案の定、彼女の乗った船は襲撃されたっちゅうわけや。満が珍しく慌てて駆けつけた時にはすでに船は海の底」

 

 ハンドルを握っていた佐久間さんの手は、いつのまにかきつく握りしめられていた。

 

「おまけに深海棲艦のせいで、遺体も回収でけへん。おかげで、満は最愛の人に永遠に会えなくてなってしもた」

 

 ひどい話や、と呟く声が聞こえた。

 俺は返す言葉を持たなかった。

 

「一応、3人はみんな海上自衛隊で同じ部隊やったから、約束しとったんや」

 

 この時、俺は初めて理解した。

 この2人の偉大な先輩たちは、本気で海の平和を目指して尽力してきたのだ。飄然たる外貌の中に押し包んできたものは、人々が思うよりもはるかに強靭な信念だ。

 

「わしらはな、そういう哀しいことは、もうナシにしたいんや」

 

 佐久間さんは目線を変えず、

 

「目の前には、まだまだ深海棲艦がぎょうさんおる。わしらの都合なんぞ、相手にとっては知ったこっちゃないねん。敵襲だって毎日のようにあるんや。要するに」

 

 わずかに目を細めた。

 

「立ち止まっている余裕なんてあらへん」

 

 圧倒的な風格を兼ね備えた、孤高の猛将の横顔だった。

 

 

 ーーーー

 

 

「…………チョウ、隊長!」

 

 突然そんな声が降ってきて顔を上げると、立っていたのは航だった。

 

「大丈夫ですか、随分とぼーっとしてましたけど」

 

 言われて緩慢に視線をめぐらせると、時計は夜の11時を示していた。

 佐久間さんに送ってもらって、執務室に戻り、ソファに座り込んでから相当な時間が経過していたようだ。時間が経てば落ち着くかと思っていた頭の中は、未だに混乱しており、思考が全くまとまらない。

 机には電源の落ちたパソコンに、うず高く積み上げられた書類、いたずらに煌々と照りつける蛍光灯。そういったものが、ことごとく奇妙に浮薄なだまし絵みたいに見えた。

 

「橘さんの話は聞きましたよ。大変なことになりましたね…………」

「…………不熱心な奴が、最近は珍しく鎮守府にいるな」

「深海棲艦の動きも活発ですからね。中破する娘も多いです」

 

 言いながら、持っていたコーヒーカップのうち1つを俺の前に置いた。

 

「でも、そんな娘達よりも、隊長の方が具合が悪く見えます。今日は休んだ方がいいですよ」

「勘違いしているようだな。具合が悪いのは俺ではなく、橘さんだ」

 

 航はかすかに眉を動かした。

 

「やっぱり疲れてますよ。それを飲んだら休んでください」

「山ほどの依頼に、艦娘を放置してか?」

「たまには僕がやりますよ。それくらいの余力はあります」

「家にはもうじき3歳の娘がいるだろ。余力もクソもあるか」

 

 人のことより自分の心配をしろ、と言う前に、航が口を開いた。

 

「さっき長門さんから大まかな指示を受けました。細かな指示は全て僕がします。心配ありません」

 

 はっきりと告げて、そっと付け加えた。

 

「今の隊長を見ていると、あの時の大和を思い出すんです。こういう時に、無理をしていてもろくなことになりませんよ、隊長」

 

 言葉よりも情感に、多くを含んだ声だった。

 しばらく沈黙した後、分かった、と俺は答えた。

 航の背中を見送ると、入れ替わりに入ってきたのは不知火だ。

 

「司令、今回の依頼の件ですが、少し問題が」

「…………なんだっけ?」

「中国からの貿易船のことです」

 

 しっかりしてください、と言われてようやく思い出す。

 ふと社員一覧表を見れば、橘さんだけ休みが続いており、途端に無闇な感情が胸に溢れて、俺はしばらく呆然となった。

 

「司令、大丈夫でしょうか?かなり…………」

 

 不知火が言いかけた声を途切れさせたのは、いつのまにか去ったはずの航がそばに立っていたからだ。

 

「隊長、もう休んでください」

 

 静かな、しかし断然たる声だった。先刻とは明らかに異なる厳格な口調だった。

 

「あとのことはもういいです。今すぐ休んでください」

「…………問題ない、忙しいのはいつものことだ」

「忙しいかどうかは関係ないです」

「理不尽が重なるこの状況に、憤りを覚えて少々混乱しているだけだ。余計な心配は不要だ」

 

 我ながら不可解な強情があった。矢継ぎ早な言葉が、俺の意思を無視して飛び出していく。

 航が急に口をつぐんだ。

 わずかの沈黙ののち、

 

「隊長」

 

 静かな呼びかけに、俺が顔を上げた先で、航がすっと右手を伸ばすのが見えた。

 えっ、と不知火が短く声を発するのと、航が右手に持っていたコーヒーカップを、俺の頭の上でひっくり返すのはほぼ同時だった。直後に、濃厚な黒い液体が降ってきた。

 顔面から首筋まで、液体が一息に流れ落ち、あっという間に、白い軍服に黒いシミを広げていった。

 執務室の時間が止まっていた。不知火がただ呆気にとられたかのように口を開けている前で、カップを逆さに持って立っている男と、頭から黒い液体を被ったまま座り込んでいる男が声もなく見つめているだけだ。

 

「ちょ、ちょっと広瀬さん…………」

 

 ようやく声を発した不知火を、航は視線を動かさぬまま黙って片手で制した。

 

「代えの軍服は僕が使わせてもらってますので、もうありません。その格好で執務はできないでしょう?ですから、風呂に入って休んでください」

 

 豊かな声色だった。どこか懐かしさもあった。

 

「それとも、カフェインの効能でも説明しましょうか?」

 

 俺は妙に静かな心持ちで戦友を見上げた。口調は穏やかでも目はいたって真剣だ。

 やがて心地よいコーヒーの匂いが、蜘蛛の巣を被ったような脳内をすっきりとさせた。

 

「ひどいもんだ…………」

 

 俺のつぶやきに、航はかすかに眉を動かした。

 

「すいません、隊長を殴っても良かったのですが、それだとかえって僕の身に危険が及ぶと思ったので」

「君の所業を言っているんじゃない。自分の不甲斐なさを評しただけだ。これだと軍神の名も泣くな」

 

 にわかに溢れたのは苦笑だ。

 と同時に航も苦笑した。

 胸の奥で凍り付いていたものが、ゆっくりと溶け出していく心地がする。人の心というのは、難解かと思えば、単純な振る舞いをするものだ。

 

「こういう無茶は変人と名高い俺の専売特許だと思っていたんだがな…………」

「仕方ないです、朱に交われば赤くなるものですから」

「口の減らん奴だ」

 

 俺と航との苦笑が重なって、忍びやかな笑い声が響いた。

 俺はゆっくりと立ち上がる。

 

「普段働かない男が任せろと言うんだ。今夜は甘えるとしよう」

「そうしてください。こんなサービス、滅多にできませんから」

 

 執務室に背を向けると、そっと廊下へと足を踏み出す。

 

「お疲れ様です、司令」

 

 不知火の、そんな一言がかすかに聞こえた。








今回もあんまり艦娘を出せていませんね…………すいません。もう少し出せるように努力したいと思います。
こう、イチャラブ的な展開は残念ながら苦手分野なようです。閑話などで特訓していきたいと思います。
後、ここまでで何か疑問に思ったことがありましたら、ぜひ教えてください。アンケートも継続していきたいと思います。
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