民間軍事会社"鎮守府"   作:sakeu

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「被弾が多くなっている」

 

 提督の声が執務室に響いた。今回の戦績をまとめている。

 

「…………艦娘たちの士気が少し下がっているのもあるが、俺の見立てが甘すぎるのもある」

 

 提督はやや自虐的に言った。

 そんなことはないです、と広瀬は言うが提督は頭を抱えたまま。

 夕方の6時だ。この時間になると、広瀬は迎えに行かなければならない。今のところは落ち着いているため、今日は無事に迎えに行くことができるはずだが、広瀬は眉間に深いシワを刻んだまま提督を見つめている。

 提督がこんなに自虐的なのは理由がある。橘さんの状態は悪化の一途を辿っているのだ。

 そのせいで、いつもの冴えた采配も今は見る影もなく、艦娘の被害が増加する一方にある。増えて行くばかりの被害に、提督はやがて目を閉じた。

 

「笑ってくれ、長門…………」

 

 きつく唇を噛む提督の姿があった。

 

「橘さんに任せておけ、とか偉そうな言いながら、この始末だ。橘さんよりもショックを受けているから、こんな不手際をやってる…………」

「提督が落ち込む話じゃない」

 

 私の声に、しかし提督は顔を上げなかった。

 

「仮に違う艦隊を組んでいたら、戦果は絶対成功していたのか?そういうものじゃない」

「そうですよ。誰だってミスはありますから…………」

 

 広瀬が慰めの言葉をかけたがそれは逆に働いてしまったようだ。目元で指を押さえたまま、提督は続けた。

 

「俺は艦娘の命を預かっているんだ!ミスは絶対に許されない…………許されないんだ」

 

 そのまま提督は立ち上がり、肩を落としたまま執務室を出て行った。

 あとには重苦しい沈黙ばかりだ。私は、ゆっくりと執務室を見回す。叢雲と熊野は入渠したばっかりだ。

 つまりは、私と広瀬以外は誰もいない。

 

「指揮するだけが、提督の役目なのだろうか?」

 

 明後日の方向を眺めたまま、私は告げた。

 視界の片隅で、広瀬は怪訝な顔を向ける。

 私は視線を変えないまま、言葉を続けた。

 

「今の提督は、指揮官がなんたるかについて、見失っているらしい。指揮するだけが、仕事ではない」

 

 わずかに眉を動かした広瀬は、静かに口を開いた。

 

「…………何か考えてます?長門さん」

「まぁな。橘さんのための一仕事が残っている」

「一仕事?」

 

 私は少し声音を落として続けた。

 

「少し大きな仕事になる。おまけにリスクばっかりで何の報いもない」

「そんなことは、慣れっこです」

 

 広瀬の声が遮った。

 見返せば、広瀬の目元には、いつのまにか端然たる落ち着きが戻っている。

 

「話してください、長門さん」

「…………君には少し荷が重くなるぞ?大丈夫か?」

「長門さん」

 

 と広瀬は私に向き直った。

 

「僕だって橘さんにはお世話になっています。何か恩返しがしたいと常々思っているんです」

 

 目元にはかすかな笑みがある。少々融通の利かないところはあっても、土壇場ではやっぱり頼りになる男だ。

 

「提督の言う通り、口の減らない男だな」

 

 私もまたようやく笑みを返してから、腹中の計画を打ち明けた。

 

 

 ーーーー

 

 

 翌日の早朝、軽空母寮だ。

 

「ん?ビッグ7が何の用だい?」

 

 隼鷹が酒瓶を片手に振り返った。いつものように朝っぱらから酒を飲んでいる。

 

「隼鷹に相談があってだな」

「相談?」

 

 仏頂面の私に、隼鷹は意味ありげにニヤニヤと笑う。

 

「いつもは注意してくるのに、しかも朝っぱらから来るなんて…………わけありか?提督とでも喧嘩したのか」

「そんなことをお前に相談するわけないだろ。もっと愉快な話だ。軽空母たちの協力が必要なんだ」

 

 隼鷹は不思議そうな顔をする。

 

「いくらか派手な仕事になる。海軍からは目をつけられるかもしれん」

「へぇ、面白そうじゃん」

 

 にわかに興味を示した。困った奴だ。

 

「まぁ、面白いと思うぞ」

 

 私も笑みを浮かべ、静かに飲兵衛どもを差し招いた。

 

 

 ーーーー

 

 

 明石が軽く眉を動かして私を見返した。

 

「本気ですか、長門さん?」

 

 昼過ぎの工廠は、午前中ほどではないものの、機械が入り乱れて相応の喧騒ぶりだ。今も夕張が後ろで何かをいじりながら、突然やってきた私に不思議そうな視線を投げかけている。

 明石は昼食のおにぎりを食べながら、片手で器用にタッチパネルを操作している。全く画面を見ずに、モニター上を行き来する手さばきは、さすが工作艦だ。

 

「本気だ。だから、工廠のお前たちの協力が必要なんだ」

 

 ぽりぽりと頭を掻きながら、明石は私を見返した。その手がパネルの上で止まっている。

 

「橘さんのためならなんでもやりますから」

「そうか、少々大変な仕事だが大丈夫か?」

 

 明石は、おにぎりの残り一口を頬張ると、咀嚼を終えてから答えた。

 

「簡単なことですよ」

 

 

 ーーーー

 

 

 両手に腰を当てた叢雲が、私を睨みつけた。

 夜の鎮守府だ。働き者の叢雲は、昼でも夜でも鎮守府でせっせと働いてる。

 

「呆れた話だわ」

 

 大きなため息とともに言葉が放り捨てられた。

 じっと見返す私に向かって、

 

「今朝から、広瀬さんや熊野が鎮守府内をウロウロしているから、何か企んでいるってことは気づいていたけど、そういう話だったのね」

「企んでいるとは人聞きが悪い。水面下で根回ししていただけだ」

「おんなじことでしょ。いくらなんでもそれは無理に決まってるじゃない」

「無理は承知だ。責任は私がとる」

「責任って、何ができるのよ?海軍で死ぬまで働くつもりなの?」

「それは願い下げだ」

 

 即答して慌てて口をつぐむ。叢雲の形の良い眉に険が生じている。その険悪な雰囲気を破ったのは、対照的に明るい声だ。

 

「や、やりましょう、叢雲さん」

 

 いつのまにか背後に立っていた神通だ。

 

「どうしたのよ、神通さんまで」

「きっととても大事なことなんだと思うんです。私も手伝います」

 

 あの気弱な神通にしては、不自然なくらい決然たる口調だ。

 それを一瞥して叢雲が答える。

 

「神通さん、広瀬さんに何か言われたでしょ?」

 

 え、と顔を赤らめてあからさまに動揺する。叢雲は軽くひと睨みして、

 

「広瀬さんのファンになるのは別にいいけど、あんまり簡単に受けてるとあとで苦労するわよ。指揮官なんて、結局戦場のことばっかり考えていて、私たちの苦労なんて1つも頭にないんだから」

「そ、そうなんですか?」

 

 すぐに青くなってあたふたしている。まだまだ修行が足りないようだ。このままでは風向きが悪いので、たまたま通りかかった鈴谷に水を向けた。

 

「鈴谷はどう思う?」

 

 ちらと顔を上げた鈴谷は、遠慮がちに答えた。

 

「え…………いいんじゃない?」

「ふむ、賛成というわけだな」

 

 小さく頷いたのを確認して、どうだ、と叢雲に目を向けると、さっき以上に呆れ顔だ。

 

「鈴谷は熊野から話しがいってるわけね?」

 

 鈴谷はバツが悪そうに目をそらした。

 やがて叢雲が大きくため息を吐いた。

 

「ほんと、気楽なことを言ってくれるわ」

 

 その切れ長の目がじっとわたしに向けられている。ここで逃げ回っていても仕方がない。あえて堂々と答えた。

 

「鎮守府中の若手から大きな支持を得ているお前が力を入れて貸してくれなければ、この仕事は成功しない」

「人を影のボスみたいに言わないでよ。私はただの駆逐艦よ」

「ダメか?叢雲」

「ダメなんて言ってないわ。…………はぁ、このメンバーだと私1人が常識人ぶらなきゃならないから損な役回りだわ」

 

 額にかかる前髪を、さっと搔きあげから、軽く肩をすくめて見せた。

 

「で、いつまでに準備すればいいの?」

 

 わたしはすっと2本の指を立てた。

 

「2日後だ」

 

 

 ーーーー

 

 

 2日後の深夜に、私は病院に訪れた。

 時刻は日付が変わる12時前、すでに誰もが寝静まる時間だ。

 神通とともに125室を訪れる。

 扉を開けると、ベッドに身を起こした橘さんと、傍らに立つ鳳翔さんが待っていた。

 

「こんな時間にお疲れ様ですね、長門さん」

 

 橘さんが、嗄れた声で笑った。

 

「夜中に、ぜひ連れて行きたい場所があると言っていましたが、何事ですか?」

 

 さすがに深夜の12時では大変かと思っていたが、橘さんの笑顔はいつもと変わりはない。ここ何日かでさらに痩せて、頰もこけてしまったが、穏やかさはいつもの橘さんだ。

 

「出かけられそうですか、橘さん」

「ええ。せっかくの長門さんのお誘いなんですから。しかしどこへ行くんです?」

「まだ秘密です。それじゃあ行きましょう」

 

 私は微笑と共に答えた。

 神通と鳳翔さんで橘さんを車椅子へと移動させる。そんな何気ない動作の中に見え隠れする厳しい現実を振り切るように、私は廊下へ出た。

 神通が車椅子を押し、その傍らに鳳翔さんがつき従う。そのまま車に乗せて、鎮守府まで行くと、門で叢雲が待っていた。

 車から降りて、進んで行く。行先は港だ。

 1度鎮守府を通ると、中には広瀬が待っていた。

 

「お疲れ様です、橘さん」

 

 私と広瀬を見比べた橘さんは苦笑した。

 

「おやおや、広瀬さんまで共犯ですか。2人して一体何を企んでいるんです?」

 

 広瀬はそれに笑顔だけ応じ、車椅子を押してきた神通を導いて、目的地へと進んでいった。

 広瀬が行き先の港を指し示した。

 それを見た橘さんと鳳翔さんは顔を見合わせる。

 

「長門さん、さすがに大掛かりな話になっていませんか?少し心配ですよ」

 

 言葉とは裏腹に、橘さんにはどこか楽しむような気配がある。

 神通が車椅子を押し、その隣を鳳翔さんがついていく。やがて港にたどり着いた。

 

「まぁ…………」

 

 感嘆の吐息を吐いたのは鳳翔さんだ。

 

「星もあんなにはっきりと」

 

 空を見上げながら、鳳翔さんが告げた。

 誘われるように頭上を見上げた橘さんが、すっかり痩せた口元からかすかな感嘆を漏らした。

 夜空を埋め尽くしているのは、無数の星だ。

 橘さんが、車椅子の上で小さくため息をついた。

 

「もう1年以上は働いてきた場所なのに、こんなに素晴らしい場所があるとは気づきませんでした」

 

 その言葉が終わらぬうちに、鎮守府中の電気が灯りをおとした。12時を回ったからだろう。星の数がまた少し増えたように感じた。

 しばしの沈黙のうちに、橘さんと鳳翔さんは寄り添って空を見上げる。やがて橘さんが空を見上げたまま小さくうなずいた。

 

「素敵なプレゼントをありがとうございます、長門さん、広瀬さん」

「終わりじゃないですよ、橘さん」

 

 答えたのは広瀬だ。

 

「プレゼントはまだあります」

「もう充分ですよ」

 

 答えた声は、優しくも強く、落ち着き払ったものだった。

 静まり返った橘さんの瞳が、普段はないはっきりとした光を持って私たちを見返していた。

 

「これ以上、幸せだとみなさんに申し訳ないです」

「しかし橘さんがかつて見た空は、こんなものではなかったはずです」

 

 私の言葉に、橘さんは記憶を辿っていくかのように目を細めた。

 

「…………あの空は忘れませんよ。あの人と見た空。鳳翔と見た空。満天の星。もう一度見たかったんですがねぇ…………」

 

 そばに立つ鳳翔さんの袖が、かすかに震えたように見えた。その白い手がいつのまにか橘さんの肩に添えられていた。

 私はちらりと腕時計を見た。12時を数分か過ぎていた。鎮守府の明かりを全て消しても全ての光源を消したことにはならない。他の建物もあるからだ。なら、建物もないところへ行けばいい。

 するとエンジン音ともに一隻のボートがやってきた。

 不思議そうな顔をする橘さんと鳳翔さんを無理矢理、乗せて出発させる。

 先頭に人影が見える。熊野だ。

 

「長門さん、あなたって人は…………」

 

 橘さんは驚いているようだが、どこか楽しそうだ。

 次第に鎮守府を離れていき、陸の光源が遠のく。そして、ついには真っ暗な闇へと変わった。

 つまり、私たちを包んでいた無数の人工の光から逃げ出したのだ。

 

「あっ!」

 

 かすかに叫んだのは、橘さんだ。

 頭上をもう一度見上げた橘さんが、車椅子の上で身じろぎするのが暗闇の中でも分かった。トンという音がしたのは鳳翔さんが持っていた小さなバッグを取り落としたからだろう。

 私もまた、空を見上げて息を呑んだ。

 巨大な天の川だ。

 南北に天を割る星の大河が見えたのだ。

 360度にわたって広がる満天の星は陸で見たものの比ではない。星座なんてありはしない。北極星がどこにあるのかも分からない。上空全てが星屑の大海だ。

 首をめぐらせば、はるか東の空、西の空も星だらけ。その中でも一際輝くのは光の河だ。

 脳裏に熊野の声がよみがえった。

 

 "今だってその星空は見えるはずですわ"

 

 間違いない。

 これが橘さんがかつて見た最高の星空なのだろう。

 溢れる光が小川となり滝となり、大河となって星空という大海を縦断している。まばゆい河は、爛々と輝きを放ち、全天を覆い尽くしながらも流れ、それを見つめる私たちの悩みなどをゆっくりと押し流した。

 誰もが身じろぎ1つせず、山の中立ち尽くしたまま天を仰ぐ中、ボートは向きを変え、進み始めた。

 約束の1分が過ぎたのだ。

 帰路の先には、いつものように灯りがともった鎮守府。全てが何もなかったように元に戻った。先ほどの情景が、刹那の幻想であったかのようだ。わずか60秒の夢だった。

 やがて無機質な光が満ちて、慌てて目を細めた私の視界の先で、橘さんはまだ微動だにせずにいる空を見上げていた。

 いつもの星空を、未だに見上げる痩せた橘さん。その頰には、一筋の涙が流れ落ちていた。

 そばに立っていた鳳翔さんが、ふいに車椅子の横に膝をついて、橘さんの手をとった。橘さんはそれに応えるかのように、もう一方の手で優しく鳳翔さんの髪を撫でた。

 様々な思いとともに、橘さんの唇が震えた。

 

「鳳翔…………長門さん…………みなさん、本当にありがとう…………」

 

 掠れた言葉を最後に、鳳翔さんの小さな嗚咽が重なった。橘さんの枯れ枝のような手を頰に当てたまま、鳳翔さんが懸命に声を押し殺して泣いていた。あの、いつでも弱い所を見せずに微笑んでいた鳳翔さんが、今は涙をこらえることができなかった。

 誰も何も言わなかった。

 何も言えなかった。

 一瞬の幻想も刹那の感動も、巨大な時の中に生きる大河の中では無に等しい。天の川の中では星座ですら見えなくなるように、時の大河の中では、人の命ですら一瞬の夢にすぎない。だがその刹那にすべてを懸けることができるからこそ、人はその刹那に感動できる。

 私はただ、ゆっくりと身を翻した。

 

 

 ーーーー

 

 

 朝8時の鎮守府の会議室は、異様な緊迫感に包まれていた。

 この鎮守府にある会議室は今まで使ったことはほとんどなく、久しぶりに入室することとなった。その中に直立不動を保っているのが、私と広瀬と熊野だった。

 

「どういうことか、説明してもらえますか?」

 

 冷ややかな声が響き渡った。

 窓のある方を背に、2人の男が私たちを睥睨している。1人は座っており、もう1人はその傍らに佇立している。ガラス窓の向こうには朝日を従えた海の水平線が見え、なかなか絶景だ。

 ソファに腰掛けた恰幅のいい男は、先日設立したばかりの大本営の長ーー元帥の佐久間忠恭(ただやす)だ。

 元左官で、現在65歳。昔は第一線で"鬼の佐久間"と恐れられるほどの武勲を上げ、第一線を退いてからは艦娘の有用性を説き、肩身の狭かった艦娘たちを救った人の1人でもある。また、私や提督の教官であった時期もある。毛虫のように太い眉に色黒い肌、恰幅のよいお腹が特徴的で、私が密かにつけたあだ名は「ヤクザ」。もちろん外見だけの話で、裏の世界につながっているわけではない。

 そのヤクザが先刻から、窺うようにじっと私たちを見つめている。その眼光はまさにヤクザそのもので私こそは慣れてはいるが、熊野は完全に萎縮してしまっている。

 もう一方は、ヤクザの横に立つ小柄な男性だ。先ほどの声の主はこちらの方である。冷ややかな目で抑揚の無い声を響かせたのは大本営の事務長で、ナンバー2でもある重鎮だ。見た目は分厚い黒ぶち眼鏡をかけた貧相な小男にすぎないが、頭は恐ろしく切れるという噂だ。

 実際、反対の声も少なからずあった大本営の設立はこの男の手腕があってこそだという。しかし、やり方が少々強引で、美的センスに乏しいことは確かなようだ。

 

「長門さん、熊野さん、広瀬さん」

 

 私たちの名をいちいち冷ややかに告げる。

 

「なぜ私たちがやってきたのかは分かっているでしょう?」

 

 言いながら、内ポケットから分厚い手帳を取り出した。その手帳には、この世界に関わる者全ての弱みが書き込まれていると噂される虎の巻だ。

 

「昨夜の12時頃、近くの鎮守府から不審な船が偵察機から発見されるということがありました。さらにいくつかの艦載機も。しかし、レーダーには反応がない。でも、偵察隊からの報告はいくつもあります。被害はありませんが。私もこの仕事に関わって長くなりますが、こんな奇妙な出来事は初めてです」

 

 広瀬は足元を、熊野は頭上を、私は外の海をそれぞれ眺めている。一同は返答もせず、嵐が過ぎ去るのを待つだけだ。

 佐久間さんは佐久間さんで何も言わない。

 

「同時に、あなた達の姿も確認されています。わざわざ夜間に出向くなんておかしい。先の一件と絡めてあなた方が、関わっているのではないかと考えざるを得なくなります。ただ問題は…………」

 

 パラリと手帳をめくる。

 

「複数の報告はありますが、どれもあやふやで確定的な情報ではない。我々としては責任ある軍人として、あなた達から釈明を願いたいのです」

 

 肝心なことは先に手を回しているから致命的なことにはならない。しかし、それなりに派手なことはしているので、全ての者に口裏を合わせることは無理があった。ましてや、よその鎮守府の者なんてもってのほかだ。

 こういう時はただ押し黙って大風がゆき過ぎるのを待つしかないのだが、熊野が余計な口を開く。

 

「はぐれ深海棲艦ではないのですの?」

「レーダーに引っかからない深海棲艦は今のところ確認できていません。それにただうろうろする深海棲艦なんて聞いたことがありませんよね?熊野さん」

 

 うっと口をつぐむ熊野に、さらに追い討ちをするかのように、

 

「ちなみにその不思議な深海棲艦のすぐ近くであなたの姿が捉えられている。これについても釈明願いたい」

 

 完全に手のひらの上だ。言わんこっちゃない。

 事務長が、眼鏡の縁を軽く持ち上げた。

 

「あなた達も非常にご多忙と聞いています。しかし夜間にふらふら出向いて遊興にふける余裕がおありですか?何をしていたのかは知りませんが、あなた達のつとめは戦うことです。それ以外の行動は慎んでいただきたい」

 

 飛んでいるカモメを1匹ずつ数えてみる。時間つぶしくらいはなるだろう、と顔だけは神妙にして、心中は窓の外をのどかに散策する。

 こういう時に理屈を並べても仕方がない。熊野はさて置いて、私と広瀬がひたすら黙っていれば、事務長も取っ掛かりがない。

 もとより私たちのやったことは、善悪の基準の外にある。極めて私的な動機だし、「杓子定規」という言葉がぴったりな事務長に、納得を与えることは不可能だ。

 心の中は超然として、押し黙っているうちに、想定外の声が室内に響いた。

 

「僕たちはただ深海棲艦と戦うことだけしていればよい、と言うんですか?」

 

 驚いて目を向けた先で、静かに口を開いたのは広瀬だ。

 

「事務長は、僕たちの役目は戦うことだけだとおっしゃっているのですか?」

 

 おい、と慌てて小声で呼び止めた私には、見向きもしない。提督のことなら今頃引っ叩いているだろう。せっかく数えたカモメの数も吹き飛んだ。この展開は予想外だ。

 私が口を開くよりも先に、事務長が怜悧な瞳を光らせた。

 

「深海棲艦を倒すのがあなた達の役目です。今さら何を言うのですか?広瀬さん」

「戦うこと以外にも私たちには役目があるのだと考えないのですか?」

 

 広瀬が唇を震わせた。再び口を開こうとしたその機先を制して、事務長が言う。

 

「広瀬さんの理想は結構なことです。納得できないのなら質問を変えましょう」

 

 眼鏡の奥の怜悧な目が、一際ギラリと光ったように見えた。

 

「理由のいかんに拘わらず、世の中には許されることとそうではないことがあります。多くの命を守る鎮守府において、勝手に船を出して、味方を混乱させるようなことが許されるのですか?私が聞きたいのはそれだけです」

 

 攻め手が大きく変わった。

 今まで攻撃一方だったのが、いきなり退いて守りを固めてきたのだ。こういう戦い方をされると、広瀬はかえって打つ手がない。わずかに狼狽を見せた広瀬に向かって、「ちなみに」と事務長は追及の手を緩めない。

 

「広瀬さん、あなたの功績は素晴らしいものがありますが、最近の業務のレベルにおいては、色々なトラブルや苦情があるようですね。その理想を語る前に、クリアしなければならないハードルがおありのようですね」

 

 広瀬は顔に血を上らせたまま唇を噛んだ。

 言葉は出なかった。ただ緊張をはらんだ沈黙だけがあった。

 わずかに目を伏せた広瀬が、にわかに決然として顔を上げた。

 

「それでも僕は…………!」

「私たちは戦うための道具なのか?」

 

 ふいに広瀬の声を遮って、別の声が響いた。

 事務長が初めて眉を動かした。

 その怜悧な視線がゆっくりと動き、発言者が私だと気づいた時、幾分呆れたような顔を見せた。

 

「長門さん、あなたまで感情論に走るのではないでしょうね。広瀬さんならまだしも、長門さんは…………」

「戦うことが艦娘の領分ならそうではないものは、何になるんだ。使えない道具となるのか?」

 

 あくまで淡々と告げる私に、事務長も揺るがない。わざとらしくため息を吐いて、

 

「残念ながら現在の状態では、あなた達のような理想を追及している余裕がありません。現在はどこの鎮守府も毎日のように出撃しています。それでも多くの深海棲艦がいるのです」

「では、戦うこと以外はするな、と?」

「あえて答えましょう。その通りですと。現実を見てください。あなた達を含めて、誰もが必死に戦って、なんとか今の平和を保っているが現状です。金銭的にも、戦力的な面からも全く余力はないんです。前者は私の領分で、後者はあなた達の領分です。十分ご承知のことでしょう」

「承知しても譲れないことがある」

「議論になりませんね。私たちにはそんな戯言に付き合っている余裕はありません」

「余裕はなくても、力を尽くさないといけない時がある」

「あなたは艦娘でしょう。もう少し艦娘として…………」

「事務長、私は艦娘の話なんてしていない!…………人間としての話をしている」

 

 この言葉が驚くほど響いた。

 さすがに事務長は、声を途切らせた。

 佐久間さんが初めて眉を動かした。

 それでも、私は口を開いた。

 

「私たちは人間だ。痛みも感じる。恐怖も感じる。それでも、私たちは戦場へ行くことができるのは確かなことがあるからだ」

「長門さん、あなたは…………」

「私たちの理想を笑うなら結構、好きなだけ笑え。でも、あえてこの馬鹿馬鹿しい理想を押し立て、かつ押し進めなければ、一体誰がこんな過酷な環境の中で、正気で戦い続けれると言うんだ?」

 

 傍らで、熊野と広瀬があっけにとられた間抜けな顔で私を見つめている。

 今さら引き止める声もない。止める声があったとしても、引くあてもない。

 

「消えることのない深海棲艦、過酷な戦況。そんな分かりきったことは、わざわざ手帳に書き留めるまでもない。はるかに大切なのは、こんな状況でも、誰かを守ることができているというそんな確信を捨てないことではないのか」

 

 私はふいに口をつぐんだ。

 工廠で働く橘さんの穏やかな笑顔が思い出された。同時にそこに、昨夜の橘さんの横顔が重なった。鎮守府に戻ってきても、ただじっと夜空を見上げていた横顔だ。

 私は一呼吸を置き、それから決然とした語を継いだ。

 

「その確信があるから、私たちは戦い続けることができる」

 

 にわかに沈黙が訪れた。

 佐久間さんも事務長も動かなかった。

 広瀬も熊野も声を発しなかった。

 ふいに日差しの角度が変わり、事務長の黒ぶち眼鏡に当たって、その奥の瞳を見えなくした。煌々と輝く陽光を背にしたまま、2人の男が眼前にあり、ただ張り詰めた静寂が辺りを圧した。

 やがてその静寂を打ち破ったのは、新たな闖入者だった。バタンと大きな音を立てて扉が開き、場違いな声が飛び込んだ。

 

「すいません、佐久間さん、いや元帥殿。遅れてしまいました」

 

 言わずと知れた提督だ。どんな緊迫した空気も一瞬で提督のペースに変わるあたり、さすが軍神だ。

 事務長が少しだけ嫌な顔をして、眼鏡を持ち上げた。天下の事務長も提督には弱い。以前に、事務長は提督に会っているが、そこで一泡吹かせらせている。事務長も頭は相当切れるが、提督はそれ以上に頭が切れるからだ。

 

「例の件ですが、何か分かりましたか、事務長」

「分かるも何もありません。彼女から事情を聴いているところです」

「事情?そんなものいりませんよ。ほら、報告書があっちこっちから来ています」

 

 言いながら無造作に持っていた書類の束を机の上に投げ出した。

 

「報告書?」

「艦載機については、隼鷹から報告が。なんでも、夜に酔っ払ってしまい、誤って艦載機を飛ばしたという報告があります。一応、始末書も出しました。"以後十分に気をつけます"ということです」

「…………それ以外にも夜中に突然あなた方の鎮守府の電気が一斉に消えたという報告があります。それについては?」

 

 事務長が攻め手を変えて来た。しかし、提督は涼しい顔で続けた。

 

「それは、明石が慣れない機械を使っていたら、電圧の関係でブレーカーが落ちてしまったんです。これも始末書、ありますよ」

 

 滔々と提督が話している。

 鉄面皮の事務長がいささかたじろぎつつ、

 

「では、この3人の姿があったという件はどうなっていますか。真夜中の海にわざわざ出向いていたのです」

「その件ならその時の秘書艦の叢雲から、報告が出ています」

 

 ひらりと取り出した1枚の紙を眺めつつ、提督が続けた。

 

「"その日の夜は漁船の護衛をしていた"と」

 

 は?と事務長が素っ頓狂な声を出した。

 広瀬と熊野までが目を丸くする。

 提督はいつもの無愛想な顔のまま、

 

「まぁ、俺たちは依頼主を選びませんからねぇ」

 

 さすがに私も声が出ない。

 思考の片隅に、肩をすくめながら苦笑する叢雲の姿が目に浮かぶ。

 なるほど、どうせ通らない理屈なら、最初っから道理なんて無視して無理を押し通せば良いというわけだ。さすが、冷静沈着の叢雲ならではの、剛腕と言うべきか。かかる剛腕に提督の頭脳が合わされば、もはや鉄壁の布陣だ。

 

「まぁ、レーダーに映らないとか言うのは機械の調子が悪かっただけでしょう」

 

 唖然としている事務長を無視して、提督は佐久間さんへと目を転じた。

 

「佐久間さん、最初は何事かと思いましたけど、これで落着ですね。よかったよかった」

「ちょ、ちょっとお待ちください、元帥。これではけじめがつきません。百歩譲って彼女らが海に行ったことはよろしいでしょう。しかし酔っ払って艦載機を飛ばすなど、完全に規定外の行動です。他の鎮守府にも示しが…………」

「いいじゃないですか、事務長。何もなかったわけだし」

「そういう問題ではありません。なんらかの処罰を…………」

「誰に処罰だって?」

 

 ふいに提督の声が1オクターブ低くなった。

 ギョッとして目を向けると、いつもの無愛想な顔に殺気じみたものがにじみ出ている。何よりその目は"死神"そのものだ。こういう提督が一番怖い。

 

「火の車みたいなこの状況で、必死に戦っているのは艦娘だ。そんな健気な俺の部下に、褒賞ならまだしも、なんの処罰がいるんですか、事務長さん」

 

 最早、その威圧感はかつての軍神と呼ばれた頃と変わらない。

 鉄壁の事務長が、一瞬ながら顔色を変えるのが分かった。わずかの間を置いて、

 

「いや、そこまで八幡さんがおっしゃるなら何も…………」

「事務長の理解が得られて嬉しいばかりです。ま、隼鷹たちにはきつく言っておきますので。心配しなくても結構です」

 

 再びいつもの提督に戻った。

 ふいに「はたちゃん」と静かな声を響かせたのは、佐久間さんだ。大きな目が真っ直ぐに提督を見つめている。さすがに提督は、姿勢を正した。

 

「世の中にはなぁ、常識というもんがあるんや。その常識を突き崩して理想ばかりに走ろうとする青臭い人間が、わしは好かん」

 

 淡々とした声に、しかし迫力がある。

 提督は静かに続きを待っている。何も答えない。答えないことも戦略だ。

 わずかの沈黙ののちに、再び佐久間さんは口を開いた。

 

「せやけど、理想すら持たへん人間はもっと好かんよ」

 

 佐久間さんの顔に微笑が浮かんだ。

 それだけだった。

 佐久間さんはゆっくり立ち上がると、事務長を連れて会議室を出た。立ち去り際、扉の前で立ち止まると、

 

「長門、これからもよろしゅうな」

 

 それだけ告げて去って行った。

 その時の、一瞬だけ見せた優しげな瞳が印象的だった。

 

 

 ーーーー

 

 

「すごいですわね、長門」

 

 廊下に出て最初の声は、熊野のものだ。

 目を丸くして私を見つめている。

 

「事務長を怒鳴りつけるなんて、大丈夫ですの?」

「やむを得ないことだ。提督から広瀬のことを聞いていたがまさかここまで融通が利かないとは思わなかった。辞職を覚悟であんなことを言ったんだ。放置もできん」

 

 私の声に熊野は驚いて広瀬を見た。

 

「ワタルさん、辞めるつもりでしたの?」

「そこまで深く考えていたわけではないけど、ただ橘さんの横顔を思い出したら、急に抑えられなくて」

 

 苦笑する広瀬の目には、どこか憑き物が落ちような爽やかさがある。馬鹿な人ですわねと笑うと熊野の声を、ある声が遮った。

 

「勝手な話だ」

 

 提督の声だ。私たちは一斉に振り返った。

 

「君は何のためにわざわざここに来たんだ?横須賀での出世を捨ててやって来たのは、渚と共にやり直すためだろ?」

 

 厳しいと提督の言葉に、広瀬はさすがに笑みをおさめた。

 

「君が元来の哲学を曲げて、悪評を受けても一歩も引かずにこの2ヶ月を歩んできたのは、君なりの決意があったからだろう。それがたちまち感情に流されて、辞める覚悟なんてとんだお笑い草だ。そんな覚悟なら、3枚におろして味醂につけて、野良猫にやればいい。振り回された俺や熊野がいい面の皮だ」

 

 ほとんど吐き捨てるように告げる提督に、さすがに広瀬は口を開いた。

 

「隊長、僕は何も…………」

「ワタル、それ以上言うな」

 

 今度は優しい声色に変わった。

 

「まぁ、事務長に色々言われて頭に来たのは、君だけではないだろう」

 

 柔らかな声に、広瀬は軽く目を見開いた。

 

「だけどな、そんな感情もまとめて捨てて、黙って窓の外を眺めていたのが長門だ。なぜなら、俺たちにとって1番大事なことは、事務長とドンパチかますことじゃない」

 

 そうだよな、と私の方に向く提督に、私は冷ややかな視線で答える。

 

「遅れて来た割には、先程の状況に随分詳しいな、提督」

 

 提督はたちまち「そうか?」などと言いながら、唐突に口笛などを吹き始める。

 私が窓の外を眺めていたのを知っているとなると、最初からどこかで会議室を覗いていたに違いない。

 

「あわよくば、関わらないつもりだったろ?」

「そういう冷たい言い方は良くない。ちゃんと困った時には登場しただろ?」

「それなら、早く出てくればよかったのに。そうすれば、あんな演説する必要もなかった」

「そうか?いい言葉だったと思うぞ。橘さんも同じことを言ったんじゃないかな」

 

 唐突な言葉に、私は返答しなかった。

 偏頭痛のふりをして額に手をやったのは、ふいに胸の内に熱いものを覚えたからだ。しかしそんなことは見透かしたかのように、提督は告げた。

 

「鳳翔さんから聞いた。やってくれたな」

 

 そう言いながらも顔には笑みが浮かんでいる。

 

「しかしそんなことをするなら、最初から俺も呼んでくれならいいのに。そうすれば、こんな面倒ごとにもならなかった。銃と上司は使いようって言うだろ?」

「そんな格言、初めて聞いたぞ」

 

 ハハと笑い声が聞こえた。久しぶりに提督が笑ったような気がした。

 

「隊長、僕は…………」

「気色悪い謝罪をするくらいなら仕事を手伝ってくれ。朝から呼び出されたお陰で、溜まってんだぞ?」

「もちろんですよ」

 

 そう言って2人は足早に執務室へと進んでいった。

 橘さんが亡くなったのは、それから1週間後のことだった。

 

 

 ーーーー

 

 

 市街地の北に、小さな公園がある。

 比較的急な坂道を登っていくと、住宅地の切れ目にひかえめな敷地をもっめ広がっているのがその公園だ。春ともなると桜並木の美しい公園であるが、桜の季節が終わっても、静かな憩いの場として愛されている。

 

「もう少しか?」

 

 坂の上を喪服姿の提督が振り返った。

 

「ああ」

 

 すっと私は坂の突き当たりにある建物を指差した。

 古格の漂う薬医門を従えた純日本風家屋だ。

 ふと細めると門前に、鳳翔さんの姿が見えた。やがて門前までたどり着いた私たちに、細めるさんは一礼した。

 

「忙しい時に、すいませんね」

 

 そう言って先に立って邸内へと導いた。

 母屋の縁側へと進むという、広々とした20畳ほどの和室とその奥の仏壇が見えた。

 すでに2本の線香が上げられている。

 

「初七日だなんて、いまどきの人は言葉自体を知らないくらいのに、わざわざすいませんね」

 

 鳳翔さんの声が出て涼しげに響く。

 日陰になって薄暗い広間を見回せば、ほんの7日前の夜がよみがえった。

 

 

 ーーーー

 

 

 橘さんの死は静穏なものだった。

 ほんの数時間前までは静かな呼吸をしていたが、ふいに忘れたように呼吸が止まった。そばにいた鳳翔さんでさえ、その静かな変化にすぐには気づかなかったくらいだ。

 午後2時37分が死亡時刻だった。

 気配りばかりしてくれた橘さんは、亡くなる時間まで、私たちの負担にならない日を選んでくれたように思われた。

 同日夜が通夜となった。

 もともと近親者がいないうえに橘さんの遺志で、ほとんどつうちらしきものは出さず、静かにしめやかに行われた通夜は、しかし、それでも訃報を聞きつけた人々がぽつりぽつりとやってきて、夜半まで弔門客が途絶えることはなかった。

 夕張は、棺の前で涙を流し、橘さんの急逝を嘆いた。その隣で明石はひたすら涙を堪えながら拳を握りしめていた。

 鎮守府の者は、時間をずらしながらも全員訪れ、途方にくれたように立ち尽くし、座り込み、戻っていった。

 静かな通夜に慟哭は無かった。皆が心の内で泣いていたかもしれない。誰もが、一様に静かに棺の前に額をついて去っていくのだった。

 私と提督は、鳳翔さんとともに通夜の準備をし、客人の案内を行い、終始邸内を歩き回っていた。

 ようやく客人も途切れ、邸内が完全な静寂に戻ったのは、夜半も1時を回る頃だった。

 月明かりの広間には、橘さんの棺と、その傍らに座る鳳翔さんの姿だけがあった。

 いや、事実はその広間に、もう1つ人影があった。

 通夜の間、部屋の中で一言も発せず、一歩も動かなかった佐久間さんであった。

 喪服に身を包んだ佐久間さんはまるで岩にでもなったかのように、身じろぎひとつしなかった。誰が来ても去っても、まるで根が生えたように微動だにしなかった。私も提督も、通夜の終わり頃になって、ようやくその存在を思い出したくらいだ。

 青白い月光が斜めに差し込み、きめの細かな畳の広間を照らしていた。

 どれほど時間が過ぎたであろうか。

 最後の客人を見送り、私が広間に戻って来た時のことだった。ふいに気配を感じて視線をめぐらせると、鳳翔さんが立ち上がる姿が見えた。畳の上を移動する衣擦れの音がかすかに聞こえる。そのまま棺の傍らから正面に回り込み、向かい合うように端座した。

 私たちが見守る前で、やがて鳳翔さんは、ゆっくりと三つ指を棺に向かって頭を下げた。

 

「どうも、長い間お疲れ様でした」

 

 静かな、それでも芯のある声だった。

 たったその1声に含まれる悲哀と寂寥が、私の身体と心を覆い尽くした。私はたち続けることができず、膝をついていた。

 鳳翔さんの声の余韻が消えるころ、今度はふいに低い、唸り声のような低音が聞こえた。なんの音かと見回す先で、佐久間さんの肩が一度だけ震えた。

 二度目に震えた時、先ほどよりも増して大きな唸り声が聞こえた。

 それは佐久間さんの慟哭であった。

 何時間もの通夜を、身じろぎせず、岩のごとく座り続けた佐久間さんが、今度は肩を激しく震わせた。やがて拳を握りしめ、胸中の全てを吐き出すように、ついには凄まじい咆哮を上げて泣き出した。

 そのまま橘さんの棺にしがみついて、おいおいと大声をあげて泣き始めた。

 獣のように咆哮する佐久間さんと、頭を下げたままピクリとも動かない鳳翔さん。

 ただ茫然として見守るうちに、橘さんというひとりの人間の死が、ようやく現実になったような気がした。

 死というのはそれで何かが片付くわけではない。新たな何かが生まれるわけでもない。大切な絆がひとつ、失われるということだ。そのぽっかりと空いた空虚は何物によっても埋まることはない。

 提督が拳を固く握りしめた。

 私は、ようやく泣いたのである。

 

 

 ーーーー

 

 

 あの、半ば夢のような影絵を刻んだ広間は、今は鮮やかな陽光の下に濃厚な陰影を刻み、何事もなかったかのように整然とした静かさを保っている。一番奥の仏壇には位牌がひとつ。写真には、見慣れた笑顔の橘さんが見えた。

 私と提督がそばに寄ると、中ほどまで燃えた線香がほのかな火を灯している。

 提督とともに手を合わせ振り返ったところで、中座していた鳳翔さんが、1つの細長い墓を持って戻ってくるのが見えた。提督の前にそっと置いて言う。

 

「受け取ってください」

 

 提督が箱を開ければ、その中は一振の刀があった。その意匠を凝らされた鍔や鞘を見れば、刀に詳しくない私でも尋常な品ではないことは分かる。

 提督が戸惑いがちに見返すのに対して、鳳翔さんはあくまで端然として乱れない。

 

「満さんの家に受け継がれて来た刀です。提督に受け取って欲しいんです」

「そ、そんな大切なもの、いただけるはずがありません」

 

 慌てて手を振る提督に、鳳翔さんの穏やかな声が続く。

 

「いえ、満さんが是非提督に受け継いで欲しい、と。それに女の私よりも提督が持っていた方がいいに決まっています」

 

 困り切っている提督に、鳳翔さんの笑顔はあくまでも優しい。

 

「満さん、本当にあなたを息子のように思っていましたから」

「で、でも…………」

「それに、これと一緒にあった手紙はあなたへのものですから」

 

 言ってすっと1枚の紙を押し出した。

 

 "拝啓、八幡様"

 

 そこには橘さんらしい、几帳面な字が並んでいる。

 

 "あなたがこの手紙を読んでいるということは、私はもう旅立ってしまったということなのでしょう。これから大変になっていくのに、戦場から離脱してしまった申し訳ない気持ちでいっぱいです。

 私はあなたに会えたことを本当に感謝しています。ずっと神様を恨んで来たのですが、あなた方に会えたことに対して何倍ものの感謝をしています。勝手なものですね。

 あなたに初めて出会ったことを思い出します。その時のあなたの目は、光を失っていました。それはかつての私に似ていると思います。私は、幸い周りに助けてくれる人たちがいました。でも、あなたは1人でした。誰にも弱い所を見せず、ただひたすら傷を隠していましたね。それでも、あなたは1人で乗り越えることができたのでしょう。

 しかし、今のあなたは1人ではありません。広瀬さんがいて、長門さんがいる。艦娘たちがいる。そのことを決して忘れないでください。

 上に立つ者は孤独です。誰から何を言われても己の信念を変えてはいけませんし、弱い所も見せてはいけない。これからもきっと辛いことがあるでしょう。その時は、必ず誰かを頼ってください。皆さんはきっとあなたの力になりますから。

 あなたはたくさんに人の力になってくれました。私もその1人です。

 あなたといる日々はとっても楽しい時間でした。

 最後に少しでもあなたの力になれるように、この刀をあなたに授けます。

 どうかどうかご自愛のほどを。

 天国よりめいっぱいの感謝を込めて、橘"

 

 

 どれほどの時間が経っただろうか。提督は箱から刀を取り出して、それをじっと見つめた。

 ぽつりぽつりと、ふいに刀に雨が降った。…………馬鹿を言っちゃいけない。ここは室内だ。

 また、ぽつりぽつりと雨が降った。

 泣いているのだ。

 提督が泣いているのだ。あの日以来、涙を弱い所を決して見せなかったこの男が今、私の前で隠すことなく泣いているのだ。

 呻くような声はそのまま春の風へと消え去った。

 季節はすでに、初春であった。









これにて第2章は終わりです。第3章はまだ構想中ですので、少し待っていてください。あと、リクエストの件はまだ継続中です。何か案があれば是非活動報告の方にて、お教えください。

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