民間軍事会社"鎮守府"   作:sakeu

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 俺が再び「甘味処ひろせ」に訪れたのは、冬の寒さもようやく和らいだ頃だ。

 前回訪れてから2週間ほどしか経っていないが、軒先の梅の花が開き始めていた。

 一緒に行きたいとはばからなかった熊野とともにそっと格子戸を開けると、店の奥から航の声が聞こえた。

 

「忙しいのに、わざわざすいません」

「渚のためなら無理でも来るさ。航の招きとはわけが違う」

「ハハ、なら渚も幸せ者です」

 

 笑って俺を店内に招き入れた。

 

「渚が言うには、隊長は難しい顔で難しいことしか言わないけど、きっと優しい人なんだそうですよ」

「なんなんだ、それは」

 

 気難しく答えたところで、さっそく店の奥から「おじちゃん」と叫んで渚が駆けてくる。そのまま俺の足にしがみつくと、今度は傍らに向かって、

 

「熊野お姉ちゃんも!」

「お久しぶりですわね、渚ちゃん」

 

 熊野の澄んだ声が答える。俺は、足元の少女を抱き上げようとして、思いのほか重いことに驚いた。3年と言う年月も馬鹿にはできない。

 

「鎮守府は大丈夫なんですか?」

「至って順調だ。心配する必要はない」

 

 事実を言えば、今日も大荒れだ。今もいつ呼び出されるか分からない状況だが、そんなことをいちいち話してもしょうがない。世の中、時には沈黙も大事だ。

 天井の豪壮な梁を眺めながら、俺は露骨に話題を変えた。

 

「今日は君が作る羊羹を食べれるんだろ?」

 

 航は奥の厨房に向かいつつ、肩越しに頷いた。

 

「作るのはいつぶりだ?」

「横須賀では忙しくて暇がありませんでしたからね。6年ぶりになります」

「だが、娘の誕生日に和菓子を作ってやるのは君にしかできない芸当だな」

「そんな大したことじゃありませんよ」

 

 長いブランクがある割には、手慣れた動作で腕を動かしていく。航が作る羊羹は母には及ばないものの、十分に絶品だ。部隊にいた頃は幾たびか馳走になった。

 手際よく鍋をかき混ぜ、砂糖を加え、そして蜂蜜も加える。航曰く隠し味らしい。その手際は見事なものだ。いつのまにか足にしがみついてきた渚を見ると、何やら不服そうな顔をしている。熊野が、

 

「ワタルさんが何をしているか見たいのですわね」

 

 と珍しく機転を利かせて、椅子を1つ運んでくると、渚は嬉しそうにその上に飛び乗った。

 

「今日は渚の誕生日だからね。ちゃんと渚の分もあるよ」

「うん」

 

 明るい声が店内に響いたところで、

 

「広瀬さん、お届け物です!」

 

 突然景気の良い声が聞こえて、ついでに格子戸から若い男が顔をのぞかせていた。

 

「すみません、隊長。手が離せないので、代わりに受け取ってくれませんか?」

「分かってる。せっかくの羊羹が台無しになっては残念だからな」

 

 言いながら店先に顔を出して届け物を受け取る。30センチ四方の白い箱は、バースデーケーキか。和菓子があるというのに、用意周到な奴だ。

 適当に伝票にサインしつつ、ふと目を細めて差出人の欄を見た。

「なるほど」と1人に納得して、そのままケーキを店内に運ぶと、さっそく渚が興味を示して駆け寄ってきた。

 

「渚のためのケーキだ」

「ケーキ!」

 

 と嬉しげな声が答える。

 

「ケーキ?」

 

 反対に訝しげな声を発したのは、航の方だ。

 せっかく煮詰めている鍋をほったらかしにして、厨房から出てきた。

 

「ケーキが来たんですか?」

「ああ、正真正銘のケーキだ。そんな妙な顔をしなくてもいいだろ。頼めば届けるのがケーキ屋なんだから」

 

 少し首を傾げて、航は不思議そうに呟いた。

 

「…………頼んだ記憶はないんですけど」

「ま、君に覚えがないのは当たり前かもしれないな」

 

 俺がそっと箱を開けて、真っ白なバースデイケーキを引き出すと、航が大きな目を開けた。その隣で、まぁと小さく呟いたのは熊野だ。

 少し沈黙したのち、俺は抑揚を抑えて告げた。

 

「ほぼ満身創痍な状態だったが、まだ負けてはいなかったようだな、ワタル」

 

 航が小さく頷いた。その横顔は、少しばかり高揚しているのか赤らんでいる。航は、足元にしがみつく渚を見下ろして、そっと抱き上げてケーキを見せた。

 

「渚のケーキだよ」

「渚の?」

 

 少女はとても嬉しそうな顔をしながら、ケーキの上を指差す。

 

「なんて書いてあるの?」

 

 大きな板チョコには、ホワイトチョコレートで短い文章が書いてある。

 

「渚はまだ文字は読めないのか?」

「うん」

 

 航は少し間をおいて、静かな声で読み上げた。

 

「ナギサへ、たんじょうびおめでとう、ママより」

 

 航の語尾はかすかに震えていた。と同時に、渚の目が大きく輝いていた。

 

「おめでとう、渚…………」

 

 様々な思いとともに航の声が漏れ、その手がそっと愛娘の髪を撫でた。

 後退に後退を重ねた戦況だったが、まだ負けてはいなかった。そして土壇場における粘り強い攻防は、航のもっとも得意とするところだ。それが横須賀鎮守府で、艦隊を勝利へと導き、今回のようになった。

 

「おめでとう、渚」

 

 もう1度、今度は明るさを持ち直して、航ははっきりと告げた。うん、告げる少女の声にも張りがある。

 何かがゆっくりと動き出していた。凍りついていた時間が溶け出し、目には見えない地下に確かな流れを刻み始めたようであった。

 

「お誕生日おめでとう、渚ちゃん」

 

 熊野の澄んだ声が響いた。

 まるでその声に呼応するかのように、外で舞い上がった梅の花びらが、ふわりと屋内に迷い込んで、渚の見守る卓上に舞い降りた。

 橘さんが、治療を受けると告げたのは、その2日後であった。

 

 

 ーーーー

 

 

「これをあなた達に託します」

 

 朝見舞いに訪れた俺に、橘さんはそっと分厚い紙の束を差し出した。

 朝の早い時間なのに、すでに鳳翔さんの姿があり、ベッドの橘さんも身を起こして俺と長門を待っていたのだ。橘さんの頰にはいつもと変わらない穏やかな笑顔があったが、その頰が思った以上に痩せていることに、俺はかすかな動揺を覚えた。

 

「目を通してください」

 

 言われるがままに紙の束をめくって、俺は驚いた。

 横から覗き込んだ長門もまた、目を見開いた。

 それは我が鎮守府の所属する艦娘の一覧表だった。

 ただの一覧表などではない。それぞれの経歴はもちろん、性格や演習時の分析などがこと細やかにびっしりと書きつけられていた。さらには、これまでの艦娘を使った戦術が分析とともに書き綴られている。

 

「これは…………」

「身体は弱いですけど、分析能力には自信があるんです」

 

 痩せこけた頰に穏やかな微笑がある。

 俺はやっと納得した。その納得は長門が声に出してくれた。

 

「治療を待ってくれとおっしゃったのは、これを作るためだったんですか?」

「化学療法はいろいろ副作用があると聞きますからね。大切なことを書き落としてしまう可能性もありましたから、早めに仕上げてしまいたかったのです。後半は、鳳翔に口述筆記をしてもらいました。年寄りの右腕が腱鞘炎になりそうでしたからね」

 

 鳳翔さんも格別誇る様子もなく、いつものように穏やかなままだ。2人して、ろくに休まずにこの大仕事を成し遂げたはずなのに、そこには疲労の色がまったく感じられなかった。

 

「あなた達には大きな迷惑をかけてしまうことになりますが、艦娘達をよろしかお願いします。そして…………」

 

 少し姿勢を正した橘さんが続けた。

 

「私はこれから病気との闘いになりますが、あなた達は深海棲艦との闘いに集中してください」

 

 それは小さくとも、高らかに響く鼓舞の声だった。

 橘さんの傍らで鳳翔さんも深々と頭を下げた。ほとんど同時に、鮮やかな朝日が差し込んで室内を照らし、俺たちはその眩しさに目を細めた。

 

「ともに頑張りましょう、橘さん」

 

 そう告げたのは、長門だった。日頃は冷静なこの艦娘は今は敢然として声を上げていた。その気持ちは俺も同じだ。

 

「深海棲艦のことなんか心配に及びません。橘さんが治るまでごく僅かな期間のことです。なんの支障もありませんよ」

「提督さん、あなたの言葉いつも難しくていけない」

 

 橘さんの声に鳳翔さんの柔らかな笑い声が重なった。

 橘さんの肩越しに、前見た時より少しばかり大きくなった桜のつぼみが見えた。まるで、俺たちの凱旋を祝福するために準備しているかのように。

 厳しい冬の季節は終わりを告げ、新たな春がその姿を見せようとしている。

 そして、病魔との過酷な闘いが始まったのである。

 

 

 ーーーー

 

 

 病院から戻ってきた俺は、ソファに倒れこむように寝て、窓の外を眺めるとの同時にため息を吐いた。

 

「朝なのにもうお疲れね、司令官」

 

 突然の労りの声に、俺は慌てて背筋を伸ばした。振り返れば、叢雲が執務室に入ってきた。

 

「大丈夫?」

「問題なしだ。今日の執務を始めよう」

 

 俺は軍服を上から着て、椅子に座りながら言った。

 

「今日は演習だけよ」

「…………え?本当か?」

「本当よ。最近は落ち着いているみたい」

 

 どうりで今日の鎮守府の雰囲気がゆったりとしているわけだ。目まぐるしく展開する日常とは、かけ離れた雰囲気だ。

 

「すぐにコーヒー淹れてあげるから待ってなさい」

 

 そう言って手際よく作業を始めた。

 叢雲の言う通り、月月火水木金金状態で働いていた状況から一転、ここ何日かは依頼の電話も1日1、2回くらいに収まっている。今までの疲労を癒すのに絶好の機会ではあるが、ここまで落ち着いていると嵐の前の静けさのような気がして不安になる。

 

「調子はどうなの?」

 

 振り返りもせずに叢雲は聞いた。

 

「調子?」

「橘さんよ。あまりよくないらしいじゃない」

 

 お湯を注ぎながら言った。

 

「もう耳に届いていたのか」

「明石が言ってたのよ。今回はシャレになんないって」

 

 艦娘の中で一番ショックを受けていたのは、工廠にいつもいる明石と夕張だ。橘さんは2人を弟子のようにいや、娘のように接していたし、彼女達も父のように思っていただろう。それ故に、ショックは誰よりも大きい。

 

「橘さんがそんな様子なら、明石と夕張も落ち込んでるわよね」

「そうだな。最近は少し過労気味だし」

「少し義務感があるじゃないの?橘さんに心配かけたくないからって」

 

 カップを俺の前に置く。

 

「でも未だに信じられないわね。倒れる寸前まで夜中まで工廠にいたのに…………」

 

 もう1度呟いて叢雲はため息を吐いた。

 橘さんは不思議と心を許してしまう雰囲気がある。基本的には厳しい叢雲も、橘さんには穏やかな笑顔をよく向けていた。

 

「鎮守府の良心がいなくなると、ここもカオスよね」

 

 そう言って笑う叢雲に、

 

「まったくだ。夜戦バカに脳筋、お嬢様気取りに、飲兵衛…………」

「あと捻くれ者もね。…………はぁ、神様も少しくらい人情があってくれたらいいのに。死にたくても死ねない寝たきりの年寄りは沢山いるのに、よりによって橘さんを連れて行こうとするなんて」

「連れて行かれるとは、まだ決まってない」

「そうね。でもねぇ…………」

 

 再びはぁとため息を吐いたその横顔が寂しげに見えた。少々毒舌な叢雲だが、根は優しいのだ。

 

「それに死にたくても死ねないだなんて、不謹慎だぞ。生きて欲しいと願う人はいるんだ。それはただのわがままだが」

「不謹慎だって分かってるけど…………」

 

 もう1度大きくため息を吐いて、

 

「本当、わがままよね。私たち艦娘を人外だと叫んで非難するかと思えば、今度は新たな救世主だって言って、でも問題が起こればやっぱり艦娘は不要だって…………」

 

 社会的にも艦娘は認められつつあるものの、やっぱり風当たりは強い。今でも、ヘイトスピーチが行われるほどだ。

 そんな時に、電話が鳴り響いた。眉をひそめる叢雲の前で電話に出れば、平和運動団体の方からの電話だ。久しぶりかかってきたのだが、その内容はいつも通り平和の云々。

 

「相変わらず、ね」

「ましになった方だろう。発足当時はデモも起きたくらいだったろ?」

「そうね」

 

 海の平和も大事だが、艦娘と一般市民の溝も埋めるのもこれからの課題だろう。

 とにかく、俺はコーヒーを口に含み嫌な空気とともに飲み下した。

 

「本当、ここまで頑張れてこれたわよね」

 

 ああ、と答えてから、俺はコーヒーを一気に飲み干した。

 

 

 ーーーー

 

 

 橘さんがまた倒れた。

 それは病院からの連絡だった。

 倒れたとは言っても前回とは状況が違う。今回は車椅子に乗って鳳翔さんとデイルームに出ている時に、突然意識を失って昏倒したという。

 俺が駆けつけた時には、橘さんは自室のベッドに戻っていた。倒れた直後はまったく反応しなかったらしいが、CT検査をしているうちに、意識は回復し始め、病室に戻った時はほとんど元に戻っていたということだ。

 目の前には、いつもと変わらない笑顔の橘さんがいる。

 

「今日はいい天気でしたからね。デイルームから海が見えるって聞いて、見に行こうとした矢先でした」

 

 やってきた俺に向かって、呑気にそんなことを言う。

 

「今でこそは、もう誰も海に行けなくなってしまいましたが…………昔は友人たちとよく船で行ってたんです。鳳翔とも行きましたね、護衛も兼ねて。釣りをして、満天の星を眺めたりしました。今だと行ける状況でもありませんが…………」

 

 のんびりとした声が続く。口調はしっかりとしているが、気のせいか注意が散漫しているように見える。傍らに立つ鳳翔さんはただ黙って見守るだけだ。俺のとは比べものにならないほどの不安があるはずなのだが、そんなことは心のうちに沈めて、ただ時折、橘さんの声に頷き返している。

 とにかく橘さんが大丈夫なのを確認して、そっと病室を出た。

 部屋の前では、橘さんの担当医師が待ち構えていた。俺の姿を確認すると、手に持った写真とともに

 

「少しお話、よろしいでしょうか?」

「大丈夫ですけど…………よくないんですか?」

 

 差し出された写真は頭部のCT写真らしい。

 

「よくないことは間違いないんですが…………少なくとも現時点では麻痺もなければ、感覚障害もない。それにこの写真でもおかしなところはありません」

「…………どういうことなんですか?」

「何か起こっているのか、分からないという状態です」

 

 俺はもう1度視線を写真に写してみる。

 残念ながら医療の知識は皆無に等しい。何がなんなのかはさっぱりだ。

 

「…………もしかしたら、私は1つ重要なことを見逃していたのかもしれません」

 

 俺が少し混乱している中、先生は厳しい表情で、言葉を選ぶように語を継いだ。

 

「このような状態なら、当然注意すべきでした。今から1つだけ検査を追加します」

 

 先生は切羽詰まった様子で言う中、俺はただ呆然とするだけしかなった。

 

 

 ーーーー

 

 

 追加する検査というのは"髄液検査"と言うらしい。

 髄液というのは、脳や脊髄を包む液体で、とても重要な液体らしい。なんでも、人の脳は頭蓋骨の中に直接どっかりと据えられているのではなく、この髄液の中に浮いているらしい。

 髄液検査自体はそんなに困難ではないらしく、橘さんの腰のあたりから細い針を刺して少量の液体を抜き取っただけだった。結果が揃うのには、1時間はかからなかった。

 

「中枢神経浸潤?」

 

 橘さんの病室とは別の部屋で、鳳翔さんの怪訝そうな声が響いた。

 室内にいるのは、俺と先生と鳳翔さんだけだ。

 

「悪性リンパ腫の中枢神経浸潤です」

 

 感情を押し殺して答える先生の声に、鳳翔さんは音もなく2階程瞬きした。

 

「厳しい…………ということなんですね?」

「今も精密検査をしていますが…………治療内容の変更が必要です。強力な化学療法に」

「満さんはどれくらい持ちますか?」

 

 今度は先生が沈黙する番だった。俺は黙って鳳翔さんの方を見れば、ただ静まった目が先生を見つめていた。

 

「…………その新しい治療は、満さんの身体で持ちこたえられるんですか?」

 

 あくまで淡々とした声だった。先生は答えることができず、ただ沈黙して視線を落とした。

 胸中によみがえるのは、あらかじめ俺に話していた時の先生の顔だ。

 

「どういう状態なんでしょうか?」

「…………髄液中に本来ありえない細胞が見られます」

「ありえない細胞?」

「腫瘍細胞です。つまり、頭の中にまで転移しています」

 

 目の前がぐらついたかのような気がした。

 

「もっと早く気付くべきでした…………考えれば、最初に倒れたこと自体、神経浸潤のせいだったと思います」

 

 先生のその言葉も俺には実感の湧かないものであった。

 俺はそんな重い記憶をふりきって、押し沈めた。

 

「病状が厳しいことは確かです。とにかく、薬剤を変更して治療を継続します」

 

 鳳翔さんはゆっくりと一礼すると、普段と変わらない静寂をまとったまま、落ち着いた動作で立ち上がった。

 

「満さんのそばにいることにします。せっかくの大切な時間ですから、少しでも2人で過ごしたいんです」

 

 鳳翔さんが退室し、先生も退室して取り残された俺はただ頭を抱えるしかなかった。

 

 

 ーーーー

 

 

「負け戦、やな」

 

 しばらく頭を抱えていた俺の元に、佐久間さんは相変わらずの豪放な雰囲気のまま訪れた。

 今、その手には検査結果が握り締められている。

 

「負け戦や…………」

「繰り返さなくても分かってます!」

 

 思わず声を荒げてしまった。慌てて頭を下げる。

 

「…………すいません」

「謝らんでええ。わしもそんな気持ちや」

 

 相変わらずブレない声が続く。

 

「あと1ヶ月ももたへんらしいな」

 

 静かな声が厳然たる響きを帯びていた。

 橘さんの胸のレントゲン写真には隆々と大きくなった異物がはっきりと写っていた。2週間前の写真はそんなのは見られなかった。つまりは、2週間の化学療法は全く効いていなかった。

 

「今日の夕方から強力な化学療法に切り替えるらしいです」

「満にはなんて言ってたんや?」

「俺からは何も言っていません」

 

 少し沈黙したあと、

 

「多分言わなくても、橘さんのことなら分かってるでしょう」

「…………せやな」

 

 小さくつぶやいた佐久間さんは、そのままどかっと椅子に座った。

 かと思えば、おもむろにポケットから煙草を取り出している。

 

「…………禁煙ですよ」

「はたちゃん、夜の海は知っとるか?」

 

 俺の言葉なんてききながして、そんな事を聞いてきた。

 夜の海なんていうまでもなく危険である。

 ただでさえ黒を基調とした深海棲艦は夜になればその姿を捉えるのは難しくなってくる。下手をすれば一方的にやられるのだ。と、生まれた時からそんな風に教えられてきた。

 

「夜の海はな、ひるとは違ごうて光源が全くないもんやから、星がよう見えた。わしらは昔はよく夜の海に繰り出したもんや。満も好きやったわ」

 

 ポツリと呟く言葉とともに、ほのかな紫煙が立ち上がる。

 

「夜の海は満にとっては忘れられないんや」

 

 ゆっくりと昇る煙を見つめながら、はるか昔を思い出すかのように続ける。

 

「満が恋をした時は夜の海やった。プロポーズしたのも夜の海。あいつが泣いたのも夜の海。鳳翔に会ったのも夜の海…………まぁ、鳳翔の時はわしらが仕組んだんやけどな。今じゃ、考えられへんかもしれへんけど、友達みんなで夜の海に星を見に行こうってなったんや。機械いじりばっかりで引き込もっとった満を無理矢理連れ出したんやけどな。そん中には鳳翔もおった」

 

 物腰は柔らかくても芯が強い鳳翔さんと、いつでも飄々としていて頼らない橘さんは、出会った時から不思議と気が会ったらしい。道中でずっと話していた2人は、星がよく見えるスポットに着いた時はすでに友情を超えた感情が芽生えていたらしい。あくまで佐久間さんの主観的な表現だ。

 いずれにしろ、佐久間さんは一計を案じた。

 みんなで2人が星に見とれている間に、彼らは船内に姿を消したのである。学生のような安易な思いつきだったが、作戦は極めて有効だったらしい。

 満天の星の下に取り残された2人。

 その間でどのような問答をされていたかは分からない。ただ確かなことは、2人の距離は友人のそれとは別物になっていたということだ。

 

「そんな思い出が…………」

「2日前のことなんやけど、何かしたいことはあるんって満に聞いたんや。そないしたら、笑いながらな、"また夜の海に行ってみたいです"と言いやがってん」

 

 佐久間さんは苦笑をしようとしたが、うまくいかなかった。

 

「無理に決まってんちゃうか、こないな状態で」

 

 行き場のない哀感に満ちた一言だった。

 

「神様も意地が悪いでなぁ…………」

 

 やがて佐久間さんは、そのまま手をひょいとあげて、部屋から出るように手を振った。俺は何も言わずにただ一礼して部屋を出た。

 廊下にそっと出て扉を閉じようとしたところで、突然ドンっと鈍い音が響いた。それに驚いて室内を顧みると、椅子に座ったままの佐久間さんが右手の拳をテーブルに叩きつけていたのだ。目はしっかりと見開かれ、口元は穏やかに結んだまま、だがテーブルの上に叩きつけられた拳だけは小刻みに震えていた。

 もう一度言う拳が振り上げられ、テーブルに叩きつけられる。

 ドンッ、

 重い響きは廊下まで響く。さらにドン、ドンと殴り続ける音のみが続く中、佐久間さんは眉ひとつも動かず、ただひたすら拳を打ちつけていた。

 やがて動かすを止めた佐久間さんの大きな方が1度だけ震えた。

 涙はなかったが、それは確かに泣いている姿だった。

 

 

 ーーーー

 

 

 鎮守府に戻った俺がビール缶を手に港に出たのは夜の12時頃だった。

 

「散歩か?」

 

 と長門に告げられ、俺はただ黙って頷くだけだった。

 酒を飲むなら、居酒屋「鳳翔」があるが、肝心の鳳翔さんは橘さんにつきっきりなので最近は開いていない。ここはなかなかに田舎で店を探すがどこも開いていない。それでも、遠いコンビニまで向かったのは、胸中にわだかまる感情のやり場がなく、立ち止まっていられなかったからだ。店が開いているかどうかは問題なのではない。

 気がつけば、そこら中に"死"の気配があった。

 昔は嫌という程見てきた死神が、今はすぐ背後でうすら笑いを浮かべて、気まぐれかのように大きな鎌を振り回しているような妄想が離れられない。俺がやたらとアクセルを踏むのはその妄想かを振り切るためだったのかもしれない。

 2つほどビール缶を空けて3つ目に差し掛かった。普段、酒にうるさい俺がこのようでは、周りからしたらひどいものだろう。

 大して酒が好きでもないのに、飲み続ける。唐突に不可解な苛立ちに襲われる。気がつけば、右手のビール缶が握りつぶされていた。チッと舌打ちをして、4つ目に手を伸ばそうとしたところ、人影が俺の前に現れた。

 たじろぐ俺の前に現れたのは、背の高い長門だ。

 

「健康にうるさい貴方が、やけ酒だなんて珍しいな」

 

 そんな事を言いながら、俺の横に腰を下ろす。ずっと俺のことを探していたのだろうか?

 どう答えたらいいかと思案しているうちに、長門の声が聞こえた。

 

「私も一緒に飲んでもいいか?」

 

 俺は唐突の問いに困惑する。

 

「…………こんなに飲むつもりなのか?」

「いや…………」

 

 俺はレジ袋の無駄にたくさんあるビールに目を向ける。とにかく、俺は持てる分だけ買ったのだ。その時、店員の目は怪しむ目だったが気にしてもしょうがない。

 

「ベロンベロンになるほど飲めば、少しマシになるか、と」

「さぁな」

 

 全くもっての図星なのだが、俺は誤魔化す。2つ空けたが酔いというのは感じられない。

 

「悪いな」

 

 しばらくの沈黙の後、俺は吐き出した。周りはただ波の音がするだけ。

 長門はむしろ不思議そうな顔をする。

 

「夜中にやっと帰ってきたかと思えば仕事もせずに酒を飲んでいる。本当にすまん」

「いや、私もちょうど飲みたかったんだ」

 

 笑ってビール缶を開け、そのまま飲む。思えば、2人っきりで酒を飲むのは初めてだ。

 

「橘さん、よくないんだな」

 

 俺は小さく頷いた。

 憂鬱な気持ちを振り払おうと5つ目に手を伸ばそうとすると、それより先に長門が缶を取り上げた。そして、おもむろに一気に飲み干す。思わず目を丸くした。

 

「大丈夫なのか、そんなペースで飲んで」

「今日は、貴方の分まで飲もう」

 

 空になった缶を睨みつけてそんなことを言う。

 

「苦しい酒は貴方の分まで飲もう。美味い酒は、貴方と一緒に飲もう」

 

 ドンと胸を叩いて「私に任せろ」と澄んだ声を響かせた。

 酒にあまり強くないせいなのか、無茶な飲み方のせいか、その頰はすでに朱く染まっている。いくらか潤んだ瞳が美しい。俺はじっと長門の瞳を見返し、にわかに俺は5つ目よビールを取り出し一気に飲み干した。

 

「む、よくないぞ、提督」

「苦しい酒はこれで終わりだ。今からは美味い酒で、仕切り直しだ、長門」

 

 俺の珍しく大きな声に、少し驚いた長門は、すぐに赤い頰に微笑を浮かべた。それから目の前で、ぴっと人差し指を立てて、

 

「なら、1つ愉快な話をしよう」

「そうか、なら愉快だ」

「まだ何も話していないぞ」

「君が愉快と言えば、それだけで俺は愉快だ」

 

 戯言を吐けば、長門の軽やかな笑い声が応える。

 

「朝潮が元気になった」

「そうか」

「ん、案外素っ気ないな。満潮が来てから、随分と笑顔が増えた。今の満潮は少しあれだが、朝潮がどうにかするだろう」

「やはり、人を元気にするのは人、か…………」

「そうかもしれんな。ま、入れ替わるように今度は貴方に元気がないが」

 

 俺は黙って缶を傾ける。

 

「もう少し元気になる話をしてやるか?」

「まだあるのか?これ以上愉快になると、足下の不愉快に申し訳なくなるぞ」

「不愉快とは毎日付き合ってるだろ?今日くらい遠慮してもらってもいいだろう」

 

 長門は、自信いっぱいの様子で、軽くコホンと咳払いしている。

 

「昨日、鳳翔さんから聞いた話だ。見舞いに行った時に、橘さんが寝ている横で、出会いの話をしてくれた」

 

 うん?と俺は目を細めた。

 

「夜の海の話か?」

「知っているのか?」

「今日たまたま、佐久間さんから聞いたんだ」

「満天の星空の下で、2人からなんて素敵だな。夜空を見ながら、鳳翔さんが"星が綺麗ですね"って言ったら、橘さんなんて答えたと思う?」

「さぁ?だが、橘さんのことだ。きっと軽妙な答えでもしたんじゃないか?」

「いいや。"星もですが…………海も綺麗ですね"って」

 

 思わず手に持っていた缶を落としそうになった。あの飄然とした橘さんがそんな情熱的なことを言うなんて想像がつかない。

 

「鳳翔さんは鳳翔さんもびっくりして思わず、"ありがとうございます"って」

 

 俺と長門の笑い声が和した。

 

「本当に幸せな思い出だって」

「橘さんに今何かしたいことがあるかって聞いたら、もう一度海に行きたいって答えたそうだ。また、あの夜空を眺めたいと」

「…………鳳翔さんと同じ思いなんだな」

 

 長門は少しだけ寂しげに目を細めた。手元の缶から俺に視線を移し、

 

「無理、なんだもんな」

「…………今は深海棲艦の動きが活発だ。それに自衛隊の奴らが黙って見ているわけがない」

 

 そうか、と長門は肩を落とした。

 

「どこにいるかと思えば、お酒なんかを飲んでいらしたのね」

 

 ふいに頭上から熊野の声が降って来た。

 

「なんの話をしていらしているのです?」

「夜空の話だ」

「海から見る夜空は絶景だろ?」

「そうですわね」

 

 俺はおもむろにビール缶を取り出して、

 

「飲むか?」

「あなたから誘うだなんて珍しいですわね」

 

 そう言いつつ、熊野は缶を受け取った。

 やけ酒のはずが、いつしか星空の下で賑やかな宴会へと切り替わっていた。

 

 

 ーーーー

 

 

 宴会がいつ終わったのかは判然としない。

 少なくとも提督が山のように買ってきたビール缶を3人で空けたのは事実だ。提督の飲みっぷりは尋常ではなく、顔色ひとつ変えずにビールをジュースかのように飲む姿があった。

 しかし、私と熊野はそれほど酒に強くはない。2人はかろうじて執務室に戻り、ソファに横になった。なぜ私たちの倍以上は飲んでいる提督がしっかりとした足取りで歩けるのか疑問である。

 視線を横に向ければ、焦点の合わない熊野が天井を眺めていた。

 

「わたくし、とっても素晴らしいことを思いつきましたわ」

 

 若干呂律が回っていないが、嬉しそうにつぶやいた。そしてその内容を話すと、わたしは目を見張った。

 

「本気か?」

「どうだと思われます?」

「呆れた奴だ。本気でできると思っているのか?」

 

 ようやくそれだけ答えた私に、熊野は微塵も迷いを見せない。

 

「2人だけなら無理ですわ。皆さんの力を借りますのよ。借りられる人全員の力を借りますわ。きっと橘さんのためと言えば嬉々としてやってくれますわよ」

 

 真っ赤な顔でそう言う熊野に私は首肯するしかない。

 

「無理、ですの?」

「普通に考えればできないな。だが、橘さんのためと言われればやるしかない」

「ええ、やりますわよ!」

 

 言うなり立ち上がって声を荒げた。

 提督から熊野は酔うと妙に頭が冴えると聞いていたが、本当だったらしい。

 ドサっという音が聞こえて、熊野の方を見れば静かな寝息を立てていた。

 酒のせいで頭がグラグラしているが、不思議な高揚感が胸中を占めていた。











星が綺麗ですね→貴方は私の思いは知らないでしょうね
海が綺麗ですね→貴方に溺れています

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